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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> スターリン主義の形成 8 

 

 『スターリン主義の形成』

 

 第4章 スターリン主義の確立

 第1節 スターリン主義の確立

 

 1930年代に農業集団化、工業化5ヵ年計画を通してソ連の社会主義は確立されていったとみなされている。そしてそれは農村に想像を絶する悲惨な状況をもたらし(600万人ともいわれる餓死者)、工業化は農民から徴収した農産物を輸出することによって成し遂げられた。しかし、それは公式発表とはかけ離れた非常に無駄が多く、内容の伴わないものであったのである。それでも、ソ連の工業はかなりの発展を遂げた。大恐慌に喘ぐ資本主義諸国に対して、社会主義建設の熱気に溢れる局面であった。共産党内部では、この成果に対するスターリンへの公然たる、あるいは密かな批判、反発が生じてきた。1934年の第17回党大会は共産党とスターリンの勝利を宣言する勝利者の大会といわれたが、スターリンは自分に対抗する勢力の存在を敏感に感じ取り、その殲滅を密かに決心したと言われている。その年の12月に政治局員キーロフの暗殺事件が起こり、これを口実にスターリンは反対派、あるいはその潜在的可能性のある者の弾圧、撲滅作戦を開始したのである。幾つかの段階を経た後、まずジノヴィエフ、カーメネフが見世物裁判の後、処刑された。さらに赤軍の重要な位置にあったトハチャフスキーら司令官、将校を大量に処刑し、1937年から38年にかけて一般国民からさまざまな階層にかけて大量テロルの嵐が吹き荒れた。ボリシェヴィキの古参党員が、次々とまったく身に覚えのない陰謀を告白し銃殺されていったのである。この時期のテロルの犠牲者は70万人とも100万人ともいわれている。また同程度の人が強制収容所送りとなり、その大部分が生きて帰ってくることはなかった。スターリンはこの人類史上類例のないテロルによって、まさに絶対的な独裁者の地位を固めたのである。


 ロシア革命からスターリンの権力確立まで、歴史のかなり詳細な具体的細部まで立ち入って、イデオロギーとの関連で解釈を進めてきた。これはそのような必然性があって、歴史叙述をしてきたのであるが、1930年代に入ると様相がかなり変わってくる。歴史の具体的細部を検討してもイデオロギー的解釈はほとんど均一なものになっていく。もちろん、この時期は農業集団化、超工業化、キーロフ暗殺、大テロルともっともスターリン主義確立のダイナミックな、そして理解することの困難な重要な時期であるが、それ以前の1920年代末のスターリン権力確立までの時期と比較すると、すでに基本的な方向性は定まっているのである。この歴史の具体的細部をイデオロギー分析の対象として行くことは、同じことの繰り返しが多くなり、また多くの叙述が必要になってくる。本論は歴史書ではなく、イデオロギーの視点からソ連体制形成、スターリン主義形成を解釈することを目的としている。そこで、もっとも重要と思われる大テロルに焦点を絞って、それを中心に考察を進めていきたい。この時期の研究は多くなされ、またソ連崩壊以降多くの資料が公開されている。さらに、自叙伝など体験を記したものも多い。他の詳しい歴史叙述、歴史的解釈はそれらの文献に任せることとし、本論は今までに示されたことのない、まったく新しいスターリン主義形成の解釈を示していきたい。なお、本論にもっとも適合的な邦語文献は(マーティン・メイリア著『ソヴィエトの悲劇』第六章、第七章)(リ・バンチョン著『スターリ二ズムとは何だったのか』第四章)などである。


 イデオロギー遂行決定論―イデオロギー遂行の内的、外的条件が満たされ続ければ、必然的にスターリン主義に至る。この論証はすでにかなりの程度、なされたものと考える。すでに見てきたように、イデオロギー遂行に関するある歴史事象が起こったときには、そうなるべき萌芽はそれ以前の段階にすでに内在しているのである。このイデオロギー遂行において、それはほとんど必然的に連関していることがわかるのである。それはこのイデオロギーが、生物学的基本能力に抵触している・・・自然科学的厳密さで決定される因果関係をもたらすからである。そして、これは他のいかなるイデオロギーとも異なるものであるということを、いくら強調しても強調し過ぎることはない。これを決してイデオロギー一般論と考えてはならないのである。ロシア革命からこのスターリンの権力確立まで、当然、蓋然性が存在するがそれはイデオロギー遂行の内的、外的条件が満たされなくなることの蓋然性なのである。スターリンが権力を確立した1930年代におけるイデオロギー遂行の条件が満たされなくなる蓋然性は、もはやほとんどないといってもいいのである。(スターリンが急死する、というようなことがないかぎり)このイデオロギーをどのようなことがあっても徹底的に遂行することがスターリンの不動の決意である。それがどのような結果をもたらすか―それをこれから解明していくことにしたい。

