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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> スターリン主義の形成 7 

  

 『スターリン主義の形成』

 

 第3章 ネップからスターリン大転換へ

 

 第3節 左翼反対派との論争

 

 トロツキーら反対派を追い落としたスターリンは、次にそれまで同盟を組んでいたジノヴィエフとカーメネフの追い落としにかかった。(一般的にこのように表現されることが多いが、実際は複雑な対立、宥和の過程を経ているのであり、一概にスターリンの策略に返すことは無理があるようである)そこでもスターリンは単独では行動せず、ブハーリンら右派と同盟を結んでいた。もっともブハーリン側は右派といっても穏健左翼というのが内実であるが。それまでスターリンはトロツキーに照準を定めていたので、必然的に政策論争の立場はその反対のものとなっていた。それがブハーリンとの協調関係を結ぶのにも好都合だったのである。ここでも権力闘争と政策論争の組み合わせがスターリンに有利に働いていることがわかる。これはスターリン個人の力でどうにもならないことでもあるので、ここまでうまくいくのは不思議な気もする。ジノヴィエフとカーメネフはスターリンと対立が起こったとき、はじめて権力の基盤に大きな隔たりが生じていることに気が付いた。そこでこの2人は最近まで敵だったトロツキーに接近し、合同で左翼反対派を形成したのである。


 ・・・誰もが驚いたことに、なによりも先ず、当の本人たちが驚いたのだが、「新」反対派は「左翼反対派」が言った批判を一部繰り返さざるをえなくなってしまった。そのため党員大衆の眼には、彼らは党内クーデターを起こそうとしている「ニ流のトロツキスト」に見えた。まもなく彼らはトロツキストの陣営に数えられる。ジノヴィエフとカーメネフは1923年に始まった「レーニン派」との闘争で正しかったのはトロツキストだった、と公然と認めた。明らかに、トロツキーとブロックを組んだ2人は党が彼らを「真の中央委員会」とみなすことを、期待したのである。


 1926年、中央委員会および中央執行委員会の7月総会で、「合同反対派」の代表者たち、つまり、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ピャタコフ、クループスカヤたちは反対派ブロックの綱領ともいえる声明を発表した。案の定、彼らがこの声明で力説していることは「工業の集中化」と「貧農の連帯」、「分派の温床」となっている党機関の官僚的変質との戦い、それらが死活問題であるということ、そして、「それにおける社会主義建設の勝利がヨーロッパと世界プロレタリアの奪権闘争の進展とも帰結とも不可分に結びついていないなどといういかがわしい新理論を放棄する」よう公然とを要求している。彼らは断言している―「我が国の社会主義はヨーロッパと世界プロレタリアの革命、及び、帝国主義のくびきに対する東洋の戦いと不可分に関連し、勝利するであろう」。トロツキズムは死んでいなかったようである。


 反対派はあらゆる可能性を追求して自分達の正しさを示そうとした。秋口にはそのリーダーたちは党機関の集会で公然たる反撃に出始めた。しかし、彼らのモスクワとレーニングラードでの「細胞巡り」の結果は惨憺たるものだった。彼らは党員大衆の側から決定的な反撃をくらった。反対派は退却せざるをえなくなった。10月16日、リーダーたちは中央委員会に声明を出し、自分達の考えの正しさはあくまで主張するが、「分派活動のへの過ち」は完全に認める、と伝えた。声明は反対派が党のポストを維持したいという願望の公開宣言であったが、それは今後の闘争に必要だと思われたからである。が、彼らの意に反して中央委員会および中央執行委員会10月総会は、先の7月の同総会決定で政治局メンバーから外されていたジノヴィエフをコミンテルン議長の役職からも解任することを決定した。また、トロツキーを政治局メンバーから、カーメネフを同候補から解任することも決議されている。


