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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 14 


 『マルクス主義の解剖学』


  第8章 現実化したマルクス主義


 第4節 問題の核心―労働者自主管理

 

 技術者集団、テクノクラートの問題と対応するのが、労働者(プロレタリアート)の自主管理の問題である。これこそがマルクス主義、唯物史観におけるもっとも重大な問題である。社会主義社会、共産主義社会に向かう過渡期としてのプロレタリアート独裁は、当然政治権力としての独裁であるのと同時に、その本来の任務である産業の担い手としてその全体を管理しなければならない。その本来の形態である「階級としてのプロレタリアート独裁」が達成されなければ、共産主義社会に向かうことなど絶対に不可能だからである。したがって、社会主義革命が現実のものとなった今、産業全体のプロレタリアート―労働者による管理、運営の実現は最大に重要視されるべきものである。これがロシア革命直後からどのような経過をたどったのか―これを検討することは何よりもまして重要なものであるはずである。
 

 ところが、ロシア革命に関わる文献を多く読んでいくうちに、この問題は意外なほど取上げられていないということに気づいてきた。さらに、大きくこのような傾向があるのではないだろうか。ロシア革命、ソ連史全体あるいは社会主義国全体に対して基本的に批判的な立場である著者の著作とロシア革命、マルクス主義に対して基本的に肯定的な著者の著作とでは大きく違ってくるように思える。批判的な立場の著作はこの労働者自主管理の問題をかなり取上げている場合が多い。それでもその重要性の認識はまだ物足りないように思えるのだが・・・それに対して肯定的な著作では驚くべきことにこの労働者自主管理の問題はほんのわずか、あるいはまったくといっていいほど取上げられていないのである。思想的、理論的に労働者自主管理の問題を重要なものとして論じているマルクス主義者、社会主義者が実際にロシア革命を論じる時にはこの問題を避けて通っているようにしか見えないのである。これはまさに、その結果を知っているから・・・それは完全な失敗に帰したのだが―都合の悪いものは見ないようにしている、としか思えない。これは心理的にその原因を何らかの外部の客観的条件に求めて、失敗に終わったのだから検討するに値しないという完全な御都合主義になっているのではないだろうか。


 ここではその中でロシア革命に批判的な著者の著作を取上げ、この労働者自主管理を検討したいと思う。これは技術者集団、テクノクラートへのボリシェヴィキの対応と密接に関係してくるのである。これは早い時期からマルクス主義、ロシア革命、ソ連体制に批判的な考察を続けてきた勝田吉太郎の著作集、第三巻『知識人と社会主義』の中からの引用である。


 三 革命の夢と現実


 いかなる革命も、これまでのところ、種々な幻想を生み、達成不可能な美しく高遠な理想の名において遂行されてきた。なるほど闘争の最中においてこそ、理想は闘う人たちの眼に現実的なものと映じていた。だが、その幻想性は時とともに明白なものになっていった。社会主義思想の歴史において最も特徴的な事柄の一つ、それは社会主義の理論家や運動のリーダーたちが、成就されるべき未来社会の形態やそこに生ずべき諸問題について明確な予見も解決策もなしに、大衆を新しい社会理想の実現のために動員しようとしたことにあろう。社会主義の使徒たちは、未来の人間社会に生じる地上的な諸問題―"人間的な、あまりに人間的な"諸問題に心をわずらわされるにはあまりにも黙示録風のヴィジョンを追求する人たちであった。


 かつてトロツキーは、資本主義をば「各人が、自分自身だけのために考え、だれも万人のために考えようともしない」無政府的な経済制度であると特徴づけた。そして一たび資本主義に固有の本質的な非合理性が打破されるなら、すぐにも、万人のために配慮すべき「社会的指導」―それがどのように組織されるかは、慎重に考えられもしなかったのだが―がたち現われ、社会に秩序と合理性をたちどころに生み出すものと信じたのだった。


 実際、未来の社会主義ないし共産主義社会の公共生活の管理や経済的事項の組織運営の諸問題について、多少とも明瞭かつ具体的な指針となるべき思想は、マルクスやエンゲルスのもとでも、抽象的な片言隻語を除くと、まったく見られないのである。『ゴータ綱領批判』のようなドイツ社民党の具体的綱領に対する批評においてさえ、マルクスは共産社会への過渡期の段階のみか、完全な共産主義社会における経済機構についても、具体的な提言をほとんど与えなかった。おそらく「科学的」社会主義の創始者たちは、サン・シモンやフーリエたちによる、あまりに具体的かつ詳細にわたったためかえってナンセンスに等しくなった、かの未来社会についての構想の空想性を警戒するあまり、未来の問題は未来の世代の当事者たちにまかせようとしたのであろうか。レーニンは、死の直前に書いた一文のなかで、権力掌握後きびしい現実の事態にせまられて試行錯誤の政策を企てなければならなかった自己の苦しい経験のあとをふりかえり、こう述懐したのだった。