 

 第2節 大テロルの様相と問題点

 

 まず、大テロルの事例を取り上げることにしたい。これは大テロルによって、人生を断ち切られた人の簡略な物語であるが、それがどのような状況で、どのような経過をたどって起こったのかを知ることは有用である。そのことは本人だけでなく、家族、友人、知人にどのような影響を及ぼすかということも重要である。これはこの時期の70万人といわれる犠牲者のたった1人の事例である。そしてこのようなことは、この時期以前も、以後も規模こそ小さくなったが決してなくなることはなかったのである。そしてこのテロルは、レーニン時代のテロルとその形態、性質が異なったものになっていることにも注目したい。レーニン時代のテロルとスターリン時代のテロルはどのような本質的な異同があるのだろうか。それは、レーニン時代のテロルがイデオロギーの敵、すなわちイデオロギーの外部に向かって放たれたものであるのに対し、スターリン時代のテロルはそのようなはっきりとしたイデオロギーの敵に対してではなく、イデオロギー体制への内部に向かって放たれたテロルである、ということである。これを「イデオロギー外部破壊」と「イデオロギー内部破壊」として区別することを示してみた。この差がまたレーニンよりもスターリンを非難する主要な要因となっている。つまり、「ブルジョワジーを殺るのは良いが、身内を殺るのはけしからん」というわけである。この問題についても解明を目指すのが本章の目的である。


 人民の敵アレクサンドル・ユーリエヴィチ・チヴェリは、1937年3月初旬のある日、ソ連秘密警察の銃殺班によって処刑された。世界をゆるがすこともなかった一日だった。■アメリカのジャーナリスト、ジョン・リードの一〇月革命見聞記「世界をゆるがした10日間」をもじった表現。
 

 一介のジャーナリスト、編集者、中堅どころの幹部にすぎないチヴェリは、どうみても当時の重要公文書に特記されるような人物ではなかったし、スターリン権力の中枢にいたわけでもない。しかし、そうだからこそ、いうなればごくありふれたソヴィエト人の典型として、この人の身の上は語るにあたいする。チヴェリは、なんらかの理由で、あるいは理由などなしに、1937年と1938年に処刑された70万人近くの市民のなかの一人となった。これらの人はすべて、「反革命」とおぼしきさまざまな分子を排除して共産党とソヴィエト連邦を浄化するという名目で、多くは裁判その他の法的手続きをふまずに、処刑された。チヴェリの経歴は、スターリン時代のテロの縮図でもある。


 チヴェリは、世紀があらたまる直前にバクーで生まれた。そこからほど遠からぬところで、若き日のスターリンが非合法革命家として活動しはじめていたころである。両親はさる外資系会社につとめるホワイトカラーだった。辺境のユダヤ人家庭に生まれたため、一生うだつがあがりそうもないと思われたが、しかしアレクサンドルはあたまのよい子で、幼いころから英語、ドイツ語、フランス語を勉強し、使いこなせるようになっていた。


 政治にも関心をもち、16歳でバクーのシオニスト学生組織に加盟した。ロシア帝国の非ロシア地域で政治に積極的にかかわるユダヤ人など、支配体制側はほとんど相手にしてくれなかった。そういう不利な立場にありながら、18歳で高校を卒業、将来の進路を考えていた。卒業の年がたまたまロシア革命の年、1917年だったことが、運命のわかれ目になった。


 この年の劇的なもろもろのできごとのなかで、どんな役割を演じたか、さだかではないが、1918年には、チヴェリはピャチゴールスク・ソヴィエトの軍事部に、つづいてボリシェヴィキ新政府のモスクワ宣伝局に勤務していた。同年末、ソヴィエト政府の通信社ROSTA〔ロシア電報通信社、タス通信社の前身〕の編集局にはいり、内戦期(1918―21年)にはROSTAおよびソヴィエトのいくつかの新聞の通信員としてモスクワ、ヴォルガ地域、タシケントで活躍した。編集者としての実力と語学力のおかげで、そういう才能のある人をのどから手がでるほどほしがっていた新政権にとって、貴重な人材となったのである。


