反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 9 

 『マルクス主義の解剖学』

 

 第5章 脳科学と能力変数


 第1節 社会学、脳科学、心脳問題

 

 無階級化した場合の情報伝達の問題を均等割り振りの事例を例に取って検討してみよう。このような階級性の問題は、当然社会学の問題だという先入観がある。しかし、その社会を構成している個々人は、言うまでもなく生物学的存在であり、その社会もこの生物学的基底の上に成り立っている。経済を構成する主体は、社会を構成している個々人であることは言うまでもない。その主体とは意識的存在であり、経済を運営して行く経済的意識はその意識的存在の主要な構成要素である。もちろん、経済も意識されない無意識下の影響を受けることは当然であるが、例えばイデオロギーと比較してみても経済活動は最高度に意識化された営みであると言える。 (これに対してイデオロギーは無意識にその中心がある場合が多い)そして、意識も無意識も人間の身体、その中の脳から生み出されるということである。もちろん、経済に限られたことではないが精神的、意識的活動の源は脳にあるといってもよいのである。


 脳からなぜ意識が生み出されるのか、あるいは脳と意識の関係はどのようなものであるのか、このような問題を追求するのが心脳問題である。古くからある哲学上の問題、物心二元論は心身論にそして現在ではこのような心脳問題に移行してきたのである。ここではこの問題には深入りせず、意識、心は脳の神経活動、神経伝達物質の状態、ニューロンの結合パターンなどと密接に関連しているということを強調しておきたい。これらのことは一般的にも常識的なことであるが、マルクス主義との関係において論じられたことはほとんどないと思われるので、そのことを改めて確認しておきたい。ここで問題にされる最も重要なことは、脳は外界に対して「閉ざされた系」だということである。外界に結びつく通路は、感覚受容体を通しての情報入力、すなわち視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感を通して行われる。それ以外の感覚があるかどうかはわからないが、この五感が最も重要であることに変わりはない。これらは感覚受容体が外界の刺激を感受して、末梢神経を通じて脳へと情報が伝達される。反対に脳から外界に対する情報の出力は、運動神経を通じて筋肉を動かし、声や筆記、タイピングその他さまざまな身体活動の方法でなされる。


 一方、脳内部における情報伝達、情報処理も脳科学の進展によって極めて詳細に知られるようになってきた。1,000億と言われるニューロンの結びつきと、そこを流れる活動電位の作用が中心である。記憶や学習、さらには感情や心といった高度な精神活動をつかさどっている。人間の脳が他の動物に比べてもっとも異なっているのは、「大脳皮質」と呼ばれる部分が発達していることである。「大脳皮質」は外見上同じように見えるが、場所によってそれぞれ違う機能を持っている。後頭葉には視覚に関する第一次視覚野などがあり、聴覚のクオリア(28)を生じさせる聴覚野は側頭葉の上側、頭頂葉には体性感覚や運動をつかさどる部位がある。前頭葉にある前頭連合野は特に人間らしい感情や意欲、理性的な思考などを処理する部位である。その下には運動性言語野があり言葉を話す働きをつかさどる。その他さまざまな機能が、ある程度の局所性をもって脳の各部位に対応しているということがわかっている。これらの機能局在の傾向は、「脳のここの部位が損傷すると、この機能が失われる」という経験的事実によって、現代的な意味での脳科学が始まる前から知られていた。


 ニューロンに関しては、20世紀の初めに「細胞同士が突起によって繋がり合っている」と「それぞれの細胞は独立して、直接繋がり合ってはいない」という説が対立したが、電子顕微鏡によって細胞同士は繋がり合っていないことが明らかになった。ニューロンの細胞体からは「軸索」と「樹状突起」という突起が伸びていて、これを介して他のニューロンと情報のやりとりをしているのである。われわれがものに触れたり、何かを見たりするとその刺激は電気信号として感覚器官からニューロンに伝えられる。これは電流が電線の中を伝わることとはメカニズムが違う。ニューロンは通常、細胞の外側がプラス、内側がマイナスの状態になっている。細胞膜にはナトリウムイオンチャンネルがあり、これが開くと瞬間的にプラスの電気をもったナトリウムイオンが細胞の外側から内側へ流れ込む。するとその付近では、細胞の外側と内側でプラス・マイナスが逆転する。それを感知した隣のナトリウムイオンチャンネルが穴を開き、新たにナトリウムイオンを内側へ流入させる。このような反応が連鎖することによって電気信号が伝わっていくのである。ナトリウムイオンチャンネルが開いている時間は、1ミリ秒(1ミリ秒=1000分の1秒)程度で一瞬にして閉じる。この活動電位(電気信号)の伝わる速度は秒速、数メートル~最大100メートル近くに達する。一般的な電流とは違い、遠くなると抵抗によって弱くなるということはなく、ナトリウムイオンの流れを誘発させていくことから、途切れることなく同じ強さで伝えられるのである。


