反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 6 

 『マルクス主義の解剖学』

 

 第2章 イデオロギーとしての『資本論』

 第1節 『資本論』をイデオロギーとして考える

 

 『資本論』を概説した入門書を書いたあるマルクス研究者がこのように言っていた、「資本論は世間の人が誤解しているようにイデオロギー啓蒙書ではありません」。イデオロギー啓蒙書といえばすぐに思い浮かべることができる『共産党宣言』が挙げられるだろう。(『共産党宣言』はこの訳語に問題があるとし、『共産主義者宣言』や『コミュニスト宣言』といった訳語を当てられることもあるが、ここでは今まで一番多く使われていた『共産党宣言』を使うことにする)確かに多くの扇動的ともいえるようなレトリックが使われている『共産党宣言』に比べれば『資本論』はイデオロギー啓蒙書とはいえないだろう。そもそも『資本論』のなかには啓蒙的な文章はほとんど存在しないのである。しかし、イデオロギー啓蒙書ではないということが、イデオロギーの書ではないとは限らないのである。イデオロギーの性質そのものに由来することであり、これはイデオロギー論の問題になってくるが、イデオロギーが直接言説として表現されなくてもイデオロギーとしての作用を及ぼす、ということはいくらでもありえるのである。マルクスが資本主義社会を分析したように商品は言説としてイデオロギーを表現しなくても、それ自体がイデオロギーの運び手となるのである。


 資本の独占は、それとともに、今度はまたその下で花盛りとなった生産様式そのものを束縛しはじめる。生産手段の集中は、そして労働の社会化は、ついにその資本制的な被膜と合わなくなるところまでくる。そしてこの被膜は吹き飛ばされる。資本制的私的所有の終わりを告げる鐘が鳴る。収奪者たちの私有財産が剥奪される。(23)
 

 『資本論第一巻』の終わりの方にあるこの有名な文章は『資本論』全体のなかでも、最もイデオロギー性が高い文章である。しかし、このような文章は非常に少なく例外的である。その内容のほとんどの部分は外見上、イデオロギー性を持たないように思える。しかし、ここでは歴史過程全体を視野に入れて『資本論』をとらえていきたいと思う。『資本論』を単独で扱えば、それは経済学書としての意味が強くイデオロギー性はあまりないように思われる。しかし、あらゆる事物、事象と同様に歴史内存在であることから免れることはできない。そしてマルクス自身、そのことを強く意識していたはずである。特に重視されるべきはマルクスの『資本論』以外の著作との関係である。イデオロギーの観点からすればやはり一番重要なのは『共産党宣言』であるだろう。問題なのはこの二つの著作の論理的な関係である。『資本論』は資本主義における経済を中心とし、政治、社会状況を歴史的に総合的動態的に把握している。その結果として、資本主義は行き詰まり革命的状況に近づいていく。『共産党宣言』はその状況を受け継いだ形での労働者階級に対する啓蒙や扇動といった内容のものである。そして革命の後に来るべき社会の大まかなイメージが描き出されている。それはいまだ苦難に満ちてはいても、搾取のない、労働が疎外されることのない社会主義社会、共産主義社会へ至る歴史的に必然な道程である。とすれば、論理的には『資本論』の後に『共産党宣言』が来なければならないはずだ。ところが、『共産党宣言』は『資本論』の19年も前に出版されているのである。つまり、イデオロギーの表明が先に来て、そのあとに社会の科学的、客観的な解明をしたとされる『資本論』が発表されたのである。


