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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 3 

『マルクス主義の解剖学』

 

第1章 『資本論』批判

 

第5節 使用価値 情報を巡る考察

 

 使用価値と情報を『資本論』の議論に関連づけて概観し検討していきたい。使用価値とはこのように述べられている。
 
 人間生活にとって一つのものが有用である時、そのものは使用価値になる。しかしこの有用性は空中に漂っているわけではない。有用性は商品の身体特性によって生じるのだから、この身体なしには存在しえない。したがって鉄、小麦、ダイヤモンド等などという商品身体は、それそのものが使用価値または財なのである(3)。
 
 これは使用価値に対する非常にわかりやすい説明だといえるだろう。これはまったく当然のように思われる。人間にとって有用なものとは、何らかの商品特性を持ったモノでなければならない、資本主義社会においては、それこそ膨大な量の商品特性を持った物に満ち溢れている。車、家、家電製品、スーパーに並べられた多くの食品、デパートに飾られる多くのファッショナブルな衣類、 CDショップにあるアーティスト達の CD、DVD、或いは高価な宝石、様々なものに溢れているのである。ところが、ここで重大な問題が抜け落ちていることに気づくのである。使用価値を持つものとは、必ず商品身体を持っていなければならないのだろうか。商品身体を持っていなくて、有用性を持っているものがあるのである。それは、交換価値の一方の対象である貨幣以外のものである。それが「情報」である。
 

 『資本論』には、情報論がほとんど存在しないように見える。情報化社会の現代では、情報は非常に重視されるのは当然である。マルクスの時代は現代とは違うわけであるが、それでも情報をまったく無視するということは見過ごすことのできない大きな問題なのである。「情報」とは使用価値ではないのだろうか。どう見てもそれはありえそうもない。我々は日常生活においても、様々な情報を有用に使っているのである。テレビから流れてくるコマーシャル、新聞の広告や、様々な情報誌、現代においては特にインターネットが情報の速さ量において大きく活躍している。それは特定の商品身体の形態を持つこともあるが、インターネットのホームページのように、パソコン等のハードウエアに支えられてはいるものの、デジタル空間にしか存在しないような形態を持つ場合もある。これらは特定の物質形態に拘束されることもなく、可変的であり、互換的である。例えば、パソコンのホームページはモニター上に映し出されるが、それをプリンターで印刷すればその情報は紙の上に実現されることになる。モニター上の情報も紙の上の情報も情報としての有用性は同等であるとみなされるだろう。


 マルクスのいう商品身体を持った使用価値と、情報の使用価値とはどう違うのだろうか。商品身体を持った物としての使用価値は、基本的には互換性がなく、それ自身の有用性を持った物として存在している。それは食物とか衣類とか人間にとって直接的な存在である。そのため感覚的には、五感全てがそのための手段となりうる。すなわち、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚といったもののその中のいずれか、或いは複数の感覚の統合において、その使用価値を有用なものとして使用する。例えば、ワインを例に挙げてみれば、その色、味わい、香りといったものが、ほかに代わられるもののない独特の良さを持っている。また酒として飲んだ後に、酔うことによって良い気分になる。視覚、味覚、嗅覚、そして体感的なもの、酔いという心理状態、それらの総合的な有用性を持った使用価値を持っているといえるだろう。使用価値としての情報は情報それ自身の有用性が維持される限り、どのようなものにも変換することができる。多様な互換性を持っているといえるのである。それは物それ自身として存在していないから感覚的にはかなり限定された対象になる。商品身体を持つ物は五感全てが対象になるのに対して、情報は主に視覚、聴覚がその対象になる。パソコンのモニターに映し出された評判の高いレストランの料理の写真を幾ら見ても、その味わいはわからない。そのレストランの料理の情報は、使用価値としては間接的なものであり、実際にそのレストランに行ってその料理を食べてみなければ、直接的な使用価値を享受したことにはならないのである。しかし、その料理を食べるために、パソコンのインターネットでしかその情報を得ることができない、と限定されるならばそのインターネットの情報は、その料理を食べるための不可欠の前提条件になる。間接的であっても代替の利かない使用価値なのである。


