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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> スターリン主義の形成 9 

 

 『スターリン主義の形成』

 

 第5章 アポトーシス全体主義論

 第1節 全体主義論へ

 

 前章まで、「マルクス主義の解剖学」に基づいてロシア革命からスターリン主義形成までを考察してきた。「能力の壁」に抵触することは、全体的に発達した個人の途方もない能力が要請される。その不可能性から、階級としてのプロレタリアート独裁→社会主義社会→共産主義社会への移行は巨大な壁にぶち当たったように立ち往生してしまう。しかし、社会主義革命により、もはや後戻りの利かなくなったボリシェヴィキは前進していくしかないのである。それはまず、マルクスのいう資本制生産様式の否定を現実化することであり、次に高度な生産力を達成することによって社会主義社会への基盤を作ることであった。だが、そのためには資本家に代わる官僚による階級社会が形成されていき、計画的、司令的経済が構築されていった。そこでは共産主義社会へ向かう本来のプロレタリアート自身による経済の運営ということは、まったくの空文になってしまったのである。これがイデオロギーの原理的矛盾の現われであり、そのことによって党内や社会に鋭い対立関係が生じてくる。それを押さえ込むための弾圧、テロルが際限なく肥大化していったのである。革命の初期にはイデオロギーの敵に対するイデオロギー外部破壊が進行する。しかし、それが達成されても革命の過渡期が終わることはない。次に内部対立によるイデオロギー内部破壊が進行し続ける。イデオロギーの原理的矛盾が解決されることはない―これはすなわち革命の過渡期が永久的に続く・・・あるいは別の表現をすれば革命の過渡期などというものはなく、これが本来の姿なのである。全体主義体制と呼ばれたものが完全に固定化されて続いていくことになる。


 この章のタイトルは「アポトーシス全体主義論」である。これはまったく新しい造語であり、従来の全体主義論から区別するために付けられたという意味もある。アポトーシスの意味は次の節で説明することとし、ここでは今までの全体主義論について若干触れることにしたい。全体主義論は第二次世界大戦以前からいい始められ、戦後冷戦期にイデオロギー的な意味が極めて強い使われ方をした。だが、全体主義論の歴史についてはここでは深入りしないことにする。また、この概念についてのさまざまな問題点が多く議論されてきたが、それにも触れないことにする。本論はこれら問題点に対する応答の意味もあるが、そのことを特に論じることはしない。スターリン主義との比較で常に論じられるナチズムも多くを論じない。本質的な規定を考察する際にナチズムは比較対照されるのにとどめたい。


 20世紀を代表する二つの全体主義「ナチズム」、「スターリン主義」はその表面上の類似性から共通の要素が強調され、同じ全体主義の中にくくられることが多い。しかし、その本質的な差異についての追及は十分なされてきたとは言い難い。その理由のひとつはスターリン主義がその根本となるイデオロギーとの関係において、極めて逆説的な展開を遂げてきたという点にあるだろう。しかし、静態的な構造において両者は根本的に異なっている点が指摘されてきた。それが階級構造に対するアプローチである。すなわち、「ナチズム」のイデオロギーは階級構造を垂直に分割することによって、階級構造それ自体は維持しながら、それを民族、人種という生物学的根拠によって区分けするということである。アーリア人を最高のものとし、反対にユダヤ人を存在してはならないものとしての絶滅の対象とする。スラヴ人はアーリア人の奴隷として生きていくことはできる。イデオロギーが目的とする状態に達すれば、別の階級構造に編成されるが、最初の起点においてはそれぞれの階級構造を垂直に分割しているのである。


 ボリシェヴィキ、「スターリン主義」のイデオロギーの目的は階級構造を水平に分割し、ブルジョワジーの階級を絶滅することによって、プロレタリアートのみの無階級社会を実現することであった。しかし、結果的に官僚による階級社会がブルジョワ社会よりも強い階級構造を持つことになり、階級間の抑圧やそれによる疎外が大きくなった。この目的と結果の大きな隔たりにより、「スターリン主義」の全体主義をイデオロギーとどう関連づけるかは極めて難しい問題になったのである。しかし、ロシア革命における初期の目的が、階級構造を水平に分割することであり、それを基準にして社会を構成し、運営していこうとしたことは間違いのない事実である。その結果いかんにかかわらず、このイデオロギーは階級構造を水平に分割することを本質とすることは確実にいえることである。このように「ナチズム」は階級構造を垂直に分割する―これを右翼全体主義と呼び、「スターリン主義」は階級構造を水平に分割する―これを左翼全体主義と呼ぶことは一応の妥当性を持っている、といえるのではないだろうか。


