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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 15 

 

『マルクス主義の解剖学』


 第8章 現実化したマルクス主義


 第7節 労働者自主管理とボリシェヴィキ

 

 レーニンは大衆を動員して権力を獲得するために、大衆の根深いアナーキスト的心理と衝動に訴える必要があることを直感的に把握していた。社会主義革命のプロパガンダが労働者をはじめとする大衆に受け入れられれば、自らの権力獲得に絶大な力となることをよく理解していたのである。この場合、労働者側の意識、心理というものも重要になってくる。例えば現代において先進資本主義国の労働者にこのようなプロパガンダを説いたとすればどのように受け取られるだろうか。もちろん、現代においては現存した社会主義国の失敗というものが広く知られているわけであるが、それ以前の時期においてもこの時のロシアほど受け入れられることはないのではないだろうか。労働者の立場からすれば、社会主義の理想というものは常に心惹かれるものに違いない。しかし、労働者自身が経済を運営するということが、逆にどれくらい重荷になるかということも、明確に理論として理解していないとしても、直感的に感じていることではないだろうか。ロシア革命時においても、ロシアの労働者大衆とロシア以外のイギリスやフランス、アメリカ、ドイツの労働者とでは社会主義革命のプロパガンダに対するとらえ方はかなり異なるのではないだろうか。つまり、この時のロシアの資本主義段階の未熟さ、文盲率が高く農民から工業労働者への大量の移動があったということ、それらがボリシェヴィキの社会主義革命プロパガンダに対する免疫力の欠如となり、ボリシェヴィキの権力獲得に好都合だったのである。そうなると、社会主義革命が起り、社会主義社会に向かうための条件としてマルクスが述べたのと正反対に資本主義段階の未熟さはむしろ必要なことだったのである。


 「革命政権を維持するために、革命直前まで自ら説いていたアナルコ・サンジカリスト的、平等分配主義的な理念をおしげもなく捨てさせたのだ。それは思想家にとっては背信であり、矛盾であったに違いない。しかしながらこの矛盾、この背信は、ロシヤの経済発達の段階と、革命をとりまく国内外の客観的条件自体が否応なしに強いた矛盾でもあり、背信でもあったといえよう(48)」。ここにこそもっとも重大な問題点がある。勝田吉太郎は左翼が全盛だった時期から保守を貫き左翼思想には批判的であった。それでも、このレーニンの矛盾と背信はこの時のロシアの経済発達の未熟さ、革命をとりまく国内外の客観的条件が原因であったとみなしているのである。これこそボリシェヴィキが、革命直後に社会主義、共産主義を直ちに実現しようとして失敗し、それを客観的条件のせいにするために「戦時共産主義」という言葉を使うことを正当化してしまう。本論はこれらの客観的条件は矛盾と背信の理由ではありえない―このように結論しているのである。それはこの時、ボリシェヴィキが行った労働者自主管理の形態をそのまま現代にもっとも条件の良い状態で再現する「社会主義窮乏化理論」の実験によって証明することができるのである。本質的には頭脳労働量の爆発的増大によって経済運営の麻痺は引き起こされる。この時のロシアの客観的条件はその事態をさらに悪化させたとはいえるだろうが、この客観的条件がはるかに良いものだったとしても、その結果は何も変わらないのである。「こうした革命の危機的状況に面して、党内には政治的信念にもとつく派閥の抗争が生起した。この党内抗争は、これまで党が経験したいかなる軋櫟よりもずっと深刻であった。そこには、その後数十年にわたって荒れ狂うことになる党内外の論戦や陰惨な粛清の種子が播かれていた」。

    
 ここで以前にパイプスの主張「ボリシェヴィキはロシアの伝統的な専制体制を復活させるために、マルクス主義、共産主義思想を利用したのである」を検討したことを再度、考察してみよう。例えばクーデターによって権力を奪取するために、労働者、兵士たちの支持を得ようとした。そのための方便としてマルクス主義、共産主義思想を利用したとするならば、革命後に労働者の自主管理を認めた、ということをどう説明するのだろうか。これは完全にマルクス主義、共産主義の論理に沿った政策を遂行しているのである。この時点で、ロシアの伝統的な専制体制を復活させようという意図があったのならばこのような政策はしないはずである。もっと穿った見方をして、労働者自主管理は失敗するはずだから、そのあとでそれを口実として専制体制を復活させようということを意図していた、というのは余りにも非現実的であろう。つまり、革命直後の時点においてレーニンとボリシェヴィキは唯物史観の教説を文字どおり実行に移したのである。労働者自主管理はプロレタリアート独裁に向かうための当然の道筋である。このことはかぎりなく重要である―今までレーニンやボリシェヴィキに対して官僚制による一党独裁が厳しく批判されてきた。そのような批判は革命直後に労働者自主管理が導入され、それがどういう事態になったかということをほとんど考慮していないことが多い。戦時共産主義期においての最終的な結果とマルクスの理論の相違点のみが比較され強調される。このような批判は何の意味もなさない。


