反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 12 


 『マルクス主義の解剖学』


 第7章 マルクス主義の宗教性


 第4節 マルクス主義の「呪詛」の構造

 

 以上の事を踏まえて、マルクス主義における「呪詛の論理」の構造を分析していくことにする。まず、はじめにトロツキーの有名な『ソ連はどこへ-裏切られた革命』から、レーニンの理論を題材にして検討してみよう。これはトロツキーもほとんど同様な考えだと思われる。


 レーニンによれば、国家の死滅は早くも収奪者の収奪のあとの翌日に、すなわち新しい体制がみずからの経済的、文化的課題に着手するまもないうちにはじまる。それらの課題の解決の途上でのひとつびとつの成功は、まさにそれ自体が国家の廃絶の、社会主義社会への国家の溶解の新たな一段階を意味する。この溶解の度合いが社会主義建設の深さと成功度の最上の指標である(37)。


 国家の死滅は、収奪者の収奪の後の翌日にはじまるのだという。これは文字どおりではなく、ひとつの象徴的な言い回しかもしれないが、革命の直後に国家の死滅がはじまる―と考えていたことは間違いない。今まで国家の死滅の問題に触れてこなかったが、国家は上部構造の最大のものといってよく、国家の死滅は上部構造の消滅と関連付けて考えるべきものである。そして、上部構造の消滅のためには階級対立を消滅させなければならず、それには土台内部において相互依存している頭脳労働と身体労働を統合しなければならないのである。それは社会システムの問題ではなく、情報伝達、情報処理、意思決定の能力の問題である、と論じられてきた。その能力とは「完全な兼任を達成できる能力」である。収奪者の収奪の翌日ということは、ほとんど国家の死滅は革命の結果として、因果的に結びつけられていると解釈できる。以上の論理連関から、社会主義革命の結果として、「完全な兼任を達成できる能力」への進展がはじまる―ということになる。


 ここでは大きく二つの問題がある。「新しい体制がみずからの経済的、文化的課題に着手する」とあるが、特に資本制生産様式の頭脳労働領域に対して、その知識や技術をどのように権力を握った階級に移行するのだろうか。収奪者とは当然、資本家(これは小規模経営者も含まれる)、さらにはブルジョワ政治家などであるが、テクノクラートや中間管理職は微妙な位置にある。場合によっては、これらも収奪者のなかに入ってしまうだろう。収奪者を収奪するとは、それらのものを抑圧し、反抗してきた場合には撲滅、抹殺するということも必然となる。そうなると、高度産業社会において不可欠なこれらの知識、技術をもった者たちを撲滅したら、どうやって権力を握ったプロレタリアートに知識や技術を移行するのだろうか。社会主義社会においては、プロレタリアートは資本主義社会よりも高度な生産力をもつ、とされている。ということは、当然高度な技術、知識を持っているということが大前提となるだろう。これらはどこからもたらされるのだろうか。そうなると、抑圧、収奪、撲滅、抹殺したものの能力が、そうすることによってプロレタリアートに「能力転移」すると考えなければならないことになる。


 もちろん、これは現実にはありえないことである。これはまさに前節で検討した、Bに虐げられてきたAがBを殺害することにより、Bの能力がAに乗り移る―「能力転移」するということと同じである。・・・それならば、以下の事を考慮した場合にそれはどのようになるだろうか。すなわち、革命を指導する革命家が「能力転移」の問題をよく理解していたと仮定しよう。プロレタリアートが権力を握った時、どうしても経営力や高度な技術、知識がプロレタリアートにないことは如何ともしがたい。革命後に資本家やテクノクラートを抑圧、撲滅してしまったのではプロレタリアートにそのことを教える人々がいなくなってしまうだろう。それならば、革命を起こす以前にプロレタリアートにその知識、技術を持たせるよう訓練しておかなくてはならない。そこで革命家は、革命を起こす以前にプロレタリアートにそのような訓練を施し、教育することにした。現実にはこれはほとんど不可能なことだと思われるが、そのようなことが十分になされたものと仮定する。これならば「能力転移」を考える必要はないということになる。


