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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> スターリン主義の形成 10 

 

 『スターリン主義の形成』

 

 第5章 アポトーシス全体主義論

 

 第5節 左翼全体主義の構造

 

 左翼全体主義、その代表としてのスターリン主義の形成過程、その構造にたいする結論的考察を行いたい。これが本論の到達点といえるものである。


 社会主義革命によって生じた強力なイデオロギー遂行の力学は共産主義社会、すなわち経済的グローバルブレインへ向かう・・・しかし、「能力の壁」という見えない巨大な壁にはね返される。この壁を乗り越えるためには全体的に発達した個人のとてつもない能力が要請されるのである。それによって、グローバルブレインの代替作用が生じ、イデオロギー超有機体の形成へと進路を変える。しかし、イデオロギー超有機体の理念的形態と現実の社会、人間存在は大きく隔たっている。頂点に立つひとつの脳と、それ以外の複数の脳との間に能力上の絶対的な相違はない。頂点の脳がいかに優秀であろうとも、イデオロギー超有機体の理念的形態に相当するような差別化はありえないのである。


 しかし、イデオロギー超有機体は現実的状況を乗り越えて、自らを形成しようとする。このとき、どのような事態が生ずるだろうか。それは頂点のひとつの脳から伸びる神経系にその機能を付与すべく最大の努力が払われる。つまり、その体制の個人個人に主体性が最小限のひとつの脳に忠実な神経細胞になるような強力な力が働くだろう。頂点のひとつの脳に近いような主体性、あるいは人格性をもった個人というものは、イデオロギー超有機体にとって存在してはならないものになる。神経細胞のひとつひとつが主体性を持ち、自らの意思で勝手に動いては有機体の機能性は麻痺してしまう。この機能を健全に保つためには、このような個人はアポトーシスされなければならない。これがすなわちアポトーシスAなのである。


 ここで決定的に異なる二つのアポトーシス概念が示されたことになる。ひとつは、経済的グローバルブレイン、すなわち共産主義社会、アソシエーション社会を実現するための階級構造が消滅していくアポトーシスB、もうひとつはイデオロギー超有機体が形成されていくためのアポトーシスAである。いうまでもなく、これは「能力の壁」が克服された場合は前者であり、克服されなかった場合は後者であることは論証されてきた。


 現実のソ連の歴史の中でこの「ひとつの脳」とはすなわち「スターリンの脳」であり、アポトーシスAの最大の表出は大テロルであることは容易に理解されることであろう。まさにスターリンの言動の中にこのことを意味するものが多くある。神経系というのは有機体としてのメタファーであるが、スターリンは「伝導ベルト」あるいは「小さな歯車」という表現をしている。これはもっと即物的な、ぶっきらぼうな表現であるが、意味するところは同じである。そして、まさにスターリンの言ったブラックジョーク「古参のカードルは必要な数よりも少ないものだ。彼らのような階級は、自然の法則が働いてすでに間引かれはじめている」はブラックジョークではなく真理を表していた、という恐るべき洞察が導かれる。ここで再度、全体の構造を図によってまとめてみよう。


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 これが今までの議論を包括的にまとめた図である。現実の左翼全体主義体制はイデオロギー超有機体と四角い枠の中で示された現実形態とが、ギリギリのバランスを保つよう統合された地点に形成される。明らかなようにイデオロギー超有機体は実現不可能な理念的な形態であるが、経済的グローバルブレインに向かうイデオロギー遂行状態が「能力の壁」にはね返されて、グローバルブレインの代替作用が生じ、社会主義革命後の引き返すことの不可能な強力なイデオロギーの力学によって形成されようとする。自律的存在の個体にイデオロギー超有機体に適合するような強力な力が加わるだろう。それが今まで具体的に検討されてきたソ連の歴史過程なのである。それは途方もなく異常でグロテスクなものになることは避けられない。


 そして、この構造はロシア特有のものではなく、どの社会にも普遍的に当てはまるものであることは明らかである。スターリン主義がロシアの東洋的専制の伝統によって導かれたというのは的を射ているとは思えない。この左翼全体主義の構造は、ロシア的伝統の社会であっても、それと正反対の社会であっても一切関わりなくこのような形態に行き着くことを示している。ただし、個別の歴史、社会、文化、慣習等ともイデオロギー超有機体はバランスを取りその体制を形成しようとするので、これらとまったく関係はない、ということはない。それはある程度、それらを取り込み形成されるものである。


 この左翼全体主義の構造がいかに複雑なものであるかがよくわかるであろう。特に「能力の壁」から右側の経済的グローバルブレインの領域は未知の領域であり、霧の中にあったということができる。しかし、唯物史観の未来社会論は経済学的考察と関連付けられて、唯物論的で具体性のあるもののような幻想を与え続けてきたのである。ここから深層心理のエネルギーがイデオロギー遂行に供給され続け、イデオロギー超有機体の強力な形成力になってきた。現実の左翼全体主義体制が形成されるのには、この二段階の過程を経ているということが理解の要である。経済的グローバルブレインが代替作用によってイデオロギー超有機体に移行する。そして、それが生物学的、社会的存在形態の現実との間にバランスを取る地点に形成されるのである。そのため、その社会の歴史、伝統との間に関連性が生ずるので、あたかもその社会、国との歴史的連続性があるかのごとくに見えるのである。しかし、それは見かけ上のものにすぎない。イデオロギーがもたらす状態の理解困難性から、どうしても歴史的連続性の中に全体主義体制の原因を見ようとする傾向が生ずるが、これが誤りであることは明らかなのである。


 この構造は原理的な矛盾によって成り立っていることはすぐに理解されることである。経済的グローバルブレインこそイデオロギーが目指す本来の目的である。しかし、現実はイデオロギー超有機体の形成へと向かわざるをえない。この二つの状態はまさに究極的な対立関係にある。独裁者は複雑な二枚舌を駆使することになる―またそれができなければ独裁者にはなりえないだろう。これがナチズムのような右翼全体主義とは根本的に異なるところである。ヒトラーは政治的駆け引きなどで二枚舌を駆使することはあっても、イデオロギーと行動との間に本質的な隔たりはない。ナチズムは全体主義の家に正面玄関から堂々と入っていったが、スターリン主義は裏口 からこっそりと入っていったのである。


 「能力の壁」は見えざる巨大な壁である。しかし、ある意味、論理の上では図で示されるようなたった1枚の薄い膜にすぎない、ともいえる。途方もなく異なる二つの世界、経済的グローバルブレインすなわち共産主義社会、アソシエーション社会とイデオロギー超有機体が作り出す全体主義体制。この二つの世界はたった1枚の薄い論理の膜によって隔てられているにすぎない。すなわち・・・

 

 想像を絶する天国と想像を絶する地獄は紙一重なのである。

 

 この二つの世界が形成されていく過程を、同時に比較観察できる観察者がいたと仮定しよう。ひとつの世界はアポトーシスBによって、階級構造が消滅していきながら奇跡のように経済が運営されていく世界である。当然、その世界では個人が自由に発展しながら、それが同時に社会全体の発展となるような世界である。誰かが抑圧されたり犠牲にされたりするようなことはまったくない。もちろん、テロルなどというものは一切存在しない。もうひとつの世界は、まさに1930年代のソ連である。計画的、指令的経済により官僚による強圧的な経済運営がなされる。労働者、農民の自由は極めて限定され、体制に逆らえば逮捕され、強制収容所送り、最悪の場合銃殺にされる。大テロルになるとまったく無実のものさえも人民の敵であると自白させられ、銃殺される。恐怖による支配が行き渡り、素晴らしい社会が実現されていくところなのだと信じなければならない。この観察者はまったく想像だにしない素晴らしい社会と、これもまったく想像だにしない地獄の社会を同時に観察することになる。しかし、観察者は遠く、遠く、遠く隔たったこの二つの世界から、共通の概念が抽出できるなどとは夢にも思わないだろう。


