反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 10 


 『マルクス主義の解剖学』


 第6章 「完全な兼任」のイデオロギー

 第1節 マルクス主義の前提「完全な兼任」

 

 これまで「均等割り振り」の技術論を中心に考察を進めてきた。しかし、マルクス主義の体系の中にこのような論理、あるいは近い考え方さえまったく存在しない。当然、マルクス主義、共産主義、唯物史観に関係する多くの文献の中にもこのような技術論はほとんど存在しないのである。それでは、マルクス主義はこのような問題に対してどのような論理を持っているのだろうか。先に挙げた資本家経営者1人、労働者2人の小規模な工場を例にとってみよう。均等割り振りにおいては、この3人で頭脳労働と身体労働を平等に割り振り、頭脳労働は輪番で行うという形態が考えられた。これは経営に関する頭脳労働を労働価値のあるものとして定位し、それを不可欠なものとして認めていた。この頭脳労働と身体労働は相互依存関係にあるということが前提になっていたのである。ところが、マルクス主義ではこの頭脳労働は労働価値のあるものとして認められていない。資本家に対しては単なる搾取行為としてしか捉えていなくて、それ以外の頭脳労働は完全に捨象され、どのように考えられていたかは分からないようになっている。そして、剰余価値率算出の公式でもそれらは労働価値のあるものとして認められているとはいえないのである。唯物史観の中核をなす社会主義革命から社会主義社会、共産主義社会への過程では、社会主義革命直後のプロレタリアート独裁が避けて通ることのできない過渡期であると論じられてある。すなわち、この革命によって、資本家は駆逐されてしまうのである。そうなると、この資本家経営者1人、労働者2人の工場の形態は、単に資本家経営者1人が排除されるということである。そうなると残ったのは労働者2人だけである。つまり、資本家によって剰余価値を搾取されていたこの2人の労働者は、その搾取がなくなるのだから全ての労働価値を自らの所有にすることができる。ところが、経営に関する頭脳労働の問題は一切無視されていることになるのである。


 この経営に関する頭脳労働は絶対になくてはならないものであることは、もう論じる必要もないことである―それではこの頭脳労働を誰が遂行するのだろうか。もちろん、この残った2人の労働者が自ら行う以外にはない。しかし、この2人の労働者は今まで通りの身体労働を継続していかなければならない。これが大幅に変更されてしまえば、根本的な論理が破綻してしまうだろう。そうなるとこのように考えざるを得なくなる―今まで通りの身体労働を行いながら同時に経営に関する頭脳労働も遂行するのである。決して身体労働と別の頭脳労働時間を設定することはできない。これは一体どのような状態を意味しているのだろうか?これがマルクス主義の前提となる「完全な兼任」の形態なのである。この「完全な」ということの意味は、身体労働と頭脳労働の同時遂行という意味であり、ある時間に頭脳労働をし、別の時間に身体労働をする「兼任」よりもさらに徹底した形態を意味しているのである。


 例えば、この2人の労働者の間で頭脳労働の情報伝達をしているとする。しかし、この労働者は今まで通りの身体労働に従事している―当然、意識、集中力はその身体労働に向けられていなければならない。それでいながら、頭脳労働の情報伝達を行わなければならないのである。この2人に普通の会話や書類に目を通して情報を伝えるというような行為は不可能である。そうなるとこれは筋肉や感覚器官を使わず情報を伝達する、つまり俗に言うところのテレパシーのようなものになるだろう。脳から脳へのダイレクトな情報伝達である。しかも、我々が一般的に知っているテレパシーのような曖昧なものでは話にならない。情報は完璧な精度で伝達されなければならないのである。と同時に、伝達された情報を身体労働をしながら処理していかなければならない。処理された情報に基づきまた2人の間で合意形成、意思決定がなされなければならないだろう。このように考えるとこの2人の労働者の脳と脳が、まるでひとつになったような統合された頭脳にならなければならないのである。これらの頭脳労働を身体労働をしながら遂行して、その頭脳労働の結果の情報に基づいて身体労働を行うのである。また、その工場の外部との間の情報伝達もその外部の人間の脳と脳の間でダイレクトな情報伝達を行わなくてはならないということになる。このような頭脳労働の完璧な遂行がなければ、身体労働の意味がまったくなくなってしまい、何もしないよりも悪い状態になるだろう。


