反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 8 


 『マルクス主義の解剖学』

 

 第4章 「均等割り振り」と技術論

 第1節 「均等割り振り」

 

 まず、 「均等割り振り」の基本的な考え方を説明してみたい。相互依存関係にある身体労働と頭脳労働を統合するためには、労働者自身がこの両方を同時に担わなくてはならない。つまり、それまでの身体労働者は頭脳労働を兼任し、頭脳労働者は身体労働を兼任し両者を平等な状態に置くことである。それまでの中間管理職、テクノクラート、そして資本家も身体労働をしなければならない。これを最も簡単な構成を例にとって考察していくことにしよう。


 ある生産物を生産する工場があったとする。その工場の所有者である資本家は、同時に経営者であり、また事務なども兼任する頭脳労働者であるとする。この人物をAとし、このAが身体労働に従事する雇用労働者を2人雇った。その2人をBとCとする。この雇用者と被雇用者の間には階級関係が存在する。これを無階級化するためには、イデオロギーを変えるだけでなく実質的に経済形態も変えなければならない。経済機能的な要請から生じているこの頭脳労働と身体労働の分業を解消することが必要であり、それはこの両者を統合することである。絶対に単に頭脳労働を消去することはできない―これは確認しておくべき最重要事項である。資本家、経営者であるAの労働時間は1日6時間であるとする。それに対して身体労働者の労働時間は1日9時間であるとする。この分業を解消するためのもっとも合理的な考え方はこのようなものであるだろう。それは頭脳労働時間と身体労働時間を3人で平等に分配することである。ABCともに1日の頭脳労働時間2時間、身体労働時間6時間とすれば、 3人の関係は平等なものになり階級格差は消滅する。当然、工場の所有権も3人で平等に持てるものとする。


 この状態を実現するためには、頭脳労働者は身体労働者の仕事を習熟する、身体労働者は頭脳労働者の仕事―その知識やスキルを学習し習熟しなければならない。これにかなりのコストがかかると思われるが、これは十分になされたものと仮定しよう。この2つの状態、頭脳労働と身体労働の分業状態―階級がある状態と均等割り振りによって頭脳労働と身体労働は平等に分配され、階級のない状態とは同じだとみなされるだろうか?それとも異なる状態だとみなされるだろうか?これは均等割り振りにおける技術的な問題の最大の焦点である。もちろん、これはその経済形態が異なるのだからその意味では違う状態である。この質問の意味はこのようなものである。この生産物を生産する過程、それは一定の原材料や燃料の供給を受け、それを同じ設備の状態において同じ質、同じ量の生産物を生産できる状態である。もしこれが同じであるならば、この2つの状態は同じだとみなしてよいのである。そうであるならば、階級格差がある状態よりない状態の方が良いことは言うまでもない。もしこれが大きく異なるものであるならば、どこに原因があるかが明確にされなければならない。その原因こそ突き止めるべき最重要問題になるだろう。


 これを理論的に考える前に、1つの思考実験を考えてみたい。これは1つの工場内において社会主義革命が起き、資本家を追放し労働者のみによる社会主義的運営がなされたという仮定の考察である。この物語の後に再度、理論的に考えることにしよう。


 第2節 「均等割り振り」における思考実験


 これはどのような題材を取上げても構わないのであるが、第1章で取上げた『資本論』の中に出てくる紡績工場の例を当てはめてみよう。(第1章 第8節 剰余価値率の根本問題)に出てきた資本家と紡績工が登場人物となる。話を単純化するために1人の資本家と10人の紡績工によって運営される紡績工場であるとする。その紡績工場の土地、工場の建物や設備などは資本家の私有財産である。これらの不変資本に対して雇用契約によって雇用された可変資本である10人の紡績工がいる。労働時間は1日に12時間であり、これを12単位の価値(貨幣価値)を生み出すものとする。(つまり、1日の労働時間から生み出される商品価値から原材料費、燃料費、設備維持費など不変資本を差し引いた分)資本家自身は経営に関する業務を1日に6時間するものとする。労働価値説の全的適用においてはこの資本家の1日の労働価値は6単位である。しかし、当然紡績工の12単位はすべて紡績工に支払われる賃金にはならない。ここで紡績工に支払われる賃金は6単位であるとする。つまり、残りの6単位は剰余価値であり、すべて雇用主である資本家の懐に入るのである。これによって資本家が1日に取得する剰余価値は6×10で60単位となる。これは資本家自身の労働価値説に沿った6単位を引いても剰余価値は54単位ということになる。これは紡績工の9倍の所得になる。つまり、これが紡績工が長時間働いた重労働に対して、その半分の時間を身体的にそれほど厳しくない頭脳労働において働いた利益なのである。そしてこれが長期間続くことにより、資本家の現在の資本はこの10人の紡績工から巻き上げた剰余価値とほぼ等しい状況になっている。


