反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 10 


 『マルクス主義の解剖学』


 第6章 「完全な兼任」のイデオロギー

 第1節 マルクス主義の前提「完全な兼任」

 

 これまで「均等割り振り」の技術論を中心に考察を進めてきた。しかし、マルクス主義の体系の中にこのような論理、あるいは近い考え方さえまったく存在しない。当然、マルクス主義、共産主義、唯物史観に関係する多くの文献の中にもこのような技術論はほとんど存在しないのである。それでは、マルクス主義はこのような問題に対してどのような論理を持っているのだろうか。先に挙げた資本家経営者1人、労働者2人の小規模な工場を例にとってみよう。均等割り振りにおいては、この3人で頭脳労働と身体労働を平等に割り振り、頭脳労働は輪番で行うという形態が考えられた。これは経営に関する頭脳労働を労働価値のあるものとして定位し、それを不可欠なものとして認めていた。この頭脳労働と身体労働は相互依存関係にあるということが前提になっていたのである。ところが、マルクス主義ではこの頭脳労働は労働価値のあるものとして認められていない。資本家に対しては単なる搾取行為としてしか捉えていなくて、それ以外の頭脳労働は完全に捨象され、どのように考えられていたかは分からないようになっている。そして、剰余価値率算出の公式でもそれらは労働価値のあるものとして認められているとはいえないのである。唯物史観の中核をなす社会主義革命から社会主義社会、共産主義社会への過程では、社会主義革命直後のプロレタリアート独裁が避けて通ることのできない過渡期であると論じられてある。すなわち、この革命によって、資本家は駆逐されてしまうのである。そうなると、この資本家経営者1人、労働者2人の工場の形態は、単に資本家経営者1人が排除されるということである。そうなると残ったのは労働者2人だけである。つまり、資本家によって剰余価値を搾取されていたこの2人の労働者は、その搾取がなくなるのだから全ての労働価値を自らの所有にすることができる。ところが、経営に関する頭脳労働の問題は一切無視されていることになるのである。


 この経営に関する頭脳労働は絶対になくてはならないものであることは、もう論じる必要もないことである―それではこの頭脳労働を誰が遂行するのだろうか。もちろん、この残った2人の労働者が自ら行う以外にはない。しかし、この2人の労働者は今まで通りの身体労働を継続していかなければならない。これが大幅に変更されてしまえば、根本的な論理が破綻してしまうだろう。そうなるとこのように考えざるを得なくなる―今まで通りの身体労働を行いながら同時に経営に関する頭脳労働も遂行するのである。決して身体労働と別の頭脳労働時間を設定することはできない。これは一体どのような状態を意味しているのだろうか?これがマルクス主義の前提となる「完全な兼任」の形態なのである。この「完全な」ということの意味は、身体労働と頭脳労働の同時遂行という意味であり、ある時間に頭脳労働をし、別の時間に身体労働をする「兼任」よりもさらに徹底した形態を意味しているのである。


 例えば、この2人の労働者の間で頭脳労働の情報伝達をしているとする。しかし、この労働者は今まで通りの身体労働に従事している―当然、意識、集中力はその身体労働に向けられていなければならない。それでいながら、頭脳労働の情報伝達を行わなければならないのである。この2人に普通の会話や書類に目を通して情報を伝えるというような行為は不可能である。そうなるとこれは筋肉や感覚器官を使わず情報を伝達する、つまり俗に言うところのテレパシーのようなものになるだろう。脳から脳へのダイレクトな情報伝達である。しかも、我々が一般的に知っているテレパシーのような曖昧なものでは話にならない。情報は完璧な精度で伝達されなければならないのである。と同時に、伝達された情報を身体労働をしながら処理していかなければならない。処理された情報に基づきまた2人の間で合意形成、意思決定がなされなければならないだろう。このように考えるとこの2人の労働者の脳と脳が、まるでひとつになったような統合された頭脳にならなければならないのである。これらの頭脳労働を身体労働をしながら遂行して、その頭脳労働の結果の情報に基づいて身体労働を行うのである。また、その工場の外部との間の情報伝達もその外部の人間の脳と脳の間でダイレクトな情報伝達を行わなくてはならないということになる。このような頭脳労働の完璧な遂行がなければ、身体労働の意味がまったくなくなってしまい、何もしないよりも悪い状態になるだろう。


 これは労働者2人の極めて小規模な例であるが、実際にははるかに大人数で複雑な頭脳労働をしなければならないのである。例えば自動車生産を考えてみれば、その自動車の開発設計、細部に至る具体的な設計製図などを、自動車を制作している身体労働者が同時に行わなければならない、ということである。それは流れ作業などの身体労働をしながら、それらの頭脳労働を同時に行うということである。そして現実の身体労働はその頭脳労働の結果としての情報に基づき遂行するのである。つまり、その自動車の開発設計をその多数の身体労働者の頭脳の中のみで達成しなければならない。これは今まで検討されてきた「均等割り振り」よりも桁外れに次元の違う能力が要請されるだろう。多数の身体労働者の脳は統合された完璧なひとつの脳になり、細部に至るまでの膨大な情報を完璧に表象し、それを互いに共有し―情報伝達を必要としないような完全な同期として―合意形成、意思決定を行なえるとてつもない超頭脳である。これが社会学の問題であろうか?このようなことを論じなければならないということ自体、実に不可解なことなのである。しかし、これこそがマルクス主義で言うところの「全体的に発達した個人」ということになるのである。すなわちこの個人が共産主義的個人、アソシエイトされた個人ということなのである。


 ところで、共産主義社会は、個性、個体性の全面的な開花をもたらす社会である。しかし、共産主義の高度な段階は、逆に、全面的に発達した個人なしには存立しえない。そのような個人がそもそもの前提なのである。そのような全面的に発達した個人を形成するのが、共産主義のより低い段階の究極的な課題である。


 しかし、このより低い段階も、すでに商品・貨幣なしに社会的生産を組織できるだけの人間、労働する個人の存在を前提する。本来の過渡期の究極の課題は、これまた、このような段階にまで発達した個人を生みだすところにある。社会主義建設とは、究極的には、このような人間の発達を実現することなのである。


 人間の全面的な発達というこの観点から見たとき、1920年代から始まったいわゆる社会主義建設が、あるいは戦後の東欧諸国でのいわゆる社会主義建設が、これまでになにを達成しえたのか、しえなかったのか、言わずとも明らかである。この現実を見て、人間は結局のところ聖人にはなれないのだ、性善説はだめだ、だからマルクスの共産主義は、そのような聖人たちを前提とするユートピアだったのだ、という議論をするのは、共産主義の実現それ自体が、本来資本主義社会における労働する個人のあり方そのものの本質的な廃棄であること、そしてこの廃棄なしには、およそ人類の「本史」が始まりえないのだということに気づいていないものだと言わざるをえない。われわれが現在見ている資本主義社会や「現存社会主義」社会の人間、すなわちわれわれ自身の現実のなかに、人間そのものの限界を見ることは、結局のところ、われわれの被制限性に気づかないまま、そのわれわれを物差しにして人間を測ることに帰着する(32)。


 以上の引用文は、典型的なマルクス主義の主張であろう。共産主義の高度な段階はこのような全面的に発達した個人を前提としている。この個人とはこのような統合された超越した頭脳を持った個人である。すなわち、商品、貨幣なしに社会的生産を組織できるだけの人間―貨幣の情報としての価値を必要としない情報伝達能力を持った人間である。今まで生産体制内部での均等割り振り、完全な兼任を検討してきたが、それを成立させるだけの頭脳労働能力をそれ以外の関係に拡張すればよいだけなのである。供給と需要、生産者と消費者の間でこのような情報伝達、情報処理、合意形成が行われれば、商品、貨幣はもはや必要でなくなるだろう。社会主義建設とはこのような人間の発達を実現することなのだと明確に述べられている。


 以下の文章に示されていることの含意は、マルクス主義に関する本質的な問題の中心といっても過言ではないだろう。このような全体的に発達した個人を基準にして現存した社会主義体制を捉えたとき、何を達成しえなかったのかは明らかである―それは達成しえるはずのないものであることは明らかである。そしてそれは性善説、性悪説という基準で捉えるマルクス主義を批判する側も、反論するマルクス主義の側もまったく的を外していることは明らかである。この両者は問題の本質は「能力」にあるとはまったく気づいていないのである。「われわれが現在見ている資本主義社会や「現存社会主義」社会の人間、すなわちわれわれ自身の現実のなかに、人間そのものの限界を見ることは、結局のところ、われわれの被制限性に気づかないまま、そのわれわれを物差しにして人間を測ることに帰着する」―それでは、その被制限性に気づき、資本主義社会の労働のあり方を廃棄すれば「完全な兼任を達成できる能力」を持てるようになるのだろうか。これは「完全な兼任を達成できる能力」が労働者に本来備わっているが、資本主義社会とそのイデオロギー、資本家階級に抑圧されていることによってそれが制限されているからその能力を発揮できないのだ、というように解釈できるだろう。マルクス主義、社会主義、共産主義、またそれ以外の左翼思想全般に関して、このような意識されざる論理が根底に横たわっているのである。


 そして、これはまさに社会主義革命の根本となる論理である。レーニンの文献からはいたるところにこのような論理が読み取れるし、ロシア革命はまさにこの論理を大前提として遂行されたのである。つまり、この引用文はロシア革命の論理をまったく同じように繰り返している。ただ違うのは歴史上すでに起こってしまった社会主義革命とその結果を、この論理から逸脱したものだと切り捨てただけである。もちろん、現存した社会主義体制の状態とその末路は、この論理からの必然の結果である(―これは第8章で詳論したい) 。これは歴史から何ひとつ学んでいないことになるのではないだろうか。


 第2節 抽象的能力世界

 