 アポトーシス全体主義論は、全体主義全体を対象にするのではなく、その中の左翼全体主義―その代表が「スターリン主義」―を対象にする全体主義論だということである。これは左翼全体主義に特化された分析であり、「ナチズム」を代表とする右翼全体主義は対象としない。アーレントの『全体主義の起原』はこの二つの全体主義を扱ってはいるものの、そのタイトル通りの「起原」を解明しようとしたのは「ナチズム」に対してであり、「スターリン主義」あるいはボリシェヴィズムに対しては、その追及は極めて不十分なものであった―このような指摘がなされている。これはこの書物が書かれた過程からして当然のことであるが、アーレントはこの欠点をよく自覚していたので、この著作の発表のあとマルクス主義に対する研究をかなりしたようである。本論はちょうどこの部分に相当する「全体主義論」でもある。

 

 第2節 アポトーシスのメタファー

 

 アポトーシスとは生物学で用いられる用語であり、社会学で使われることはほとんどない。アポトーシスとは細胞内の遺伝子により、あらかじめプログラムされた細胞死のことである。アポトーシス(apoptosis)とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理、調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死のことである。これに対し、血行不良、外傷などによる細胞内外の環境の悪化によって起こる細胞死は、ネクローシス、または壊死と呼ばれ、これと区別される。多細胞生物の体内では、癌化した細胞(その他内部に異常を起こした細胞)のほとんどは、アポトーシスによって取り除かれており、これにより、ほとんどの腫瘍の成長は未然に防がれていることが知られている。また、生物の発生過程では、あらかじめ決まった時期、決まった場所で細胞死が起こり、これが生物の形態変化などの原動力として働いている。この細胞死もアポトーシスのしくみによって起こる。例えばオタマジャクシからカエルに変態する際に尻尾がなくなるのはアポトーシスによる。人の指の形成過程も、最初は指の間が埋まった状態で形成され、後にアポトーシスによって指の間の細胞が死滅することで完成する。さらに免疫系でも自己抗原に反応する細胞の除去など重要な役割を果たすのである。


 人の指の形成過程に着目してみると、胎児の段階で「個体発生は系統発生を繰り返す」ことにより、進化の過程を再現するといわれている。生命進化は長い間、海の中で進んできた。それから陸上に上がる段階で水と陸の両方で生息していた時期がある。この時、ひれや指の間に水中を進むのに必要な水カキが形成されている。胎児には初期にこの水カキがある。それがアポトーシスによって指の間の細胞が自殺していき、生まれる時には完全に本来の手となっている。しかし、ごく稀にこのアポトーシスの遺伝子に異常がある遺伝病があり、新生児になっても水カキが残っていて、指と指が完全に皮膚で癒着しているのである。この場合、手術によってしか治らない。


 このアポトーシスの概念を社会学にメタファーとして適用するのが、本章の特質である。このようなメタファーが適切であると思われるのは、このイデオロギーによる構造力学が意識されるものとしてより、無意識的な、深層心理として作用しているという特性から来ている。これは人種主義を特徴とするナチズムと比較してみるとよくわかる。ナチズムの場合は、これよりもはるかに意識的であり、その行動はその言説とほとんど一致している。ユダヤ人を絶滅させるのにアポトーシスという概念を使うのは不適切であるし、そのような必要もないのである。アポトーシスは生物学用語であるがゆえに、社会学から見ればより無意識的であり、意志から隔たった自然法則である、という側面もある。これが、左翼全体主義を説明する上で適切な微妙なニュアンスをもたらしてくれることを期待するのである。スターリン主義形成に至る共産党や社会における言説と行動の乖離の関係を表現してくれるのである。