 ロシア革命、ソ連体制形成のもっとも重大な局面は、ほとんど戦時共産主義期にあるということなのである。さらにいえば10月革命直後の数ヶ月に集約されるといっても過言ではない。ここですべての結果が出てしまっているのである。マルクスの理論、唯物史観は労働者自主管理が失敗するなどということは微塵も考えてはいない。労働者自身が生産力を所有し管理運営していくことによって、資本主義社会の無駄や非合理性が克服され、さらに能率の高い合理的な生産が達成されるからである。レーニンとボリシェヴィキはこのことに何の疑いも持っていなかった。だからこそ社会主義革命を起こしたのである。もしこのことにわずかでも疑いを抱いていたら、革命などというすべてをかけた賭けに出ることは決して出来ないだろう。このような事態に導いた思想上、理論上の主役はマルクスであることにまったく反駁の余地はない。


 ここでさらによくなされている批判、「ロシアの資本主義段階は、まだ未熟なものであった。マルクスの想定は資本主義が発達し、資本の一極集中が進み、一方で貧困が増大する。この二極化が極点に達したときに革命が勃発するのである。ロシア革命のような社会主義革命の形態を想定してはいなかった。したがって、レーニンの行動は勇み足でしかなく、この結果の責任をマルクスに帰すことは無理がある」を検討してみよう。よく知られているように、10月革命はレーニンの強力なイニシアチブによって達成されたものである。メンシェヴィキは当然のごとくこの段階における社会主義革命は時期尚早であるとして反対していた。レーニン以外のボリシェヴィキのメンバーもこの考えに同調するものが多数を占めていたのである。スターリンでさえ最初の時点では蜂起には反対であった。当然、レーニンにしてもマルクスの社会主義革命の道筋とこの時のロシアにおける状況とは違うことを認識していた。しかし、このチャンスを逃したらもう二度と革命の時期は巡ってこないと考えたのである。レーニンがこのように考えた動機にはマルクスに依拠する大きく二つの理由があったのではないかと考える。


 ひとつには、『共産党宣言』ロシア語版、序文でマルクスはロシアの社会主義革命の可能性に触れて、この革命が他の先進資本主義諸国の社会主義革命への導火線となり、国際的な社会主義革命が達成される―そのような展望を示しているのである。まさにレーニンが思い描いていた革命の展望はこのような国際的な社会主義革命であったことは、よく知られていることである。10月革命後も社会主義革命の輸出についてレーニンは執拗に追及したのである。


 二番目の理由、これが最大の問題である。マルクスの示した唯物史観の展望はもっとも根本的な前提に「社会主義、共産主義は資本主義よりも生産力が上である」ということがある。資本主義がまだ未熟な段階であったとしても、それよりも生産力が大きな社会主義、共産主義が導入されれば、生産力は増大し続けることが可能である。これははっきり意識するまでもないまったく当たり前の認識だったのである。このような認識をもたらしたものこそ、マルクスの壮大な経済学を含めたイデオロギー操作であることは、今まで論じてきたとおりである。このことこそ革命の展望よりもはるかに重大な問題なのである。真実はそれとはまったく逆であり「社会主義、共産主義の生産力は資本主義よりもはるかに下なのである」。ロシア革命がマルクスの想定した革命の展望とは異なるものであったとしても、ロシア革命を勃発させ、推進させた根本的な動因はマルクスに帰せられることに何の疑いの余地もない。