 これまでマルクス主義の外部から見た視点を中心に考察を進めてきた。その認識をもとにここではマルクス主義の内部から見た視点を中心に考察を進めていきたい。これまでなされてきた論考は、『資本論』を始めとするマルクス主義の体系において、特に土台内部の頭脳労働―資本制生産様式中心部の身体労働と相互依存をしている頭脳労働は資本家においては否定、それ以外の頭脳労働に対しては徹底して捨象されてきた、というものである。これによって土台内部の頭脳労働形態、価値は無化されるか極めて希薄なものになってしまった。それに伴い、上部構造のさまざまなイデオロギー的意識形態、社会的意識形態は論じられることはあっても、土台の経済的意識形態は極めて不完全な扱いになってしまっている。しかし、マルクス主義者あるいはこの思想に触れた多くの人々に対して、資本主義動態分析の深さ、鋭さによって土台の把握は十全になされているかのような感覚を与えているのではないだろうか。これらのことにより、無階級社会を志向するための土台内部の身体労働と頭脳労働を統合するという方向性はほとんど消滅し、それの手がかりさえ見えなくなってしまっている。それに代わり、無階級社会を目指すためには資本主義を覆すことだという別の道が敷かれることになった。その別の道の巨大な体系―それがマルクス主義の体系だといえるであろう。そういってみても、土台―上部構造論自体がマルクスの創案によるものであり、このようにいえるためにはマルクスの理論が前提になっているのである。マルクス主義に依存的であることは認めなければならないことである。


 以上のことを総合的に示したのが以下の図である。太線の枠で示した論理的過程が無階級社会、すなわち共産主義社会、アソシエーション社会、全体的に発達した個人の形成する社会へ至る具体性を持った実相である。すなわち、土台内部の頭脳労働形態を含めた労働形態、価値を十全に定位し、それに対応する経済的意識形態を十分に把握する。それに基づいて、相互依存をしている身体労働と頭脳労働を統合する―これは完全に技術論の問題である。そのために必要なのは情報伝達、情報処理、意思決定の効率の高さだということが導き出される。それを達成するためには、テクノロジーや社会関係ではなく人間の生物学的能力の問題である、という結論が導き出される。それは均等割り振り、完全な兼任を達成できる能力を持った超越した頭脳―それを持ったのが全体的に発達した個人、共産主義的個人なのである。しかし、この論理過程は最初の橋が落とされている。そして別の道へと導かれるのである。それを示したのが以下の図である。


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                           図5
 マルクス主義の内部から見ると、この切断点以降の展開はほとんど意識されないおぼろげな状態であり、特に均等割り振りや完全な兼任の形態は霧の彼方に見える影のような存在に映るだろう。一方、意識的に強力に推進されるのが資本主義動態分析から、剰余価値理論、搾取論や二極化理論、窮乏化理論などであり、それは弁証法的歴史発展の法則などの強力な理論的補強を受け、社会主義革命へと導かれる。それはプロレタリアートが政治権力を掌握するプロレタリアート独裁となり、それ以降、社会主義社会、共産主義社会へ進展していくというものである。このとき、プロレタリアート独裁は「完全な兼任」と論理的に結びついていることにより、プロレタリアート独裁の形態は完全な兼任の能力世界へと導かれ、それは社会主義社会、共産主義社会の能力上の基盤となる。つまり、これらの未来社会像はこの能力世界を深層の基盤として意識化されている状態だといえるであろう。未来社会論の様々な規定、 「生産手段の協同的所有」「万人の発展が個人の発展でもあるようなアソシエーション」 「必然の国から自由の国へ」「様々な仕事を代わる代わる行なえるような全体的に発達した個人」 。 『ゴータ綱領批判』ではこのように述べられている。


 「共産主義社会のより高度の段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立がなくなったのち、労働が単に生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の全面的な発展に伴って、またその生産力も増大し、協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧き出るようになったのち―そのとき初めてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏み越えることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる―各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(33)。


 完全な兼任とその能力世界は、マルクス主義の内部から見るとほとんど意識されない―それは霧の向こうに見えるおぼろげな影のような存在に映る。しかし、それは確実にそこに存在するものとして認識されている。そのような超絶した頭脳能力による抽象的な能力世界が形成されるのである。このような両義性こそマルクス主義の未来社会論における最も重要な基盤をなしているといえるだろう。この能力世界は霧の中から浮かび出て具体的なものとして姿を現してはいけないし、彼方に遠ざかってまったく見えなくなってしまってもいけない―絶えずそれは霧の中の影のような存在として・・・だが確実にそこになければならないのである。本論でなされてきたことは、 徹底して霧の中から具体的なものとして姿を現させることであったということである。


 マルクス主義の内部から見た論理過程は図6のようになるだろう。マルクス主義内部から見た場合の、身体労働と頭脳労働の統合の問題は『ゴータ綱領批判』でも述べられているように、共産主義の高度な段階に至って達成されると考えられている。ここでもマルクスのイデオロギー誘導は巧妙を極めていると感じられるのである。社会主義革命以前にはこのような論述は極めて少なく、それも「分業の廃棄」というような捨て去りさえすれば達成されるかのような表現をしている。そして社会主義革命以後において「分業に隷属することがなくなる」 「肉体労働と精神労働の対立がなくなる」と言明されている。つまり、単なる「廃棄」に対する批判をここでかわしているのではないかと思わせるのである。しかし、ここでも対立がなくなるという受動的な姿勢であり、統合という能動的表現はなされていない。この問題に対するマルクス主義の論理過程は次のようになる。社会主義革命→プロレタリアート独裁→社会主義社会→共産主義社会→ここにおいて初めて身体労働と頭脳労働の統合は達成される(マルクスの表現では肉体労働と精神労働の対立がなくなる)。つまり、共産主義社会から土台の変革、身体労働と頭脳労働の統合という論理的方向性である。だから、マルクス主義者のほとんどは、この問題は社会主義革命以降、共産主義の高度な段階において達成されるような目標である、と考えるのである。しかし、それこそが完全な論理の逆走を示している。身体労働と頭脳労働の統合、この土台の変革の進捗状況がすなわち共産主義社会、無階級社会への進捗状況なのである。社会主義革命の進捗状況は何の関係もないのである。


DSCN1149b.jpg


                          図6
 能力が問題にされたとき、マルクス主義者は「当然、マルクス主義は能力の問題も考えている。それは資本主義社会の中で培われ、社会主義革命を通じて社会主義社会、共産主義社会で開花する全体的に発達した個人としての能力である」と、このように言ったとしよう。それに対しこのように質問してみたらどうだろうか。「その能力とは社会的能力なのか?それとも生物学的能力なのか? 」彼はこの質問の意味をまったく理解できないであろう。社会的能力以外の能力などまったく考えたこともないし、意識したこともないためにそれが社会的能力であるという自覚もないのである。この抽象的能力世界は抽象的であるが故に、社会的能力に転化しその外観を装うことができるのである。


 マルクス主義は唯物論に立脚しているという―資本主義動態分析から二極化、窮乏化などを経て資本主義は行き詰まり社会主義革命へと導かれる。弁証法的唯物論は共産主義社会への道を約束しているというわけである。しかし、それならば一方の重要な側面、土台内部の捨象されている頭脳労働形態、価値と経済的意識形態―この領域も唯物論的に捉えなければならないのはいうまでもないことである。知識や情報は外部においては、資料や本、パソコンのデータなどの形で存在し、情報伝達、情報処理を司る頭脳労働者の脳も物理的、物質的存在であり、それらは分子や原子によって構成されている。これらの物質が消滅すれば、知識や情報も消滅し、経済全体も消滅する。これはまったく常識的なことである。そして、今までの考察により無階級社会を実現するためには、身体労働と頭脳労働を統合しなければならず、そのためには途方もない情報伝達、情報処理、意思決定の効率が要請されるのである。社会主義革命によって無階級社会が実現するという因果関係はこのようなことを意味していることになる。 「社会主義革命の結果、ニューロンを流れる活動電位の伝播速度が秒速100メートルから100万メートルに速くなり、超高効率の情報伝達、情報処理ができるようになった。あるいは脳と脳がダイレクトで結びつくような情報伝達ができるようになった」。これが唯物論的であり、科学的なものであるかどうかは論じる必要はないであろう。別の表現をすれば、マルクス主義は情報の被空間拘束性をまったく無視している、といえるであろう。


 しかし、マルクス主義の側ではこのような能力世界は抽象的な観念となり、深層構造を形成し、深層心理、無意識の中に刷り込まれることになる。それでいながら意識の上ではこれらは唯物論であり、科学であるという強力な信念が形成されている。この二重構造こそ最も本質的な問題であり、それが現実化したとき二重思考へ向かうことになると考えられるのである。それは資本主義社会の側の人間よりも社会的能力として歴史的に進んだ段階にある―意識的にはこのようにみなされるが、深層心理の中では生物学的に優れた種であるというような観念が形成されるのである。このことによりナチズムの人種主義イデオロギーと極めて近似した性格を持つようになる。これは全体主義を考える上で重要であるように思われる。



(32)大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』桜井書店、2011年、36,37頁


(33)マルクス、エンゲルス『マルクス、エンゲルス全集 19巻』大内兵衛 細川嘉六監訳、大月書店、1956~91年、21頁


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<論文> マルクス主義の解剖学 9 

 『マルクス主義の解剖学』

 

 第5章 脳科学と能力変数


 第1節 社会学、脳科学、心脳問題

 

 無階級化した場合の情報伝達の問題を均等割り振りの事例を例に取って検討してみよう。このような階級性の問題は、当然社会学の問題だという先入観がある。しかし、その社会を構成している個々人は、言うまでもなく生物学的存在であり、その社会もこの生物学的基底の上に成り立っている。経済を構成する主体は、社会を構成している個々人であることは言うまでもない。その主体とは意識的存在であり、経済を運営して行く経済的意識はその意識的存在の主要な構成要素である。もちろん、経済も意識されない無意識下の影響を受けることは当然であるが、例えばイデオロギーと比較してみても経済活動は最高度に意識化された営みであると言える。 (これに対してイデオロギーは無意識にその中心がある場合が多い)そして、意識も無意識も人間の身体、その中の脳から生み出されるということである。もちろん、経済に限られたことではないが精神的、意識的活動の源は脳にあるといってもよいのである。