 しかし、ここで第二の問題が生じてくるのである。革命家はプロレタリアートにその能力が十分に備わったということを確信し、社会主義革命を勃発させた。資本家とその勢力は抑圧され、その財産は収奪された。また多くの人々が抹殺された。そして、プロレタリアートはその生産体制を自らのものとし、社会主義社会の建設に乗り出したのである。―この結果はどうなるかは本論の今までの考察において解明されてきたことである。これは直ちに情報伝達、情報処理のコストが増大し、頭脳労働量の爆発的な増大が起り、身体労働時間が圧迫され、生産力は破壊されてしまうのである。プロレタリアートに完全に頭脳労働の能力が備わっていたとしても、それは以前の資本家、テクノクラート、中間管理職と生物学的な基本能力は同じだからである。つまり、「能力転移」の問題を完全にクリア出来たとしても、「情報伝達、情報処理のコスト増大」の問題は絶対に解決されない。しかし、革命によって社会主義社会に向かう、国家は死滅に向かう、ということは革命によって、そのような生物学的基本能力も飛躍的に向上する、ということを意味するのである。


 以上のことを総合すると、引用文の意味は、収奪者を収奪する―革命を起こすと収奪者の能力がプロレタリアートに「能力転移」する。しかも、それは飛躍的に向上し転移するということになる。それはその経済学的範囲の能力だけでなく、生物学的基本能力も飛躍的に向上しつつそうなるということである。すなわち、能力が増幅されて転移する「増幅された能力転移」が起こるということになる。これはこれ特有の「敵を撲滅すれば救われる」という「呪詛の論理」による呪詛宗教だといえるのではないだろうか。

 

 第5節 反作用としての「魔術的因果性」

 

 マルクス主義は、世界を解釈するだけでなく、世界を変革することが重要であるとみなしている。その解釈も変革する手段も唯物論にもとづく、科学的なものであるということである。それらは当然、「科学的因果性」にもとづくものであり、「魔術的因果性」を厳しく退けている。マルクス主義の基本には科学的世界観があり、それは今まで広く常識的なことであった。ところが、現存した社会主義体制が崩壊した現代では、それは著しく揺らぎ、それは魔術的なものではなかったかという批判が生じている。それでは一体どこに問題があるのだろうか?その核心となるポイントが押さえられないと、明確な理解には達しないだろう。


 世界を「科学的因果性」によって解釈する―まず、最初にこれは認められることにしよう。社会学的な領域に、このような概念を厳密に当てはめることは不可能であるが、それ以前の思想や理論から「科学的因果性」が、相対的にみてより重視されていることは間違いない。それにもとづいて、世界を変革するための手段を考察する。これも、「科学的因果性」にもとづいたものである―これも認められることにしよう。その手段がすなわち「社会主義革命」であることはいうまでもない。それでは、世界を変革するための「魔術的因果性」による手段とはどのようなものが考えられるだろうか。これこそマルクスが厳しく糾弾した「宗教の祈りなどによる救済」である。さらに、このようなことは論じられたことはないが呪詛による変革がある。ブルジョワジーに対して呪いをかけ復讐する、というようなことである。これらは、変革しようとする主体が世界に対して働きかけること―「作用」することである。その「作用」の在り方が「科学的因果性」にもとづいているか、「魔術的因果性」にもとづいているか、という違いである。これらの解釈と作用を考えているかぎり、マルクス主義は「科学的因果性」にもとづいているもののように見える。ところが、問題はその次にある。


 今まで考察してきたとおり、社会主義革命の結果として「能力転移」さらには「増幅された能力転移」が想定されているのである。これらが「魔術的因果性」によるものであることはもはやいうまでもない。これらは作用に対する反作用であると考えることができるだろう。すなわち、世界を変革する、世界に作用する時は「科学的因果性」であり、その反作用が「魔術的因果性」になっているのである。これが非常な盲点になっている。作用としての「魔術的因果性」は、誰でも簡単にそのようなものであることが理解される。しかし、反作用は理論の外側にあり、マルクス主義は統一的に「科学的因果性」によっているのだから、世界に働きかけることの反応は「科学的因果性」の枠の中だけしかとらえることが出来ない。そのような先入観の世界に限定されてしまうのである。


