反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 4 

 『マルクス主義の解剖学』

 

 第1章 『資本論』批判


 第9節 頭脳労働形態論、価値論

 

 今まで検討してきたように、『資本論』のなかには頭脳労働形態、価値に関する記述がほとんど存在しない。しかし、現実の資本制生産様式中心部においては頭脳労働と身体労働とは密接に繋がっている。そしてこの頭脳労働と身体労働の関係と階級関係とがどのように相関しているかも複雑で重要な問題である。これも後で検討するとして、頭脳労働形態を具体例に沿って考えていきたいと思う。


 私は過去にあるプラントや機械の設計、製図の仕事に携わった経験がある。設計といっても基本的な設計はほとんど出来上がっていて、顧客の要望や条件によってレイアウトを考えたり、多少の変更を加えたりするような設計であった。大まかな見取り図を描き、それに基づいて各部品の部品図を描き、その部品をどう配置するかという組み立て図を描く。それを製造部門に渡すのである。製造部門においてその図面に従って、鉄鋼材やステンレス材、その他様々な部材を加工や溶接などをして部品を仕上げ、それを現地まで運び組み立てるのである。『資本論』のなかでは労働とみなされているのは、この場合の製造部門の仕事である。それでは、この設計、製図の仕事は労働ではないのだろうか。このような種類の仕事については、『資本論』ではほとんど触れられていないのである。したがって、労働であるとも、労働でないとも書かれてはいない。この場合の商品はこのプラントであるが、この物質形態に直接労働力投下をしたのは、製造部門の労働者たちである。それでは設計製図部門の労働とはどのようにみなされるのだろうか。それはこのプラントを設計し、その情報を図面の形で物質化したといえる。その情報はある特殊な、つまり時間的にも空間的にも、その他様々な条件の制約のもとでしか成立しない間接使用価値だといえる。それはその条件以外では何ら有用性を持たないものである。その間接使用価値を製造部門の労働者に投下し、それに基づいて製造部門の労働者は現実の物質形態を持った商品を生産する。設計製図部門の労働はその商品に対して間接的に労働力を投下したとみなされるのではないだろうか。つまり頭脳労働は商品に対して間接労働力投下を行っているのである。蛇足であり、まったく常識的なことだが、この間接労働力投下である頭脳労働の結果としての情報がなければ、製造部門の身体労働は何一つ有用性を持たない意味のないものになる。


 このことは以前検討した資本制生産様式中心部、或いは周辺部においても部分的には当てはまる相互依存し、共同関係にある頭脳労働と身体労働のほぼすべてに当てはまることなのである。頭脳労働は経営、管理、開発、設計、広告、営業、マーケティング、経理或いは総務、人事など複雑多岐にわたるだろう。それらの労働力は直接的な使用価値を生産する場合には、その生産物に対して間接労働力投下を行っていると考えることができる。これらの労働価値はマルクスのいう不変資本と可変資本のなかでは当然、可変資本のなかに含まれる。マルクスが剰余価値算出の公式のなかに示したのは、可変資本は身体労働のみであった。このように断定することには異論があるかもしれないが、『資本論』の叙述はそのように受け取れるものなのである。しかし、これらの頭脳労働価値は可変資本のなかに必ず加算されなければならない。


 もし、加算されなければどのようなことになるかを考えてみよう。先に示した頭脳労働価値すべてが可変資本ではなく、剰余価値のなかに示されることになる。さらに剰余価値とは資本ないし資本家が労働者から搾取されたものとみなされている。つまり、頭脳労働価値とは労働者から搾取されたものとなってしまうのである。頭脳労働者の報酬すべてが身体労働者から巻き上げた搾取物なのである。例えば現代の日本を考えてみよう。情報化社会の現代では頭脳労働の比率は極めて高くなっている。資本制生産様式中心部の仕事の従事者も、数千万人の頭脳労働者と数千万人の身体労働者がいることはたしかであろう。数千万人の頭脳労働者の報酬は、数千万人の身体労働者から搾取された不当な報酬だということにならざるをえない。これを正義の名のもとに強制力で持って正常な状態に戻すことをするならば、頭脳労働者の受け取った報酬はすべて身体労働者に還し、頭脳労働者の報酬はゼロとなる。もちろんこれは正気の沙汰ではない・・・このようなことをすれば瞬時にして日本は壊滅するだろう。これはかなり極端な話であるが、明瞭に理解できるためにあえて示すことにした。これはマルクスの分析対象が、資本家あるいは資本と(身体)労働者という単純な2分法であるためでもある。資本家以外の様々な頭脳労働者はそのために十把一絡げに資本のなかにくくられてしまうのである。