 私が左翼全体主義、スターリン主義形成の構造を解明するうえでアポトーシスをメタファーとして使用するというアイディアを思いついたとき、偶然にも社会主義、共産主義を考察する上でこのアポトーシスを使用している文献に出会った。これはソ連崩壊後、ロシア革命からスターリン主義形成に至る過程を批判したマルクス主義思想家いいだももの著書『20世紀の<社会主義>とは何であったか』の中で使われているものである。これは社会主義、共産主義社会が形成される時の「国家権力の社会による再吸収」と同じ意味に使われている。これが本章の考察と非常に面白い対照をなしているので、それを取り入れて検討することにしたい。その文章とは次のようなものである。


 マルクス的共産主義は、価値形態に抽象化される価値増殖運動の動源である〈商品・貨幣・資本〉の究極的廃絶、したがってまた市場原理・競争原理・効率原理の究極的廃絶を価値目標としているだけでなく、国家の死滅、政治の死滅をも価値目標としている。「社会的精神を以てする政治革命」を革命の基本理念とするマルクス的共産主義=運動は、そのような政治革命そのものを通ずる政治の消滅、そのようなコミューン型権力そのものを通ずる国家の死滅、権力の死滅、権力の廃絶、といった自己矛盾・自己革命・自己死の内在化を歴史的特性としており、マルクス的共産主義=運動における国家論・政治論はまさに、あらゆる近代政治=ブルジョア政党政治から裁然と本質的に自己区別するそのような特性においてこそ際立っているとしなければならない。


 自己死を内在化させている有機的組織体とは、現代生物学的比喩を用いるならば、アポトーシス(自死)の機能・機構をもつ組織体であろう。歴史的構成物である〈国家〉や〈政治〉は、やがてネクローシス(壊死)にせよ、アポビオーシス(寿死)にせよ、死滅せざるをえないものであるが、アポトーシスを内在させた共産主義=運動はそのような将来社会を先取しているのであり、共産主義者党が権力主義におちいらないための究極の思想的保障もまたそこに存するのである。生体を正常に生々発展させるための特定の「プログラムされた細胞死」=アポトーシスが順当に死滅をとげてゆかない場合には、T細胞白血病、慢性関節リウマチ、癌、自己免疫疾患、エイズ等の 症状が生体にあらわれるにいたるともされている。イモムシのサナギから蝶への成長転化にしても、オタマジャクシがカエルに変態する際の尻尾の消失にしても、アポトーシスの「おかげ」といってよい。個体の形成、生体のホメオタシス、種の保存といった生命現象の根幹にかかわる機能を、アポトーシスは果たしているのだ。


 マルクス的共産主義は、当然のこととして、政治(政治社会)よりも生活(生活社会)の方が、深くて広くて大きいことを、前提にしている。〈共産主義〉として価値目標化される社会は、商品社会ばかりでなく、国家社会もそこにおいては無化しているような社会として、主体社会であり、自治社会であるのであって、そのような共産主義社会は類的存在としての人間が営む生産・生活関係がいわば直接に透明に流露する社会にほかならない。われわれが資本制社会という階級関係・国家関係のなかに現に生きている以上、まさにそのような共産主義的価値目標へと向けて政治闘争を展開しなければならない以上、ただ単に観念的に「生活は政治より底深く大きい」という抽象的テーゼをくりかえすことは、自称「生活者」概念に居直って政治から逃亡していることを合理化するだけで、何事も言ったことにならない空虚な詐話にしかすぎないが、こうしたマルクス的共産主義の原理そのものは、共産主義者自体において政治・政党の政治権力を相対化することに役立つ。この相対化の原理を欠く場合には、「社会的精神を以てする政治闘争」といえども、いつでも・どこでも目的と手段の顛倒が起こりうるのである。政治的国家を廃絶するための国家をめぐる政治闘争という自己矛盾的本質をもつ「マルクス主義的政治」は、まさにその原点において自己相対化の契機を内包しているといえる。過渡期としてのプロレタリアート独裁そのもの、共産主義的政治結社(政党)そのものが、予めアポトーシス(自己死)の機能を内的にプログラミングしていなければならない所以である(13)。