 「合同反対派」のトロツキストたちの批判はますますスターリンの社会主義論に集中していき、その結果、ソ連での社会主義建設の可能性の問題が党内思想闘争の主たる基準となっていた。スターリンはそこに注目し、第15回党協議会(1926年10月26日から11月3日)で、彼の反対者は社会民主的偏向だと非難した。「マルクス主義はドグマではなく行動の指針である」が、トロツキストは西欧の社会民主主義者と同じく教条主義者である、とスターリンはいう。エンゲルスが『共産主義の原則』の中で「プロレタリア革命はどこか一国で起こりうるか?」という問いに「ノー」と答えているのは、資本主義諸国の不均等発展という情況がまだなかった前独占資本主義時代には根拠をもっていた。が、一国での社会主義の勝利の可能性は帝国主義時代における資本主義の不均等発展の法則から生じるものであり、この法則と、それに結びついた、一国で社会主義革命が勝利しうるとの命題は、帝国主義時代になって初めてレーニンによって提起され、また、されることが可能になったのである。これこそレーニン主義が帝国主義時代のマルクス主義である所以である、とスターリンは力説する。レーニンの「忠実な弟子」は、トロツキストの根本的な過ちはエンゲルスの旧い定式にしがみつき、ソ連での社会主義の勝利の可能性を否定するところにある、という。


 しかし、すでに失うものが亡くなった「国際主義者」たちはスターリンの理論に公然と反対した。ジノヴィエフはコミンテルン第7回拡大中央委員会で社会民主主義の非難を採択せず、「われわれの展望は世界革命の展望である!」と高らかに宣言した。マルクス主義とレーニン主義の伝統は完全に自分達の側にあると確信していたトロツキーも、ソ連は「世界プロレタリア革命を通じてのみ社会主義に近づきうる」と明言した。工業をヨーロッパの水準にまで引き上げるのは「かなり困難」だと考えていた反対派は、実際、ソ連での社会主義の勝利を信じていなかった。その意味で彼らを「敗北主義」とする批判にはそれなりの根拠があったといえる。が、彼らがエンゲルスの公式にのみ依拠していたとは言えない。彼らは独自の理論的根拠をもっていたのである。それについては1926年12月中旬に書かれたトロツキーの論文が興味深い。


 永続革命論者は書いている。スターリンの理論の擁護者は「閉ざされた」社会主義の勝利を宣言しているが、社会主義を建設するためには、つまり、ハイレベルの工業を実現するばかりでなく、その工業を基礎に農業をも社会化するには「4分の1世紀以上」が必要であろう。一国社会主義という問題は、本質的には、ヨーロッパのブルジョア体制が不確定長期にわたって存在するという予測を出発点として立てられている。次にトロツキーは一国社会主義についての「盲目的なオプティズム」「ヨーロッパ革命に関する許し難いペシミズム」に由来する、と指摘している。トロツキーはスターリンの展望が根拠を持たないことを明らかにしようとしている―「資本主義の包囲のもとで数十年にわたり孤立した社会主義建設を最後までやり遂げるために必要な最小限の経済的、政治的、軍事的条件がわれわれにあたえられるような、現実の歴史情況を想像することはまったく不可能である」。「本当のマルキスト」は世界革命への不信を、技術的、文化的に遅れた国での自足的な社会主義発展の構想とを結びつけることは出来ない、とトロツキーは考える。自分の正しさを疑わないこの「世界革命の賛美者」は「理論的に見込みのない」レーニンの弟子に教訓をあたえている―「われわれは息継ぎの時代を生きているのであって、一国社会主義の勝利が機械的に保証される時を生きているのではない、そのことを忘れてはいけない。息継ぎの時にはできるだけ社会主義の発展を前進させなくてはならない。問題は息継ぎ、つまり、1917年の革命と、資本主義大国のどこかで近い将来に起きるであろう革命との間の、多少とも長きに渡る期間の話であって、それを忘れてしまうことはコミュニズムを放棄することである」。


 見られるように、1923年初頭に発生したボリシェヴィキ党を指導部の意見の相違は、いまや、二つのイデオロギー、スターリニズムとトロツキズムの衝突に収斂した。より正確には、どちらもそれなりの展望を持つ一国社会主義論と永続革命論の衝突である。あとから歴史の行程を判断するのは容易である。しかし、歴史の展開の渦に巻き込まれ、時代の境目に身を置いていたものにとっては、歴史の先行きを読むことは決して簡単ではない。後年、追放時代に、トロツキズムはかなり多くの熱烈な崇拝者をえるが、トロツキズムの「生きた具現者」はレーニンの後継者として自分を聖列に加えることに成功しなかったという意味で、ソ連では敗北を運命づけられていた。これはトロツキーの罪ではない。