 頭脳労働が生産するものは、間接使用価値を持つ情報である。これは一見情報とみなされないものも、広義の意味においては情報に含まれるのである。例えば経営者や中間管理職の社員に対する管理や企図、指示というものは情報を生産しているとはみなされないが、広い意味においては情報なのである。商品を企画開発、設計などは身体労働に対する直接的な情報の生産となる。営業や広告などの業務も使用価値である商品を需要者である買い手に円滑に効果的に届けるための情報をつかさどるものである。経理は全体の価格の管理、運営という重要な情報の仕事を担っている。これらすべての労働価値は商品に対する間接労働力投下としての価値となる。資本制生産様式、資本主義社会においては使用価値である商品に対して、絶え間ない膨大な間接労働力投下が行われている。これらすべては可変資本のなかに加算されなければならないのである。この加算ということも、マルクスの公式にあっては身体労働が先に措定されているので加算ということになったにすぎない。現実の会社や企業の経理においては、すべての頭脳労働も身体労働も等価値のものとして統一的に扱われる。(もちろん会社、企業内の階級差もここには含まれるわけであるが)私が関わった会社でも、設計製図部門と製造部門の給与体系はまったく平等であった。この点においてはマルクスよりも資本主義社会の会社の方が労働価値説の本来的な意味に忠実だといえないだろうか。これはまったく常識的なことをいっているにすぎない。マルクスの剰余価値算出の公式が念頭にあり、それに頭脳労働価値を加算しなければならない、などと考えて経理をしている会社、企業など存在するはずがないのである。ここで問題提起をすると、これらの頭脳労働を考えなければならないのは、資本制生産様式、資本主義社会であるからなのだろうか。社会主義になればこのようなことを考える必要はないのだろうか?

 

 第10節 『資本論』における頭脳労働

 

 ここで肝心の『資本論』において頭脳労働がどれくらい記述されているか、身体労働との比較において見てみたい。(これは『資本論 第一巻』に限定してある)当然、資本家の行為の内容、意味の記述というものは『資本論』全体の最大のテーマであり、膨大な量にのぼるわけであるが労働価値を持つものとしてまったく扱われてはいない。それは労働者に対する搾取行為なのである。それでは資本家以外の頭脳労働者はどれくらい登場するのだろうか。これは資本制生産様式中心部の頭脳労働者以外は除くものとする。「彼のもとで働いていた現場監督と支配人は肩をすくめる」(15)「こうした主要階層とならんで、数からいえばわずかであるが、エンジニア、機械技師、指物師など、全機械の監視と常日頃の修理に従事する人員がいる。彼らは、一部は科学教育を受けた、一部は手工業に従事してきた比較的高い労働者階層であり、工場労働者の集団の枠外にあり、たんに彼らと混同されているにすぎない。こうした分業は純粋に技術的なものである。イギリスの工場法ではここで挙げた労働者たちを明確に非工場労働者とみなし、その法の適用外においている。これに対して、議会によって公表された「報告」は同じように明確に、エンジニア、機械技師他のみならず、工場支配人、配達係、用務員、倉庫番、荷造人等、つまりは工場経営者以外のすべての人びとを工場労働者のカテゴリーに含めている。これなどは統計上のごまかしをおこなおうとする意図が典型的に現われたもので、こうした意図はその気があれば、まだほかにも詳しく立証できるだろう(16)」実に驚くべきことに、この程度であってただ名前が出たというだけで、それ以上の詳しい内容は一切書かれていない。しかも、あとの方の文章はマルクスの対象としている身体労働者と同じに扱うな、という批判の内容だけである。