 軸索を伝わってきた電気信号は、次のニューロンの樹状突起へと伝えられなければならない。しかし両者は直接には繋がっておらず、そこには5万分の1ミリメートル程度のシナプス間隙がある。このつなぎ目全体をシナプスといい、このわずかな隙間を電気信号が伝わらなければならない。軸索の末端に電気信号が行き着くと、カルシウムイオンチャンネルが開きカルシウムイオンが軸索末端の中に流れ込む。これをきっかけに、軸索末端のシナプス小胞からグルタミン酸などの化学物質がシナプスの隙間に放出される。つまり電気信号が化学信号に切り換えられるのだ。一方、樹状突起側では「受容体」が化学物質を待ちかまえている。受容体に化学物質が結合すると、この穴が開いて細胞の外側からナトリウムイオンが流れ込む。ナトリウムイオンは電気を帯びているので、再び電気信号が生じるのである。こうしてニューロンの電気信号はシナプスの隙間を無事に飛び越えるのである。これにかかる時間は1ミリ秒程度である。


 樹状突起に伝えられた電気信号は、そのまま細胞体から軸索へ伝えられるのではない。各ニューロンにはシナプスが数千~数万個もある。脳全体ではシナプスの数は数百兆というとてつもない数になる。ニューロンにはそれぞれのシナプスから電気信号がひっきりなしに届けられている。細胞体ではこれらの電気信号が足し合わされ、その量が一定量をこえた時、はじめて軸索へ電気信号が送り出されるのである。これを「ニューロンの発火」という。一方、信号が一定量をこえない場合には無視される。つまり弱い信号が少し伝えられたくらいでは発火は起きず、結果的にニューロンの回路を流れる信号が途切れてしまう。ニューロンが「発火」して、電気信号が軸索へ送り出されると、その信号は軸索末端のシナプスで繋がっている全てのニューロンへ伝えられる。信号が入ってくると、ニューロンはそれに対して反応する。この反応には、ニューロンを興奮させるものと、抑制するものがあることがわかっている。ニューロンは、何も起きていないときには1秒間に1~5ほどの電気的信号を送り出しているが、一旦興奮すると発火の頻度は増加して1秒間に50~100程度の信号を送り始める。時には1秒間に500以上の信号が出されることもある。脳では膨大な数のニューロンが複雑に結びつき合ったネットワークの中を、無数の電気信号が絶え間なく飛び交っている。このネットワークによって複雑な情報処理が行われているのである。


 心脳問題の中心となる命題は「なぜ脳の神経活動からクオリア、意識が生ずるのか?」ということであるが、これは最大級の難問である。心脳問題の論点は非常に多岐にわたるが、本論の目的にとって重要と思われる論点を一つだけ取上げることとする。それが「結びつけ問題」である。視覚や聴覚、体性感覚といったさまざまなクオリアは、脳のそれぞれの部位において表象される。視覚野だけでもV1、V2、V3、V3A、V4、MTなど多くの部位があり、それぞれが、あるいはそれらの組み合わせによって輪郭や色、テクスチャーや動きなどのクオリアの表象を担っていると考えられている。脳の中ではたった一つの外の世界が、100以上の異なる独立な脳の領野の神経活動によって表現されているため、それらがどうやって統合され一つの知覚経験として成立するか、一つの意識として成立されるか、という大きな問題が生じるのである。


 エーデルマンはこの問題について「複数の領域が、再入力という再帰性の信号伝達で行う相互作用」と答えている(29)。このような相互作用が、各々の機能地図内のさまざまなニューロン群を、ある限られた時間幅で他の機能地図内のニューロン群と結びつけて、然るべき仕事をする回路を形成する。それらの一つの意識シーンが構成されるのにかかる時間は数百ミリ秒といわれている。茂木健一郎はこのことを「相互作用同時性」と呼んでいる。