 これは労働者2人の極めて小規模な例であるが、実際にははるかに大人数で複雑な頭脳労働をしなければならないのである。例えば自動車生産を考えてみれば、その自動車の開発設計、細部に至る具体的な設計製図などを、自動車を制作している身体労働者が同時に行わなければならない、ということである。それは流れ作業などの身体労働をしながら、それらの頭脳労働を同時に行うということである。そして現実の身体労働はその頭脳労働の結果としての情報に基づき遂行するのである。つまり、その自動車の開発設計をその多数の身体労働者の頭脳の中のみで達成しなければならない。これは今まで検討されてきた「均等割り振り」よりも桁外れに次元の違う能力が要請されるだろう。多数の身体労働者の脳は統合された完璧なひとつの脳になり、細部に至るまでの膨大な情報を完璧に表象し、それを互いに共有し―情報伝達を必要としないような完全な同期として―合意形成、意思決定を行なえるとてつもない超頭脳である。これが社会学の問題であろうか?このようなことを論じなければならないということ自体、実に不可解なことなのである。しかし、これこそがマルクス主義で言うところの「全体的に発達した個人」ということになるのである。すなわちこの個人が共産主義的個人、アソシエイトされた個人ということなのである。


 ところで、共産主義社会は、個性、個体性の全面的な開花をもたらす社会である。しかし、共産主義の高度な段階は、逆に、全面的に発達した個人なしには存立しえない。そのような個人がそもそもの前提なのである。そのような全面的に発達した個人を形成するのが、共産主義のより低い段階の究極的な課題である。


 しかし、このより低い段階も、すでに商品・貨幣なしに社会的生産を組織できるだけの人間、労働する個人の存在を前提する。本来の過渡期の究極の課題は、これまた、このような段階にまで発達した個人を生みだすところにある。社会主義建設とは、究極的には、このような人間の発達を実現することなのである。


 人間の全面的な発達というこの観点から見たとき、1920年代から始まったいわゆる社会主義建設が、あるいは戦後の東欧諸国でのいわゆる社会主義建設が、これまでになにを達成しえたのか、しえなかったのか、言わずとも明らかである。この現実を見て、人間は結局のところ聖人にはなれないのだ、性善説はだめだ、だからマルクスの共産主義は、そのような聖人たちを前提とするユートピアだったのだ、という議論をするのは、共産主義の実現それ自体が、本来資本主義社会における労働する個人のあり方そのものの本質的な廃棄であること、そしてこの廃棄なしには、およそ人類の「本史」が始まりえないのだということに気づいていないものだと言わざるをえない。われわれが現在見ている資本主義社会や「現存社会主義」社会の人間、すなわちわれわれ自身の現実のなかに、人間そのものの限界を見ることは、結局のところ、われわれの被制限性に気づかないまま、そのわれわれを物差しにして人間を測ることに帰着する(32)。


 以上の引用文は、典型的なマルクス主義の主張であろう。共産主義の高度な段階はこのような全面的に発達した個人を前提としている。この個人とはこのような統合された超越した頭脳を持った個人である。すなわち、商品、貨幣なしに社会的生産を組織できるだけの人間―貨幣の情報としての価値を必要としない情報伝達能力を持った人間である。今まで生産体制内部での均等割り振り、完全な兼任を検討してきたが、それを成立させるだけの頭脳労働能力をそれ以外の関係に拡張すればよいだけなのである。供給と需要、生産者と消費者の間でこのような情報伝達、情報処理、合意形成が行われれば、商品、貨幣はもはや必要でなくなるだろう。社会主義建設とはこのような人間の発達を実現することなのだと明確に述べられている。