 「この問題について一語すら書こうとはマルクスは考えもしなかった。そして彼はそれについての正確な引用文一つ残さずに、また反駁の余地ない教示を何一つたれることなしに死んだのだ。だからこそ、われわれはもっぱらわれわれだけの努力でもって、困難から抜け出さねばならないのだ」と。


 したがって、理論家であるとともに実践家でもあったレーニンにしてからが、革命直前の諸論文のなかでは、その後の社会主義建設の実情から見るなら、ほとんど荒唐無稽な夢想の観がある一連の構想を書きつづっていたのは不思議ではない。1917年の10月革命が成功する2ヵ月前に、彼は『国家と革命』でこう認めた。


 「資本主義的文化は、大規模生産、工場、鉄道、郵便、電話その他を造り出した。そしてこの土台のうえで、ふるい《国家権力》の機能の大半は、非常に単純化され、記帳、登録、照合といったもっとも単純な作業に還元されうるので、これらの機能は、読み書きのできるものなら誰にでも、完全にやりうるようになり、またこれらの機能は普通の《労働者賃金》で完全に遂行されうるようになり、これらの機能から何らかの特権的な《お役所風》なものの一切のかげをとり除くことができる。例外なしに、すべての公務員の完全な選挙制および随時の解任制、彼らの俸給の《労働者賃金》への引き下げ―すべてこれらの簡単で《自明な》民主主義的諸方策は、労働者と農民の多数との利害を完全に結合しつつ、同時に資本主義から社会主義への橋わたしの役割を果たすものである」。


 資本主義文明の発達と成熟は、高度の工業社会を造り上げることによって、社会主義のための物質的条件を用意するだけではない。同時に「万人」が実際に国家行政や社会主義企業の運営に参加できるような前提条件をも生み出す―これこそが、レーニンの内奥の信念であった。「このような前提条件に属するもの」として、彼は先進資本主義国において実現されている一般義務教育と、「郵便、鉄道、大工場、大商業、銀行事業などのような社会化された大規模の複雑な装置による幾百万の労働者の教育および訓練」とを指摘した。こうした諸条件が満たされている以上、「資本家および官僚を打倒して、生産と分配の統制、労働と生産物の計算の仕事において、武装労働者、1人のこらずの武装人民をもって(打倒された資本家と官僚に)取り替えるのは、直ちに、今日明日にでも、充分に可能である。・・・・・すべての市民は、ここでは武装労働者からなる国家に雇われた事務員に転化する」。


 当時レーニンがどんなにナイーヴであったかは、革命のわずか2週間ほど前に書いた論文、「ボリシェヴィキは国家権力を保持するか」においても、いかんなく発揮されている。彼はこう書いた、「ロシヤはわずか24万人のボリシェヴィキ党員によって、貧民大衆の利益のために、富者のためでなく、統治することはできそうにない、と人は言う。だがわれわれは一挙に国家機構を10倍に増大するための《魔法の手段》をもっているのだ。それは資本主義国家がもたなかったし、またもちえなかった手段である。この魔法とは、労働者、貧民を国家統治の日常的な業務にひき入れることなのだ」。ポリシェヴィキだけが握っているこの「魔法の杖」を一振りとすると、どのような状況が現われるであろうか?これについてもレーニンは具体的な情景を描いている。要するにそれは、成人男女の大衆すべてが、古代ポリスの市民さながら、融通無碍にある時は警官に、ある時は執達吏に、ある時は裁判官に、ある時は企業経営者にと姿をかえる情景なのだ。この時代のレーニンの著作は、下からの大衆の自発的な創造的エネルギーをほとんど盲目的に信頼し、それに依拠する点で、きわめて濃厚なアナルコ・サンジカリスト的色彩を帯びている。「労働者管理」というスローガンは、レーニンにとっても、アナルコ・サンジカリストにとってと同様に、社会主義社会と国家経済運営上の一切の政治行政的問題を解決する魔法の杖であった。


 10月革命直後に、レーニンが「労働者管理条令草案」を認め、その第一条に、「労働者および勤労者合わせて5人以上の、あるいは年間取引高1万ルーブル以上の、すべての工業、商業、銀行、農業およびその他の諸企業において、すべての生産物および原料の生産、保管、売買に関して、労働者管理を実施する」と書いたのは、このような楽観的精神においてであった。そこにはまた大衆のアナーキスト的ムードを吸収し、それに依拠して革命の権力を掌握維持しようと企図する戦術的考慮もはっきりと表現されている。実際、革命直後に労働者たちは、政府の法令をまつまでもなく、資本家たちを逐い出して工場施設を次々と占拠していた。従ってレー二ンは、このような労働者たちの下からの自然発生的な意識と行動に事後承認を与えたわけである(45)。