 この紡績工の中の1人が、マルクスの思想に触れる機会をえた。そして苦労して『資本論』やその他の著作を読み社会主義革命、社会主義社会の知見を得ることができたのである。その紡績工を紡績工Aとする。紡績工Aはすっかりその思想に魅了され、それを現実のものにならないかと、その他の紡績工にもその理論、思想を情熱をもって語った。すると全員が強くこの理論、思想に共鳴し、この工場だけでもこのような理想的な搾取のない平等な状態を作り出そうと決心した。そして、この紡績工たちはこの工場の内部だけで社会主義革命を起こしたのである。現実にはこれは絶対に成功しない。社会全体は資本主義の上部構造を持っていて、政府や警察機構はこの状況を必ずや粉砕するだろう。だからこそマルクスは、革命はこの上部構造全体をも覆さなければならない、としたのである。しかし、この思考実験においてこの工場外部の上部構造や経済構造は、工場内社会主義革命を妨害しないものとする。それどころか、この革命を工場内にとどめるならば、その状態を支えるための外部条件を最適化するための援助をしよう、ということになった。この外部条件の最適化がどのようなものであるかは物語の進展に沿って具体的に説明する。


 こうして、この紡績工場に工場内社会主義革命が勃発し、社会主義的生産様式への移行が起こったのである。土地や工場の施設を所有していた資本家は、これら紡績工によってその立場を追われた。個人的に残ったわずかな財産を持ったままその資本家は追放され、土地、工場設備は紡績工たちの共同所有となった。 (前節での仮定、資本家1人、労働者2人での均等割り振りは資本家自身も参加するが、ここでのこの違いは生産力のわずかな違いだけであり、無視することにする)紡績工Aを中心として、マルクスの思想に沿った階級のない、搾取するものとされるものとの区別のない、平等で頭脳労働と身体労働の分離のない生産様式、生産体制を建設する努力が開始されたのである。


 工場の運営全体を紡績工全員の協議によって決定する、ということは当然の前提となった。その協議のためのガイドラインも作成された。基本的には運営の重要な項目は全員の意見一致が望ましいが、どうしても合意に至らなければ多数決で決定されることとした。1日の労働時間に関しては、今までの12時間から8時間へと変更された。長時間労働で負担が大きく、自由時間も少ない状況は一気に改善されることになった。紡績工Aはマルクスの剰余価値理論に沿ってこのような計算をして、労働者の収入は以前に比べてむしろ増大する、と考えていた。すなわち、今まで12時間の労働単位、12単位はそのうちの半分の6単位が資本家によって搾取されていたものである。労働者の収入はそのため6単位となっていた。その資本家がいなくなり、搾取されることがなくなったのだから、労働者の収入は働いた全時間が対象となる。すなわち、8時間、8単位となるはずである。労働時間は3分の2になり、収入は1と3分の1になるのである。