 以上の引用文を批判的に検討してみよう。本論では、すでに大局的には結論が出ている問題であるが、それを一度、脇において、異なる角度からこの引用文を考察することにする。これはソ連を批判するマルクス主義者、共産主義者全体に感じることなのだが、このような批判的言説は一体「誰に」向かって、具体的に「何」を「どうしろ」と言っているのだろうか?レーニンに対してだろうか、トロツキーに対してだろうか、スターリンに対してだろうか、ボリシェヴィキの上層部に対してだろうか、ボリシェヴィキ全体に対してだろうか、それともソ連国民全体に対してだろうか、それは極めて不明瞭である。そして、アポトーシスというメタファーを使うことは別の側面も考えられる。それはイデオロギーを遂行する主体にとって、アポトーシスはイデオロギーそのものに内的にプログラムされてある、ということを意味している。とすれば、そのイデオロギーそのものの思想、理論の中にプログラムされてあることになる。そうすれば、「アポトーシスがプログラムされていなければならない」―という批判の相手はマルクスということになるだろう。ところが、このように言うマルクス主義者の中に、そのように考えている人はいないということなのである。このような批判の矛先をマルクスに向けることは、マルクス主義者ではないことを意味するらしい。つまり、そもそもこの批判の言説は「誰に」向かって述べられたものかよく分らないのである。


 アポトーシスがプログラムされてある(あるいは、プログラムされていない)主体や有機体にとって、アポトーシスは自らの意思の範囲の外側にある。例えば、先に挙げた胎児の段階で指の間にある水カキが死滅していくアポトーシスの遺伝子に異常がある遺伝病の患者にこのように言ったとしよう。「このように指と指が皮膚で癒着しているのは、胎児の段階で作動するはずのアポトーシスが働かなかったせいである。遺伝子にアポトーシスがプログラムされていなければならないのだよ」。すぐにわかるように、この遺伝病の患者にとってこれはどうにもならないことである。この患者の意思や努力、そのようなものの力の及ぶ外側にそれはすでに決まったものとして存在しているのである。同じことは、ボリシェヴィキに対してもいえることになる。もし、革命後の努力によってそれがどうにかなるものなら、アポトーシスというメタファーはあまり適切ではない、ということになるだろう。それは具体的な「何を」「どうしろ」を考えなくてもよいという口実にもなる。だから、アポトーシスのような概念を使う場合、その批判の矛先は理論を作り出した根源、マルクスその人に向かうのは必然なのである。ところが、マルクスをそのことによって批判するのはマルクス主義者としてタブーなのである。ここまで来ると非常に矛盾した観念的な感じがしてくるだろう。


 さて、このような批判点があるが、この引用文によって示されたアポトーシスをここではアポトーシスBと呼ぶことにしよう。なぜBなのかといえば、第1章 第1節で示されたスターリン体制形成の解釈の二つの立場、AとBのうちBの立場に対応しているからである。つまり、アポトーシスBが起きなかったのはマルクスの理論に原因があるのではなく、それ以外の客観的条件、あるいはスターリンの裏切りといったものに原因を求めているからである。そもそもこのような著作は、マルクスに原因があるとは微塵も考えていないような論調で全体の議論が進められているのである。そうすると、スターリン体制形成の解釈Aの立場に対応するアポトーシスAがあるのではないかと想定されるかもしれない。実はこれこそが本章の中心となる問題である。

 

 第3節 経済的グローバルブレイン

 

