反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 11 

 『マルクス主義の解剖学』


 第7章 マルクス主義の宗教性

 

 ここでは今までの考察を踏まえて、マルクス主義の宗教性を哲学的、科学的に追求していくことにしたい。これは「マルクス主義の解剖学」の中心になるものである。
 

 第1節 マルクス主義の宗教的性格

 

 これまで、マルクス主義に対する宗教性を論じた考察、議論が数多くなされてきた。ポパーによる歴史信仰としてのマルクス主義、あるいはキリスト教との類似が指摘されたりもした。小室直樹はユダヤ教との類似を強調している。そのいくつかの理由を挙げると。


 「ユダヤ教においては、神との契約が宗教の内容をなし、これが法でもあり、規範でもある。しかも、ユダヤの政治は、本質的に神政政治だから、それがまた、政治の内容をもなす。そして、それが、法であり、規範であることからして、それはまた、社会構造の根幹をなす」「承知のように、マルクス主義においては、歴史を段階的に分けて、原始共産制、古代奴隷制、封建制、資本制、社会主義ないし共産主義とするが、この考え方は、まったくユダヤ教的であって、他の宗教からは出てこない」さらに、魂の救済とか何とかということがなくて、現世救済であること。個人救済ではなくて、契約による集団救済だということ。この二点でもユダヤ教はマルクス主義と似ているのです。マルクス主義の中の千年王国論(王道楽土がいつか必ず地上に現れるとする考え)がユダヤ教とそっくりだということはわかります。ユダヤの預言者たちが神と契約して、艱難辛苦の末に、ユダヤ民族を約束の地に導く、というプログラムは、革命家が民衆を導いて社会主義革命ののち無階級社会を実現するというのと同じだということですね(34)。


 いうまでもなく、マルクス主義は無神論であり、宗教を阿片であるとし階級抑圧の手段であるとして強くこれを退ける。宗教の定義をどのようなものとみなすかということは、非常に難しいことであるが無神論であるから宗教ではない、ということにはならない。いうまでもなく仏教や儒教などは無神論の宗教である。マルクス主義の側からすると、当然自分達は宗教とは正反対の科学的な立場に立っていると考えている。それは歴史の発展が法則的に進展するということ、そして何よりも資本制生産様式の唯物論的基盤に立ったその運動法則の分析により、資本主義が行き詰まるのは科学的に立証できるのだ―ということである。これに対して、次のような批判がなされてきた。資本主義の運動法則は、ある程度の科学的な根拠に立ったものだということは認められる。しかし、だからといって資本主義の崩壊が確定しているわけではない。マルクスの想定は無制約な資本主義の場合であって、さまざまな社会主義的な政策、法的な規制によって資本主義の範囲内において制御することは可能なのである。社会主義の到来を科学的に確定されたものとみなすことが、すなわち歴史信仰であり、それが宗教なのだ、と。また、メイリアは社会主義そのものが明確に定義されることのない、実態として存在したことのない架空のものであり、救済宗教における呪文のようなものである、といっている(35)。


 本論においては、以上のような既出の問題に加えて、今まで論じられたことのない新しい側面を追求したいと思う。それはマルクス主義の根本をなす救済の論理形式が、伝統的な救済宗教の論理形式とは異なるという点である。伝統的な救済宗教の論理形式とは、「信じるものは救われる」「神の定めた規範に従って生きる者は、将来必ず神の国に入ることができる」簡単にいえばこのようなものである。これはユダヤ教、キリスト教などの一神教におけるもので、仏教は「修業によって仏になり、そのことによって救済される」という自力救済の要素が強い。ところが、マルクス主義の救済の論理形式は「革命を起こし、ブルジョワジーとその勢力を打倒、撲滅すれば、素晴らしい共産主義の社会を築くことができる」ということである。救済宗教の論理形式が「信じるものは救われる」のに対して、マルクス主義は「敵を撲滅すれば救われる」という、いわば呪詛宗教の論理形式だという点にある。つまり、マルクス主義は多くの論者によって、救済宗教との類似点が指摘されてきたわけだが、その要素に加えてこれらの救済宗教にはほとんど存在しない、呪詛宗教としての側面をもっているということなのである。