 脳からなぜ意識が生み出されるのか、あるいは脳と意識の関係はどのようなものであるのか、このような問題を追求するのが心脳問題である。古くからある哲学上の問題、物心二元論は心身論にそして現在ではこのような心脳問題に移行してきたのである。ここではこの問題には深入りせず、意識、心は脳の神経活動、神経伝達物質の状態、ニューロンの結合パターンなどと密接に関連しているということを強調しておきたい。これらのことは一般的にも常識的なことであるが、マルクス主義との関係において論じられたことはほとんどないと思われるので、そのことを改めて確認しておきたい。ここで問題にされる最も重要なことは、脳は外界に対して「閉ざされた系」だということである。外界に結びつく通路は、感覚受容体を通しての情報入力、すなわち視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感を通して行われる。それ以外の感覚があるかどうかはわからないが、この五感が最も重要であることに変わりはない。これらは感覚受容体が外界の刺激を感受して、末梢神経を通じて脳へと情報が伝達される。反対に脳から外界に対する情報の出力は、運動神経を通じて筋肉を動かし、声や筆記、タイピングその他さまざまな身体活動の方法でなされる。


 一方、脳内部における情報伝達、情報処理も脳科学の進展によって極めて詳細に知られるようになってきた。1,000億と言われるニューロンの結びつきと、そこを流れる活動電位の作用が中心である。記憶や学習、さらには感情や心といった高度な精神活動をつかさどっている。人間の脳が他の動物に比べてもっとも異なっているのは、「大脳皮質」と呼ばれる部分が発達していることである。「大脳皮質」は外見上同じように見えるが、場所によってそれぞれ違う機能を持っている。後頭葉には視覚に関する第一次視覚野などがあり、聴覚のクオリア(28)を生じさせる聴覚野は側頭葉の上側、頭頂葉には体性感覚や運動をつかさどる部位がある。前頭葉にある前頭連合野は特に人間らしい感情や意欲、理性的な思考などを処理する部位である。その下には運動性言語野があり言葉を話す働きをつかさどる。その他さまざまな機能が、ある程度の局所性をもって脳の各部位に対応しているということがわかっている。これらの機能局在の傾向は、「脳のここの部位が損傷すると、この機能が失われる」という経験的事実によって、現代的な意味での脳科学が始まる前から知られていた。


 ニューロンに関しては、20世紀の初めに「細胞同士が突起によって繋がり合っている」と「それぞれの細胞は独立して、直接繋がり合ってはいない」という説が対立したが、電子顕微鏡によって細胞同士は繋がり合っていないことが明らかになった。ニューロンの細胞体からは「軸索」と「樹状突起」という突起が伸びていて、これを介して他のニューロンと情報のやりとりをしているのである。われわれがものに触れたり、何かを見たりするとその刺激は電気信号として感覚器官からニューロンに伝えられる。これは電流が電線の中を伝わることとはメカニズムが違う。ニューロンは通常、細胞の外側がプラス、内側がマイナスの状態になっている。細胞膜にはナトリウムイオンチャンネルがあり、これが開くと瞬間的にプラスの電気をもったナトリウムイオンが細胞の外側から内側へ流れ込む。するとその付近では、細胞の外側と内側でプラス・マイナスが逆転する。それを感知した隣のナトリウムイオンチャンネルが穴を開き、新たにナトリウムイオンを内側へ流入させる。このような反応が連鎖することによって電気信号が伝わっていくのである。ナトリウムイオンチャンネルが開いている時間は、1ミリ秒(1ミリ秒=1000分の1秒)程度で一瞬にして閉じる。この活動電位(電気信号)の伝わる速度は秒速、数メートル~最大100メートル近くに達する。一般的な電流とは違い、遠くなると抵抗によって弱くなるということはなく、ナトリウムイオンの流れを誘発させていくことから、途切れることなく同じ強さで伝えられるのである。


 軸索を伝わってきた電気信号は、次のニューロンの樹状突起へと伝えられなければならない。しかし両者は直接には繋がっておらず、そこには5万分の1ミリメートル程度のシナプス間隙がある。このつなぎ目全体をシナプスといい、このわずかな隙間を電気信号が伝わらなければならない。軸索の末端に電気信号が行き着くと、カルシウムイオンチャンネルが開きカルシウムイオンが軸索末端の中に流れ込む。これをきっかけに、軸索末端のシナプス小胞からグルタミン酸などの化学物質がシナプスの隙間に放出される。つまり電気信号が化学信号に切り換えられるのだ。一方、樹状突起側では「受容体」が化学物質を待ちかまえている。受容体に化学物質が結合すると、この穴が開いて細胞の外側からナトリウムイオンが流れ込む。ナトリウムイオンは電気を帯びているので、再び電気信号が生じるのである。こうしてニューロンの電気信号はシナプスの隙間を無事に飛び越えるのである。これにかかる時間は1ミリ秒程度である。


 樹状突起に伝えられた電気信号は、そのまま細胞体から軸索へ伝えられるのではない。各ニューロンにはシナプスが数千~数万個もある。脳全体ではシナプスの数は数百兆というとてつもない数になる。ニューロンにはそれぞれのシナプスから電気信号がひっきりなしに届けられている。細胞体ではこれらの電気信号が足し合わされ、その量が一定量をこえた時、はじめて軸索へ電気信号が送り出されるのである。これを「ニューロンの発火」という。一方、信号が一定量をこえない場合には無視される。つまり弱い信号が少し伝えられたくらいでは発火は起きず、結果的にニューロンの回路を流れる信号が途切れてしまう。ニューロンが「発火」して、電気信号が軸索へ送り出されると、その信号は軸索末端のシナプスで繋がっている全てのニューロンへ伝えられる。信号が入ってくると、ニューロンはそれに対して反応する。この反応には、ニューロンを興奮させるものと、抑制するものがあることがわかっている。ニューロンは、何も起きていないときには1秒間に1~5ほどの電気的信号を送り出しているが、一旦興奮すると発火の頻度は増加して1秒間に50~100程度の信号を送り始める。時には1秒間に500以上の信号が出されることもある。脳では膨大な数のニューロンが複雑に結びつき合ったネットワークの中を、無数の電気信号が絶え間なく飛び交っている。このネットワークによって複雑な情報処理が行われているのである。


 心脳問題の中心となる命題は「なぜ脳の神経活動からクオリア、意識が生ずるのか?」ということであるが、これは最大級の難問である。心脳問題の論点は非常に多岐にわたるが、本論の目的にとって重要と思われる論点を一つだけ取上げることとする。それが「結びつけ問題」である。視覚や聴覚、体性感覚といったさまざまなクオリアは、脳のそれぞれの部位において表象される。視覚野だけでもV1、V2、V3、V3A、V4、MTなど多くの部位があり、それぞれが、あるいはそれらの組み合わせによって輪郭や色、テクスチャーや動きなどのクオリアの表象を担っていると考えられている。脳の中ではたった一つの外の世界が、100以上の異なる独立な脳の領野の神経活動によって表現されているため、それらがどうやって統合され一つの知覚経験として成立するか、一つの意識として成立されるか、という大きな問題が生じるのである。


 エーデルマンはこの問題について「複数の領域が、再入力という再帰性の信号伝達で行う相互作用」と答えている(29)。このような相互作用が、各々の機能地図内のさまざまなニューロン群を、ある限られた時間幅で他の機能地図内のニューロン群と結びつけて、然るべき仕事をする回路を形成する。それらの一つの意識シーンが構成されるのにかかる時間は数百ミリ秒といわれている。茂木健一郎はこのことを「相互作用同時性」と呼んでいる。


 よく晴れた空の下、緑の野原でひらひらと舞っている白い蝶を見ているとしよう。この時、蝶の羽根の白や、野原の緑、空の青といった色の感覚的クオリアは、V 1から、色覚の中枢と言われている第四次視覚野(V 4)に向かって、シナプス結合を介して次々と神経細胞(ニューロン)の活動が伝えられてゆく、その一連の履歴の中から生み出されてくる。


 色のクオリアは、V 4の神経細胞の活動だけで生み出されるのではない。そのことが、V 1を失った人から一切の色の体験が消えてしまうという経験事実からも明らかである。また、原理的な立場からは、意識の中のクオリアは、神経細胞の活動の相互関係から生み出されると考えられる。V 4の神経細胞の活動だけでは、色のクオリアを生みだすのに十分な関係性が生まれない。V 1からV 4に至る情報伝達の全履歴によって、初めて意識のなかで色のクオリアが生み出される必要条件が整うのである。


 V 1からV 4までの情報伝達には、50ミリ秒程度の時間が必要であると言われている。一方、V 1から形の情報処理の中枢であるITまでの情報伝達には、ほぼ100ミリ秒程度の時間が必要であると言われている。以上の知見から、神経細胞から神経細胞への情報伝達がその中で生じる物理的時間と、私たちの意識のなかの心理的な時間の関係について、一見不思議な性質が成り立つことがわかる。


 すなわち、脳の中で、あるクオリアを生みだすためには神経細胞から神経細胞への情報の伝達が必要である。伝達する時には当然、有限の物理的時間が経過するが、心理的な時間の中では、その経過は無視されて、心理的瞬間の中につぶされてしまう。つまり、私たちは物理的時間を超えて、一瞬のうちにクオリアを感じるということである。このような心理的時間を生みだす原理を、神経細胞と神経細胞のシナプス結合を介した相互作用において、作用を与える側と受ける側の活動が「同時」とみなされるという意味から、「相互作用同時性の原理」と言う。


 例えば、V 1からV 4に情報が伝わり、色のクオリアが生じる必要条件が満たされるまでにかかる約50ミリ秒の時間は、相互作用同時性の原理により、心理的時間の中では「一瞬に」つぶされてしまう。だからこそ私たちは、色を50ミリ秒かけてじわじわと生まれるものとしてではなく、ある瞬間に心の中に生じる質感として感じるのである。私たちが形をクオリアとして把握するのに必要な約100ミリ秒の時間経過も、同様に、心理的時間の中では「一瞬に」つぶされてしまう。逆に言えば私たちの意識の中の心理的瞬間は、視覚について考えれば、50ミリ秒から100ミリ秒程度の物理的時間における有限の長さをもっているということになるのである(30)。


 このようにクオリア、意識は同時性や非局所性を持つことから、コンピューターのような情報処理とは原理的に異なる、とされている。しかし、これはいまだに議論が続く難問なのである。さらに脳は常にノイズの影響を受けているが、それによってクオリアの同一性が乱されることはない。コンピューターにとってノイズは致命的なものになる。これもクオリアの解明にとって大きな謎である。