 内戦終了後、アレクサンドル・チヴェリは編集者、執筆者としてモスクワの共産主義インタナショナル(コミンテルン)で働き、そこでエヴァ・リプマンと出会い、結婚した。1925年レーニングラードに移り、「レニングラーツカヤ・プラウダ』紙外報部員となったが、1926年モスクワにもどり、共産党中央委員会書記局と中央委文化・宣伝部で編集の仕事にたずさわることになった。共産党の出版物のために働いてきたのに、チヴェリは党員ではなかった。しかし、中央委機関での新しい仕事につくために、党籍が必要となった。編集者としての経験と語学力を高く買われていたので、中央委の特別指令で、ふつうは党員候補期間が必要なのに、それをとびこして1926年12月にいきなり正規の党員として入党をみとめられた。その後の10年間、チヴェリはモスクワの党本部でずっと働きつづけ、中央委国際情報局の局長補佐のポストを占めるにいたった。


 表面を見るかぎり、チヴェリの履歴には非の打ちどころがないように見えた。電報のあて先をまちがえたとか、党員証を紛失したとかいう些細なミスで、三度譴責をうけたことはあったが、履歴にこの種の小さな傷をもつのは、党員としてぺつにめずらしいことではなかった。しかし、舞台裏では党の最高指導者たちが、下級職員の履歴をいつになく綿密に調べていた。政治上の異論を申し立てた人びと、あるいは政争に敗れた人びととの仕事のうえでの関係が調査され、悪いほうに解釈されることが、ますます多くなった。チヴェリの過去には、この種のうたがわしい関係が二度あった。1925年、レーニングラードにいたころ、左翼反対派グリゴーリイ・ジノヴィエフの追随者たちと一緒に働いたことがあった。悪い時期に悪い場所にいたものだ。というのも、当時ジノヴィエフはレーニングラードの党のボスで、当然ながらチヴェリの働いていた新聞も、ジノヴィエフ支持者たちの監督下にあったからだ。さらに、1936年まで国際情報局でチヴェリの直接の上司だった人物は、かつてのトロツキスト、1920年代にスターリンを痛烈に風刺し批判したことで知られるカール・ラーデクだった。


 ジノヴィエフその他の旧左派の1936年8月の見せしめ裁判の余波で、疑心暗鬼は頂点にたっした。異端者たちには死刑が宣告され、裁判のあおりをうけて、ラーデクのように左派に加担した人びとは、きびしい詮議をうけるようになった。8月末にラーデクは逮捕され、同時にチヴェリも秘密警察(NKVD)に連行された。妻と幼い息子は、これ以後二度とかれに会うことがなかった。


 チヴェリはその後六カ月にわたって獄中で尋問をうけた。取調官が拷問をくわえたかどうかはわからないが、ほかの多数の人が拷問を受けた証拠はじゅうぶんにある。高官でさえ勾留中になぐる蹴るの拷問をうけた。のちのモロトフの言をかりるなら「したたかにやられた」のである。10年後に警察の一高官が、スターリンあての手紙のなかで取り調べの実情を述べている。まず、自白すればその見返りに食事、文通などの面で待遇を改善してやるとの条件が、被疑者に提示される。うまくいかなければ、つぎに被疑者の良心にうったえ、家族を案じる心情にうったえる。つぎの段階では、運動もさせず、ベッドもなく、タバコも吸えず、眠ることもゆるされない独房に最大20日間もとじこめ、食料は1日300グラムのパンだけ、温かい食事は3日に一度だけとなる。ついには、1939年1月10日付けの中央委決定によって、「肉体的圧力」の行使が認められた。こういった処遇は、もっと後の、多少手こころがくわえられるようになった時期の話だが、チヴェリが拘禁されていた1930年代の実態が、これよりなまやさしいものだったとは、とうてい思えない。


 1936年、スターリン指導部の妄想は、さらに肥大した。左右両翼のかつての党内異端派が、逮捕の大波に巻きこまれた。外交官グリゴーリイ・ソコーリニコフ、重工業人民委員部次官ゲオールギイ・ピャタコーフをふくめて、過去に反対派に属したことのある多くの高名なボリシェヴィキが投獄された。全員が妨害工作、スパイその他さまざまな反逆行為など、奇想天外な罪名で告発された。ポリシェヴイキ・エリートは自滅の道をすすんでいた。


 チヴェリが働いていた中央委員会の奥の院の内部でも、疑心暗鬼は正気のさたとは思えぬほどにふくれあがった。そういった妄想の波のひとつのなかで、党中央機関の勤務員、トーロポヴァ、ルキーンスカヤという名の二人の若い女性が、懇親パーティーでチヴェリと一緒にいるのを見かけたことを、だれかが思い出した。党統制委員会議長の要職を占める高官M・F・シキリャートフは、さっそくNKVD〔内務人民委員部〕にメモを送って、この二女性についてチヴェリに尋問するよう要求し、「われわれはチヴェリのダンスの相手となった全員を確認することができないでいる」と不満を表明した。


