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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 7 

 『マルクス主義の解剖学』
 

 第3章 土台―上部構造論と変革理論の問題点

 第1節 意識形態論

 

 土台―上部構造論には様々な問題点、争点がある。土台と上部構造の間の規定関係、作用反作用の問題、構造因果性や最終審級による決定等が論じられてきたが、ここでは本論にとって最も重要な争点に絞って検討していきたい。それは土台内部の意識、経済的意識は上部構造には含まれない、ということと経済的意識の中の頭脳労働形態に対応している意識である。これを意識形態論とイデオロギーの関係を中心に考察する。この問題を詳しく論じている、渡辺憲正『イデオロギー論の再構築』を参照にしつつ検討していくことにしたい。


 マルクスは「経済学批判」の序言で土台―上部構造論を定式化している。「人間{各個人}は各人の生活の社会的生産において、特定の、必然的な、各人の意思から独立した諸関係を、すなわち各人の物質的生産諸力における一定の発展段階に照応する生産諸関係を、取り結ぶ。これらの生産諸関係の総体は社会の経済的構造を形成する。これが現実的土台となり、この土台の上に1個の法律的政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに特定の社会的意識諸形態が照応する」『イデオロギー論の再構築』第一章 意識形態論の考察 1 経済的意識の問題、において社会的意識諸形態と経済的意識との関係が論じられている。上部構造としての社会意識形態とは具体的には、政治、法律、道徳、宗教、哲学等の意識形態をいう。この上部構造のなかに経済的意識が含まれるかどうか、という問題である。つまり、経済的意識はイデオロギーに含まれるかどうかという問題になる。


 経済的意識とは、有用労働を前提とする使用価値についての意識、使用価値を産出するための合目的的活動としての労働過程における意識、この過程において人間は自らがあらかじめ描いた「観念」に基づいて、意識や注意力など様々な「精神的諸能力」をも発現させ、自然のうちに形態変化を引き起こす。消費過程あるいは再生産過程の意識、個人的消費、生活手段の選択、家族の形成などがあり、さらに商品交換の意識、貨幣欲求の意識、価値増殖に関する意識、資本の再生産過程に関する意識といった資本家的意識も含まれる。これらは当然、法律的政治的な社会的意識諸形態、すなわちイデオロギー形態と結びつくこともある。両者の相互関係は当然のこととして存在する。しかし、経済的意識はイデオロギー形態に包括されたことがなく、したがって上部構造に置かれたことも、多分ない。―以上が大まかな論旨である。
これらのことから、次のような結論が導き出される。


 ・・・意識形態といわれるのは、ここでも宗教、哲学、道徳等であり、観念論的上部構造とされる意識諸形態と等しい。他の箇所でも、意識形態は、「支配的と称される形而上学的、政治的、法的、道徳的およびその他の諸表象」とか、「ある国民の政治、法律、道徳、宗教、形而上学等の言語の中で表されるような精神的生産」と、表現されるだけであり、物質的生産の領域に属する経済的意識(土台の意識)は含まれていない。マルクスが経済的意識を忘れたとは考えにくい。


 一見すると、これは不可解なことだ。経済的意識こそ、土台を現実的あるいは幻想的に反映し、土台にじかに照応しているのである。なぜそれは上部構造ではないのか。だが他方、社会的意識諸形態は、経済的意識(土台の意識)と異なるからこそ、上部構造と規定される。だとすれば、意識はすべて上部構造に属するという前提がないかぎり、経済的意識が社会的意識形態と並ぶ上部構造とされないのは当然である。要するに、経済的意識はそれ自体としては社会的意識形態ではなく、上部構造に属さないことを、確認すべきである。


 さて、このことは何を意味するか。経済的意識は、とりわけ階級的意識でもある。資本家は資本家的意識をもつ。労働者も何らかの労働者的な意識をもつだろう。もし、このことが確認されるならば、階級的意識はかならずしも上部構造に属する社会的意識形態ではない、というもうひとつの結論が導かれる。たしかに階級的意識は、社会的意識諸形態(イデオロギー形態)のいずれかの形態をとることができる。例えば階級的意識は、政治的意識の形態をとることがあるだろう。だが、ここで確認すべきは、ブルジョアの階級的意識ですら、経済的次元においては、社会的意識形態やイデオロギー形態と規定されない部分をもつということだ。マルクスにおいて、社会的意識諸形態やイデオロギーとは異なる階級的意識が認められていたことは、正当に評価されねばならない。階級的意識といえば、ただちにイデオロギーや上部構造と性格づけてしまう解釈傾向からすれば、この結論は受け入れがたいだろう。しかし、マルクスのイデオロギー概念や意識形態論を復元するというレベルでは、ぜひともそれを確認しておくことが必要である(25)。


 しかし、マルクスにおいて意識形態論のなかの経済的意識の扱われ方が不十分であったために、意識全てが上部構造に属するような誤解が生じてきたのではないだろうか。このことをある事例に即して詳しく考察してみよう。第二次世界大戦末期、ナチスドイツはジェット機を開発することに成功した。それはヒトラーの指示であったと言われている。そのジェット戦闘機はプロペラ機を圧倒したのであるが、時すでに遅くドイツの敗戦となった。このジェット機という使用価値を生み出す意識、その技術や知識、それを実際に製作するための部品や材料を調達する経済的な意識、といったものはナチスイデオロギーとどのように関係しているだろうか。それはその時点においては、このイデオロギーに密接に結びつき包括されているようにも見える。実際、それは緊密に結びついていたのだが、ドイツが敗戦となりナチスイデオロギーが消滅するとその技術は戦勝国などに継承されていった。そして、ジェット機とそれに関わる意識は、もはやナチスイデオロギーと何の関係もないもののように扱われる。われわれはジェット旅客機に乗る時にヒトラーのことなど思い浮かべたりはしない。これなどは経済的意識とイデオロギーが別のものだという好例であろう。


 もちろん、この経済的意識も上部構造、イデオロギーと相関関係を持つのだが、直接には経済的意識は経済形態に対応している。そのため経済形態が変化しなければ経済的意識も変化しないのである。つまり、このジェット機の例のように上部構造がナチスイデオロギーのようなファシズムであっても、共産主義イデオロギーであっても、自由民主主義、資本主義イデオロギーであっても経済的意識は不変である。ジェット機にかかわる経済的意識はナチスイデオロギーから簡単に分離できる。それだからこそわれわれはジェット旅客機に安心して乗ることができるのである。さらに上部構造が封建制であったとしても―これはかなり考えにくいことであるが―この経済的意識は変わらないのである。そしてさらにこのようにいうことができるだろう。もし、万が一上部構造が消滅したとしてもこの経済的意識は変わらないということである。そしてこの経済的意識は頭脳労働の意識と身体労働の意識とに分けることができる。通常それはそのような分業形態をとっているからであり、当然それは密接な相互依存関係にある。この経済的意識はこのジェット機の事例だけでなく広範に一般化できるだろう。すなわち、ここで重要視されているのは一般的な「土台から上部構造への規定性」の問題ではなく「上部構造から土台への非規定性」の問題だと言えるであろう。

 

 第2節 捨象領域と土台の変革

 

 それでは、前章まで検討されてきたことと結びつけて考察してみよう。土台内部の頭脳労働形態、頭脳労働価値をマルクスは否定、捨象してきたと論じられてきた。そうするとこの土台内部のそれらに関わる経済形態、経済的意識も否定的に捉えられるか、捨象されることになるだろう。つまり、資本家の経済的意識は否定的に捉えられ、それ以外の頭脳労働者の経済的意識も捨象されるのである。土台内部に大規模な捨象領域が存在することになる―それらを総合的に把握するために以下の図を示してみよう。


DSCN1141c.jpg
                            図1
       (もちろん、土台の内容はこれですべてではないが便宜上このように示すことにする)

 図1の中のイデオロギー的、社会的、経済的の各々の意識形態は、論者によって定義の仕方が微妙に異なってくる。ここでは上部構造にはイデオロギー的ではない意識形態も存在する―これらを社会的意識形態と呼び、土台の意識―経済的意識形態と区別することにしたい。これに対して、河上肇の見解は、社会的意識形態は土台と緊密に対応し経済的意識形態もその中に含まれ土台に織り込まれている、というものである(26)。ここでも「社会的」という言葉は曖昧なものであり、どのようにも定義できるように思われる。この問題にあまり拘泥しても意味があるとは言えないだろう。ただ、河上肇の主張の主眼は土台の意識、経済的意識形態は上部構造に含まれない、というところにあるように思われるので同じ方向だと言えるであろう。


 ここではまず、土台の変革に焦点を当てて考察していきたい。というのも、マルクスの体系においては資本主義動態分析から直接、政治革命、社会主義革命へ向かうベクトルが強いように思われるからである。例えば「労働者革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級にまで高めること、民主主義を闘いとることである」というような言葉に現れている。土台を変革するためには、政治革命が先行しなければならない―これはもっともなように思われるが、本当にそうなのであろうか。土台が変革されたとみなすためには、当然経済的意識形態が変革されたとみなされなければならない。そして、経済的意識形態が変革されるためには、経済形態が変革されなければならない。以前にも検討したように、経済的意識形態は上部構造が変革されても直接には関係しないのである。当然、資本主義社会から革命が起こり社会主義社会に移行できたといったところで、それが経済的意識形態に直ちに反映されるわけではない。