 しかし、『共産党宣言』も単純なイデオロギー啓蒙書というわけではない。歴史的発展段階としての資本主義が論じられ、ブルジョワジーとプロレタリアートの大きな二つの階級を生み出し、それらの階級闘争は必然的に激化していき革命的状況に至る、という基本的なビジョンはすでにこの段階において確立している。それは他の著作『哲学の貧困』やその時点では草稿であったため出版されなかったが『経済学、哲学草稿』『ドイツ・イデオロギー』などでも論じられている。『資本論』はそのビジョンを経済学を中心としてさらに精緻に厳密化して論じたものだと考えられるだろう。これらは流れとしては決して不自然なものではない。しかし、『共産党宣言』は単なる歴史的なビジョンだけではなく、労働者階級に対する革命を目指すべくその運動の組織の仕方や、暴力的手段の肯定、革命勃発への扇動、それ以後の社会への非常に大まかだが政策綱領といったものも含まれている。このように過激なイデオロギーがすでに確立されているのである。それは『資本論』の執筆過程で生じたものでもなく、またそれを構想しているような段階でもなく、それよりもさらに以前に確立されていたということは限りなく重要である。『資本論』は社会科学の書であるといわれるけれども、最も厳密で客観的といわれる物理学においてすら、多少なりとも特定のイデオロギーの影響を受けているということは、科学とイデオロギーの関係が研究されてきた現代においては常識的なことである。ましては社会科学、特に経済学は直接、社会構成員の利害に関わるだけにそれが特定のイデオロギーの影響を受けない、などということはほとんど考えられないだろう。問題なのは相対的にその影響がどの程度であるか、あるいはそのようなイデオロギーが隠蔽された形で紛れ込んでいないか、というようなことである。


 さらにマルクスの立場に立ってプラグマティックに考えてみると、自らの著作がどのような読者に読まれるか、どのように読まれるかということも重要であろう。『共産党宣言』は著作というよりもパンフレットであり、その文章量もかなり少ないものである。誰もが気軽に読めるような文章の難度と量である。その内容からして労働者階級向けのものであるし、ブルジョワジーが読めば気持ちの良いものでないことはたしかであるが、それでも版を重ね、多くの言語に翻訳されて広く読まれたことは間違いない。しかし、『資本論』はその文章の難解さ、その叙述量からして簡単に読めるようなものではない。確かにその内容からして労働者のために書かれたものではあるが、果してどれだけの労働者がこの本を読むことができたのか疑問である。E・Hカーはマルクスの評伝のなかで労働者はこの本を読まなくても、このような本が存在するということ自体が意味のあることだったのだ、と述べている。ここで問題にしたいのは次のようなことである。『共産党宣言』を読んだ読者のなかで『資本論』(全巻とはいわず第一巻だけでも)まで読んだ読者はどれくらいいるのだろうか。もちろん、たしかなことはわからないがそれほど多い比率にはならないのではないだろうか。逆に『資本論』を読んだ読者のなかで『共産党宣言』を読んでいない読者はいるだろうか?これは極めて少数になるように思われる。つまり『資本論』を読破するような読者はほとんど『共産党宣言』は読んでいるのではないだろうか。その意味で『資本論』を考察する際に『共産党宣言』またそれ以外のマルクスの著作についても同じようにいえることであるが、ほとんど全体をセットとして考えられるように思える。『資本論』は『共産党宣言』を前提としている、あるいは引き継いでいると考えることはイデオロギーの上で重要なことである。


 といって『資本論』があらゆる面で『共産党宣言』のイデオロギーの影響下にある、という先入見を持つことは禁物であろう。マルクス思想とイデオロギーの関係を考える時には大きく二つの方向性に分かれる。一つはいうまでもなく、マルクスが行ったドイツ観念論哲学や資本主義イデオロギーに対する批判である。この問題は今まで多くが論じられてきたので、ここでは立ち入らないことにする。これらは当然、後の議論と関係してくるのであるが、その都度議論の対象としたい。そしてもう一つが、マルクス思想、マルクス主義自体のイデオロギーの問題であり、これこそが本論の主題である。マルクス思想自体がイデオロギーであると最初にいったのはベルンシュタインであるという。そのことはマンハイムらによって包括的に研究されてきた。ここではより具体的にそのイデオロギーの性格を分析していきたい。マルクス思想、マルクス主義をイデオロギーとみなすとしても、否定的な意味合いではなくレーニン的な積極的意味における政治的イデオロギーととらえる見方もある。しかし、これからはイデオロギーの負の側面、虚偽性、隠蔽性、非現実性、歪曲性というものも検討のなかに入ってくるだろう。この章では『資本論』の経済学的レベルのイデオロギー分析を中心とし、マルクス思想の中核をなす「土台―上部構造論」「唯物史観」の検討、それらのイデオロギー分析は第3章以降において行われる。

