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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 2 


『マルクス主義の解剖学』


 第1章 『資本論』批判


 第1節 基本の論点

  

 『資本論』をめぐる議論は、労働価値説の正否、剰余価値説の証明といった様々なものがあるが、ここではまだ問題視されていないと思われる、論点(しかし、これはどこかで提出されているのかもしれないが、私が調べた限りでは、見つけることができなかったものである)に絞って検討していきたい。この問題は、他のいかなる問題よりも、隔絶して重要であると思われる。その問題とは・・・
 
     「頭脳労働形態論、価値論」の捨象である。
 
     さらに、「頭脳労働価値の否定」と解釈できる部分がある。

 
 (本論文で、採用されているテキストは、筑摩書房 マルクスコレクション 『資本論 第一巻 上、下』である。以下、目次、本文引用は、すべてこのテキストからである)資本論 第一巻 第一編、商品と紙幣、で使用価値と価値、交換価値といった価値形態を扱い、第二編、紙幣の資本への変容、第三編、絶対的剰余価値の生産、で労働過程と価値増殖過程にはいっている。ここでもっぱら中心となるのは、身体労働者(プロレタリアート)と、資本家(或いは単に資本)である。ここで、労働価値、労働形態の分析対象はプロレタリアートであり、資本家は労働をしている人間ではなく非人格的な存在となり、あたかも自然法則によって動かされているもののように扱われている。そして、どこまでいっても頭脳労働者は登場せず、頭脳労働形態論、価値論は出て来ないのである。
 
 *一般的には頭脳労働価値の捨象は、使用価値捨象として論じられているようである。両者は意味として重なり合うが、論理展開の上で微妙な差異が生じてきていると思われる。

  

第2節 資本主義の労働形態

  

 ここから、労働、労働者、労働形態についての一般的考察を試みてみたい。現代においては、労働はほとんど身体労働と、頭脳労働とに分けられる。もちろん、100%の身体労働というものはないし。100%の頭脳労働というものもない。身体労働といっても様々なものがあるが、単純な流れ作業と高度な職人の労働とは、おのずと違ってくる。高度な職人の労働は、同時に高度の頭脳労働的要素も合わせ持っている、ともいえるだろう。当然、100%の頭脳労働というものも、現実には存在しないわけである。 SF映画の中に出てくるような、培養容器の中に多くの電極やコードでつながれた脳があり、それが何らかの労働をしている、というような特殊なことを考えない限りはありえないだろう。職種は様々にあるから、高度な身体労働と高度な頭脳労働が合わせもたれているような職業、例えば外科医といったものもある。身体労働と頭脳労働の区別は相対的なものであるが、一般的にはほとんどそのどちらかに分類されるだろう。これは近、現代の資本主義社会においては、それだけ分業が進んでいることを示している。特に情報化時代の現代においては、頭脳労働の比率は極めて高いものになっている。


 歴史的に見れば、身体労働と頭脳労働が分化されていず、比較的一体化していたのは、中世から古代の農耕社会やさらに昔の狩猟採集時代に遡ってしまうだろう。狩猟採集時代には、その成員のほとんどが身体労働に従事していたと考えられるが、例外も存在する。シャーマンや、洞窟壁画などを描いた画家などである。これらの人たちは、現代と同じように才能を持ち修練された一部の人たちであると推測されている。現代的な意味ではないが、その時代における頭脳労働者であると考えてよいだろう。このように分業の起原というのは非常に古いものであるし、人間だけに限らず動物界全体にも広く見られることである。


 次に、資本主義社会の分業形態について詳しく考えていきたい。マルクスが『資本論』で検討したのは、資本主義社会全体の問題ではなく、資本制生産様式を中心としたものであった。マルクスは資本主義という言葉はほとんど使っていないとされている。資本主義以前の社会からある産業、職業、労働の多くは、資本主義社会においては、その中心ではなく周辺部に位置することになる。それらの職業は、教育者や、聖職者、芸術家といった頭脳労働者等と、農業や漁業などに携わる身体労働者等に大きく分けられるだろう。資本主義以降に発達してきた産業は商業、そして何よりも工業、そして現代では情報化産業といったものが挙げられるが、これらは、マルクスのいう資本制生産様式の中心をなすものである。これらも大きく頭脳労働と、身体労働とに分類することができる。そして、それらのいずれにも属さない職業、政治家、政府官僚、公務員、などがいる。そうすると、だいたい大きく五つの領域に分類できるだろう。
 