 トロツキズムとは、本質的に、社会主義革命の、それも世界革命の成就にその実現を見いだすところの「永続」革命のイデオロギーである。一方、スターリニズムは社会主義建設のイデオロギーであった。ここに両者の本質的な相違がある。今日となっては、一国社会主義論がソ連邦史にもたらした意義を過小に評価するのも理由のないことではない。しかし、一国社会主義論は独自の力で社会主義を建設しうるのだとスターリンがそれによって党大衆を説得しえた「コロンブスの卵」であり、ソ連史の行程を決定した将来構想であったことを忘れてはならない。もちろん、その実現にあたって、スターリンはレーニンの教義に依拠しつつ、自分の政策、理論の展開を正当化した。第20回党大会以後の風潮だが、スターリニズムもソヴィエト社会主義の暗黒面だけに結びつけるのは正しくない。スターリニズムはソ連における社会主義建設時代のレーニン主義の発展形態である(7)。


 以上の引用文中における問題点は今まで検討されてきたことであるが、この論争はスターリン主義形成におけるもっとも重要な要素のひとつになっている。左翼反対派は明らかに官僚主義の解決と世界革命とを結びつけている。これがまったくの幻想であることは今まで詳論されてきた。これでトロツキズムのスターリン主義への批判は完全に瓦解していることがわかるだろう。世界革命が仮に起きたとしても、革命が起きた場所で同様な官僚主義が形成されていくことは絶対必至なのである。しかし、この時点でスターリンを含めて誰もこのことに気が付くことはない。スターリンにしてもトロツキーの主張はよく理解できることなのである。


 マルクス主義の根本的な教義、社会主義革命からプロレタリアート独裁を経て社会主義、共産主義社会に至る。このプロレタリアート独裁は、まったくかけ離れた二つの定義を内包している。「少数者プロレタリアート独裁」と「階級としてのプロレタリアート独裁」である。そして本来、プロレタリアート独裁とは「階級としてのプロレタリアート独裁」であることは明白である。現実のロシア革命の過程で、「階級としてのプロレタリアート独裁」の政策が実行されたのは、革命直後の数ヶ月という短い期間でしかない。それは政策というより、現実の追認にすぎないともいえるのだが。その機能不全状態を改善すべく官僚機構が形成されてきたが、それ以降、ソ連崩壊に至るまで「階級としてのプロレタリアート独裁」が試みられたことは、ただの一度もないのである。スターリンはこのことにさまざまな理由づけ、二枚舌を使って対応してきたが、本当にそのことを考えていたとはとても考えられない。そして、それ以降、ソ連の指導者はまったく同じように考えてきたのである。先に検討したように、第一の退却と第二の退却はまったく異なる次元にある。取り戻すことができるのは第二の退却までである。それも闇経済の市場は完全になくなることはなかった。


 スターリンは一国社会主義論を主張していても、それが官僚主義を擁護することになるとは考えていなかっただろう。むしろ、反官僚の立場を取るがゆえに、官僚主導にならないためにも党の中に意見の対立のない一枚岩の指導体制を確立しなければならない、ということなのである。しかし、官僚体制そのものの存在を否定するということは考えられない。この二つの大きな意見の対立は、「マルクス主義の解剖学」第8章で考察されてきたイデオロギーの原理的矛盾から二つの異なった立場が生ずる―この絶え間ない連続であり、発展形態なのである。つまり、権力中枢にいる者は必ず官僚体制を中心とした上意下達式の指令システムを維持しなければならない。「能力の壁」が絶対的にそのことを要請するのである。しかし、そこから少し離れた立場の中には絶対にそのことを認めることが出来ないとする、そのような勢力が存在するのである。それはこのイデオロギー本来の目的からすれば、まさに正しいのである。このイデオロギーの本質が「能力の壁」を克服可能なものとしてとらえ、その階級関係を簡単に反転できるという途方もない妄想を基盤にするからである。そのことによってのみ本来の共産主義社会への道は展望できるからである。つまり、この二つの立場は人類史上、他に類例のないような、絶対的な、宥和不能な対立関係になるのである。権力中枢にいる者も反対派もこのイデオロギーを狂信していることに変わりはなく、現実とイデオロギーの齟齬を絶対に認められない。これによって、この対立関係はイデオロギーを放棄しないかぎり、際限なく激化していくことは必至なのである。