 以上、論じられてきた問題は本論の第1章~第7章に至るまで考察されてきたことと照らし合わせてみれば明確に理解できるのではないだろうか。レーニンやトロツキーをはじめとするボリシェヴィキの深層には、反作用としての「魔術的因果性」、「増幅された能力転移」が強固に埋め込まれている。革命が成就されさえすればそれらの魔術が行使できるようになる―逆にいえばこれこそがそのとき置かれたロシアの困難な情勢の中で一直線に迷いなく行動出来たということである。客観的情勢の推移がボリシェヴィキに有利に動いたときレーニンは迷いなく権力を奪取することが出来たのである。


 ひとたび資本主義に固有の本質的な非合理性が打破されるなら、たちまち社会に秩序と合理性を生みだす・・・「増幅された能力転移」が起きた場合のみ、このことは正しいのである。「資本主義的文化は、大規模生産、工場、鉄道、郵便、電話その他を造り出した。そしてこの土台のうえで、ふるい《国家権力》の機能の大半は、非常に単純化され、記帳、登録、照合といったもっとも単純な作業に還元されうるので、これらの機能は、読み書きのできるものなら誰にでも、完全にやりうるようになり・・・」以下、レーニンが論じていることの非現実性の理由を細かく述べる必要はないだろう。マルクスの壮大で巧妙なイデオロギー的歪曲の中に完全に埋没しているからこそ、このような思考は可能になるのである。資本家の経営者としての価値を完全に否定し、中間階層であるテクノクラート、専門家を捨象して、経済機能の重要な領域を思考の外に追いやり、プロレタリアートが権力を奪取すれば搾取者の支配から逃れられ、合理的な秩序ある経済の運営が可能になる。搾取者が本来合理的で秩序あるプロレタリアートのみが運営する経済の妨害者であった、というように。そのことによって上部構造の仕事は単純化され、読み書きのできるものなら誰もがその仕事ができるようになる。そのことによって、労働者、貧民を国家統治の日常的な業務にひきいれることができる。―以上の思考過程への大きな起点はやはり『資本論』の頭脳労働価値捨象であり、頭脳労働と身体労働の相互依存により、経済機能構造が成立しているというもっとも重要な認識を破壊していることであろう。


 現実はまさにそれと正反対である。プロレタリアートのみが経済を担うということは、土台内部の頭脳労働をすべて兼任しなければならない。当然、高度な専門知識、技術も必要になってくる。そして、それだけではまったく足りないのである。情報伝達に関する超高効率の能力が要請される。生物学的限界をはるかに超えたその情報伝達を可能にするためには、脳と脳がダイレクトで結びつくような能力を持ったプロレタリアートが要請されるのである。読み書きができるかどうか・・・例えばマルクス主義者の中にはこのロシア革命の失敗の理由に多くの国民がレーニンの言ったような読み書きさえ出来なかったことを挙げているが、それではこの時、ロシアの大衆の全員が完璧に読み書きができたのならば、事態はまったく変わったものになっていたのだろうか。これは問題の本質から遠く、遠く、遠くかけ離れているのである。そのようなレベルの問題ではまったくないのである。能力問題を下向きに設定することは絶対に出来ない。つまり、レーニンは自分でもまったく不可能なことを大衆に要求していたことになるのである。


 そして、革命直後に労働者たちは、政府の法令を待つまでもなく、資本家たちを追い出して工場施設を次々と占拠していった。ここでは労働者の側の意識、状況の認識といったものが重要になってくる。これら労働者たちは当然ボリシェヴィキのプロパガンダによる社会主義革命のイデオロギーに感化されているだろう。しかし、労働者側にもそれらを支持する強い心理的動機があったとみなすことができる。資本家を追い出し、テクノクラートなどの専門家を軽視することは工場の管理、運営に対してどのような結果をもたらすかということが、よく認識されていなかったことは明らかである。しかし、その理由がどうであれボリシェヴィキが労働者の支持を受けていたということは事実なのであり、10月革命がその蜂起においてはクーデターであったとしても、その全体を純粋に軍事クーデターに還元出来ないことも明らかである。そこには大衆革命としての要素も存在していたのである。