 「はたして労働者各人が、いかに国家を支配するかを知っているであろうか?実際的な人間なら、それがおとぎ話であることを、わきまえているのだ」。「あらゆる国々の歴史は」とレーニンは説いている。「労働者階級がそれ自身の独力だけでは組合主義的意識しか、つまり組合に団結し、雇傭主と闘争し、労働者に必要なあれこれの法律の発布を政府からかちとる、などのことが必要だという確信しかつくり出すことができないことを証明している。これに反して、社会主義の教説は、有産階級の教育ある代表者、インテリゲンツィヤによって生み出された哲学的・歴史的・経済的理論のなかから成長してきたのだ」。社会主義思想を生み出した主要な思想家たちの中にプロレタリア階級出身のものはほとんどいない。それは有産階級のインテリゲンツィヤによって生み出されてきたものであることは歴史の事実である。しかし、レーニンがこのように言ったとき自分の置かれていた立場、そのときのロシアの状況がこれら先行する思想家たちのいかなる立場とも、さらに革命前の自分の置かれていた立場とも、まったく異なるものになっていたということをどれほど自覚していたのだろうか?すでに、レーニンとボリシェヴィキはルビコン川を渡っているのである―此岸にいるのではなくすでに彼岸への橋を渡り始めているのである。社会主義革命はすでに現実のものとなったのであるから、社会主義の教説の通りに事態が進行するかどうかが最重要事である。しかし、現実にはまったくその通りにはならなかった―プロレタリアートは主役にはならなかったのである。そのことの理由として以上のようなことを持ち出すというのは信じ難い自己欺慢である。これでは社会主義の教説が誤りであったということを自ら認めているようなものである。社会主義、共産主義思想とは一部のインテリゲンツィヤが労働者階級に投影した自己の観念、願望、イメージでしかないことを暴露しているようなものである。


 ところが、革命という賭けに出てそれが成功した以上、もう絶対に後戻りは出来ないのである。ボリシェヴィキは権力を維持していく以外に生き残る道は残されてはいない。このことは肝に銘じておく必要がある。クーデターが成功し権力を獲得し、立憲民主党、貴族、ブルジョワジーらを直ちに弾圧、追放し、憲法制定議会を強制解散し、ニコライ二世とその家族を抹殺し、内戦によってロシア全土を戦場と化し、膨大な犠牲者を生み出しながらその権力を保持することに成功したのである。それはすべて社会主義、共産主義の大義のためであった。これが根本的に誤りであったなどということになれば、レーニンとボリシェヴィキは大衆に、そして味方である共産党員からも八つ裂きにされてしまうだろう。しかし、いまや社会主義の正当な主張をする者を徹底的に押さえ込まなくてはならなくなったのである。


 プロレタリアートに対する独裁をプロレタリアートの独裁と詐称せざるをえなくなっている。この時からボリシェヴィキの権力主体が「プロレタリアート独裁」といった時には、それは実質的には「プロレタリアートに対する独裁」を意味するものでしかなくなったのである。そうしなければ、自らが存在することすら出来なくなる―これはまったく震撼すべきことである。この状態は誰がどう見てもプロレタリアートの独裁などではない。民主主義、言論の自由という見地からすれば、もはや風前の灯火である。誰もが当然と思えるような状態をその通りに表現すると、権力は存在することが出来なくなってしまう。それは権力にとっての破滅を意味している―しかし、権力は秘密警察という強力な権力装置をもっているのである。秘密警察による言論弾圧、民主主義の抑圧は当然の論理的帰結であることがわかる。そしてさらにイデオロギーの理念からその矛盾は増幅されるだろう。社会主義、共産主義とはまさに民主主義の徹底した形態だからである。ボリシェヴィキの権力主体はいかなる強制力を持ってしても、その強制力で言論弾圧、民主主義が抑圧されているなどということを表現させてはならない。それらは十分に満足させられている、ということでなければならないのである。それは単に上辺だけのものであってはならないだろう。心の底からそのように思いこませなくては不十分である。社会構成員の心の底まで制御しなくてはならない―全体主義への道は開かれたのである。(49)


 第8節 第10回党大会の紛糾、個人独裁の萌芽

 

 ここでさらに重要な分岐点となった第10回党大会を検討してみよう。
 

 大会の討議の場でレーニンは、内戦の終結とともに軍隊方式の中央集権化は打ち切られ、党内民主主義が復活するというブハーリンの約束に保証を与えた。しかし、これはレーニンの本当の目的からすれば前置きでしかなかった。「いまや反対論に終止符を打ち、蓋をするときが到来した。反対論はもうたくさんだ!」と彼は言明した。