 さらに、この左翼全体主義の構造は「民主主義の極限的追及は全体主義に至る」という逆説の理由を説明してくれるのである。これは民主主義論の領域になるが、直接民主主義の極限的形態を突き詰めていけば、ひとつの頭脳、すなわち「経済的グローバルブレイン」に行き着くのである。しかし、これまでの社会学でここまで考えられたことは、おそらく一度もないだろう。その理由は簡単に理解できることであるが、一方で社会主義、共産主義の「能力の壁」に抵触する思想、理論が長い間当然のように追及され、広められてきた。これが直接民主主義の極限的追求であるとは、ある程度の理解はされてきたのである。しかし、多くの場合、唯物論に立脚しているという思い込みから、「経済的グローバルブレイン」のような発想や思想をむしろ対立的なものとみなしてきた。これが根底から誤りであることは証明されたのである。直接民主主義の極限的追及は「経済的グローバルブレイン」に行き着く以外にはない。そして、これを現実に徹底的に推し進めていけば、イデオロギー超有機体に必然的に向かうのである。これは民主主義を追求する場合には、能力的限界を超えていないかどうかということに細心の注意を払わなければならない、ということを意味しているのである。


 ハイエクの主張する集産主義から全体主義に至る方向性を検討してみよう。これまでの考察から明らかなように左翼全体主義体制が集産主義的形態をとるのは、イデオロギー超有機体の経済形態が必然的に集産主義的形態をとるからである。もちろん、イデオロギー超有機体は文字どおりに実現することの不可能な理念的形態であり、現実とのさまざまな要素の間にバランスを取ることにより集産主義的形態となる。これは最初に集産主義を目指した場合と比べて、その強度、持続性に格段の違いが生ずるように思われる。集産主義→全体主義の方向性もひとつの側面であり、重要であることに変わりはないが、やはり、共産主義イデオロギーがその根源にあることは決定的に重要である。現実にはこれらは混然一体となっているように見えるので、これを分析することは極めて難しいことだったのである。さらに、理念的形態の中で経済的グローバルブレインを目指したものが、イデオロギー超有機体に反転してしまうということ、天地がひっくり返ってしまうということは「能力の壁」が理解されないかぎり、明晰に認識することの不可能なものなのである。これらは高度に抽象的な世界の出来事なのである。


 この左翼全体主義の構造は今までの全体主義論争に対して新しい理解を与えることができる。つまり、今までの全体主義論者はイデオロギー超有機体の理念的形態に、現実の体制を適合させようとしすぎたために非現実的とのそしりを受けてしまった。その反動によって修正主義者は、逆に生物学的、社会的存在形態に戻り過ぎてしまい、従来の専制体制と全体主義体制との差異を小さくし過ぎてしまう傾向があるのではないだろうか。すなわち、これら二つの形態を二者択一的に捉えようとすること自体が問題なのである。重要なのはこの二つの形態のバランスを取るように全体主義体制は形成されるということである。これは実に高度な統合を実現しなければならず、どちらに偏り過ぎてもそのイデオロギーの遂行は破綻してしまうだろう。それでも、この体制は従来のいかなる専制体制より次元の異なる支配を要請される。それだけ、イデオロギー超有機体はまったく存在しなかった特異なものである。独裁者はこの二つの形態のバランスを取って進む政治的サーカスの綱渡りの達人でなければならないのである。


 この左翼全体主義の構造の捉え方は、現実の複数の体制の比較にも有効である。基本的にはイデオロギー遂行の強度によって測られる。つまり、イデオロギー遂行の強度が強ければイデオロギー超有機体の形成力が強まり、バランスの支点は左側に移行し全体主義体制の強度も強まる。逆に、イデオロギー遂行の強度が弱ければイデオロギー超有機体の形成力は弱まり、バランスの支点は右側に移行し、それまでの現実の社会的性格が残りやすい。また、同じ全体主義体制においても、例えばナショナリズムの相違から来る差異も、このように社会的存在形態との間にバランスをとるという要請から説明できるのである。しかし、ナショナリズムが直接、左翼全体主義体制の形成に作用しているのではないことは確実であり、その理由も明快に説明できるのである。そして、ソ連―スターリン体制はイデオロギー遂行の強度が最高のレベルであったといえるだろう。

 

 第6節 アポトーシス心性とテロルの必然性

 

 しかし、イデオロギー超有機体のアポトーシス概念の適用は果して適切であるだろうか?という疑問が生ずる。経済的グローバルブレインにおけるアポトーシスBは、階級構造が自然に消滅していくということであり、この概念の適用は無理がないように感じられる。それに対して、アポトーシスAはさまざまな問題があるように思われる。これはテロルの必然性と関連する極めて複雑で難しい問題である。これを現実のソ連の歴史に即して考察していこう。これは、ボリシェヴィキ上層部と平党員、それ以外の一般大衆とはかなり異なってくる。アポトーシス概念の適用が適切だとみなされる可能性のあるものは主にボリシェヴィキ上層部に限られるように見える。一般大衆に対してはどのように考えられるのか―この二つを分けて検討してみることにしよう。


 ボリシェヴィキ上層部においては、拷問や脅迫により「自分は外国のスパイであった」、「スターリン暗殺を企てていた」というようなまったく身に覚えのない罪を認めるように強要された。(これはボリシェヴィキ上層部だけではないが)見世物裁判の中で奇想天外な自白がなされ、それに続く処刑によって大量の古参党員が粛清された。そのなかには、ジノヴィエフやカーメネフ、ブハーリン、ルイコフといったレーニンとともにロシア革命を遂行し、社会主義建設にその身をささげてきた最重要の幹部も含まれている。


 これらの幹部とスターリンとの間は、これ以前には決して悪いものではなく、1920年代中頃または終わりまでの間は政治上の仲間であり、また個人的にも親密な関係があった。しかし、左翼反対派との対立、農業集団化に反対した右派との闘争、それに伴う更迭、農業集団化がもたらした大飢饉、非常に速いテンポの工業化とそれに伴う混乱、などから党内は緊張が激化していった。思うように進展しない工業化の原因をスターリンは内部敵の存在に求めた。そして、次第に党内部、幹部たちの中にも内部敵が存在し妨害している、あるいはスターリン体制を批判し、打倒しようとしている、という言説が中央委員会総会などで出されるようになり、そのためのスケープゴートが選ばれ、攻撃されるようになった。1932年頃からは、すでに大テロルにつながる内部敵をでっち上げて吊るし上げる、という党内部の雰囲気は強くなっていったのである。スケープゴートに選ばれたものは、身に覚えがなくても示された通りの罪を認めるということを強要された。それが党に奉仕することであると暗黙の共通認識があり、罪を否定するということはそれ自体、党にたいする裏切りであるとみなされたのである。つまり、真実がどうであるかはまったくどうでもよいことであり、スケープゴートはその役割を演じなければならないのである。(ただし、大テロル以前には肉体的抹殺まではいかず、中央委員や書記からの降格、党から追放というような処分だった。)スケープゴートは自らその役割を進んで買うことはありえなかったが、その役回りがまわってきたときにそれを認めること、その立場を甘受することをよしとする人も大勢いた。大局的に見ればこれは徐々にアポトーシスが作動し始めている、と見ることができるかもしれない。


 スターリンに早い時期から大テロルのマスタープランのようなものはなかった、ということは今では明らかになっている。スターリンは体制、社会がコントロール不能になるのではないかという恐怖からパニック状態になっていたのである。そのために場当たり的な対応が次から次へととられていった。しかし、これも非常に難しい問題であり、1937年初頭にはスターリンは大テロルの青写真を描いていたのかもしれない。この偶発性と計画性は複雑に絡み合って進展していったと考えられる。古参党員にたいする疑心暗鬼は頂点に達しつつあった。これは左翼全体主義の構造から考察すれば、イデオロギー超有機体の形成が完成に向かいつつある、ということを意味している。頂点のひとつの脳になり、それ以外の脳をすべて神経系と同じ存在にしなければならないという要請がスターリンの深層心理に存在している―このように仮定すれば、自分と極めて立場が近い、今は服従しているように見えたとしても、いつ自分は打倒され取って代わられるか分らない―このような古参党員は存在そのものが否定される。