 1937年3月7日付けでNKVDは、アレクサンドル・チヴェリは二女性に罪を着せるような供述はなにもおこなわなかったむね回答した。しかし最高裁判所軍事合議部は、ボリシェヴィキ指導者たちの暗殺をねらうテロリストの意図を知っていたのみならず、みずから「エジョフ[NKVD長官N・I・エジョフ]にたいするテロ行為を準備した」かどでチヴェリに有罪を宣告した。おそらくチヴェリは即日処刑されたのだろう。NKVDの残虐な拷問をうけた他の多くの人びととはちがって、かれはついに自白しなかった。


 だが、チヴェリの物語は、これで終わりではない。個人をのみこんだテロは、その家族をも破壊した。チヴェリ逮捕の直後、妻エヴァは「政治的理由で」仕事をクビになり、これが履歴の傷となって、どこにも就職できなくなった。まもなくモスクワの公共集合住宅のフラットからも追い出され、「路頭にまよう」はめとなって、病弱な幼い息子をつれて実家の母親の超満員のフラットにころがりこんだ。しかし1937年4月、エヴァ・チヴェリとその息子はモスクワから追放され、遠いシベリアのオムスク州に流刑となった。母親もフラットを追い立てられ、娘や孫とともに流刑にされた。おそらく二人をかばったためだろう。


 1937年10月、こんどはエヴァ・チヴェリがオムスクで逮捕された。トボーリスク刑務所に八カ月収監されたのち、NKVD特審部(この機関はなんら犯罪をおかしていない人びとにまで判決を下す権限をもっていた)によって、「祖国にたいする反逆者の家族」であるという理由で八年間の収容所入りの宣告をうけた。テロによる狂暴な人間関係破壊は、これにとどまらなかった。エヴァ逮捕の直後、NKVD係官がエヴァの母親の住居にやってきて、チヴェリの九歳の息子を孤児収容施設に連行した。やっと母に再会できたとき、息子は20歳代のなかばにたっしていた。


 収容所で8年の刑期をつとめあげたのち、他の多くの人と同様に、エヴァはさらに8年のシベリア流刑の追加宣告をうけた。スターリンが死んだ1953年になって、やっと釈放され、モスクワにもどった。


 エヴァはすぐさま、亡夫の名誉回復をもとめる運動をはじめた。1930年代のテロによって何十年も苦しみつづけたほかの何百万の人びとと同様に、25歳の息子もまた「人民の敵の子」という公式のレッテルをあいかわらず貼りつけられていた。1955年初頭からエヴァは「わが子の父親にたいするこの誤った判決の取り消し」と、アレクサンドル・チヴェリの死後名誉回復をもとめて、各方面に手紙を出しはじめた。再審は、はかばかしくすすまなかった。そこでエヴァは、犠牲者の未亡人、肉親、元囚人たちの団体にくわわり、公正な裁定をもとめて役所をめぐり歩いた。1957年5月23日、チヴェリの処刑の20年後に、そしてエヴァが多くの手紙や嘆願書を書きまくったのちに、ようやくチヴェリの判決と党除名処分は取り消された。最高裁の決定は、いつも多くのことがらを隠蔽してきたあの簡潔な言語で、1937年の判決は「矛盾した信用できない資料にもとついたものであった」と認定しただけだった(11)。


 この大テロルの表面上の様相は、レーニン時代のテロルといかに大きく違うものであるか、この事例だけでもよく理解できる。内戦と区別することも難しかったレーニン時代は、逮捕、処刑は公然たるものであったのに対し、スターリン時代のテロルは通常、逮捕は真夜中の秘密警察による連行であり、外部から見えないところで尋問、拷問が行われ、処刑は密かに執行され、遺体は関係者以外誰にも知られないように処理されている。このことで、残ったものたちにあたえる恐怖は想像を絶するものがあるだろう。いつ自分の番になるか分らないのである。密告が奨励、あるいは強制され、人々は自分以外の誰も信じられないような、ばらばらな原子へと分解されていく。体制に絶対服従でなければならないが、たとえそうしたとしても命が保証されるわけではない。どれだけ体制のイデオロギーに従順であり、支持していたとしても、どれだけ体制に貢献したとしてもそれが何の保証にもならないのである。つまり、真に安全が保障されているのはスターリンただ1人である。しかし、スターリンの主観からすれば、いつ暗殺されるか分らないという強迫観念に付きまとわれていたのである。現実にその危険がどれだけあったかは別問題であるが・・・