 以下の文章に示されていることの含意は、マルクス主義に関する本質的な問題の中心といっても過言ではないだろう。このような全体的に発達した個人を基準にして現存した社会主義体制を捉えたとき、何を達成しえなかったのかは明らかである―それは達成しえるはずのないものであることは明らかである。そしてそれは性善説、性悪説という基準で捉えるマルクス主義を批判する側も、反論するマルクス主義の側もまったく的を外していることは明らかである。この両者は問題の本質は「能力」にあるとはまったく気づいていないのである。「われわれが現在見ている資本主義社会や「現存社会主義」社会の人間、すなわちわれわれ自身の現実のなかに、人間そのものの限界を見ることは、結局のところ、われわれの被制限性に気づかないまま、そのわれわれを物差しにして人間を測ることに帰着する」―それでは、その被制限性に気づき、資本主義社会の労働のあり方を廃棄すれば「完全な兼任を達成できる能力」を持てるようになるのだろうか。これは「完全な兼任を達成できる能力」が労働者に本来備わっているが、資本主義社会とそのイデオロギー、資本家階級に抑圧されていることによってそれが制限されているからその能力を発揮できないのだ、というように解釈できるだろう。マルクス主義、社会主義、共産主義、またそれ以外の左翼思想全般に関して、このような意識されざる論理が根底に横たわっているのである。


 そして、これはまさに社会主義革命の根本となる論理である。レーニンの文献からはいたるところにこのような論理が読み取れるし、ロシア革命はまさにこの論理を大前提として遂行されたのである。つまり、この引用文はロシア革命の論理をまったく同じように繰り返している。ただ違うのは歴史上すでに起こってしまった社会主義革命とその結果を、この論理から逸脱したものだと切り捨てただけである。もちろん、現存した社会主義体制の状態とその末路は、この論理からの必然の結果である(―これは第8章で詳論したい) 。これは歴史から何ひとつ学んでいないことになるのではないだろうか。


 第2節 抽象的能力世界

 

 これまでマルクス主義の外部から見た視点を中心に考察を進めてきた。その認識をもとにここではマルクス主義の内部から見た視点を中心に考察を進めていきたい。これまでなされてきた論考は、『資本論』を始めとするマルクス主義の体系において、特に土台内部の頭脳労働―資本制生産様式中心部の身体労働と相互依存をしている頭脳労働は資本家においては否定、それ以外の頭脳労働に対しては徹底して捨象されてきた、というものである。これによって土台内部の頭脳労働形態、価値は無化されるか極めて希薄なものになってしまった。それに伴い、上部構造のさまざまなイデオロギー的意識形態、社会的意識形態は論じられることはあっても、土台の経済的意識形態は極めて不完全な扱いになってしまっている。しかし、マルクス主義者あるいはこの思想に触れた多くの人々に対して、資本主義動態分析の深さ、鋭さによって土台の把握は十全になされているかのような感覚を与えているのではないだろうか。これらのことにより、無階級社会を志向するための土台内部の身体労働と頭脳労働を統合するという方向性はほとんど消滅し、それの手がかりさえ見えなくなってしまっている。それに代わり、無階級社会を目指すためには資本主義を覆すことだという別の道が敷かれることになった。その別の道の巨大な体系―それがマルクス主義の体系だといえるであろう。そういってみても、土台―上部構造論自体がマルクスの創案によるものであり、このようにいえるためにはマルクスの理論が前提になっているのである。マルクス主義に依存的であることは認めなければならないことである。