 1937年6月、赤軍の多くの司令官が粛清されたのをかわきりに、大テロルの爆発が始まった。個々の事例に着目すれば、それがとてもアポトーシスという概念が適用されるとは思われないだろう。党員で粛清されたほとんどの人々は、主観的には党のために誠心誠意尽くしてきたと考えていたはずである。上層部に行けば行くほどこの傾向は強かった。彼らはイデオロギーに徹頭徹尾、忠実であろうとしたのである。だから、自分が反党行為の疑義をかけられて逮捕されるなどとは考えられなかったのである。同じような仲間が逮捕されていっても、とても信じられないが何とかそれに理由づけをして正当化しようとした。そして実際、自分が逮捕されると身の証しを立てようとするが、同時にスケープゴートの役割を演じなければならないという暗黙の了解が粛清される側にも、する側にもあった。そして、粛清する側の人間も容易にされる側へと移行してしまうのである。これが体制全体に深く、重く浸透していたアポトーシスの作用だといえるのではないだろうか。イデオロギーに忠実であるがゆえに破滅させられる―この恐るべき逆説が社会を覆い尽くしていたのである。革命初期に活躍していたものほどイデオロギー超有機体の形成に貢献するのと同時に、時間の経過とともに最も存在していてはならないものに転化してしまう―これがイデオロギーの論理そのものの中に最初からプログラムされてあったのである。つまり、大テロルの種子ははるか以前から存在していたのである。


 このスケープゴートの心理は理解しにくいものなので敷衍することにしよう。この社会においてはこのイデオロギーは絶対正しいという前提に立っている。それは資本主義社会よりも高い生産効率、高い生産力を持つことは当然であり、そうでないなどということは絶対にありえない。またそれに伴い階級は消滅していくはずである。そうならないということが起こったとしたら、それは敵の階級―資本主義勢力が内部敵として潜伏し、サボタージュ、妨害しているとしか考えられない。当然、党はその内部敵と階級闘争を行わなくてはならない。一方で農業集団化、超工業化を推進しながら、内部敵と階級闘争を行わないとなれば党は存在意義を失いかねない。ところが現実にはイデオロギーの敵はすでにほとんど駆逐、撲滅させられているのである。そうなれば内部敵を何がなんでも作り上げなければならないのである。そうでなければ、このイデオロギーが絶対に正しいという前提が崩れてしまう。そこで、何らかの理由で選ばれた幹部、党員がスケープゴートとして罪をかぶることになる。スケープゴートの役を演じることが、党に奉仕することになるのである。まったく身に覚えがなくても罪を自白し、処刑されることが党に対する忠誠を尽くしたことになる。党は現実の生産力がイデオロギーの示す通りにならないということの理由が、このような内部敵がいることによってだったのだ、と内外に説明することができるのである。つまりこれは、イデオロギーの敵が存在しない強固なイデオロギー空間の中だからこそ生じたのだといえるだろう。もちろん、これはイデオロギーの外部にいる人間にとってみれば、これ以上驚愕すべきことはない。単にイデオロギーが誤っているからこのような事態になっているにすぎないのである。


 しかし、実際この大テロルはスケープゴートの心理を利用しながら、本当の目的はスターリンの神経系を作り出すことにある。党の上層部、党員、赤軍将校、高級官僚、テクノクラート、あらゆる分野の専門家など中枢神経に相当する部分のテロルは特に激しいものになる。スターリンに忠実でないという僅かな疑義をかけられただけでたちまちテロルの対象になるのである。それは古参ボリシェヴィキや、革命以前からその職に就いていた専門家の大部分を含むことになった。このとき、革命後のボリシェヴィキの教育を受けて育った若い世代が、その後釜に座るようになった。彼らはスターリンを神のような存在とみなすことを自然なこととして育ったのである。革命から20年、この若い世代が育つだけの時間が必要だったのであり、そのとき大テロルが起こったということを―これが、なぜ革命から20年もたって起こったのかということを説明してくれるのである。


 大テロルの原因については、これまで多くの議論がなされてきた。しかし、どれだけ個別の理由を考えても本質には届かないように思われる。歴史事象のさまざまな出来事は当然、関連しているはずであるが、決定的な理由となると非常に難しいのである。例えば、「ナチスの台頭により戦争の危険が迫っていた。そのために内部敵、反ソ分子を粛清しておかなければ、国全体が危険なことになる。そのような可能性のあるものをそのままにしておくわけにはいかなかった」スターリンの側近たちは、あとになってもこのような大テロルの正当化を主張している。たしかに、赤軍の司令官とボリシェヴィキの反対派の幹部が結託して軍事クーデターを起こせば、スターリン指導部は破滅してしまうだろう。しかし、これはソ連という国に危険なのではなく、スターリンとその指導部にとって危険だということである。この大テロルの理由も、その規模のとてつもない大きさとそれが各共和国のあらゆる階層におよんでいるということを説明できるだろうか。スターリンの秘密指令は各共和国、各州ごとにきめ細かく、銃殺する人数、強制収容所送りにする人数を指定しているのである。(例えば、銃殺をA、強制収容所をB、としてアゼルバイジャン共和国―A 1,500、B 3,750・アルメニア共和国―A 500、B 1,000・西シベリア地方―A 5,000、B 12,000・アゾフ、黒海地方―A 5,000、B 8,000・レニングラード州―A 4,000、B 10,000・モスクワ州―A 5,000、B 30,000など)そして、これらの人数は後から何度も追加され、NKVDはそれを超過達成するようになっていった。これはまさに理由のない大量殺人である・・・一般的にはこのように考えられるだろう。


 この一般大衆にたいするテロルも、イデオロギー超有機体の形成によって統一的に説明することができるのである。ただし、一般大衆に対してはアポトーシスの概念は適用されにくい。これは微妙な問題であるが、テロルの対象を反ソ分子として選別する努力はなされている。実際にはこれはほとんど不可能なことであり、建前上そうであっても、ランダムに選ばれたのとそれほど変わりはないだろう。アポトーシスの概念は弱い意味で適用されるか、どうかというところである。一般大衆に対しては、イデオロギー超有機体の形成のためにテロルは恐怖による支配、密告による相互監視、社会の人間関係の横のつながりを断ち切り、頂点のひとつの脳から伸びる神経系の忠実な構成要素になるように強制することである。(ただし、アポトーシスの概念をこのような目的のためのものと拡大解釈すれば、一般大衆に対してもアポトーシスは適用されるだろう)そのために、社会全体にくまなくテロルは行使されなければならない。そして、テロルをいつ終わらせるかという判断も重要である。これが際限なく続けば本当に社会を破滅させてしまうのは明らかである。これはイデオロギー超有機体の形成に必要十分である、というレベルに達したときテロルは終息するのである。つまり、テロルから逃れた人々が、家族や知人、友人、会社や工場、学校、さまざまな組織のなかにテロルに巻き込まれた人がいて、そこから十分に教訓を会得するだろうレベルである。テロル全体の具体的な人数までコントロールすることは不可能であるが、このような大局的な意味においてテロルをコントロールすることは十分可能である。スターリンはこのすべてを総合的に実践したのである。(もちろん、ここでいうテロルの終息とは大テロルの終息という意味であり、規模が小さくなってもテロルは続き、また次の波が来るということを繰り返していく。また、強制収容所の囚人の人数も増え続けたのである)。


 つまり、大テロルの必然性とはイデオロギー超有機体の形成がそれを要請するからである。逆にいえば、それ以外の方法でイデオロギー超有機体の形成が達成されれば大テロルは起きないということになる。それ以外の方法というのは、現実には存在しなかったであろうことは間違いない。例えば、SFで見られるような人間の脳の中にマイクロチップを埋め込んで、すべてを監視し、遠隔操作できるようになれば大テロルは必要ないだろう。これまで検討されてきた大テロルのさまざまな理由は、そのほとんどがこのイデオロギー超有機体の形成の中に包含されるとみてよい。例えば、ナチスの台頭により戦争の危険が迫っている―これが大テロルの理由だとすれば、もしこのようなナチスの危険が存在しなければ、大テロルは起きなかったということになる。しかし、それは誤りである。ナチスの危険とはまったく別にイデオロギー超有機体の形成の要請は存在し続ける。もし、ナチスの危険がなければ大テロルの時期は多少変わったかもしれないが、やはり同じように勃発するだろう。そのときは、また別の理由、口実を探すのである。