 マルクス主義の解明にとって重要なことは、知識、情報も物理的、物質的な基盤を持っているということである。外部においては様々な資料、書籍、コンピューターのファイルデータなどにそれらの知識、情報は蓄えられている。そして、何よりも重要なことはこれら知識、情報を司る中心になるものは、人間の脳であるということである。そして脳も物理的、物質的存在である。それは物理法則に従って動く物理的なシステムであることに変わりはない―さらにその上に化学的、生物学的な法則が加わることになるだろう。当然、経済的意識もこのシステムの範囲内で働くものである。このシステムの限界を大きく超えていくことは決してできないのである。

 

 第2節 「均等割り振り」の脳科学的理解

 

 この脳科学的見解を今まで論じられてきた均等割り振りの技術的な問題に当てはめて考察してみよう。先に検討した資本家経営者1人、労働者2人の関係において、頭脳労働と身体労働を均等割り振りにして無階級化した場合、身体労働にはそれほど大きな問題は生じないが、頭脳労働の情報伝達、意思決定のコストが増大していくという問題が生じた。一見するとこれは何らかの技術的な工夫によってすぐにでも解決できるように思われるかもしれない。このような問題はまったく考えられもしなかったのである。このような技術的な工夫というのは、社会主義革命が起こり上部構造が変革されれば、資本家階級の妨害がなくなり、すぐにでも可能であるかのような感覚を持っていたのではないだろうか。ところが、現実はそのようなものではまったくないのである。もっとも明確に理解できる情報伝達に焦点を当てて考察してみたい。


 ひとつの脳の中で起こる情報伝達は、ニューロンの中を高速で伝播する活動電位などによってなされている。そこにはコンピューターなどとは違う「相互作用同時性の原理」が働いている。脳は凄まじい能力を持った情報伝達、情報処理の回路だと言うこともできるだろう。しかし、そのひとつの脳から別の脳に情報が伝達される時、それは運動野から末梢神経に電気信号が伝えられ、筋肉を動かし、身体の外の何らかの物理的な状況に変換される。それは音声や、筆記やタイピングによる文字データなどである。これら情報は身体の外に出てしまうと「相互作用同時性の原理」のまったく届かない世界に存在することになる。次に受け手がこの情報を感覚器官を通じて入力しなければならない。それは主に視覚や聴覚を通じてなされる―もちろん五感すべてを使う場合もある―様々な感覚受容体から入力された刺激は電気信号となり脳へと伝えられる。そして脳の中の様々な領野を伝播することにより初めて意識として成立することになる。そしてそれは記憶として蓄えられ、受け手がこの仕事を継続していくことになるわけだが、これはひとつの脳の中で起こるプロセスよりはるかに複雑であり、非常に効率が低下することがわかるだろう。この情報伝達の効率低下こそ致命的な大問題なのである。たとえば、ひとつの脳の中でなされるときには1秒で済む情報伝達、情報処理が2つの脳でなされるときに情報伝達に1時間かかったとすると、効率は3,600分の1に低下していることになる。これを是正するためには情報伝達の効率を3,600倍に高めなければならない。

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                           図2
 図2は今まで検討されてきた均等割り振りの頭脳労働の輪番を簡略的に示したものである。いちばん外側の点線をひとつの脳としてとらえてみれば、実際のひとつの脳との間には情報伝達、情報処理パフォーマンスに大きな隔たりがあることが一目瞭然であろう。そして最も重要なことは、これは社会学レベルの問題ではなく、生命の存在形式そのものに由来するものであるということである。さらに言えばこれは宇宙生成の物質的な状態から、原初的な生命が生じ、進化してきた全過程の問題だということである。均等割り振りを成立させ、土台を変革し、無階級化を目指すためには3つの脳の集合体がひとつの脳と同程度の情報伝達、情報処理パフォーマンスを持たなければならないのである。


 以上の例は、資本家経営者1人、労働者2人という極めて小規模のものである。これは複数の頭脳労働者、さらに大人数の身体労働者による均等割り振り、頭脳労働と身体労働の輪番による労働の遂行を考えてみれば、身体労働に大きな問題が生じなかったとしても、頭脳労働の引き継ぎ、情報伝達にかかるコストはさらに飛躍的に増大し、情報伝達だけでも全労働時間を超えてしまうかもしれない。そしてそれ以上の規模になるともうまったく話にならなくなる。これは規模が大きくなればなるほどそのコストが増大していくからである。これは完全に定式化することができる。すなわち、土台を変革するためには頭脳労働と身体労働を統合しなければならない、その統合の形式は均等割り振りによる輪番である、輪番の引き継ぎの情報伝達に大きなコストがかかりそれによって身体労働時間は圧迫され減少していく、身体労働時間が減少していけば生産力は減少していく、最終的には身体労働時間はゼロになり生産力は消滅する―これが「社会主義窮乏化理論」である。つまり結論としては無階級化を指向する社会主義、共産主義社会に生産力は存在しない、ということである。これはマルクス主義の社会主義、共産主義社会になれば資本主義社会よりも生産力は増大する、ということを真っ向から否定するものである。すなわち、あらゆる問題以前に社会主義、共産主義社会に生産力は存在しない、つまりこのような社会は存在することはない、と言うことである。


 以上のことは、主に情報伝達に関するコストを問題にしてきたが、現実にはさらに情報処理、合意形成、意思決定のコストも増大する。このコスト増大は先の無階級化実験をしてみればその範囲のおおよその数字を導き出すことができるだろう。つまり、階級なき社会を目指すための最大の焦点は土台内部の頭脳労働領域にある。そしてマルクスはこの領域をどのように扱ってきたのか・・・今まで論じられてきたとおりである。


 なぜ今まで、社会主義、共産主義社会は資本主義社会よりも生産力は上であると信じられてきたのか―私には実に不思議なことであったが、マルクスの体系は資本主義にとっての不利な側面のみを選択的に取り上げて、それを最大限に強調し、無階級社会を指向する場合の土台の変革を上部構造の変革の後に来るものとして先送りし、具体的な考察を不可能にしている巧妙で壮大な論理構造になっているのである。その一例を『ドイツ・イデオロギー』から引用してみよう。


 結局、われわれは、これまでのべてきた歴史把握から、さらに次の諸結論をえる。生産諸力の発展のなかで、現存の諸関係のもとでは害を及ぼすだけで、もはや何らの生産諸力でもなくて、むしろ破壊諸力(機械と貨幣)である生産諸力と交通手段がよびおこされる段階が現れる―そして、そのことと関連して、社会のあらゆる重荷を負わなければならないが、その利益を受けることのない一階級、社会からおしのけられて、他のすべての階級との決定的な対立を強いられる一階級がよびおこされる。この階級は、社会構成員全体の多数をなし、そして、この階級から、根本的革命の必要性についての意識、共産主義的意識が出てくるのである。もちろんその意識は、他の諸階級のあいだでも、この階級の立場をしっかりと見ることによって作られることができるのだが。一定の生産諸力がその中で用いられうる諸条件とは、社会の一定の階級の支配の諸条件であり、この階級の社会的な、彼らの所有から生じる力は、そのときどきの国家形態においてそれの実践的=観念論的な表現をもっていて、それゆえに、すべての革命的闘争は、それまで支配してきた階級にたいして向けられる。これまでのすべての革命においては、活動のやり方にいつも手をつけないままでいて、この活動の別の配分、他の人々への労働のあらたな割り当てだけが問題であった。これに反して、共産主義革命は、活動のこれまでのやり方に対して向けられ、労働を取り除き、そしてあらゆる階級の支配を階級そのものとともに廃止する。というのも、この革命は、社会の中ではもはや階級とみなされず、階級として認められず、すでに今日の社会の内部におけるあらゆる階級、国民性などの解消の表現である階級によってなしとげられるからである。そして、この共産主義的意識を大規模に生み出すためにも、ことそのものをやりとげるためにも、人間たちの大規模な変化が必要であるが、この変化は、実践的運動、革命のなかでだけ起こりうる。したがって、革命が必要なのは、支配階級が他のどんなやり方でも打倒されえないからだけではなくて、打倒する階級が、革命のなかでだけ、すべての古い汚れをとりさり、そして社会をあらたに築く能力をもつようになるところにまで、達しうるからでもある(31)。太字強調 筆者


 確かに、マルクスの時代のプロレタリアートの窮状は十分に考慮されなければならないだろう。しかし、だからといって、そのプロレタリアートが革命によって政治権力を握れば、人間そのものの大規模な変革が成し遂げられ、すべての古い汚れをとりさり、新たな社会を築く能力を持てるようになるのだろうか。この新たな社会を築く能力とはどのような能力であるのか―それが今まで考察されてきた均等割り振りを成立させるための情報伝達能力、情報処理能力、意思決定能力、そのような頭脳労働能力であることを論証してきた。それは脳科学などの科学的見地により、まったく不可能であることを証明してきた。つまり、資本主義に問題が多くあったとしても決定的に生産力が存在しないのは、社会主義、共産主義社会の方なのである。以上の引用文で示された内容は根底から誤っている。しかし、ここで考察を終えることなく次に、頭脳労働能力に焦点を当てて、これを変数として扱い、階級性と生産力の関係を考察していきたい。


 補論


 均等割り振りの具体的検討は、今まで比較的小規模でなされてきたが、現実にはそれよりも大きな規模で考察されなければならないことは言うまでもない。特に頭脳労働はその規模が大きくなるにつれ、多層化していく傾向にある。また、事務の仕事も複雑化していくだろう。それを図式化してみよう。