 それに比べて、身体労働者すなわちプロレタリアートは膨大な量の詳しい記述が何百ページにもわたって述べられているのである。最も例として取上げられているのが紡績工であり、そのほか様々な職種、業種が取上げられている。第8章 労働日、から拾ってみよう。レース製造業、陶器製造業、マッチ製造業、壁紙工場、製パン業、鉄道労働、婦人服製造業、鍛冶職人、ガラス工場、製鋼製鉄工場、製紙工場、それぞれが詳細に論じられ、どれほど過酷な労働条件のなかにあるか、資本家の剰余価値の搾取がどれほどすさまじいものであるかということが、これでもかと述べられている。ここで注目したいのは、これらの内容のなかに頭脳労働者が存在しないことなのである。現代において明瞭であるように過重労働を強いられているのは、身体労働者だけでなく頭脳労働者も大勢いる。夜遅くまで残業で追い立てられているのは、むしろ頭脳労働の方が多いかもしれない。マルクスの時代はどうであったのか、詳しいことはわからないのだが身体労働者と同じように過酷な条件で剰余価値を絞り取られていた頭脳労働者、例えば中間管理職、事務員なども居たはずである。数としては現代よりもかなり少数ではあったろうが、まったく存在しないということは考えられないのではないだろうか。これらの事例が『資本論』のなかにまったく存在しないのはなぜなのだろうか?


 『資本論』第13章 機械類と大工業、のなかには産業革命当時の様々な機械が登場してくる。少し上げてみるとクローセン式回転織機、ジェニー紡績機、スロッスル紡績機、自動ミュール紡績機、ワットの複動蒸気機関、それによる様々な工作機械、汽船、鉄道などなど・・・それら機械の登場により、労働者がどのような変化をこうむっていくかということが詳細に分析されている。それは決して労働者のためにはならず、資本家の剰余価値を高めていくだけのものである、ということが論じられている。この資本の蓄積自体を否定するつもりはもちろんないが、ここでも論じられている対象が極めて偏っているように思われるのである。この様々な機械もまた商品であり、それが生産されるまでは多くの労働が関わっている。この機械の生産に関わる労働者は、資本家によってこの機械で働かされる労働者とはかなり違った階層にいるのである。まず、その機械を開発した科学者や技術者、それを製作できるための部品図などを描く製図師(技術者が兼ねる場合もある)、その図面を見て機械の部品を製造、組み立てをする高い技術力を持った労働者がいる。ここではかなりの比率で頭脳労働が関わっている。また、ここでの身体労働者は単純な身体労働をする労働者とは違う扱いを受けるだろう。つまり、身体労働者間でも格差があり、マルクスは比較的優遇されている身体労働者はほとんど議論の対象にしていないように見える。資本制生産様式全体を考える場合、これらの労働の労働形態や価値論を考えることも、単純な身体労働を論じることと同様に重要なのではないだろうか。今まで、資本制生産様式中心部の身体労働と頭脳労働との関係を現代の状況に即して考察してきたが、マルクスを弁護するために、現代との差を考慮しなければならないかもしれない。マルクスの時代は現代とは非常に異なっている、という反論もあるかもしれない。『資本論』を読むと実際よりも、その感覚を増幅させられるのではないか、と思うのである。それは機械の生産の内容や様々な頭脳労働をマルクスは徹底的に捨象し、身体労働者(プロレタリアート)と資本との関係に叙述を集中しているからである。比率は現代よりも少ないとはいえ、機械生産などに関わる労働形態は本質的に現代との差はないのである。