 このテロの人間悲劇の部分は、それが家族にあたえた影響であった。敵の烙印を押された父母が消されただけでなく、本書の冒頭で述べたアレクサンドル・チヴェリの場合のように、弾圧された者の親戚までもがしばしば逮捕された。たとえばスターリンやモロトフやその他の政治局員は「人民の敵」の妻子の、あるいはいずれか一方の逮捕リストを、日常茶飯事であるかのように承認していた。いく世代もつづく血の復讐や家族の敵討ちが文化として根づいていたカフカースの出身者であるスターリンにとって、個人同様に血族グループを罰するという考えはおそらく自然だったのであろう。1937年の10月革命20周年記念晩餐会の席上、スターリンは長いあいさつのなかでそのことを口にしている。そのときのスターリンの言葉を、ゲオルギ・ディミートロフは日記につぎのように書き留めている。「したがって社会主義国家の団結を破壊しようとする者、社会主義国家からその民族の特定の一部分を分離しようと望む者はみな敵であり、ソ連の国家と人民の不倶戴天の敵である。そして、われわれはそのような敵を、古参ボリシェヴィクであろうとなかろうと、おかまいなしに絶滅する。その血族、その家族を絶滅する。その行動と思想によって、しかり、その思想によって、社会主義国家の団結を侵そうとするすべての者を絶滅する。すべての敵を一人残らず、かれらとその血族をも、絶滅せよ!」他方、家族の懲罰には、もっと実利的な政治的効用もあった。身内の者に懲罰がおよぶのではないかという恐怖は、裏切りを抑止する効果をもっていた(14)。


 つまり、「社会主義国家の団結を破壊しようとする者」とはスターリンの神経系の役割を担わないすべての者である。それはその行動と思想によって、特にその思想によって、つまりそれは自分独自の考えを持つ者・・・それがいかなるものであれスターリンとは異なる考えを持つ者は絶滅させられるのである。それがどれほど共産主義の大義に合致していても問題ではないのである。そして、モロトフはスターリンの死後、あと少しスターリンが長生きしていたら自分は処刑されていただろう、と語ったという。それでもスターリンにたいする忠誠心はまったく変わりがない、というのである。これはアポトーシス心性の典型的な姿だといえるだろう。

 

*全体主義体制のこれ以降の発展、進展過程に関しては「マルクス主義の解剖学 19」第10章 第2節 憑依能力、を参照のこと。

 

 第7節 狭義のスターリン主義、広義のスターリン主義

 

 スターリン主義の定義を狭義のスターリン主義、広義のスターリン主義という大きく二つに分けた考察で示してみたい。狭義のスターリン主義の方は、今までも広く考察され議論されてきた現存したスターリン体制の根本をなすイデオロギー、思考形式である。しかし、広義のスターリン主義の方は今までまったく示されたことのない―ある人にとっては受け入れがたい考察かもしれない―そのような内容を含むものである。


 狭義のスターリン主義は、現実の政治、経済体制として存在している(した)ものである。まず、それはソ連であることはいうまでもないが、第二次世界大戦以降はソ連が占領した衛星国、ここには強制的にスターリン主義体制が押し付けられた。そして、スターリン主義が移植された北朝鮮であり、これは後で独自の展開を遂げることになる。そして、内発的に社会主義革命を成し得た中国、ユーゴスラビアもソ連からやや距離があるとはいえ、スターリン主義的統治をしてきたとみなされている。キューバ、ベトナム、ポル・ポトのカンボジアなども共産主義国として存在している(した)。


 スターリン主義は左翼全体主義の代表格であるが、左翼全体主義の性格を持つ体制は程度の差こそあれスターリン主義的体制だとみなされるだろう。その根本となる性格は、左翼全体主義の構造の中で解明してきたように、経済的グローバルブレインに向かう革命が反転してイデオロギー超有機体の形成になり、現実の生物学的、社会的形態の間でバランスを取り形成される。このとき、経済的グローバルブレインに向かうことが、例えばニューエイジ思想にあるような個人個人の修練によるものだとすれば、決してスターリン主義は生じないだろう。それは革命、、、ほとんどの場合このような状態の中で起こるわけだが―戦争中あるいは内戦や混乱の中で生ずる。つまり、社会全体で強制的、暴力的な社会主義への前進が開始され、それが後戻りのできなくなるような強烈な緊張状態が続くことによって、このような形態に向かうのである。官僚主義、計画的指令的経済、集産主義経済はイデオロギー超有機体の形成から必然的にもたらされる。ここからいえることは、例えば経済のみに着目し集産主義を目指したからといって、決してスターリン主義に至ることはないということなのである。というより、集産主義を最初から目指すということがほとんど考えられないのであり、唯物史観の理想社会を目指す革命をジャンピングボードにすることによって、初めて可能になるといえるだろう。


 スターリン主義の定義は今まで多くなされてきたが、これまで考察されてきたことから理解されるように、外見上の性質を箇条書きにして並べるだけでは到底不可能だといえるのではないだろうか。このような意味における定義自体が不可能に思えてくる。それは複雑で刻々と変化していく動態であり、その過程の総体が「スターリン主義」だとみなした方がよいのではないだろうか。この問題に関しては例えば次のようなことがある。スターリン主義の特質に共産党内部に対するテロル、弾圧がある。これをイデオロギー内部破壊と呼んできたが、これをスターリン主義の定義のひとつだとすると、レーニン主義はイデオロギーの敵に対してテロルを行うが、そのような共産党の内部に対するテロルを行うことはまったくなかった。このことからもスターリン主義とレーニン主義はまったく異なるものであり、正反対のものなのだ―このような主張がある。このような差異によって、レーニンからスターリンへの継承性の問題は、議論の争点になってきた。


 それはこのような生物学的メタファーを使ってみるのも面白いかもしれない。蝶は卵が孵化し、幼虫になり、それがさなぎになり、羽化することによって成虫である蝶になる。蝶の定義のひとつを「空中を飛翔するもの」だとすれば、幼虫やさなぎはこの定義から外れることになる。このことから幼虫、さなぎは蝶とは「縁もゆかりもないものである」といえばこれは明らかな誤りである。これらの外見上の異なる形態の奥にある本質は、いうまでもなく遺伝子であり、それが段階を追って発現していくことにより、このように非常に異なる形態や機能の差を生み出しているのである。スターリン主義を蝶、レーニン主義を幼虫、というようにたとえ、マルクス主義、唯物史観の理論を遺伝子とし、それが段階を追って発現していく過程だと捉えれば、無理のない説明ができるのである。もちろん、このような生物学的メタファーが非常に異なる社会学の対象にそのまま適用されるのか、ということが大問題であるわけだが、このイデオロギーの特殊性によってほとんど例外的にこの適用が可能になると考える。これが「イデオロギー遂行決定論」の骨格でもあり、これまでの考察により、この過程分析は相当程度なされたものと考える。イデオロギー遂行状態とは、この過程全体を意味している。つまり、「能力の壁」の壁にはね返され、そのイデオロギーの額面上の目的とまったく逆の方向に進んでも、それはイデオロギー遂行過程なのである。


 それでは「広義のスターリン主義」とはどのようなものだろうか。これはまったく本論独自の解釈になることを最初に断っておきたい。それは現実形態としての狭義のスターリン主義、あるいは左翼全体主義体制を生みだす基本的な思考形式、論理形式そしてイデオロギーである。これらは本論の今までの考察の中で示されてきたことであるが、スターリン主義確立を考察したこの時点から演繹的にたどっていくことにしたい。


 広義のスターリン主義とは、まず社会を階級構造として認識し、その最下層の階級のみを未来に存在すべき最重要の階級とする。そして、それより上位の階級を否定するのである。そのことによってよりよい未来が到来する、このような思考形式である。この時点ですでに、広義のスターリン主義の初期段階である。この上位の階級の否定、というのはいろいろな意味に捉えられるので、一様ではないのだが重要なポイントは「能力の壁」を認識しない状態で上位の階級を否定することである。ということはもちろん、これまでのこのような思考形式すべてに当てはまるということである。このことと関連して、前段階的な操作として「能力の壁」を「階級関係を簡単に反転できる―そのような壁は存在しない」ものとして認識するような―ほとんどの場合、無意識に刷り込まれるようなテキストとして示されることが多い。これが無意識的、意識的に追及されるようになると、広義のスターリン主義の初期段階から中期段階に進むと考えてよい。このような思考形式は一見まったくそうとは思われないようなところにも多く存在する。すでに本論において、そのような考察がなされてきたが、ここでその具体的な例を示してみよう。