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                        図3
 図3は、資本家経営者1人、中間管理職3人、事務職員2人、身体労働のリーダー格2人、身体労働者40人という構成の会社、工場を図式化したものである。頭脳労働者は6人、身体労働者42人ということになる。頭脳労働者は身体労働を、身体労働者は頭脳労働を習熟したとする。実際にはこれだけでも非現実的なコストがかかるだろう。しかし、これが十分になされたものと仮定しても、大問題が待ち構えている。均等割り振りによって、頭脳労働者は身体労働を割り振られた分従事する。身体労働者は頭脳労働に同じく従事することになる。おそらく身体労働にはそれほど大きな問題は生じない。それは同じ労働の繰り返しになり、労働時間が同じならば同じ結果を出せるはずである。その労働に変化があったとしても、その対処の仕方は均等割り振りが適用された状態と適用されない状態とで違いはないだろう。頭脳労働を均等割り振りにより遂行したとすると、いったいどのような状態になるだろうか。例えば事務職員2人の仕事を48人で均等に割り振り、輪番によって行うとすると引き継ぎを48回行わなければならない。引き継ぎに20分かかったとすると、2人分で40分かかることになる。それを48回行うと32時間かかることになる。事務職員の1日の労働時間が8時間ならば、その2倍の時間が引き継ぎに消費されることになる。この引き継ぎには一切生産力は無い―そしてこのような輪番を行えば単純な伝達ミス、計算ミスなどが発生してくる危険性は著しく増大するだろう。それは経営にとっての致命的なミスになりかねないのである。さらに経営に関する合意形成、意思決定の合議にも途方もない時間が消費されてしまうだろう。経営者1人なら1時間で済むところを、全員の合意を得るとすれば何日もかかってしまうかもしれない。頭脳労働全体に対するコストは信じられないくらい増大してしまうのである。


 このような均等割り振りを千人、1万人というような規模に拡大していったときどうなるかは明白であろう。輪番の引き継ぎを千回、1万回としなければならず、その頭脳労働量の大きさから1回の引き継ぎに何日もかかってしまうかもしれない。もちろん、情報処理、合意形成、意思決定の頭脳労働量も同じく増大する。この頭脳労働量の天文学的な増大によって、身体労働時間は圧迫され生産力は破壊されてしまうのである。社会全体でこのようなことを行えば、それは核兵器を落とされたくらいの大惨事になるだろう。このような均等割り振りを行えば、マルクスの指摘している資本制生産の負の側面は大きく改善することは間違いないが、そのプラスの側面よりも頭脳労働量の爆発的増大による身体労働時間の圧迫、それによる生産力破壊のマイナスの側面の方が桁外れに大きいのである。つまり、これが猛毒のテトロドトキシンなのである。

 

 第3節 能力変数

 

 マルクス主義において、階級、分業と生産力の関係が問題にされてきた。いわゆる生産関係と生産力の矛盾である。資本制生産において資本家対労働者、分業の生産関係は高い生産力を実現したが、次第にその生産関係との間の齟齬が生じてくる。そしてその矛盾が頂点に達した時、社会主義革命が起こりいままでの生産関係は破壊され、新しい生産関係が確立される。しかし、その新しい生産関係はプロレタリアートによる生産手段の共有、平等な分配を可能にする共産主義社会だと言う必然性、あるいは保証は存在するのだろうか―これらは今まで議論されてきた内容であるが、ここではまったく新しい要素を導入してみることにしよう。それが「能力変数」である。今まで生産関係と生産力という2つの変数の間の相関関係が問題にされてきた。本論ではこの2つの変数に加えて「能力」が決定的に重要であるという結論的考察がなされたのである。能力といっても様々なものがあるが、ここでは頭脳労働能力―情報伝達能力、情報処理能力、合意形成能力、意思決定能力などが対象になる。


 身体能力を対象にする―という考え方も存在するだろう。極端な話、プロレタリアートが映画「スーパーマン」のスーパーマンのような身体能力を持つことができれば、ほとんど問題はなくなってしまうだろう。しかし、ここでは今までの議論の展開から、頭脳労働能力に焦点を絞って考察を進めていくことにしたい。今まで能力を変数として扱うという発想自体が存在しないものであった。これはある意味当然のことであり、人間の能力は様々な個人差はあるが、一般的にはほとんど同じ水準の中に収まるものである。これを生物学的能力のレベルで変数として扱うことは、歴史の範疇から逸脱していくことは明らかである。つまり、マルクス主義は唯物史観という歴史の問題を扱っている―これを前提にすれば能力を変数として扱うことは不自然である。マルクスの言う「能力」はそのようなものではなく、革命の結果獲得される「社会的能力」として考えられているはずである。その能力を持てるようになると確信を持って述べられているが、具体的にどのようなものであるかは不明なのである。


 ここで言う「能力変数」は、そのような社会的能力を含むものであるが、そこから連続した延長として生物学的限界をまったく考慮しないものとして設定される。これは最も重要なことなので繰り返すが、この能力変数は生物学的な現実性をまったく考慮しない。逆に言うと生物学的な現実性を考慮すると能力変数を導入する意味がなくなってしまうのである。実例を挙げてみよう。情報伝達能力のうち会話能力の伝達効率を考察してみる。一般的な聞き取り可能な会話の速度というものはせいぜい数倍程度の幅しかない。テレビのバラエティー番組などで、全員がよく知っている曲を早く流して、曲名を当てるクイズがある。5倍速になるとほとんど誰も曲名を当てることは出来ない。4倍速程度で1人か2人、3倍速で何人かが当てられる、という具合である。2倍速でもわからない人がいて冷やかされたりする。この聞き取り可能な速度を10倍、100倍、1万倍、10万倍などという能力を考察することはまったく意味の無いように思われるだろう。


 しかし、無階級社会を目指すためには土台内部の頭脳労働と身体労働は必ず統合されなければならず、頭脳労働の均等割り振りから生じる引継ぎ問題―情報伝達のコスト増大は絶対に避けることのできない問題なのである。頭脳労働のコスト増大による身体労働への圧迫を回避するためには、情報伝達効率の途方もない高さが要求されてしまうのである。会話能力を例にすれば、発話と聞き取り可能な速度をそのような数百倍、数万倍といったレベルに高めなければならないのである。それ以外の文字データのタイピング速度や速読の速さ、など様々なものが考えられるが、同じような高い情報伝達効率が要請されてしまうのである。これは現代のテクノロジー、また未来に開発されるであろうテクノロジーの援用を受けたとしても、様々な社会システムがどのように進歩しようとも、この事態にまったく変化はないと言えるのである。根本は脳が外界から「閉ざされた系」であるということであり、末梢神経、筋肉、感覚受容体の複雑なプロセスを経てしか情報の入出力ができない、という生物学の問題なのである。また、それに伴い情報量は膨大なものとなり、それを処理するだけの情報処理能力も要請されるだろう。これも現在の生物学的能力をはるかに超えた能力を想定せざるをえない。また合意形成、意思決定の効率の高さもまったく違ったレベルが要請されるだろう。


 このように能力変数は、生物学的現実性をまったく考慮しないものとなる、そのことを前提とした上で、生産関係、生産力とのあいだの三角関係とも言うべき相関関係を考察していくことにしよう。生産関係は、階級性、階層性、分業化がどのくらい多層化しているか、分化しているか、また階級関係の強度なども考慮しなければならない。資本制生産であるかどうかということも重要なことのように思われるが、資本制生産と階級性はイコールであるわけではない。資本制生産以前の経済体制にも階級は存在していたのである。資本主義の問題はここではひとまず脇に置いておくことにしたい。


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                         図4
 図4は能力変数―生産関係―生産力の相関関係を示したものである。もちろん、現実にはこれ以外の多くの変数、要素も考えなければならないが、ここではこの3つの要素の相関関係に焦点を当てて考察を進めていくことにしたい。能力変数、生産力に関しては低い状態から高い状態に連続的に推移していくと考えて差し支えない。しかし、生産関係の階級性、分業化はその効率を達成するための適度な数が考えられるだろう。つまり、ある能力、生産力に対して適切な階級の数、分業の数があると考えられる。例えば経営者と雇用労働者は低い生産力ならば階級はこの2つで十分であるが、生産力が高くなると中間管理職が必要になってくる、つまり階級が細分化、多層化してくるのである。分業も一般的には生産力が高くなればなるほど、細分化してくるといえる。つまり、生産関係の階級性、分業化はある範囲の適切な数があり、それよりも多くなっても、少なくなっても効率が低下すると考えられる。


 まず、一般的な能力変数を現実的に捉えてほぼ固定したものとみなすと、生産力が高くなると生産関係も多層化、細分化してくるという相関関係が考えられる。これは高い生産力には複雑で膨大な知識、情報が必要になり、それを全体的に統制する階層構造が形成されるからである。また、1つの生産物に関わる仕事の形態、量も多くなるので分業化も必然なものとなる。これらはすべて経済機能的な要請から来ているのであり、資本主義である場合はこの経済機能的な形態の上に資本制生産と資本主義イデオロギーが重ねられると考えられるだろう。しかし、資本主義の要素を全て抜き去っても、この経済機能的な要請はそのまま残るのである。ところが、マルクス主義では資本主義の要素を抜き去れば、この経済機能的な要請も無視できるかのような幻想を与えているのではないだろうか。マルクスの時代から現代に至るまで、生産力の増大とともに生産関係は多層化、細分化の一途をたどってきたのである。生産力を維持したまま、あるいは高くなりつつ、生産関係の階級性、分業化が単純になってきたなどという事例が存在するだろうか。機械化により仕事が単純化されるという例はあるだろうが、全体として見れば階級がなくなる、分業がなくなるといったような方向ではまったくないことは明らかである。これはすなわち土台の変革であるが、このことが革命と何か関係があるだろうか―この問題はのちに詳論されることになるだろう。


 能力変数を固定したものとして考えた場合、生産関係を単純化する―すなわち階級を少なくしていき最終的にはひとつの階級だけになる、これで無階級社会が達成される。分業は廃棄され、代わる代わる自由に仕事を選べるようになるような状態になれば、必然的に生産力は大幅に減少していく、また行かざるをえないのである。無階級社会ともなれば生産力は極めて小さいものになるのではないだろうか。資本主義の高度な生産力を持つ社会に、いきなりその状態を適用すれば生産力は瞬時に壊滅してしまうだろう。


