反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 16 

 

 『マルクス主義の解剖学』

 

 第8章 現実化したマルクス主義
 

 第9節 ボリシェヴィキの農業政策

 

 1917年10月、ロシア革命勃発以前、以後のロシアの農業の状態、食糧事情については、やはりソ連崩壊以後の多くの資料の研究によって、その詳細が明らかになってきている。


 第1次世界大戦からロシアの農業事情は悲惨な状況へと転がっていた。軍隊へ多くの若者が取られ、戦死したり、傷病兵となって故郷へ帰ってきた。農村から都市への食糧の輸送は、鉄道、列車の専門の整備士の不足による整備不良や燃料不足、盗賊行為、不正略取などにより壊滅的な状況となっていった。都市は深刻な飢餓状態となっていた。1918年3月、ブレスト・リトフスク条約により、ロシアは戦線から離脱し一息つくことが出来たのである。ボリシェヴィキはこの深刻な飢餓状態を改善すべく努力を始めた。これはボリシェヴィキの主張である「平和とパン」を実行に移したものとして、公平にみて評価されるべきものであるだろう。ところがこれが大問題となっていったのである―ここでもボリシェヴィキの目標は共産主義イデオロギーの現実化である。すなわち私的商業は廃止され、市場は廃止されなければならない。しかし、この時深刻な飢餓を克服するためには私的商業を認め、市場に頼るしかない状況だったのである。もちろん、現在から見れば飢餓状態かどうか、に関わりなく私的商業、市場は必須のものである。しかし、この時はまさに緊急の要請があったのである。この時ボリシェヴィキがなすべきことは、私的商業、市場を認め、それを上手く管理しコントロールすることであろう。しかし、資本主義を徹底して破壊することを至上目的とするボリシェヴィキにとって、これは到底ありえないことなのである。


 私的商業、市場は非合法な行為となったが、それでも差し迫った必要から担ぎ屋行為が蔓延した。ボリシェヴィキは渋々ながら、その必要性も認めていたから、あるときは部分的にこれを許容したが、基本的には禁止の方向に向かい違反したものは厳しい罰則が科せられた。そして、農村から都市への食糧供給には、工業生産物と食糧の交換という共産主義的生産物交換が徹底して実行されることになった。ところが、戦争によって疲弊した都市はそれだけの工業生産物を生産出来なかったのである。そのことにより、交換するだけの工業製品がないにもかかわらず、農村から食糧が徴収されることになった。当然のように農民の激しい抵抗が沸き起こった。そこでボリシェヴィキは軍隊による厳しい強制手段に訴え、抵抗したものは銃殺、強制収容所送りにしたのである。こうして、商業行為、農業政策への反抗といった違反者を処罰するための強制収容所が必要となり、瞬く間にロシア全土に大量に出現していったのである。


 ボリシェヴィキは何としても都市の飢餓を克服しなければならないため、農民に対する食糧調達を強化していった。交換できる工業製品が足りないにもかかわらず、常軌を逸した量の食糧割当が課せられたのである。そのため農村部も飢餓状態に陥っていった。農民は収穫量が増えても、私的に売りさばくことが出来ず、増えた分だけ強制的に徴収されてしまうため労働意欲が減衰していった。農村に悲惨な飢餓が迫っていったのである。それでも、ボリシェヴィキは共産主義イデオロギーを押しとうし、私的商業、市場を圧殺することを決して止めなかったのである。天候不順による飢饉も重なって、1921年、22年にロシア全土に途方もない飢餓が訪れ推定500万人が餓死したと言われている。また、農民反乱が各地で起り、赤軍による残虐な弾圧が繰り返されたのである。この悲惨な飢餓の結果、レーニンとボリシェヴィキは渋々ながら、共産主義経済体制をすぐに築くことは不可能であることを認め、私的商業、市場をある程度は許容する新経済政策( NEP)を導入することになった。

 

 第10節 農業政策の考察

 