 ここから「能力の壁」のラインを越えた社会、唯物史観における社会主義社会、共産主義社会、アソシエーション社会、そして、その社会を構成する全体的に発達した個人、アソシエイトした個人を詳しく考察していきたい。「マルクス主義の解剖学」第10章 左翼全体主義 第1節 構造、で考察されたことであるが、そこでは簡略的に示すことに止めてあった。具体的なスターリン主義形成を考察してきたこの段階で、再度詳細に検討していくことにしたい。重複となる部分もあるが、ここは本論で最も重要であり、難解なところなので詳しく論じていくことにしたい。すでに今まで示された通り、この領域は社会学の領域ではない。これはまったく常識に反することである。1世紀半に及ぶマルクス主義の歴史において、長い間まったく当然のように社会学、その中の歴史、経済、政治などの問題として論じられてきたのである。資本制生産、市場経済の分析と批判の否定形としての共産主義社会は、具体的に論じられたことはなく、非常に抽象的な概念にとどまっている。なぜ具体性がないのか、という批判に対して、マルクスはそのような具体的な姿を描くことは無責任なことであり、それを抽象的な規定にとどめることは学者としての良識であると考えていた―このような好意的な見方がされてきたのである。しかし、これ自体が的外れであることはもはや明らかなのである。共産主義社会の具体性とはいったい何なのか―それは何時に起きて、何時間仕事をする、そのような問題ではないのである。その具体性とは知識や情報がどれくらいの速度で、ある脳から別の脳へ伝達されるかという数字で示される尺度なのである。


 それは資本主義、市場経済、分業、階級構造をもった社会に対して天文学的な数字になる。その数万倍、数億倍、あるいはそれ以上かもしれない。これは通常、まったく非現実的なことである。しかし、社会学以外の領域まで広げさまざまな可能性を考えた結果、本論では脳と脳がダイレクトで結びつくような情報伝達が社会全体で達成されるような状態をその可能性として考察した。つまり、脳内のさまざまな領域がクオリアの表象、志向性の発現、無意識的な運動の制御などを担い、それらがひとつに統合されるように、社会全体がそのような統一されたひとつの頭脳になるような状態である。まさにこれは想像することが極めて困難な状態であるが、それは膨大な知識、情報が明確なクオリア、意識を持って表象されなければならないという点に表れている。


 従来のニューエイジ系の思想においては、これだけ明確な意識としてグローバルブレインが考察されたことはほとんどないといってよい。その大部分は無意識的な領域に手がかりを得ているからである。これはユング心理学の「集合無意識」とも関連している領域である。しかし、共産主義社会を実現させるためには、このような曖昧な無意識では話にならないことはいうまでもない。つまり、経済を成立させるためには情報は完璧でなければならない。それは明確なクオリア、意識として表象されていなくてはならないのである。そこで本論では、従来のニューエイジ思想でいわれた無意識的な、曖昧なグローバルブレインと共産主義社会、アソシエーション社会を実現するために必要な意識的なグローバルブレインを区別するために、意識的なグローバルブレインを「経済的グローバルブレイン」と呼ぶことにした。


 ここで誤解されやすい論点を再度明確にしておきたい。それは「経済的グローバルブレイン」は、唯物史観の対抗概念として提示されているものではない、ということである。「経済的グローバルブレイン」は唯物史観の未来社会を成立させるために、身体労働と頭脳労働を統合させるための論理的帰結である。それは情報伝達の超高効率化を実現させるためには、現実の脳から脳への伝達経路、末梢神経、筋肉、感覚受容体を経ていたのでは到底、不可能だという結論から来ている。それはある意味、唯物史観の未来社会論を今まで論じられたことのない別の側面から補完したものだといえる。


 それでは唯物史観と経済的グローバルブレインは、哲学的な問題ではどのように関係してくるのだろうか。これは非常に複雑で逆説的な論理構造を持つ難解なものである。まず、唯物史観の哲学的な立場、それは当然「唯物論」である。この立場からすれば常識的には経済的グローバルブレインのような情報伝達は、まさに非科学的なものであり、唯物論にまったく反するものである、このようにみなされるだろう。(ここでは「唯物論」「観念論」の哲学そのものの問題には立ち入らないことにする)しかし、現代の心脳問題においてクオリア、意識とそれが生ずるための脳内の物質的状態との間に完全な同一性はないことは明らかなのである。それは明らかに非局所的な性質を持ち、それが脳外に拡張されるという可能性はゼロとは断定できないだろう。その場合でも、物理法則に抵触することはない、と思われる。もちろん、これは歴史ではなく進化論的タイムスケールでの話であるが。