 すなわち、生産関係を維持したまま生産力を増大させる、生産力を維持したまま生産関係を単純化し無階級化の方向に向かう、いずれの場合にも能力変数を変更しなければならないということである。それでも、前者の場合にはテクノロジーの進歩、さまざまな技術的な工夫によって生産関係を維持したままでも生産力をかなり増大させることができるかもしれない。しかし、生産力を維持したまま生産関係を単純化する方向は、能力変数の大幅な向上が絶対なものになるだろう。情報伝達能力、処理能力のそれまでの何十倍、何百倍、何千倍という向上が要請されてしまうのであり、それは瞬時に生物学的能力の限界を超えてしまうのである。そしてマルクス主義は、生産関係を単純化し無階級社会になることによって、生産力はそれまでより増大する―しかもこれは歴史の必然である、とみなしているのである。こうしてマルクス主義の隠された因果性が明らかになっていく、すなわち、資本制生産、資本主義を破壊することによってこのような生物学的限界を超えた能力を獲得することができる、というものである。この資本主義破壊能力の獲得、という因果関係は次章でさらに詳しく検討していくことにしたい。


 この能力変数、生産関係、生産力の相関関係はその適用範囲によって変わってくるものであるし、もちろん厳密に関係しているのではなく大まかな相関関係でしかないが、能力変数の考察は今までまったくなされていなかったものであり、これを考慮することによって決定的に異なる見方ができるようになるのである。


(28)クオリア―「感覚質」 「質感」などと呼ばれている。 「薔薇の赤い色」 「そよぐ風の感覚」 「頭痛のズキズキ痛む感じ」といった主観的に体験する様々な質のことである。赤い色を見ているとすると、それは波長の長さが700ナノメートルの光を目がとらえて、その電気信号が脳に送られている。その電気信号や脳の状態は赤い色そのものではない。クオリアとはその「赤さ」それ自体のことである。


(29)ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか』冬樹純子 豊嶋良一 小山毅訳 草思社、2006年


(30)茂木健一郎『脳内現象』日本放送出版協会、2004年、115,116頁


(31)マルクス、エンゲルス『新訳 ドイツ・イデオロギー』服部文男訳、新日本出版社、1996年、49,50頁


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<論文> マルクス主義の解剖学 8 


 『マルクス主義の解剖学』

 

 第4章 「均等割り振り」と技術論

 第1節 「均等割り振り」

 

 まず、 「均等割り振り」の基本的な考え方を説明してみたい。相互依存関係にある身体労働と頭脳労働を統合するためには、労働者自身がこの両方を同時に担わなくてはならない。つまり、それまでの身体労働者は頭脳労働を兼任し、頭脳労働者は身体労働を兼任し両者を平等な状態に置くことである。それまでの中間管理職、テクノクラート、そして資本家も身体労働をしなければならない。これを最も簡単な構成を例にとって考察していくことにしよう。


 ある生産物を生産する工場があったとする。その工場の所有者である資本家は、同時に経営者であり、また事務なども兼任する頭脳労働者であるとする。この人物をAとし、このAが身体労働に従事する雇用労働者を2人雇った。その2人をBとCとする。この雇用者と被雇用者の間には階級関係が存在する。これを無階級化するためには、イデオロギーを変えるだけでなく実質的に経済形態も変えなければならない。経済機能的な要請から生じているこの頭脳労働と身体労働の分業を解消することが必要であり、それはこの両者を統合することである。絶対に単に頭脳労働を消去することはできない―これは確認しておくべき最重要事項である。資本家、経営者であるAの労働時間は1日6時間であるとする。それに対して身体労働者の労働時間は1日9時間であるとする。この分業を解消するためのもっとも合理的な考え方はこのようなものであるだろう。それは頭脳労働時間と身体労働時間を3人で平等に分配することである。ABCともに1日の頭脳労働時間2時間、身体労働時間6時間とすれば、 3人の関係は平等なものになり階級格差は消滅する。当然、工場の所有権も3人で平等に持てるものとする。


 この状態を実現するためには、頭脳労働者は身体労働者の仕事を習熟する、身体労働者は頭脳労働者の仕事―その知識やスキルを学習し習熟しなければならない。これにかなりのコストがかかると思われるが、これは十分になされたものと仮定しよう。この2つの状態、頭脳労働と身体労働の分業状態―階級がある状態と均等割り振りによって頭脳労働と身体労働は平等に分配され、階級のない状態とは同じだとみなされるだろうか?それとも異なる状態だとみなされるだろうか?これは均等割り振りにおける技術的な問題の最大の焦点である。もちろん、これはその経済形態が異なるのだからその意味では違う状態である。この質問の意味はこのようなものである。この生産物を生産する過程、それは一定の原材料や燃料の供給を受け、それを同じ設備の状態において同じ質、同じ量の生産物を生産できる状態である。もしこれが同じであるならば、この2つの状態は同じだとみなしてよいのである。そうであるならば、階級格差がある状態よりない状態の方が良いことは言うまでもない。もしこれが大きく異なるものであるならば、どこに原因があるかが明確にされなければならない。その原因こそ突き止めるべき最重要問題になるだろう。


 これを理論的に考える前に、1つの思考実験を考えてみたい。これは1つの工場内において社会主義革命が起き、資本家を追放し労働者のみによる社会主義的運営がなされたという仮定の考察である。この物語の後に再度、理論的に考えることにしよう。


 第2節 「均等割り振り」における思考実験


 これはどのような題材を取上げても構わないのであるが、第1章で取上げた『資本論』の中に出てくる紡績工場の例を当てはめてみよう。(第1章 第8節 剰余価値率の根本問題)に出てきた資本家と紡績工が登場人物となる。話を単純化するために1人の資本家と10人の紡績工によって運営される紡績工場であるとする。その紡績工場の土地、工場の建物や設備などは資本家の私有財産である。これらの不変資本に対して雇用契約によって雇用された可変資本である10人の紡績工がいる。労働時間は1日に12時間であり、これを12単位の価値(貨幣価値)を生み出すものとする。(つまり、1日の労働時間から生み出される商品価値から原材料費、燃料費、設備維持費など不変資本を差し引いた分)資本家自身は経営に関する業務を1日に6時間するものとする。労働価値説の全的適用においてはこの資本家の1日の労働価値は6単位である。しかし、当然紡績工の12単位はすべて紡績工に支払われる賃金にはならない。ここで紡績工に支払われる賃金は6単位であるとする。つまり、残りの6単位は剰余価値であり、すべて雇用主である資本家の懐に入るのである。これによって資本家が1日に取得する剰余価値は6×10で60単位となる。これは資本家自身の労働価値説に沿った6単位を引いても剰余価値は54単位ということになる。これは紡績工の9倍の所得になる。つまり、これが紡績工が長時間働いた重労働に対して、その半分の時間を身体的にそれほど厳しくない頭脳労働において働いた利益なのである。そしてこれが長期間続くことにより、資本家の現在の資本はこの10人の紡績工から巻き上げた剰余価値とほぼ等しい状況になっている。


 この紡績工の中の1人が、マルクスの思想に触れる機会をえた。そして苦労して『資本論』やその他の著作を読み社会主義革命、社会主義社会の知見を得ることができたのである。その紡績工を紡績工Aとする。紡績工Aはすっかりその思想に魅了され、それを現実のものにならないかと、その他の紡績工にもその理論、思想を情熱をもって語った。すると全員が強くこの理論、思想に共鳴し、この工場だけでもこのような理想的な搾取のない平等な状態を作り出そうと決心した。そして、この紡績工たちはこの工場の内部だけで社会主義革命を起こしたのである。現実にはこれは絶対に成功しない。社会全体は資本主義の上部構造を持っていて、政府や警察機構はこの状況を必ずや粉砕するだろう。だからこそマルクスは、革命はこの上部構造全体をも覆さなければならない、としたのである。しかし、この思考実験においてこの工場外部の上部構造や経済構造は、工場内社会主義革命を妨害しないものとする。それどころか、この革命を工場内にとどめるならば、その状態を支えるための外部条件を最適化するための援助をしよう、ということになった。この外部条件の最適化がどのようなものであるかは物語の進展に沿って具体的に説明する。


 こうして、この紡績工場に工場内社会主義革命が勃発し、社会主義的生産様式への移行が起こったのである。土地や工場の施設を所有していた資本家は、これら紡績工によってその立場を追われた。個人的に残ったわずかな財産を持ったままその資本家は追放され、土地、工場設備は紡績工たちの共同所有となった。 (前節での仮定、資本家1人、労働者2人での均等割り振りは資本家自身も参加するが、ここでのこの違いは生産力のわずかな違いだけであり、無視することにする)紡績工Aを中心として、マルクスの思想に沿った階級のない、搾取するものとされるものとの区別のない、平等で頭脳労働と身体労働の分離のない生産様式、生産体制を建設する努力が開始されたのである。


 工場の運営全体を紡績工全員の協議によって決定する、ということは当然の前提となった。その協議のためのガイドラインも作成された。基本的には運営の重要な項目は全員の意見一致が望ましいが、どうしても合意に至らなければ多数決で決定されることとした。1日の労働時間に関しては、今までの12時間から8時間へと変更された。長時間労働で負担が大きく、自由時間も少ない状況は一気に改善されることになった。紡績工Aはマルクスの剰余価値理論に沿ってこのような計算をして、労働者の収入は以前に比べてむしろ増大する、と考えていた。すなわち、今まで12時間の労働単位、12単位はそのうちの半分の6単位が資本家によって搾取されていたものである。労働者の収入はそのため6単位となっていた。その資本家がいなくなり、搾取されることがなくなったのだから、労働者の収入は働いた全時間が対象となる。すなわち、8時間、8単位となるはずである。労働時間は3分の2になり、収入は1と3分の1になるのである。


