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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 7 

 『マルクス主義の解剖学』
 

 第3章 土台―上部構造論と変革理論の問題点

 第1節 意識形態論

 

 土台―上部構造論には様々な問題点、争点がある。土台と上部構造の間の規定関係、作用反作用の問題、構造因果性や最終審級による決定等が論じられてきたが、ここでは本論にとって最も重要な争点に絞って検討していきたい。それは土台内部の意識、経済的意識は上部構造には含まれない、ということと経済的意識の中の頭脳労働形態に対応している意識である。これを意識形態論とイデオロギーの関係を中心に考察する。この問題を詳しく論じている、渡辺憲正『イデオロギー論の再構築』を参照にしつつ検討していくことにしたい。


 マルクスは「経済学批判」の序言で土台―上部構造論を定式化している。「人間{各個人}は各人の生活の社会的生産において、特定の、必然的な、各人の意思から独立した諸関係を、すなわち各人の物質的生産諸力における一定の発展段階に照応する生産諸関係を、取り結ぶ。これらの生産諸関係の総体は社会の経済的構造を形成する。これが現実的土台となり、この土台の上に1個の法律的政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに特定の社会的意識諸形態が照応する」『イデオロギー論の再構築』第一章 意識形態論の考察 1 経済的意識の問題、において社会的意識諸形態と経済的意識との関係が論じられている。上部構造としての社会意識形態とは具体的には、政治、法律、道徳、宗教、哲学等の意識形態をいう。この上部構造のなかに経済的意識が含まれるかどうか、という問題である。つまり、経済的意識はイデオロギーに含まれるかどうかという問題になる。


 経済的意識とは、有用労働を前提とする使用価値についての意識、使用価値を産出するための合目的的活動としての労働過程における意識、この過程において人間は自らがあらかじめ描いた「観念」に基づいて、意識や注意力など様々な「精神的諸能力」をも発現させ、自然のうちに形態変化を引き起こす。消費過程あるいは再生産過程の意識、個人的消費、生活手段の選択、家族の形成などがあり、さらに商品交換の意識、貨幣欲求の意識、価値増殖に関する意識、資本の再生産過程に関する意識といった資本家的意識も含まれる。これらは当然、法律的政治的な社会的意識諸形態、すなわちイデオロギー形態と結びつくこともある。両者の相互関係は当然のこととして存在する。しかし、経済的意識はイデオロギー形態に包括されたことがなく、したがって上部構造に置かれたことも、多分ない。―以上が大まかな論旨である。
これらのことから、次のような結論が導き出される。


 ・・・意識形態といわれるのは、ここでも宗教、哲学、道徳等であり、観念論的上部構造とされる意識諸形態と等しい。他の箇所でも、意識形態は、「支配的と称される形而上学的、政治的、法的、道徳的およびその他の諸表象」とか、「ある国民の政治、法律、道徳、宗教、形而上学等の言語の中で表されるような精神的生産」と、表現されるだけであり、物質的生産の領域に属する経済的意識(土台の意識)は含まれていない。マルクスが経済的意識を忘れたとは考えにくい。


 一見すると、これは不可解なことだ。経済的意識こそ、土台を現実的あるいは幻想的に反映し、土台にじかに照応しているのである。なぜそれは上部構造ではないのか。だが他方、社会的意識諸形態は、経済的意識(土台の意識)と異なるからこそ、上部構造と規定される。だとすれば、意識はすべて上部構造に属するという前提がないかぎり、経済的意識が社会的意識形態と並ぶ上部構造とされないのは当然である。要するに、経済的意識はそれ自体としては社会的意識形態ではなく、上部構造に属さないことを、確認すべきである。


 さて、このことは何を意味するか。経済的意識は、とりわけ階級的意識でもある。資本家は資本家的意識をもつ。労働者も何らかの労働者的な意識をもつだろう。もし、このことが確認されるならば、階級的意識はかならずしも上部構造に属する社会的意識形態ではない、というもうひとつの結論が導かれる。たしかに階級的意識は、社会的意識諸形態(イデオロギー形態)のいずれかの形態をとることができる。例えば階級的意識は、政治的意識の形態をとることがあるだろう。だが、ここで確認すべきは、ブルジョアの階級的意識ですら、経済的次元においては、社会的意識形態やイデオロギー形態と規定されない部分をもつということだ。マルクスにおいて、社会的意識諸形態やイデオロギーとは異なる階級的意識が認められていたことは、正当に評価されねばならない。階級的意識といえば、ただちにイデオロギーや上部構造と性格づけてしまう解釈傾向からすれば、この結論は受け入れがたいだろう。しかし、マルクスのイデオロギー概念や意識形態論を復元するというレベルでは、ぜひともそれを確認しておくことが必要である(25)。