 重要なことは、レーニンか、トロツキーか、スターリンか、ジノヴィエフか、ブハーリンか、それ以外の誰かか、という問題ではなく、権力中枢にいる者は必ずこのような立場を取らざるをえず、その周辺部にいるものはこのイデオロギーの本来の目的からそのことを絶対に認めることは出来ない、という構造的な問題なのである。この二つの立場を見事に渡り歩いたのがトロツキーであることはいうまでもないだろう。したがって、トロツキーを検討していくことはスターリンのそれと同程度に重要なものとなる。

 

 第4節 左翼反対派の敗北

 

 5月、英国政府はソヴィエト共産党の内政干渉を激しい口調で非難し、ソ連との外交関係。貿易関係を断絶した。ヨーロッパと中国で何度も反ソヴィエト的な挑発がおこなわれた。1927年7月1日、中央委員会は国際情勢の緊迫に鑑み国の工業化のテンポを速め、労働生産性を高め、軍事力を強化することによってソ連の防衛力を上げるようにとのアピールを党と全人民に向けて出した。このような事情のもとで反対派の果てしなく続く声明、「中央委員会のテルミドール的変質」、「民族主義的反動コース」、「党の富農政策」、「党体制がすべての危険性のなかで最も危険である」等々の声明は政治局の「レーニン派」の目から見れば戦争の危機を目前にして、労働者の目から自分たちの「敵前逃亡」を覆い隠そうとするトロツキストの策動以外の何ものでもなかった。


 スターリンの中央委員会を「テルミドール反動」と非難していたのは決してトロツキー・ジノヴィエフ・ブロックだけではなかった。党内反対派全般のあいだでいわゆる「変質論」がかなり広くゆきわたっていた。その主張は以下のようである。全ロ共産党(ボ)はプロレタリアの党であることを止めてしまった。官僚主義はまだ若い未完のプロレタリア国家の歪みではなく、現在の党の基本方針である。コミンテルンは、すでに存在しない党の道具でさえなく、変質した「スターリン派支配層」の忠実な道具である。このような状況下ではプロレタリアートの独裁はフィクションであり、もはや存在しない。それは官僚機関に堕してしまっている。すべての外交政策は世界革命の基盤を広げる方向へではなく、帝国主義のご機嫌とり・革命の圧殺に向けられている。これが反対派の批判の骨子であった。


 「ボリシェヴィキ・レーニン主義者」ブロックは1927年5月に「83名の声明」を出しているが、これ以外に、最も一貫した公然たる反対派グループはサプローノブとスミルノブの代表するかつての「民主集権派」であった。彼らの主張は、以前と同じように、中心問題は党指導部の裏切りではなく、党の復興、その自立性の回復の問題であった。第15回大会に宛てた彼らの声明から判断すると、彼らの要求は、先ず第一に、第10回党大会の決定を基礎(!)に党内民主主義を実現すること、「日和見主義」と闘った廉で除名された党員を党およびコミンテルンに復帰させること、党内問題に合同国家保安部が介入するのを止めさせること、逮捕された党員の釈放、であった。スターリンが他ならぬ「ソヴィエト政権の懲罰機関」にかんしてまったく本気の決意を示しているのは注目に値する。1927年スターリンは外国の労働者代表団との会談で「国家保安部の裁判権、証人.弁護人抜きの審理、秘密逮捕」について質問がなされたとき、こう答えている「わが国は資本主義諸国に取り囲まれている。革命の内部の敵は万国の資本家の手先である。内部敵と戦うことによってわれわれは万国の反革命分子と闘っているのである。われわれはパリ.コミューンの轍を踏みたくはない。国家保安部は革命に必要である、それはプロレタリアの敵を恐れさせるものとして生き続けるであろう」(8)。