 よく晴れた空の下、緑の野原でひらひらと舞っている白い蝶を見ているとしよう。この時、蝶の羽根の白や、野原の緑、空の青といった色の感覚的クオリアは、V 1から、色覚の中枢と言われている第四次視覚野(V 4)に向かって、シナプス結合を介して次々と神経細胞(ニューロン)の活動が伝えられてゆく、その一連の履歴の中から生み出されてくる。


 色のクオリアは、V 4の神経細胞の活動だけで生み出されるのではない。そのことが、V 1を失った人から一切の色の体験が消えてしまうという経験事実からも明らかである。また、原理的な立場からは、意識の中のクオリアは、神経細胞の活動の相互関係から生み出されると考えられる。V 4の神経細胞の活動だけでは、色のクオリアを生みだすのに十分な関係性が生まれない。V 1からV 4に至る情報伝達の全履歴によって、初めて意識のなかで色のクオリアが生み出される必要条件が整うのである。


 V 1からV 4までの情報伝達には、50ミリ秒程度の時間が必要であると言われている。一方、V 1から形の情報処理の中枢であるITまでの情報伝達には、ほぼ100ミリ秒程度の時間が必要であると言われている。以上の知見から、神経細胞から神経細胞への情報伝達がその中で生じる物理的時間と、私たちの意識のなかの心理的な時間の関係について、一見不思議な性質が成り立つことがわかる。


 すなわち、脳の中で、あるクオリアを生みだすためには神経細胞から神経細胞への情報の伝達が必要である。伝達する時には当然、有限の物理的時間が経過するが、心理的な時間の中では、その経過は無視されて、心理的瞬間の中につぶされてしまう。つまり、私たちは物理的時間を超えて、一瞬のうちにクオリアを感じるということである。このような心理的時間を生みだす原理を、神経細胞と神経細胞のシナプス結合を介した相互作用において、作用を与える側と受ける側の活動が「同時」とみなされるという意味から、「相互作用同時性の原理」と言う。


 例えば、V 1からV 4に情報が伝わり、色のクオリアが生じる必要条件が満たされるまでにかかる約50ミリ秒の時間は、相互作用同時性の原理により、心理的時間の中では「一瞬に」つぶされてしまう。だからこそ私たちは、色を50ミリ秒かけてじわじわと生まれるものとしてではなく、ある瞬間に心の中に生じる質感として感じるのである。私たちが形をクオリアとして把握するのに必要な約100ミリ秒の時間経過も、同様に、心理的時間の中では「一瞬に」つぶされてしまう。逆に言えば私たちの意識の中の心理的瞬間は、視覚について考えれば、50ミリ秒から100ミリ秒程度の物理的時間における有限の長さをもっているということになるのである(30)。


 このようにクオリア、意識は同時性や非局所性を持つことから、コンピューターのような情報処理とは原理的に異なる、とされている。しかし、これはいまだに議論が続く難問なのである。さらに脳は常にノイズの影響を受けているが、それによってクオリアの同一性が乱されることはない。コンピューターにとってノイズは致命的なものになる。これもクオリアの解明にとって大きな謎である。


 マルクス主義の解明にとって重要なことは、知識、情報も物理的、物質的な基盤を持っているということである。外部においては様々な資料、書籍、コンピューターのファイルデータなどにそれらの知識、情報は蓄えられている。そして、何よりも重要なことはこれら知識、情報を司る中心になるものは、人間の脳であるということである。そして脳も物理的、物質的存在である。それは物理法則に従って動く物理的なシステムであることに変わりはない―さらにその上に化学的、生物学的な法則が加わることになるだろう。当然、経済的意識もこのシステムの範囲内で働くものである。このシステムの限界を大きく超えていくことは決してできないのである。

 

 第2節 「均等割り振り」の脳科学的理解

 