 この反作用としての「魔術的因果性」の構成は、ひとつは「能力転移」であり、もうひとつはそれが「増幅されたものである」ということにある。問題の本体は後者、すなわち「完全な兼任を達成できる能力」に増幅されることにある。「能力転移」はある程度の対処は可能なのである。今まで検討してきたように、この能力上の途方もない要請は「均等割り振りや完全な兼任の技術的問題」から生じてきている。社会主義革命の結果、社会主義から共産主義社会へ向かうという歴史的に必然とされる過程は、進歩的、法則的な歴史観や階級闘争の弁証法的な発展や資本主義社会の矛盾や行き詰まり、という多くの論理から導き出されている。この共産主義社会へ向かうという展望と論理の中に、今までほとんど意識されたことがなく、論じられたこともない「均等割り振りや完全な兼任の技術的問題」が存在する。これが無意識化されていることによって、これを思考する主体は能力問題を意識することなく社会主義革命の後の過程も、「科学的因果性」に従っていると思い込むことになる。しかし、それが決定的な誤謬なのである。「科学的因果性」と思っていたものは実は「魔術的因果性」だったのであり、思考過程の中には「科学的因果性」と「魔術的因果性」の混成体が生じてきている。


 最初の段階で、マルクス主義は世界を「科学的因果性」として解釈する―ということを認めた。ところが、反作用としての「魔術的因果性」を通過してからそれにもとづいて世界の再解釈が行われる。この再解釈の段階で、すでにそれは「魔術的因果性」が混入しているのである。そしてこの再解釈に従って、社会主義革命が思考されることになる。それは作用としては「科学的因果性」として考えられるが、反作用としての「魔術的因果性」を前提としたものとなる。これはあらゆる論理の中でももっとも震撼すべきものである。すなわち敵の階級を収奪すれば収奪するほど、撲滅すれば撲滅するほど、革命の主体は素晴らしい能力を持った人類へ発展していくことができる―このような論理はナチズムにおいてすら存在しないのである。ただし、これは明確に意識されることは絶対になく、深層心理の中に埋め込まれた論理なのである。(それに対して、ナチズムの人種主義イデオロギーは明確に意識されたものだという違いはある)。社会主義革命、共産主義革命と「増幅された能力転移」は原理的に一体であることを再度、強調しておきたい。


 マルクス主義の体系は「均等割り振りや完全な兼任を達成できる能力」―このような能力問題を隠蔽することが最大の課題なのである。そのためには土台の変革を観念的、抽象的に扱い、絶対に具体的な思考へと向かわせないことなのである。『資本論』において経済機能構造論に不可欠な頭脳労働形態、頭脳労働価値を徹底的に否定、捨象したということは、まさにこれが社会科学的理論体系を偽装した完全な一貫したイデオロギー体系であることを物語っている。以上のことから、マルクス主義の伝統的な救済宗教に対する姿勢がどれほど欺瞞に満ちたものであるか明らかになった。伝統的な救済宗教における作用としての「魔術的因果性」を強調して批判することは、自らの反作用としての「魔術的因果性」から注意をそらせ、隠蔽するための巧妙な手段でもあるだろう。

 

 第6節 認識と因果の両義性

 

 これまで反作用としての「魔術的因果性」を考察してきた。しかし、マルクス主義関係の多くの文献では社会主義革命以後の因果的発展だけでなく、すでにそのような能力がプロレタリアートに備わっている―というような論述が多く見受けられる。もちろん、これは直接にその能力に言及しているわけではない―要請された生物学的能力は社会的能力に転化させられていて、抽象的な深層心理の中に埋没させられている。これは資本主義社会の段階において、すでにそのような能力がプロレタリアートに存在している、あるいは胚胎している、という認識である。もちろんこれは事実認識として完全な誤りであるわけだが、この認識か因果性か、という問題は非常に曖昧であり両義的な性格を持っているといえるだろう。この曖昧さが生命線であるともいえるのだが、これはそのどちらかに重点を置いても、あるいはそれらが統合されているような形態だったとしても、結論はまったく同じだということは一目瞭然であろう。ここでいくつかその事例を引用し、詳しく考察していくことにする。