 第5節 労働者自主管理の失敗


 この労働者自主管理を政治権力がその中心となるイデオロギーの遂行として保証し、労働者もそのように行動した・・・まさにそれが歴史的に現実のものとなったのである。その結果は火を見るよりも明らかである。そもそも経営、管理に関して知識や技術を持っていない、あるいはごくわずかしかなく経験もない―そのような人だけしかいなければ工場の運営は当然麻痺してしまうだろう。あるひとつの工場が無計画に製品を生産したとしても、それに関連する領域が相互に情報を交換せず、統一的な運営をしなければ生産物は無駄なものとなり、、、つまり使用価値の付与されないものとなるのである。ここで第7章で考察されてきた「増幅された能力転移」がもし現実に起きれば、まさにレーニンがイメージしたような労働者による経済運営が可能になるのである。逆にいえばこの労働者自主管理が成功するためには「増幅された能力転移」が絶対に起きなければならないのである。トロツキーが言ったように資本主義が打破されれば、たちどころに合理性と秩序が現れる―まさにこれは資本主義勢力を打倒すれば「増幅された能力転移」が起こるという反作用としての「魔術的因果性」なのである。


 四 労働者管理制の運命


 1918年の第1回ロシヤ労働組合大会は、労働者管理制の導入について真剣に論議し、生産の全管理部門に一般労働者が参加し、運営と統制に従事するよう決議した。そしてこの決定は、1919年3月に開かれた共産党第8回大会で承認された。


 しかしながら現実の事態の発展は、労働者管理制を次第に袋小路へと導いていった。実際のところ、内戦と干渉の混乱時代に国有企業への労働者管理制の導入は、国民生活の混乱不統一と経済上の諸困難を増すばかりであった。たとえば1918年のはじめ、鉄道運営の実権は鉄道労働者の委員会にゆだねられたが、その結果、数ヵ月を出ずして輸送はほとんど正常な機能を停止する有様になってしまった。委員会は自主的運営を強情に要求する一般労働者たちのわがままを抑える力をもたなかった。委員会が労働者たちの恣意や横車を押さえようとすると、きまって委員会代表たちに怒号があびせられ、解任されるのがおちであった。こうして結局のところ、混乱の数ヵ月のあと1918年3月26日にいたって、政府(ソヴナルコム)は鉄道労働者の手中から鉄道事業の管理運営の実権をとりあげ、猫の手も借りたいほどに多忙であったトロツキーの強力な腕に交通人民委員部をも委ね、「鉄道輸送に関する事項における独裁的権力」を彼に与えることになった。


 全ロシヤ中央執行委員会の席上(4月29日)、レーニンは鉄道における労働者管理制導入の実情に失望幻滅したことをもはや隠そうとはしなかった。「われわれの課題は、一切の怠業者たちをわれわれの管理の下に、つまりソヴィエト権力の管理の下に就業させ、計算と統制が厳重に組織されるように行政機関を造りあげることである。何十万という不平が私の耳に入っている時、国中が飢えている時、そしてこれらの不平が正しいものであり、パンはあるのにそれを輸送できないという事態を誰でも知っている時、そしてわれわれが下した鉄道法令のような処置に対して左翼共産主義者から嘲笑と抗議が発せられる時、いやはやこれはもはやナンセンスにほかならないのだ」。


 鉄道の混沌は、ソ連の全産業の縮図でもあった。そして鉄道労働者の自主的管理を国家の手にとりあげるという荒療治は、その後の党指導部による全産業政策の原型となった。


 E・H・カーが指摘するように、労働者管理制の導入は結局のところ二つの目的に役立ったにすぎなかったといえよう。つまりそれは、一方では、革命に敵対する旧秩序を下からの大衆のアナーキスト的な「破壊への情熱」によって打破するために猛威を発揮した。他方では、労働者管理制が自己自身の論理的帰結をとことんまで押しつめていった時、それがかえって、より厳格でより中央集権的な新しい管理形態にとり代えられなければならないことを証明するために役立ったにすぎなかったのである。


 労働者管理制が崩壊して各企業が国家の直接統制下に入るとともに、新しい産業規律、企業の単独責任制、ブルジョワ出身で非党員の技術専門家の雇傭などが日程に上った。まだ1918年3月の時点では、国家経済最高評議会のスポークスマンは、工場内にブルジョワ技術者を残留させるのは、「労働者に対する裏切り」であると公言していたほどである。だが、はやくも同じ頃、トロツキーはツァーリ政府の旧将校から適任者を選んで赤軍の士官と幹部へ抜擢していた。やがて1919年12月になると、党協議会の席上レーニンもかつての自説をきれいさっぱりと忘失したかのように、「ブルジョワ専門家」の必要を説き、彼らの助力を高く評価するようになった。


 「われわれは、これらのグループをよりよい状態におく必要を認める。けだし資本主義から共産主義への移行は、ブルジョワ専門家の利用なしには不可能であるからだ。われわれの全勝利、半ばプロレタリア的(ボルトルードヴォェ)で半ば所有欲をすてきれない農民を味方に獲得したプロレタリアートによって指導されたわが赤軍の全勝利は、部分的には、ブルジョワ専門家を利用することができたおかげで得られたものなのだ。軍事的事項に表現されたわれわれ(のこの政策は、国内建設の政策にも適用されねばならない」。