 これまでほとんど『資本論 第一巻』を対象に論じてきた。このことについてこのあたりで少し説明しておきたいと思う。よく知られているように『資本論』はマルクスが直接完成させたのは第一巻のみであり、第二巻、第三巻はマルクスの死後、残された草稿を元にエンゲルスが編集したものである。本論の目的は純経済学的な見地から、『資本論』を検討、批判しようというものではなく、ある経済学的領域からイデオロギー分析に進もうというものである。この分析に最も重要なことは『資本論 第一巻』にほとんど集約されている。このため経済学として『資本論』全体を視野に納めるというものではない。また、イデオロギー分析の見地から文体の微妙なニュアンスなども考慮されなければならないので、この点からも、マルクスとエンゲルスはかなり違っていると思われる。これらの理由から、『資本論 第二巻 第三巻』はあまり重視しないことにしたい。ただ、『資本論』における頭脳労働の扱われ方という点で、第二巻 第一篇 第6章 流通費の部分などで少し取上げられているので、伊藤誠『「資本論」を読む』から抜粋した以下の文章で示しておくことにしたい。
 
 すなわち、商品の売買に従事する資本家の活動や商業活動に雇用される労働者の労働は、商品売買に付随する簿記や貨幣(及び貨幣取り扱い費用)とあわせて、純粋な流通費をなしている。その労働費用は、商品の売買に伴う形態変換を媒介するにとどまり、商品の価値を創造するものではありえない。したがって、その労働費用は、生産過程で算出される剰余価値から控除されて支えられなければならない社会的空費をなしている。商業労働者の剰余労働は、その空費を節減する意味をもっている(17)。
 
 ここでは商品流通に関する労働費用は商品の価値を創造するものではないので、剰余価値から控除されている。この労働費用のなかに頭脳労働も含まれるので、この頭脳労働は剰余価値のなかには入らない、ということである。しかし、これは資本制生産様式中心部の頭脳労働のごく一部分である。このような例外事項を多く認めていけば、剰余価値算出の基本公式自体が誤ったものだということになってしまうだろう。また、この商品流通自体に価値がないのだとすれば現代の運輸業などはどうなってしまうのかと思うのだが、、、

 

 第11節 古典派経済学との関係性 意味の転化

 

 今まで、労働価値説の対象問題を中心に議論を展開してきた。一般的に労働は身体労働と頭脳労働とに分類される。特に資本制生産様式中心部の労働においては、身体労働と頭脳労働とが密接に連関している。しかし、マルクスは労働価値の対象をほとんど身体労働のみに限定しているのである。頭脳労働価値は資本家にあっては否定され、それ以外の頭脳労働者はほとんど捨象され、無視されている。個人的な見解では『資本論』の叙述は余りにも偏向している、と感じられたのである。ところが、マルクス以前、あるいはマルクス以後の経済学の歴史を知ると、このことがそれほど不自然に感じられなくなったのである。最初に経済学の歴史を勉強してから、『資本論』を読むとほとんどこのことに気づかれないのではないか、と思えてくる。それはなぜかというと、労働価値説はマルクスが最初に発案したものではなく、それ以前の経済学者たち、ペティ、フランクリン、アダム・スミス、リカード、 J.Sミルといった人々が労働価値説を唱え自己の理論に組み込んでいるからである。労働価値説の歴史自体をここで論じるわけにはいかないが、その時代の現実的な問題を解決するために提出された理論だということである。労働価値説は、商品の価格決定に関する人々の日常的経験から直ちに引き出せる理論ではなく、ある問題設定と理論的前提のもとで導き出される高度に抽象的な理論なのである。
 