 ところが、問題はそう簡単にはいかないことがすぐにわかった。追放した資本家がしていた運営のための業務は必ずしなくてはならないものである。事務処理や原材料の調達のための手配や商品の流通業者への手続き、その他設備維持のためのさまざまな業務がある。紡績工Aは資本家が運営のために1日6時間程度、それらの仕事をしていたことを知っていた。誰かがその仕事を受け継げばいい、と考えられたがマルクス思想を深く理解していた紡績工Aはその頭脳労働を誰か1人が担当すれば、その1人とその他の紡績工との間に頭脳労働と身体労働の分化が生ずるのは必然である、ということを理解していた。これは絶対に避けなければならないことである。全員が運営に関わっているのだから、これら頭脳労働の内容も全員がすべて把握し、それらの決定に関与しなければならない。しかし、このことに関連する具体的な指示や何らかの青写真もマルクスの文献の中にはほとんど存在していなかったのである。紡績工Aはこの事態に困惑しながらも、自分の考えで推し進めるしかなかった。紡績工Aは次にこのような計算をした。資本家がしていた頭脳労働の業務時間、6時間を紡績工10人で分担して遂行すればよいのではないだろうか。つまり、1人1日0.6時間、頭脳労働の業務を担当するのである。そうすると本来の紡績工の仕事は1日7.4時間となるが、この程度は仕方がないだろう。紡績工全員はこの考えに納得し、これに沿って運営することになった。


 以上の工場の運営形態、生産体制は「均等割り振り」をこの小規模な工場内という限定された領域ではあるが、履行した状態だということができる。資本家と賃金労働者という階級の区別は消滅して、労働者は労働から疎外される、という状態はほとんど改善されたといってよい。自らの労働を自らの手に取り戻すことができたのである。剰余価値を搾取される、ということはもう過去のものとなった。過重な長時間労働から解放され、8時間という適度な労働時間によって、残りの自由時間を家族との団欒や娯楽などに使うことができるようになった。そして、マルクス思想、理論から見たさまざまな重要な概念が実際に現実のものとなったのである。身体労働と頭脳労働の区別の消滅、この人間を不具にする労働の分離は統合され、全員が平等な調和のとれた身体労働と頭脳労働を兼任する状態である。これはこの局所的な状況の中ではあるが、政治的解放から人間的解放への道筋が示されるのではないか、ということも期待できる。―以上が紡績工Aが思い描いた輝かしい未来への青写真なのであった。


 この状態に対する問題点は大きく二つの領域に分かれる。一つは工場外の経済状態、その条件の問題である。そしてもう一つは工場内部の運営の問題である。この思考実験における前提として、その外部はこの工場内社会主義革命を妨害しないということがあった。それに加えて外部条件を最適化する、ということがある。つまり、その政府や警察がこの工場内社会主義革命を妨害しなかったとしても、資本主義市場経済は原材料の供給や価格競争などのさまざまな問題点がある。これもまた非現実的な想定であるが、この思考実験を成立させるために必要なことである。それはこの工場に関わる、原材料費、設備維持費、燃料費そして商品価格などをそのときの社会状況の平均的な水準において、ある変化の限度内に固定されるものとする。この革命工場においても、経済全体が資本主義の競争にさらされる中においては、その本来の社会主義的生産様式を維持することは難しいだろう。これが外部条件の最適化である。この革命工場が平均的な効率において、その平均的な質の製品を生産するかぎり、その運営は維持できるものとするわけである。このことによって焦点を工場内部の運営に当てることができる。この外部条件の最適化は、問題が起こった時、それがどこか外部にある、ということをあらかじめ消去することにある。


 社会主義的生産様式によってこの紡績工場の運営が始まった。この結果をどのように予想するだろうか?その状況は紡績工Aが夢想だにしないものとなったのである。8時間労働を設定するのはまったく問題ないことではあった。ところが、考えもしなかった問題が生じてきた。それは0.6時間ずつ分担した頭脳労働の遂行の仕方である。これは10人が労働時間8時間のうち変わる替わる0.6時間ずつ引き継いでいくわけであるが、その引き継ぎに実際の頭脳労働時間の半分くらいの時間がかかることがわかってきたのである。そうしないと必要で正しい内容を次の人に引き継ぐことができないのである。引き継ぎには2人分の時間が消費されるので、頭脳労働にかかる時間は0.6時間の2倍、1.2時間程度かかってしまうのである。これは大きな誤算であった。そうなると生産力に関わる身体労働時間は、8時間引く1.2時間の6.8時間しか持てないことになってしまう。ところが、さらに進めていくともっと重大なことが起こってきた。原材料をどこからどれくらい調達するか、商品の流通にどの業者を選ぶか、というような重要な決定事項に関して、その情報のすべてを紡績工全員が共有するために、今までしてきた頭脳労働時間だけではまったく足りないことが明らかになったのである。それはまた別にその情報を全員が共有するために、全員が一つになって会議をしなければならない。そのために1日平均、1時間程度消費されることになった。そこからさらに、さまざまな運営の決定を協議するための時間が消費される。そこで意見が食い違うと、議論が延々と続くことも起きてきたのである。それぞれが運営に関わるという意識が強いので、なかなか妥協できないのである。そのために1日平均さらに1時間、そのための議論に消費されることになった。そのことによって、生産力に関わる身体労働時間は1日平均さらに2時間少なくなり、1日の生産力に関わる労働時間は4.8時間ということになったのである。


 実に工場全体の生産力は、以前に資本家が運営していた時と比べて、3分の1近くに減少していた。剰余価値の搾取が無くなったにもかかわらず、紡績工1人の1日の収入は4.8単位となり、以前の6単位に比べて減少したのである。労働時間は12時間から8時間へと減少し、確かに楽になったのであるが収入の減少は紡績工達にとってまったくの予想外であり、その不満が紡績工Aに向けられるようになっていった。「これはどういうことなのだろう。剰余価値がなくなればその分がわれわれのもとに入り、収入は確実に増えるはずだった。これだけ少なくなれば以前と比べてそれほど良くなったとはいえない。しかも、われわれは不慣れな事務や経営の手続きなどをしなければならない。これは紡績工の身体労働に比べて、体は楽であるが神経が疲れる。まったく、最初に宣伝していた社会主義的運営の夢のような状態とはかけ離れている」紡績工Aはこのような不満に対して返す言葉がなかった。そのうちに、もっと重大な事態が生じてきた。紡績機械の一部が予想外の故障を起こしたのである。修理することが不可能であり、そっくり交換しなければならないことになった。そのために大きな出費が必要になってきた。そのための資金は工場には残っていないのである。紡績工Aはそのとき初めて、剰余価値の蓄積がこのような時のために必要であり、以前の資本家はその中からその資金を調達していたということに気づいたのである。このままでは運営がままならなくなるので、やむを得ずそのための資金を稼ぐための、労働時間の延長が決められた。労働時間は8時間から10時間となり、しかも収入は4単位へ落とされた。しかし、そのことによって紡績工の一部に大きな不満と反発が生じ、工場の運営は険悪な雰囲気となり、内部抗争の危険が生じてきたのである。


 不満をもったグループの中心となった紡績工Bは紡績工Aに向かってこのように主張した「1日に10時間労働をし、収入が4単位というのは、まったく納得できるものではない。マルクスの理論というのは、どうも都合の良いことばかりを並べた空論ではないだろうか。冷静になって考えてみると、われわれ全員が頭脳労働に関わるというのは非常に非効率なことだ。以前、資本家は1人で6時間の頭脳労働をして、この工場の経営はそれですべてまかなわれた。ところが、われわれ全員の頭脳労働時間を足すと1人3.2時間かける10で32時間も使っていることになる。同じ工場の経営にかかる頭脳労働時間が26時間も増えたのだ。これでは商品の生産力が落ちるのは当たり前だ。これを是正するためには、身体労働と頭脳労働を分けて、頭脳労働に専念する者を作った方がよい」。それを聞いた紡績工Aは大きなジレンマに陥った「うーん、しかしそれでは頭脳労働と身体労働の分業が生じてしまい、以前のブルジョワ生産体制に逆戻りしてしまうのではないだろうか。社会主義的生産体制を維持するためには、全員が等しく身体労働と頭脳労働を兼任しなければならない。でも、これだけ非効率になると生産力が落ちるのも当然だ。・・・・マルクスは社会主義的生産体制になれば、資本主義的生産体制に比べて生産力は高まるといっていたはずだが・・・・一体全体どうしてこうなってしまったのだろうか。ここで分業を取り入れては何のために今まで努力してきたのか分らなくなってしまう。ここは何としてもこの体制で乗り切りたいが・・・・」紡績工Aと紡績工Bとの論争は激しくなり、険悪なものとなっていった。


 この物語は、ここで一応終わることにしたい。これは「均等割り振り」を適用した場合の一つの架空の物語である。この物語の内容に対しては異論、反論は当然あることと思うが、もっとも重要な問題に関しては大局的には(当然、具体的な労働時間などは捨象される)完全に正しいと確信している。それは、「均等割り振り」をこのように徹底させると、以前の状況に比べて頭脳労働時間が大幅に増大するということである。この思考実験の状況は、このような社会主義的生産体制にとってもっとも有利な状況を想定しているのである。外部条件を最適化し、資本主義体制、イデオロギーからの妨害や攻撃のない状況であり、工場内部で起こったこのような問題の原因を工場外部に求めることはできない。さらにこれが最大のポイントであるが、それはこの工場の規模が10人という小さなものである、ということである。この規模が、20人、50人、100人、500人、1000人というように大きくなっていった場合どのようなことになるのか―本来の頭脳労働量は大きなものなので、 「均等割り振り」にした場合の引き継ぎ時間、意思決定に関わる合議の時間はさらに飛躍的に増大していくだろう。すなわちこれが一般的によく言われている「労働者自主管理」 「労働者統制」の根本問題なのである。


 第3節 技術論の根本問題


 さて、第1節での資本家経営者1人と労働者2人の均等割り振りの考察に戻ろう。頭脳労働と身体労働が分化されている状態、すなわち階級格差がある状態と頭脳労働と身体労働が均等割り振りになり階級格差がない状態とは同じなのだろうか、それとも異なるのだろうか―この質問に対する答えは「まったく異なる」ということである。それではどこがどのように異なるのであろうか。身体労働に関しては、資本家がその身体労働に習熟すれば、今まで2人の労働者がしていたものを資本家を含めて3人で分担してすることになる。その労働や設備のあり方によってさまざまな形態があるだろうが、例えば輪番によって2人は身体労働をし、残りの1人は頭脳労働をしていくとすれば、身体労働にそれほど問題は起こらないといえるだろう。つまり、身体労働はそれ自体で完結したものであり、2人が3人になったとしても労働時間が同じならほとんど同じ結果を出せるはずである。問題は頭脳労働にある。労働者2人が頭脳労働に習熟したとしても、3人の間で輪番をして行うとき、その都度仕事の内容を次の人に引き継がなくてはならない。頭脳労働は身体労働と違い、時々刻々と変化する情報を扱っている。そしてその情報は厳密な正確さを必要とするのである。この「引き継ぎ問題」こそ超弩級の大難問なのである。この引き継ぎに問題がある―このように聞いて「なんだ、そんなことか」と感じる人もいるのではないだろうか。そんなことはどーにでもなるだろう・・・このように受け取られがちな問題なのである。このことを詳しく検討していこう。