 情報は明らかに使用価値を持っている。それゆえに情報はそれ自身を貨幣と交換することができるのである。ただし、商品身体を持った使用価値とは違い常に貨幣との交換対象になるとは限らない。広告を考察してみればわかるように、そこには複雑な過程が存在する。情報は間接的な使用価値であり、互換性があり、制限なく複製することができる。広告は、その広告主が商品身体を持った使用価値である商品を購入してもらい利益を得るために、消費者にできる限りその情報を伝達したいのである。その利益を先行投資しているものと考えることができるだろう。そのためにこの情報は、受け手にとってはタダなのである。


 情報が使用価値を持っている、といっても商品身体を持った使用価値とは明らかに性質が違っている。ここで、商品身体を持った使用価値は直接使用価値であるが、これを単に「使用価値」と今まで通りに使用し、情報を「間接使用価値」として両者を区別しよう。これにはどちらとも取れるような中間の性質を持った物も存在する。例えば小説であるが、従来商品身体を持った本として存在していたが文字情報であるために、特に現代においてはデジタル技術等の進歩によって容易に大量の複製が可能になっている。そこで著作権やその他の法律によって、規制されるようになってきたわけである。これは商品身体を持った使用価値の性質を保存することだとみなすことができる。これは音楽作品や、映画等の映像作品にも同様のことがいえるだろう。


 情報の有用性、間接使用価値としての程度、貨幣と交換される交換価値の高さ、その形態というものは非常な多様性がある。社会全体に対して、非常に広い有用性を持っているものもあれば、極めて限定された有用性しかないものもある。天気予報等は、社会全体に対する広い有用性の代表的なものだろう。遺伝子工学の最先端の情報は、その分野の関係者にとっては非常に有用なものであるが、社会全体に対しては直ちに有用性を持たない。しかし、その情報が現実に応用され社会にとって有益な技術として実現したならば、社会に対する有用性を実現したといえる。歴史的に見て、最も重大な例の一つはかつての米ソ冷戦の時、アメリカの核兵器開発の情報をソ連のスパイが盗み出し、ソ連側に流していたということがある。これは第二次世界大戦中のマンハッタン計画の時からすでに始められていて、原子爆弾に関する多くの機密情報がソ連側へと流れていた。この情報に基づいてソ連の核科学者は、原子爆弾の開発を極めて迅速に行うことができたのである。アメリカに遅れることたった4年でソ連は最初の原子爆弾を完成させることができた。これは情報の有用性、使用価値のなかで第一級のものといえるだろう(4)。ソ連がアメリカから直接の使用価値である原子爆弾そのものを盗み出すことは極めて非現実的なことである。といって、穀物と同じように貨幣と交換してくれる、、、すなわち買うことも無理な話である。

 

 第6節 問題の核心へ「労働価値説」と「イデオロギー」

 

 資本論批判の中心である「労働価値説」の検討に入りたい。労働価値説とは「商品の価値はその商品の生産に投下された労働量に規定される」ということである。これに関して膨大な議論がなされ、多くの批判が集中的になされてきた。これはマルクス経済学、マルクス思想の根幹を成すものであり、これを基礎として剰余価値説が導き出されている。これが資本主義社会のブルジョワジーによる搾取の構造を解明している。それによって資本主義社会は二極分化していき、行き詰まり、やがてそれが極点に達すると、革命によってブルジョワジーはプロレタリアートによって打倒されて、プロレタリアートの支配する社会主義社会、共産主義社会に至るというわけである。だから、労働価値説はマルクス理論の攻防の中心となっている。しかし現在では、労働価値説はほとんど否定された状態になっているのである。