 経済形態を変革するに際して、重要なことはその経済形態を十全に把握し、定位できているかどうかである。第1章、第2章を通じて考察されてきたことは、ここに重大な欠落が存在するということである。それはプロレタリアート(身体労働者)の身体労働を成り立たせ、相互依存関係にある頭脳労働である。ここが大規模に捨象されている―そのような捨象領域が存在するのである。しかし、ここで注意しなければならないのはあくまで捨象なのであり、決して否定されているわけではないということである。そして、徹底的に否定されているのはもちろん資本家である。資本家に対しては上部構造、イデオロギー領域に関して否定しているだけでなく、土台内部における経済機能においても完全に否定しているのである。 「資本家は一切のコストをかけずに剰余価値を受け取る」このように明確に述べられている。これが完全な誤りであることは以前にも検討した。正しくは「資本家はかけたコストをはるかに上回る剰余価値を受け取る」と言うべきところである。


 土台の変革、経済形態を変革するための方向性は、当然無階級化の方向である。しかし、近代産業社会、 高度産業社会は高度な知識、情報を駆使しなければならず、そのため頭脳労働と身体労働の分業化が進行した。このことによって経済形態の中に階層性、階級格差が生じてきたのである。つまり、これは上部構造、イデオロギーに関係なく近代産業社会、高度産業社会なら必ず生じてくるものである。当然、この階級的性格は資本主義に特有のものではない。すなわち社会主義革命によって資本主義の上部構造を覆したとしても、それは変わらないのである。つまり土台の変革は、上部構造の変革とは別にそれ自体を考察していかなければならない。そしてここでもう一つ重要な点は、マルクス主義における未来社会は資本主義社会よりも生産力が上であるというところにある。これは、生産力は資本主義社会よりもはるかに下でも構わない、と言うのなら話はまったく変わってくるのであるが。これら分業を単に廃棄できる―と言うこともできるだろう。しかし生産力は資本主義社会よりも上なのだから、分業を単に廃棄できる、などとは絶対に言うことはできない。高い生産力を得るためには高度な知識、情報、技術が必須のものとなるからである。ゆえにこのことに関する頭脳労働を身体労働の中に織り込ませる―すなわち、統合することが絶対条件になるだろう。つまり、頭脳労働と身体労働の分業は廃棄されるのではなく、統合されなければならない―これが土台の変革である。

 

 第3節 変革理論のねじれと虚偽

 

 マルクスの精神的労働と物質的労働の分割の、人を不具にする効果を克服することへの関心は、「いろいろな労働の転換、したがってまた労働者のできるだけの多面性を一般的な社会的生産法則として承認する」近代大規模産業において暗黙にある生産的技能における可変性に対する要求の増大というより一般的な予測を踏まえて、「大工業は、変転する資本のための人間の絶対的な利用可能性をもってくることを、すなわち、1つの社会的細部機能の担い手でしかない部分個人の代わりに、いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活動様式としてかわるがわる行なうようであるような全体的に発達した個人をもってくることを、1つの生死の問題にする」と主張する。すなわち、「全体的に発達した個人」論である(27)。


 マルクスの中にもこの「全体的に発達した個人」論のように、身体労働と頭脳労働を統合する視点は存在する。しかし、これらの考察はかなり抽象的なように感じられる。そして、これらの考察も最終的には社会主義革命という政治革命へ向かうベクトルに組み込まれる。これらは具体的に追及されることはほとんどないのである。これを具体的に追及するためには、何よりも土台内部に頭脳労働形態、頭脳労働価値が着実に定位されていなければならない。ところが、第1章、第2章で考察されてきたように革命イデオロギーを強化するプロパガンダのために、これらは捨象されてきたのである。これらを総合的に見渡してみると、非常に矛盾している・・・というより根本的な虚偽なのではないかという気がしてくる。つまり、言っていることとやっていることがまったく違うのである。マルクスは土台の変革を言いながら、その実その変革を阻害している、そして何が何でも上部構造の変革―政治革命、社会主義革命へ向かわせたいのではないだろうか。


 しかし、マルクスの真意はこのようなものであると証明するすべはない。そして、重要なことはマルクスの真意がどこにあるかではなく、この身体労働と頭脳労働の分業の統合という土台の変革は具体的にどのようなものであり、それをどのように考察していけるかということである。次章から、それを主に2つの形態「均等割り振り」 「完全な兼任」として追求していくことにしたい。

 


(25)渡辺憲正『イデオロギー論の再構築』青木書店、2001年、26,27頁


(26)山之内靖『社会科学の方法と人間学』岩波書店、2001年、第4章


(27)千石好郎『近代の<逸脱>』法律文化社、2007年、76頁



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<論文> マルクス主義の解剖学 6 

 『マルクス主義の解剖学』

 

 第2章 イデオロギーとしての『資本論』

 第1節 『資本論』をイデオロギーとして考える

 

 『資本論』を概説した入門書を書いたあるマルクス研究者がこのように言っていた、「資本論は世間の人が誤解しているようにイデオロギー啓蒙書ではありません」。イデオロギー啓蒙書といえばすぐに思い浮かべることができる『共産党宣言』が挙げられるだろう。(『共産党宣言』はこの訳語に問題があるとし、『共産主義者宣言』や『コミュニスト宣言』といった訳語を当てられることもあるが、ここでは今まで一番多く使われていた『共産党宣言』を使うことにする)確かに多くの扇動的ともいえるようなレトリックが使われている『共産党宣言』に比べれば『資本論』はイデオロギー啓蒙書とはいえないだろう。そもそも『資本論』のなかには啓蒙的な文章はほとんど存在しないのである。しかし、イデオロギー啓蒙書ではないということが、イデオロギーの書ではないとは限らないのである。イデオロギーの性質そのものに由来することであり、これはイデオロギー論の問題になってくるが、イデオロギーが直接言説として表現されなくてもイデオロギーとしての作用を及ぼす、ということはいくらでもありえるのである。マルクスが資本主義社会を分析したように商品は言説としてイデオロギーを表現しなくても、それ自体がイデオロギーの運び手となるのである。


 資本の独占は、それとともに、今度はまたその下で花盛りとなった生産様式そのものを束縛しはじめる。生産手段の集中は、そして労働の社会化は、ついにその資本制的な被膜と合わなくなるところまでくる。そしてこの被膜は吹き飛ばされる。資本制的私的所有の終わりを告げる鐘が鳴る。収奪者たちの私有財産が剥奪される。(23)
 

 『資本論第一巻』の終わりの方にあるこの有名な文章は『資本論』全体のなかでも、最もイデオロギー性が高い文章である。しかし、このような文章は非常に少なく例外的である。その内容のほとんどの部分は外見上、イデオロギー性を持たないように思える。しかし、ここでは歴史過程全体を視野に入れて『資本論』をとらえていきたいと思う。『資本論』を単独で扱えば、それは経済学書としての意味が強くイデオロギー性はあまりないように思われる。しかし、あらゆる事物、事象と同様に歴史内存在であることから免れることはできない。そしてマルクス自身、そのことを強く意識していたはずである。特に重視されるべきはマルクスの『資本論』以外の著作との関係である。イデオロギーの観点からすればやはり一番重要なのは『共産党宣言』であるだろう。問題なのはこの二つの著作の論理的な関係である。『資本論』は資本主義における経済を中心とし、政治、社会状況を歴史的に総合的動態的に把握している。その結果として、資本主義は行き詰まり革命的状況に近づいていく。『共産党宣言』はその状況を受け継いだ形での労働者階級に対する啓蒙や扇動といった内容のものである。そして革命の後に来るべき社会の大まかなイメージが描き出されている。それはいまだ苦難に満ちてはいても、搾取のない、労働が疎外されることのない社会主義社会、共産主義社会へ至る歴史的に必然な道程である。とすれば、論理的には『資本論』の後に『共産党宣言』が来なければならないはずだ。ところが、『共産党宣言』は『資本論』の19年も前に出版されているのである。つまり、イデオロギーの表明が先に来て、そのあとに社会の科学的、客観的な解明をしたとされる『資本論』が発表されたのである。


 しかし、『共産党宣言』も単純なイデオロギー啓蒙書というわけではない。歴史的発展段階としての資本主義が論じられ、ブルジョワジーとプロレタリアートの大きな二つの階級を生み出し、それらの階級闘争は必然的に激化していき革命的状況に至る、という基本的なビジョンはすでにこの段階において確立している。それは他の著作『哲学の貧困』やその時点では草稿であったため出版されなかったが『経済学、哲学草稿』『ドイツ・イデオロギー』などでも論じられている。『資本論』はそのビジョンを経済学を中心としてさらに精緻に厳密化して論じたものだと考えられるだろう。これらは流れとしては決して不自然なものではない。しかし、『共産党宣言』は単なる歴史的なビジョンだけではなく、労働者階級に対する革命を目指すべくその運動の組織の仕方や、暴力的手段の肯定、革命勃発への扇動、それ以後の社会への非常に大まかだが政策綱領といったものも含まれている。このように過激なイデオロギーがすでに確立されているのである。それは『資本論』の執筆過程で生じたものでもなく、またそれを構想しているような段階でもなく、それよりもさらに以前に確立されていたということは限りなく重要である。『資本論』は社会科学の書であるといわれるけれども、最も厳密で客観的といわれる物理学においてすら、多少なりとも特定のイデオロギーの影響を受けているということは、科学とイデオロギーの関係が研究されてきた現代においては常識的なことである。ましては社会科学、特に経済学は直接、社会構成員の利害に関わるだけにそれが特定のイデオロギーの影響を受けない、などということはほとんど考えられないだろう。問題なのは相対的にその影響がどの程度であるか、あるいはそのようなイデオロギーが隠蔽された形で紛れ込んでいないか、というようなことである。