 しかし、マルクスにおいて意識形態論のなかの経済的意識の扱われ方が不十分であったために、意識全てが上部構造に属するような誤解が生じてきたのではないだろうか。このことをある事例に即して詳しく考察してみよう。第二次世界大戦末期、ナチスドイツはジェット機を開発することに成功した。それはヒトラーの指示であったと言われている。そのジェット戦闘機はプロペラ機を圧倒したのであるが、時すでに遅くドイツの敗戦となった。このジェット機という使用価値を生み出す意識、その技術や知識、それを実際に製作するための部品や材料を調達する経済的な意識、といったものはナチスイデオロギーとどのように関係しているだろうか。それはその時点においては、このイデオロギーに密接に結びつき包括されているようにも見える。実際、それは緊密に結びついていたのだが、ドイツが敗戦となりナチスイデオロギーが消滅するとその技術は戦勝国などに継承されていった。そして、ジェット機とそれに関わる意識は、もはやナチスイデオロギーと何の関係もないもののように扱われる。われわれはジェット旅客機に乗る時にヒトラーのことなど思い浮かべたりはしない。これなどは経済的意識とイデオロギーが別のものだという好例であろう。


 もちろん、この経済的意識も上部構造、イデオロギーと相関関係を持つのだが、直接には経済的意識は経済形態に対応している。そのため経済形態が変化しなければ経済的意識も変化しないのである。つまり、このジェット機の例のように上部構造がナチスイデオロギーのようなファシズムであっても、共産主義イデオロギーであっても、自由民主主義、資本主義イデオロギーであっても経済的意識は不変である。ジェット機にかかわる経済的意識はナチスイデオロギーから簡単に分離できる。それだからこそわれわれはジェット旅客機に安心して乗ることができるのである。さらに上部構造が封建制であったとしても―これはかなり考えにくいことであるが―この経済的意識は変わらないのである。そしてさらにこのようにいうことができるだろう。もし、万が一上部構造が消滅したとしてもこの経済的意識は変わらないということである。そしてこの経済的意識は頭脳労働の意識と身体労働の意識とに分けることができる。通常それはそのような分業形態をとっているからであり、当然それは密接な相互依存関係にある。この経済的意識はこのジェット機の事例だけでなく広範に一般化できるだろう。すなわち、ここで重要視されているのは一般的な「土台から上部構造への規定性」の問題ではなく「上部構造から土台への非規定性」の問題だと言えるであろう。

 

 第2節 捨象領域と土台の変革

 

 それでは、前章まで検討されてきたことと結びつけて考察してみよう。土台内部の頭脳労働形態、頭脳労働価値をマルクスは否定、捨象してきたと論じられてきた。そうするとこの土台内部のそれらに関わる経済形態、経済的意識も否定的に捉えられるか、捨象されることになるだろう。つまり、資本家の経済的意識は否定的に捉えられ、それ以外の頭脳労働者の経済的意識も捨象されるのである。土台内部に大規模な捨象領域が存在することになる―それらを総合的に把握するために以下の図を示してみよう。


DSCN1141c.jpg
                            図1
       (もちろん、土台の内容はこれですべてではないが便宜上このように示すことにする)

 図1の中のイデオロギー的、社会的、経済的の各々の意識形態は、論者によって定義の仕方が微妙に異なってくる。ここでは上部構造にはイデオロギー的ではない意識形態も存在する―これらを社会的意識形態と呼び、土台の意識―経済的意識形態と区別することにしたい。これに対して、河上肇の見解は、社会的意識形態は土台と緊密に対応し経済的意識形態もその中に含まれ土台に織り込まれている、というものである(26)。ここでも「社会的」という言葉は曖昧なものであり、どのようにも定義できるように思われる。この問題にあまり拘泥しても意味があるとは言えないだろう。ただ、河上肇の主張の主眼は土台の意識、経済的意識形態は上部構造に含まれない、というところにあるように思われるので同じ方向だと言えるであろう。


 ここではまず、土台の変革に焦点を当てて考察していきたい。というのも、マルクスの体系においては資本主義動態分析から直接、政治革命、社会主義革命へ向かうベクトルが強いように思われるからである。例えば「労働者革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級にまで高めること、民主主義を闘いとることである」というような言葉に現れている。土台を変革するためには、政治革命が先行しなければならない―これはもっともなように思われるが、本当にそうなのであろうか。土台が変革されたとみなすためには、当然経済的意識形態が変革されたとみなされなければならない。そして、経済的意識形態が変革されるためには、経済形態が変革されなければならない。以前にも検討したように、経済的意識形態は上部構造が変革されても直接には関係しないのである。当然、資本主義社会から革命が起こり社会主義社会に移行できたといったところで、それが経済的意識形態に直ちに反映されるわけではない。