 労働価値論とは、もっとも抽象的に言えば、「労働」と「価値」とのある関連を主張した理論である。この理論が成立するためには、まず価格から価値を分離し、次に価値と労働とを関連させるという二段階の認識過程が必要であった。リカードウやマルクスの労働価値論だけを念頭に置いている者がときどき誤解するように、価値の実体ないし源泉としての労働の認識があって初めて価値の認識が成立するわけではない。歴史的には、価値の認識が労働の認識に先立つ。まず価格と区別されるものとしての価値が認識されて、そのはるかあとになってから価値を説明するために労働が認識されるようになったのである。より正確に言えば、価値にはしばしば混同される二つの概念が存在している。一つは価格の認識から引き出される「購買力としての価値」、もう一つは労働の認識から引き出される「体化労働としての価値」である。重要なのは、本源的な価値概念としての購買力価値の認識がまず成立し、それを説明するために労働が認識されて、最後に二次的な価値概念としての体化労働価値の認識が成立したという点である。図式的に表現すれば、労働価値論の認識過程は、価格→価値(購買力価値)→労働→価値(体化労働価値)→価格、となる(18)。
 
 ここで問題の焦点にしたいのは、労働価値説を巡る様々な論点、価格と価値の関係、価値尺度の問題、支配労働価値説と投下労働価値説の問題といったものではなく、そもそも労働価値説が対象にしている「労働」とは何か?ということであり、具体的に言えば頭脳労働者、例えば技術者、事務職などはその対象になるのか、ということである。これらマルクスに先行する経済学者たちはどのように考えていたのだろうか。文献すべてを渉猟するわけにはいかないので、確実なことはいえないのだが、この問題は厳密に定義づけられてはいないようである。それはほとんど常識的な前提として身体労働が考えられている。上の引用文で示された(体化労働価値)とは当然、身体労働価値を意味しているだろう。そうなると、マルクスに先行する経済学者たちとマルクスとは労働価値説の対象問題としては特に違いはないといえる。マルクス経済学にとってこのことが重大問題だというならば、これら先行する経済学者たちの理論にもすべて等しくあてはまってしまうだろう。これはどのように考えたらよいのだろうか?


 マルクス以前の古典派経済学においては基本的に次のように表されていた。「生産費=労働の価値+利潤」マルクスによって、労働の価値は不変資本と可変資本に分かれるとみなされ、再生産と流通の総括的分析を追及できるようになった、とされる。この労働の価値は体化労働価値であり、すなわち身体労働価値である。利潤とはいうまでもなく資本家の利潤である。ここで以下のような事例を考えてみる。この資本家は業務が煩雑になってきたので経理を行うための事務職を雇った。この事務職員の報酬はどこにあるとみなされるだろうか。労働の価値が労働価値説の規定により身体労働のみを表しているとすれば、この中には事務職員の労働価値は入らない。そうなると資本家の利潤の一部から配当されると考えるしかない。あるいは、新しい機械の導入により技術者を雇わなければならないとしたら、この技術者の報酬も資本家の利潤の一部から配当されるとみなさざるを得ないだろう。ここで「利潤」という言葉の意味とニュアンスは中立的から肯定的な意味合いを帯びている、と受け取られているだろう。ところがマルクスは労働の価値を不変資本と可変資本に分かれるなど分析していく過程で、「利潤」を「剰余」と置き換えさらに「搾取」などと転化していく。「剰余」の意味とニュアンスは明らかに「利潤」から否定的、ネガティブなものになっている。さらに「搾取」となると否定的な意味合いは決定的なものになる。この意味の転化の問題は後でまた扱うが、ここで指摘したいことは次のことである。この事務職員や技術者の報酬は、資本家の利潤から配当されている。利潤が搾取ということになれば、資本家だけでなくこの事務職員や技術者も身体労働者から搾取している、ということになってしまう。これは以前に展開した論旨と同じである。


 つまり、このようなことである。マルクス以前の古典派経済学にとっては、資本家の利潤は中立的ないし肯定的に受け止められていた。頭脳労働が労働価値説の対象にならなくても、その利潤のなかに含まれるとみなせることによって、価値定義としては不備ではあっても緊急の問題にはならないのである。ところが、マルクスは違う。この利潤を決定的に否定的な意味合いにシフトしていくことによって、この頭脳労働価値も決定的に否定的な意味合いを付与したのである。だから、マルクスのいう「剰余」「搾取」は誤っている、と主張したいのではない。このように利潤を否定的な意味合いに転化するのなら「頭脳労働価値を労働価値説のなかに、あるいは対してどう定位するのか」が緊急課題になる、ということなのである。そうしないといままで検討したような事態になってしまうのである。これは現代の課題ではない。これは1世紀半前の緊急課題なのである。