 大テロルに関わる謎は、あまりに多く、多岐にわたるがそのいくつかを列挙してみよう。まず、その巨大な規模であり、なぜこれほどまで人的損失が生じたのかということである。それも、共産党の最上層部である政治局員から中央委員、それ以外のすべての階層の共産党員、赤軍の司令官、将校、下士官クラスに至るまで、社会全体で重要な位置を占めるさまざまな職業の人々、学者、知識人、テクノクラート、さまざまな専門職からまったく最下層の労働者、農民に至るまで、さらにテロルを執行している秘密警察の幹部、職員までテロルの標的になっている。それは明らかな政治的敵・・・そのほとんどはすでに弾圧され、撲滅され、国外に追放されている・・・だけでなく、そのような履歴を持った人、何らかの関わりを持った人々まで拡大されていく。社会全体にあたえるダメージは巨大なものになった。それは体制にとっても非常な損失であり、ダメージになったはずである。それにもかかわらず、とても敵とは思えない、その潜在的可能性すらほとんど考えられないような人々さえどうしてテロルの標的になったのだろうか。スターリンとその側近たちは本当にそのように考えていたのだろうか。つまり、いまだ階級の敵は至るところに存在していると信じていたのだろうか。それとも、それは口実であり恐怖による支配を完全なものとするためだったのだろうか。それとも、この両者の中間あたりが真実なのだろうか。


 そして、なぜこれほど多くの人々が、まったく身に覚えのない陰謀を告白して、処刑されていったのだろうか。厳しい尋問、拷問、親族に対する弾圧の脅迫、告白すれば罪を軽くするという誘いなどがあったとしても、志操堅固な革命家であったものたちまで到底考えられないような罪状を認めているのである。そして、スターリンはなぜこれほど奇想天外な罪状をでっち上げることに、その意味を感じていたのだろうか。そして、そのことはソ連社会だけでなく、西欧をはじめとする諸外国において、それをまともに受け取る人々が多くいたということも、今では不思議なことである。これは当然、それらの相互関係によって成り立っているということがいえるだろう。フランソワ・フュレの『幻想の過去』で述べられている共産主義幻想は、現在とはまったく違うものであることは想像がつく。そして、かりにも大国の政治上層部で正式に発表されていることが、まったくの嘘で固められているとは信じられない・・・このような心理も働いているだろう。


 このような事態に対して、表立った反抗がほとんどなかったということも不思議なことである。助命の嘆願書が大量にスターリンのもとに送られたけれども、それ以上の実力行使のような反抗はまったくといっていいほどなかったのである。特に、赤軍の上層部は事態の危険性を認識していたにもかかわらず、その気配もなく、何ら行動も起こさなかった。ソ連崩壊後の情報公開によっても、スターリンに対する具体的な暗殺計画すら一件も発見されていない。これも驚愕すべきことである。何しろ為政者に対する暗殺はロシアの十八番であり、長い伝統がある。それなのにロシア史上もっとも暴政を働いたスターリンに対する暗殺は知られていないのである。これは30件以上の暗殺未遂があったヒトラーとは好対照である。スターリンに対する批判はあったけれども、それが暗殺という最終手段には至らなかったのである。これはおそらく、イデオロギー上の外部敵がほとんど撲滅されていた、ということが大きいだろう。これは大テロル以前からあったことであるが、批判はイデオロギー内部からのものであり、トロツキーにしろ、リュウチンにしろ、マルクス、エンゲルス、レーニン、そして党には何ら疑義を指し挟んではいない。批判の矛先はあくまでスターリンなのである。また、このテロル作戦は隠密のうちに遂行されていて、スターリンがその首謀者であるということははっきり分らなかった。盛大なスターリン崇拝が行われ、大テロルの時期ですら、社会の雰囲気はそれほど暗くなかったということである。共産党員の中には大テロルを支持するものも大勢いた。それは強制によってだけでなく、心からそう思っていたのである。


 スターリンにとって、1939年の第18回党大会は、34年の第17回党大会(「勝利者の大会」)以上にその名にふさわしい勝利者―または生き残り―の大会となった。代議員の点呼を聞けば、彼がこれまでの5年間に、まったく新しい党をいかにうまくつくりあげたかがよくわかった。34年の大会の代議員1966人のうち1108人(フルシチョフによる数字)が反革命的な犯罪で逮捕されていた。幸運にも生き残った者のうち、39年に代議員としてまた姿を見せた者はわずか59人にすぎなかった。中央委員会の委員の再編成も同じように劇的だった。34年に選ばれた139人の正規の委員と委員候補のうち115人が39年にはもはや姿を現わさなかった。フルシチョフは彼らのうちの98人が銃殺されたと報じた。しかし、メドベージェフは本当の数が110人だったと述べている。