 

 第2節 『資本論』における歪曲性、虚偽性、隠蔽性

 

 第1章において『資本論』における重要な問題点を検討してきた。それは頭脳労働形態論、価値論の捨象、資本家の経営における頭脳労働価値の否定、それに伴う剰余価値率の誤りなどがあった。そしてそのことは偶然の見落としや誤りといったものではなく、マルクスが意図的に追及したものである、と論じた。それは古典派経済学からの労働価値説の対象問題という不備を修正するのではなく逆に誤りのまま確立し、利潤を剰余価値、搾取、不払いと意味転化していく事を論理的必然性があるかのごとく見せかけることによって実に自然に巧妙に誘導していったのである。資本家の労働価値の否定というものがなぜまったく問題にされてこなかったのか?これは実に不可解に感じていたことであった・・・多くの文献を見てもこのような問題はまったく出会ったことがないのである。わずかにweb上の大学教授の論文に使用価値の捨象が問題にされ、資本家の経営に関するマルクスの軽視を批判する内容が載せてあった。むしろこのような批判点は、web上のレビューなどを投稿する一般人の方が鋭く指摘していることが多い。使用価値の捨象は頭脳労働価値の捨象の中に含まれるとみなすことができる。


 しかし、経済学史を知るようになると、徐々にこの疑問も理解できるようになってきた。経済学の2大流派、新古典派経済学とマルクス経済学は社会科学といっても結局はイデオロギー対立だということである。限界効用説と労働価値説はそれぞれ需要側の立場に立つか、供給側の立場に立つかはっきり分かれることになる。限界効用説は市場の自由な論理に従うことになり、労働価値説は市場よりも計画、統制の要素が強くなる。資本主義擁護の立場に立つと労働価値説自体が極めて都合の悪いものであり、限界革命が起こったのも『資本論』出版直後だというのもうなずける話である。戦後、共産主義批判を展開した小泉信三はマルクス経済学に対する批判の中心を労働価値説に向けている。そして多くのマルクス経済学、マルクス思想に対する批判は労働価値説自体の存立に関するものであった。そのような中で労働価値説の対象問題が問題にされることはなかったのである。つまり、マルクスを批判する側が、資本主義擁護の立場を取ってしまうと資本家の労働価値の否定を問題視することができなくなってしまうのである。それを問題にしてしまうと労働価値説自体を認めることになってしまう。「資本家の労働価値を労働者と同じに認めないのは論理的に一貫性がないではないか」などと言おうものなら、それ自体が労働価値説を認めることとなり、マルクスの磁力のなかに取り込まれてしまうことになる。さらに、マルクス経済学、マルクス思想を支持する側、マルクス主義者の側からすれば、このような論理的非一貫性はどうでもよいことである。どの道、資本主義は否定され資本家は否定されるのだから、資本主義世界において資本家の労働価値がどうであろうが大した問題ではない。結局、このイデオロギー対立の両者からこの資本家の労働価値の否定という問題は、批判の矢の届かない絶妙な空白域になっているのである。もし、マルクスがここまで計算して資本家の労働価値を否定していたとしたら、まさに恐るべき天才の心理的隠蔽術といえるだろう。