 どうしてボリシェヴィキはここまで強引に食糧調達を押しとうしてきたのだろうか。それはマルクスの理論、唯物史観によるものであることは今更説明の必要もないだろう。つまり、資本主義から共産主義の経済体制になれば、工業生産力は大きく増大すると信じられていたからである。しかし、戦争の結果、都市部は深刻な飢餓状態になっていた。まずこれを改善しなければ、共産主義的経済体制などとても不可能なことである。これを救いさえすれば、資本主義的生産様式をはるかに超える効率の良い共産主義的経済体制に発展するのだから、その結果農民に行き渡る工業製品は大量に生産することが可能になる。そのための「賭け」として農民は先に都市に食糧を供給しなければならない―たとえ農民の一部が餓死しようとも―である。そのときは大変でも、たちまち将来にはより良い状態が訪れるのだから、「それまで辛抱しろ」というわけなのである。


 「社会主義、共産主義は資本主義よりも生産力が上である」このことが、どれほど巨大な悲劇を導いたかということを述べるのに、一体どれほどの紙幅が必要になるだろうか。このような幻想を生みだすためのマルクスのイデオロギー操作をこれまで詳細に検討してきた。社会主義、共産主義の思想を生み出したのはマルクス一個人に帰せられるわけではない。それまでの長い思想の歴史が存在する―しかし、経済学と密接にリンクすることによって、科学としての装いを身にまとい、これほどまでに強力なイデオロギーを創出したのは、ほとんどマルクス一個人によるものである・・・まさにこれは驚くべきことである。


 ここでも、労働者自主管理がいかにしたら成立するかという問題と同一の問題が存在する。都市と農村、プロレタリアートと農民、食糧の需要と供給、さまざまな交通手段を機能させるための物質的な基盤、その運営、それらすべてが超高効率の情報伝達、情報処理、意思決定の能力上の問題として存在しているのである。私的商業、市場を介さずに食糧供給を実現するためには、さまざまな情報が途方もないレベルで伝達されなければならない。ここでも完全な兼任を達成できる能力が要請されるのである。すべてのプロレタリアートと農民がひとつの頭脳となるような情報伝達、情報処理、意思決定の能力が要請されるのである。


 本論のいままで検討してきた結論は、ここでも完全に適用されるのである。マルクスが思い描いた共産主義社会の理想的な形態は、この完全な兼任を達成できる能力の能力世界なのである。そして、この能力を獲得するいかなる手段もわれわれには存在しない。これは歴史ではなく進化の問題である。資本主義のどのような要素を抑圧、放棄、破壊しようとも、それはまったくこのような進化には繋がらないのである。私的商業、市場を禁止、破壊したとしても、都市と農村の工業製品と農産物の生産物交換をしたとしても、それはこのような能力の獲得とは一切無関係である。ここでも、因果関係の逆転が行われている。すなわち工業製品と農産物の生産物交換が、共産主義的な形態で行われること―これはプロレタリアートと農民が相互にお互いの必要なものを交換し合う、そして極端に富を手にする商人、資本家が存在しない平等な生産物交換の経済である―しかし、これこそが情報をコストゼロとみなす途方もない幻想なのである。逆にいえばこの状態を実現させるためには、情報のコストがゼロになるような能力が必須となるのである。それが完全な兼任を達成できる能力であることはいうまでもない。もし、このような能力を獲得することができれば、このような共産主義的生産物交換が可能になるだろう。それ以外の条件も満たされていなければならないが―である。能力の獲得→共産主義的生産物交換という因果関係を、共産主義的生産物交換→能力の獲得→共産主義社会というように完全に逆転させて、真ん中の「能力の獲得」を徹底した捨象によって思考することの出来ないよう麻酔剤を射っておいたのが、マルクスのイデオロギー体系なのである。


 ソヴィエト社会主義共和国連邦―今は亡きその国の国旗は真っ赤な地にハンマーと鋤の重なった図のデザインであった。これが労農同盟を意味するものであることは明らかである。私が子供の頃から慣れ親しんだその国旗に、本来の意味である労働者と農民の同盟、搾取されることのない労働者の協調した平等な社会、というイメージを感じたことは1度もなかった。この国旗は得体の知れない自由のない警察国家、軍事力にものをいわせ謀略渦巻く世界、というイメージのものでしかなかったのである。