 大会の最終日、レーニンは突然、二つの新しい決議案を提出した。「わが党の内部の労働組合主義的・無政府主義的逸脱」および「党の団結」に関する決議案である。前者は労働者反対派のかかげる労働組合による経済運営という主張を「党員であることと矛盾する」労働組合主義的異端の復活として公式に断罪する決議案であった。同派の考え方は、マルクス主義にもとるということだが、その文言が如実に示すとおり、本当のところはマルクス主義ではなく、以下に引用するレーニン自身の主張にもとるとされているのである。


 労働者大衆に不可避のプチブル的な迷い・・・・・および労働組合的な狭量さと偏見への退行に対抗できるプロレタリアートと労働者大衆の先兵を結集し、教育し、組織できるのは、唯一、労働者階級の政党、すなわち共産党のみである。


 第二の決議は、労働者反対派や民主的中央集権派など、独自の見解をもつグループを、それらに属する者は即時に党籍から除くという措置をとることによって、すべて解体させるものだった。さらに、1924年1月まで公表されなかった条項(第七項)では、中央委員会にたいし「規律違反または分派主義の復活ないしそれを容認する動きがあった場合は、除名を含む党の罰則全般を適用する」権限を与えており、しかも罰則は当の中央委員会のメンバーにも適用されることになっていた。


 決議は圧倒的多数の賛成により採択された。カール・ラデックの次の言葉は、このときの大会の雰囲気を端的に表わしているが、ラデック自身を含む多くの人びとのその後の運命を考えると、どことなく予言めいてもいる。


 この決議案に賛成票を投じるにあたって、私はこれがわれわれに向けられる刃になりうることを感じるが、それでもなお、私はこれを支持する・・・・・いざというとき、中央委員会が必要と認めるなら、相手がわが党の最良の同志であろうと、中央委員会は最も厳しい措置をとるがいい・・・・あえて言うなら、中央委員会が過ちを犯したところでかまわない!いまここに見られる迷いにくらべれば、そのほうが危険は小さい。


 第10回党大会が閉会すると、レーニンはすぐさま、批判派を迎えうつ格好の武器とした労働組合および党内民主主義に関する決議を少しも重視していないことを明らかにした。だが、党内部の「分派主義」を禁じた条項については、あくまでもこれを実施する決意であり、その決意の固さはクロンシュタット蜂起の鎮圧に武力を行使したときと同じだった。そのあとの1921年から22年にかけて行なわれた粛清で、全体の3分の1にのぼる党員が除名されたり脱党したりした。労働者反対派の指導者たちは、自派の見解を保持する権利を放棄することを拒否し、コミンテルンに訴えることまでしたが、それも徒労に終わり、結局、1922年3月の第11回党大会で再びレーニンと大会から弾劾され、その「分派」の指導者のうち2名はその後、党を追放された(68)。太字強調 筆者


 「いまや反対論に終止符を打ち、蓋をするときが到来した。反対論はもうたくさんだ!」このレーニンの叫びは、この論争がいかに深刻であり、まったく出口のない袋小路に迷い込んでいることがわかる。新経済政策を導入するにあたって、党の団結は危機的状況になる恐れがあった。どんなことをしてでも党の団結は保持されなければならない。これがばらばらに解体されていけば、待っているものは破滅だけである。


 労働者反対派の考え方は、マルクス主義にもとるということだが、本当のところはマルクス主義ではなくレーニン自身の主張にもとるとされているのである―この一文に対する解釈はもっとも根源的なものになるだろう。これは決して文字どおりに受け取ってはならない解釈なのである。マルクス主義にもとるとはいかなる意味なのだろうか。労働者反対派の論理はまさにマルクス主義そのものではないだろうか。それではレーニンがまったく誤っているということになるのだろうか。このことの根本は今まで検討してきたようにマルクスの理論そのものの矛盾の現実化なのである。プロレタリアートに対する魔術のような能力の向上を大前提としている論理の絶対確実な帰結なのである。労働者反対派の論理は完全な兼任を達成できる能力を前提とした場合のみ有効となる。シリャープニコフは絶え間なく構築され強化されていく官僚体制を前にして「誰か個人を更迭する、というような問題ではない。このシステムそのものをまったく別のものに変えなければならない」といったが、まったく別のものに変えなければならないのはシステムではなく「まったく別の人類に」でなければならない、などということを夢にも思うことは出来なかっただろう。