 頭脳労働形態論、価値論が捨象されてきたことも資本家の労働価値が否定されたことと同様に重大な問題である。ここでも、マルクス思想を批判する側からの指摘がほとんど見当たらないという理由は、資本家の労働価値の否定を指摘できないという事情と同じものである。頭脳労働全体の価値が身体労働と同様に労働価値説の対象になっていないのではないか、と指摘することは労働価値説を認めることになり、資本主義擁護の立場からすれば極めて都合の悪いことになる。労働価値説自体を否定ないし無視することに決めてしまえば、その内容に立ち入ることは意味のないことであろう。だから、専門家や研究者とは違い資本主義擁護をそれほど考える必要のない一般人がインターネットの掲示板などで議論する際は、そのような批判は頻繁に行われるのである。そしてこの場合でも、マルクス経済学を支持する立場、マルクス主義者側からすれば階級対立、階級関係が前面に来るため資本家以外の頭脳労働が捨象されていることはほとんど気にならない。マルクス経済学者がまったくこのことに触れないのも、マルクスの示した階級対立、階級関係の世界観のフィルターがかかっているからである。すでにそれはイデオロギー的偏向の世界観に巻き込まれている。


 剰余価値率算出の公式は数式として示せることによって、あたかも厳密で客観的な事実を示しているかのように読者に思わせるものがある。現代の数理経済学でもそうだが、このように数式として示されると客観的で信頼に足るもののように感じられてしまう。しかし、それは現実から遊離した想定で行われていてそのような信頼に値するものではない、という批判が新しい複雑系経済学などの立場から行われている。マルクスの剰余価値率算出の公式が意図的に頭脳労働を排除しているとすれば、信頼に足るものではないのではないか、といったレベルのものですらないだろう。それはどういう意図のもとで行われたのかということを解明しなければならない。当然それは『資本論』体系すべてを疑ってかかるということである。まさにマルクスが言ったように「すべては疑い得る」のである。

 

 第3節 イデオロギー的解明

 

 以上の問題点を『共産党宣言』などで示されたイデオロギーの目的と関連付けてみよう。このイデオロギーの最大の目的は社会主義革命、共産主義革命である。社会主義社会、共産主義社会の政治的状況、社会的状況におけるイデオロギー的考察もこれらのなかに含まれるが、現実にそのような状況に達するためには必ず「革命」を通過しなければならない。これを客観的歴史認識として傍観者としてだけ眺めていたのでは、いつまでたっても革命には結びつかない。しかし、マルクスの思想、理論を知らなくても社会的状況がマルクスのいうように進展するのなら、社会主義革命の可能性は大いにあり得るだろう。マルクスの理論が絶対に正しいという前提に立てば、この思想、理論をできる限り多くの民衆(特にプロレタリアート)や社会主義、共産主義を支持する知識人に伝達し、イデオロギーとして革命的社会状況を促進し、現実に社会主義革命を勃発させることである。つまり、社会はどのようにしても資本主義の行き詰まりから社会主義への道を歩まなければならない。そうだとしたら、それまでの苦難はできる限り短い方がよい。マルクスの著作は革命を促進させることによって、その苦難の期間を短くする目的のものであった、とマルクス自身も述べているのである。そのように、苦難の期間を短くする目的のためなら理論の歪曲や虚偽、隠蔽といったものは正当化されるのではないか。そのように考えればイデオロギーの目的に沿った理論の歪曲、隠蔽は十分合理的に説明できるのである。


 『共産党宣言』はイデオロギーを言説として直接表現している。それに対して『資本論』はイデオロギーの直接的表現ではない。それは経済学の体系のなかに組み込まれた「否定」「捨象」の形式で示されている。特に「捨象」は意識化することが難しい。茫漠とした社会全体に対してある抽象的な構造を見ようとする時、それはかなり高い能力を必要とするだろう。もし、そのような高い能力を持った人物がある目的をもって、その抽象的な構造を意図的に改変したとしたら、それに気づくことは極めて難しいだろう。第1章で示した、資本主義社会における労働形態の五つの形態のうち、資本制生産様式周辺部の身体労働、資本制生産様式周辺部の頭脳労働、資本主義体制の政治家、官僚、公務員等、は『資本論』が資本主義社会全体の考察ではなく、資本制生産様式を中心とした考察である、という目的ならば、これらの労働形態がほとんど分析対象として取上げられていないのはそれなりに納得のいくものである。しかし、資本制生産様式中心部の頭脳労働は身体労働と同様に最も重要なものである。この捨象がイデオロギー上の目的とどう関係しているのだろうか。