 ところが、問題はそう簡単にはいかないことがすぐにわかった。追放した資本家がしていた運営のための業務は必ずしなくてはならないものである。事務処理や原材料の調達のための手配や商品の流通業者への手続き、その他設備維持のためのさまざまな業務がある。紡績工Aは資本家が運営のために1日6時間程度、それらの仕事をしていたことを知っていた。誰かがその仕事を受け継げばいい、と考えられたがマルクス思想を深く理解していた紡績工Aはその頭脳労働を誰か1人が担当すれば、その1人とその他の紡績工との間に頭脳労働と身体労働の分化が生ずるのは必然である、ということを理解していた。これは絶対に避けなければならないことである。全員が運営に関わっているのだから、これら頭脳労働の内容も全員がすべて把握し、それらの決定に関与しなければならない。しかし、このことに関連する具体的な指示や何らかの青写真もマルクスの文献の中にはほとんど存在していなかったのである。紡績工Aはこの事態に困惑しながらも、自分の考えで推し進めるしかなかった。紡績工Aは次にこのような計算をした。資本家がしていた頭脳労働の業務時間、6時間を紡績工10人で分担して遂行すればよいのではないだろうか。つまり、1人1日0.6時間、頭脳労働の業務を担当するのである。そうすると本来の紡績工の仕事は1日7.4時間となるが、この程度は仕方がないだろう。紡績工全員はこの考えに納得し、これに沿って運営することになった。


 以上の工場の運営形態、生産体制は「均等割り振り」をこの小規模な工場内という限定された領域ではあるが、履行した状態だということができる。資本家と賃金労働者という階級の区別は消滅して、労働者は労働から疎外される、という状態はほとんど改善されたといってよい。自らの労働を自らの手に取り戻すことができたのである。剰余価値を搾取される、ということはもう過去のものとなった。過重な長時間労働から解放され、8時間という適度な労働時間によって、残りの自由時間を家族との団欒や娯楽などに使うことができるようになった。そして、マルクス思想、理論から見たさまざまな重要な概念が実際に現実のものとなったのである。身体労働と頭脳労働の区別の消滅、この人間を不具にする労働の分離は統合され、全員が平等な調和のとれた身体労働と頭脳労働を兼任する状態である。これはこの局所的な状況の中ではあるが、政治的解放から人間的解放への道筋が示されるのではないか、ということも期待できる。―以上が紡績工Aが思い描いた輝かしい未来への青写真なのであった。


 この状態に対する問題点は大きく二つの領域に分かれる。一つは工場外の経済状態、その条件の問題である。そしてもう一つは工場内部の運営の問題である。この思考実験における前提として、その外部はこの工場内社会主義革命を妨害しないということがあった。それに加えて外部条件を最適化する、ということがある。つまり、その政府や警察がこの工場内社会主義革命を妨害しなかったとしても、資本主義市場経済は原材料の供給や価格競争などのさまざまな問題点がある。これもまた非現実的な想定であるが、この思考実験を成立させるために必要なことである。それはこの工場に関わる、原材料費、設備維持費、燃料費そして商品価格などをそのときの社会状況の平均的な水準において、ある変化の限度内に固定されるものとする。この革命工場においても、経済全体が資本主義の競争にさらされる中においては、その本来の社会主義的生産様式を維持することは難しいだろう。これが外部条件の最適化である。この革命工場が平均的な効率において、その平均的な質の製品を生産するかぎり、その運営は維持できるものとするわけである。このことによって焦点を工場内部の運営に当てることができる。この外部条件の最適化は、問題が起こった時、それがどこか外部にある、ということをあらかじめ消去することにある。


 社会主義的生産様式によってこの紡績工場の運営が始まった。この結果をどのように予想するだろうか?その状況は紡績工Aが夢想だにしないものとなったのである。8時間労働を設定するのはまったく問題ないことではあった。ところが、考えもしなかった問題が生じてきた。それは0.6時間ずつ分担した頭脳労働の遂行の仕方である。これは10人が労働時間8時間のうち変わる替わる0.6時間ずつ引き継いでいくわけであるが、その引き継ぎに実際の頭脳労働時間の半分くらいの時間がかかることがわかってきたのである。そうしないと必要で正しい内容を次の人に引き継ぐことができないのである。引き継ぎには2人分の時間が消費されるので、頭脳労働にかかる時間は0.6時間の2倍、1.2時間程度かかってしまうのである。これは大きな誤算であった。そうなると生産力に関わる身体労働時間は、8時間引く1.2時間の6.8時間しか持てないことになってしまう。ところが、さらに進めていくともっと重大なことが起こってきた。原材料をどこからどれくらい調達するか、商品の流通にどの業者を選ぶか、というような重要な決定事項に関して、その情報のすべてを紡績工全員が共有するために、今までしてきた頭脳労働時間だけではまったく足りないことが明らかになったのである。それはまた別にその情報を全員が共有するために、全員が一つになって会議をしなければならない。そのために1日平均、1時間程度消費されることになった。そこからさらに、さまざまな運営の決定を協議するための時間が消費される。そこで意見が食い違うと、議論が延々と続くことも起きてきたのである。それぞれが運営に関わるという意識が強いので、なかなか妥協できないのである。そのために1日平均さらに1時間、そのための議論に消費されることになった。そのことによって、生産力に関わる身体労働時間は1日平均さらに2時間少なくなり、1日の生産力に関わる労働時間は4.8時間ということになったのである。


