反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 5 


 『マルクス主義の解剖学』


 第1章 『資本論』批判


  第13節 マルクスは本当に頭脳労働を捨象したのか?

 

 ここまで来た段階で、最も根本的な疑問に立ち帰りたいと思う。それは「マルクスは本当に頭脳労働を捨象したのか?」という問題である。今までの議論に対する疑問、反論を予想し、ある人物にそれを語ってもらおう。「これまでの議論に対する根本的な疑問がある。それは頭脳労働価値の捨象という問題を過度に強調しすぎているのではないだろうか。確かにマルクスは資本家に対しては労働者から剰余価値を搾取するものとして完全に否定的に扱ってはいる。ただし、歴史の資本主義段階の担い手としてその存在は認められてはいるのである。否定的に扱われるのは歴史的に次の段階、社会主義、共産主義の側から見た視点である。資本家の頭脳労働価値の否定もそのような視点から見ることができるだろう。そして、資本家以外の頭脳労働者に対してはその否定は明文として存在していないはずである。『資本論』で具体例として扱われていないとしても、それはその時代において圧倒的に身体労働者(プロレタリアート)が多数を占めていたからである。マルクスの注意はここに集中していて頭脳労働者まで手が回らなかっただけではないだろうか。それらの叙述がないのは単なる偶然である。そして何よりも重要なことは階級闘争であり、階級関係がどうなっているかである。資本家対労働者が重要なのであり、資本家に搾取される労働者であれば、身体労働者であろうと頭脳労働者であろうと同じことである。歴史的に見ても、そして現代の日本などにおける状況においても、社会主義運動、労働運動などで頭脳労働者は身体労働者の中に入り同様な運動ができるだろうか、などという疑問は提出されたこともない。両者はまったく同様にそれらの運動に関わってきたのである。労働価値説がその叙述において身体労働のみを対象にしているように見えても、その都度臨機応変に頭脳労働も対象にすればよいだけである。そのことがそれほど重要な事だとは思えない。そのように身体労働と頭脳労働とを分けて頭脳労働の捨象を過度に強調するのは、労働者階級を分断しようとする狙いがあるのではないだろうか」。


 以上のような反論に対して、答える形で議論を進めていきたい。マルクスは資本家に対して資本主義段階における中心の担い手として認めてはいた。それならばなぜ、資本家の頭脳労働価値をゼロなどとみなすのだろうか?前にも述べたようにこれはこの時点における事実認識である。唯物史観における資本主義段階、社会主義段階、共産主義段階などといった時代区分は何の関係もないことなのである。まずこの事実認識を踏まえた上でこれらのことは問題にすべきであろう。資本家以外の頭脳労働に対してはその否定は明文として存在していない。これはその通りなのである。そして、その時代においては身体労働者(プロレタリアート)が圧倒的に多かったというのも事実であろう。しかし、頭脳労働の叙述が『資本論』に存在していないということは果して偶然なのだろうか?これは極めて難しい問題である。ある文章、ある書物のなかでそれらが持つ文脈において、ある内容の文章が書かれるべきである、と思われた時に(これもかなり主観的な要素が入ってくるだろう)その文章が存在していないということは、その著者がどのように考えていたのか、あるいは考えていなかったか、ということを他に何の情報も存在しない時は、決してわからないということになるのである。これは推測するしかない問題である。その推測がどれくらい説得力があるか、間主観的合意を得られるか、ということになるだろう。この推測を次の節において行いたい。次に、「重要なのは階級闘争であり、階級関係である」マルクスが再三再四、強調してきたのはいうまでもなくそのようなことである。頭脳労働と身体労働との関係というものは、マルクスの著作のなかではほとんど触れられていない問題である。階級関係を重視すれば、同じ階級に属する労働者ならば身体労働者であろうと頭脳労働者であろうと同じである。まさに歴史的にもそのようにとらえられてきたのである。誰もそのことに疑問を持たなかっただろう。だが、そのことこそマルクスの緻密極まりない計算の結果だという推測を次節以降で検討したい。

 

 第14節 階級と分業、協業

 