 この脳科学的見解を今まで論じられてきた均等割り振りの技術的な問題に当てはめて考察してみよう。先に検討した資本家経営者1人、労働者2人の関係において、頭脳労働と身体労働を均等割り振りにして無階級化した場合、身体労働にはそれほど大きな問題は生じないが、頭脳労働の情報伝達、意思決定のコストが増大していくという問題が生じた。一見するとこれは何らかの技術的な工夫によってすぐにでも解決できるように思われるかもしれない。このような問題はまったく考えられもしなかったのである。このような技術的な工夫というのは、社会主義革命が起こり上部構造が変革されれば、資本家階級の妨害がなくなり、すぐにでも可能であるかのような感覚を持っていたのではないだろうか。ところが、現実はそのようなものではまったくないのである。もっとも明確に理解できる情報伝達に焦点を当てて考察してみたい。


 ひとつの脳の中で起こる情報伝達は、ニューロンの中を高速で伝播する活動電位などによってなされている。そこにはコンピューターなどとは違う「相互作用同時性の原理」が働いている。脳は凄まじい能力を持った情報伝達、情報処理の回路だと言うこともできるだろう。しかし、そのひとつの脳から別の脳に情報が伝達される時、それは運動野から末梢神経に電気信号が伝えられ、筋肉を動かし、身体の外の何らかの物理的な状況に変換される。それは音声や、筆記やタイピングによる文字データなどである。これら情報は身体の外に出てしまうと「相互作用同時性の原理」のまったく届かない世界に存在することになる。次に受け手がこの情報を感覚器官を通じて入力しなければならない。それは主に視覚や聴覚を通じてなされる―もちろん五感すべてを使う場合もある―様々な感覚受容体から入力された刺激は電気信号となり脳へと伝えられる。そして脳の中の様々な領野を伝播することにより初めて意識として成立することになる。そしてそれは記憶として蓄えられ、受け手がこの仕事を継続していくことになるわけだが、これはひとつの脳の中で起こるプロセスよりはるかに複雑であり、非常に効率が低下することがわかるだろう。この情報伝達の効率低下こそ致命的な大問題なのである。たとえば、ひとつの脳の中でなされるときには1秒で済む情報伝達、情報処理が2つの脳でなされるときに情報伝達に1時間かかったとすると、効率は3,600分の1に低下していることになる。これを是正するためには情報伝達の効率を3,600倍に高めなければならない。

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                           図2
 図2は今まで検討されてきた均等割り振りの頭脳労働の輪番を簡略的に示したものである。いちばん外側の点線をひとつの脳としてとらえてみれば、実際のひとつの脳との間には情報伝達、情報処理パフォーマンスに大きな隔たりがあることが一目瞭然であろう。そして最も重要なことは、これは社会学レベルの問題ではなく、生命の存在形式そのものに由来するものであるということである。さらに言えばこれは宇宙生成の物質的な状態から、原初的な生命が生じ、進化してきた全過程の問題だということである。均等割り振りを成立させ、土台を変革し、無階級化を目指すためには3つの脳の集合体がひとつの脳と同程度の情報伝達、情報処理パフォーマンスを持たなければならないのである。


 以上の例は、資本家経営者1人、労働者2人という極めて小規模のものである。これは複数の頭脳労働者、さらに大人数の身体労働者による均等割り振り、頭脳労働と身体労働の輪番による労働の遂行を考えてみれば、身体労働に大きな問題が生じなかったとしても、頭脳労働の引き継ぎ、情報伝達にかかるコストはさらに飛躍的に増大し、情報伝達だけでも全労働時間を超えてしまうかもしれない。そしてそれ以上の規模になるともうまったく話にならなくなる。これは規模が大きくなればなるほどそのコストが増大していくからである。これは完全に定式化することができる。すなわち、土台を変革するためには頭脳労働と身体労働を統合しなければならない、その統合の形式は均等割り振りによる輪番である、輪番の引き継ぎの情報伝達に大きなコストがかかりそれによって身体労働時間は圧迫され減少していく、身体労働時間が減少していけば生産力は減少していく、最終的には身体労働時間はゼロになり生産力は消滅する―これが「社会主義窮乏化理論」である。つまり結論としては無階級化を指向する社会主義、共産主義社会に生産力は存在しない、ということである。これはマルクス主義の社会主義、共産主義社会になれば資本主義社会よりも生産力は増大する、ということを真っ向から否定するものである。すなわち、あらゆる問題以前に社会主義、共産主義社会に生産力は存在しない、つまりこのような社会は存在することはない、と言うことである。