 ・・・第三に、社会的労働による共同的生産では、生産過程は、自由な諸個人によって意識的計画的に統御される。すなわち、「社会化された人間、アソシエイトした生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝を、盲目的な力としてのそれによって支配されることをやめて、合理的に規制し自分たちの共同的統御のもとに置く」のである。ここで肝心なのは、計画的・共同的統御の主体がアソシエイトした諸個人であって、彼らから自立化した国家や国家機関等々ではありえない、ということである。


 第四に、共産主義社会における生産は、個人的・分散的な生産にたいする、多数の諸個人の協働的な労働による大規模生産という意味での「社会的生産」である。資本主義的生産のもとで成立した大工業はすでに、科学の意識的応用と多数の諸個人の協働とによって特徴づけられるまったく社会的な過程であるが、しかしその科学的性格と社会的性格とは、労働する諸個人から取り上げられて、資本のものとなっている。これにたいして、共産主義社会のもとでの社会的生産は、主体としての自由な諸個人が意識的にアソシエイトして行なう生産であり、彼らが自然を、自らの普遍的な対象とし、科学にもとつく彼らの協働によって全面的に統御するのである。


 第五に、共産主義社会では、生産手段にたいする私的所有が完全に廃棄されている。資本主義社会における社会的生産はすでに、事実上、「生産手段にたいする労働者の社会的占有」をもたらしているのであって、「少数者の大量所有」によって蔽い隠されているこの潜在的な「社会的所有」は、資本主義的私的所有の廃棄によって顕在化する。この社会的所有の意味は、アソシエイトした多数の諸個人が、大規模な生産手段、労働の客体的諸条件にたいして自己のものにたいする様態で関わる、ということである。それは、「個人」とは区別される「社会」、たとえば国家、自治体、等々による所有、という意味ではまったくない。生産手段の国有は、それ自体としては、けっして生産手段の社会的所有ではないのである(38)。


 資本主義社会における社会的生産はすでに、事実上、「生産手段に対する労働者の社会的占有」をもたらしているのである―労働者はこの生産手段に関する資本家、経営者、中間管理職、技術者、事務職などの情報を司ってはいないのだから、これは完全に事実に反している。そもそもこのようなことは議論の対象にもなりえないだろう。だから、「少数者の大量所有」によって覆い隠されているわけでもないし、資本主義的私的所有の廃棄によって顕在化などするはずはないのである。まさにこれがロシア革命の時、レーニンとボリシェヴィキがやったことなのであり、当然、資本家が駆逐されても労働者の社会的占有は顕在化などしなかったのである。このような歴然とした歴史的現実をまったく見ようとしないのは、この理論を無批判的に信奉している証拠である。


 以上の引用文から読み取れる事は、共産主義社会を構成する個人は社会主義革命の結果、新しく出現するというよりも、すでに資本主義社会の中に存在しているということである。


 ・・・ところが、資本主義的工場生産において労働者たちは、自己の仕事の成果―それは大きな製品のごくごく小さな部品の流れ作業の中の所産でしかない―を見て、それを享受することなど、つまり「自己活動」などはまったく不可能である。いわゆる「死せる労働」である。「個人が今なお生産力および自己自身の生活と関わる唯一の連関は労働である。そして、個人においてこの労働からは、自己活動という幻想は一切失われてしまった」(ドイツ・イデオロギーから)。自己実現の可能性が一切ないなら、集団でそれを取り返して、「生ける労働」を、つまり芸術家が作品を作るように、喜びに満ちた労働を集団次元で実現する以外にないということになる。そのためには、社会の隅々にまで発展した(マルクスの表現でいえば「全体性にまで発展した」)生産力を奪取しなければならない。