 さらにマルクスの立場に立ってプラグマティックに考えてみると、自らの著作がどのような読者に読まれるか、どのように読まれるかということも重要であろう。『共産党宣言』は著作というよりもパンフレットであり、その文章量もかなり少ないものである。誰もが気軽に読めるような文章の難度と量である。その内容からして労働者階級向けのものであるし、ブルジョワジーが読めば気持ちの良いものでないことはたしかであるが、それでも版を重ね、多くの言語に翻訳されて広く読まれたことは間違いない。しかし、『資本論』はその文章の難解さ、その叙述量からして簡単に読めるようなものではない。確かにその内容からして労働者のために書かれたものではあるが、果してどれだけの労働者がこの本を読むことができたのか疑問である。E・Hカーはマルクスの評伝のなかで労働者はこの本を読まなくても、このような本が存在するということ自体が意味のあることだったのだ、と述べている。ここで問題にしたいのは次のようなことである。『共産党宣言』を読んだ読者のなかで『資本論』(全巻とはいわず第一巻だけでも)まで読んだ読者はどれくらいいるのだろうか。もちろん、たしかなことはわからないがそれほど多い比率にはならないのではないだろうか。逆に『資本論』を読んだ読者のなかで『共産党宣言』を読んでいない読者はいるだろうか?これは極めて少数になるように思われる。つまり『資本論』を読破するような読者はほとんど『共産党宣言』は読んでいるのではないだろうか。その意味で『資本論』を考察する際に『共産党宣言』またそれ以外のマルクスの著作についても同じようにいえることであるが、ほとんど全体をセットとして考えられるように思える。『資本論』は『共産党宣言』を前提としている、あるいは引き継いでいると考えることはイデオロギーの上で重要なことである。


 といって『資本論』があらゆる面で『共産党宣言』のイデオロギーの影響下にある、という先入見を持つことは禁物であろう。マルクス思想とイデオロギーの関係を考える時には大きく二つの方向性に分かれる。一つはいうまでもなく、マルクスが行ったドイツ観念論哲学や資本主義イデオロギーに対する批判である。この問題は今まで多くが論じられてきたので、ここでは立ち入らないことにする。これらは当然、後の議論と関係してくるのであるが、その都度議論の対象としたい。そしてもう一つが、マルクス思想、マルクス主義自体のイデオロギーの問題であり、これこそが本論の主題である。マルクス思想自体がイデオロギーであると最初にいったのはベルンシュタインであるという。そのことはマンハイムらによって包括的に研究されてきた。ここではより具体的にそのイデオロギーの性格を分析していきたい。マルクス思想、マルクス主義をイデオロギーとみなすとしても、否定的な意味合いではなくレーニン的な積極的意味における政治的イデオロギーととらえる見方もある。しかし、これからはイデオロギーの負の側面、虚偽性、隠蔽性、非現実性、歪曲性というものも検討のなかに入ってくるだろう。この章では『資本論』の経済学的レベルのイデオロギー分析を中心とし、マルクス思想の中核をなす「土台―上部構造論」「唯物史観」の検討、それらのイデオロギー分析は第3章以降において行われる。

 

 第2節 『資本論』における歪曲性、虚偽性、隠蔽性

 

 第1章において『資本論』における重要な問題点を検討してきた。それは頭脳労働形態論、価値論の捨象、資本家の経営における頭脳労働価値の否定、それに伴う剰余価値率の誤りなどがあった。そしてそのことは偶然の見落としや誤りといったものではなく、マルクスが意図的に追及したものである、と論じた。それは古典派経済学からの労働価値説の対象問題という不備を修正するのではなく逆に誤りのまま確立し、利潤を剰余価値、搾取、不払いと意味転化していく事を論理的必然性があるかのごとく見せかけることによって実に自然に巧妙に誘導していったのである。資本家の労働価値の否定というものがなぜまったく問題にされてこなかったのか?これは実に不可解に感じていたことであった・・・多くの文献を見てもこのような問題はまったく出会ったことがないのである。わずかにweb上の大学教授の論文に使用価値の捨象が問題にされ、資本家の経営に関するマルクスの軽視を批判する内容が載せてあった。むしろこのような批判点は、web上のレビューなどを投稿する一般人の方が鋭く指摘していることが多い。使用価値の捨象は頭脳労働価値の捨象の中に含まれるとみなすことができる。


 しかし、経済学史を知るようになると、徐々にこの疑問も理解できるようになってきた。経済学の2大流派、新古典派経済学とマルクス経済学は社会科学といっても結局はイデオロギー対立だということである。限界効用説と労働価値説はそれぞれ需要側の立場に立つか、供給側の立場に立つかはっきり分かれることになる。限界効用説は市場の自由な論理に従うことになり、労働価値説は市場よりも計画、統制の要素が強くなる。資本主義擁護の立場に立つと労働価値説自体が極めて都合の悪いものであり、限界革命が起こったのも『資本論』出版直後だというのもうなずける話である。戦後、共産主義批判を展開した小泉信三はマルクス経済学に対する批判の中心を労働価値説に向けている。そして多くのマルクス経済学、マルクス思想に対する批判は労働価値説自体の存立に関するものであった。そのような中で労働価値説の対象問題が問題にされることはなかったのである。つまり、マルクスを批判する側が、資本主義擁護の立場を取ってしまうと資本家の労働価値の否定を問題視することができなくなってしまうのである。それを問題にしてしまうと労働価値説自体を認めることになってしまう。「資本家の労働価値を労働者と同じに認めないのは論理的に一貫性がないではないか」などと言おうものなら、それ自体が労働価値説を認めることとなり、マルクスの磁力のなかに取り込まれてしまうことになる。さらに、マルクス経済学、マルクス思想を支持する側、マルクス主義者の側からすれば、このような論理的非一貫性はどうでもよいことである。どの道、資本主義は否定され資本家は否定されるのだから、資本主義世界において資本家の労働価値がどうであろうが大した問題ではない。結局、このイデオロギー対立の両者からこの資本家の労働価値の否定という問題は、批判の矢の届かない絶妙な空白域になっているのである。もし、マルクスがここまで計算して資本家の労働価値を否定していたとしたら、まさに恐るべき天才の心理的隠蔽術といえるだろう。


 頭脳労働形態論、価値論が捨象されてきたことも資本家の労働価値が否定されたことと同様に重大な問題である。ここでも、マルクス思想を批判する側からの指摘がほとんど見当たらないという理由は、資本家の労働価値の否定を指摘できないという事情と同じものである。頭脳労働全体の価値が身体労働と同様に労働価値説の対象になっていないのではないか、と指摘することは労働価値説を認めることになり、資本主義擁護の立場からすれば極めて都合の悪いことになる。労働価値説自体を否定ないし無視することに決めてしまえば、その内容に立ち入ることは意味のないことであろう。だから、専門家や研究者とは違い資本主義擁護をそれほど考える必要のない一般人がインターネットの掲示板などで議論する際は、そのような批判は頻繁に行われるのである。そしてこの場合でも、マルクス経済学を支持する立場、マルクス主義者側からすれば階級対立、階級関係が前面に来るため資本家以外の頭脳労働が捨象されていることはほとんど気にならない。マルクス経済学者がまったくこのことに触れないのも、マルクスの示した階級対立、階級関係の世界観のフィルターがかかっているからである。すでにそれはイデオロギー的偏向の世界観に巻き込まれている。


 剰余価値率算出の公式は数式として示せることによって、あたかも厳密で客観的な事実を示しているかのように読者に思わせるものがある。現代の数理経済学でもそうだが、このように数式として示されると客観的で信頼に足るもののように感じられてしまう。しかし、それは現実から遊離した想定で行われていてそのような信頼に値するものではない、という批判が新しい複雑系経済学などの立場から行われている。マルクスの剰余価値率算出の公式が意図的に頭脳労働を排除しているとすれば、信頼に足るものではないのではないか、といったレベルのものですらないだろう。それはどういう意図のもとで行われたのかということを解明しなければならない。当然それは『資本論』体系すべてを疑ってかかるということである。まさにマルクスが言ったように「すべては疑い得る」のである。

 

 第3節 イデオロギー的解明

 

 以上の問題点を『共産党宣言』などで示されたイデオロギーの目的と関連付けてみよう。このイデオロギーの最大の目的は社会主義革命、共産主義革命である。社会主義社会、共産主義社会の政治的状況、社会的状況におけるイデオロギー的考察もこれらのなかに含まれるが、現実にそのような状況に達するためには必ず「革命」を通過しなければならない。これを客観的歴史認識として傍観者としてだけ眺めていたのでは、いつまでたっても革命には結びつかない。しかし、マルクスの思想、理論を知らなくても社会的状況がマルクスのいうように進展するのなら、社会主義革命の可能性は大いにあり得るだろう。マルクスの理論が絶対に正しいという前提に立てば、この思想、理論をできる限り多くの民衆(特にプロレタリアート)や社会主義、共産主義を支持する知識人に伝達し、イデオロギーとして革命的社会状況を促進し、現実に社会主義革命を勃発させることである。つまり、社会はどのようにしても資本主義の行き詰まりから社会主義への道を歩まなければならない。そうだとしたら、それまでの苦難はできる限り短い方がよい。マルクスの著作は革命を促進させることによって、その苦難の期間を短くする目的のものであった、とマルクス自身も述べているのである。そのように、苦難の期間を短くする目的のためなら理論の歪曲や虚偽、隠蔽といったものは正当化されるのではないか。そのように考えればイデオロギーの目的に沿った理論の歪曲、隠蔽は十分合理的に説明できるのである。