 実に工場全体の生産力は、以前に資本家が運営していた時と比べて、3分の1近くに減少していた。剰余価値の搾取が無くなったにもかかわらず、紡績工1人の1日の収入は4.8単位となり、以前の6単位に比べて減少したのである。労働時間は12時間から8時間へと減少し、確かに楽になったのであるが収入の減少は紡績工達にとってまったくの予想外であり、その不満が紡績工Aに向けられるようになっていった。「これはどういうことなのだろう。剰余価値がなくなればその分がわれわれのもとに入り、収入は確実に増えるはずだった。これだけ少なくなれば以前と比べてそれほど良くなったとはいえない。しかも、われわれは不慣れな事務や経営の手続きなどをしなければならない。これは紡績工の身体労働に比べて、体は楽であるが神経が疲れる。まったく、最初に宣伝していた社会主義的運営の夢のような状態とはかけ離れている」紡績工Aはこのような不満に対して返す言葉がなかった。そのうちに、もっと重大な事態が生じてきた。紡績機械の一部が予想外の故障を起こしたのである。修理することが不可能であり、そっくり交換しなければならないことになった。そのために大きな出費が必要になってきた。そのための資金は工場には残っていないのである。紡績工Aはそのとき初めて、剰余価値の蓄積がこのような時のために必要であり、以前の資本家はその中からその資金を調達していたということに気づいたのである。このままでは運営がままならなくなるので、やむを得ずそのための資金を稼ぐための、労働時間の延長が決められた。労働時間は8時間から10時間となり、しかも収入は4単位へ落とされた。しかし、そのことによって紡績工の一部に大きな不満と反発が生じ、工場の運営は険悪な雰囲気となり、内部抗争の危険が生じてきたのである。


 不満をもったグループの中心となった紡績工Bは紡績工Aに向かってこのように主張した「1日に10時間労働をし、収入が4単位というのは、まったく納得できるものではない。マルクスの理論というのは、どうも都合の良いことばかりを並べた空論ではないだろうか。冷静になって考えてみると、われわれ全員が頭脳労働に関わるというのは非常に非効率なことだ。以前、資本家は1人で6時間の頭脳労働をして、この工場の経営はそれですべてまかなわれた。ところが、われわれ全員の頭脳労働時間を足すと1人3.2時間かける10で32時間も使っていることになる。同じ工場の経営にかかる頭脳労働時間が26時間も増えたのだ。これでは商品の生産力が落ちるのは当たり前だ。これを是正するためには、身体労働と頭脳労働を分けて、頭脳労働に専念する者を作った方がよい」。それを聞いた紡績工Aは大きなジレンマに陥った「うーん、しかしそれでは頭脳労働と身体労働の分業が生じてしまい、以前のブルジョワ生産体制に逆戻りしてしまうのではないだろうか。社会主義的生産体制を維持するためには、全員が等しく身体労働と頭脳労働を兼任しなければならない。でも、これだけ非効率になると生産力が落ちるのも当然だ。・・・・マルクスは社会主義的生産体制になれば、資本主義的生産体制に比べて生産力は高まるといっていたはずだが・・・・一体全体どうしてこうなってしまったのだろうか。ここで分業を取り入れては何のために今まで努力してきたのか分らなくなってしまう。ここは何としてもこの体制で乗り切りたいが・・・・」紡績工Aと紡績工Bとの論争は激しくなり、険悪なものとなっていった。