 白井聡『未完のレーニン』は最近発表されたレーニン論であるが、この中でユニークな論考が示されてある。それはマルクス―レーニンとフロイトを対比して論じている部分で、フロイトにおける抑圧された無意識とマルクス―レーニンの抑圧された労働者階級とは類比できるとする。精神分析による抑圧された無意識の解放と社会主義革命→プロレタリアート独裁による資本家に抑圧された労働者階級の解放が共通性のあるものとして論じられる。なるほど、これはもっともな印象を持つであろう。だが、本論で考察されてきたことを照らし合わせてみれば、これは最も根源的な誤りを犯しているのである。この二つが類比できそうに見えるのは表面上―特にそれが表現されている言葉が共通しているということが大きい。しかし、本質的には両者の差異の方が桁外れに大きいのである。すでに幾度も指摘されてきたことだが、これは「能力の壁」を存在しないものとする(それはほとんど無意識的な)操作である。


 つまり、フロイトが対象にしているのは基本的には「ひとつの脳」であり、マルクス―レーニンが対象にしているのは「複数の脳の集合体」なのである。ひとつの脳の中で起こるさまざまな出来事、それは文化的要因などで抑圧された性の衝動であったりする。それを精神分析によって解放するということは、本来あった元の状態に戻るということである。しかし、マルクス―レーニンのいう抑圧された労働者階級は、本来あったプロレタリアート独裁の状態から資本家に抑圧されることによって今の状態になっているわけではない。だから革命によって資本家の支配を破壊したとしても、(本論の今までの考察により)本来あるべきプロレタリアート独裁→社会主義社会に進むことなどありえないのである。このようなプロレタリアート独裁を革命後の現実的な状況だとみなすことは、「複数の脳の集合体」を「ひとつの脳」のようにみなすことになる。


 すなわち、広義のスターリン主義の初期段階、中期段階は狭義のスターリン主義の遺伝子の構造が形成されていく段階だということである。これはもちろん、現在のわれわれがスターリン主義というものを明確なものとして認識できる歴史的段階にいるからこそ、このような見方ができるわけである。しかし、歴史全体を見渡してみればこのような思考形式、論理形式、思想というものはある意味、ごく自然なものであり、多種多様な膨大な人々が関わってきたことである。そして現在においても、過去に比べれば少なくなってきたとはいえ、まだ多くの人々の胸中に存在するものであろう。それはことさら主張されるようなものではなくなったとしても、心の中に存在するものである。そしてもちろん、一部の人においてはいまだ精力を集中して追及するべきものとなっている。最大の逆説的問題は、これら広義のスターリン主義を追求し、支持する人々はこれはスターリン主義とは正反対のものであるという認識を持っていることである。本論における広義のスターリン主義とは、いまだこの社会、世界にあまねく普遍的に存在することになる。広義のスターリン主義はいまだこの社会に満ち満ちている―極端にいえばこのようになるだろう。


 広義のスターリン主義の後期段階は、それまでの基本的な思考形式、論理形式がさらに精緻化し、具体性を増し、イデオロギーとして強固なものになる段階である。ロシア革命以前のボリシェヴィキがこれに相当する典型的な事例であろう。


 狭義のスターリン主義、左翼全体主義体制が生じないという可能性はあっただろう。それは歴史的にみて、さまざまな偶然、特殊な条件がそろうことによって生じたのであり、そうでない可能性も当然考えられるところである。しかし、人類が広義のスターリン主義を回避できる可能性はほとんどなかったと思われるのである。マルクス主義、唯物史観は広義のスターリン主義の最大のものであるが、それだけにとどまらず他の思想、イデオロギーにも生ずるものである。(例えば、ポル・ポトのクメールルージュ)また、過去のマルクス主義以外の共産主義思想が、必ずしも広義のスターリン主義的だとは限らない。ただ、歴史総体への直感的な理解として広義のスターリン主義は避けられないものであろう、と思うのである。

 

 「スターリン主義の形成」はこれにて完結です。

 

 

(14)アーチ・ゲッティ、オレグ・V・ナウーモフ編著 『ソ連極秘資料集 大粛清への道』川上洸 萩原直訳 大月書店 2001年  513頁


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<論文> スターリン主義の形成 9 

 

 『スターリン主義の形成』

 

 第5章 アポトーシス全体主義論

 第1節 全体主義論へ

 

 前章まで、「マルクス主義の解剖学」に基づいてロシア革命からスターリン主義形成までを考察してきた。「能力の壁」に抵触することは、全体的に発達した個人の途方もない能力が要請される。その不可能性から、階級としてのプロレタリアート独裁→社会主義社会→共産主義社会への移行は巨大な壁にぶち当たったように立ち往生してしまう。しかし、社会主義革命により、もはや後戻りの利かなくなったボリシェヴィキは前進していくしかないのである。それはまず、マルクスのいう資本制生産様式の否定を現実化することであり、次に高度な生産力を達成することによって社会主義社会への基盤を作ることであった。だが、そのためには資本家に代わる官僚による階級社会が形成されていき、計画的、司令的経済が構築されていった。そこでは共産主義社会へ向かう本来のプロレタリアート自身による経済の運営ということは、まったくの空文になってしまったのである。これがイデオロギーの原理的矛盾の現われであり、そのことによって党内や社会に鋭い対立関係が生じてくる。それを押さえ込むための弾圧、テロルが際限なく肥大化していったのである。革命の初期にはイデオロギーの敵に対するイデオロギー外部破壊が進行する。しかし、それが達成されても革命の過渡期が終わることはない。次に内部対立によるイデオロギー内部破壊が進行し続ける。イデオロギーの原理的矛盾が解決されることはない―これはすなわち革命の過渡期が永久的に続く・・・あるいは別の表現をすれば革命の過渡期などというものはなく、これが本来の姿なのである。全体主義体制と呼ばれたものが完全に固定化されて続いていくことになる。


 この章のタイトルは「アポトーシス全体主義論」である。これはまったく新しい造語であり、従来の全体主義論から区別するために付けられたという意味もある。アポトーシスの意味は次の節で説明することとし、ここでは今までの全体主義論について若干触れることにしたい。全体主義論は第二次世界大戦以前からいい始められ、戦後冷戦期にイデオロギー的な意味が極めて強い使われ方をした。だが、全体主義論の歴史についてはここでは深入りしないことにする。また、この概念についてのさまざまな問題点が多く議論されてきたが、それにも触れないことにする。本論はこれら問題点に対する応答の意味もあるが、そのことを特に論じることはしない。スターリン主義との比較で常に論じられるナチズムも多くを論じない。本質的な規定を考察する際にナチズムは比較対照されるのにとどめたい。


 20世紀を代表する二つの全体主義「ナチズム」、「スターリン主義」はその表面上の類似性から共通の要素が強調され、同じ全体主義の中にくくられることが多い。しかし、その本質的な差異についての追及は十分なされてきたとは言い難い。その理由のひとつはスターリン主義がその根本となるイデオロギーとの関係において、極めて逆説的な展開を遂げてきたという点にあるだろう。しかし、静態的な構造において両者は根本的に異なっている点が指摘されてきた。それが階級構造に対するアプローチである。すなわち、「ナチズム」のイデオロギーは階級構造を垂直に分割することによって、階級構造それ自体は維持しながら、それを民族、人種という生物学的根拠によって区分けするということである。アーリア人を最高のものとし、反対にユダヤ人を存在してはならないものとしての絶滅の対象とする。スラヴ人はアーリア人の奴隷として生きていくことはできる。イデオロギーが目的とする状態に達すれば、別の階級構造に編成されるが、最初の起点においてはそれぞれの階級構造を垂直に分割しているのである。