 労働者反対派、民主的中央集権派を事実上禁止した決議は圧倒的多数の賛成により採択された。独自の見解を持つグループ、それらに属するものは即時に党から追放されるのである。そしてこの決議は中央委員会のメンバーにも適用されることになったのである。結果的に、スターリン独裁への道を切り拓いたこの分派禁止の条項は、圧倒的多数に支持されたというこの事実を最大限に重視しなければならない。これはどれほど強調しても足りないくらいである―この決議は圧倒的多数に支持されたのである。以下のラデックの言葉はまさにこの圧倒的多数の意思を代表している。これは、どれほどこの時のボリシェヴィキの置かれた状況がすさまじく閉塞されたものであるかがうかがい知れる。この根本的な理由はどこから来ているのだろうか?ロシアの経済発展、社会がまだ未熟だったから―プロレタリアートの数が少なかったから―世界戦争のただなかで起こった革命だから―内戦と干渉戦争があったから―国際革命が引き続いて起こらなかったから―今までなされてきたロシア革命の失敗に対する考察は、本質からまったく外れている。すべてはマルクスの理論、唯物史観の根源的な誤謬からもたらされたのである。


 「労働者大衆に不可避のプチブル的な迷いおよび労働組合的な狭量さと偏見への退行に対抗できるプロレタリアートと労働者大衆の先兵を結集し、教育し、組織できるのは、唯一、労働者階級の政党、すなわち共産党のみである」これがレーニンではなくスターリンが言ったとしてもまったく違和感はないであろう。完全な二枚舌論理であることは明白である。これは労働者階級の政党などではなく、労働者階級を支配するための政党である。さらに「労働者階級の政党、すなわち共産党のみである」の所を「強権的な支配システムをもった資本主義大企業」に置き換えてみてもまったく成立するだろう。それでも共産党よりはまだ人間的であり、人権に配慮するようなイメージがある。そしてこの一文は何度となく言われてきたように、マルクスに反するものである―このようにみなすことは絶対に出来ないということである。マルクスの表面上の言辞の問題では、もはやまったくなくなっている。マルクスの理論、唯物史観を徹底的に遂行することによって、この事態は不可避的にもたらされたのである。そして、この事態の深刻さはその成員の全員が問題の本質はどこから来ているのか、ということを決して自覚することが出来ないということであり、自らが信奉するイデオロギーに忠実であればあるほど、この矛盾の拘束は絶え間なく強くなっていくということなのである。もうここからは余程の事がないかぎり逃れることは出来なくなっている。ある譬えになぞらえれば、このイデオロギーが支配する領域は巨大な蟻地獄になっているのである。いったん、その中に入ってしまうと何をしても、何もしなくても下へ下へと滑り落ちていくことになる。その先に何が待っているかは、これからの解釈の課題となるだろう。


 ここで権力と民主主義の関係について考察してみたい。ロシアで初めて行われた選挙によって選出された憲法制定議会はボリシェヴィキが多数派にならなかったということによって、ボリシェヴィキの手で強制解散させられた。自然発生的で直接民主的要素の強いソヴィエトは、そのあまりの多数者による会議によって、有効な政策などを示せるはずもなく、次第に有名無実なものになっていった。ここでも労働者自主管理と同様な能力問題が生じている。ソヴィエトの決定は実質的にはボリシェヴィキ・・・すなわち共産党の決定になっていったのである。議会制民主主義を徹底的に排斥したボリシェヴィキにとって選挙などというものは眼中にはなかったのである。党外の民主主義はほとんど圧殺された。そして、党内民主主義も分派禁止によって窒息させられていったのである。


 党の決定、意思にもとるとされている見解、方針というものは決定的に排斥されることになったのである。しかし、この党というものはいかなるものなのだろうか?レーニンはこの時、これをどのように考えたのだろうか。レーニンが権力の座にあったときは、今までの経緯から圧倒的多数に支持されてきたのであるから、レーニンがその党と同一のものであると自他ともに認められていた。そのことにより、これは自分自身だと考えていたのだろうか。しかし、個人の権威に重点を置くのは、そもそもマルクス主義、唯物史観にまったく反することである。この時の状況から、これらの事を深く考えるいとまはなかっただろう。しかし、生身の肉体をもった個人を離れたところにある抽象的な「党」などというものは存在しない。それは必ず具体的な個人、あるいは個人と個人との関係によって生ずるものである。