 この物語は、ここで一応終わることにしたい。これは「均等割り振り」を適用した場合の一つの架空の物語である。この物語の内容に対しては異論、反論は当然あることと思うが、もっとも重要な問題に関しては大局的には(当然、具体的な労働時間などは捨象される)完全に正しいと確信している。それは、「均等割り振り」をこのように徹底させると、以前の状況に比べて頭脳労働時間が大幅に増大するということである。この思考実験の状況は、このような社会主義的生産体制にとってもっとも有利な状況を想定しているのである。外部条件を最適化し、資本主義体制、イデオロギーからの妨害や攻撃のない状況であり、工場内部で起こったこのような問題の原因を工場外部に求めることはできない。さらにこれが最大のポイントであるが、それはこの工場の規模が10人という小さなものである、ということである。この規模が、20人、50人、100人、500人、1000人というように大きくなっていった場合どのようなことになるのか―本来の頭脳労働量は大きなものなので、 「均等割り振り」にした場合の引き継ぎ時間、意思決定に関わる合議の時間はさらに飛躍的に増大していくだろう。すなわちこれが一般的によく言われている「労働者自主管理」 「労働者統制」の根本問題なのである。


 第3節 技術論の根本問題


 さて、第1節での資本家経営者1人と労働者2人の均等割り振りの考察に戻ろう。頭脳労働と身体労働が分化されている状態、すなわち階級格差がある状態と頭脳労働と身体労働が均等割り振りになり階級格差がない状態とは同じなのだろうか、それとも異なるのだろうか―この質問に対する答えは「まったく異なる」ということである。それではどこがどのように異なるのであろうか。身体労働に関しては、資本家がその身体労働に習熟すれば、今まで2人の労働者がしていたものを資本家を含めて3人で分担してすることになる。その労働や設備のあり方によってさまざまな形態があるだろうが、例えば輪番によって2人は身体労働をし、残りの1人は頭脳労働をしていくとすれば、身体労働にそれほど問題は起こらないといえるだろう。つまり、身体労働はそれ自体で完結したものであり、2人が3人になったとしても労働時間が同じならほとんど同じ結果を出せるはずである。問題は頭脳労働にある。労働者2人が頭脳労働に習熟したとしても、3人の間で輪番をして行うとき、その都度仕事の内容を次の人に引き継がなくてはならない。頭脳労働は身体労働と違い、時々刻々と変化する情報を扱っている。そしてその情報は厳密な正確さを必要とするのである。この「引き継ぎ問題」こそ超弩級の大難問なのである。この引き継ぎに問題がある―このように聞いて「なんだ、そんなことか」と感じる人もいるのではないだろうか。そんなことはどーにでもなるだろう・・・このように受け取られがちな問題なのである。このことを詳しく検討していこう。


 まず、この引き継ぎの頭脳労働に生産力はまったくない、ということである。そして常にこの引き継ぎには2人以上の労働者が関わることになる。例えばこの引き継ぎに15分かかったとしよう。そうなると実際はその2倍、30分かかることになる。頭脳労働時間はABCともに2時間であったわけだが、引き継ぎにかかる時間を加えると2時間30分かかることになる。そうなると全体の労働時間を8時間と固定する場合は、身体労働時間はその分減り5時間30分になる。さらに全体の運営を決定する合議などをする場合、その分の頭脳労働時間はさらにかかり、その分身体労働時間が減り実際の生産物を生産する生産力は減少していくことになる。つまり、資本家経営者がひとりで頭脳労働をする場合と、労働者を含めて3人でする場合とではまったく異なるのである。 「均等割り振り」で生ずる最大の問題は頭脳労働にあることがわかるだろう。


 これは資本家1人と労働者2人という極めて少人数の関係を考察したものである。現実の企業、会社、工場というものは当然それよりもはるかに大人数であり、複雑である。資本家、経営者、複数の中間管理職、事務職、大人数の身体労働者によって成り立っている工場を、すべて均等割り振りにして全員が身体労働者になり、頭脳労働を輪番によって行い、重要な決定などは全員の合議によって行う―このようなことをしたとすればどのようなことになるだろうか。その問題は身体労働ではなく、頭脳労働に現れることは確実である。重要で複雑な膨大な情報を全員で共有することはそれだけでも途方もないコストがかかる。それを全員の合議によって行い、重要な決定を下すということは頭脳労働時間だけでたちまちすべての労働時間を消費してしまうだろう。これは何を意味するかというと、身体労働時間はゼロになる―すなわち生産力は消滅してしまうのである。これは途方もなく愚かで、馬鹿げたことである。身体労働時間がゼロならば、頭脳労働の意味もまったくなくなってしまう。