 ボリシェヴィキ、「スターリン主義」のイデオロギーの目的は階級構造を水平に分割し、ブルジョワジーの階級を絶滅することによって、プロレタリアートのみの無階級社会を実現することであった。しかし、結果的に官僚による階級社会がブルジョワ社会よりも強い階級構造を持つことになり、階級間の抑圧やそれによる疎外が大きくなった。この目的と結果の大きな隔たりにより、「スターリン主義」の全体主義をイデオロギーとどう関連づけるかは極めて難しい問題になったのである。しかし、ロシア革命における初期の目的が、階級構造を水平に分割することであり、それを基準にして社会を構成し、運営していこうとしたことは間違いのない事実である。その結果いかんにかかわらず、このイデオロギーは階級構造を水平に分割することを本質とすることは確実にいえることである。このように「ナチズム」は階級構造を垂直に分割する―これを右翼全体主義と呼び、「スターリン主義」は階級構造を水平に分割する―これを左翼全体主義と呼ぶことは一応の妥当性を持っている、といえるのではないだろうか。


 アポトーシス全体主義論は、全体主義全体を対象にするのではなく、その中の左翼全体主義―その代表が「スターリン主義」―を対象にする全体主義論だということである。これは左翼全体主義に特化された分析であり、「ナチズム」を代表とする右翼全体主義は対象としない。アーレントの『全体主義の起原』はこの二つの全体主義を扱ってはいるものの、そのタイトル通りの「起原」を解明しようとしたのは「ナチズム」に対してであり、「スターリン主義」あるいはボリシェヴィズムに対しては、その追及は極めて不十分なものであった―このような指摘がなされている。これはこの書物が書かれた過程からして当然のことであるが、アーレントはこの欠点をよく自覚していたので、この著作の発表のあとマルクス主義に対する研究をかなりしたようである。本論はちょうどこの部分に相当する「全体主義論」でもある。

 

 第2節 アポトーシスのメタファー

 

 アポトーシスとは生物学で用いられる用語であり、社会学で使われることはほとんどない。アポトーシスとは細胞内の遺伝子により、あらかじめプログラムされた細胞死のことである。アポトーシス(apoptosis)とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理、調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死のことである。これに対し、血行不良、外傷などによる細胞内外の環境の悪化によって起こる細胞死は、ネクローシス、または壊死と呼ばれ、これと区別される。多細胞生物の体内では、癌化した細胞(その他内部に異常を起こした細胞)のほとんどは、アポトーシスによって取り除かれており、これにより、ほとんどの腫瘍の成長は未然に防がれていることが知られている。また、生物の発生過程では、あらかじめ決まった時期、決まった場所で細胞死が起こり、これが生物の形態変化などの原動力として働いている。この細胞死もアポトーシスのしくみによって起こる。例えばオタマジャクシからカエルに変態する際に尻尾がなくなるのはアポトーシスによる。人の指の形成過程も、最初は指の間が埋まった状態で形成され、後にアポトーシスによって指の間の細胞が死滅することで完成する。さらに免疫系でも自己抗原に反応する細胞の除去など重要な役割を果たすのである。


 人の指の形成過程に着目してみると、胎児の段階で「個体発生は系統発生を繰り返す」ことにより、進化の過程を再現するといわれている。生命進化は長い間、海の中で進んできた。それから陸上に上がる段階で水と陸の両方で生息していた時期がある。この時、ひれや指の間に水中を進むのに必要な水カキが形成されている。胎児には初期にこの水カキがある。それがアポトーシスによって指の間の細胞が自殺していき、生まれる時には完全に本来の手となっている。しかし、ごく稀にこのアポトーシスの遺伝子に異常がある遺伝病があり、新生児になっても水カキが残っていて、指と指が完全に皮膚で癒着しているのである。この場合、手術によってしか治らない。


 このアポトーシスの概念を社会学にメタファーとして適用するのが、本章の特質である。このようなメタファーが適切であると思われるのは、このイデオロギーによる構造力学が意識されるものとしてより、無意識的な、深層心理として作用しているという特性から来ている。これは人種主義を特徴とするナチズムと比較してみるとよくわかる。ナチズムの場合は、これよりもはるかに意識的であり、その行動はその言説とほとんど一致している。ユダヤ人を絶滅させるのにアポトーシスという概念を使うのは不適切であるし、そのような必要もないのである。アポトーシスは生物学用語であるがゆえに、社会学から見ればより無意識的であり、意志から隔たった自然法則である、という側面もある。これが、左翼全体主義を説明する上で適切な微妙なニュアンスをもたらしてくれることを期待するのである。スターリン主義形成に至る共産党や社会における言説と行動の乖離の関係を表現してくれるのである。


 私が左翼全体主義、スターリン主義形成の構造を解明するうえでアポトーシスをメタファーとして使用するというアイディアを思いついたとき、偶然にも社会主義、共産主義を考察する上でこのアポトーシスを使用している文献に出会った。これはソ連崩壊後、ロシア革命からスターリン主義形成に至る過程を批判したマルクス主義思想家いいだももの著書『20世紀の<社会主義>とは何であったか』の中で使われているものである。これは社会主義、共産主義社会が形成される時の「国家権力の社会による再吸収」と同じ意味に使われている。これが本章の考察と非常に面白い対照をなしているので、それを取り入れて検討することにしたい。その文章とは次のようなものである。


 マルクス的共産主義は、価値形態に抽象化される価値増殖運動の動源である〈商品・貨幣・資本〉の究極的廃絶、したがってまた市場原理・競争原理・効率原理の究極的廃絶を価値目標としているだけでなく、国家の死滅、政治の死滅をも価値目標としている。「社会的精神を以てする政治革命」を革命の基本理念とするマルクス的共産主義=運動は、そのような政治革命そのものを通ずる政治の消滅、そのようなコミューン型権力そのものを通ずる国家の死滅、権力の死滅、権力の廃絶、といった自己矛盾・自己革命・自己死の内在化を歴史的特性としており、マルクス的共産主義=運動における国家論・政治論はまさに、あらゆる近代政治=ブルジョア政党政治から裁然と本質的に自己区別するそのような特性においてこそ際立っているとしなければならない。


 自己死を内在化させている有機的組織体とは、現代生物学的比喩を用いるならば、アポトーシス(自死)の機能・機構をもつ組織体であろう。歴史的構成物である〈国家〉や〈政治〉は、やがてネクローシス(壊死)にせよ、アポビオーシス(寿死)にせよ、死滅せざるをえないものであるが、アポトーシスを内在させた共産主義=運動はそのような将来社会を先取しているのであり、共産主義者党が権力主義におちいらないための究極の思想的保障もまたそこに存するのである。生体を正常に生々発展させるための特定の「プログラムされた細胞死」=アポトーシスが順当に死滅をとげてゆかない場合には、T細胞白血病、慢性関節リウマチ、癌、自己免疫疾患、エイズ等の 症状が生体にあらわれるにいたるともされている。イモムシのサナギから蝶への成長転化にしても、オタマジャクシがカエルに変態する際の尻尾の消失にしても、アポトーシスの「おかげ」といってよい。個体の形成、生体のホメオタシス、種の保存といった生命現象の根幹にかかわる機能を、アポトーシスは果たしているのだ。


 マルクス的共産主義は、当然のこととして、政治(政治社会)よりも生活(生活社会)の方が、深くて広くて大きいことを、前提にしている。〈共産主義〉として価値目標化される社会は、商品社会ばかりでなく、国家社会もそこにおいては無化しているような社会として、主体社会であり、自治社会であるのであって、そのような共産主義社会は類的存在としての人間が営む生産・生活関係がいわば直接に透明に流露する社会にほかならない。われわれが資本制社会という階級関係・国家関係のなかに現に生きている以上、まさにそのような共産主義的価値目標へと向けて政治闘争を展開しなければならない以上、ただ単に観念的に「生活は政治より底深く大きい」という抽象的テーゼをくりかえすことは、自称「生活者」概念に居直って政治から逃亡していることを合理化するだけで、何事も言ったことにならない空虚な詐話にしかすぎないが、こうしたマルクス的共産主義の原理そのものは、共産主義者自体において政治・政党の政治権力を相対化することに役立つ。この相対化の原理を欠く場合には、「社会的精神を以てする政治闘争」といえども、いつでも・どこでも目的と手段の顛倒が起こりうるのである。政治的国家を廃絶するための国家をめぐる政治闘争という自己矛盾的本質をもつ「マルクス主義的政治」は、まさにその原点において自己相対化の契機を内包しているといえる。過渡期としてのプロレタリアート独裁そのもの、共産主義的政治結社(政党)そのものが、予めアポトーシス(自己死)の機能を内的にプログラミングしていなければならない所以である(13)。