 また、労働価値説と頭脳労働との関係をここで考察するならば、先の引用文で示された労働価値の認識過程が参考になる。多くの情報が有用なものとみなされ、売買の対象になる時は当然、ある価格として表示される。会社や企業内における情報伝達のように売買の対象にならない場合もあるが、その有用性は認められているのである。売買の対象になるとすれば、それもある価格として表示されるだろう。労働価値説の歴史的認識過程をここに当てはめてみれば、この価格から価値を分離できる。そしてこの価値を説明するために頭脳労働をその源泉として認めることができるのである。身体労働のみを労働価値説の対象として認めることは、マルクス経済学などの定義を実体的なものとしてとらえる実体主義であり、ドグマ化に陥っていると批判することができるだろう。

 

 第12節 意味転化の必然性

 

 利潤、剰余、搾取などの意味の転化の必然性を考察してみたい。「マルクスは剰余価値を発見した」と言われることがある。古典派経済学が商品生産物の価値が全体として不変資本と可変資本と剰余価値の三者から構成されていることを正確に扱えなかった。古典派経済学は不変資本価値もさかのぼれば労働によって形成されるので可変資本と利潤に分解されていく、とされていたのである。マルクスはこの欠点を克服し、可変資本が実は不変資本と可変資本に分かれることを発見した。利潤率という場合、不変資本プラス可変資本に対する剰余価値の比率であり、剰余価値率という場合は可変資本に対する剰余価値の比率として表されている。ここでは「利潤」から「剰余」はそれぞれ論理のなかで意味のある表示を担っている。ところがこの両者は明らかに意味内容が異なっているのである。つまり、単なる表示の手段としてだけではなく、それ以上の意味の変化を伴っている。それは明らかに否定的であり、ネガティブな価値観などを伴っている。論理の意味するものとこれらの言葉の意味内容との相関関係はどのようになっているのだろうか。ここで指摘したい重要なことは次のことである。これらの間には「論理的必然性はない」ということなのである。「利潤」とはどちらかというと資本家の側に立った意味内容やニュアンスをもっているだろう。「剰余」はそれに対して労働者側の立場に立ったニュアンスをもっているように感じられる。それはこのものが本来労働者のものであるはずなのにそうではない、という内容を含意しているかのような感覚を持っているだろう。しかし、このものは上記の論理展開の上で同じものしか表してはいない。論理の前と後で同じであるはずなのに意味内容が変えられているのである。それは便宜上の表示の違いとは別のレベルに属する。確かに「利潤率」は資本家側に有利であり、「剰余価値率」は労働者側に有利であるとはいえるかもしれないが、そのことで「剰余価値率」を「剰余価値率」と表示しなければならない論理的必然性はないのである。例えば「利潤率」を「利潤率A」と表示し「剰余価値率」を「利潤率B」と表示することも可能なのである。その逆に「利潤率」を「剰余価値率B」と表示し「剰余価値率」を「剰余価値率A」と表示することもできるのである。例えば「コロンブスは新大陸を発見した」という命題と「マルクスは剰余価値を発見した」を比べてみればよく理解できる。「コロンブスは新大陸を発見した」という命題はほかに変換できない論理的必然性があるが「マルクスは剰余価値を発見した」という命題はそのような論理的必然性はない。「マルクスは利潤の新しいとらえ方を発見した」ということもできるのである。