 他方企業の単独責任制も、鉄道における労働者管理の制度が姿を消したのち、党内外の反対をおしきって次第に全企業へ拡大された。レーニンは「ソヴィエト政権の当面の課題」のなかで、こう書いている。「最近鉄道輸送の再編成と正常な組織化とについての問題審議の際に、単独管理権(つまり独裁権と呼んで差支えない権力)が、どれほどまで民主的組織一般ととくにソヴィエトの社会主義的組織原理と調和できるか、という問題が発生した。このような調和はお話しにもならないという意見―つまり独裁的な単独の権力が民主主義とも、ソヴィエト型国家とも調和しない、といった見解は、疑いもなく極めて支配的である。だがこれよりもはなはだしい謬見はないのだ」。レーニンはこう述べたのち、およそ大規模企業のうちで組織された労働過程が能率的に運営されるためには、企業経営者の単独の意志決定に対する無条件の服従が不可欠である、と力説している。


 「鉄道も運輸も、巨大な機械工場も企業一般も、全勤労者を時計の正確さをもって作用する一つの経済的機関に結合させる単一の意志なしには、規則正しく機能することはできない。社会主義は、大規模機械工業によって生み出されたものだ。もしも社会主義を導入した勤労大衆が、大規模機械工業が作用しなければならないような仕方で、自己の制度を適応させることができないならば、社会主義の導入などはとうていお話しにもならないのだ。企業の単独の指導者の命令を自発的に遂行することが必要である」。


 むろんのこと、このような新しい企業運営原理の導入は、労働組合のリーダーや非ボリシェヴィキ活動家のみならず、党内からもはげしい非難と反発をひき起こすことになる。すでに1918年12月に開かれた全ロシヤ国民経済会議第2回大会の席上、メンシェヴィキの代表ダーリンは、のちの「労働者反対派」や「民主的中央集権派」による批判を先取りして、党指導部の責任をこう糺弾した。「プロレタリアートはどこにもいず、あるのはただ独裁、しかもプロレタリアートの独裁ではなく、その手中に死せる工場をしかと握る巨大な官僚機構の独裁にすぎない。諸君は、無制限に圧追と搾取を行いうるブルジョワジーを育成しているのだ」と(46)。


 この引用文の内容を検討していくと、この労働者自主管理が内戦と干渉という混乱時代でなかったとしても、それが機能不全になり失敗することには何ら変わりはないということである。今までこのような労働者管理制が失敗したことに対して、そのときのロシアの置かれた困難な状況をその理由として挙げることが余りにも多い。それはこのような内戦という異常な事態でなければ、さらに資本主義がもっと発展し成熟していてプロレタリアートの数が多く、その意識が高ければそのような失敗に至ることはなかった―このような弁明がなされるのである。社会主義窮乏化理論はそのような外的、内的条件には一切関わりなく、この労働者自主管理は成立しないことを証明している。もっとも、この時の労働者自主管理は社会主義窮乏化理論における実験のような身体労働と頭脳労働をどのように統合するか、という観点自体が存在しなかっただろう。それはまったくのアナーキーな状態と化してしまったのである。ここで例として挙げられている鉄道運営に関しても、それが麻痺してしまえばそれに関わるところのあらゆる流通、運送がストップしてしまう。それはまさに致命的なものとなるのである。


 第6節 労働者自主管理失敗の考察


 労働者自主管理は1918年初めに導入されたが、その失敗は数ヶ月も経ずして明らかになっていた。そして3月26日政府は鉄道労働者の手中から鉄道事業の管理運営の実権を取上げてトロツキーに交通人民委員部を委ね独裁権力を彼にあたえることになった。4月の終わりにはレーニンは鉄道における労働者管理制導入の実情に失望したことをもはや隠そうとはしなかった。レーニンが革命直前にイメージしていた状態とそれが現実になった状態とではまさに天と地の差がある。この問題こそもっとも重大な問題である。たった5ヶ月でレーニンとボリシェヴィキ指導部の認識は劇的に変化していったのである。問題の焦点は次の事にある。この労働者自主管理の失敗と唯物史観、マルクスの理論における関係である。すなわち、「階級としてのプロレタリアート独裁」へ向かうためには、当然プロレタリアートが経済全体を管理することが大前提であるはずである。そうでなければ社会主義社会→共産主義社会へ向かうことは出来ないだろう。これは唯物史観の根幹に関わる問題である。そして現実にはこの労働者自主管理が失敗したということは、そもそも唯物史観の根本が誤っている―この段階においてそう即断することは出来ないとしても、そのような可能性を当然考えなければならないはずなのだ。しかし、レーニンとボリシェヴィキはそのようなことは露ほども考えなかったのである。