 資本制生産様式中心部に焦点を当てて、階級と分業、協業の関係を考察してみたい。様々な業種間の社会的分業も重要なことではあるが、ここでは同一の業種における技術的分業に焦点をあててみたい。以前に検討したように、身体労働には必ずそれに先行する頭脳労働が存在する。また、それと同様に(資本家以外の)ある頭脳労働にも必ずそれに先行する頭脳労働が存在する。先行する頭脳労働のある起点になるのがすなわち資本家(経営者)ということになる。その資本家が賃金労働者としての身体労働者ないし頭脳労働者を雇用する。この間にマルクスが分析したように法的に平等でも、実際には資本家が優越する領有法則の転回が存在する。(これも議論の多い問題だと思われるが)資本家が階級的に上位に来る階級関係が生ずるのである。その次に来る関係はどのようになっているのだろうか。多くの技術的、能力的理由そしてマルクスが分析した相対的剰余価値を高めるために効率を上げるための分業が存在する。その分業形態は大きく三つの形態に分かれるだろう。図式で示すと以下のようになる。
 
 分業の第一形態 資本家→身体労働→身体労働
 
 分業の第二形態 資本家→頭脳労働→身体労働
 
 分業の第三形態 資本家→頭脳労働→頭脳労働
 
 これは現代社会での労働形態を考えてみれば、ごく常識的なことである。もちろん、現実はこれよりもさらに細分化、多層化、複雑化されるわけであるが、基本的にはこのようにとらえられるのではないだろうか。まず、第一形態から考えると、資本家(経営者)が雇った身体労働者が一つの商品を生産するのに流れ作業等にそれぞれの工程を分担し、分業することによって生産効率を高める。ごく初歩的で一般的な分業形態である。しかし、現実には純粋にこのような形態の会社、工場といったものは小企業のごく一部であろう。資本家と身体労働者の間には多くの場合、現場監督などの中間管理職が入るだろう。また、経理などをする事務職が入る。そうなるとそれらは分業の第二形態とみなされる。現代の物質的使用価値を生産する会社、企業のほとんどがこの第二形態の形をとるだろう。この場合の頭脳労働→身体労働の間の分業、協業も非常な多様性があるが、例えば『資本論』のなかに出てくる多くの産業革命当時の機械の生産にはその機械を開発設計する技術者、製図者という頭脳労働者とその情報を現実の商品として制作する身体労働者がいる。これは頭脳労働→身体労働の分業、協業形態の典型的な例である。分業の第三形態は特に現代における情報産業、サービス産業などに多く見られるだろう。


 ここでは分業の第一形態と第二形態に焦点を当ててみる。『資本論』ではこれらの分業はどのように扱われているだろうか。「第4篇 相対的剰余価値の生産」では資本制生産様式における分業と協業が多く取上げられ詳しく分析されている。その中の一部を抜粋してみる。
 
 第三節 マニュファクチュアの二つの基本形態 異種的マニュファクチュアと有機的マニュファクチュア
 
 マニュファクチュアは二つの基本形態から成り立っている。この二つは、時には相互に絡み合ったりはするものの、二つの本質的に異なる種類のものであって、のちにマニュファクチュアが機械による大工業に変質する場合にも、まったく異なった役割を果たす。この二重性格は、製品そのものの性質に由来している。製品は、自立した部品のたんに機械的な組合わせによって作られるか、あるいは、相互につながりのある一連の工程と操作の結果としてできあがった形態になるかのどちらかである。例えば蒸気機関車は、5000以上の別々の部品から成っている。しかし、蒸気機関車は、今挙げた本来のマニュファクチュアの第一の形態の例と見ることはできない。というのも、大工業の産物だからである。しかし、時計はそのいい例であろう。ウィリアム・ペティも時計を例にしてマニュファクチュァ的な分業を具体的に説明している。時計は、ニュルンベルクの職人の個人的な製品からしだいに、無数の部分労働者から成る社会的な産物へと変わってきた。無数の部分労働者とは、素材製造工、時計バネ製造工、文字盤製造工、ゼンマイ製造工、穴石およびルビー軸製造工、時計針製造工、時計枠製造工、ネジ製造工、メッキエ、さらにはこうした仕事のさらに下部の仕事、例えば歯車製造工(真鍮製と鋼鉄製に分かれる)、バネ軸製造工、指針装置工、歯車装置仕上げ工(歯車を軸につけ、切り子を磨く仕事など)、尖軸製造工、歯車組立て工(歯車と軸を組み上げ、歯車装置にする)、ゼンマイ箱製造工(歯車の歯を刻み、穴を適切な間隔で開け、固定し、ストップをつける)、制動装置製造工、シリンダー製造の場合には、シリンダー製造工、制動輪製造工、平衡輪製造工、緩急装置(時計の針を調整する装置)、エスケープメント製造工(本来の制動装置製造工)、円筒仕上げ工(バネ箱および配置盤を仕上げる)、鋼研磨工、歯車研磨工、ネジ研磨工、数字書き込み工、文字盤製造工(銅にエナメルをかける)、止め金製造工(時計の枠の止め金だけを作る)、蝶番工(枠の中央に真鍮の軸を入れる)、蓋バネ製造工(枠の蓋を開けるバネだけを作る)、彫り物工、彫金師、枠磨き工などなど、そして最後に、時計全体を組み立て、動くようにして引き渡す仕上げ工、というわけである。時計の部品で、いくつかの手を経てできあがるものはほとんどなく、こうしたばらばらの肢体の各部はやがて、一つの手によって、一つの機械に組み上げられるのである(20)。