 以上のことは、主に情報伝達に関するコストを問題にしてきたが、現実にはさらに情報処理、合意形成、意思決定のコストも増大する。このコスト増大は先の無階級化実験をしてみればその範囲のおおよその数字を導き出すことができるだろう。つまり、階級なき社会を目指すための最大の焦点は土台内部の頭脳労働領域にある。そしてマルクスはこの領域をどのように扱ってきたのか・・・今まで論じられてきたとおりである。


 なぜ今まで、社会主義、共産主義社会は資本主義社会よりも生産力は上であると信じられてきたのか―私には実に不思議なことであったが、マルクスの体系は資本主義にとっての不利な側面のみを選択的に取り上げて、それを最大限に強調し、無階級社会を指向する場合の土台の変革を上部構造の変革の後に来るものとして先送りし、具体的な考察を不可能にしている巧妙で壮大な論理構造になっているのである。その一例を『ドイツ・イデオロギー』から引用してみよう。


 結局、われわれは、これまでのべてきた歴史把握から、さらに次の諸結論をえる。生産諸力の発展のなかで、現存の諸関係のもとでは害を及ぼすだけで、もはや何らの生産諸力でもなくて、むしろ破壊諸力(機械と貨幣)である生産諸力と交通手段がよびおこされる段階が現れる―そして、そのことと関連して、社会のあらゆる重荷を負わなければならないが、その利益を受けることのない一階級、社会からおしのけられて、他のすべての階級との決定的な対立を強いられる一階級がよびおこされる。この階級は、社会構成員全体の多数をなし、そして、この階級から、根本的革命の必要性についての意識、共産主義的意識が出てくるのである。もちろんその意識は、他の諸階級のあいだでも、この階級の立場をしっかりと見ることによって作られることができるのだが。一定の生産諸力がその中で用いられうる諸条件とは、社会の一定の階級の支配の諸条件であり、この階級の社会的な、彼らの所有から生じる力は、そのときどきの国家形態においてそれの実践的=観念論的な表現をもっていて、それゆえに、すべての革命的闘争は、それまで支配してきた階級にたいして向けられる。これまでのすべての革命においては、活動のやり方にいつも手をつけないままでいて、この活動の別の配分、他の人々への労働のあらたな割り当てだけが問題であった。これに反して、共産主義革命は、活動のこれまでのやり方に対して向けられ、労働を取り除き、そしてあらゆる階級の支配を階級そのものとともに廃止する。というのも、この革命は、社会の中ではもはや階級とみなされず、階級として認められず、すでに今日の社会の内部におけるあらゆる階級、国民性などの解消の表現である階級によってなしとげられるからである。そして、この共産主義的意識を大規模に生み出すためにも、ことそのものをやりとげるためにも、人間たちの大規模な変化が必要であるが、この変化は、実践的運動、革命のなかでだけ起こりうる。したがって、革命が必要なのは、支配階級が他のどんなやり方でも打倒されえないからだけではなくて、打倒する階級が、革命のなかでだけ、すべての古い汚れをとりさり、そして社会をあらたに築く能力をもつようになるところにまで、達しうるからでもある(31)。太字強調 筆者


 確かに、マルクスの時代のプロレタリアートの窮状は十分に考慮されなければならないだろう。しかし、だからといって、そのプロレタリアートが革命によって政治権力を握れば、人間そのものの大規模な変革が成し遂げられ、すべての古い汚れをとりさり、新たな社会を築く能力を持てるようになるのだろうか。この新たな社会を築く能力とはどのような能力であるのか―それが今まで考察されてきた均等割り振りを成立させるための情報伝達能力、情報処理能力、意思決定能力、そのような頭脳労働能力であることを論証してきた。それは脳科学などの科学的見地により、まったく不可能であることを証明してきた。つまり、資本主義に問題が多くあったとしても決定的に生産力が存在しないのは、社会主義、共産主義社会の方なのである。以上の引用文で示された内容は根底から誤っている。しかし、ここで考察を終えることなく次に、頭脳労働能力に焦点を当てて、これを変数として扱い、階級性と生産力の関係を考察していきたい。


 補論


 均等割り振りの具体的検討は、今まで比較的小規模でなされてきたが、現実にはそれよりも大きな規模で考察されなければならないことは言うまでもない。特に頭脳労働はその規模が大きくなるにつれ、多層化していく傾向にある。また、事務の仕事も複雑化していくだろう。それを図式化してみよう。