 そして、このようなことを露ほども考えなかったのは、この時のボリシェヴィキだけではなくロシア革命、ソ連とマルクス主義、唯物史観の関係を考察する際に多くの人が取った立場だということである。このことが非常に不思議なことであった。つまり、労働者自主管理が成立しなければその管理運営は誰がするのだろうか。革命によって資本家は弾圧され、追放され、あるいは抹殺されている。そうなればその管理運営は官僚がするしかないのである。このことによって経済官僚が大量に生ずるのは絶対に避けられないことである。当然、それは政治権力から下に伸びる階層性をもった官僚構造が構築されていくことを意味している。この官僚制を批判するのならば、労働者自主管理の失敗がどのような理由で起こったのか、どうすれば良かったのかということが最大、最重要な問題になってくる。ところが多くの人は単に官僚制を批判するだけで、そこから先の理由を考察しないのではないだろうか。


 しかし、このことに対してはおそらく次のような反論があっただろう。「世界戦争とそれにつづく内戦によって、労働者階級も疲弊し切っていた。それによって本来の管理運営が出来なかったのだ」、「ロシアは資本主義がまだ未発達で労働者の技量や意識がまだ未熟な段階であった。これがもっと成熟していたならば管理運営は出来たはずだ」、「ロシアは圧倒的な農業国であり、農民が全体の8割を占めていた。労働者階級の絶対数が少なすぎるのである」、「マルクスの前提は一国のみの革命ではなく、世界的な革命を考えていた。ロシアのような労働者が少なく未熟で、なおかつ世界革命が起こりそこから強力な労働者階級の支援がなければ労働者自主管理運営は到底困難である」これらのことが幾つも並べられると、なるほどもっともだというような感覚を持つようになる。だが果してそうだろうか。例えばここで挙げられている鉄道運営を考えてみれば、これらの条件がすべて満たされていたら―戦争という困難な状態でなければ―資本主義がもっと発達していれば―世界革命が起きて他の国の労働者が支援に駆けつけてくれたら―労働者自主管理運営は順調に進むのだろうか?つまり、ここで言われていることは唯物史観における「土台の変革」を直接問題にしているのではなく、その周辺を論じているのである。


 土台の変革―経済機能構造の変革は今まで論じてきたように、無階級化のためには身体労働を基盤としてそれに相互依存している頭脳労働を統合しなければならない。それが労働者自主管理を成功させる本質的な指標である。つまり、これはそれまでの労働形態内部での統合の問題であり、その外部条件、資本主義の段階、戦争、他の国での革命といったものはまったく無視してよいような問題なのである。労働者の数というのも、鉄道運営ならそれ以前にそれが機能していたならば、機能上の数というのは満たされていたのであり問題にならない。その国全体の労働者の割合というものに直接の関係はない。そして、労働者自身の技量や意識というものが問題になってくるわけであるが、まさにこれが身体労働を行いながら頭脳労働を兼任するという能力―そのような技量や意識が必要になってくるのである。これが資本主義段階の問題とはまったくかけ離れているということは明らかであろう。もちろんこのような能力は現実には存在しない。そこで経済機能を保とうとすればそれは必然的に階層性を持つことになり、労働者内部で頭脳労働と身体労働の分業が生じてくることになる。現実の問題としては、このような短期間で頭脳労働を習熟することは不可能であり、管理運営は官僚の手に移らざるをえないのである。


 「レーニンはこう述べたのち、およそ大規模企業のうちで組織された労働過程が能率的に運営されるためには、企業経営者の単独の意志決定に対する無条件の服従が不可欠である、と力説している。『鉄道も運輸も、巨大な機械工場も企業一般も、全勤労者を時計の正確さをもって作用する一つの経済的機関に結合させる単一の意志なしには、規則正しく機能することはできない。社会主義は、大規模機械工業によって生み出されたものだ。もしも社会主義を導入した勤労大衆が、大規模機械工業が作用しなければならないような仕方で、自己の制度を適応させることができないならば、社会主義の導入などはとうていお話しにもならないのだ。・・・・企業の単独の指導者の命令を自発的に遂行することが必要である・・・・』」。レーニンのこの言動はかぎりなく重要である。わずか2、3年前までこのようなことはまったく考えられもしなかっただろう。レーニンの思い描いていた世界はこれとはまさに正反対であったのである。これは180度の転換を意味している。これは本論で追及されてきた経済機能構造が必ず階層性を持たなければならない、ということが現実のものとして認識されたわけである。もっとも、このようなことは資本主義社会の経営管理に関わるものなら常識的なことである。このようなまったく常識的なことが、この段階でやっとわかったということなのである。しかし、このような経済機能構造の階層性に縛られることが労働者の疎外ではないだろうか。これこそ、マルクスが解決しようとした問題なのではないだろうか。しかし、レーニンにとってみれば「背に腹は代えられぬ」ということになったのである。