 1 資本制生産様式周辺部の身体労働
 
 2 資本制生産様式周辺部の頭脳労働
 
 3 資本制生産様式中心部の身体労働
 
 4 資本制生産様式中心部の頭脳労働
 
 5 資本主義体制の政治家、官僚、公務員等。
 
 資本制生産様式周辺部での身体労働は、その一部は、最も原始的な労働形態である。そしてこれは、人間に限らず、動物界全体に置いても同様のことがいえるだろう。動物においては、労働とはいわず生存のための活動ではあるが、本質的には同じことである。食物になる他の植物、動物の狩猟採集であるが、これは労働の原初形態だといえるだろう。この労働形態は自然を対象にしていて、その多くをその状態に依存している。そのため、人間においては植物動物に対してそれらを管理、制御して、効率よく安定して供給できるように発達してきたわけである。これら農業や漁業は、どうして資本制生産様式の中心部にならないのかと考えてみると、いろいろと理由があると思うが、それらは直接、使用価値を取得ないし生産するものであり、自然環境に多くを依存していて時間空間的に、資本蓄積をしにくいということがあるだろうし、個人や、家族といった少人数の単位でも、その使用価値の生産を完結できるからである。


 資本制生産様式周辺部での頭脳労働も先に挙げたように、原始時代から存在していたと考えられる。これは明らかに人間特有の労働である。ライオンの群れの中に獲物の狩りの成功を祈願するシャーマンライオンがいた、という話は聞いたことがない。ラスコーの洞窟に描かれていた見事な動物画も狩猟の成功を祈願、、、というより、そのような行為が直接、狩猟の力となる、と考えられていたようである。宗教と芸術は直接、間接的に結び合わされて、現在まで続いていると考えられる。現代においては、教育者、聖職者、小説家、芸術家等がこの労働形態にあたるわけである。これらの労働者は資本制生産様式に直接には組み込まれておらず、周辺部にいるとみなしてよいだろう。例えば、小説家は本になる原稿を執筆するが、その原稿は文化的価値を持つ使用価値と考えられる。しかし、それだけでは交換価値の対象である貨幣と交換はできない。その原稿が出版社で製本され、市場に出回り、書店で読者に購入される、そのような過程を経なければならない。読者に購入されるということが、文化的価値を持っていると認定されることになる。出版社以降の流れは、資本制生産様式の中心部に入るけれども、小説家は出版社に雇用されている賃金労働者ではない。教育者は一部では公務員であり、一部は被教育者の報酬によって成り立っている。資本主義社会において、多くの教育者は資本主義イデオロギーの再生産の担い手ではあるが、直接、資本制生産様式を担っているわけではない。


 資本制生産様式周辺部での身体労働と頭脳労働は、それぞれの内部において、多くの分業があると考えることができるが、それらは比較的独立していて相互に密接に関係しあうということは比較的少ない。マグロの捕穫量が減少しても、稲作の収穫量に影響をあたえることはないし、ある小説家の作品が、ある画家の描く絵に直接影響をあたえることはない。それは精神的なレベルで稀に影響を受けることはあるけれども、間接的なものにとどまるだろう。資本制生産様式周辺部での身体労働と頭脳労働という相互の関係を考えてみても、直接的なものではなく、間接的なものが多いことがわかる。部分的には、農業や漁業で、それらの協同組合等の経理で頭脳労働が密接な関係にあるということはいえるだろう。しかし、大局的に見ればそれらは局部的なものである。これらのことは資本制生産様式中心部での、身体労働と頭脳労働との関係を考える際に、非常に対照的になるので留意しておきたい点なのである。


 次に、政治家、官僚、公務員、これらも様々な職種が存在する。国会議員、地方議員、政府官僚、地方公務員、軍事機構、警察機構従事者、司法関係者等。資本制生産様式との関係で考えると、資本主義社会においてはそれを維持、保護、円滑に運営していくために存在している、より上位の階層に当たる。それは社会に対して、権力、強制力を持っているわけであるが、議会制民主主義の社会においては、選挙を通じてある程度、社会構成員が民意を反映することができる。(この点においては、大いに問題があるところであるが)しかし、これらの職種は資本制生産様式そのものではなく、その外部にあると考えられる。全体的には頭脳労働の比率が非常に高いとみなされるけれど、軍人、消防士、警察官、レスキュー隊等は身体労働の要素も高いだろう。