 
 この相対的剰余価値の生産のなかでは、伝統的なマニュファクチュアが資本制生産様式の下でどのように変貌されていくかが検討されている。多くの工程を1人の職人が受け持ち最後の完成まで持って行く、というそれまでの方法からそれぞれの工程を別の職人が分担する分業の形態をとるようになる。それによって生産効率が高まり相対的剰余価値が高まる。すなわち、一定の時間における必要労働時間の相対的な割合が低下するのである。これは純粋に分業の第一形態における分析をしている、とみなすことができるだろう。この過程のなかに事務職などの頭脳労働があるかもしれないが、それらは捨象されていると考えられる。核心をなす問題は次のようなことである。『資本論』のなかにこの分業の第一形態の分析に相当するような分業の第二形態の分析が存在するだろうか?例えば、この引用文のなかに「蒸気機関車は、5000以上の別々の部品からなっている」という文章がある。この章においてこれ以上取上げられないのは、蒸気機関車はマニュファクチュアの形態ではなく大工業の産物だからである、とされているが、それでは「資本論 第13章 機械類と大工業」のなかにその蒸気機関車の生産過程を分析した箇所があるだろうか。蒸気機関車は一つの例であるが、それ以外にも産業革命をになった数多くの機械や装置が存在するが、それらの生産過程の中にも多くの分業があり、またその機械生産をする資本家は同じように、絶対的剰余価値、相対的剰余価値を高めるために努力するだろう。頭脳労働においては身体労働と異なることもあるが、それでも同じように剰余価値を高める努力を惜しまないだろう。


 「第13章 機械類と大工業」において叙述されているのは、ここでも分業の第一形態であり分業の第二形態はまったく存在していないのである。『資本論』を読み進めていくうち、マニュファクチュアの分業形態を分析したのでこの「機械類と大工業」において、当然そのような機械生産に関する叙述があるものと思っていたのである。ところが、そのようなものはまったく存在していないのに驚いたのである。これら機械に関する叙述は、その機械の機能や構造や取り扱い方、といったものである。つまり、この章において機械は所与の条件になっていて、その機械の生産に関する問題ではなく、その機械を使った生産の問題を扱っているのである(21)。その機械を使った生産の問題、すなわち機械生産によって剰余価値を高めるための資本家の様々な手法が分析されていて、労働者は生きた労働ではなく、資本家の機械を使った生産における単なる道具のようなものとなり、都合が悪くなればいつでも路上に放り出されるのである。このような告発のような文体で書かれたものを読み進めるうち、いつしかここだけに注意が向けられてしまい、重要なことが捨象されていることに気づけなくなってしまうのではないだろうか。つまり、この機械の生産過程はどうなっているのか、ということがまったく存在していないというのは余りにも異常である。分業の第一形態と第二形態とではその扱われ方が極度に偏向している、とみなさざるをえないだろう。 


 マルクスがここで分析している労働過程は分業の第一形態であり、そこに登場する機械類は不変資本である生産手段の一部である。古典派経済学においてはこの労働過程における労働価値とその生産手段の一部である機械の生産における労働価値を混同する傾向があり、それが m+ vのドグマであったのである。しかしそれはこの機械を生産する過程における労働価値を扱わなくてもよい、あるいは扱うべきではない、ということをまったく意味しないのは当然のことである。それは混同するのではなく、明確に分節すればよいだけだからだ。つまり、ある労働過程を不変資本と可変資本と剰余価値に分析した場合、その不変資本のなかに生産手段としての機械が存在するとしたら、その機械の生産過程もまた同様に不変資本と可変資本と剰余価値として分析できる。そのような入れ子細工状の構造をなしているわけである。