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                        図3
 図3は、資本家経営者1人、中間管理職3人、事務職員2人、身体労働のリーダー格2人、身体労働者40人という構成の会社、工場を図式化したものである。頭脳労働者は6人、身体労働者42人ということになる。頭脳労働者は身体労働を、身体労働者は頭脳労働を習熟したとする。実際にはこれだけでも非現実的なコストがかかるだろう。しかし、これが十分になされたものと仮定しても、大問題が待ち構えている。均等割り振りによって、頭脳労働者は身体労働を割り振られた分従事する。身体労働者は頭脳労働に同じく従事することになる。おそらく身体労働にはそれほど大きな問題は生じない。それは同じ労働の繰り返しになり、労働時間が同じならば同じ結果を出せるはずである。その労働に変化があったとしても、その対処の仕方は均等割り振りが適用された状態と適用されない状態とで違いはないだろう。頭脳労働を均等割り振りにより遂行したとすると、いったいどのような状態になるだろうか。例えば事務職員2人の仕事を48人で均等に割り振り、輪番によって行うとすると引き継ぎを48回行わなければならない。引き継ぎに20分かかったとすると、2人分で40分かかることになる。それを48回行うと32時間かかることになる。事務職員の1日の労働時間が8時間ならば、その2倍の時間が引き継ぎに消費されることになる。この引き継ぎには一切生産力は無い―そしてこのような輪番を行えば単純な伝達ミス、計算ミスなどが発生してくる危険性は著しく増大するだろう。それは経営にとっての致命的なミスになりかねないのである。さらに経営に関する合意形成、意思決定の合議にも途方もない時間が消費されてしまうだろう。経営者1人なら1時間で済むところを、全員の合意を得るとすれば何日もかかってしまうかもしれない。頭脳労働全体に対するコストは信じられないくらい増大してしまうのである。


 このような均等割り振りを千人、1万人というような規模に拡大していったときどうなるかは明白であろう。輪番の引き継ぎを千回、1万回としなければならず、その頭脳労働量の大きさから1回の引き継ぎに何日もかかってしまうかもしれない。もちろん、情報処理、合意形成、意思決定の頭脳労働量も同じく増大する。この頭脳労働量の天文学的な増大によって、身体労働時間は圧迫され生産力は破壊されてしまうのである。社会全体でこのようなことを行えば、それは核兵器を落とされたくらいの大惨事になるだろう。このような均等割り振りを行えば、マルクスの指摘している資本制生産の負の側面は大きく改善することは間違いないが、そのプラスの側面よりも頭脳労働量の爆発的増大による身体労働時間の圧迫、それによる生産力破壊のマイナスの側面の方が桁外れに大きいのである。つまり、これが猛毒のテトロドトキシンなのである。

 

 第3節 能力変数

 

 マルクス主義において、階級、分業と生産力の関係が問題にされてきた。いわゆる生産関係と生産力の矛盾である。資本制生産において資本家対労働者、分業の生産関係は高い生産力を実現したが、次第にその生産関係との間の齟齬が生じてくる。そしてその矛盾が頂点に達した時、社会主義革命が起こりいままでの生産関係は破壊され、新しい生産関係が確立される。しかし、その新しい生産関係はプロレタリアートによる生産手段の共有、平等な分配を可能にする共産主義社会だと言う必然性、あるいは保証は存在するのだろうか―これらは今まで議論されてきた内容であるが、ここではまったく新しい要素を導入してみることにしよう。それが「能力変数」である。今まで生産関係と生産力という2つの変数の間の相関関係が問題にされてきた。本論ではこの2つの変数に加えて「能力」が決定的に重要であるという結論的考察がなされたのである。能力といっても様々なものがあるが、ここでは頭脳労働能力―情報伝達能力、情報処理能力、合意形成能力、意思決定能力などが対象になる。