 以上のことを総合的に示したのが以下の図である。太線の枠で示した論理的過程が無階級社会、すなわち共産主義社会、アソシエーション社会、全体的に発達した個人の形成する社会へ至る具体性を持った実相である。すなわち、土台内部の頭脳労働形態を含めた労働形態、価値を十全に定位し、それに対応する経済的意識形態を十分に把握する。それに基づいて、相互依存をしている身体労働と頭脳労働を統合する―これは完全に技術論の問題である。そのために必要なのは情報伝達、情報処理、意思決定の効率の高さだということが導き出される。それを達成するためには、テクノロジーや社会関係ではなく人間の生物学的能力の問題である、という結論が導き出される。それは均等割り振り、完全な兼任を達成できる能力を持った超越した頭脳―それを持ったのが全体的に発達した個人、共産主義的個人なのである。しかし、この論理過程は最初の橋が落とされている。そして別の道へと導かれるのである。それを示したのが以下の図である。


DSCN1148b.jpg


                           図5
 マルクス主義の内部から見ると、この切断点以降の展開はほとんど意識されないおぼろげな状態であり、特に均等割り振りや完全な兼任の形態は霧の彼方に見える影のような存在に映るだろう。一方、意識的に強力に推進されるのが資本主義動態分析から、剰余価値理論、搾取論や二極化理論、窮乏化理論などであり、それは弁証法的歴史発展の法則などの強力な理論的補強を受け、社会主義革命へと導かれる。それはプロレタリアートが政治権力を掌握するプロレタリアート独裁となり、それ以降、社会主義社会、共産主義社会へ進展していくというものである。このとき、プロレタリアート独裁は「完全な兼任」と論理的に結びついていることにより、プロレタリアート独裁の形態は完全な兼任の能力世界へと導かれ、それは社会主義社会、共産主義社会の能力上の基盤となる。つまり、これらの未来社会像はこの能力世界を深層の基盤として意識化されている状態だといえるであろう。未来社会論の様々な規定、 「生産手段の協同的所有」「万人の発展が個人の発展でもあるようなアソシエーション」 「必然の国から自由の国へ」「様々な仕事を代わる代わる行なえるような全体的に発達した個人」 。 『ゴータ綱領批判』ではこのように述べられている。


 「共産主義社会のより高度の段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立がなくなったのち、労働が単に生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の全面的な発展に伴って、またその生産力も増大し、協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧き出るようになったのち―そのとき初めてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏み越えることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる―各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(33)。


 完全な兼任とその能力世界は、マルクス主義の内部から見るとほとんど意識されない―それは霧の向こうに見えるおぼろげな影のような存在に映る。しかし、それは確実にそこに存在するものとして認識されている。そのような超絶した頭脳能力による抽象的な能力世界が形成されるのである。このような両義性こそマルクス主義の未来社会論における最も重要な基盤をなしているといえるだろう。この能力世界は霧の中から浮かび出て具体的なものとして姿を現してはいけないし、彼方に遠ざかってまったく見えなくなってしまってもいけない―絶えずそれは霧の中の影のような存在として・・・だが確実にそこになければならないのである。本論でなされてきたことは、 徹底して霧の中から具体的なものとして姿を現させることであったということである。


 マルクス主義の内部から見た論理過程は図6のようになるだろう。マルクス主義内部から見た場合の、身体労働と頭脳労働の統合の問題は『ゴータ綱領批判』でも述べられているように、共産主義の高度な段階に至って達成されると考えられている。ここでもマルクスのイデオロギー誘導は巧妙を極めていると感じられるのである。社会主義革命以前にはこのような論述は極めて少なく、それも「分業の廃棄」というような捨て去りさえすれば達成されるかのような表現をしている。そして社会主義革命以後において「分業に隷属することがなくなる」 「肉体労働と精神労働の対立がなくなる」と言明されている。つまり、単なる「廃棄」に対する批判をここでかわしているのではないかと思わせるのである。しかし、ここでも対立がなくなるという受動的な姿勢であり、統合という能動的表現はなされていない。この問題に対するマルクス主義の論理過程は次のようになる。社会主義革命→プロレタリアート独裁→社会主義社会→共産主義社会→ここにおいて初めて身体労働と頭脳労働の統合は達成される(マルクスの表現では肉体労働と精神労働の対立がなくなる)。つまり、共産主義社会から土台の変革、身体労働と頭脳労働の統合という論理的方向性である。だから、マルクス主義者のほとんどは、この問題は社会主義革命以降、共産主義の高度な段階において達成されるような目標である、と考えるのである。しかし、それこそが完全な論理の逆走を示している。身体労働と頭脳労働の統合、この土台の変革の進捗状況がすなわち共産主義社会、無階級社会への進捗状況なのである。社会主義革命の進捗状況は何の関係もないのである。