 『資本論』において、分業の第二形態がどれくらい捨象されているかということをさらに詳しく分析してみよう。『資本論』において示されている具体例を読んでいくと、そのすべてが分業の第一形態を扱っているように思える。しかし、マルクスの時代においても完全な分業の第一形態というのはごく一部であったはずである。これらの具体例においても、実際には資本家と身体労働者以外の頭脳労働者は少数であっても存在する。以前にも示した引用文であるが、、、
 
 こうした主要階層とならんで、数からいえばわずかであるが、エンジニア、機械技師、指物師など、全機械の監視と常日頃の修理に従事する人員がいる。彼らは、一部は科学教育を受けた、一部は手工業に従事してきた比較的高い労働者階層であり、工場労働者の集団の枠外にあり、たんに彼らと混同されているにすぎない。こうした分業は純粋に技術的なものである。イギリスの工場法ではここで挙げた労働者たちを明確に非工場労働者とみなし、その法の適用外においている。これに対して、議会によって公表された「報告」は同じように明確に、エンジニア、機械技師他のみならず、工場支配人、配達係、用務員、倉庫番、荷造人等、つまりは工場経営者以外のすべての人びとを工場労働者のカテゴリーに含めている。これなどは統計上のごまかしをおこなおうとする意図が典型的に現われたもので、こうした意図はその気があれば、まだほかにも詳しく立証できるだろう(22)。
 
 (機械の保守、点検などのサービス業は頭脳労働か身体労働かという視点で考える場合、微妙だが中間あたりの性格付けができるだろうか。また、このような文章が存在しているということは、決してマルクスはこれらの職種を見落してはいないことを意味している)つまり、マルクスは分業の第二形態であっても、第一形態に還元して考えているのである。しかし、これら少数の例外も無視してよいはずはない。ここでさらに深く推測してみよう・・・マルクスが提示した具体例は分業の第二形態であっても第一形態に還元できる業種、職種に限定されているのではないだろうか。つまり、そこに関わる資本家以外の頭脳労働者は無視しても差し支えない程度である、という業種をあらかじめ選択して提示しているのである。逆にいうと、資本家以外の頭脳労働者がその業種の労働過程において捨象することのできない重要な役割を演じているような場合は、最初からまったく叙述から排除されているのである。叙述が始まるのはその労働過程の結果として生み出された商品である機械や装置からなのである。『資本論』をそのような視点から読み返してもらえれば明らかに感じられることだと思う。この膨大な数百ページにもわたって叙述されるこれらの具体例とそれに関わる論考に、このことが基本原則として貫かれているのである。これが単なる偶然であるだろうか?これは偶然どころではなく、極度の集中力で持って叙述されなければ決してありえないことなのである。


 ここで、『資本論』以外の著作、論考まで広げてみれば、マルクスは決して頭脳労働(精神労働)を軽視してはいない。あらゆる労働は何らかの価値をもっている、といっているし、未来社会論においては身体労働と頭脳労働の区別はなくなる―という展望を示しているのだから、頭脳労働の価値を認めていることは明らかである。・・・このような反論があるかもしれない。そうであるならば、『資本論』の頭脳労働の扱われ方とは完全に矛盾していることにならないだろうか。『資本論』はマルクスの全著作の中で、もっとも重要なものであるはずだ。資本制生産様式中心部の頭脳労働は、資本制生産様式中心部の身体労働と同等の重要さをもっている。あらゆる面において、両者は同等の比重で扱われなければならないだろう。『資本論』において、身体労働者(プロレタリアート)と同程度の叙述量が、頭脳労働者に対しても存在していなければならないのである。このような内容と『資本論』は、まったくかけ離れているということは明らかである。

 

 第15節 階級と分業の相関関係

 

 ここでいう階級とは、単に資本家と賃金労働者の間という2分化の関係だけではなく、その中間にあるような階層まで含めて考えてみたい。これは明確な階級差だけではなく微妙な階級的格差も含まれる。例えば同じ資本家に雇用された現場監督と流れ作業する労働者とでは微妙な格差が生じていることが多いだろう。ここでの分業は同じ業種内における技術的な分業に限定して考えてみたい。問題なのはこの階級差と頭脳労働と身体労働との相関関係である。まず分業の第一形態から考えてみる。資本家(経営者)は基本的には頭脳労働者である。例外は存在するだろうか、、例えば中小企業において、経営者が同時に身体労働者である場合もある。しかし、その場合でも身体労働と経営としての頭脳労働とは分けて考えられるだろう。つまり、資本家(経営者)としての頭脳労働→身体労働者との関係は階級関係であるとみなすことができる。次に分業の第二形態であるが、第一形態よりも格段に複雑になってくる。資本家(経営者)が雇用労働者に対して階級的上位にいることは同じであるが、雇用されている頭脳労働者と身体労働者の間には階級的格差は存在するのだろうか。これは存在する場合もあるし存在しない場合もある。しかし、頭脳労働者と身体労働者とでは相対的には頭脳労働者の方が階級的上位に来る、ということはいえるのである。現場監督や支配人、技術者(テクノクラート)現代では専務や工場長、部長、課長、係長といった管理職は頭脳労働者である。身体労働者の中でも部署のリーダーというものはやや階級的上位にある、とはいえるが身体労働者は相対的には下辺に位置するといえるだろう。ただし、管理職以外の多くの頭脳労働者と身体労働者はほとんど差はないといえるのではないだろうか。
 