 以上の引用文を批判的に検討してみよう。本論では、すでに大局的には結論が出ている問題であるが、それを一度、脇において、異なる角度からこの引用文を考察することにする。これはソ連を批判するマルクス主義者、共産主義者全体に感じることなのだが、このような批判的言説は一体「誰に」向かって、具体的に「何」を「どうしろ」と言っているのだろうか?レーニンに対してだろうか、トロツキーに対してだろうか、スターリンに対してだろうか、ボリシェヴィキの上層部に対してだろうか、ボリシェヴィキ全体に対してだろうか、それともソ連国民全体に対してだろうか、それは極めて不明瞭である。そして、アポトーシスというメタファーを使うことは別の側面も考えられる。それはイデオロギーを遂行する主体にとって、アポトーシスはイデオロギーそのものに内的にプログラムされてある、ということを意味している。とすれば、そのイデオロギーそのものの思想、理論の中にプログラムされてあることになる。そうすれば、「アポトーシスがプログラムされていなければならない」―という批判の相手はマルクスということになるだろう。ところが、このように言うマルクス主義者の中に、そのように考えている人はいないということなのである。このような批判の矛先をマルクスに向けることは、マルクス主義者ではないことを意味するらしい。つまり、そもそもこの批判の言説は「誰に」向かって述べられたものかよく分らないのである。


 アポトーシスがプログラムされてある(あるいは、プログラムされていない)主体や有機体にとって、アポトーシスは自らの意思の範囲の外側にある。例えば、先に挙げた胎児の段階で指の間にある水カキが死滅していくアポトーシスの遺伝子に異常がある遺伝病の患者にこのように言ったとしよう。「このように指と指が皮膚で癒着しているのは、胎児の段階で作動するはずのアポトーシスが働かなかったせいである。遺伝子にアポトーシスがプログラムされていなければならないのだよ」。すぐにわかるように、この遺伝病の患者にとってこれはどうにもならないことである。この患者の意思や努力、そのようなものの力の及ぶ外側にそれはすでに決まったものとして存在しているのである。同じことは、ボリシェヴィキに対してもいえることになる。もし、革命後の努力によってそれがどうにかなるものなら、アポトーシスというメタファーはあまり適切ではない、ということになるだろう。それは具体的な「何を」「どうしろ」を考えなくてもよいという口実にもなる。だから、アポトーシスのような概念を使う場合、その批判の矛先は理論を作り出した根源、マルクスその人に向かうのは必然なのである。ところが、マルクスをそのことによって批判するのはマルクス主義者としてタブーなのである。ここまで来ると非常に矛盾した観念的な感じがしてくるだろう。


 さて、このような批判点があるが、この引用文によって示されたアポトーシスをここではアポトーシスBと呼ぶことにしよう。なぜBなのかといえば、第1章 第1節で示されたスターリン体制形成の解釈の二つの立場、AとBのうちBの立場に対応しているからである。つまり、アポトーシスBが起きなかったのはマルクスの理論に原因があるのではなく、それ以外の客観的条件、あるいはスターリンの裏切りといったものに原因を求めているからである。そもそもこのような著作は、マルクスに原因があるとは微塵も考えていないような論調で全体の議論が進められているのである。そうすると、スターリン体制形成の解釈Aの立場に対応するアポトーシスAがあるのではないかと想定されるかもしれない。実はこれこそが本章の中心となる問題である。

 

 第3節 経済的グローバルブレイン

 

 ここから「能力の壁」のラインを越えた社会、唯物史観における社会主義社会、共産主義社会、アソシエーション社会、そして、その社会を構成する全体的に発達した個人、アソシエイトした個人を詳しく考察していきたい。「マルクス主義の解剖学」第10章 左翼全体主義 第1節 構造、で考察されたことであるが、そこでは簡略的に示すことに止めてあった。具体的なスターリン主義形成を考察してきたこの段階で、再度詳細に検討していくことにしたい。重複となる部分もあるが、ここは本論で最も重要であり、難解なところなので詳しく論じていくことにしたい。すでに今まで示された通り、この領域は社会学の領域ではない。これはまったく常識に反することである。1世紀半に及ぶマルクス主義の歴史において、長い間まったく当然のように社会学、その中の歴史、経済、政治などの問題として論じられてきたのである。資本制生産、市場経済の分析と批判の否定形としての共産主義社会は、具体的に論じられたことはなく、非常に抽象的な概念にとどまっている。なぜ具体性がないのか、という批判に対して、マルクスはそのような具体的な姿を描くことは無責任なことであり、それを抽象的な規定にとどめることは学者としての良識であると考えていた―このような好意的な見方がされてきたのである。しかし、これ自体が的外れであることはもはや明らかなのである。共産主義社会の具体性とはいったい何なのか―それは何時に起きて、何時間仕事をする、そのような問題ではないのである。その具体性とは知識や情報がどれくらいの速度で、ある脳から別の脳へ伝達されるかという数字で示される尺度なのである。


 それは資本主義、市場経済、分業、階級構造をもった社会に対して天文学的な数字になる。その数万倍、数億倍、あるいはそれ以上かもしれない。これは通常、まったく非現実的なことである。しかし、社会学以外の領域まで広げさまざまな可能性を考えた結果、本論では脳と脳がダイレクトで結びつくような情報伝達が社会全体で達成されるような状態をその可能性として考察した。つまり、脳内のさまざまな領域がクオリアの表象、志向性の発現、無意識的な運動の制御などを担い、それらがひとつに統合されるように、社会全体がそのような統一されたひとつの頭脳になるような状態である。まさにこれは想像することが極めて困難な状態であるが、それは膨大な知識、情報が明確なクオリア、意識を持って表象されなければならないという点に表れている。


 従来のニューエイジ系の思想においては、これだけ明確な意識としてグローバルブレインが考察されたことはほとんどないといってよい。その大部分は無意識的な領域に手がかりを得ているからである。これはユング心理学の「集合無意識」とも関連している領域である。しかし、共産主義社会を実現させるためには、このような曖昧な無意識では話にならないことはいうまでもない。つまり、経済を成立させるためには情報は完璧でなければならない。それは明確なクオリア、意識として表象されていなくてはならないのである。そこで本論では、従来のニューエイジ思想でいわれた無意識的な、曖昧なグローバルブレインと共産主義社会、アソシエーション社会を実現するために必要な意識的なグローバルブレインを区別するために、意識的なグローバルブレインを「経済的グローバルブレイン」と呼ぶことにした。


 ここで誤解されやすい論点を再度明確にしておきたい。それは「経済的グローバルブレイン」は、唯物史観の対抗概念として提示されているものではない、ということである。「経済的グローバルブレイン」は唯物史観の未来社会を成立させるために、身体労働と頭脳労働を統合させるための論理的帰結である。それは情報伝達の超高効率化を実現させるためには、現実の脳から脳への伝達経路、末梢神経、筋肉、感覚受容体を経ていたのでは到底、不可能だという結論から来ている。それはある意味、唯物史観の未来社会論を今まで論じられたことのない別の側面から補完したものだといえる。


 それでは唯物史観と経済的グローバルブレインは、哲学的な問題ではどのように関係してくるのだろうか。これは非常に複雑で逆説的な論理構造を持つ難解なものである。まず、唯物史観の哲学的な立場、それは当然「唯物論」である。この立場からすれば常識的には経済的グローバルブレインのような情報伝達は、まさに非科学的なものであり、唯物論にまったく反するものである、このようにみなされるだろう。(ここでは「唯物論」「観念論」の哲学そのものの問題には立ち入らないことにする)しかし、現代の心脳問題においてクオリア、意識とそれが生ずるための脳内の物質的状態との間に完全な同一性はないことは明らかなのである。それは明らかに非局所的な性質を持ち、それが脳外に拡張されるという可能性はゼロとは断定できないだろう。その場合でも、物理法則に抵触することはない、と思われる。もちろん、これは歴史ではなく進化論的タイムスケールでの話であるが。