           資本家(経営者)
              ↓A
           頭脳労働者(テクノクラート、中間管理職など)
           ↓B    ↓C       
        頭脳労働者→身体労働者
                             D
 
 もう一度、階級と分業の関係を示した上図で考えてみよう。まず、資本家(経営者)では、資本家の頭脳労働としての経営は労働とはみなされていない。ここでは頭脳労働は捨象ではなく明確に否定されている。これは明らかに経済学的見地からいえば誤謬であり、また必要のないものである。以前に検討したように、経営の労働価値を否定しなくても資本主義の動態分析にほとんど影響を与えない。しかし、これを革命イデオロギーとの関係で考えてみればその重要な意味は明らかになるだろう。これは資本家と労働者の間にある「敵対関係であるのと同時に相互依存の共同関係である」という二重性の「相互依存の共同関係」を徹底的に排除するためのものである。資本家(経営者)はその価値対象となる頭脳労働を身体労働者に対して間接労働力投下している。ここから相互依存の共同関係が生じているのである。相互依存の共同関係を排除するためには、資本家の頭脳労働の価値をゼロとみなすことである。もはやそれは労働ではなく、単なる搾取行為である。そして一方の敵対関係を、これでもかと最大限に強調する。これは社会主義革命に誘導するための絶大な心理的効果を生み出すだろう。まさにこれは『共産党宣言』におけるイデオロギー啓蒙(扇動)を強力に補完するものである。『共産党宣言』と『資本論』はまったくぶれのない一貫したイデオロギー体系だといえるのである。マルクスは明らかに経済学的な完全性よりも、イデオロギーを優先しているのである。続いて中間階層の頭脳労働者(テクノクラート、中間管理職など)では、明確な否定となるような文章は『資本論』には存在しない。しかし、繰り返し述べてきたように資本制生産様式にとって(すなわち近代産業社会、高度産業社会にとって)非常に重要な役割を演じているこれらの職種がまったくといっていいほど取上げられていない。経済の機能的考察においてこれらの職種は不可欠なもののはずである。しかし、革命イデオロギーの見地からすればこの捨象の意味は明らかとなる。資本主義社会が行き詰まり、革命的状況に向かうというのは資本家と労働者の間に格差がどんどん広まり、社会は完全に二極分解していく、ということが前提になっている。しかし、これら中間階層の頭脳労働者はある意味、プチ・ブルジョワジーであり労働者との間には大きな階級差がある。それでも、労働者から徹底的に搾取している資本家ではない。これは二極化理論にとって非常に都合の悪いことである。ここでも現実がどのようなものかではなく、将来このように事態は悪化していくのだ、という心理を生み出すことによって社会主義革命に誘導していくことが重要なのである。これら中間階層を捨象することはイデオロギーにとって重要な意味をもっている。ここでも頭脳労働と身体労働との相互依存、共同関係の問題があるがそれは身体労働者と同じ階級の頭脳労働との考察において行いたい。