 さて、本題である資本制生産様式中心部の身体労働及び頭脳労働の問題に入っていきたい。唯物史観が述べてきたように、これは封建社会農奴制が終わり、科学と技術の発達によって産業革命が起こった頃から始まったごく近代の様式である。これが、『資本論』の分析の対象であることはいうまでもない。これは商業及び工業での資本家と、資本家に雇われた賃金労働者(プロレタリアート)との関係で論じられる。ここで複雑な問題が生じてきていることがわかる。資本家と賃金労働者、身体労働と頭脳労働とはどのような関係にあるだろうか。資本家は、頭脳労働者に分類されることは間違いないだろう。(ただし、これは後で大問題となる)。現在の我々の常識から考えると、賃金労働者は当然、頭脳労働者と身体労働者に分かれるとされるだろう。しかし、『資本論』の中で賃金労働者(プロレタリアート)は、どのように描写されているかというと「無産であり、自らの身体を商品として切り売りするしかない」階級とされている。このことから、あまり頭脳労働者というイメージは出てこない。ごく一般的な流れ作業や土木工事等に従事する身体労働者等が、このようなイメージである。このプロレタリアートの定義は今まであまり問題とされてこなかったように思う。しかし、これは非常に重要な問題だということが、以後の議論の展開によって明らかになってくるだろう。


 現代的な意味での資本制生産様式中心部の身体労働を考えてみる。これも、もちろん膨大な数の職種が存在する。使用価値を持った様々な生産物は、それぞれの分業の結果だともいえるし、生産物が生産される工程も多くの分業によって、生産効率を高めるために分れている。過去に比べれば比較にならない程機械化が進み、労働者はそれらの機械に習熟することが求められている。単純な流れ作業もあるが、高度の習熟を必要とする作業もある。『資本論』との関係で考えてみるとその時代とは大きく変わってはいるものの、共通する要素がかなり多いともいえるだろう。


 資本制生産様式中心部の頭脳労働を考えてみると、これも当然、膨大な数の職種が存在する。『資本論』の時代から最も変化したのはこの領域であろう。相対的な身体労働との比率は絶え間なく大きくなってきたわけである。これは組織、会社単位で考えた場合、大きく二つに分類されるといえるかもしれない。一つは頭脳労働のみを扱う組織、会社であり、もう一つは、身体労働によって生み出される使用価値である商品を生産する会社で、それを経営、運営、管理、開発、営業、広告、マーケティング、経理等々を行う頭脳労働部門である。これは商業流通部門の会社においても同じようなことがいえるだろう。つまり、身体労働と頭脳労働の統合形態である。前者は、銀行、証券会社、保険会社、商社、広告会社、出版社、マスメディア、現代においては IT産業、旅行会社等の様々なサービス産業等多くのものが挙げられるだろう。これらはほぼ頭脳労働を中心として行われる組織、会社である。後者においてはそれこそ膨大な数になるだろう。自動車産業、建設産業(これも膨大な数と量にのぼるだろう。ビルや家、鉄道、道路、橋、港、空港、河川整備、ダム、発電所、変電所、送電設備、その他石油、ガス、水道設備等)建設機械産業、衣類産業、電気石油ガス製品産業、食品産業、家具、食器類の製造産業、造船産業、鉄鋼製鉄産業、医薬品産業、水道、石油、電気、ガス等の基幹産業等多くのものがある。商業流通部門では、運送会社、問屋、多くの種類がある小売店、最近ではインターネット販売等がある。病院等の医療関係は身体労働と頭脳労働の統合形態ではあるが、資本制生産様式からは少し距離がある。しかし、ある程度の関係性はあるといえるだろう。これからわかることは、これらの多くの組織、会社は身体労働と頭脳労働が密接に統合された形態である、ということである。さらに、身体労働と頭脳労働の内部においても極めて多くの分業化が進んでおり、それぞれの機能が密接に結び合わされた有機的統合体を成している。

 

 第3節 頭脳労働と身体労働の関係性

 

 資本制生産様式周辺部の頭脳労働と身体労働との関係は、以上述べてきたように間接的なものが多い。例えば、教育と漁業というものを考えてみると、当然、漁業従事者は子供の頃から、義務教育等の教育を受けてきたわけである。それは漁業という身体労働を行うにとって、非常に重要なことは間違いない。ただし、絶対必要だとまではいえないだろうけれども。また、その教育が直接、漁業という身体労働を規定しているわけではないのである。そのことは、教育が資本制生産様式中心部の頭脳労働や身体労働に対しても同じようなことがいえるだろう。官僚や公務員といったものに対しても同じである。またその逆に、農業や漁業といった身体労働が頭脳労働にどう関係しているかというと、食物の供給という生命活動維持の不可欠な要素を提供しているのだから、当然頭脳労働の維持についても大きな役割を果たしている。それは資本制生産様式中心部の労働に対しても、同じことがいえるだろう。ただし、その具体的細部においてまで規定しているわけではない。しかし、局所的な例外は存在する。農業や漁業の直接関係する経理等はそうであるし、スポーツ教育等は、身体性との密接な関係が必要とされるだろう。芸術等も身体性を強調したものはかなりある。