 奪取すれば、芸術家のように自由な創造が可能となる。「こうした生産力の奪取はまさに、物質的生産手段に相応する個人の能力をさらに発展させることになる。生産手段の全体を奪取するということは、その点だけから見ても、個人たち自身に潜む能力の全体性を発展させることなのである」(ドイツ・イデオロギーから)(39)。


 「奪取すれば、芸術家のように自由な創造が可能となる」大規模工業のこのような労働と芸術家の創作活動と同列には論じられない、ということを説明しなければならないのだろうか。芸術家の創作活動はその大部分が個人によるものであり、そして外部から合目的的に規制されてはいないのである。ここでも重要なことは工業生産物の生産と芸術作品の創作に関わる人数の違い、すなわち脳の数の違いである。それは非常に多数の脳が関わる工業生産とひとつの脳によって創作される芸術作品の決定的な違いである。


 少し例外を考察してみると、芸術家の創作も複数の人間が関わる場合もある。ルネッサンスの画家ラファエロは多くの弟子を使い壁画を描いている。しかし、弟子たちはまったく独立的に描いているわけではなく、ラファエロの指示、監督によって描いているのである。中心になるものはあくまでひとつの脳であり、そこには階層性が生じてきている。現代の美術家クリストは非常に大規模な作品を作ることで知られている。それは長い岩の海岸線や大きな建造物を丸ごと布で包んでしまう、島を布で囲んでしまう、砂漠や田園地帯に1,000個以上の巨大な傘を立てる―このような環境を変えてしまうような作品は見る者に新鮮な衝撃を与える。この作品の制作に関わる人々は非常に多数になる。建築、土木関係者やときには数百人のボランティアによってこれらの作品は作り上げられるのである。しかし、これらの人々は作品の制作自体に主体的に関わっているわけではない―あくまで作品の構想を練り、具体的な指示を与えているのはクリストという個人であり、それはひとつの脳なのである。制作に協力した人々はクリストの手足となって働いているのである。


 大規模工業の労働者ひとりひとりが主体的な芸術家になり、生産物を生産するということと、資本家から生産手段を奪取するということとは何の関係もないことは明々白々ではないだろうか。大規模工業の労働者が生産物を芸術作品のように制作するためには、その生産に関わる多数の労働者の脳がひとつになるような超絶した新人類にならなければならないだろう。すなわち、完全な兼任を達成できる能力を持った人類である。まさにこれが資本家から生産手段を奪取すれば、そのような能力を獲得することができる―増幅された能力転移が起こるという反作用としての「魔術的因果性」なのである。


 また、このような能力が資本主義社会の労働者にすでに備わっているとすれば、資本家経営の工場などさっさと辞めてしまい、その労働者だけで新しく起業すれば良いだけなのである。資本家経営の工場よりも遥かに効率の良い、優れた生産物を生産できる―また労働者自身が芸術家の創作活動のような労働を行なえるだろう。以上の考察から、このもっともらしい引用文は大変な魔術的論理によって成り立っていることがわかるのである。


 資本主義的生産様式の特徴は次のことにある。第一に、労働者は労働力の売買契約によって「必要労働時間」を超えて働くこと「剰余労働時間」を指示されるのだが、その結果として生み出される「剰余価値」は資本家にとって「利潤」として所得されるのであり、「利潤」の獲得こそが資本主義的生産様式の目的となる。第二に、個々の資本家は、他の資本家との競争の中で「特別利潤」を確保するために、自分の企業における「労働の生産力」を発展させることで生産物の個別的価値を引き下げようとするのだが、その意図せざる結果として、社会的に見れば「必要労働時間」部分が短縮され、「剰余労働時間」部分が相対的に延長されて、「相対的剰余価値」が生産されることになる。