 身体労働者と同じ階級の頭脳労働者ではどうだろうか。実は『資本論』で最も捨象されているのはこれらの人々なのである。確かにこの時代は現代とは違いこれら頭脳労働者の比率はかなり小さいものだったろう。それでも全体としては相当数存在したはずである。実に『資本論第一巻』においては、この階級の頭脳労働者は一言一句たりとも触れられていないのである。これは驚くべきことではないだろうか?もし、この階級の頭脳労働者の具体例が『資本論』のなかに存在していたとしても誰も何とも思わないだろう。現代で同じような具体例を示せば、それこそ典型的な事例である。しかし、この具体例が存在していなくても単なる偶然だと思えば思えるのである。そして、このように指摘されなければこの問題は特に意識されることはないだろう。ここにこそマルクスのイデオロギー操作の核心があると思われるのである。今まで検討してきた通り、この頭脳労働者と身体労働者の関係は同じ階級でありながら経済機能的な相互関係により、頭脳労働者が完全な主導権をもっていることがある。また、両者の関係は密接な相互依存、共同関係にある。これらは頭脳労働と身体労働との相互関係が階級とは独立したパラメーターであることを示している。この経済機能的相互関係はこれが考察の対象となり、意識化されてしまうと当然それ以外の階級関係にも波及していくだろう。中間階層のテクノクラート、中間管理職と身体労働者との間にも同じような階級とは独立した経済機能的相互関係が存在する、ということが意識されてしまう可能性が大いにありえる。以前に検討した通り、中間階層が存在することは革命の前提となる二極化理論にとって都合の悪いことである。この中間階層ができる限り意識化されないことが重要なのである。さらにもっと悪いことには、ここまで来ると当然、資本家(経営者)と身体労働者との間の経済機能的相互関係に波及し、両者は相互依存、共同関係にあるということが意識化される可能性がある。これら経済機能的相互関係は階級関係とは独立した要素である。そしてこれは単に資本主義だけではなく、近代産業社会、高度産業社会にとって絶対不可欠な要素なのである。ここでの問題点は、身体労働者と同じ階級の頭脳労働者を考察の対象とすることは、機能的相互依存関係の意識化が次には中間階層の頭脳労働者、さらに次には資本家に波及していく恐れがあるということなのである。それをあらかじめ予防するために、この階級の頭脳労働者(それ自身は問題がないのにもかかわらず)を徹底的に捨象したのではないだろうか。そうだとしたら、純粋な経済学的見地からすれば、まったく道を踏み外しているとしか思えない。しかし、革命イデオロギーの立場からすればまったく正当なのである。そして、言説の上では徹底的に階級関係、階級闘争が強調されるので、この階級の頭脳労働者も現実の運動のなかでは自動的に身体労働者と同じに扱われる。そのことによってこの捨象は完全に隠蔽することができるのである。