DSCN1149b.jpg


                          図6
 能力が問題にされたとき、マルクス主義者は「当然、マルクス主義は能力の問題も考えている。それは資本主義社会の中で培われ、社会主義革命を通じて社会主義社会、共産主義社会で開花する全体的に発達した個人としての能力である」と、このように言ったとしよう。それに対しこのように質問してみたらどうだろうか。「その能力とは社会的能力なのか?それとも生物学的能力なのか? 」彼はこの質問の意味をまったく理解できないであろう。社会的能力以外の能力などまったく考えたこともないし、意識したこともないためにそれが社会的能力であるという自覚もないのである。この抽象的能力世界は抽象的であるが故に、社会的能力に転化しその外観を装うことができるのである。


 マルクス主義は唯物論に立脚しているという―資本主義動態分析から二極化、窮乏化などを経て資本主義は行き詰まり社会主義革命へと導かれる。弁証法的唯物論は共産主義社会への道を約束しているというわけである。しかし、それならば一方の重要な側面、土台内部の捨象されている頭脳労働形態、価値と経済的意識形態―この領域も唯物論的に捉えなければならないのはいうまでもないことである。知識や情報は外部においては、資料や本、パソコンのデータなどの形で存在し、情報伝達、情報処理を司る頭脳労働者の脳も物理的、物質的存在であり、それらは分子や原子によって構成されている。これらの物質が消滅すれば、知識や情報も消滅し、経済全体も消滅する。これはまったく常識的なことである。そして、今までの考察により無階級社会を実現するためには、身体労働と頭脳労働を統合しなければならず、そのためには途方もない情報伝達、情報処理、意思決定の効率が要請されるのである。社会主義革命によって無階級社会が実現するという因果関係はこのようなことを意味していることになる。 「社会主義革命の結果、ニューロンを流れる活動電位の伝播速度が秒速100メートルから100万メートルに速くなり、超高効率の情報伝達、情報処理ができるようになった。あるいは脳と脳がダイレクトで結びつくような情報伝達ができるようになった」。これが唯物論的であり、科学的なものであるかどうかは論じる必要はないであろう。別の表現をすれば、マルクス主義は情報の被空間拘束性をまったく無視している、といえるであろう。


 しかし、マルクス主義の側ではこのような能力世界は抽象的な観念となり、深層構造を形成し、深層心理、無意識の中に刷り込まれることになる。それでいながら意識の上ではこれらは唯物論であり、科学であるという強力な信念が形成されている。この二重構造こそ最も本質的な問題であり、それが現実化したとき二重思考へ向かうことになると考えられるのである。それは資本主義社会の側の人間よりも社会的能力として歴史的に進んだ段階にある―意識的にはこのようにみなされるが、深層心理の中では生物学的に優れた種であるというような観念が形成されるのである。このことによりナチズムの人種主義イデオロギーと極めて近似した性格を持つようになる。これは全体主義を考える上で重要であるように思われる。



(32)大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』桜井書店、2011年、36,37頁


(33)マルクス、エンゲルス『マルクス、エンゲルス全集 19巻』大内兵衛 細川嘉六監訳、大月書店、1956~91年、21頁


スポンサーサイト

category: 未分類

TB: --    CM: 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

プロフィール

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

ブログ訪問者数

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

QRコード