 最大の問題は、マルクス主義、唯物史観の理論体系の中に知識、情報に関するアプローチが希薄であることである。資本制生産における身体労働を成り立たせる知識、情報を司る頭脳労働の領域は、当然それに対応している物理的、物質的な状態がある。管理職や技術者、事務職を考えてみれば、外的な状況としては専門的な書物、資料、さまざまなデータが記載される書類、計算機、パソコン、さまざまなものがある。内的にはそれらの人々の身体、特に脳が中心になることはいうまでもない。それらのニューロンの状態、結合パターン、神経伝達物質の状態などが物理的な基盤として存在している。当然、それらは最終的には、それを構成している分子や原子に行き着くだろう。身体では水素、酸素、炭素、窒素、カルシウム、カリウム、マグネシウム・・・これらは身体労働者も頭脳労働者も等しくいえることである。すなわち、これら知識や情報は物理的、物質的な基盤を持っている。これを無視するものが唯物論であるはずがない。そうなると、とてつもない逆説的な状況になる。唯物史観の体系の中にまったく唯物論を無視している重要な領域がある。これはもう観念論の極致といえるだろう。


 これが体系性の持つ難解さ、あるいは恐ろしさともいうべきものである。体系のなかに10の要素があり、そのなかの9までが唯物論に立脚した科学的なものであったとしても、残りのひとつが観念論のなかの完全な形而上学だったとしたら、その体系のすべてが形而上学に転化してしまうのである。それは唯物論の外観を持ちながら、その内実は観念論の極致ともいうべきものになってしまう。唯物史観はまさにそのようなものである。そして、それを補正した結果、導き出された結論が「経済的グローバルブレイン」ということになる。経済的グローバルブレインの物理的、物質的基盤は物質的使用価値に直接対峙している労働者、プロレタリアートのみとなり、その頭脳労働領域を担うのはそれらの人々の頭脳だけとなる。つまり、今までその頭脳労働領域を担っていた上の階層、階級の人々、システムは完全に消滅している。プロレタリアートはその頭脳労働領域の全システムをまったく何もない空中に構築しなければならないのである。それが個人と個人の脳がダイレクトで結びつき、それらの知識、情報を伝達し、処理し、意思決定、合意形成をおこなう超絶した能力を持ったプロレタリアートなのである。すなわち、共産主義社会、アソシエーション社会、全体的に発達した個人とはこのようなものである。


 そして、社会主義革命によってそのような社会に至るということは、上部の階層、階級が破壊され、消滅していく。最初にブルジョワジーの階級が破壊され、消滅していき、次に残った階層が先に検討したアポトーシスBによって消滅していくということになる。ここでも革命によるブルジョワジーの物理的弾圧、破壊が次のアポトーシスを生じさせるという因果関係として設定されてある。これが「増幅された能力転移」として今まで幾度となく考察されてきたことである。これが正しいかどうかは、もちろん論ずる必要はないだろう。

 

 第4節 イデオロギー超有機体へ

 

 いうまでもなく「経済的グローバルブレイン」は非現実的なものである。社会主義革命後の社会においても、それ以外のどの社会においてもこのような能力を持った人類が出現したという報告はない。それにもかかわらず、この社会を強引に目指し続けたらどのような事態になるか・・・それがこれから検討すべきことである。超巨視的なレベルにおいての結論は次のようなものであった。「経済的グローバルブレイン」の最も本質的な属性はこの地上にひとつの脳しかない状態を実現させることである。ひとつの脳というのはメタファー的な意味合いを持つが、現実にそれと等価、あるいは極めて近い状態を意味している。しかし、現在の人類は到底そのような状態には達しえない。そうするとこのグローバルブレインの代替作用が起こる。つまり、現在の人類の能力内において「経済的グローバルブレイン」にできるかぎり近い状態を目指すことになる。同じく、この地上にひとつの脳しかない状態を目指すのである。それができるかどうかということは問題ではない。無制限の権力を握った共産党があらゆる手段を使って、この状態を目指すことになるだろう。


 ここで重要なことは、このイデオロギーを遂行している主体にとって、この「経済的グローバルブレイン」も、その代替作用もまったく意識されることはない、ということである。それは深層の論理であり、その深部から突き動かされるマリオネットになるのである。イデオロギー遂行の主体にとって意識は、この無意識によって常に規定されている。本人の意識にとってそれは不可解であり、不条理であってもそれに従わざるをえなくなる―そのような状況に陥るのである。


 経済的グローバルブレインは「能力の壁」を克服した状態であることは、すでに明らかにされてきた。これを克服できる能力を得られなければ、その代替作用が起こることは絶対に避けられないのである。その代替作用の結果、「経済的グローバルブレイン」はどのように変形されるのか・・・これは論理的必然性を持って導くことができる。それは第一にまったく等しい本質的属性―ひとつの脳を社会全体に実現させることである。つまり、社会全体の成員の中で対象にされるべき人格的存在としての脳はひとつしかない状態である。現実の社会においてそれに最も近い存在は、無制限の権力を手に入れた独裁者であることは容易に導きだせることである。しかし、これはまず、現実的な考察ではなく、理念的な形態として考察しなければならない。その理念的な形態をここでは「イデオロギー超有機体」と呼ぶことにした。


 それはピラミッド型の社会の階層構造の頂点に、絶対的な1人の人間がいて、そこから社会全体にくまなく指令を発し、あらゆる部分の情報をすべて手にする―そのような存在である。それは社会全体を統一的なひとつの有機体として捉え、頂点に立つ1人の人間の「脳」から伸びる末梢神経として、それ以外の社会の成員が構成されるような形態である。そして、物質的使用価値に対峙する労働者は筋肉、手足となるだろう。また同時にそれは感覚受容体であり、それらの情報は神経系を伝わって頂点にあるひとつの脳に正確に伝わらなければならない。中間の階層を構成する成員もすべて情報を入力、出力する神経細胞と同じ存在なのである。


 経済的グローバルブレインとイデオロギー超有機体は対極的な存在だといえるし、また本質的に同一な属性を持っているともいえる。両者の関係はいまだかつてないような両義性を持っているといえるだろう。経済的グローバルブレインはその成員のひとりひとりが、まさにマルクスがいった人間的解放の状態を実現しているといえる。それは当然、ひとりひとりが人格的存在として認められているのである。しかし、それは「能力の壁」を克服出来た場合にかぎり認められるものなのである。もし、それが出来なかった場合はどのような事態になるか。社会主義革命の成功によってもたらされたイデオロギー遂行状態は、客観的な情勢、その他もろもろの要素に関わりなく「ひとつの脳」に向かう強力な動力学が作用し続ける状態なのである。それが経済的グローバルブレインの代替作用として、イデオロギー超有機体が形成されていく動因である。この法則が必然的にもたらす状態は、社会を構成する複数の脳のうち人格的存在としての脳はひとつだけとなり、それ以外の脳を非人格化することである。つまり、(ある特殊な意味における)完全な平等は達成されるのである。選ばれたひとつの脳以外の脳は平等云々の対象ではなくなったからである。これがマルクス主義、共産主義、唯物史観の行き着く現実的な「平等」である。もちろん、これは極限的な遂行状態を推し進めた場合にかぎりたどり着くものであるが―これは完全に法則としての論理的帰結である。

 

 「能力の壁」を克服できる→経済的グローバルブレイン

 

 「能力の壁」を克服できない→イデオロギー超有機体

 

 もちろん、いうまでもないことだが唯物史観からみた場合、イデオロギー超有機体は縁もゆかりもないどころではなく、まさに対極的な状態である。これが唯物史観論者の意識、主観であることは明らかなことである。しかし、「能力の壁」を克服できなければこの状態に向かうしかないのである。ここでさらに次の問題が生じてくる。経済的グローバルブレインはまったく非現実的なことであるが、イデオロギー超有機体も同じく非現実的なものであることは自明である。そもそも、社会構成員が神経系とまったく同じような存在になるなどということはありえない。イデオロギー遂行が極限的に推し進められる状態は、イデオロギー超有機体に向かう強力な力学が作用している。しかし、イデオロギー超有機体と現実の社会、人間存在との間には絶対的な隔たりがある。この隔たりをギリギリのバランスを保って統合しようとする状態、それが現実の全体主義体制だというのが本論の結論なのである。

 

 

(13)いいだもも 『20世紀の<社会主義>とは何であったか』 論創社 1997年 385~387頁


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