 労働価値説はマルクスが初めて説いたものではなく、先行する経済学者、アダム・スミスや、リカードによって提唱された理論をさらに発展させ自己の体系に組み込んだものである。しかし、この理論には大きな欠点があった。労働量は労働時間によって計られる。同じ労働時間ならば、それによって作られた商品は同じ価値を持つはずである。だが、熟練労働者が作った商品と未熟練労働者が作った商品とでは、同じ労働時間であっても商品の質に大きな差が生じてしまう。この矛盾をどのように解決したらよいのか。熟練労働者の1時間は、未熟錬労働者の1.5時間に相当するのか、2時間に相当するのか、或いはそれ以上か、そのような問題、すなわち「労働力の換算」をどう解決したらよいのか。リカードは、労働価値説について「これは資本主義より前の世界でしか通用しない」と反省しているのである。作業工程が単純なものなら、ある程度は適用されるだろうけれども、非常に複雑化した近代資本主義経済の生産においては、労働力の換算は大変な難問になる。マルクスはそこで「労働力の換算率は、市場のメカニズムによって決まる」という解決策を出した。これに対して「マルクスの説明は循環論に陥っている」という批判が上がったわけである。さらにこれに対して「労働価値説は、循環論によって説明しても差し支えない」という一般均衡理論からの反論もあったようである。しかし、マルクス理論全体からすれば、社会主義社会になれば市場は廃絶されるのだから、労働力の換算はできないことになる。結局、矛盾は解消されないだろう。また、スラッファは商品価格は価値や労働時間を一切考慮することなく、決定できることを明らかにした。


 また、剰余価値説については、青木孝平の次の文章などが参考になる。マルクスの時代と現代との差を割り引かなければならないが。
 
 たしかに資本主義社会において、剰余労働の生産物は直接生産者の所有に帰属するわけではありません。だがしかしながら、これはなにも「生産手段の私有による不払い労働の搾取」といった階級的な問題ではない。どんな社会においても、人間は必要労働部分を消費して労働力を再生産するのであり、剰余労働分は社会的な蓄積に当てられるはずです。この剰余は、社会的再生産のための補填分や拡大再生産ファンド、さらに非労働者への給付ファンドなどに回されることになります。したがって、剰余分が労働者に支払われないのは、所有の不平等とか搾取とかという問題とは何の関わりもない。社会のトータルな再生産の継続するための必要条件というべきです。この関係は資本主義社会のみならず、かりに高度の共産主義社会なるものを想定してみてもまったく同様であり、そもそも剰余労働を「不払い労働」などと呼ぶこと自体がマルクスのミスリーディングだったといえるのではないでしょうか(5)。
 
 しかし、本論で展開したいことは、以上のような既出の問題と関連しているものの、本質的にやや異なるものである。以上の議論は、基本的には経済学の問題だといえる。これから展開する問題は経済学上の問題とともに「イデオロギー」の見地から、資本論を分析していこうというものである。それとともに、「マルクス思想から現存した社会主義を考察する」ために、歴史過程のなかの『資本論』を考えていくことである。すなわち「イデオロギーとしての資本論」「歴史過程のなかの資本論」である。


 マルクス思想、マルクス主義のイデオロギーの目的は、いうまでもなく「社会主義革命」であり、その先に実現されるであろう「社会主義社会、共産主義社会」である。社会主義革命は、社会主義社会、共産主義社会に至るための避けて通ることのできない歴史の一大転換点である。それはイデオロギーから離れた立場では客観的な歴史認識であり、イデオロギーの立場からは主体的に実践していくものとなる。このイデオロギーの認識と、客観的歴史認識とは別のものでありながら、不可分な一体を成している。この両義性は時として、様々な見解の対立ともなり、また失敗した結果に対する弁解に利用されたりもする。この唯物史観に対する検討は第3章以降において行われるが、ここでは『資本論』の内容とどう関係しているのか、ということが検討課題である。

 

 第7節 剰余価値説と労働価値

 

 生産物価値から可変資本である(必要)労働価値と不変資本である原材料費、設備費、燃料費などを差し引いた残余が剰余価値である。資本家はこの剰余価値を最大限取得しようと努力する。この場合の労働価値と労働とは次のように表現されている。
 