 最大の問題は、マルクス主義、唯物史観の理論体系の中に知識、情報に関するアプローチが希薄であることである。資本制生産における身体労働を成り立たせる知識、情報を司る頭脳労働の領域は、当然それに対応している物理的、物質的な状態がある。管理職や技術者、事務職を考えてみれば、外的な状況としては専門的な書物、資料、さまざまなデータが記載される書類、計算機、パソコン、さまざまなものがある。内的にはそれらの人々の身体、特に脳が中心になることはいうまでもない。それらのニューロンの状態、結合パターン、神経伝達物質の状態などが物理的な基盤として存在している。当然、それらは最終的には、それを構成している分子や原子に行き着くだろう。身体では水素、酸素、炭素、窒素、カルシウム、カリウム、マグネシウム・・・これらは身体労働者も頭脳労働者も等しくいえることである。すなわち、これら知識や情報は物理的、物質的な基盤を持っている。これを無視するものが唯物論であるはずがない。そうなると、とてつもない逆説的な状況になる。唯物史観の体系の中にまったく唯物論を無視している重要な領域がある。これはもう観念論の極致といえるだろう。


 これが体系性の持つ難解さ、あるいは恐ろしさともいうべきものである。体系のなかに10の要素があり、そのなかの9までが唯物論に立脚した科学的なものであったとしても、残りのひとつが観念論のなかの完全な形而上学だったとしたら、その体系のすべてが形而上学に転化してしまうのである。それは唯物論の外観を持ちながら、その内実は観念論の極致ともいうべきものになってしまう。唯物史観はまさにそのようなものである。そして、それを補正した結果、導き出された結論が「経済的グローバルブレイン」ということになる。経済的グローバルブレインの物理的、物質的基盤は物質的使用価値に直接対峙している労働者、プロレタリアートのみとなり、その頭脳労働領域を担うのはそれらの人々の頭脳だけとなる。つまり、今までその頭脳労働領域を担っていた上の階層、階級の人々、システムは完全に消滅している。プロレタリアートはその頭脳労働領域の全システムをまったく何もない空中に構築しなければならないのである。それが個人と個人の脳がダイレクトで結びつき、それらの知識、情報を伝達し、処理し、意思決定、合意形成をおこなう超絶した能力を持ったプロレタリアートなのである。すなわち、共産主義社会、アソシエーション社会、全体的に発達した個人とはこのようなものである。


 そして、社会主義革命によってそのような社会に至るということは、上部の階層、階級が破壊され、消滅していく。最初にブルジョワジーの階級が破壊され、消滅していき、次に残った階層が先に検討したアポトーシスBによって消滅していくということになる。ここでも革命によるブルジョワジーの物理的弾圧、破壊が次のアポトーシスを生じさせるという因果関係として設定されてある。これが「増幅された能力転移」として今まで幾度となく考察されてきたことである。これが正しいかどうかは、もちろん論ずる必要はないだろう。

 

 第4節 イデオロギー超有機体へ

 

 いうまでもなく「経済的グローバルブレイン」は非現実的なものである。社会主義革命後の社会においても、それ以外のどの社会においてもこのような能力を持った人類が出現したという報告はない。それにもかかわらず、この社会を強引に目指し続けたらどのような事態になるか・・・それがこれから検討すべきことである。超巨視的なレベルにおいての結論は次のようなものであった。「経済的グローバルブレイン」の最も本質的な属性はこの地上にひとつの脳しかない状態を実現させることである。ひとつの脳というのはメタファー的な意味合いを持つが、現実にそれと等価、あるいは極めて近い状態を意味している。しかし、現在の人類は到底そのような状態には達しえない。そうするとこのグローバルブレインの代替作用が起こる。つまり、現在の人類の能力内において「経済的グローバルブレイン」にできるかぎり近い状態を目指すことになる。同じく、この地上にひとつの脳しかない状態を目指すのである。それができるかどうかということは問題ではない。無制限の権力を握った共産党があらゆる手段を使って、この状態を目指すことになるだろう。


 ここで重要なことは、このイデオロギーを遂行している主体にとって、この「経済的グローバルブレイン」も、その代替作用もまったく意識されることはない、ということである。それは深層の論理であり、その深部から突き動かされるマリオネットになるのである。イデオロギー遂行の主体にとって意識は、この無意識によって常に規定されている。本人の意識にとってそれは不可解であり、不条理であってもそれに従わざるをえなくなる―そのような状況に陥るのである。