 そうはいってみても、伝統的な救済宗教も歴史的に多くの残虐な行為をしてきた。大航海時代、スペインやポルトガルは中南米において、原住民がキリスト教と余りに異なる宗教を奉じていたからという理由で、虐殺を行ってきた。キリスト教内部における、カトリックとプロテスタントの宗教戦争など、枚挙にいとまかないだろう。それに比べて、マルクス主義における救済は、初期の資本主義形成期において特にひどかった、ブルジョワジーのプロレタリアートに対する搾取、労働時間、労働形態の状態から救い出そうとする目的があった。初期においては弱者救済の意図があったのである。そのことから、マルクス主義の「呪詛の論理」は非常に目立たないものになっていた。しかし、これは純論理的に冷静になって比較してみると、大変な問題だということがわかってくる。それは、このようなことを想定してみればわかりやすい。もし、キリスト教の中心となる教義に「異教徒を撲滅すれば、神の国に入ることができる」というものが存在していたとしたら、どのようなことになっていただろうか。歴史的に行われたキリスト教の残虐行為は、現実の何十倍、何百倍という規模になっていたかもしれない。それはまったく桁外れの規模になっていただろう。現在の世界においても、キリスト教国とそれ以外の国との間に大変な緊張状態、冷戦のような状態を生み出していたかもしれない。マルクスの活動した時代において、プロレタリアートの力はブルジョワジーとその勢力に対してきわめて弱かったので、「呪詛の論理」は正当であり、現状を改善するために当然であるかのようにみなされていたのではないだろうか。ところが、現実にブルジョワジーとプロレタリアートの力関係が逆転した時に「呪詛の論理」はその真の姿を現したのである。・・・いうまでもなく、これはロシア革命を意味している。

 

 第2節 「呪詛の論理」に対する反論

 

 マルクス主義は「呪詛の論理」による呪詛宗教である。これに対しては当然、反論が予想される。その反論に対応する形で考察を進めていきたい。


 反論① 革命において、対抗する階級、勢力を打倒、抑圧、あるいは撲滅するのは、歴史的にみても自然なことである。フランス革命の時に、王制を打倒するために立ち上がった民衆は「呪詛の論理」によって立ち上がった、ということになってしまうのだろうか。あるいは、明治維新の時、幕府とその勢力を打倒するために活動した維新勢力は、「呪詛の論理」に従って行動していたのだろうか。これらを「呪詛の論理」と呼んでしまえば、このような歴史的な変化、革新はほとんどそのようなものになってしまうだろう。これは特殊な概念を拡大解釈し、一般化した不当なものではないだろうか。


 反論② マルクスは「資本家階級を撲滅すれば素晴らしい共産主義の社会を築ける」というような短絡的な表現はしていない。革命において支配階級を打倒することは必然であり、それは新しい社会を築くための必要条件である。しかし、あくまで必要条件の1つなのであり、そこから社会主義社会、共産主義社会へと段階を経た社会建設の努力が始まるのである。その具体的な青写真が描かれていないという批判に対しては、あまりに具体的な姿を描くことはかえって空想的なものにしかならないからである、と答えられる。資本主義社会の分析からそれを止揚した社会の姿は示されているのであり、そのような「呪詛の論理」などというものは存在しない。


 ―例えば、以上のような反論が予想されるだろう。反論①にはこのように答えることができよう。社会主義革命は階級を別の内容に置き換えるものではなく、階級そのものを廃絶するためのものである、ということである。社会主義革命以外の革新、革命は階級構造そのものを廃絶、破壊するようなものではない。明治維新を例にとってみれば、幕潘体制から明治政府と王制復古による立憲君主制へ移行したが、大きな意味における階級構造は維持されているとみなすことができるだろう。その統治構造、システムの内容が変更されたということである。階級構造の消滅は、土台だけでなく上部構造においても同様のことが生ずる。 「均等割り振り」で問題にされたような情報伝達、情報処理、意思決定の途方もない負荷が生じるのである。これによって社会体制は完全な機能不全に陥ってしまうだろう。社会主義革命とそれ以外の革新、革命との間には絶対的な差異が存在するのである。