 ボリシェヴィキの目指した労農同盟は現実にはごく一部に限定的に成立したにすぎず、そのほとんどは実態の伴わない虚構であった。農村に対する食糧の強制的な徴発により、都市プロレタリアートと農民の関係はむしろ敵対的になっていたのである。ボリシェヴィキにしてみれば、食糧を都市に供給しさえすれば工業生産力は増大するのだから、その食糧の供給を渋る農民は社会主義、共産主義に反抗する農民であり裏切り者なのである。しかし、都市ではすでに労働者自主管理は完全に失敗しており、そもそも労農同盟の基盤となる理論は破綻していたのである。官僚による工業管理を、内戦によって優秀なプロレタリアートの多くが戦死したことを理由に挙げる場合がある。この責任は内戦の相手である白衛軍と干渉戦争をしかけた側にある、というマルクス主義者の反論はまったく無効である。すでに内戦がはじまる以前に、労働者自主管理は破綻していたのだから―その破綻の結果、官僚による工業管理が強化されていったのである。もし、内戦がなかったとしても、官僚による工業管理はまったく同様に強化されていくだろう。そしてこのことは国際革命、世界革命論においてもまったく同様に当てはまるのである。

 

 第11節 世界革命の考察

 

 ロシア革命論における世界革命の位置は非常に重要なものである。マルクス主義者、共産主義者はロシア革命がなぜスターリン主義の途方もない歪曲を被ったのか、ということの根源的な理由を世界革命が勃発しなかったこと―に求めることが非常に多いのである。これは唯物史観の根本となる歴史認識、歴史法則である資本主義が発展し、資本家とプロレタリアートの二極分化によって階級闘争は激化し、それが頂点に至ったとき革命が勃発する―そこに至らなければ社会主義革命は決して起こらないのである。この公式にロシア革命は部分的にしか当てはまらなかった。ロシアは19世紀末から工業化が進み、資本主義が発展してきたとはいえまだ圧倒的な農業国であり、プロレタリアートの数は少なかったのである。しかし、マルクスは『共産党宣言』ロシア語訳において資本主義後進国ロシアであっても、そこに革命が起きればそれが先進資本主義諸国に波及していく―いわば革命の導火線の役目を果たすことができる、と述べているのである。レーニンはそのことを革命遂行の中心に据えていたのである。


 レーニンが執務していた5年のあいだ、ソヴィエト・ロシアの外交政策はロシア共産党の政策の一附属物であった。それ自体は、まず何よりも、世界革命のために貢献すべきものと意図されていた。ボリシェヴィキがロシアで権力を掌握したのは、ロシアを変えるためではなく、跳躍板としてそれを利用し、そこから世界を変えるためであったということを、いくら強く、あるいは、頻繁に主張してもし過ぎることはない。レーニンは、1918年の5月に「社会主義の利害、つまり世界革命の利害が、民族的な利害、国家の利害に優越すると我々は断言する」と述べている。共産主義体制の創設者たちには、彼らの革命が、もし、直ちに国外に波及しなければ、それは短命に終わるであろうと思われた。この信念は、二つの前提に基づいていた。一つは、彼らよりはるかに強力な「資本家」の陣営が一つになり、経済制裁と軍事攻撃を結合して革命の前哨地を打倒しようとするであろうというものであった。もう一つは、たとえそうならなくとも、あるいは、それが現実となり、ロシアの共産主義者がその攻撃をはね返すことができたとしても、彼らは、まだ、敵に囲まれ、敵意をもつ遅れた農民の住む孤立した共産主義国家の運営を試みるという打ち勝ちがたい困難に直面するというものであった。


 理論の方はそんなところにして、実際には、ソヴィエト・ロシアは、世界で最初の、そして長い間、唯一の共産主義国であったから、ボリシェヴィキは、ロシアの利害を世界共産主義のそれと同一視するようになった。そして、世界革命への彼らの期待が後退していくにつれ―これは1921年までに生じていたが―、ソヴィエト・ロシアの利害を最優先する以外に、彼らには選択肢が残されていなかった。結局のところ、共産主義はロシアにおいて一つの現実であるが、それ以外のところではどこにおいても、単なる希望にすぎなかったからである。