 『共産党宣言』はイデオロギーを言説として直接表現している。それに対して『資本論』はイデオロギーの直接的表現ではない。それは経済学の体系のなかに組み込まれた「否定」「捨象」の形式で示されている。特に「捨象」は意識化することが難しい。茫漠とした社会全体に対してある抽象的な構造を見ようとする時、それはかなり高い能力を必要とするだろう。もし、そのような高い能力を持った人物がある目的をもって、その抽象的な構造を意図的に改変したとしたら、それに気づくことは極めて難しいだろう。第1章で示した、資本主義社会における労働形態の五つの形態のうち、資本制生産様式周辺部の身体労働、資本制生産様式周辺部の頭脳労働、資本主義体制の政治家、官僚、公務員等、は『資本論』が資本主義社会全体の考察ではなく、資本制生産様式を中心とした考察である、という目的ならば、これらの労働形態がほとんど分析対象として取上げられていないのはそれなりに納得のいくものである。しかし、資本制生産様式中心部の頭脳労働は身体労働と同様に最も重要なものである。この捨象がイデオロギー上の目的とどう関係しているのだろうか。


           資本家(経営者)
              ↓A
           頭脳労働者(テクノクラート、中間管理職など)
           ↓B    ↓C       
        頭脳労働者→身体労働者
                             D
 
 もう一度、階級と分業の関係を示した上図で考えてみよう。まず、資本家(経営者)では、資本家の頭脳労働としての経営は労働とはみなされていない。ここでは頭脳労働は捨象ではなく明確に否定されている。これは明らかに経済学的見地からいえば誤謬であり、また必要のないものである。以前に検討したように、経営の労働価値を否定しなくても資本主義の動態分析にほとんど影響を与えない。しかし、これを革命イデオロギーとの関係で考えてみればその重要な意味は明らかになるだろう。これは資本家と労働者の間にある「敵対関係であるのと同時に相互依存の共同関係である」という二重性の「相互依存の共同関係」を徹底的に排除するためのものである。資本家(経営者)はその価値対象となる頭脳労働を身体労働者に対して間接労働力投下している。ここから相互依存の共同関係が生じているのである。相互依存の共同関係を排除するためには、資本家の頭脳労働の価値をゼロとみなすことである。もはやそれは労働ではなく、単なる搾取行為である。そして一方の敵対関係を、これでもかと最大限に強調する。これは社会主義革命に誘導するための絶大な心理的効果を生み出すだろう。まさにこれは『共産党宣言』におけるイデオロギー啓蒙(扇動)を強力に補完するものである。『共産党宣言』と『資本論』はまったくぶれのない一貫したイデオロギー体系だといえるのである。マルクスは明らかに経済学的な完全性よりも、イデオロギーを優先しているのである。続いて中間階層の頭脳労働者(テクノクラート、中間管理職など)では、明確な否定となるような文章は『資本論』には存在しない。しかし、繰り返し述べてきたように資本制生産様式にとって(すなわち近代産業社会、高度産業社会にとって)非常に重要な役割を演じているこれらの職種がまったくといっていいほど取上げられていない。経済の機能的考察においてこれらの職種は不可欠なもののはずである。しかし、革命イデオロギーの見地からすればこの捨象の意味は明らかとなる。資本主義社会が行き詰まり、革命的状況に向かうというのは資本家と労働者の間に格差がどんどん広まり、社会は完全に二極分解していく、ということが前提になっている。しかし、これら中間階層の頭脳労働者はある意味、プチ・ブルジョワジーであり労働者との間には大きな階級差がある。それでも、労働者から徹底的に搾取している資本家ではない。これは二極化理論にとって非常に都合の悪いことである。ここでも現実がどのようなものかではなく、将来このように事態は悪化していくのだ、という心理を生み出すことによって社会主義革命に誘導していくことが重要なのである。これら中間階層を捨象することはイデオロギーにとって重要な意味をもっている。ここでも頭脳労働と身体労働との相互依存、共同関係の問題があるがそれは身体労働者と同じ階級の頭脳労働との考察において行いたい。


 身体労働者と同じ階級の頭脳労働者ではどうだろうか。実は『資本論』で最も捨象されているのはこれらの人々なのである。確かにこの時代は現代とは違いこれら頭脳労働者の比率はかなり小さいものだったろう。それでも全体としては相当数存在したはずである。実に『資本論第一巻』においては、この階級の頭脳労働者は一言一句たりとも触れられていないのである。これは驚くべきことではないだろうか?もし、この階級の頭脳労働者の具体例が『資本論』のなかに存在していたとしても誰も何とも思わないだろう。現代で同じような具体例を示せば、それこそ典型的な事例である。しかし、この具体例が存在していなくても単なる偶然だと思えば思えるのである。そして、このように指摘されなければこの問題は特に意識されることはないだろう。ここにこそマルクスのイデオロギー操作の核心があると思われるのである。今まで検討してきた通り、この頭脳労働者と身体労働者の関係は同じ階級でありながら経済機能的な相互関係により、頭脳労働者が完全な主導権をもっていることがある。また、両者の関係は密接な相互依存、共同関係にある。これらは頭脳労働と身体労働との相互関係が階級とは独立したパラメーターであることを示している。この経済機能的相互関係はこれが考察の対象となり、意識化されてしまうと当然それ以外の階級関係にも波及していくだろう。中間階層のテクノクラート、中間管理職と身体労働者との間にも同じような階級とは独立した経済機能的相互関係が存在する、ということが意識されてしまう可能性が大いにありえる。以前に検討した通り、中間階層が存在することは革命の前提となる二極化理論にとって都合の悪いことである。この中間階層ができる限り意識化されないことが重要なのである。さらにもっと悪いことには、ここまで来ると当然、資本家(経営者)と身体労働者との間の経済機能的相互関係に波及し、両者は相互依存、共同関係にあるということが意識化される可能性がある。これら経済機能的相互関係は階級関係とは独立した要素である。そしてこれは単に資本主義だけではなく、近代産業社会、高度産業社会にとって絶対不可欠な要素なのである。ここでの問題点は、身体労働者と同じ階級の頭脳労働者を考察の対象とすることは、機能的相互依存関係の意識化が次には中間階層の頭脳労働者、さらに次には資本家に波及していく恐れがあるということなのである。それをあらかじめ予防するために、この階級の頭脳労働者(それ自身は問題がないのにもかかわらず)を徹底的に捨象したのではないだろうか。そうだとしたら、純粋な経済学的見地からすれば、まったく道を踏み外しているとしか思えない。しかし、革命イデオロギーの立場からすればまったく正当なのである。そして、言説の上では徹底的に階級関係、階級闘争が強調されるので、この階級の頭脳労働者も現実の運動のなかでは自動的に身体労働者と同じに扱われる。そのことによってこの捨象は完全に隠蔽することができるのである。


 資本制生産様式、資本主義の過程分析、動態分析に対して、これら頭脳労働価値の捨象はどう関係してくるだろうか。ここにこそ『資本論』の最も驚くべき秘密があるように思われる。イデオロギーの目的のためにこれほど大規模に頭脳労働形態論、価値論が欠落しているというのに、そのことがこの過程分析、動態分析に対してほとんど影響を与えないように見えるのである。実際、影響を与えないということはないのだが、特に剰余価値率の計算において可変資本を身体労働者のみと身体労働者と頭脳労働者を合計した場合とでは違ってくる。これは明らかにマルクスの時代においてはその差は少なく、現代に近づけば近づくほどその差は大きくなってくるだろう。マルクス経済学者が社会全体に対する産業連関表などを使って剰余価値率を算出する時は、可変資本部分はマルクスにおいて頭脳労働は捨象されている、という問題はまったく考えられてはいない。夢にもそのようなことは思っていないのである。このような計算をする時には可変資本部分は当然、頭脳労働も身体労働もその中に含まれるのである(24)。それでいながら、具体的な資本家対労働者の問題を考える時は、労働者はほとんど身体労働者のみを考慮しているように思える。様々な文献を読んでみたが、そのようにしか受け取ることができなかった。中間階層のテクノクラート、中間管理職、資本家以外の頭脳労働全体に対しては否定されてはいないが対象にもされていない。このような対象に対するスタンスはマルクスとまったく同じなのである。これはマルクスのイデオロギー操作による労働形態に対する見方に完全に同化しているのではないだろうか。これは明らかなダブルスタンダードだといえるだろう。動態的、大局的、抽象的に把握する時には頭脳労働者はその中に含まれ、静態的、部分的、具体的に検討する時は捨象される。これを無意識のうちに行っているのであり、これ自体がマルクスにコントロールされているのである。これらのことからも、資本家以外の頭脳労働者を捨象することがどれほど重要なことであるかがわかる。捨象ではなく、わずかでも否定していたとしたら、幾らなんでもおかしいことに気づかれてしまうだろう。すなわち、資本家は資本の運動にからめ取られた非人格的な存在として扱い、そこには生きた労働としての労働価値はまったく存在しない。それと本来なら生きた労働を働くことができるはずの労働者を剰余価値を搾取される存在として対置する。この両者の関係を資本主義の運動法則の中に示すことによって、資本主義の動態分析は十分に展開できるのである。この労働者のなかには実際には中間階層や同じ階級の頭脳労働者も含まれている。このように動態分析の過程においては自動的にその中に含まれることによって問題なく動態分析を進めることができるのである。剰余価値によって資本蓄積をし、流通とその資本の再生産を繰り返すことによって、二極化が進むというマルクスの天才的な資本主義の動態分析はこれらのことに影響を受けることはないのである。マルクスの資本主義動態分析の見事さに目を奪われて、逆に静態的な経済構造の分析がおろそかになっているのではないだろうか。