 ベリヤはNKVDの幹部層を、前任者のエジョフに劣らず、きれいさっぱりと掃除した。フリノフスキーとザコフスキーのように、ヤゴーダの時代から生き残って、ブハーリンの裁判の準備をしたごく少数の者は、同僚たちのあとを追って処刑された。エジョフの世代も同様だった。全体として、NKVDのメンバーの2万3000人以上が1930年代末までに抹殺されたと推定されている。39年3月までには、ベリヤの部下がすべてを取り仕切るようになっていた。その典型は、彼がモスクワへ連れてきたグルジア人の部下たちだった。調査委員会による報告のあと、約5万人にたいする告発が取り下げられた。政策に変更が生じたというよりも、その適用が緩和されたことを示すジェスチュアである。エジョフが緊急の措置として行なった粛清は、ベリヤのもとで永久的な支配の手段として制度化されたのである。


 エジョフがスケープゴートに名指されたので、スターリンは進んで誤りがあったことを認める気になった。そして大会の報告のなかで、代議員たちに語った。「粛清が重大な誤りなしに行なわれたとは言えない。不幸にも、予期していた以上の誤りがあった」。しかし、彼は代議員たちを安心させた。「疑いもなく、われわれはこれ以上、大量粛清というやりかたに戻る必要はないだろう。ともあれ、1933~36年の粛清は避けることができなかったし、その結果は総じて有益であった」。


 疑いもなく不安に駆られて耳をそばだてていた代議員たちは、スターリンの言及した党からの追放が中央委員会により憲法にもとついて公認された1933~36年の時期だけのものだった事実を聞き漏らさなかったはずである。だが、1937年から38年に行なわれた粛清については、何のコメントもなしに無視された。追放され、あるいは処刑された者の数が10倍にもなり、ごく少数を除いて、裁判にかけられたすべての者にたいする判決のよりどころが、スターリンと内密に行動した一人か二人の政治局員の判断だった時期のことである。だが、報告の最後になってやっと、若い世代の急速な昇進に言及しながら、スターリンは独特のブラックユーモアで味つけしてこうつけ加えた。「しかし・・・・・いつの世にも古参のカードルは必要な数よりも少ないものだ。彼らのような階級は、自然の法則が働いてすでに間引かれはじめている」(12)。


 この引用文の最後でスターリンが言ったブラックジョーク、「古参のカードルは自然の法則が働いて間引かれはじめている」はまさにスターリン主義解明の中心となる問題なのである。


 かつての左翼反対派も右翼反対派もそのほとんどが絶滅させられた。生き残った古参ボリシェヴィキはほとんどがスターリンの側近中の側近、忠誠を尽くしてきた子分たちだった。1人国外に亡命して、スターリンと体制にペンによる猛烈な攻撃を続けていたトロツキーは1940年8月、亡命先のメキシコで、ついに身辺に潜入していた工作員によって暗殺された。主だった体制の反対者はこの地上から一掃されたのである。


 まさに1930年代は、ソ連の各時期を通じて最大の弾圧、テロルの時代となった。農業集団化は農民の抵抗を押さえ込むために、大量餓死が生ずるのを知りつつ穀物を取上げ、移住を制限した。クラークはシベリアの奥地へと追放され大勢が死んだ。強制収容所に大量の囚人が送られ、過酷な強制労働によって多くの人命が失われた。民族単位の強制移住も大規模に行われた。移住先は到底、生活していけないような場所がほとんどだったのである。直接の逮捕、銃殺はそのなかの一部分なのである。

 

 第3節 スターリン主義形成の考察

 

 これまでの考察により、権力が絶え間なく一個人へ集中していくメカニズムが論じられてきた。まず、ボリシェヴィキはマルクス主義、共産主義を原理主義的といえるほど信奉し、狂信していたという事実は、その歴史の結果がそのイデオロギーが目指すものとあまりにもかけ離れているという理由によって、えてして軽視されることが多い。パイプスのような歴史家でさえそのような傾向にある。しかし、多くの資料はボリシェヴィキのイデオロギーを共産主義の真摯な実践であると証明しているのである。それは1920年代、レーニンが活躍した時代から、それ以後の党内闘争の激しかった時期も、それがスターリンの権力確立から30年代の社会主義へ突進した農業集団化、超工業化の時代、さらに大テロルの時でさえそれは一貫している。ソ連崩壊後、公開された議事録などの多くの内部資料が示していることは、彼らが大衆に対して述べているイデオロギー的言説と同じことを共産党員に対しても、そして上層部の幹部たちの間でも、お互いに言い合っているということである。大衆に対して述べていることと、仲間内で言っていることの間にはまったく差異はないのである。まさにこれはイデオロギーを大衆操作の口実に利用しているということではなく、自分達もこのイデオロギーの虜になっていることを意味している。