 資本制生産様式、資本主義の過程分析、動態分析に対して、これら頭脳労働価値の捨象はどう関係してくるだろうか。ここにこそ『資本論』の最も驚くべき秘密があるように思われる。イデオロギーの目的のためにこれほど大規模に頭脳労働形態論、価値論が欠落しているというのに、そのことがこの過程分析、動態分析に対してほとんど影響を与えないように見えるのである。実際、影響を与えないということはないのだが、特に剰余価値率の計算において可変資本を身体労働者のみと身体労働者と頭脳労働者を合計した場合とでは違ってくる。これは明らかにマルクスの時代においてはその差は少なく、現代に近づけば近づくほどその差は大きくなってくるだろう。マルクス経済学者が社会全体に対する産業連関表などを使って剰余価値率を算出する時は、可変資本部分はマルクスにおいて頭脳労働は捨象されている、という問題はまったく考えられてはいない。夢にもそのようなことは思っていないのである。このような計算をする時には可変資本部分は当然、頭脳労働も身体労働もその中に含まれるのである(24)。それでいながら、具体的な資本家対労働者の問題を考える時は、労働者はほとんど身体労働者のみを考慮しているように思える。様々な文献を読んでみたが、そのようにしか受け取ることができなかった。中間階層のテクノクラート、中間管理職、資本家以外の頭脳労働全体に対しては否定されてはいないが対象にもされていない。このような対象に対するスタンスはマルクスとまったく同じなのである。これはマルクスのイデオロギー操作による労働形態に対する見方に完全に同化しているのではないだろうか。これは明らかなダブルスタンダードだといえるだろう。動態的、大局的、抽象的に把握する時には頭脳労働者はその中に含まれ、静態的、部分的、具体的に検討する時は捨象される。これを無意識のうちに行っているのであり、これ自体がマルクスにコントロールされているのである。これらのことからも、資本家以外の頭脳労働者を捨象することがどれほど重要なことであるかがわかる。捨象ではなく、わずかでも否定していたとしたら、幾らなんでもおかしいことに気づかれてしまうだろう。すなわち、資本家は資本の運動にからめ取られた非人格的な存在として扱い、そこには生きた労働としての労働価値はまったく存在しない。それと本来なら生きた労働を働くことができるはずの労働者を剰余価値を搾取される存在として対置する。この両者の関係を資本主義の運動法則の中に示すことによって、資本主義の動態分析は十分に展開できるのである。この労働者のなかには実際には中間階層や同じ階級の頭脳労働者も含まれている。このように動態分析の過程においては自動的にその中に含まれることによって問題なく動態分析を進めることができるのである。剰余価値によって資本蓄積をし、流通とその資本の再生産を繰り返すことによって、二極化が進むというマルクスの天才的な資本主義の動態分析はこれらのことに影響を受けることはないのである。マルクスの資本主義動態分析の見事さに目を奪われて、逆に静態的な経済構造の分析がおろそかになっているのではないだろうか。


 以前にも検討したように、資本家の頭脳労働価値は否定したとしても必要労働のなかに占める範囲は社会全体のなかでは極めて少ないので、この資本主義の動態分析のなかでは問題にならないのである。これらのことからマルクス経済学は次のような結果をもたらし たのではないだろうか。資本主義の動態分析の鋭さ、深さによってその基本となっている労働価値説、剰余価値説、労働形態論などは当然正しいという信頼を受けたのではないだろうか。しかし、今まで見てきたように資本主義の動態分析の鋭さは労働価値説とその対象問題、剰余価値説(剰余価値率算出の公式)の妥当性を何ら保証するものではないのである。しかし、マルクスはそれらの妥当性を保証するものであるかのごとく導いているのではないだろうか。ここで考慮されるべきは、理論に対する経済学的水準とイデオロギー的水準との落差である。例えば転形問題などに代表されるようなマルクス経済学に対する矛盾の指摘は、厳密な証明を追求する経済学的水準でなされるだろう。一般的にマルクス経済学が問題にされている時はこのように経済学的水準で考えられている。しかし、マルクス経済学をイデオロギーとしてとらえ追及することは、ほとんどなされてこなかったように思われる。これが困難なのはマルクスが非常に巧妙に「否定」「捨象」を駆使してきたからである。イデオロギー的水準で考える場合、それは経済学的水準に比べて理論的なハードルははるかに低いものとなるのである。例えば、レーニンが革命前の時期、あるいは革命を遂行しようとするときに、転形問題で思い悩んだ、ということがあるだろうか。このような厳密な経済学的問題は、イデオロギーの見地からすればどうでもよい問題にしか見えないだろう。大局的に資本主義はこのような過程を経て行き詰まり、革命は不可避である、というような歴史観の方がはるかに重要である。そのような資本主義の動態分析が資本家の労働価値の否定を保証しているように見えさえすればそれでよいのである。二極化理論にとって都合の悪い存在である中間階層が捨象されていても、もはや大した問題ではない。『共産党宣言』で示されているように、革命が成功しプロレタリアートが権力を握れば、資本家の搾取にさらされていた生産力は解放され、その生産力は急速に増大するからである。これがどれほど転倒したものであるかはこれから詳しく検討されるだろう。

 

 第4節 もう一つの『資本論』

 