 労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手はその売り手を働かせることによって労働力を消費する。それまでは可能性としての労働力、労働者に過ぎなかった労働力の売り手は、これによって現実に活動する労働力、すなわち労働者となる。彼が労働を商品のなかに表示するためには、なによりもまず使用価値のなかに、つまりに何らかの種類の欲求充足に役立つ物のなかにそれを表示する必要がある。したがって資本家が労働者に作らせるものは、ある特別な使用価値、ある特定の品目である(6)。
 
 どのような商品の価値もその商品の使用価値のなかに物質化された労働の総量によって、すなわちその商品生産のために社会的に必要とされる労働時間によって決まることをわれわれは知っている(7)。

 
 ここで問題にしたいのは次のようなことなのである。ここでいう労働とは、ある特別な使用価値、特定の品目を生産することであり、物質化された労働の総量・・・すなわち身体労働であることを明確に示している。今まで検討してきた通り、資本制生産様式中心部の身体労働には必ず、頭脳労働が先行して存在する。そして、その頭脳労働と身体労働は不可分な相互依存の共同関係にあるのである。この場合の頭脳労働とは当然、これら労働者を雇っている資本家の労働である。『資本論』のなかでは資本家は徹底的に労働者から剰余価値を搾取する者とみなされている。労働者を過酷な労働においやり、機械の導入によって不要になれば容赦なく首を切る。資本家と労働者の敵対関係がこれでもか、と強調されているのである。しかし、そのことと頭脳労働と身体労働の相互依存関係は独立した問題である。つまり、資本家と労働者の関係は敵対関係であるのと同時に相互依存の共同関係にある、という二重性を持っている。『資本論』のなかでこのように資本家と労働者との相互依存、共同関係について触れた箇所は実に少ない。ごくわずかに触れた箇所が剰余価値率の考察の部分で出てくる。以下の文章がそれである。
 
 剰余価値と労働力価値を、価値生産物の分割部分とみなす説明は―ちなみにこの説明方法は資本制生産様式自体から育ってきたものであり、この意味については後に解明することになろう―資本関係がもつ特殊な性格を隠蔽している。すなわちこの説明は、可変資本が生きた労働力と交換され、それに対応して労働者が生産物から排除されていることを隠蔽している。その代わりに登場するのが、労働者と資本家は生産物を作り上げているさまざまなファクターの比率に応じて生産物を分配しあう協同関係にあるという虚偽の外見である。資本制的な生産過程の発達した形態は、すべて協業形態をとるため、それらの形態がもつ特別に対立的な性格を捨象して、A・ド・ラボルド伯の『共同社会の全領域における協同の精神について』バリ、1818年、に見られるような自由な協同形態へとそれを捏造するのは、もちろんわけもないことである。北米人H・ケアリーは、時にこの芸当を、奴隷制度の諸関係に対してさえやってのけて、同じような成功をおさめている(8)。
 
 確かに労働者と資本家は生産物を作り上げている様々なファクターの比率に応じて生産物を分配し合う、という意味における共同関係はない。しかし、ここで問題にしているのは生産過程における分業形態であり、これらは連続した統一的なものである。この意味における共同関係まで否定することはできない。マルクスはこの意味における共同関係にはまったく触れてはいないのである。したがって、資本家の頭脳労働の価値はどのように表示されているのだろうか?
 
 俗流経済学に通じている資本家なら、自分は、自分の貨幣からより多くの貨幣を作り出そうという意図で前貸ししたのだと言うかもしれない。しかし地獄の道は様々な良き意図で粉飾されているものだ。資本家は、生産せずに金を作るという意図さえ持つことができたのである。資本家は脅しをかける。こんな不意打ちはもうくわない。これからは商品を自分で製造せずに、完成品を市場で買うことにすると。しかし彼の兄弟であるすべての資本家が同じことをすれば、どこの市場で商品を見つけるというのか。しかも彼は貨幣を食って生きるわけにはいかない。そこで資本家は説教を垂れる。私が節約していることも考えて欲しい。自分は15シリングで遊びほうけることもできたのだ。しかし自分はそうしないで、その貨幣を生産のために消費し、そこから糸を作ったのだと。しかしその報酬として彼は良心の呵責の代わりに糸を所有しているのである。彼は断じて貨幣退蔵者の役割に後戻りするわけにはいかない。貨幣退蔵者はその禁欲からなにが生じるのかわれわれに教えてくれた。しかも、なにも存在しないところでは皇帝といえども権利を失うのだ。資本家の禁欲にどんな功績があろうとも、その禁欲に特別の報酬を支払う理由はなにもない。なぜなら労働過程から生み出された生産物の価値は投じられた商品価値の総体に等しいというだけのことだからだ。したがって彼としては、徳は徳の報酬ということで納得すべきである(9)。太字強調 筆者
 