 このことはスターリン主義形成が、ロシアの伝統的な専制体制の復活である、とはいえないことを結論づけるであろう。このイデオロギーとロシアの専制体制はあまりにも異なるものである。つまり、このイデオロギーの実践がロシアの専制体制と共通の要素を持つことになったのは、別のところに理由を求めなければならない。それは今まで問題とされてきた「全体主義論」の課題でもある。アーレントは「全体主義は今までのいかなる専制政治とも異なるものである」といったが、本質的にどこが異なるのかということは極めて難しいアポリアであった。スターリン主義がナチズムと同様な全体主義であるという問題は、両者の本質的な同一性、差異性の問題と関わってくる。さらに、スターリン主義をイデオロギーからの逸脱とみなす「ソ連=国家資本主義論」のように農業集団化、工業化、果ては大テロルまで特殊な資本主義の収奪の一形態にすぎない、というような捉え方は問題外である。「マルクス主義の解剖学」はたとえ何人であろうとも、このイデオロギーの正真正銘の実践においても、その目的とする状態に達しないことを証明したのである。


 すでに明らかなように、社会主義、共産主義イデオロギーを遂行することは、資本主義イデオロギーとは異なり、経済と政治が緊密に一体化する。経済は行政と一体化し、行政は党の独占的支配となり、党は国家と一体化する。党の中心には権力を一手に握る少数者がいて、さらにそのなかの1人の人間に権力は収斂していく。この権力の中心化作用は、このイデオロギーの原理的矛盾から生じたそれまでの権力形成とは根本的に異なるメカニズムによっているのである。最終的にこの原理的矛盾は1人の人間、それはすなわちひとつの脳によってしか止揚出来ないからである。権力が多数者に均等に存在すると、必ずイデオロギーの原理的矛盾から対立する二つ以上の関係が生じてくる。しかし、このイデオロギーの重要なもうひとつの側面、高度な生産力を維持するためには高い階層秩序による経済の統制、運営が不可欠になる。これは一枚岩の統率が取れた党によってしか運営出来ないのである。しかし、このイデオロギーは階級構造そのものを否定するがゆえにそのことを絶対に認められない。絶対的な統制とそれを絶対的に否定する対立関係、まさに究極的な内部破壊が進行することになる。この破壊を防止して、イデオロギー遂行状態を保持し続けるためには、この矛盾を一手に引き受けてすべての権力を握る独裁者が必然的に要請されるのである。


 トロツキーをはじめとする左翼反対派は、遅かれ早かれ駆逐される運命にあった。しかし、トロツキーが最後までスターリンに対する攻撃をやめなかったのは、このイデオロギーを信奉する共産主義者として当然のことであっただろう。スターリンは国外に追放されたかつての革命の英雄を軽視することは決してなかったのである。それはスターリンがロシアの専制体制を復活させる、という目的は微塵もなく、同じくイデオロギーを信奉していたことを物語っている。だからこそ、イデオロギー上の攻撃に対して非常に敏感になったのである。トロツキーの国外で発表される出版物にスターリンは激怒したと言われている。トロツキーの身辺にスパイを送り込み、常に監視を怠らなかった。1937年に出版されたトロツキーの『裏切られた革命』は、フランスでの出版よりも先に、スターリンのデスクの上に全文のコピーが届けられていたという。ヴォルコゴーノフはこれがスターリンに大テロルを決意させた引き金になったのではないか、と推測している。


 このスターリン体制に対する左翼反対派、それ以前には労働者反対派からの批判、攻撃は基本的にはすべて古典的マルクス主義に沿ったものである。そしてこの批判、攻撃は現代においてもその本質はほとんど変わらないと思われる。マルクス主義者、共産主義者、唯物史観支持者は同じような批判を繰り返している。しかし、これこそがこのイデオロギーの原理的矛盾の表出であり、そのことによってこの対立関係は絶え間なく増大し、そして最終的には肉体的抹殺によってけりがつけられるのである。この運動そのものがスターリン主義、スターリン体制を形成していく原動力となる。反対派の存在は、内部敵として体制に潜伏するものと捉えられ、それを殲滅するために超法規的な措置が次々と正当化される。それがこの恐怖政治を最大限に強化していくことになる。体制に逆らうことなど夢にも考えられないような状態になるまでそれは続けられることになるだろう。つまり、マルクス主義に沿った正当な批判はスターリン主義形成の重要な要素のひとつになるのである。それをすればするほどスターリン主義は強化されていくことになる。