 今まで考察してきたことを総合して、マルクスのイデオロギー操作のために「否定」「捨象」されてきたことを『資本論』のなかに正しく組み込んだもう一つの『資本論』を考えることができるだろう。これによって『資本論』にまったく問題がなくなるということではないのだが、それは非常に違った印象を持つものになるのである。労働価値説の対象に正しく頭脳労働も含める。当然、そこには資本家自身の経営の頭脳労働価値も含まれるのである。情報を使用価値として認め、頭脳労働を間接労働力投下として位置づける。サービス労働などの商品としてのものを作り出さない労働も当然認められなければならないだろう。中間階層のテクノクラートや中間管理職、その他事務職などの頭脳労働も身体労働と同じように扱われ、相当な割合でその具体例が示される。資本家対労働者の関係は敵対関係のみを強調するのではなく、相互依存の共同関係も示される。頭脳労働と身体労働との経済機能的な関係も論じられる。そこには機械生産などの高度な技術的な問題も取上げられるだろう。そこから高い生産力を得るにはホワイトカラーの存在も不可欠であるということが当然のごとく認識されるだろう。このようなもう一つの『資本論』を想像してみよう。それはどのような印象を持つだろうか。剰余価値や搾取、不払いといった否定的な意味合いは保持されるけれども、ある程度緩和されてしまうだろう。中間階層を取り上げることによって、動態分析における二極化理論にとってのその妥当性がより問題にされるだろう。そして何よりも、資本家に対する攻撃力が格段に落ちてしまうということである。これらのことは経済学的にはより十全性が高まっている、とみなせるのではないだろうか。しかし、革命イデオロギーの立場からすればとんでもない話である。一体何のために努力してきたのかわからないことになってしまう。このような『資本論』はマルクスにとっては無意味などころか否定されるべきものなのである。


 もちろん、このもう一つの『資本論』もイデオロギー性から完全に免れるというわけではない。しかし、この現実の『資本論』に比べて革命イデオロギーの強度という点で大きな差異が生じているだろう。マルクスが『資本論』に課した基本的な方針は、資本主義に対する経済学的分析の追及をしながら、それと気づかれずに革命イデオロギーをどれだけ高い強度でその中に含ませるか、ということにあったように思われる。資本主義に対する経済学的分析、特にその動態分析は類例のない深みに達しつつ、革命イデオロギーの方に偏向させていくという離れ技を演じている。ここにこそマルクスの真の天才性が表れている。経済学者森島通夫はマルクスを評価して「音楽に例えると私はソロの奏者だが、マルクスはオーケストラの指揮者である」といったという。しかし、実際はそれ以上のものであったのではないだろうか。実はマルクスはそのオーケストラのさらに2倍の規模の大オーケストラを指揮する実力を持っていたということである。しかし、イデオロギーの目的のためにそのオーケストラの半分の楽器奏者を排除したのである。社会主義革命交響曲を演奏するために・・・その社会主義革命交響曲を初めて聞く聴衆はそれが本来のオーケストラの構成から半分が排除されている、などということに夢にも気づくことができないのである。いや、その曲が社会主義革命交響曲であること自体気づくことができないのである。


 今まで「マルクス経済学とイデオロギー」というテーマで考察を進めてきた。本論は資本主義擁護の立場に立っていない、ということに気づかれただろうか。労働価値説を否定していないということに何よりもそれは表れている。また、社会主義、共産主義をあらかじめ支持しているわけでもない。しかし、これまでの経過は実に面白い展開になっているのである。労働価値説を採用するのなら、労働価値説の適用を十全にあらゆる業種、階層に向けなければならない、というのが本論の主張である。しかし、マルクスはそれをある階層には適用自体を否定し、ある階層、職種には捨象してまったく取り上げることもされていない。これではマルクスよりも本論の立場の方がはるかに社会主義的ではないだろうか?


 
(23) 『資本論 第一巻 下』574頁


(24) 伊藤誠『「資本論」を読む』 321~323頁


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