 しかし、ここで問題になっているのは交換価値である。資本家は労働者に3シリングの価値を支払った。労働者は資本家に、綿花に付加された3シリングの価値という形で正確な等価を返した。価値に対して価値を返したのである。われらの友はついさっきまであれほど資本を鼻にかけていたのに、急に彼の労働者と同じ控え目な態度になってこういう。私だって自分で働いたではないか。紡績工の監視、監督の仕事をしたではないか。この私の労働だって価値を形成するのではないか、と。彼のもとで働いていた現場監督と支配人は肩をすくめる(10)。

 
 長い引用になったが、ここは最も重要なところだと考えるのである。『資本論』の叙述は労働者とその労働形態、価値については極めて詳細に分析しているが、資本家についてはかなり単純で曖昧なものである。というより意図的に曖昧にしているのではないか、とさえ思えてくるのである。ここで取上げられている資本家は資本の所有者と同時に経営者としての側面も併せ持つ。現代においては、資本と経営の分離が進んでいるがこの時代はかなり一体であっただろう。経営者は頭脳労働者であり、その労働が有用労働であるのだからその労働価値がゼロになるなどということはありえない。しかし、『資本論』の上記の論説では明確にゼロだといっているように解釈できる。労働者の労働に関しては、労働価値説に従い科学法則的に扱っているのに、資本家の経営という労働に関してはどうして禁欲がどうの、徳がどうのというような倫理や道徳論になってしまうのだろうか。


 ここで取上げられている紡績業という工場の経営も、他のあらゆる業種と同じように決して簡単なものではないはずである。そのためにはそれ相当の頭脳労働が費やされるだろう。しかし、マルクスはここでそのような経営の仕事を極めて矮小化しているように思われる。ここで述べられているように、単に紡績工の仕事を監視、監督していればよいというものではない。さらにここでもう一つ重大なことがある。ここで登場してくるこの工場の支配人、現場監督である。これらの人は中間管理職ということになるが、これは分類からすれば資本制生産様式中心部の頭脳労働となるだろう。これらの人たちの労働価値はどのように扱われているのだろうか。『資本論』を読む限り、このようにほんのわずかに登場するだけで労働形態や労働価値説の対象にはまったくなっていない・・・完全に無視されているのである。この問題も後で取り上げることになるだろう。


 これらのことは『資本論』で述べられている次のような「労働過程から生み出された生産物の価値は投じられた商品価値の総体と等しい」ということと矛盾しない。つまり、マルクスによれば「労働者も資本家に買われた商品である」と言うことだが「資本家も資本の所有者であるのと同時に経営に携わる頭脳労働者である」という二重の性格を持っている。この「頭脳労働者」も一つの商品とみなすことができるからである。現代においては様々な資本家が企業に対して株を買い投資するが、その企業の経営者も投資対象の一つの商品なのである。このことからも頭脳労働者も身体労働者と等しく商品とみなしてもまったく正当であろう。マルクスは労働者・・・といってもほとんどが資本制生産様式中心部の身体労働者、に対して極めて詳細で緻密な分析を行っているが、頭脳労働、頭脳労働者に対しては極めて単純に扱っている、というよりもほとんど無視しているのである。これは完全に意図的になされているように思える。これはイデオロギーと密接な関係があるが、その検討は後に行うこととし、ここでは剰余価値率の問題にどう関わるかを検討してみよう。

 