 経済的グローバルブレインは「能力の壁」を克服した状態であることは、すでに明らかにされてきた。これを克服できる能力を得られなければ、その代替作用が起こることは絶対に避けられないのである。その代替作用の結果、「経済的グローバルブレイン」はどのように変形されるのか・・・これは論理的必然性を持って導くことができる。それは第一にまったく等しい本質的属性―ひとつの脳を社会全体に実現させることである。つまり、社会全体の成員の中で対象にされるべき人格的存在としての脳はひとつしかない状態である。現実の社会においてそれに最も近い存在は、無制限の権力を手に入れた独裁者であることは容易に導きだせることである。しかし、これはまず、現実的な考察ではなく、理念的な形態として考察しなければならない。その理念的な形態をここでは「イデオロギー超有機体」と呼ぶことにした。


 それはピラミッド型の社会の階層構造の頂点に、絶対的な1人の人間がいて、そこから社会全体にくまなく指令を発し、あらゆる部分の情報をすべて手にする―そのような存在である。それは社会全体を統一的なひとつの有機体として捉え、頂点に立つ1人の人間の「脳」から伸びる末梢神経として、それ以外の社会の成員が構成されるような形態である。そして、物質的使用価値に対峙する労働者は筋肉、手足となるだろう。また同時にそれは感覚受容体であり、それらの情報は神経系を伝わって頂点にあるひとつの脳に正確に伝わらなければならない。中間の階層を構成する成員もすべて情報を入力、出力する神経細胞と同じ存在なのである。


 経済的グローバルブレインとイデオロギー超有機体は対極的な存在だといえるし、また本質的に同一な属性を持っているともいえる。両者の関係はいまだかつてないような両義性を持っているといえるだろう。経済的グローバルブレインはその成員のひとりひとりが、まさにマルクスがいった人間的解放の状態を実現しているといえる。それは当然、ひとりひとりが人格的存在として認められているのである。しかし、それは「能力の壁」を克服出来た場合にかぎり認められるものなのである。もし、それが出来なかった場合はどのような事態になるか。社会主義革命の成功によってもたらされたイデオロギー遂行状態は、客観的な情勢、その他もろもろの要素に関わりなく「ひとつの脳」に向かう強力な動力学が作用し続ける状態なのである。それが経済的グローバルブレインの代替作用として、イデオロギー超有機体が形成されていく動因である。この法則が必然的にもたらす状態は、社会を構成する複数の脳のうち人格的存在としての脳はひとつだけとなり、それ以外の脳を非人格化することである。つまり、(ある特殊な意味における)完全な平等は達成されるのである。選ばれたひとつの脳以外の脳は平等云々の対象ではなくなったからである。これがマルクス主義、共産主義、唯物史観の行き着く現実的な「平等」である。もちろん、これは極限的な遂行状態を推し進めた場合にかぎりたどり着くものであるが―これは完全に法則としての論理的帰結である。

 

 「能力の壁」を克服できる→経済的グローバルブレイン

 

 「能力の壁」を克服できない→イデオロギー超有機体

 

 もちろん、いうまでもないことだが唯物史観からみた場合、イデオロギー超有機体は縁もゆかりもないどころではなく、まさに対極的な状態である。これが唯物史観論者の意識、主観であることは明らかなことである。しかし、「能力の壁」を克服できなければこの状態に向かうしかないのである。ここでさらに次の問題が生じてくる。経済的グローバルブレインはまったく非現実的なことであるが、イデオロギー超有機体も同じく非現実的なものであることは自明である。そもそも、社会構成員が神経系とまったく同じような存在になるなどということはありえない。イデオロギー遂行が極限的に推し進められる状態は、イデオロギー超有機体に向かう強力な力学が作用している。しかし、イデオロギー超有機体と現実の社会、人間存在との間には絶対的な隔たりがある。この隔たりをギリギリのバランスを保って統合しようとする状態、それが現実の全体主義体制だというのが本論の結論なのである。

 

 

(13)いいだもも 『20世紀の<社会主義>とは何であったか』 論創社 1997年 385~387頁


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