 まず、この引き継ぎの頭脳労働に生産力はまったくない、ということである。そして常にこの引き継ぎには2人以上の労働者が関わることになる。例えばこの引き継ぎに15分かかったとしよう。そうなると実際はその2倍、30分かかることになる。頭脳労働時間はABCともに2時間であったわけだが、引き継ぎにかかる時間を加えると2時間30分かかることになる。そうなると全体の労働時間を8時間と固定する場合は、身体労働時間はその分減り5時間30分になる。さらに全体の運営を決定する合議などをする場合、その分の頭脳労働時間はさらにかかり、その分身体労働時間が減り実際の生産物を生産する生産力は減少していくことになる。つまり、資本家経営者がひとりで頭脳労働をする場合と、労働者を含めて3人でする場合とではまったく異なるのである。 「均等割り振り」で生ずる最大の問題は頭脳労働にあることがわかるだろう。


 これは資本家1人と労働者2人という極めて少人数の関係を考察したものである。現実の企業、会社、工場というものは当然それよりもはるかに大人数であり、複雑である。資本家、経営者、複数の中間管理職、事務職、大人数の身体労働者によって成り立っている工場を、すべて均等割り振りにして全員が身体労働者になり、頭脳労働を輪番によって行い、重要な決定などは全員の合議によって行う―このようなことをしたとすればどのようなことになるだろうか。その問題は身体労働ではなく、頭脳労働に現れることは確実である。重要で複雑な膨大な情報を全員で共有することはそれだけでも途方もないコストがかかる。それを全員の合議によって行い、重要な決定を下すということは頭脳労働時間だけでたちまちすべての労働時間を消費してしまうだろう。これは何を意味するかというと、身体労働時間はゼロになる―すなわち生産力は消滅してしまうのである。これは途方もなく愚かで、馬鹿げたことである。身体労働時間がゼロならば、頭脳労働の意味もまったくなくなってしまう。


 この土台の変革は、現在のこの社会において局部的な実験で検証することができるのである。われわれは社会主義の実験というと、現存した社会主義体制のように社会全体を対象としなければ不可能であるという先入観がある。それは資本主義社会は資本主義の上部構造を持っていて、経済を変革するためにはその上部構造を覆さなければならない―それが社会主義革命であるが―と思い込まされてきたのである。しかし、土台の変革に関しては、このような科学の実験と同じ局部的な実験をして検証することが十分に可能なのである。科学的社会主義と言うならば、このような考え方に賛同してくれるはずである。


 以下、その実験のおおよその概略を示していきたい。対象となるのは何らかの使用価値をもった商品、それは物質としてのものであり情報ではない方がよい。そのような商品を生産する工場を実験の対象にする。身体労働対頭脳労働の比率は6対4から8対2程度がよいだろう。そしてできれば、同じ商品を生産する工場で規模の違う二つの工場の実験ができればさらに良い。一つの工場は例えば30人程度であるとすると、もう一つの工場は300人程度というふうに10倍程度の規模の差を設定する。そして、第2節「均等割り振り」における思考実験、で考察されたような労働形態をこれらの工場に適用するのである。具体的に必ずしもこの様でなければならないということはない。必ず守らなければならないのは「全員を身体労働者とすることである」そして、 「頭脳労働をする場合は、できるかぎり平等であり、頭脳労働から来る階級差、力関係の格差が生じないようにすることである」 。当然、 「工場の経営に関しては全員が平等でなければならない」そのために最善の努力をしなければならない。もちろん、給与は全員平等であり、労働時間も同じく平等である。そして、このような条件において経営に最善を尽くしたならば、その商品の生産量はどのようなものであっても構わない。つまり、このような条件のもとで最善を尽くした場合に、生産量はどのように変化するのか、を知ることがこの実験の目的なのである。


 この実験を成立させるためのもう一つの重要な要素は「外部条件の最適化」である。この「外部条件の最適化」が考えられたことは今までなかったのである。これも第2節「均等割り振り」における思考実験、において述べられていることと同じである。つまり、平均的な水準の商品を生産できるのならば、外部の資本主義市場経済からのさまざまな問題を受けないものとする。原材料の調達、燃料費などの費用、商品の販売価格などは、ある一定の限度内の中で安定しているとされなければならない。これは、工場内部における実験の結果の問題が工場外部から来ている、ということをあらかじめ消去するためである。


 この無階級化実験をする外部の状態は、世界革命が起きたのとまったく同じ状態なのである。土台の変革をこのように検討することに世界革命はまったく必要ないことがわかるだろう。このような「均等割り振り」の論理が、なぜ今まで存在しなかったのか非常に不思議なことであった。なぜなら無階級化を目指すならば、頭脳労働と身体労働の均等割り振りは必然の論理ではないかと私は考えていたのである。しかし、マルクスの徹底した頭脳労働捨象を知ることによって、なぜそうなのかを理解できるようになったのである。これで土台の変革を具体的に考察することは不可能になる。資本主義動態分析は徹底して追求され、それは必然的に社会主義社会に向かう―それは社会主義革命、世界革命へと向かうのである。しかし、世界革命の必要性はここでなされた実験の外部条件を満たすに過ぎない。ただそれだけのことに、超大革命が必要だというのである。それと同時に、現実には絶対不可欠な頭脳労働は捨象されることにより、無階級化の論理は意識されない深層の論理としての「完全な兼任」の中に組み込まれることになるのである。


 第4節 技術論から能力論へ


 一般的な常識的議論では、マルクス主義に批判的な陣営を含めて上部構造の変革に焦点が当てられていたのである。マルクス主義は経済に基礎を置いているという唯物論から、価値形態論や剰余価値論、あるいは疎外論や物象化論、資本の動態分析に注意が向けられ、それは資本主義崩壊の必然性を説いているように受け取られる―その次は社会主義社会に向かう革命だということになるのである。土台の変革はその上部構造の変革がなされ、その条件が整ってから始められる、と受け取られる。これには反論があると思われるが、それは根本的に大きな問題を含んでいるのである。そもそもマルクスは社会主義革命へ誘導するための精密なイデオロギー操作を行っている。それは社会主義革命へ向かう有利な要素、条件のみを選択的に取り上げて、そうでない不利な側面は徹底的に捨象しているからである。有利な側面とは当然、資本主義の動態分析である。これだけでも壮大な体系が出来上がる―あたかも社会すべてを包み込んでしまうかのような感覚を受ける体系である。不利な側面の最大のものはすなわち「土台内部の頭脳労働」なのである。土台の変革を具体的に追及するためには、土台内部の頭脳労働と身体労働の統合を対象としなければならない。しかし、土台内部の頭脳労働は徹底的に捨象されてあるために、それはもはや不可能になっているのである。だから、上部構造の変革とは別に革命過程においても土台の変革は遂行できる、と考えてもそれは不可能にされているのである。


 土台の変革は技術的な問題であり、そこに哲学や経済学が入り込む余地はない。土台の変革の技術論が最優先されるのは、次の2つの理由による。それはプロレタリアート(身体労働者)のみの共産主義社会を実現するためには、その上にある土台内部の頭脳労働、上部構造の頭脳労働などを統合しなければならないが、土台内部の頭脳労働が統合できなければ、上部構造の頭脳労働を統合できるはずがない、ということである。そしてもう一つの理由はマルクス主義の示すような上部構造の消滅が万が一起こったとしても、土台内部の頭脳労働は絶対に消滅しないからである。より重要なのは後者の理由である。つまり、土台内部の頭脳労働と身体労働が統合できなければ、上部構造を一切無視しても共産主義の無階級社会を実現することはできないのである。


 繰り返すが、土台内部の身体労働と頭脳労働を統合する変革理論、技術論は最重要であり、これがすべてを決するといっても過言ではないのである。しかし、このような主張はまったくといっていいほど存在しなかっただろう。マルクス主義、唯物史観に関わる問題、論争は批判する人をも含めて、哲学や思想、経済学、社会学、倫理や道徳といった分野で行われてきたのである。マルクス主義の側は特にこのような技術論を軽視、あるいは蔑視、無視する傾向がある。 「それは技術論に過ぎない」といい弁証法や疎外論、所有論、物象化論、搾取論などを論じるわけだが、それは現実の土台の変革を直接問題にしているのではないのである。この最大の要因はマルクスが頭脳労働価値、形態を捨象していることから来ている。逆に言うとマルクス主義がなぜこれほど魅力を持つことができたのかという要因の1つは、技術論を考えなくても済む体系を作り上げたからなのである。もちろんこれはまったくの幻想であるわけだが、もしこのような技術論を考えなくてはならないということが最初に示されてあったら、いったいどれだけの人がこの問題に取り組んだだろうか?マルクスの天才は論理だけでなく、人間の心理を知り、心をつかむことができる高い技術にあると思うのである。


 土台内部の身体労働と頭脳労働を統合するための技術論、 「均等割り振り」が検討されてきた。これによって明らかにされたのは、問題は頭脳労働の情報伝達、情報処理、意思決定に関わるコストが大幅に増大するということである。この中で最も明確に検討できるのが情報伝達の問題である。1人の人間によってなされてきた頭脳労働が、複数の人間によってなされるとき、それらの人々の間に情報が伝達されることに大きなコストがかかり、これによって身体労働時間は圧迫され減少してしまう。これを是正するためには、情報伝達の効率を上げること以外にはない。そしてこの情報伝達効率を上げることは人間の能力の問題である―ということである。同様に情報処理、意思決定の問題も同じように能力問題として考えることができる。これは社会システムの問題ではなく、人間の生物学的能力の問題である。このことを次章以降詳しく検討していきたい。


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