 身体能力を対象にする―という考え方も存在するだろう。極端な話、プロレタリアートが映画「スーパーマン」のスーパーマンのような身体能力を持つことができれば、ほとんど問題はなくなってしまうだろう。しかし、ここでは今までの議論の展開から、頭脳労働能力に焦点を絞って考察を進めていくことにしたい。今まで能力を変数として扱うという発想自体が存在しないものであった。これはある意味当然のことであり、人間の能力は様々な個人差はあるが、一般的にはほとんど同じ水準の中に収まるものである。これを生物学的能力のレベルで変数として扱うことは、歴史の範疇から逸脱していくことは明らかである。つまり、マルクス主義は唯物史観という歴史の問題を扱っている―これを前提にすれば能力を変数として扱うことは不自然である。マルクスの言う「能力」はそのようなものではなく、革命の結果獲得される「社会的能力」として考えられているはずである。その能力を持てるようになると確信を持って述べられているが、具体的にどのようなものであるかは不明なのである。


 ここで言う「能力変数」は、そのような社会的能力を含むものであるが、そこから連続した延長として生物学的限界をまったく考慮しないものとして設定される。これは最も重要なことなので繰り返すが、この能力変数は生物学的な現実性をまったく考慮しない。逆に言うと生物学的な現実性を考慮すると能力変数を導入する意味がなくなってしまうのである。実例を挙げてみよう。情報伝達能力のうち会話能力の伝達効率を考察してみる。一般的な聞き取り可能な会話の速度というものはせいぜい数倍程度の幅しかない。テレビのバラエティー番組などで、全員がよく知っている曲を早く流して、曲名を当てるクイズがある。5倍速になるとほとんど誰も曲名を当てることは出来ない。4倍速程度で1人か2人、3倍速で何人かが当てられる、という具合である。2倍速でもわからない人がいて冷やかされたりする。この聞き取り可能な速度を10倍、100倍、1万倍、10万倍などという能力を考察することはまったく意味の無いように思われるだろう。


 しかし、無階級社会を目指すためには土台内部の頭脳労働と身体労働は必ず統合されなければならず、頭脳労働の均等割り振りから生じる引継ぎ問題―情報伝達のコスト増大は絶対に避けることのできない問題なのである。頭脳労働のコスト増大による身体労働への圧迫を回避するためには、情報伝達効率の途方もない高さが要求されてしまうのである。会話能力を例にすれば、発話と聞き取り可能な速度をそのような数百倍、数万倍といったレベルに高めなければならないのである。それ以外の文字データのタイピング速度や速読の速さ、など様々なものが考えられるが、同じような高い情報伝達効率が要請されてしまうのである。これは現代のテクノロジー、また未来に開発されるであろうテクノロジーの援用を受けたとしても、様々な社会システムがどのように進歩しようとも、この事態にまったく変化はないと言えるのである。根本は脳が外界から「閉ざされた系」であるということであり、末梢神経、筋肉、感覚受容体の複雑なプロセスを経てしか情報の入出力ができない、という生物学の問題なのである。また、それに伴い情報量は膨大なものとなり、それを処理するだけの情報処理能力も要請されるだろう。これも現在の生物学的能力をはるかに超えた能力を想定せざるをえない。また合意形成、意思決定の効率の高さもまったく違ったレベルが要請されるだろう。


 このように能力変数は、生物学的現実性をまったく考慮しないものとなる、そのことを前提とした上で、生産関係、生産力とのあいだの三角関係とも言うべき相関関係を考察していくことにしよう。生産関係は、階級性、階層性、分業化がどのくらい多層化しているか、分化しているか、また階級関係の強度なども考慮しなければならない。資本制生産であるかどうかということも重要なことのように思われるが、資本制生産と階級性はイコールであるわけではない。資本制生産以前の経済体制にも階級は存在していたのである。資本主義の問題はここではひとまず脇に置いておくことにしたい。


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                         図4
 図4は能力変数―生産関係―生産力の相関関係を示したものである。もちろん、現実にはこれ以外の多くの変数、要素も考えなければならないが、ここではこの3つの要素の相関関係に焦点を当てて考察を進めていくことにしたい。能力変数、生産力に関しては低い状態から高い状態に連続的に推移していくと考えて差し支えない。しかし、生産関係の階級性、分業化はその効率を達成するための適度な数が考えられるだろう。つまり、ある能力、生産力に対して適切な階級の数、分業の数があると考えられる。例えば経営者と雇用労働者は低い生産力ならば階級はこの2つで十分であるが、生産力が高くなると中間管理職が必要になってくる、つまり階級が細分化、多層化してくるのである。分業も一般的には生産力が高くなればなるほど、細分化してくるといえる。つまり、生産関係の階級性、分業化はある範囲の適切な数があり、それよりも多くなっても、少なくなっても効率が低下すると考えられる。