 しかし、そのことは「剰余価値」「搾取」と表現することが、不適切であるとか誤っている、ということではない。ただ、そのように表現する論理的必然性はない、ということなのである。それはある立場の主張であるととらえることができるだろう。そのように主張できるだけの客観的状況は確かに存在するといえるのである。これはなにも経済学を知っていなければ、そのように主張できないということはないのである。労使交渉をするのに、『資本論』を必ず読んでいなければならない、ということはないだろう。読んでいれば理論武装に役立つとはいえるだろうけれども、、労働者がいきなり資本家に向かって「利潤は搾取だ!」と叫ぶことはできるのである。そして、マルクスがいったことも本質的にはそれと同じことなのである。しかし、マルクスの巧妙なところは論理分析をしていく過程で「利潤」から「剰余価値]とラベルを張りかえ、さらに「搾取」や「不払い」と表現を転化させていく。あたかもこれらが論理的必然性をもって展開されていくような錯覚を起こさせるのである。しかし、これらはいきなり「利潤は搾取だ!」と言ったのと何ら変わりはない。つまり、これらの論理展開は「利潤」が実は「不払い労働の価値」であることを証明した、というようなものではまったくないのである。それはある立場の一つの主張なのである。またこのようにもいえるだろう。マルクスのいう「ブルジョワ経済学」の側にも同じ問題においては論理的必然性はないということである。それもまた一つの主張である。


 今までの議論を総合すると次のようになる。古典派経済学の流れのなかで労働価値説の対象問題は頭脳労働をほとんど扱っていないという不備があった。しかし、資本家の利潤を肯定的に扱っている段階ではこの不備は大きな問題にはならなかった。ところがマルクスはこの利潤を剰余価値、搾取、不払いといった否定的な意味に転化していった。この展開に論理的必然性はない。マルクスの恣意によってこのように意味が転化されたのだから、頭脳労働を労働価値説のなかにどう位置づけるかがマルクスにとっての緊急の責務になったのである。ところが、マルクスはその責務を果たすどころではなく、その正反対の方向に走ったのである。


 重要なポイントは大きく二つある。一つは古典派経済学からの労働価値説の対象問題の不備をそのまま受け継ぎ、それを確立する。つまり、厳密には定義されておらず常識的に身体労働のみを対象にしていた古典派経済学から、『資本論』は厳密に労働価値説の対象は身体労働である、と定義するのである。(ただし、明文としてではなく)そしてもう一つは、可変資本を不変資本と可変資本に分離する。このこと自体は古典派経済学の弱点を克服した正鵠を射た分析であることは間違いない。しかしその過程で、利潤→剰余→搾取、不払いと意味を転化していったのには論理的必然性はない、にもかかわらず論理的必然性があるかのごとく見せかけることである。可変資本を不変資本と可変資本に分離するという業績は以上の二つのポイントと別問題だということに注意しなければならない。関連しているかのように思えるが、はっきり分離することが可能なのである。以上の操作の目的は一つである。資本家は一切のコストをかけずに労働者から剰余価値を受け取る、ということを客観的事実として表示することである(19)。これは『資本論』の労働過程と価値増殖過程で述べられた「資本家の禁欲に特別の報酬を支払う理由は何もない。なぜなら労働過程から生み出された生産物の価値は投じられた商品価値の総体と等しいというだけのことだからだ」このような言い回しはこれがマルクスの主張ではなく、単に客観的事実を述べているにすぎない、といった印象をあたえるものである。しかし、今まで検討してきた通りこれは客観的事実なのではなく、マルクスの巧妙な操作によって捏造されたものなのである。これに対して、経営、管理をすべて支配人、監督官に任せてまったく仕事をしない資本家もいたではないか、という反論もあるかもしれないが、それでもコストがゼロになるなどということはありえない。また、経営、管理を任せられたこれら中間管理職の労働価値をマルクスはどこにも表示していないのである。結局、意味するところは同じである。



(15))『資本論 第一巻 上』 285頁


(16)『資本論 第一巻 下』 76頁


(17)伊藤誠『「資本論」を読む』講談社、2006年、282頁


(18)米田康彦 他『労働価値論とは何であったのか』創風社、1988年、11,12頁


(19)『資本論 第一巻 下』 313頁



スポンサーサイト

category: 未分類

TB: --    CM: 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

プロフィール

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

ブログ訪問者数

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

QRコード