 この土台の変革は、現在のこの社会において局部的な実験で検証することができるのである。われわれは社会主義の実験というと、現存した社会主義体制のように社会全体を対象としなければ不可能であるという先入観がある。それは資本主義社会は資本主義の上部構造を持っていて、経済を変革するためにはその上部構造を覆さなければならない―それが社会主義革命であるが―と思い込まされてきたのである。しかし、土台の変革に関しては、このような科学の実験と同じ局部的な実験をして検証することが十分に可能なのである。科学的社会主義と言うならば、このような考え方に賛同してくれるはずである。


 以下、その実験のおおよその概略を示していきたい。対象となるのは何らかの使用価値をもった商品、それは物質としてのものであり情報ではない方がよい。そのような商品を生産する工場を実験の対象にする。身体労働対頭脳労働の比率は6対4から8対2程度がよいだろう。そしてできれば、同じ商品を生産する工場で規模の違う二つの工場の実験ができればさらに良い。一つの工場は例えば30人程度であるとすると、もう一つの工場は300人程度というふうに10倍程度の規模の差を設定する。そして、第2節「均等割り振り」における思考実験、で考察されたような労働形態をこれらの工場に適用するのである。具体的に必ずしもこの様でなければならないということはない。必ず守らなければならないのは「全員を身体労働者とすることである」そして、 「頭脳労働をする場合は、できるかぎり平等であり、頭脳労働から来る階級差、力関係の格差が生じないようにすることである」 。当然、 「工場の経営に関しては全員が平等でなければならない」そのために最善の努力をしなければならない。もちろん、給与は全員平等であり、労働時間も同じく平等である。そして、このような条件において経営に最善を尽くしたならば、その商品の生産量はどのようなものであっても構わない。つまり、このような条件のもとで最善を尽くした場合に、生産量はどのように変化するのか、を知ることがこの実験の目的なのである。


 この実験を成立させるためのもう一つの重要な要素は「外部条件の最適化」である。この「外部条件の最適化」が考えられたことは今までなかったのである。これも第2節「均等割り振り」における思考実験、において述べられていることと同じである。つまり、平均的な水準の商品を生産できるのならば、外部の資本主義市場経済からのさまざまな問題を受けないものとする。原材料の調達、燃料費などの費用、商品の販売価格などは、ある一定の限度内の中で安定しているとされなければならない。これは、工場内部における実験の結果の問題が工場外部から来ている、ということをあらかじめ消去するためである。


 この無階級化実験をする外部の状態は、世界革命が起きたのとまったく同じ状態なのである。土台の変革をこのように検討することに世界革命はまったく必要ないことがわかるだろう。このような「均等割り振り」の論理が、なぜ今まで存在しなかったのか非常に不思議なことであった。なぜなら無階級化を目指すならば、頭脳労働と身体労働の均等割り振りは必然の論理ではないかと私は考えていたのである。しかし、マルクスの徹底した頭脳労働捨象を知ることによって、なぜそうなのかを理解できるようになったのである。これで土台の変革を具体的に考察することは不可能になる。資本主義動態分析は徹底して追求され、それは必然的に社会主義社会に向かう―それは社会主義革命、世界革命へと向かうのである。しかし、世界革命の必要性はここでなされた実験の外部条件を満たすに過ぎない。ただそれだけのことに、超大革命が必要だというのである。それと同時に、現実には絶対不可欠な頭脳労働は捨象されることにより、無階級化の論理は意識されない深層の論理としての「完全な兼任」の中に組み込まれることになるのである。