 次に資本制生産様式中心部の頭脳労働と身体労働との関係を考えてみる。これこそが検討すべき最も重要な問題である。まず、全体的、一般的に考えてみると、その形態は非常に多様性がある。直接に関係している場合もあるし、間接的に関係している場合もある、また、ほとんど関係ないといった場合もあるだろう。しかし、その直接的関係性は、資本制生産様式周辺部の頭脳労働と身体労働との関係と比べてみると、比較にならない程密接なものであることがわかる。さらに局所的なところに着目してみると、その関係性は決定的なものになる。一つの組織、会社の中で、頭脳労働と身体労働とがある場合は、頭脳労働の、決定、企図、指示、情報は決定的に身体労働を規定する。逆に身体労働での問題点が、頭脳労働にフィードバックされて頭脳労働の要素ともなりうる。頭脳労働のみを扱う会社でも他の会社との取引等によって、他の会社での身体労働に大きく影響をおよぼし規定することもありえるのである。


 ここで資本制生産様式中心部における身体労働と頭脳労働との関係について、一般的な法則を提示してみたい。それは、「ある身体労働には、それに先行する頭脳労働が、必ず存在する」ということである。もちろん、これは膨大な事例を提示することができる。『資本論』の中で示されている具体例を挙げてみると、紡績工が行う身体労働は、その紡績工を雇った資本家の紡績工場を運営する、という頭脳労働が先行して存在したわけである。このことは、マルクスが分析したような、身体労働内部における頭脳労働的要素とは別問題である。例えば、「労働過程の終わりに出現するのは、その開始時点にすでに労働者の表象のなかに、つまり観念として存在していたものにほかならない」。これは明らかに身体労働内部の頭脳労働的要素を述べたものである。資本家の頭脳労働は、この労働者の頭脳労働的要素のある意味、延長線上にあると考えることもできる。それでも、資本家の頭脳労働と労働者の頭脳労働的要素の間には、決定的な分断があるとみなさなければならない。これは紡績という労働過程の分業の形態であり、どちらかが存在しなければ片方も存在しないという相互依存の関係にある、といえるだろう。これは現代においても同じように、あらゆる身体労働と頭脳労働との関係にいえることである。自動車のライン生産に携わる身体労働者の労働は、その自動車を開発、設計した頭脳労働者の労働が先行して存在することによって初めて成り立つことができる。また、開発した頭脳労働者の労働はライン生産に携わる身体労働者の労働によって、初めて現実の商品として市場に流通させることができる。両者は密接な相互依存関係、共同関係にあるといえるのである。


 さらに、この法則について考えてみると、その逆は成り立つだろうか。「ある頭脳労働には、それに先行する身体労働が、必ず存在する」これもある意味では正しいといえるだろう。ただし、その直接性には決定的な違いがあり、それが両者の非対称性を際立たせるのである。上の法則が直接成り立つのは、例えば、身体労働の結果を計算するような経理などの仕事である。ただしこれは全体から見れば少数であり、大部分は次のような関係が成り立つだろう。例えば、自動車の開発生産を考えてみると、まったく新しく起業した会社でない限り以前に生産したモデルが存在する。それは大量生産され、市場に流通し、会社に利益をもたらし、経営していくことを可能にするのである。新しく開発する頭脳労働のグループは古いモデルを参考にして、改善した方がよい点、或いはさらに魅力ある商品にするために、様々な試行錯誤をしながら開発していくわけである。そのため古いモデルの顧客からの要望なりを収集する必要も生じてくる。つまり、新しいモデルの開発に対し古いモデルを生産した身体労働者の労働は、先行して存在した労働だとみなすことができるだろう。しかし、規定性という面でそこには決定的な差異が存在する。古いモデルを生産した身体労働者の労働は、新しいモデルを開発する頭脳労働者の労働に対し、それを可能ならしめ存続させる、という点で決定的に規定している。しかし、それ以上の様々な細部に至る、具体的な車のスタイルや、内装や、エンジンの型式、排気量、様々な装備や、車体の色という頭脳労働の内容に対してはほとんど規定性を持たない。それに対して、新しいモデルを開発する頭脳労働はそのあとに続く身体労働を決定的に規定するのである。それは細部に至るまで、許容される範囲以内の誤差等を除いて頭脳労働の結果の通りに仕事を進めなければならない。

 

 第4節 『資本論』における労働、労働者とは?