 まず、一般的な能力変数を現実的に捉えてほぼ固定したものとみなすと、生産力が高くなると生産関係も多層化、細分化してくるという相関関係が考えられる。これは高い生産力には複雑で膨大な知識、情報が必要になり、それを全体的に統制する階層構造が形成されるからである。また、1つの生産物に関わる仕事の形態、量も多くなるので分業化も必然なものとなる。これらはすべて経済機能的な要請から来ているのであり、資本主義である場合はこの経済機能的な形態の上に資本制生産と資本主義イデオロギーが重ねられると考えられるだろう。しかし、資本主義の要素を全て抜き去っても、この経済機能的な要請はそのまま残るのである。ところが、マルクス主義では資本主義の要素を抜き去れば、この経済機能的な要請も無視できるかのような幻想を与えているのではないだろうか。マルクスの時代から現代に至るまで、生産力の増大とともに生産関係は多層化、細分化の一途をたどってきたのである。生産力を維持したまま、あるいは高くなりつつ、生産関係の階級性、分業化が単純になってきたなどという事例が存在するだろうか。機械化により仕事が単純化されるという例はあるだろうが、全体として見れば階級がなくなる、分業がなくなるといったような方向ではまったくないことは明らかである。これはすなわち土台の変革であるが、このことが革命と何か関係があるだろうか―この問題はのちに詳論されることになるだろう。


 能力変数を固定したものとして考えた場合、生産関係を単純化する―すなわち階級を少なくしていき最終的にはひとつの階級だけになる、これで無階級社会が達成される。分業は廃棄され、代わる代わる自由に仕事を選べるようになるような状態になれば、必然的に生産力は大幅に減少していく、また行かざるをえないのである。無階級社会ともなれば生産力は極めて小さいものになるのではないだろうか。資本主義の高度な生産力を持つ社会に、いきなりその状態を適用すれば生産力は瞬時に壊滅してしまうだろう。


 すなわち、生産関係を維持したまま生産力を増大させる、生産力を維持したまま生産関係を単純化し無階級化の方向に向かう、いずれの場合にも能力変数を変更しなければならないということである。それでも、前者の場合にはテクノロジーの進歩、さまざまな技術的な工夫によって生産関係を維持したままでも生産力をかなり増大させることができるかもしれない。しかし、生産力を維持したまま生産関係を単純化する方向は、能力変数の大幅な向上が絶対なものになるだろう。情報伝達能力、処理能力のそれまでの何十倍、何百倍、何千倍という向上が要請されてしまうのであり、それは瞬時に生物学的能力の限界を超えてしまうのである。そしてマルクス主義は、生産関係を単純化し無階級社会になることによって、生産力はそれまでより増大する―しかもこれは歴史の必然である、とみなしているのである。こうしてマルクス主義の隠された因果性が明らかになっていく、すなわち、資本制生産、資本主義を破壊することによってこのような生物学的限界を超えた能力を獲得することができる、というものである。この資本主義破壊能力の獲得、という因果関係は次章でさらに詳しく検討していくことにしたい。


 この能力変数、生産関係、生産力の相関関係はその適用範囲によって変わってくるものであるし、もちろん厳密に関係しているのではなく大まかな相関関係でしかないが、能力変数の考察は今までまったくなされていなかったものであり、これを考慮することによって決定的に異なる見方ができるようになるのである。


(28)クオリア―「感覚質」 「質感」などと呼ばれている。 「薔薇の赤い色」 「そよぐ風の感覚」 「頭痛のズキズキ痛む感じ」といった主観的に体験する様々な質のことである。赤い色を見ているとすると、それは波長の長さが700ナノメートルの光を目がとらえて、その電気信号が脳に送られている。その電気信号や脳の状態は赤い色そのものではない。クオリアとはその「赤さ」それ自体のことである。


(29)ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか』冬樹純子 豊嶋良一 小山毅訳 草思社、2006年


(30)茂木健一郎『脳内現象』日本放送出版協会、2004年、115,116頁


(31)マルクス、エンゲルス『新訳 ドイツ・イデオロギー』服部文男訳、新日本出版社、1996年、49,50頁


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