 反論②に対しては慎重な応答が求められる。確かに革命において支配階級を打倒することは必然であり、そのことにより「呪詛の論理」だとみなすことはできない。しかし、社会主義革命から共産主義社会に至るための具体的な青写真を描くとかえって空想的なものになる、というのは具体性の意味を履き違えているのである。


 資本主義社会を唯物論的に把握、分析し価値形態、剰余価値、搾取、疎外の否定形、あるいは止揚された社会を想定しても、それで具体性を付与することにはならない。そのような止揚された社会が最初に分析された資本主義社会のレベルで、具体的にどのようなものであるかが示されなければならないのである。本論で主張されてきたことは身体労働と相互依存している頭脳労働を統合しなければならず、そのためには「均等割り振り」のような技術的な問題を具体的に考えていかなければならないということである。マルクスの頭脳労働捨象はこの具体性の道を破壊している。そうなると社会主義革命から共産主義社会に至る過程の中で完全に具体的なものは、資本家階級に対する物理的攻撃しかない。それ以外のことはどれだけ追求しても抽象的、観念的なものにとどまってしまうのである。そうなるとマルクス主義者、特に革命を遂行する段階の革命家などはどんどん短絡的な論理に陥っていく・・・最終的には「資本家階級を撲滅すれば素晴らしい共産主義の社会が築ける」という論理になってしまうのである。このことは再度考察することにしたい。

 

 第3節 「能力転移」と「魔術的因果性」

 

 マルクス主義の哲学的な基盤はいうまでもなく唯物論であり、「呪詛の論理」とは正反対のものであるはずである。マルクスは迷信や宗教的な信念を厳しく排撃した。それは科学的な世界観にもとづくものである―マルクスの著作においては繰り返しそのことが述べられている。社会主義革命から未来社会に至る展望に、そのような「呪詛の論理」などというものが入り込む余地はまったくない。これが今までの一般的な常識であっただろう。表面上の論理において、確かにこのようなものであり、宗教的な信念や魔術的な論理などは、そこには存在しないように思える。ポパーは資本主義社会の行き詰まりから社会主義革命が起り、社会主義、共産主義へ至るという展望に対して、その蓋然性の低さを強調し、マルクスは過剰な信念を歴史法則に対して持っている―このように批判した。その意味で歴史法則信仰であるといったのであるが、社会主義革命から社会主義、共産主義社会に至る論理そのものが「呪詛の論理」ともいうべき魔術的なものである、とはまったく考えていない。この問題を、これから掘り下げて追及していくことにしたい。そのために、今までほとんど存在したことのない概念を検討する。それが「能力転移」である。


 「能力転移」とはいかなるものだろうか。1960年代、イギリスのテレビ番組に人形劇のシリーズがあった。「サンダーバード」「キャップテン・スカーレット」といった番組である。その中に「ジョー90」というものがあった。この番組の設定は、主人公の9歳の男の子が、養父となった大学教授が発明した能力転送装置、ビッグラット(BIGRAT)―周りを囲む球形の枠が回転し、磁気テープに記録された各分野のプロフェッショナルの能力を、中央の椅子に座った別の人間の脳に外科的手段を経ずに転送する機能をもつ―により高度な能力を持ち諜報機関のスパイとなり、時には「子供だからノーパスで通れるところ」「小さな子供だから入れる所」で活躍する。当然これはSFであり、現実にはありえないことである。ある特定の能力を持つためには、感覚器官から入ってきた情報を咀嚼し、それを繰り返し訓練するといったプロセスが必要になる。それもその人の能力ポテンシャルの限界の範囲内である。「能力転移」とはこのような正常なプロセスを踏むことなく、ある場所、ある人物から別の人物へ能力が移動することである。このSFテレビ番組「ジョー90」も「能力転移」の一例であるといえる。