 第8節 剰余価値率の根本問題

 

 『資本論』第7章 剰余価値率 第一節 労働力の搾取度、はこのように始まっている。
 
 前貸しされた資本Cが生産過程で生み出した剰余価値、すなわち前貸しされた資本価値Cの増殖分は、まずは生産物価値のうちで生産要素の価値総計を超える超過分として表示される。
 資本Cが二つの部分、すなわち生産手段のために支出される貨幣額cと労働力のために支出される貨幣額 vに分けられる。cは不変資本へと変化した価値部分を、vは可変資本へと変化した価値部分を表す。したがって最初はC= c + vであり、例えば前貸しされた500ポンド(C)=410ポンド(c)+ 90ポンド(v)などとなる。生産過程の最後には商品ができ上がるが、その価値は剰余価値をmとすると(c + v)+mで表される。例えば(410ポンド(c)+ 90ポンド(v))+ 90ポンド(m)となる。こうして最初の資本CがC´と変化し、500ポンドは590ポンドとなった。両者の差=mは90ポンドの剰余価値である(11)。

 
 今まで検討してきた通り、可変資本とされるこの労働力 vは身体労働のみを対象としている。ここでは問題を単純化するために、資本家1人と労働者という関係に絞って考えてみる。この資本家は経営という頭脳労働を行っている。この頭脳労働は労働者が行っている身体労働と一体化した相互依存関係にある。それではこの頭脳労働の労働価値はこの公式のなかのどこに表示されているのだろうか?その答えは明白である・・・どこにも存在していないのである。「剰余価値mがそれである」という答えがあるかもしれない。しかし、それはもちろん誤りである。剰余価値とは資本家が労働者から巻き上げた搾取分であり、資本家の正当な労働報酬とはみなされていない。ここで重大な事実認識の問題につき当たるのである。マルクスは明らかに、資本家の頭脳労働の労働価値をゼロとみなしている・・・しかしこれはまったく話にならない問題ではないだろうか。マルクスは本当にそう考えていたのだろうか?これは倫理や道徳、価値観や主義、イデオロギーといったものとは関係ない。これは単なる事実認識の問題にすぎないからである。労働価値説を適用するというのなら、有用労働に等しく適用されなければならないはずである。それは社会科学として当然のことであろう。例えば、勤勉な労働者と労働者の生き血を吸う吸血鬼のような資本家が2階から落ちれば、同じように重力の法則に従って落下していく。勤勉な労働者は重力の法則に従って落下し片足を骨折したが、吸血鬼のような資本家は10倍の加速度がついて地面にたたきつけられて死んでしまった、などということはありえないのである。科学法則として適用されるものは主観的な価値判断とは切り離して考えなければならない。繰り返すが、これは単なる事実認識である。社会主義や共産主義の信念を持っていたからといって、「こうである」ということと「こうであるべきだ」ということを絶対に混同してはならないのである。これはあくまで、この時点における事実なのでありその事実を認めるからといって、例えば労働者のみの自主管理の可能性を否定するとか、肯定するとか、ということとはまったく関係ない、ということにも留意しておきたい。


 それでは資本家の頭脳労働の労働価値はこの公式のどこに挿入されるものなのだろうか。それはvの定義を可変資本部分とみなすか身体労働とみなすか、によって変わってくる。この場合、頭脳労働を行う資本家自身も可変資本のなかに入るからである。ここで資本家の頭脳労働の労働価値を10ポンドとしてみれば、vを可変資本とした場合はvは90ポンド(身体労働力)+10ポンド(頭脳労働力)=100ポンドとなる。その分、剰余価値は90ポンド-10ポンドで80ポンドとなる。vを身体労働と定義すれば頭脳労働力は剰余価値のなかに表示され、実際の剰余価値は80ポンドであり頭脳労働価値は10ポンドとなる。結局意味するところは同じである。ここではvを可変資本と定義することにする。『資本論』でもそのようになっているわけであるが、可変資本の部分に頭脳労働が入るという問題にマルクスは一切触れていないので、これは修正追加事項となる。
 