 例えば民主主義の原則である「多数決の原理」によって、党の方針、見解を決定するということを考えてみよう。ある二つの方向に見解がわかれた場合、それを決定するために多数決によってひとつの見解を選ぶ―それが党の見解となるわけである。投票の結果、6対4である見解に決定された。そうすると4割の党員は党の見解にもとることになり、党から追放されてしまうことになったとする。さらに次に、別の議題が同じように二つの方向に見解がわかれ、多数決によって党の方針が決定される。少数派は党から追放される―これを繰り返していけば最後にほんの数人しか残らないことになってしまう。これはまったく馬鹿げた話である。このように見解の多様性、異なった意見を尊重するということは、民主主義のもっとも重要な原則である。これがなければ民主主義は成り立たない。―以上の事は純論理的に考えた場合の極論である。現実の「分派禁止」は党の見解にもとるとされたグループが政綱を作るなどして、組織化された場合に適用されるものである。しかし、この決議によって反対意見を持つものの活動は極めて制限されるだろう。反対意見を持つ者が何人か集まれば、それだけで分派活動をしているとの嫌疑をかけられるだろう。


 結論からいうとそれはこのようなことを意味しているのではないだろうか。それは党と同一化された個人が存在し、それ以外の全員がその個人に服従しなければならない、ということである。その個人とはどのように決定されるかはまったく未定であるが、しかし絶対確実にいえることはその個人が存在しなければならない、ということである。なぜ、個人でなければならないのだろうか?もしそれが複数存在していたとすると、その中で見解の相違が生じたとき、まったく収拾がつかなくなってしまうことは一目瞭然である。見解の違う2人の指導者がいたとすれば、それぞれにつく党員によって二つの大きな派閥が生まれるだろう。どちらが党の見解なのか―それを決める絶対的な基準は存在しない。先に分析した民主主義の「多数決の原理」を使えば、少数派は多数派に服従するか、党から追放されるしかない。党からの追放は党の団結、保持に致命的な影響を及ぼすだろう。少数派が多数派に服従するということは、結局は1人の個人に服従しなくてはならないという結果になるのである。これらはすべてこの「分派の禁止」によってもたらされた結末なのである。まさにレーニンは個人独裁へのレールを敷いたのだといえるだろう。


 「少数派が多数派に服従するということは、結局は1人の個人に服従しなくてはならないという結果になるのである」このことはにわかに理解し難い逆説であるので詳しく論じてみよう。この第10回党大会の決議においても「多数決の原理」は守られていた。レーニンはこのような党内民主主義の破壊を決して考えなかったのである。このことからスターリンとレーニンは根本的に異なる―レーニン擁護者からのこのような反論が存在する。しかし、「多数決の原理」を守るだけでは民主主義ではないのである。先に述べたように見解の多様性、異なる見解を許容することが重要である。「分派禁止」はこのことを著しく制限する。それはいったん「多数決の原理」で決められたことには従わなくてはならないという強い要請から来ているのである。決められたことに反するいかなる活動ももはや出来なくなるのである。議会制民主主義においても当然、決定されたことには従わなくてはならないが、そのあとで反対者が会議を開き組織を作るということに対して、いかなる禁止条項も存在しない。集会、結社の自由は保障されているのである。(個別の党内において、特殊な事例はあるかもしれないが)もしそれをすれば、議会制民主主義も破壊されてしまうだろう。


 純論理的に考えてみよう。あるグループで多数決によって議題を決定していくことにする。そして同じような「分派禁止」条項が存在する。当然、議題はひとつではない。特に社会が安定しない状態では決めなければならない重要な議題は多数存在する。まずAという議題が二つの意見にわかれ、投票によって決定する。6対4で多数派が勝利し、少数派はそれに従わなくてはならない。しかも少数派はお互いに組織をつくることを禁止されている。組織をつくる権利があるのは勝利した多数派だけである。次にBという議題が生じ、また二つに意見がわかれた。同じく多数決によって決定される。6対4で多数派が勝利し、少数派には「分派禁止」条項が適用される。しかし、この時A+Bにおいて、両方の議題に多数派になった者、Aのみに多数派になった者、Bのみに多数派になった者、両方に少数派になった者の4グループに分かれる。この時すでに、両方の議題に多数派になった者は全体の中では少数派になっていたのである。しかし、組織化できる権利をもっているのはこのグループだけである。このようなことをA、B、C、D、E、Fと続き最後にZになったとき、すべてに勝ち残った1人がいるだけとなった。組織化できる権利をもっているのはこの1人だけである。それ以外の全員は組織化する活動をすれば、AからZまでの議題のどれかの「分派禁止」条項に抵触し、グループから追放されることになる。つまり、一方で「分派禁止」のような民主主義を抑制する要素があると、「多数決の原理」はむしろ個人への権力集中、さらに個人独裁への推進装置になってしまうのである。これを「分派禁止の権力集中メカニズム」と呼ぶことにする。