           資本家(経営者)
              ↓A
           頭脳労働者(テクノクラート、中間管理職など)
           ↓B    ↓C       
        頭脳労働者→身体労働者
                             D
 
 上図は分業の第二形態における典型的な階級差と分業の関係を簡略に示したものである。↓、→は指示、企図、情報の流れの方向を意味している。もちろんこれは主要な流れの方向であって、情報などは逆向きになる場合もある。しかし、階級関係を内包する指示、企図などはかなりの強制力を持ったものとして↓の方向に従うだろう。マルクスは初期において、階級関係と分業を同一視する傾向があった、といわれている。『ドイツ・イデオロギー』のなかに「私的所有と分業は同じことを意味している」という文章がある。資本主義においては私的所有によって階級差が生じてくるのだから、階級と分業は同じことを意味している、と言い換えることもできるだろう。特に頭脳労働と身体労働との関係を階級差と結びつけて考えたかったのではないだろうか。分業の第一形態においてはほとんどそのようにとらえてもよいように思われる。ところが現実はそのような単純なものではないことは明らかである。身体労働者に対して階級的上位にいる頭脳労働者は多く存在するが、そうでない頭脳労働者、例えば事務職などは階級的には同じである。→Dにおける関係も、前に実例として挙げた機械製図と機械を製造する労働の関係も、技術的には製図者が完全に主導権をもっているが、それにもかかわらず両者の階級関係はまったく平等である。つまり、頭脳労働者→身体労働者の関係は↓ ACでは階級関係が存在するが、→Dでは階級関係はほとんど存在しない。このように頭脳労働対身体労働の関係は階級差が存在する場合もあるし、存在しない場合もあるといえるだろう。ただし、身体労働者が頭脳労働者よりも階級的上位に来る、ということはあまり考えられない・・・これはなぜなのだろうか?この問題の哲学的レベルにおける考察は後に行いたい。頭脳労働と身体労働との関係が階級関係と一致しない・・・これはマルクスにとって非常に都合の悪いことだったのではないだろうか。


 上図を見てもらえれば明瞭に理解されるように、『資本論』の叙述は資本家(経営者)↓AC身体労働者の関係にほとんどが費やされている。しかし、それは資本制生産様式全体からすれば重要ではあっても一つの側面でしかない。なぜここまで資本家以外の頭脳労働者を捨象しなければならなかったのだろうか?そしてなぜ資本家の経営としての労働価値をゼロとみなしたのだろうか?

 

 第16節 頭脳労働価値捨象と資本主義分析

 

 マルクスが『資本論』で表したかった最大の目的は資本制生産様式、資本主義社会の動態分析であろう。資本家間の競争による淘汰があり、それによって資本が一極集中に動いていく。労働者は資本家間の競争の犠牲となり、剰余価値を絞り取られ、機械化や恐慌によって首を切られ悲惨な生活を強いられる。大量の産業予備軍が生まれ、仕事がある間は過酷な労働を強いられ、仕事がなくなればまったく無為な状態になる。そのような極端な状態を行き来するのである。剰余価値は資本となって蓄積していき、さらなる資本制生産を可能にする。絶え間ない資本の再生産が続くのである。そして、ひと握りの勝ち残った資本家が社会に君臨し、それ以外の全員が窮乏化していくのである。このような二極化が進行し、それが頂点に至った時革命が勃発する・・・これ以後のことは『資本論』ではあまり叙述されていないが、それ以前の著作『共産党宣言』『ドイツ・イデオロギー』などで示されているように、社会主義社会、共産主義社会に至るというわけである。