 そして、さらなる問題はその次の「社会主義は、大規模機械工業によって生み出されたものなのだ」ということにある。この場合の社会主義は大規模機械工業という経済形態によって生み出された抽象的な理念、という意味ではない。そうだとすれば、ある程度19世紀の社会主義思想の生み出された事実関係を述べたものとして妥当性をもっているだろう。しかしこの場合の社会主義は、すでに現実の経済形態として現存している―という意味であり、それが大規模機械工業から生み出された、あるいは生み出されるべきものである―ということである。ここにこそ「唯物史観」の巨大な刷り込みがなされている。これは一体何を根拠にしているのだろうか・・・これを追求していけば、これには何の根拠もない単なる希望、願望にすぎないことがわかるのである。この場合の社会主義に現実の経済形態に対する有意味な対応関係は何もない。ここにあるのはただ単に「資本主義が生み出した大規模機械工業があり、社会主義は資本主義のあとにくるものであり、資本主義よりも進んでいるのだから大規模機械工業を受け継ぎ、さらに発展させたものである」という論理があるだけである。そして、社会主義が共産主義に向かう過程であり、それが無階級化に向かうということをその本質としているのだから、大規模機械工業と社会主義とはまったく水と油であり、両立するはずはないのである。つまり、それ以前の前提「唯物史観」の資本主義のあとに社会主義が来る―このことが完全な誤りであるということである。この事態になってもレーニンとボリシェヴィキは「唯物史観」が誤りであったなどとは微塵も考えることはないだろう。また、社会主義革命のルビコン川を渡った以上もう引き返すことは出来ず、革命の誤りを根本的に認めることは自らの破滅を意味していたのである。


 この誤りを認められないということは、もうひとつその誤りの所在がどこにあるかということが非常にわかりにくい、というところにもある。これも本論の今までなされてきた考察を繰り返すことになるが、マルクスが『資本論』をはじめとする著作で構築してきた論理体系、頭脳労働形態、頭脳労働価値を否定ないし捨象しながら資本主義社会の動態分析、過程分析を行ってきたという壮大なイデオロギーの宇宙に完全に埋没しているからである。資本主義の動態分析から導き出される資本主義社会の矛盾と行き詰まりは、科学的な精密さで立証されるのであり、その次に来る社会は必ずその矛盾を解決した社会であると歴史法則が保証しているのである。その資本主義の動態分析をする構成要素の中に、資本主義の矛盾を解決するために考えなければならない不可欠な要素がありながら、それが完全に消去されているなどとはまったく考えられなかったのである。これは完全に常識的な心理の裏をかいている。そのような構成要素がもしないとするならば、その動態分析は完全なものであるはずはなく、欠陥だらけのものになるはずだからである。ところが、その構成要素「頭脳労働形態、価値」がなくても動態分析はほとんど問題なく進めることが出来たのである。そのことから逆に、資本主義の矛盾を解決し社会主義に向かうための構成要素は十分に満たされている、このような強固な刷り込みがなされているのである。


 また、次のことはさらに重要だといえるだろう。唯物史観によってこれは歴史上の問題であり、過去の革命の類推によって社会主義革命も推し図ることができる、ということである。革命には過渡期があり、それが次第に収束して安定した状態を迎える。その期間は数年から数十年かかるのが一般的である。革命が勃発し、その革命勢力がまったくそのままの状態で保持されているのに、革命が失敗に終わっている―などということがあるとは誰も考えないのである。革命勃発後、数ヶ月がたったときに、当初に考えていた通りにならなかったとしても、これから修正していけばよいことである、と当然考えるのである。しかし、ロシア革命に限ってこれは当てはまらない。この革命はそれ以前の革命と根本的に異なっている。この革命は完全な兼任を達成できる能力が得られるとされるイデオロギーにもとづく革命なのであり、それ以前のいかなる革命ともまったく断絶している。過去の革命との類推は本質的には無効なのである。


 そして、以上のような誤りを共有していたのはレーニンとボリシェヴィキ指導部だけではなく、一般党員、労働組合のリーダーや労働組合員、さらにメンシェヴィキも同じだったのである。「プロレタリアートはどこにもいず、あるのはただ独裁、しかもプロレタリアートの独裁ではなく、その手中に死せる工場をしかと握る巨大な官僚機構の独裁にすぎない。諸君は、無制限に圧追と搾取を行いうるブルジョワジーを育成しているのだ」メンシェヴィキの代表ダーリンはこのように言ったが、このような事態になるのは必然であり、そもそもプロレタリアート独裁というものが非現実的である。唯物史観のイデオロギーに完全に埋没している、という点でボリシェヴィキもメンシェヴィキもまったく同じだったのである。それは、唯物史観のもっとも本質的な誤謬「能力問題」が現実になったとき、その矛盾は巨大な壁になって立ち塞がったのである。ここに参加している全員が、この矛盾にまったく気づかず行動するとき、一方ではどうにもならない経営管理の状態を正常化するために官僚支配を強化せざるをえない。そして、一方ではそのような事態は唯物史観、社会主義、共産主義に対するまったくの裏切りであり、そこから逸脱するものであるという批判、非難が増大するだろう。