 このスターリンの言う「内部敵」とは何を意味するのだろうか。戦時共産主義期の弾圧、追放などにより資本家はほとんどロシアから駆逐された。資本主義諸国の資本家の手先がソ連内部に入り込んでいる、というのは妄想のように思える。しかし、当時の政治状況、社会状況からするとこのように考えることも理由のないことではない。これは現在の情報が入手できる状況とは違うことを考慮しなければならないだろう。すでにソ連は非合法のスパイ活動を資本主義諸国内部で行っていた。それは30年代、40年代を通じて大きな規模に拡大していったことは今ではよく知られている。自分達がすることは、相手もするだろうというのは自然な心理である。しかし、ここにはもうひとつの大きな意味がある。


 左翼反対派などの主張は、イデオロギー本来の目的に忠実であることは明らかである。しかし、それを文字どおり実行することは社会全体を機能不全状態にすることなのである。ところがスターリンは、、、というよりこの立場の誰であったとしても、イデオロギーに忠実であろうとすれば、そのことを明言するわけにはいかない。それはこのイデオロギーが誤りであるということを認めることにつながるだろう。もちろん、なぜこのようになったかはイデオロギーの原理的矛盾を証明してきた現在の段階では明瞭である。しかし、この時点でそれは決して分らないことである。この時にスターリンの心理と論理はこのような方向に向かうのではないだろうか。つまり、イデオロギー本来の目的に忠実であることを強く要請してくる勢力は、革命の成果を実はそのことによって破壊しようとする勢力なのだということである。つまりそれは反革命勢力であり、それはそのことによって利益を得る階級の手先である。その利益をえる階級とは当然、資本家階級である。だから左翼反対派は実は非常に上手くカムフラージュされた資本家の手先なのだ・・・スターリンの中には自分に歯向かう者は資本家の手先なのだ、という心理と論理が形成されていったのではないだろうか。


 1927年を通じて、党内闘争はますます激化していった。反対派は凶暴な反撃と懲罰機関の迫害にあい、ますます非合法の手段に訴えるようになった。そのため反対派は実質的に思想的に結束し、支持者を集め、スターリン派党上層部と和解出来ない反対派陣営をはっきりと形成することになった。思想闘争の中で個人的な反目がますます色濃くなっていった。1927年10月の中央委員会と中央執行委員会の合同総会でスターリンは左翼合同反対派との戦いを徹底的に推し進めた。スターリンは「組織破壊者や分裂主義者を見逃すなら事態は完全な破滅にまで行きかねない、とレーニンは語った。その通りである。まさにこのゆえに、反対派指導者への目こぼしを止め、トロツキーとジノヴィエフを党中央委員会から除名する決を下すべきだと、私は考える」といった。予想通りに、中央委員会10月総会はスターリンに名指しされた全員を中央委員会から除名した。その後ほどなく、11月中旬に、10月革命10周年記念に際しモスクワとレーニングラードで反党街頭デモを組織したトロツキーとジノヴィエフを共産党から除名し、当該機関のメンバーは、あるいはその候補だった彼らの支持者も中央委員会、中央執行委員会から除名された。スターリンは第15回党大会で反対派に思想的にも組織的にも闘いを完全に放棄することを求め、宣告した―「そうするか、それとも党から出ていくか。出て行かないならたたき出す」実際、第15回大会決議によって反対派の活動家たちは全員が―トロツキスト、ジノヴィエフ支持者がたたき出された。「労働者反対派」は大会前にその大部分が除名されていた。


 1928年1月、トロツキーはモスクワからアルマ・アタに追放になった。さらに1年後、トロツキーは反党活動をやめることをせず、トルコへと追放された。その後トロツキーのスターリンへの攻撃はやむことなく続けられたのである。