 疑問は次のようなことである。以上の資本主義の動態分析と今まで検討してきた頭脳労働価値の捨象、資本家の労働価値の否定はどのような関係にあるのだろうか。まず、資本家の労働価値の否定から考えてみよう。本論で述べてきたことは資本家の経営としての頭脳労働は当然有用労働であり、労働価値説の適用を受ける。つまり、ゼロになるなどということはありえない。これは単なる事実認識であり、マルクスの主張は白を黒というようなものである。資本家の頭脳労働に労働価値説を適用してみる・・・労働力換算の問題があるが労働者と同等に考えてみよう。これは、第8節 剰余価値率の根本問題、で検討した事例で考えてみれば、資本家が受け取る正当な報酬は剰余価値の20分の1である。現実に考えてみても、この数字は数十分の1~数百分の1といったレベルになるのではないだろうか。つまり、ほとんど問題になりようもない数字なのである。例えば「資本論 第22章 剰余価値の資本への変容」の叙述で資本家は経営をはじめ労働者から剰余価値を搾取し始める。そのときの不変資本は資本家のものであるが、やがてその不変資本は実際には労働者から搾取した剰余価値にすべて置き替わる。ある一定期間後には資本家の資本は本来なら労働者のものになる、というわけだ。しかし、私的所有の権利が認められているブルジョワ社会では法的にもそれは資本家のものであり、労働者のものではない。この一定期間後の一定期間が例えば100日だったとしよう。マルクスは資本家の労働価値をゼロとみなしているが、先の事例の資本家の労働価値が剰余価値の20分の1だった場合でも、この100日が105日に延びるにすぎない。つまり、資本家の労働価値を認めたとしても、マルクスのこの主張にほとんど影響を及ぼすことはないのである。それではなぜこのような極端な主張をしたのだろうか?


 資本家の労働価値を認めたとしても、マルクスの資本主義の動態分析全体に対する影響は同じくほとんどないと考えられる。問題があるとすれば、労働力換算において資本家の労働価値を剰余価値と同じに持って行く、ということが考えられるが、幾らなんでもこれは詭弁というものだろう。ただ、マルクスはその可能性すら断ち切りたかったのかもしれないが。このことはこの「資本論批判」において最も重要なことである。資本家の経営の労働価値をマルクスは認めていないというこの批判は、資本制生産様式、資本主義社会の過程分析、動態分析に対する反論にはなりえないということなのである。もちろんこのことは、現時点におけるマルクスの資本主義過程分析における未来予測が正しかったかどうか、ということとは別問題である。現在では二極化理論、窮乏化理論、利潤率低下といった主要な未来予測はほとんど外れたといってよい。しかし、マルクスの資本家の労働価値の否定がこれら未来予測の外れた原因ではない。


 続いて、資本家以外の頭脳労働の捨象はどのように影響しているだろうか。これはかなり複雑で微妙な問題だと思われる。資本家対雇用労働者という単純な2分法であれば、これら頭脳労働者も身体労働者と同様の扱いとなり、ほとんど変わりないように思える。しかし、中間管理職やテクノクラートといった中間的な階層を捨象していることになる。これらの階層は資本主義の動態分析における二極化理論にとってかなり都合の悪いことであろう。現実の歴史を見ても、これらホワイトカラーの大量の出現によって二極化どころか非常に多層化していったのである。


 この「資本論批判」において、資本家の労働価値の否定、それ以外の頭脳労働価値の捨象ということを問題にしてきた。資本家以外の頭脳労働価値の捨象は階級関係を強調することによって、一般には目立たないものになっている。しかしそれは非常に重要な意味をもっているのである。これらはすべてマルクスの誤謬や見落しというものではなく、完全に意図的なものである、と確信している。それはどのような意図であるのか。次の章で検討していきたいと思う。


(20)『資本論 第一巻 上』 504,505頁


(21)『資本論』に出てくる多くの機械、クローセン式回転織機、ジェニー紡績機、スロッスル紡績機、自動ミュール紡績機、ワットの複動蒸気機関、それによる様々な工作機械、汽船、鉄道などなどの開発、設計、それはどのように制作され商品となるのか―これらの具体的な記述はまったく存在しないのである。このような重大な問題がなぜまったく指摘されてこなかったのか、不可解としか言いようがない。資本制生産様式をとる近代産業にとってこのような機械の制作過程の方が、マニュファクチュアの時計の制作過程よりもはるかに重要であるはずである。それなのに『資本論』はまったく逆になっている―これは完全に意図したものであると推測するのである。


(22)『資本論 第一巻 下』 76頁


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