 経済形態を変革するに際して、重要なことはその経済形態を十全に把握し、定位できているかどうかである。第1章、第2章を通じて考察されてきたことは、ここに重大な欠落が存在するということである。それはプロレタリアート(身体労働者)の身体労働を成り立たせ、相互依存関係にある頭脳労働である。ここが大規模に捨象されている―そのような捨象領域が存在するのである。しかし、ここで注意しなければならないのはあくまで捨象なのであり、決して否定されているわけではないということである。そして、徹底的に否定されているのはもちろん資本家である。資本家に対しては上部構造、イデオロギー領域に関して否定しているだけでなく、土台内部における経済機能においても完全に否定しているのである。 「資本家は一切のコストをかけずに剰余価値を受け取る」このように明確に述べられている。これが完全な誤りであることは以前にも検討した。正しくは「資本家はかけたコストをはるかに上回る剰余価値を受け取る」と言うべきところである。


 土台の変革、経済形態を変革するための方向性は、当然無階級化の方向である。しかし、近代産業社会、 高度産業社会は高度な知識、情報を駆使しなければならず、そのため頭脳労働と身体労働の分業化が進行した。このことによって経済形態の中に階層性、階級格差が生じてきたのである。つまり、これは上部構造、イデオロギーに関係なく近代産業社会、高度産業社会なら必ず生じてくるものである。当然、この階級的性格は資本主義に特有のものではない。すなわち社会主義革命によって資本主義の上部構造を覆したとしても、それは変わらないのである。つまり土台の変革は、上部構造の変革とは別にそれ自体を考察していかなければならない。そしてここでもう一つ重要な点は、マルクス主義における未来社会は資本主義社会よりも生産力が上であるというところにある。これは、生産力は資本主義社会よりもはるかに下でも構わない、と言うのなら話はまったく変わってくるのであるが。これら分業を単に廃棄できる―と言うこともできるだろう。しかし生産力は資本主義社会よりも上なのだから、分業を単に廃棄できる、などとは絶対に言うことはできない。高い生産力を得るためには高度な知識、情報、技術が必須のものとなるからである。ゆえにこのことに関する頭脳労働を身体労働の中に織り込ませる―すなわち、統合することが絶対条件になるだろう。つまり、頭脳労働と身体労働の分業は廃棄されるのではなく、統合されなければならない―これが土台の変革である。

 

 第3節 変革理論のねじれと虚偽

 

 マルクスの精神的労働と物質的労働の分割の、人を不具にする効果を克服することへの関心は、「いろいろな労働の転換、したがってまた労働者のできるだけの多面性を一般的な社会的生産法則として承認する」近代大規模産業において暗黙にある生産的技能における可変性に対する要求の増大というより一般的な予測を踏まえて、「大工業は、変転する資本のための人間の絶対的な利用可能性をもってくることを、すなわち、1つの社会的細部機能の担い手でしかない部分個人の代わりに、いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活動様式としてかわるがわる行なうようであるような全体的に発達した個人をもってくることを、1つの生死の問題にする」と主張する。すなわち、「全体的に発達した個人」論である(27)。


 マルクスの中にもこの「全体的に発達した個人」論のように、身体労働と頭脳労働を統合する視点は存在する。しかし、これらの考察はかなり抽象的なように感じられる。そして、これらの考察も最終的には社会主義革命という政治革命へ向かうベクトルに組み込まれる。これらは具体的に追及されることはほとんどないのである。これを具体的に追及するためには、何よりも土台内部に頭脳労働形態、頭脳労働価値が着実に定位されていなければならない。ところが、第1章、第2章で考察されてきたように革命イデオロギーを強化するプロパガンダのために、これらは捨象されてきたのである。これらを総合的に見渡してみると、非常に矛盾している・・・というより根本的な虚偽なのではないかという気がしてくる。つまり、言っていることとやっていることがまったく違うのである。マルクスは土台の変革を言いながら、その実その変革を阻害している、そして何が何でも上部構造の変革―政治革命、社会主義革命へ向かわせたいのではないだろうか。


 しかし、マルクスの真意はこのようなものであると証明するすべはない。そして、重要なことはマルクスの真意がどこにあるかではなく、この身体労働と頭脳労働の分業の統合という土台の変革は具体的にどのようなものであり、それをどのように考察していけるかということである。次章から、それを主に2つの形態「均等割り振り」 「完全な兼任」として追求していくことにしたい。

 


(25)渡辺憲正『イデオロギー論の再構築』青木書店、2001年、26,27頁


(26)山之内靖『社会科学の方法と人間学』岩波書店、2001年、第4章


(27)千石好郎『近代の<逸脱>』法律文化社、2007年、76頁



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