 トロツキーは一国社会主義論に基づいた政策全体を信用していなかった。農業集団化や工業化の審議の深刻さを信じていなかった。スターリンの集団化を問題にするとき、スターリンはただトロツキーの綱領を実行に移しているにすぎない、とする見方がある。しかし、トロツキーの「永続革命論」とスターリンの「一国社会主義論」にもとづく農業集団化、工業化はおのずと異なるものである。トロツキーの路線をとった場合、資本主義国との関係はまったく違ったものになるだろう。それらの国との対立、緊張は比較にならないくらい激化していく。その中で、農産物を輸出し、それによって工業化を推し進めるということが同じようにできるかといえば、それはかなり難しいことだろう。実際、それが可能になったのはスターリンの現実主義から導き出された「一国社会主義論」の路線によってなのである。社会主義建設をロシア内部にとどめるというポーズによって、資本主義国との緊張関係を緩和して工業化を推し進めるというのは非常に優れた政策なのである。それが良い結果に結びつくかどうかは別問題であるが。

 

 第5節 ネップの終焉とスターリンの左旋回

 

 ネップの効果によって、ソ連経済は順調に回復し戦前の水準に近づきつつあった。しかし、その限界が次第に明らかになっていった。工業化を推進するに当たって、一般的な資本主義国の通った道を通ることは出来なくなっていた。資本家は存在せず、外国からの資本の投下をあてにすることはできなかった。帝国主義の経済的植民地化することは、イデオロギー上まったくありえないことである。工業製品の飢餓状態が、農産物の余剰を供給させなくしているという悪循環が生まれていた。農産物を農民から供出させるためには、工業製品が大量に必要だが、そのための設備、資源が足りなかったのである。工業化を推進する唯一の手段が、農産物を徴収してその輸出によることなのである。そのための解決策として、農民を集団化させて農産物を徴収し、工業を発達させるという社会主義的原始蓄積が検討されていった。ブハーリンら右派勢力はこの案に反対であり、農民と協調しつつ、徐々に社会主義への道を歩むべきであると主張したのである。しかし、左翼反対派を壊滅させたスターリンは、今度は右派勢力に攻勢を仕掛けてきた。すでに圧倒的な権力を握っていたスターリンにとって、この政策遂行の妨げになるものはなかったといってよい。


 ネップはその第一の任務―ソヴィエト政権の強化と社会主義建設の諸前提の創設―を果たして、みごとに期待に応えた。ネップは「真剣に長期にわたって」行われたが永遠にではなかった。ボリシェヴィキがネップを導入した目的は、その基盤に立って巧妙に市場法則の効果を利用し、社会主義的計画原理を押し広げつつ、ある程度ネップの手法を用いてネップを克服することにあった。つまり、形式論理からいえば、国家経済が成功すると自動的にネップの終焉が近づくことになる。しかしネップが、とりわけ、農村での資本主義的要素の発展を可能にし、かつ、それを支えているのであれば、ネップ下での国民経済の成長が経済のなかのあい矛盾する傾向の拡大に帰してゆくことにはならない。またスターリンのいうように、ソヴィエト機構が「統合された社会主義的工業と、基本的に生産手段を私的に所有している個人農業との、二つの異なった原理」に乗っていることにはならない。国民経済のなかでソヴィエト国家が「社会主義的瞰制高地」を強化することが自動的にネップの縮小を伴うことはない、ということが判明した。この矛盾をなんとかして解決しないかぎり社会主義建設は不可能であった。


 急ぎ足の工業化と集団化路線はネップの廃止を前提としていなかった。工業化は穀物調達量の増加を求めていた。したがって、プロレタリアートと農民の同盟を維持することが必要であった。より正確にいえば、この時点では、商品穀物の主たる生産者、つまり、富農との和解が必要だったのである。5ヵ年計画をめぐって第15回大会で行われた議論の核心はまさに、国民経済の成長には「裕福な農民」が出してきた条件を勘案してどの程度彼らに軽工業製品を渡すべきか、という点にあった。しかし質問は遅きに失した。大会の前にすでに国民経済を麻痺させていた穀物調達危機は急速に悪化していた。ボリシェヴィキがネップの廃止を決断する以前に、それはソヴィエト政権に役立たなくなっていたという意味でネップの寿命は自ずから尽きていたのである。ボリシェヴィキは袋小路にいた。彼らは二つに一つの道を選択せざるをえない情況にあった。大会が示唆したように、攻勢を早めるか、それとも、退却策を講じるか、つまり、穀物価格を上げ、日用品の生産を高めてその値段を下げるか、である。