 以前にも検討したように、資本家の頭脳労働価値は否定したとしても必要労働のなかに占める範囲は社会全体のなかでは極めて少ないので、この資本主義の動態分析のなかでは問題にならないのである。これらのことからマルクス経済学は次のような結果をもたらし たのではないだろうか。資本主義の動態分析の鋭さ、深さによってその基本となっている労働価値説、剰余価値説、労働形態論などは当然正しいという信頼を受けたのではないだろうか。しかし、今まで見てきたように資本主義の動態分析の鋭さは労働価値説とその対象問題、剰余価値説(剰余価値率算出の公式)の妥当性を何ら保証するものではないのである。しかし、マルクスはそれらの妥当性を保証するものであるかのごとく導いているのではないだろうか。ここで考慮されるべきは、理論に対する経済学的水準とイデオロギー的水準との落差である。例えば転形問題などに代表されるようなマルクス経済学に対する矛盾の指摘は、厳密な証明を追求する経済学的水準でなされるだろう。一般的にマルクス経済学が問題にされている時はこのように経済学的水準で考えられている。しかし、マルクス経済学をイデオロギーとしてとらえ追及することは、ほとんどなされてこなかったように思われる。これが困難なのはマルクスが非常に巧妙に「否定」「捨象」を駆使してきたからである。イデオロギー的水準で考える場合、それは経済学的水準に比べて理論的なハードルははるかに低いものとなるのである。例えば、レーニンが革命前の時期、あるいは革命を遂行しようとするときに、転形問題で思い悩んだ、ということがあるだろうか。このような厳密な経済学的問題は、イデオロギーの見地からすればどうでもよい問題にしか見えないだろう。大局的に資本主義はこのような過程を経て行き詰まり、革命は不可避である、というような歴史観の方がはるかに重要である。そのような資本主義の動態分析が資本家の労働価値の否定を保証しているように見えさえすればそれでよいのである。二極化理論にとって都合の悪い存在である中間階層が捨象されていても、もはや大した問題ではない。『共産党宣言』で示されているように、革命が成功しプロレタリアートが権力を握れば、資本家の搾取にさらされていた生産力は解放され、その生産力は急速に増大するからである。これがどれほど転倒したものであるかはこれから詳しく検討されるだろう。

 

 第4節 もう一つの『資本論』

 

 今まで考察してきたことを総合して、マルクスのイデオロギー操作のために「否定」「捨象」されてきたことを『資本論』のなかに正しく組み込んだもう一つの『資本論』を考えることができるだろう。これによって『資本論』にまったく問題がなくなるということではないのだが、それは非常に違った印象を持つものになるのである。労働価値説の対象に正しく頭脳労働も含める。当然、そこには資本家自身の経営の頭脳労働価値も含まれるのである。情報を使用価値として認め、頭脳労働を間接労働力投下として位置づける。サービス労働などの商品としてのものを作り出さない労働も当然認められなければならないだろう。中間階層のテクノクラートや中間管理職、その他事務職などの頭脳労働も身体労働と同じように扱われ、相当な割合でその具体例が示される。資本家対労働者の関係は敵対関係のみを強調するのではなく、相互依存の共同関係も示される。頭脳労働と身体労働との経済機能的な関係も論じられる。そこには機械生産などの高度な技術的な問題も取上げられるだろう。そこから高い生産力を得るにはホワイトカラーの存在も不可欠であるということが当然のごとく認識されるだろう。このようなもう一つの『資本論』を想像してみよう。それはどのような印象を持つだろうか。剰余価値や搾取、不払いといった否定的な意味合いは保持されるけれども、ある程度緩和されてしまうだろう。中間階層を取り上げることによって、動態分析における二極化理論にとってのその妥当性がより問題にされるだろう。そして何よりも、資本家に対する攻撃力が格段に落ちてしまうということである。これらのことは経済学的にはより十全性が高まっている、とみなせるのではないだろうか。しかし、革命イデオロギーの立場からすればとんでもない話である。一体何のために努力してきたのかわからないことになってしまう。このような『資本論』はマルクスにとっては無意味などころか否定されるべきものなのである。


 もちろん、このもう一つの『資本論』もイデオロギー性から完全に免れるというわけではない。しかし、この現実の『資本論』に比べて革命イデオロギーの強度という点で大きな差異が生じているだろう。マルクスが『資本論』に課した基本的な方針は、資本主義に対する経済学的分析の追及をしながら、それと気づかれずに革命イデオロギーをどれだけ高い強度でその中に含ませるか、ということにあったように思われる。資本主義に対する経済学的分析、特にその動態分析は類例のない深みに達しつつ、革命イデオロギーの方に偏向させていくという離れ技を演じている。ここにこそマルクスの真の天才性が表れている。経済学者森島通夫はマルクスを評価して「音楽に例えると私はソロの奏者だが、マルクスはオーケストラの指揮者である」といったという。しかし、実際はそれ以上のものであったのではないだろうか。実はマルクスはそのオーケストラのさらに2倍の規模の大オーケストラを指揮する実力を持っていたということである。しかし、イデオロギーの目的のためにそのオーケストラの半分の楽器奏者を排除したのである。社会主義革命交響曲を演奏するために・・・その社会主義革命交響曲を初めて聞く聴衆はそれが本来のオーケストラの構成から半分が排除されている、などということに夢にも気づくことができないのである。いや、その曲が社会主義革命交響曲であること自体気づくことができないのである。


 今まで「マルクス経済学とイデオロギー」というテーマで考察を進めてきた。本論は資本主義擁護の立場に立っていない、ということに気づかれただろうか。労働価値説を否定していないということに何よりもそれは表れている。また、社会主義、共産主義をあらかじめ支持しているわけでもない。しかし、これまでの経過は実に面白い展開になっているのである。労働価値説を採用するのなら、労働価値説の適用を十全にあらゆる業種、階層に向けなければならない、というのが本論の主張である。しかし、マルクスはそれをある階層には適用自体を否定し、ある階層、職種には捨象してまったく取り上げることもされていない。これではマルクスよりも本論の立場の方がはるかに社会主義的ではないだろうか?


 
(23) 『資本論 第一巻 下』574頁


(24) 伊藤誠『「資本論」を読む』 321~323頁


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<論文> マルクス主義の解剖学 5 


 『マルクス主義の解剖学』


 第1章 『資本論』批判


  第13節 マルクスは本当に頭脳労働を捨象したのか?

 

 ここまで来た段階で、最も根本的な疑問に立ち帰りたいと思う。それは「マルクスは本当に頭脳労働を捨象したのか?」という問題である。今までの議論に対する疑問、反論を予想し、ある人物にそれを語ってもらおう。「これまでの議論に対する根本的な疑問がある。それは頭脳労働価値の捨象という問題を過度に強調しすぎているのではないだろうか。確かにマルクスは資本家に対しては労働者から剰余価値を搾取するものとして完全に否定的に扱ってはいる。ただし、歴史の資本主義段階の担い手としてその存在は認められてはいるのである。否定的に扱われるのは歴史的に次の段階、社会主義、共産主義の側から見た視点である。資本家の頭脳労働価値の否定もそのような視点から見ることができるだろう。そして、資本家以外の頭脳労働者に対してはその否定は明文として存在していないはずである。『資本論』で具体例として扱われていないとしても、それはその時代において圧倒的に身体労働者(プロレタリアート)が多数を占めていたからである。マルクスの注意はここに集中していて頭脳労働者まで手が回らなかっただけではないだろうか。それらの叙述がないのは単なる偶然である。そして何よりも重要なことは階級闘争であり、階級関係がどうなっているかである。資本家対労働者が重要なのであり、資本家に搾取される労働者であれば、身体労働者であろうと頭脳労働者であろうと同じことである。歴史的に見ても、そして現代の日本などにおける状況においても、社会主義運動、労働運動などで頭脳労働者は身体労働者の中に入り同様な運動ができるだろうか、などという疑問は提出されたこともない。両者はまったく同様にそれらの運動に関わってきたのである。労働価値説がその叙述において身体労働のみを対象にしているように見えても、その都度臨機応変に頭脳労働も対象にすればよいだけである。そのことがそれほど重要な事だとは思えない。そのように身体労働と頭脳労働とを分けて頭脳労働の捨象を過度に強調するのは、労働者階級を分断しようとする狙いがあるのではないだろうか」。