 ブハーリンらを中心とした右翼反対派も、当然反対の側面から内部敵とみなされることになる。これはそのまま資本主義を利するもの、日和見主義者として断罪されることになる。ネップを長期に継続するような、富農との提携を重視する政策はもはやイデオロギーに反するものだとみなされたのである。右翼反対派は自分達の誤りを認めさせられ、転向を強いられた。党を絶対のものとみなすボリシェヴィキ共通の心性は、自分達の政策を転向しても党に残る方を選んだのである。しかし、農業集団化、工業化の悲惨な状況が明らかになっていき、党内は緊張の度合いを増していった。スターリンは疑心暗鬼になり、左翼も、右翼も、自分に反対する気配を見せたものも殲滅しなければならない―このように決意するに至ったのである。これは、自分を神のような存在として見る若い党員とは違うレーニン時代からの古参ボリシェヴィキの大部分を含むことになった。彼らはスターリンを指導者として認めても、絶対的な独裁者とみなしてはいなかったのである。


 スターリンの妻の自殺やキーロフ暗殺から緊張が激化していき、スターリンは大量弾圧へとエスカレートしていった。これらのことやその当時の状況から、キーロフ暗殺の首謀者はスターリンではないかという疑念があった。しかし、これは確たる証拠がなく難しい問題のようである。状況的にはスターリンは黒にしか見えないが、ここではその問題には深入りしないことにする。このような偶発事によって歴史は左右されていくように見えるが、ここでは深部で絶え間なく大きな力学が働き続けている。それがイデオロギーの原理的矛盾から来る権力の中心化作用である。これは普通の社会学で想定される権力の問題を大きく超えているのである。これはアポトーシス全体主義論で再度論じられることになる。


 1930年代は宗教、教育、文学、芸術といった文化的側面も大きく変わっていった。教育は帝政時代に比べると広く普及していき、文盲率は低下していった。これは共産党による政策の正の側面であるが、共産党のイデオロギーを教え込むという目的があった。文学や芸術は相対的に自由があった20年代に比べると、イデオロギー上の統制が厳しくなっていった。イデオロギーに反するもの、あるいはその可能性があると検閲されたものは、発表することを禁じられ、作者は職を失うことになった。体制に媚を売る作品が多くなり、文学、芸術はその活力を失っていったのである。このイデオロギーはそれ以前のあらゆるイデオロギーより、その矛盾が大きく原理的なものである。社会、世界の真実を追求するという文学、芸術の本領は当然、圧殺されざるをえない。イデオロギーの矛盾の暴露を許容することは体制にとっての破滅を意味する。至高の指導者であるスターリンの言説が唯一正しいものとみなされ、社会全体でそれが無数に反復されていくことになる。それに反するものは反革命、反ソヴィエトであり破滅が運命づけられるのである。言葉と現実の乖離はますます広がっていき、人々は二重思考の中で生きていくしかなくなったのである。


 しかし、この1930年代は混乱と非効率であったとはいえ、かなりの程度の工業化が達成された。それに伴い以前に比べて物質的な豊かさは上昇し、生活環境の改善が見られた。それは革命後の教育を受けた若い世代を中心に、新しい特権階級が形成されていき物質的な豊かさを享受できるようになったのである。それ以外の一般大衆の生活改善は遅く、特権階級との階級格差は非常に大きなものになっていった。新しい特権階級はスターリンに従順であり、神格化することに積極的であった。この階級は大テロル以降、社会の中心的な階級となり後にノーメンクラツーラと言われるソ連の官僚制を担うことになったのである。


 また、この時代は革命直後の禁欲的な雰囲気から、ブルジョワ的な雰囲気へと変わっていった。スターリン指導部が認めた文化活動、娯楽などが奨励され、大都市を中心に明るい雰囲気がかもしだされるようになっていった。宗教に対する統制は依然として厳しかったが、祝日などはある程度復活することが許された。そのなかで、空前絶後の大テロルが進行するというまさに想像を絶する社会が出現したのである。

 

 

(11)アーチ・ゲッティ、オレグ・V・ナウーモフ編著 『ソ連極秘資料集 大粛清への道』 川上洸 萩原直訳 大月書店 2001年 3~7頁
 

(12)アラン・ブロック 『ヒトラーとスターリン 第2巻』 鈴木主税訳 草思社 2003年 273、274頁 


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