 

 ここから『資本論』に戻り、今までの議論を踏まえたうえで、様々な検討をしていきたい。まず、最も基本的な「労働、労働者」は厳密には何を意味しているのだろうか。これは余りにも一般的すぎて、考える必要もなくわかったような気になってしまう。しかし、これは詳細に考えていくと、よくわからなくなってくるのである。先に挙げた資本主義社会の労働の五つの形態は、常識的にみると当然全て労働とみなしてもよいはずである。ところが、『資本論』を読んでいくと、この労働という意味はかなり限定されて使われているように思われてくる。例えば次のような文である。
 
 彼は自然に存在する物のなかに自分の目的を実現する。彼はこの目的を知っており、この目的は法律のように彼の行為のあり方を決定し、彼はこの目的に自分の意思を従属させなければならない。しかもこの従属はばらばらの行為ではない。労働する諸器官の行使のほか、目的に向かう意志が注意力という形をとって現れ、それが労働の全継続期間を通じて必要とされる。しかも労働自体の内容や手法が労働者にとって魅力に欠けるものであればあるほど、つまり労働が肉体的精神的諸力の遊戯として労働を楽しむ度合いが少なければ少ないほど、この意志はいっそう必要になる(2)。
 
 以上のことは、資本制生産様式中心部の身体労働のあり方を示しているとみなして間違いないだろう。つまり、先に挙げた自動車工場におけるライン生産に携わる身体労働者はまさにこのようなものに該当する。自動車を開発設計した頭脳労働者の労働の結果は、身体労働者にとっての目的となり、彼はこの目的をよく知っている。この目的は法律のように彼の行為のあり方を決定し、彼はこの目的に自らの意思を従属させなければならない、ということになる。次に、「労働自体の内容や手法が労働者にとって魅力に欠けている」とか、「労働が肉体的精神的諸力の遊戯として労働を楽しむ度合いが少ない」というのは明らかに身体労働者の立場に立った見方である。(ただしこれは、マルクスから見ての話であり、実際に労働者自身がどう考えているかはわからないところであろう)しかし、以上のことは例えば、自動車を開発設計した頭脳労働者に当てはめてみるとどうだろうか。彼には当然、あるレベルの自動車を開発しなければならないという合目的的な仕事が要求されている。しかしこの目的は、法律のように彼の行為のあり方を決定しているわけではないし、自らの意思を従属させるということには違いないのだが、そこにはかなりの自由度があるといえるだろう。さらに、労働が精神的諸力の遊戯として労働を楽しむ、ということもある程度いえるのではないだろうか。(個別のケースに様々なものがあるだろうけれども)頭脳労働に対しては労働の自由度が少なくなればなるほど、その労働に対する集中力、意志が必要になるとは限らないのである。また、資本制生産様式周辺部の労働を考えてみると、上記の文に当てはまる部分があるにせよ、明らかに異なることがわかる。農業や漁業はそれに従事する労働者の行為のあり方を、法律のように規定しているわけではない。頭脳労働のなかには、労働が精神的諸力の遊戯として労働を楽しむ、という側面が大きい労働も存在するのである。もちろん、この一文だけから判断するわけではないけれども、『資本論』全体を通じて「労働、労働者」は資本制生産様式中心部の身体労働、労働者にかなりの程度限定されているように思われる。


 辞書で「労働」という言葉を引くと、「体を使って働くこと。特に賃金や報酬を得るために働くこと。また一般に働くこと」「人間が道具や機械等の手段を利用して労働の対象となる天然資源や原材料に働きかけ、生活に必要な財貨を生み出す活動」とある。また、「労働者」は「自己の労働力を他人に提供し、その対価によって生活する者」とある。以上のような定義からは身体労働という意味合いが強いが、労働一般ということは当然、頭脳労働も入ってくるだろう。これは身体労働か頭脳労働かという問題を考える際に、文脈によってどちらとも取れるようなかなり曖昧なものといえる。これは現代の日本語においての話であり、マルクスの時代におけるこの言葉の使用法はどのようなものであったのかは、専門家でない私にははっきりとしたことがわからない。しかし、現代の日本語の意味からそう大きく隔たっているとは思われないので、その定義に従って考察を進めていくことにしたい。



 (2)カール・マルクス『資本論 第一巻 上』今村仁司 鈴木 直 三島憲一訳、筑摩書房、2005年、264頁


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