 つまり、資本主義的生産様式は絶えず必要労働時間を引き下げ、その結果として、可能態としての「自由な時間」を創出している、ということである。もちろんこの「自由な時間」は、労働者にとって見れば、剰余労働を強制される時間に他ならないのであって、その分はそのまま、資本家その他の非労働者にとっての「自由な時間」に転化されている。搾取とは、社会的に創出された「自由な時間」を支配階級が独占的に享受する(他方で、被支配階級には長時間労働を強制する)、という時間の不公正な分配のことなのである。それをマルクスは、「文明の横領」と表現している。「自由な時間とは、すべて、自由な発展のための時間であるから、資本家は、労働者にとって創りだされた、社会のための自由な時間、すなわち文明を、横領するのである」


 しかし、横領されているということは、すべての人の自由時間となりうるだけのものがすでに現に生み出されているということである。言い換えれば、資本主義がもたらしているのはたしかに労働者階級の「疎外」なのだが、それは途方もない「疎外」なのであって、しかも反転しさえすれば、途方もない豊かさをすべての人にもたらしうるような、そのような「疎外」なのである。したがって、問題は、この「まだ転倒した逆立ちさせられた形態」をどのようにしたら反転させることができるか、ということにある(40)。太字強調 筆者


 以上の文章を検討してみよう。第一段落の部分は特に問題はない。これはマルクスの資本主義的生産様式を分析した大きな成果であろう。問題は第二段落で生じている。「必要労働時間を引き下げその結果として、可能態としての「自由な時間」を創出している」としているが、今まで検討してきたことからわかるように、可能態としての「自由な時間」など創出されてはいないのである。これらはすべて、頭脳労働形態や頭脳労働価値をまったく無視することから生じている。「その分はそのまま、資本家その他の非労働者にとっての「自由な時間」に転化されている」部分的にはそのようにいえる状況があったかもしれない(特にマルクスの時代においては)しかし、現代においてはほとんど当てはまらないだろう。そもそも、「自由な時間」など存在しないわけだし、資本と経営の分離、賃金労働者でも株を持ち資本家でもあるという状況がある。「文明の横領」などといえるものではないのである。


 しかし、最大の問題は第三段落である。「すべての人が自由時間となりうるだけのものはすでに現に生み出されているということである」このことは、頭脳労働が果たしてきた機能を頭脳労働が存在しなくても成り立つ、という途方もない誤謬から生じてきている。マルクスはヘーゲルを「頭で逆立ちしている」と批判したが、マルクスはその正反対であり、頭がなくても経済は成り立つ、といっているようなものである。あるいは、これが本論で展開されてきたことだが―労働者が完全な兼任を達成できる能力を持てるようになる、あるいは、そのような情報伝達、情報処理、意思決定の能力を持っている、ということになる。第2節「呪詛の論理」に対する反論、の反論②に対する応答として、社会主義革命から共産主義社会に至る過程で具体的なものは資本家階級に対する物理的攻撃しかない。それ以外は具体性がなく、短絡的な論理に陥っていく、ということが問題にされた。ここではまさに「反転しさえすれば、すべての人に途方もない豊かさをもたらす」という単純極まりない論理しかないことがわかる。ここでいう「反転」とは、いうまでもなく現実には社会主義革命であり、資本家階級に対する物理的攻撃を意味する―それ以外にはありえないのである―つまり、ここでいわれている事はロシア革命の再現でしかないだろう。


 しかし、本論での結論は明らかである「反転」した瞬間に生産力は粉々に破壊し尽くされる。地獄の破滅が待っているだけなのである。


(37)トロツキー『ソ連はどこへ-裏切られた革命』藤井一行訳、窓社、1988年、106頁


(38)大谷禎之介  他『ソ連の「社会主義」とは何だったのか』大月書店、1996年、7,8頁


(39)マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー、哲学の貧困、コミュニスト宣言』今村仁司 鈴木 直 三島憲一 塚原史 麻生博之訳、筑摩書房、2008年、442頁


(40)植村邦彦『マルクスのアクチュアリティ』新泉社、2006年、188,189頁



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