 すでに見たように、退却をめぐる問題がネップ期の党上層の議論、見解の相違、グループ分けを決してきた主たる問題であった。ネップを30年代スターリンの「上からの革命」に対置して、純粋にレーニンの政策と見ることは出来ない。もちろん、ネップの著作権はレーニンにある。が、それを深め広げることができたのは他ならぬスターリンのお陰である。彼の政策は後年歴史家がスターリンは30年代を目の当たりにして路線を急転換したと主張する口実を与えたことは確かである。そのような要素もある。しかし、レーニンがネップ時代を開いたとき、彼に全くイデオロギーの転換がなかったように、スターリニズムにも何の転換もなかったことを見落としてはならない。レーニン主義とスターリニズムの共通の特徴は非妥協的で、イデオロギー的に、目的が明確なところである。その基礎の上に二人の政策は具体的な社会的.経済的条件によって「向きを変えた」のである(9)。


 つまり、本質的にレーニンとスターリンのイデオロギー上の差異はない。これはまったく連続的なものである。ところが、この論争に関してはこの2人の差異は極めて多く指摘されるのである。その最大のもののひとつに、同じボリシェヴィキに対する弾圧、攻撃、権謀術数の駆使というスターリンの特徴がある。これはレーニンにも多少はあったことであるが、それは本質的に異なるものである―このような指摘がなされている。これは前章で検討してきたことと関連してくる問題であるが、これは一連のプロセスの進展に伴う状況の変化と関連している。これはこのイデオロギーの運動法則ともいうべきものであり、後の「アポトーシス全体主義論」につながる問題である。


 革命の初期段階においては、弾圧、テロルの対象はボリシェヴィキ以外の帝政派、ブルジョワジーの勢力に向けられる。これはイデオロギー外部勢力に対する攻撃である。これを「イデオロギー外部破壊」と呼ぶことにする。内戦はその最大の現われであるが、さまざまな意味で反革命とみなされた人々も同様であり、テロルや強制収容所送り、国外追放の対象となった。レーニンはこれを非妥協的に強力に推進したのである。しかし、同じボリシェヴィキ内部に対しては、異なる意見があってもそれを議論の中に取り込むという姿勢はあったのである。しかし、労働者反対派に対する対応に現れるように、次第にそのような姿勢を保てなくなってくる。そしてついに「分派禁止」条項を決議することになった。これはイデオロギー内部勢力に対する攻撃である。これを「イデオロギー内部破壊」と呼ぶことにする。革命が起きたときから全体のプロセスを見渡してみれば、初期においては「イデオロギー外部破壊」が大規模に推し進められ、それが成功するに従って次第に縮小していく、それに伴い逆に「イデオロギー内部破壊」が徐々に強くなっていくことがわかるだろう。つまり、レーニンがそのように見えるのは、この初期段階におけるこの二つの破壊の程度が、前者がはるかに大きいために、それは当然のようにみなされたためである。しかし、レーニンは病気によって政務が出来なくなり、やがて死去してしまった。スターリンはその権力を引き継ぐために権謀術数を駆使したといえるのだが、それとはまったく別にこの時すでに「イデオロギー内部破壊」が進展していたといえるのである。