 第4節 技術論から能力論へ


 一般的な常識的議論では、マルクス主義に批判的な陣営を含めて上部構造の変革に焦点が当てられていたのである。マルクス主義は経済に基礎を置いているという唯物論から、価値形態論や剰余価値論、あるいは疎外論や物象化論、資本の動態分析に注意が向けられ、それは資本主義崩壊の必然性を説いているように受け取られる―その次は社会主義社会に向かう革命だということになるのである。土台の変革はその上部構造の変革がなされ、その条件が整ってから始められる、と受け取られる。これには反論があると思われるが、それは根本的に大きな問題を含んでいるのである。そもそもマルクスは社会主義革命へ誘導するための精密なイデオロギー操作を行っている。それは社会主義革命へ向かう有利な要素、条件のみを選択的に取り上げて、そうでない不利な側面は徹底的に捨象しているからである。有利な側面とは当然、資本主義の動態分析である。これだけでも壮大な体系が出来上がる―あたかも社会すべてを包み込んでしまうかのような感覚を受ける体系である。不利な側面の最大のものはすなわち「土台内部の頭脳労働」なのである。土台の変革を具体的に追及するためには、土台内部の頭脳労働と身体労働の統合を対象としなければならない。しかし、土台内部の頭脳労働は徹底的に捨象されてあるために、それはもはや不可能になっているのである。だから、上部構造の変革とは別に革命過程においても土台の変革は遂行できる、と考えてもそれは不可能にされているのである。


 土台の変革は技術的な問題であり、そこに哲学や経済学が入り込む余地はない。土台の変革の技術論が最優先されるのは、次の2つの理由による。それはプロレタリアート(身体労働者)のみの共産主義社会を実現するためには、その上にある土台内部の頭脳労働、上部構造の頭脳労働などを統合しなければならないが、土台内部の頭脳労働が統合できなければ、上部構造の頭脳労働を統合できるはずがない、ということである。そしてもう一つの理由はマルクス主義の示すような上部構造の消滅が万が一起こったとしても、土台内部の頭脳労働は絶対に消滅しないからである。より重要なのは後者の理由である。つまり、土台内部の頭脳労働と身体労働が統合できなければ、上部構造を一切無視しても共産主義の無階級社会を実現することはできないのである。


 繰り返すが、土台内部の身体労働と頭脳労働を統合する変革理論、技術論は最重要であり、これがすべてを決するといっても過言ではないのである。しかし、このような主張はまったくといっていいほど存在しなかっただろう。マルクス主義、唯物史観に関わる問題、論争は批判する人をも含めて、哲学や思想、経済学、社会学、倫理や道徳といった分野で行われてきたのである。マルクス主義の側は特にこのような技術論を軽視、あるいは蔑視、無視する傾向がある。 「それは技術論に過ぎない」といい弁証法や疎外論、所有論、物象化論、搾取論などを論じるわけだが、それは現実の土台の変革を直接問題にしているのではないのである。この最大の要因はマルクスが頭脳労働価値、形態を捨象していることから来ている。逆に言うとマルクス主義がなぜこれほど魅力を持つことができたのかという要因の1つは、技術論を考えなくても済む体系を作り上げたからなのである。もちろんこれはまったくの幻想であるわけだが、もしこのような技術論を考えなくてはならないということが最初に示されてあったら、いったいどれだけの人がこの問題に取り組んだだろうか?マルクスの天才は論理だけでなく、人間の心理を知り、心をつかむことができる高い技術にあると思うのである。


 土台内部の身体労働と頭脳労働を統合するための技術論、 「均等割り振り」が検討されてきた。これによって明らかにされたのは、問題は頭脳労働の情報伝達、情報処理、意思決定に関わるコストが大幅に増大するということである。この中で最も明確に検討できるのが情報伝達の問題である。1人の人間によってなされてきた頭脳労働が、複数の人間によってなされるとき、それらの人々の間に情報が伝達されることに大きなコストがかかり、これによって身体労働時間は圧迫され減少してしまう。これを是正するためには、情報伝達の効率を上げること以外にはない。そしてこの情報伝達効率を上げることは人間の能力の問題である―ということである。同様に情報処理、意思決定の問題も同じように能力問題として考えることができる。これは社会システムの問題ではなく、人間の生物学的能力の問題である。このことを次章以降詳しく検討していきたい。


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