 それ自身のナショナルな利害をもち、同時に、ナショナルなものを超えた革命、つまり、国境なき運動の司令部でもある一国の政府として、ボリシェヴィキ体制は、さらに、その二重の外交政策を展開することになった。外務人民委員部は、ソヴィエト国家の名で行動しながら、以前と同じように、公式には、ソヴィエト国家と関係をもつ用意のある列国とは正常な関係を維持した。世界革命を推進させるという課題は、1919年3月に創設された第三の、つまり、共産主義インターナショナル(コミンテルン)の新しい組織に委ねられた。形式的には、コミンテルンは、ソヴィエト政府からも、ロシア共産党からも独立していたが、現実には、後者の中央委員会の一部局であった。二つの本体に分離することで、モスクワは、「平和共存」と転覆活動を同時に行う政策を指揮することが可能となった。


 コミンテルンには、国外で革命を推進させると同時に、ソヴィエト・ロシアに対し十字軍を起こそうとする「資本主義」諸国の努力を失効させるという、攻撃と防衛の二つの任務があった。コミンテルンは、攻撃よりも防衛において大きな成功をおさめた。国外の社会主義者と自由主義者には、政治スローガンで、国外の企業家たちには有望で儲かるビジネスがあるとの触れ込みで訴えかけながら、コミンテルンの活動家は「ロシアから手を引け」というスローガンのもとで、どうにか反共主義のイニシアチヴを阻むことができた。1920年代の初めまでに、ヨーロッパの事実上、全ての国が、初めは無法者として扱っていた政府と、外交および通商関係を樹立するにいたった.しかし、コミンテルンが実現しようとした革命は、全て、ヨーロッパであれ、中東、極東であれ、大敗に終わった、革命を国外に、とりわけ工業化された諸国にもち込むことにレーニンが失敗したことによって、ソヴィエト・ロシアは、その生来の専制的で官僚的な伝統に立ち戻ることが殆ど確実となった。そのことにより、スターリンが支配権をうることが殆ど不可避となった。彼は、世界革命が起こる見通しは、少なくとも、再び世界戦争が勃発するまでは無に近いと早くから結論を下し、彼の権力基盤を国内に築くことに専念していた(69)。


 レーニンはロシア革命に次ぐ社会主義革命がドイツに起こることを期待していた。ロシアよりもはるかに工業の進んだ先進資本主義国であるドイツに革命が起きれば、ドイツのプロレタリアートがロシアに救援に駆けつけてくれる。ロシアの破壊された工業力は、ドイツの力で急速に復興するだろう―さらにそれ以外の工業国に社会主義革命が波及していけば、内戦の危機はまったく問題でなくなるだろう。それが20世紀に人類がたどるべき希望に満ちた正常な歴史となったはずである―このような見解が現代においてさえ(当然、過去には非常に広く)ときどき見られるのである。当然、この見解は批判や反論にさらされてきたけれども、そこに決定的な反証を加えることは極めて困難なことであった。


 本論は今まで広く行き渡っていたこの見解に決定的な結論を導き出すことを目的とする。もし、ドイツで社会主義革命が本当に起こったとしたら、どのような事態になっていただろうか。工業をはじめとする社会全体で、本当に無階級化を遂行すれば、それは「能力の問題」に抵触することになる。生産力、社会の機能はたちどころに機能不全に陥ってしまうのである。革命が成功した瞬間に、生産力は破壊される・・・これが本論の結論である。それは戦争によって、すでに機能不全に陥っていたロシアの工業力の場合より、はるかに明瞭にその生産力破壊は現れるだろう。それによってもたらされる混乱やパニックは想像を絶するものがある。つまり、この革命ドイツはロシアを救援するどころではなく、逆にそのロシアに救援にきてもらいたいくらいの大惨事となるのである。しかし、現実にはそうはならないだろう。この機能不全状態を改善すべく、直ちに対応が取られるだろうから。それはプロレタリアート内部に階層性が生まれ、さらに経済を機能させるために、それ以前のブルジョワ専門家と呼ばれる人たちが活用される。そして、私的商業、市場を禁止するならば、官僚による計画経済が採用されることになる。それを遂行するための強力な秘密警察が発達していくだろう。つまり、たどる道はロシアとまったく同じなのである。その共産主義ドイツは共産主義ロシアとどのような関係になるかはまた別の問題であるが・・・