 ここで別の事例を考えてみよう。ある人物Aが、日常生活、例えば仕事で密接に関わっている別の人物Bに常日頃、非常に虐げられてきたとしよう。Bは仕事上の上司になり、仕事の上でAにはない優れた能力を持っていた。それが原因のひとつでもあるが、AはBに搾取的に使われていたのである。AにはBに対する恨みが蓄積されていった。自分の置かれている状況にも我慢がならなくなった。ここから解放されるために、AはBに対する殺意を抱くようになった。そしてある時、ついにAはBを殺害するに至ったのである。このことによりAはBから解放されることになった。当然、別の深刻な事態が生じているのであるが、そのことは別として、この解放自体は単純な事実としての事実認識としては正しいといえるだろう。ところが、Aにはもうひとつの動機があった。それは自分にはない仕事上の優れたBの能力が、Bを殺害することにより、自分に乗り移ると思い込んでいたのである。つまり、「能力転移」が起こると考えていたわけである。当然、これは事実認識として誤りである。もし、このような事例が存在していたとしたら、精神病理学の対象になるだろう。しかし、個人レベルにおいてこのような動機が存在したということは、ほとんど聞いたことがない。もし、このような動機を持つようなら、それ以前にその人の精神状態が問題とされていたに違いない。


 次に「魔術的因果性」とはどのようなものだろうか。これは、ユング心理学(36)の用語なのであるが、ユング心理学の文脈とは切り離して考察していくことにする。この対概念として「科学的因果性」を置いてみることにする。このような例を考えてみよう。現代の医学では解明出来ない原因不明の病気にかかっている人がいたとする。病気を治す力があるとみなされている祈祷師が、その人の病気が治るように祈祷した。そうしたら、その祈祷が終わると、たちまちその人の病気が快方に向かった。このような出来事に対してどのように解釈するだろうか。その祈祷が原因となり、病気の人が快方に向かう、という結果となって表れた。これが「魔術的因果性」である。これに対して「科学的因果性」の立場は、この祈祷師が祈祷をするという行為と、病人の病気が治る、という現象の間には、物理学的、熱力学的、化学的、生物学的な因果関係はない。その病気の人が、自分は祈祷師の祈祷を受けているという事実を知っていたとすれば、何らかの心理的な影響を受け、その結果病気に影響を及ぼすということは考えられないこともない。しかし、その事実を知っていないとすれば、いかなる因果関係も両者には存在しない。つまり、「科学的因果性」の立場からすれば、祈祷の結果病気が治ったということはまったくの偶然にすぎない。


 脳科学、心脳問題の立場から考察すると、病気の人に対する治癒の念というのは、祈祷師の脳内における神経活動と、その結果立ち上がってきたクオリア、意識であり、病気の人に向けられた志向性である。その祈祷師の身体の身振りというものもあるが、それが直接病人に何らかの作用を及ぼすということではない。その意識がどのようなものであったとしても、それは脳内における神経活動、神経伝達物質などの状態であり、それは脳外に対して閉じられた系である。脳外に対して作用を及ぼすためには、末梢神経を通じて筋肉を動かし、何らかの物理的な状態に変換しなければならない。これが一連の「科学的因果性」としてみなされるものである。祈祷師の意識、志向性が病人の生物学的状態に対して、直接作用を及ぼすということは「科学的因果性」では説明のつかない、それを超えたものとなる。当然、マルクス主義の哲学的な立場は、この「科学的因果性」であり、「魔術的因果性」は厳しく退けられているのである。先の例は、病人の病気を治すという倫理的にいえば「善」の行為であり、正の行為であるといえるだろう。一般的に呪い、呪詛と呼ばれているものはこの「魔術的因果性」によって、それとは逆に対象となる人を病気にする、事故に会わせるというような倫理的にいえば「悪」の行為であり、負の行為であるということになる。

(34)橋爪大三郎 副島隆彦『小室直樹の学問と思想』弓立社、1992年、39,40頁


(35)マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇 上』白須英子訳、草思社、1997年、42~46頁


(36)イラ・プロゴフ『ユングと共時性』河合隼雄 河合幹雄訳 創元社、1987年


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