 この事態には絶対確実にいえる原理的な非対称性がある。それは権力を行使する指導部は産業における生産力を維持、拡大していくために経済機能構造を絶対に維持しなければならないということである。資本家の存在を完全に否定しているのだから、この構造を担うものは官僚以外にはいない。どれほどそれが唯物史観、共産主義への道から逸脱しているように見えたとしても、現実に高度産業社会における生産力を保持しなければならないのである。そうしなければ、社会の秩序ある構造は破壊され途方もないカオスがもたらされるだろう。当然、それは自らの破滅も意味している。そして一方の権力を行使する立場でないものは、このような事態を絶対に受け入れられない―これはマルクス主義、共産主義の真摯な信奉者なら必ずこのようになるだろう。しかし両者はどちらも唯物史観、マルクス主義の真摯な信奉者なのである。この両者は原理的な矛盾から、原理的な非対称性が生じ、対立的な立場に置かれるのである。しかし、権力を行使する側はそれ以外のものを絶対に従わせなければならない。そうしなければ、権力基盤そのものが存在しなくなってしまう。つまり、ボリシェヴィキ指導部はこのようなメンシェヴィキからの批判、そのあとは労働者反対派からの批判に対して、その批判が正しいがゆえに自らの存在を脅かす最大の凶器になる、と感じるだろう。その批判を封じるために秘密警察を使った物理的な強制手段を使うことになる。あるいは分派禁止によって自由な討論、党内民主主義を抑圧せざるをえなくなるのである。


 ボリシェヴィキは、彼らが祝福して1917~18年に導入した「労働者統制」から生じた経営管理のアナーキーを克服することにおいては、より大きな成功をおさめた。工業企業を管理する参議制の方法では、経験のない労働者と労働組合の役員が決定権をもっており、戦時共産主義のもとで工業生産性が劇的に低落したことの多くは、この方法に責任があった。早くも1918年の春に、レーニンとトロツキーは、個々の経営管理者に執行権を委ねる必要があると語っていた。しかしながら、労働者は、そのような変更には抵抗した。彼らは「労働者統制」を革命の偉大な成果の一つとみなすようになったからである。内戦の終了とともに、政府は彼らの抗議を無視することができるようになり、1921年末までに、ソヴィエトの工場のうち、10分の9は経営責任者のもとにおかれ、その多くが旧体制からの残留者であった。


 それにもかかわらず、党の干渉、労働者の直面した経済的苦難、そして刺激の欠如により引き起こされた工業生産性の冷酷な下落を、どのような行政措置をもってしても遅らせることはできなかった。この下落を示す様々な指標がある。大規模な工業生産は全体として、1913年と比較して、82%降下した。1913年の生産を100とすると、石炭の産出高は、1920年までに27・0に、鉄は2・4に、綿紡績糸は5・1に、石油は42・7まで落ちた。ロシアの労働者の生産性は(実質ルーブルに換算して)、26まで落ちた。雇用されている工業労働者の数は、1918年を100として、1921年には49に低下した。要するに、戦時共産主義のもとで、ロシアの「プロレタリアート」は半分に減り、工業生産は4分の3、工業生産性は70%低下したのであった。1921年に、レーニンは、この残骸を見渡しながら、「プロレタリアートとは何か、それは大規模な工業に就労する階級である。すると、どこに大規模な工業は存在するのか。これは、どんなプロレタリアートなのか。きみたちの〔!〕工業はどこにあるのか。何故、それは遊休しているのか」と激怒した。この修辞疑問に対する答えは、レーニンが是認してきたユートピア的なプログラムこそがロシアの工業を殆ど破壊し、ロシアの工業労働力を半減させてしまったということである。しかし、急速に工業の崩壊が進むこの間に、工業を管掌する官僚機構の維持費用は、うなぎ登りに増大した。最高経済会議の人員は、1918年3月の318人から、1921年には100倍の3万人を雇うまでに拡大したのであった(47)。



(45)勝田吉太郎『知識人と社会主義』ミネルヴァ書房、1992年、92頁~95頁


(46)同上書 96頁~98頁


(47)リチャード・パイプス『ロシア革命史』206頁



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