 したがって当面は資本の不変部分をゼロとおく。そのとき前貸しされた資本はc+vからvに、また生産物価値c+v+mは価値生産物v+mに減じられる。今、価値生産物=180ポンドとしよう。そこには生産過程の全継続期間を通じて流れる労働が表現されている。そのとき90ポンドの剰余価値を得るには可変資本の価値=90ポンドをそこから差し引く必要がある。剰余価値m=90ポンドという数字は、ここでは生産された剰余価値の絶対量を表している。しかしその相対量、すなわち可変資本が価値増殖する比率は当然のことながら可変資本に対する剰余価値の比率によって決まり、m/vで表される。この例ではつまり90/90=100%となる。可変資本に対する価値増殖の比率、ないしは剰余価値の比率を私は剰余価値率と名づける(12)。
 
 剰余価値率を導き出す以上の計算は、可変資本の部分が実際には90ポンドではなく(前述のように資本家の頭脳労働分を10ポンドとすると)100ポンドであり、したがって剰余価値は80ポンドとなる。つまり、80/100=80%の剰余価値率となる。マルクスの導き出した剰余価値率は完全な誤りである。もちろん、ここで誤りというのは数字の問題ではなく、可変資本部分は頭脳労働分が加算されることによって必ず増大するということなのである。可変資本の部分に資本家自身が含まれるということは一見、奇異に思えるかもしれない。これは資本の所有者である資本家と経営を行う頭脳労働者が同一人物であるからである。これを分離したとすればわかりやすくなる。その資本家が経営すべてを別の人物に丸投げしたとすれば、その経営の頭脳労働はその人物に移動したことになり、可変資本のなかにはその人物の頭脳労働価値が含まれることになる。それでも資本家の頭脳労働はまったくのゼロにはならないだろう。経営の丸投げをするのにも多少の頭脳労働は必要だからである。


 ここで問題にしていることは、剰余価値説自体を否定しているのではなく、剰余価値率を導き出す公式に重大な欠落がある、ということなのである(13)。さらに『資本論』のなかの具体例に沿って検討してみよう。
 
 さてここで、資本家がいかにして貨幣から資本を作るのかを教えてくれた先の例に戻ることにしよう。そこでは紡績工の必要労働は6時間、剰余労働も同じ6時間、それゆえ労働力の搾取度は100%であった。12時間の労働日が生み出す生産物は20封度の糸、その価値は30シリングである。この糸の価値の少なくとも8割(24シリング)を占める価値は、消尽された生産手段(20封度の綿花が20シリング、紡績等が4シリング)の再現にすぎない。すなわちそれは不変資本から成り立っている。残りの2割は紡績過程を通じて発生した6シリングの新しい価値であり、その半分が前貸しされた労働力の日当価値、すなわち可変資本の穴埋めをし、他の半分が3シリングの剰余価値となる。つまり20封度の糸の総価値は次のような内訳になる。
糸の価値30シリング=24シリング(c)+(3シリング(v)+3シリング(m))(14)