 1927年9月、アメリカの労働者代表団と会談したスターリンは共産主義社会の構造を手短に描いてみせた。彼のイメージでは共産主義社会は次のようになる。「(a)「生産手段の私的所有がなくなり、所有は社会的、集団的になるだろう。(b)階級と国家権力はなくなり、就労者の自由な連合として経済を処理する工業と農業の勤労者が出てくるだろう。(c)計画にもとづいて組織される国民経済は工業の部門でも農業の部門でも最高の技術に依拠するだろう。(d)都市と農村、工業と農業の矛盾はなくなるだろう。(e)生産物は昔のフランスの共産主義者が言った原則で分配される―「各人の能力に応じて、各人の必要に応じて」。(f)科学と技術は十分に好都合な条件を利用し再生に達するだろう。(g)個人は生計の資への不安等「有力者」への追随の必要から解放された、真に自由になるだろう。等々」。もちろん、ここの描写はスターリンの思索の産物ではない。あらゆるマルクス主義者に共通の願望が表現されている。スターリン本人もボリシェヴィキがこのような社会に達するにはまだまだ遠いことを認めている。しかしレーニンと同じく彼もまたボリシェヴィキは共産主義社会を建設するための予備条件―国家権力―はすでに闘い獲った、と見なしていた。そしてスターリンはその威力を信じていた(10)。


 さて、このようなスターリンの言明をどう理解すべきなのだろうか。これはどこまで本心で言っているのだろうか―後にスターリンの膨大な蔵書の中に多くの書き込みが見つかり、その中に「国家死滅論は役立たずの理論だ」というものがあった。これを見て反スターリン主義のマルクス主義者に、「スターリンは最初から国家権力を簒奪するつもりでいたのであり、国家死滅論など最初から信じてはいなかった」という者がいる。しかし、この書き込みからそのように即断することは出来ないだろう。これがスターリンの本心であることは間違いないとしても、これをどのくらいの時期に考えたのかということが問題である。この書き込みは1923年版レーニンの『国家と革命』の表紙に書かれてあったものである。この出版時に書いたものだとすれば、この会談の時の言明はまったく本心ではない、ということになる。しかし、革命以前にこのように考えていたとは考えにくい。革命後の経過によってこのような見解になったのではないだろうか。それでも、ネップは一時的な後退であり、社会主義社会、共産主義社会への前進は宣言されていると見てよいだろう。ボリシェヴィキにそれ以外の道はないのである。


 本論におけるこの事態への解明は、大局的にはすでになされている。階級をなくそうとすれば、新たな階級が絶えず再生産される。「増幅された能力転移」など起こるはずはないのであり、この魔術を科学と考えている恐るべき政策が遂行され続けることになる。スターリンが言明したような共産主義社会への進展は実現されることはない。そうなれば、階級の敵による妨害であると必然的に考えざるをえなくなる。社会全体で結果が得られないということは、その階級の敵が至るところに存在すると考えなければならない。これはスターリンの有名な社会主義に近づけば階級闘争が激化するという「階級闘争激化論」に繋がっていくだろう。


 1928年に起こった穀物調達危機から非常措置が取られ、スターリンは農業集団化と超工業化を決心するようになった。これに反対するブハーリンとの間で対立が生じ、この2人の同盟は決裂するに至った。そしてスターリンはブハーリン、そして同じ右派のルイコフらを政治局から更迭し、政治局内、党内で完全な中心的権力を確立したのである。1929年のスターリンの50歳の誕生日はスターリン賛美のキャンペーンが大々的に行われた。この後、農業集団化と工業化5ヵ年計画による社会主義建設への突進が開始されたのである。


 *ブハーリン代案に関しては、マーティン・メイリア著『ソヴィエトの悲劇』第五章を参照。


 *よく、ブハーリン代案は社会主義への別の道の可能性を示していた―と言われることがある。しかし、この社会主義は唯物史観における社会主義ではありえないだろう。ここでも定義の曖昧さがこの問題を複雑なものにしている。つまり、ブハーリンの農民に譲歩しつつ、徐々に工業化を目指すというのは資本主義の前段階的な過程をゆっくりと進む、ということ以上のものではない。これを長期に継続すれば、それはイデオロギー遂行の内的条件が徐々に満たされなくなっていく―ということを意味するのである。未来のいつか、高い工業力の状態で無階級化を目指せば、その時点で「能力の壁」に抵触し、結局同じ結果に至るのである。

 

 

(7)リ・バンチョン 『スターリニズムとは何だったのか』 久保英雄訳 現代思潮新社 2001年 254~258頁
 

(8)同上書 269,270頁
 

(9)同上書 283~285頁
 

(10)同上書 287頁


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