 パイプスは反共主義の側にあるアメリカの歴史家である。当然、マルクス主義、共産主義に対して極めて強い批判的な態度を取っている。そのパイプスからして、この世界革命の展望に対する見解は唯物史観に影響され、巻き込まれているのである。以下のパイプスの引用文「コミンテルンが実現しようとした革命は、全て、ヨーロッパであれ、中東、極東であれ、大敗に終わった、革命を国外に、とりわけ工業化された諸国にもち込むことにレーニンが失敗したことによって、ソヴィエト・ロシアは、その生来の専制的で官僚的な伝統に立ち戻ることが殆ど確実となった。そのことにより、スターリンが支配権をうることが殆ど不可避となった」は、まったく常識的な見解のように見える。しかし、これが大問題であるのだ。工業化された先進国に社会主義革命を持ち込むことに失敗した―その結果として革命ロシアは、その生来の専制的で官僚的な伝統に立ち戻ることになった―この因果関係が完全な誤りであることは、もはや明らかである。工業化された先進国に社会主義革命が勃発しても、ロシアはまったく同じように専制的な官僚体制を構築していくしかないのである。そしてその官僚体制は、ロシアの伝統に単に立ち戻ることではない。これは専制君主の官僚体制ではなく、共産主義イデオロギーのもとで、そのイデオロギーの原理的な矛盾から不可避的に生じてきた、根本的に捻れている官僚体制なのである。この矛盾、捻れというのは、それ以前のロシアの官僚体制にはない性格なのである。そして、スターリンが支配権をうることになったのは、スターリンがロシア伝統の専制君主を目指し、伝統的な官僚体制を味方にしたからではなく、その矛盾と捻れの性格を巧妙に利用する才分と意思があったからだといえるだろう。


 先進国革命論はいまだに根強く存在する。現代における資本主義の欠点を是正しようとするオルタナティブを考える時、マルクスの資本主義批判と同時に社会主義、共産主義はいまだに魅力的なものを持っているように見えるのである。これは歴史上、先進資本主義国に社会主義革命が起こったことが一度もないから―という理由が大きいだろう。これが現実に起こっていたなら、この認識はまた大きく違っていたと推測することができる。しかし、これはまったく非現実的なことであると正しく判断できる人なら考えるだろう。そして、この革命の結果がどうなるか「社会主義窮乏化理論」は理論的に導き出すことができる。現実に社会のごく一部に無階級化実験をして証明することもできるのである。このような局所性を否定するのがマルクス主義、唯物史観である。


 チャーチルは1920年代に「ボリシェヴィキは狂信者であり、彼らを説得してその主義運動を捨てさせられるものではない。彼らの見解では、彼らのシステムは、十分に大きな規模において試みられていないために、成功を収めていないのであり、成功を確かなものにするためには、それを世界的な規模にしなければならない」といったという。たしかに、ロシアに限定されたこのシステムは、世界的な規模になった場合に比べて制約を受け、さらに妨害されるということは事実だろう。それでは、その制約や妨害がまったくなかったとしたら十全に機能するのだろうか。外部条件の最適化による無階級化実験をすれば、それは何の根拠もない虚妄だということが証明されるだろう。この世界革命の論理は、今この現在の失敗を取り繕い、問題解決を絶えず先送りしていくこのイデオロギーの巧妙な戦術となるのである。


 結論はこのようなものである。「階級としてのプロレタリアート独裁」を通過しなければ共産主義社会に至ることは決してない。そのためにはプロレタリアートは相互依存している頭脳労働を兼任しなければならない。その規模が大きくなればなるほど兼任しなければならなくなる頭脳労働領域は拡大していく。つまり、ある規模においてそれが不可能であるということは、それより大きな規模においてはさらに不可能であるということだ。世界革命の論理「社会主義、共産主義は革命がロシアにとどまったから失敗したのであり、世界革命に発展すれば成功しただろう」というのは、独力で富士山に登れない幼児に向かって、「それならエベレストなら登れるだろう」と言っているようなものである。

 

 

(69)リチャード・パイプス『ロシア革命史』成文社、291、292頁


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