 
 ここで言われている必要労働時間というのも、労働者が自己を保存し持続的な自己再生産のために必要な生活手段を得るための労働時間ということだが、これは資本家がその通りの額の賃金を労働者に支払っている、ということを前提としている。本当にそうであったかどうかはまた別の問題であろうし、(もちろん、マルクスの時代には多々あったことだろうと思うが)現代においてはほとんど当てはまらないだろう。これは生きていくための必要最小限の賃金ということを意味している、、、現代においてはそれよりもはるかに改善されていることは明白である。その問題は置いておくとしてここでの議論に戻ろう。紡績工の必要労働時間が6時間、剰余労働時間が6時間となっているが、先に検討した通りここには資本家自身の頭脳労働時間が考慮されていない。では、どのように考えるべきだろうか。経営者である資本家は雇用した労働者全員に対峙しているために、その全体との関係で考えなければならない。ここでは問題を単純化するために、経営者(資本家)1人が10人の紡績工を雇っている、と仮定してみよう。資本家は1日6時間頭脳労働をするとする。12時間働く紡績工に比べれば、楽な仕事である。それでもそれは経営をしていくために必要不可欠な仕事である。まず、剰余価値率100%を資本家の労働時間6時間にも適用する。これも奇異に感じることだと思うが、労働者と条件を同じにするためである。資本家にとっての必要労働時間に相当するものは6時間の半分、すなわち3時間である。この3時間を労働者10人に均等に配分する。そうすると紡績工1人当たり180分÷10=18分となる。この18分は労働者にとっての労働全体を成立させる不可欠な時間となり、したがって必要労働時間に加算されることになるのである。すなわち、正しい必要労働時間はマルクスの言う6時間ではなく、6時間プラス18分=6時間18分となる。その分剰余労働時間はマイナス18分となり、5時間42分である。もちろんこれは条件が変われば様々に変化する。例えば雇用している労働者が20人ならば加算する時間は9分となり、5人ならば36分になる、といった具合である。ここで意味する重要なことは、身体労働に相互依存する頭脳労働は身体労働者の必要労働時間に加算されるということなのである。


 以上の議論で意味することは極めて単純なことである。労働価値説の基本的な定義「商品の価値は投下される労働量によって規定される」ということのこの労働という意味を、身体労働にも頭脳労働にも等しく平等に適用するということである。資本家が労働者の半分の時間を経営という頭脳労働に費やす場合、労働者の受け取る報酬の半分の報酬は資本家が受け取る正当な労働報酬だ、ということを意味しているにすぎない。これは労働価値説の持っている労働力換算の問題を棚上げにして、身体労働と頭脳労働という異種間労働の間にも統一して適用したということである。ここで当然、次のような反論がなされるかもしれない、「資本家自身が労働者と同じ基準で労働価値説を適用し、その分の報酬で満足するなどということはまったくありえないナンセンスな話である。資本家はそのような正当な労働価値説に従った報酬の何十倍、何百倍といった剰余価値を引き出そうとするだろう。またそうしなければ資本家は自分の立場を維持することはできない。対立する資本家との競争に勝つためには、その剰余価値でさらに生産力を上げるために最新型の機械を購入したり、その他生産効率を上げるための設備投資をしなければならない。生産物利益の分配は資本家の権利であって、労働者には何の権利もない。したがって、そのような議論は意味がない」。先の例では、資本家の必要労働時間18分に対し取得された剰余労働時間は5時間42分で19倍となる。このような反論は現実の労働者の立場からすれば当然のことである。しかし、ここで問題にしていることはそれとは別次元のことなのである。この重要な価値論のなかで、この資本家の頭脳労働の価値は現実の問題から乖離しているからといってどうでもよい、ということにはならない。まして、マルクスのように資本家の頭脳労働価値はゼロなどといってよいはずはないのである。さらにここで重大な問題がある。頭脳労働者は資本家(経営者)だけではないのである。この資本家対労働者という階級関係とはまったく独立に頭脳労働と身体労働の関係は存在する。



(3)カール・マルクス『資本論 第一巻 上』今村仁司 鈴木 直 三島憲一訳、筑摩書房、2005年、56頁


(4)デーヴィド・ホロウェイ『スターリンと原爆 上・下』川上洸訳、大月書店、1997年


(5)降旗節雄 編著『マルクス主義改造講座』社会評論社、1995年、146頁


(6)『資本論 第一巻 上』 263頁


(7)同上書 276頁


(8)カール・マルクス『資本論 第一巻 下』今村仁司 鈴木 直 三島憲一訳、筑摩書房、2005年、233頁


(9)『資本論 第一巻 上』 283,284頁


(10)同上書 284,285頁


(11)同上書 311頁


(12)同上書 316頁


(13)このように労働価値説、剰余価値説自体を否定しないということがこの批判の特質である。今までマルクス主義、マルクス経済学に対する批判はこれらの成否を争点とするものであった。これこそがとかげの尻尾であり、とかげの本体は別のところにあるのである。


(14)『資本論 第一巻 上』 322,323頁

 

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