 以上のような反論に対して、答える形で議論を進めていきたい。マルクスは資本家に対して資本主義段階における中心の担い手として認めてはいた。それならばなぜ、資本家の頭脳労働価値をゼロなどとみなすのだろうか?前にも述べたようにこれはこの時点における事実認識である。唯物史観における資本主義段階、社会主義段階、共産主義段階などといった時代区分は何の関係もないことなのである。まずこの事実認識を踏まえた上でこれらのことは問題にすべきであろう。資本家以外の頭脳労働に対してはその否定は明文として存在していない。これはその通りなのである。そして、その時代においては身体労働者(プロレタリアート)が圧倒的に多かったというのも事実であろう。しかし、頭脳労働の叙述が『資本論』に存在していないということは果して偶然なのだろうか?これは極めて難しい問題である。ある文章、ある書物のなかでそれらが持つ文脈において、ある内容の文章が書かれるべきである、と思われた時に(これもかなり主観的な要素が入ってくるだろう)その文章が存在していないということは、その著者がどのように考えていたのか、あるいは考えていなかったか、ということを他に何の情報も存在しない時は、決してわからないということになるのである。これは推測するしかない問題である。その推測がどれくらい説得力があるか、間主観的合意を得られるか、ということになるだろう。この推測を次の節において行いたい。次に、「重要なのは階級闘争であり、階級関係である」マルクスが再三再四、強調してきたのはいうまでもなくそのようなことである。頭脳労働と身体労働との関係というものは、マルクスの著作のなかではほとんど触れられていない問題である。階級関係を重視すれば、同じ階級に属する労働者ならば身体労働者であろうと頭脳労働者であろうと同じである。まさに歴史的にもそのようにとらえられてきたのである。誰もそのことに疑問を持たなかっただろう。だが、そのことこそマルクスの緻密極まりない計算の結果だという推測を次節以降で検討したい。

 

 第14節 階級と分業、協業

 

 資本制生産様式中心部に焦点を当てて、階級と分業、協業の関係を考察してみたい。様々な業種間の社会的分業も重要なことではあるが、ここでは同一の業種における技術的分業に焦点をあててみたい。以前に検討したように、身体労働には必ずそれに先行する頭脳労働が存在する。また、それと同様に(資本家以外の)ある頭脳労働にも必ずそれに先行する頭脳労働が存在する。先行する頭脳労働のある起点になるのがすなわち資本家(経営者)ということになる。その資本家が賃金労働者としての身体労働者ないし頭脳労働者を雇用する。この間にマルクスが分析したように法的に平等でも、実際には資本家が優越する領有法則の転回が存在する。(これも議論の多い問題だと思われるが)資本家が階級的に上位に来る階級関係が生ずるのである。その次に来る関係はどのようになっているのだろうか。多くの技術的、能力的理由そしてマルクスが分析した相対的剰余価値を高めるために効率を上げるための分業が存在する。その分業形態は大きく三つの形態に分かれるだろう。図式で示すと以下のようになる。
 
 分業の第一形態 資本家→身体労働→身体労働
 
 分業の第二形態 資本家→頭脳労働→身体労働
 
 分業の第三形態 資本家→頭脳労働→頭脳労働
 
 これは現代社会での労働形態を考えてみれば、ごく常識的なことである。もちろん、現実はこれよりもさらに細分化、多層化、複雑化されるわけであるが、基本的にはこのようにとらえられるのではないだろうか。まず、第一形態から考えると、資本家(経営者)が雇った身体労働者が一つの商品を生産するのに流れ作業等にそれぞれの工程を分担し、分業することによって生産効率を高める。ごく初歩的で一般的な分業形態である。しかし、現実には純粋にこのような形態の会社、工場といったものは小企業のごく一部であろう。資本家と身体労働者の間には多くの場合、現場監督などの中間管理職が入るだろう。また、経理などをする事務職が入る。そうなるとそれらは分業の第二形態とみなされる。現代の物質的使用価値を生産する会社、企業のほとんどがこの第二形態の形をとるだろう。この場合の頭脳労働→身体労働の間の分業、協業も非常な多様性があるが、例えば『資本論』のなかに出てくる多くの産業革命当時の機械の生産にはその機械を開発設計する技術者、製図者という頭脳労働者とその情報を現実の商品として制作する身体労働者がいる。これは頭脳労働→身体労働の分業、協業形態の典型的な例である。分業の第三形態は特に現代における情報産業、サービス産業などに多く見られるだろう。


 ここでは分業の第一形態と第二形態に焦点を当ててみる。『資本論』ではこれらの分業はどのように扱われているだろうか。「第4篇 相対的剰余価値の生産」では資本制生産様式における分業と協業が多く取上げられ詳しく分析されている。その中の一部を抜粋してみる。
 
 第三節 マニュファクチュアの二つの基本形態 異種的マニュファクチュアと有機的マニュファクチュア
 
 マニュファクチュアは二つの基本形態から成り立っている。この二つは、時には相互に絡み合ったりはするものの、二つの本質的に異なる種類のものであって、のちにマニュファクチュアが機械による大工業に変質する場合にも、まったく異なった役割を果たす。この二重性格は、製品そのものの性質に由来している。製品は、自立した部品のたんに機械的な組合わせによって作られるか、あるいは、相互につながりのある一連の工程と操作の結果としてできあがった形態になるかのどちらかである。例えば蒸気機関車は、5000以上の別々の部品から成っている。しかし、蒸気機関車は、今挙げた本来のマニュファクチュアの第一の形態の例と見ることはできない。というのも、大工業の産物だからである。しかし、時計はそのいい例であろう。ウィリアム・ペティも時計を例にしてマニュファクチュァ的な分業を具体的に説明している。時計は、ニュルンベルクの職人の個人的な製品からしだいに、無数の部分労働者から成る社会的な産物へと変わってきた。無数の部分労働者とは、素材製造工、時計バネ製造工、文字盤製造工、ゼンマイ製造工、穴石およびルビー軸製造工、時計針製造工、時計枠製造工、ネジ製造工、メッキエ、さらにはこうした仕事のさらに下部の仕事、例えば歯車製造工(真鍮製と鋼鉄製に分かれる)、バネ軸製造工、指針装置工、歯車装置仕上げ工(歯車を軸につけ、切り子を磨く仕事など)、尖軸製造工、歯車組立て工(歯車と軸を組み上げ、歯車装置にする)、ゼンマイ箱製造工(歯車の歯を刻み、穴を適切な間隔で開け、固定し、ストップをつける)、制動装置製造工、シリンダー製造の場合には、シリンダー製造工、制動輪製造工、平衡輪製造工、緩急装置(時計の針を調整する装置)、エスケープメント製造工(本来の制動装置製造工)、円筒仕上げ工(バネ箱および配置盤を仕上げる)、鋼研磨工、歯車研磨工、ネジ研磨工、数字書き込み工、文字盤製造工(銅にエナメルをかける)、止め金製造工(時計の枠の止め金だけを作る)、蝶番工(枠の中央に真鍮の軸を入れる)、蓋バネ製造工(枠の蓋を開けるバネだけを作る)、彫り物工、彫金師、枠磨き工などなど、そして最後に、時計全体を組み立て、動くようにして引き渡す仕上げ工、というわけである。時計の部品で、いくつかの手を経てできあがるものはほとんどなく、こうしたばらばらの肢体の各部はやがて、一つの手によって、一つの機械に組み上げられるのである(20)。

 
 この相対的剰余価値の生産のなかでは、伝統的なマニュファクチュアが資本制生産様式の下でどのように変貌されていくかが検討されている。多くの工程を1人の職人が受け持ち最後の完成まで持って行く、というそれまでの方法からそれぞれの工程を別の職人が分担する分業の形態をとるようになる。それによって生産効率が高まり相対的剰余価値が高まる。すなわち、一定の時間における必要労働時間の相対的な割合が低下するのである。これは純粋に分業の第一形態における分析をしている、とみなすことができるだろう。この過程のなかに事務職などの頭脳労働があるかもしれないが、それらは捨象されていると考えられる。核心をなす問題は次のようなことである。『資本論』のなかにこの分業の第一形態の分析に相当するような分業の第二形態の分析が存在するだろうか?例えば、この引用文のなかに「蒸気機関車は、5000以上の別々の部品からなっている」という文章がある。この章においてこれ以上取上げられないのは、蒸気機関車はマニュファクチュアの形態ではなく大工業の産物だからである、とされているが、それでは「資本論 第13章 機械類と大工業」のなかにその蒸気機関車の生産過程を分析した箇所があるだろうか。蒸気機関車は一つの例であるが、それ以外にも産業革命をになった数多くの機械や装置が存在するが、それらの生産過程の中にも多くの分業があり、またその機械生産をする資本家は同じように、絶対的剰余価値、相対的剰余価値を高めるために努力するだろう。頭脳労働においては身体労働と異なることもあるが、それでも同じように剰余価値を高める努力を惜しまないだろう。


 「第13章 機械類と大工業」において叙述されているのは、ここでも分業の第一形態であり分業の第二形態はまったく存在していないのである。『資本論』を読み進めていくうち、マニュファクチュアの分業形態を分析したのでこの「機械類と大工業」において、当然そのような機械生産に関する叙述があるものと思っていたのである。ところが、そのようなものはまったく存在していないのに驚いたのである。これら機械に関する叙述は、その機械の機能や構造や取り扱い方、といったものである。つまり、この章において機械は所与の条件になっていて、その機械の生産に関する問題ではなく、その機械を使った生産の問題を扱っているのである(21)。その機械を使った生産の問題、すなわち機械生産によって剰余価値を高めるための資本家の様々な手法が分析されていて、労働者は生きた労働ではなく、資本家の機械を使った生産における単なる道具のようなものとなり、都合が悪くなればいつでも路上に放り出されるのである。このような告発のような文体で書かれたものを読み進めるうち、いつしかここだけに注意が向けられてしまい、重要なことが捨象されていることに気づけなくなってしまうのではないだろうか。つまり、この機械の生産過程はどうなっているのか、ということがまったく存在していないというのは余りにも異常である。分業の第一形態と第二形態とではその扱われ方が極度に偏向している、とみなさざるをえないだろう。 