 これは論理的に考えられたひとつの例であり、もちろん現実はこの通りにはならない。しかし、この「分派禁止」によって個人への権力集中、個人独裁へのベクトル、力学が生じることは確実なのである。これはこの条項が決議されたときに、それに関わった人々が想像する以上に強力なものである。いったん確立されたこの条項はそう簡単には変えることは出来ないのである。そして根本的に問題なのは、この条項が決議された要因であり、この党内民主主義の自殺ともいうべき条項が決議されたのは、党内民主主義の正式な手続きによってだということである。これらを総合したとき、個人への権力集中、さらに個人独裁はこの決議に参加したほとんどの党員の合意だったということになってしまうのである。これは意識されていなかったとしても、深層心理においてそのようなことが形成されていた―とみなすことができるのではないだろうか。スターリンはこの時はまだ一政治局員であり、この決議にはそれ以上の関わりを持ってはいない。


 この「分派禁止」を決議させた要因とは、ボリシェヴィキを取り巻く厳しい外部状況だとみなされることがある。それと関連して、レーニンは「分派禁止」を一時的な非常措置として考えていたはずである、という見方も存在する。しかし、このことの根本的な直接の要因は労働者反対派、民主的中央集権派などとの内部の意見の対立によるものである。ボリシェヴィキにとってもっとも危機的な状況であった白衛軍との内戦は、1920年秋にはほとんど勝利が確定した。内戦の時にはこのような「分派禁止」のような条項は出てくることはなかったのである。内戦に勝利しボリシェヴィキの状況が好転したときに、逆に内部の対立が表面化してきたのである。つまり、外部状況が安定すると内部状況が不安定になったのである。これは外部状況が不安定な時には、全員がそちらに集中していて内部の問題に目を向けている余裕はない、というのが理由であろう。今まで検討してきたように、この内部対立はマルクス主義、共産主義イデオロギーの原理的矛盾から生じてきたのである。このことによる分裂を押さえ込むために「分派禁止」は決議されたのであるから、このイデオロギーを放棄しないかぎりこの「分派禁止」が変更されることはない―このようにみなして間違いはないのではないだろうか。しかし、このイデオロギーを放棄するということは、資本主義に戻るか、さもなければもっと昔の生産体制へ戻るしかない。それは絶対に出来ないことなのだから、「分派禁止」が変更されることはほとんどないということになってくる。すなわち、「分派禁止」は非常措置ではなく、永続措置になってしまうのである。そうなると、個人への権力集中、さらに個人独裁への道は完全に姿を現したといえるのではないだろうか。


 スターリン体制形成の道筋は、ここまでだけでも実に複雑なものである。スターリンの意図とはまったく独立に分派禁止はレーニンによって提出され、党内民主主義の正式な手続きによって決定されているのである。共産党独裁体制は個人独裁か寡頭政治であり、そこでほとんどの重要な決定はなされており、党大会はそれを追認する場でしかなく、あたかも民主主義があるかのように装う茶番に過ぎないことは今では常識的なことである。それでは歴史的に本当に党内民主主義は存在したことはないのだろうか―そうではないのである。ロシア革命直後の数年間は本当にそのような党内民主主義は生きていたのである。それを圧殺したのがスターリンであるかのごとくみなされているが、実際にはレーニンでありボリシェヴィキのほとんどの代議員だったのである。スターリンはそれを受け継いだというのが真相であろう。そしてこの劇場の上から全てを操っているのがマルクスだということは改めて述べる必要はないだろう。



(48)勝田吉太郎『知識人と社会主義』99頁


(49)マルクス主義の解剖学 第二部 「スターリン主義の形成」にて、ソ連体制形成の詳細な分析、大テロルの原因の解明がなされている。


(68)アラン・ブロック『ヒトラーとスターリン第1巻』 草思社、2003年、189頁~191頁

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