 マルクスがここで分析している労働過程は分業の第一形態であり、そこに登場する機械類は不変資本である生産手段の一部である。古典派経済学においてはこの労働過程における労働価値とその生産手段の一部である機械の生産における労働価値を混同する傾向があり、それが m+ vのドグマであったのである。しかしそれはこの機械を生産する過程における労働価値を扱わなくてもよい、あるいは扱うべきではない、ということをまったく意味しないのは当然のことである。それは混同するのではなく、明確に分節すればよいだけだからだ。つまり、ある労働過程を不変資本と可変資本と剰余価値に分析した場合、その不変資本のなかに生産手段としての機械が存在するとしたら、その機械の生産過程もまた同様に不変資本と可変資本と剰余価値として分析できる。そのような入れ子細工状の構造をなしているわけである。


 『資本論』において、分業の第二形態がどれくらい捨象されているかということをさらに詳しく分析してみよう。『資本論』において示されている具体例を読んでいくと、そのすべてが分業の第一形態を扱っているように思える。しかし、マルクスの時代においても完全な分業の第一形態というのはごく一部であったはずである。これらの具体例においても、実際には資本家と身体労働者以外の頭脳労働者は少数であっても存在する。以前にも示した引用文であるが、、、
 
 こうした主要階層とならんで、数からいえばわずかであるが、エンジニア、機械技師、指物師など、全機械の監視と常日頃の修理に従事する人員がいる。彼らは、一部は科学教育を受けた、一部は手工業に従事してきた比較的高い労働者階層であり、工場労働者の集団の枠外にあり、たんに彼らと混同されているにすぎない。こうした分業は純粋に技術的なものである。イギリスの工場法ではここで挙げた労働者たちを明確に非工場労働者とみなし、その法の適用外においている。これに対して、議会によって公表された「報告」は同じように明確に、エンジニア、機械技師他のみならず、工場支配人、配達係、用務員、倉庫番、荷造人等、つまりは工場経営者以外のすべての人びとを工場労働者のカテゴリーに含めている。これなどは統計上のごまかしをおこなおうとする意図が典型的に現われたもので、こうした意図はその気があれば、まだほかにも詳しく立証できるだろう(22)。
 
 (機械の保守、点検などのサービス業は頭脳労働か身体労働かという視点で考える場合、微妙だが中間あたりの性格付けができるだろうか。また、このような文章が存在しているということは、決してマルクスはこれらの職種を見落してはいないことを意味している)つまり、マルクスは分業の第二形態であっても、第一形態に還元して考えているのである。しかし、これら少数の例外も無視してよいはずはない。ここでさらに深く推測してみよう・・・マルクスが提示した具体例は分業の第二形態であっても第一形態に還元できる業種、職種に限定されているのではないだろうか。つまり、そこに関わる資本家以外の頭脳労働者は無視しても差し支えない程度である、という業種をあらかじめ選択して提示しているのである。逆にいうと、資本家以外の頭脳労働者がその業種の労働過程において捨象することのできない重要な役割を演じているような場合は、最初からまったく叙述から排除されているのである。叙述が始まるのはその労働過程の結果として生み出された商品である機械や装置からなのである。『資本論』をそのような視点から読み返してもらえれば明らかに感じられることだと思う。この膨大な数百ページにもわたって叙述されるこれらの具体例とそれに関わる論考に、このことが基本原則として貫かれているのである。これが単なる偶然であるだろうか?これは偶然どころではなく、極度の集中力で持って叙述されなければ決してありえないことなのである。


 ここで、『資本論』以外の著作、論考まで広げてみれば、マルクスは決して頭脳労働(精神労働)を軽視してはいない。あらゆる労働は何らかの価値をもっている、といっているし、未来社会論においては身体労働と頭脳労働の区別はなくなる―という展望を示しているのだから、頭脳労働の価値を認めていることは明らかである。・・・このような反論があるかもしれない。そうであるならば、『資本論』の頭脳労働の扱われ方とは完全に矛盾していることにならないだろうか。『資本論』はマルクスの全著作の中で、もっとも重要なものであるはずだ。資本制生産様式中心部の頭脳労働は、資本制生産様式中心部の身体労働と同等の重要さをもっている。あらゆる面において、両者は同等の比重で扱われなければならないだろう。『資本論』において、身体労働者(プロレタリアート)と同程度の叙述量が、頭脳労働者に対しても存在していなければならないのである。このような内容と『資本論』は、まったくかけ離れているということは明らかである。

 

 第15節 階級と分業の相関関係

 

 ここでいう階級とは、単に資本家と賃金労働者の間という2分化の関係だけではなく、その中間にあるような階層まで含めて考えてみたい。これは明確な階級差だけではなく微妙な階級的格差も含まれる。例えば同じ資本家に雇用された現場監督と流れ作業する労働者とでは微妙な格差が生じていることが多いだろう。ここでの分業は同じ業種内における技術的な分業に限定して考えてみたい。問題なのはこの階級差と頭脳労働と身体労働との相関関係である。まず分業の第一形態から考えてみる。資本家(経営者)は基本的には頭脳労働者である。例外は存在するだろうか、、例えば中小企業において、経営者が同時に身体労働者である場合もある。しかし、その場合でも身体労働と経営としての頭脳労働とは分けて考えられるだろう。つまり、資本家(経営者)としての頭脳労働→身体労働者との関係は階級関係であるとみなすことができる。次に分業の第二形態であるが、第一形態よりも格段に複雑になってくる。資本家(経営者)が雇用労働者に対して階級的上位にいることは同じであるが、雇用されている頭脳労働者と身体労働者の間には階級的格差は存在するのだろうか。これは存在する場合もあるし存在しない場合もある。しかし、頭脳労働者と身体労働者とでは相対的には頭脳労働者の方が階級的上位に来る、ということはいえるのである。現場監督や支配人、技術者(テクノクラート)現代では専務や工場長、部長、課長、係長といった管理職は頭脳労働者である。身体労働者の中でも部署のリーダーというものはやや階級的上位にある、とはいえるが身体労働者は相対的には下辺に位置するといえるだろう。ただし、管理職以外の多くの頭脳労働者と身体労働者はほとんど差はないといえるのではないだろうか。
 
           資本家(経営者)
              ↓A
           頭脳労働者(テクノクラート、中間管理職など)
           ↓B    ↓C       
        頭脳労働者→身体労働者
                             D
 
 上図は分業の第二形態における典型的な階級差と分業の関係を簡略に示したものである。↓、→は指示、企図、情報の流れの方向を意味している。もちろんこれは主要な流れの方向であって、情報などは逆向きになる場合もある。しかし、階級関係を内包する指示、企図などはかなりの強制力を持ったものとして↓の方向に従うだろう。マルクスは初期において、階級関係と分業を同一視する傾向があった、といわれている。『ドイツ・イデオロギー』のなかに「私的所有と分業は同じことを意味している」という文章がある。資本主義においては私的所有によって階級差が生じてくるのだから、階級と分業は同じことを意味している、と言い換えることもできるだろう。特に頭脳労働と身体労働との関係を階級差と結びつけて考えたかったのではないだろうか。分業の第一形態においてはほとんどそのようにとらえてもよいように思われる。ところが現実はそのような単純なものではないことは明らかである。身体労働者に対して階級的上位にいる頭脳労働者は多く存在するが、そうでない頭脳労働者、例えば事務職などは階級的には同じである。→Dにおける関係も、前に実例として挙げた機械製図と機械を製造する労働の関係も、技術的には製図者が完全に主導権をもっているが、それにもかかわらず両者の階級関係はまったく平等である。つまり、頭脳労働者→身体労働者の関係は↓ ACでは階級関係が存在するが、→Dでは階級関係はほとんど存在しない。このように頭脳労働対身体労働の関係は階級差が存在する場合もあるし、存在しない場合もあるといえるだろう。ただし、身体労働者が頭脳労働者よりも階級的上位に来る、ということはあまり考えられない・・・これはなぜなのだろうか?この問題の哲学的レベルにおける考察は後に行いたい。頭脳労働と身体労働との関係が階級関係と一致しない・・・これはマルクスにとって非常に都合の悪いことだったのではないだろうか。


 上図を見てもらえれば明瞭に理解されるように、『資本論』の叙述は資本家(経営者)↓AC身体労働者の関係にほとんどが費やされている。しかし、それは資本制生産様式全体からすれば重要ではあっても一つの側面でしかない。なぜここまで資本家以外の頭脳労働者を捨象しなければならなかったのだろうか?そしてなぜ資本家の経営としての労働価値をゼロとみなしたのだろうか?

 

 第16節 頭脳労働価値捨象と資本主義分析

 

 マルクスが『資本論』で表したかった最大の目的は資本制生産様式、資本主義社会の動態分析であろう。資本家間の競争による淘汰があり、それによって資本が一極集中に動いていく。労働者は資本家間の競争の犠牲となり、剰余価値を絞り取られ、機械化や恐慌によって首を切られ悲惨な生活を強いられる。大量の産業予備軍が生まれ、仕事がある間は過酷な労働を強いられ、仕事がなくなればまったく無為な状態になる。そのような極端な状態を行き来するのである。剰余価値は資本となって蓄積していき、さらなる資本制生産を可能にする。絶え間ない資本の再生産が続くのである。そして、ひと握りの勝ち残った資本家が社会に君臨し、それ以外の全員が窮乏化していくのである。このような二極化が進行し、それが頂点に至った時革命が勃発する・・・これ以後のことは『資本論』ではあまり叙述されていないが、それ以前の著作『共産党宣言』『ドイツ・イデオロギー』などで示されているように、社会主義社会、共産主義社会に至るというわけである。


 疑問は次のようなことである。以上の資本主義の動態分析と今まで検討してきた頭脳労働価値の捨象、資本家の労働価値の否定はどのような関係にあるのだろうか。まず、資本家の労働価値の否定から考えてみよう。本論で述べてきたことは資本家の経営としての頭脳労働は当然有用労働であり、労働価値説の適用を受ける。つまり、ゼロになるなどということはありえない。これは単なる事実認識であり、マルクスの主張は白を黒というようなものである。資本家の頭脳労働に労働価値説を適用してみる・・・労働力換算の問題があるが労働者と同等に考えてみよう。これは、第8節 剰余価値率の根本問題、で検討した事例で考えてみれば、資本家が受け取る正当な報酬は剰余価値の20分の1である。現実に考えてみても、この数字は数十分の1~数百分の1といったレベルになるのではないだろうか。つまり、ほとんど問題になりようもない数字なのである。例えば「資本論 第22章 剰余価値の資本への変容」の叙述で資本家は経営をはじめ労働者から剰余価値を搾取し始める。そのときの不変資本は資本家のものであるが、やがてその不変資本は実際には労働者から搾取した剰余価値にすべて置き替わる。ある一定期間後には資本家の資本は本来なら労働者のものになる、というわけだ。しかし、私的所有の権利が認められているブルジョワ社会では法的にもそれは資本家のものであり、労働者のものではない。この一定期間後の一定期間が例えば100日だったとしよう。マルクスは資本家の労働価値をゼロとみなしているが、先の事例の資本家の労働価値が剰余価値の20分の1だった場合でも、この100日が105日に延びるにすぎない。つまり、資本家の労働価値を認めたとしても、マルクスのこの主張にほとんど影響を及ぼすことはないのである。それではなぜこのような極端な主張をしたのだろうか?


 資本家の労働価値を認めたとしても、マルクスの資本主義の動態分析全体に対する影響は同じくほとんどないと考えられる。問題があるとすれば、労働力換算において資本家の労働価値を剰余価値と同じに持って行く、ということが考えられるが、幾らなんでもこれは詭弁というものだろう。ただ、マルクスはその可能性すら断ち切りたかったのかもしれないが。このことはこの「資本論批判」において最も重要なことである。資本家の経営の労働価値をマルクスは認めていないというこの批判は、資本制生産様式、資本主義社会の過程分析、動態分析に対する反論にはなりえないということなのである。もちろんこのことは、現時点におけるマルクスの資本主義過程分析における未来予測が正しかったかどうか、ということとは別問題である。現在では二極化理論、窮乏化理論、利潤率低下といった主要な未来予測はほとんど外れたといってよい。しかし、マルクスの資本家の労働価値の否定がこれら未来予測の外れた原因ではない。


 続いて、資本家以外の頭脳労働の捨象はどのように影響しているだろうか。これはかなり複雑で微妙な問題だと思われる。資本家対雇用労働者という単純な2分法であれば、これら頭脳労働者も身体労働者と同様の扱いとなり、ほとんど変わりないように思える。しかし、中間管理職やテクノクラートといった中間的な階層を捨象していることになる。これらの階層は資本主義の動態分析における二極化理論にとってかなり都合の悪いことであろう。現実の歴史を見ても、これらホワイトカラーの大量の出現によって二極化どころか非常に多層化していったのである。


 この「資本論批判」において、資本家の労働価値の否定、それ以外の頭脳労働価値の捨象ということを問題にしてきた。資本家以外の頭脳労働価値の捨象は階級関係を強調することによって、一般には目立たないものになっている。しかしそれは非常に重要な意味をもっているのである。これらはすべてマルクスの誤謬や見落しというものではなく、完全に意図的なものである、と確信している。それはどのような意図であるのか。次の章で検討していきたいと思う。


 

(20)『資本論 第一巻 上』 504,505頁


(21)『資本論』に出てくる多くの機械、クローセン式回転織機、ジェニー紡績機、スロッスル紡績機、自動ミュール紡績機、ワットの複動蒸気機関、それによる様々な工作機械、汽船、鉄道などなどの開発、設計、それはどのように制作され商品となるのか―これらの具体的な記述はまったく存在しないのである。このような重大な問題がなぜまったく指摘されてこなかったのか、不可解としか言いようがない。資本制生産様式をとる近代産業にとってこのような機械の制作過程の方が、マニュファクチュアの時計の制作過程よりもはるかに重要であるはずである。それなのに『資本論』はまったく逆になっている―これは完全に意図したものであると推測するのである。


(22)『資本論 第一巻 下』 76頁


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<論文> マルクス主義の解剖学 4 

 『マルクス主義の解剖学』

 

 第1章 『資本論』批判


 第9節 頭脳労働形態論、価値論

 

 今まで検討してきたように、『資本論』のなかには頭脳労働形態、価値に関する記述がほとんど存在しない。しかし、現実の資本制生産様式中心部においては頭脳労働と身体労働とは密接に繋がっている。そしてこの頭脳労働と身体労働の関係と階級関係とがどのように相関しているかも複雑で重要な問題である。これも後で検討するとして、頭脳労働形態を具体例に沿って考えていきたいと思う。


 私は過去にあるプラントや機械の設計、製図の仕事に携わった経験がある。設計といっても基本的な設計はほとんど出来上がっていて、顧客の要望や条件によってレイアウトを考えたり、多少の変更を加えたりするような設計であった。大まかな見取り図を描き、それに基づいて各部品の部品図を描き、その部品をどう配置するかという組み立て図を描く。それを製造部門に渡すのである。製造部門においてその図面に従って、鉄鋼材やステンレス材、その他様々な部材を加工や溶接などをして部品を仕上げ、それを現地まで運び組み立てるのである。『資本論』のなかでは労働とみなされているのは、この場合の製造部門の仕事である。それでは、この設計、製図の仕事は労働ではないのだろうか。このような種類の仕事については、『資本論』ではほとんど触れられていないのである。したがって、労働であるとも、労働でないとも書かれてはいない。この場合の商品はこのプラントであるが、この物質形態に直接労働力投下をしたのは、製造部門の労働者たちである。それでは設計製図部門の労働とはどのようにみなされるのだろうか。それはこのプラントを設計し、その情報を図面の形で物質化したといえる。その情報はある特殊な、つまり時間的にも空間的にも、その他様々な条件の制約のもとでしか成立しない間接使用価値だといえる。それはその条件以外では何ら有用性を持たないものである。その間接使用価値を製造部門の労働者に投下し、それに基づいて製造部門の労働者は現実の物質形態を持った商品を生産する。設計製図部門の労働はその商品に対して間接的に労働力を投下したとみなされるのではないだろうか。つまり頭脳労働は商品に対して間接労働力投下を行っているのである。蛇足であり、まったく常識的なことだが、この間接労働力投下である頭脳労働の結果としての情報がなければ、製造部門の身体労働は何一つ有用性を持たない意味のないものになる。


 このことは以前検討した資本制生産様式中心部、或いは周辺部においても部分的には当てはまる相互依存し、共同関係にある頭脳労働と身体労働のほぼすべてに当てはまることなのである。頭脳労働は経営、管理、開発、設計、広告、営業、マーケティング、経理或いは総務、人事など複雑多岐にわたるだろう。それらの労働力は直接的な使用価値を生産する場合には、その生産物に対して間接労働力投下を行っていると考えることができる。これらの労働価値はマルクスのいう不変資本と可変資本のなかでは当然、可変資本のなかに含まれる。マルクスが剰余価値算出の公式のなかに示したのは、可変資本は身体労働のみであった。このように断定することには異論があるかもしれないが、『資本論』の叙述はそのように受け取れるものなのである。しかし、これらの頭脳労働価値は可変資本のなかに必ず加算されなければならない。


 もし、加算されなければどのようなことになるかを考えてみよう。先に示した頭脳労働価値すべてが可変資本ではなく、剰余価値のなかに示されることになる。さらに剰余価値とは資本ないし資本家が労働者から搾取されたものとみなされている。つまり、頭脳労働価値とは労働者から搾取されたものとなってしまうのである。頭脳労働者の報酬すべてが身体労働者から巻き上げた搾取物なのである。例えば現代の日本を考えてみよう。情報化社会の現代では頭脳労働の比率は極めて高くなっている。資本制生産様式中心部の仕事の従事者も、数千万人の頭脳労働者と数千万人の身体労働者がいることはたしかであろう。数千万人の頭脳労働者の報酬は、数千万人の身体労働者から搾取された不当な報酬だということにならざるをえない。これを正義の名のもとに強制力で持って正常な状態に戻すことをするならば、頭脳労働者の受け取った報酬はすべて身体労働者に還し、頭脳労働者の報酬はゼロとなる。もちろんこれは正気の沙汰ではない・・・このようなことをすれば瞬時にして日本は壊滅するだろう。これはかなり極端な話であるが、明瞭に理解できるためにあえて示すことにした。これはマルクスの分析対象が、資本家あるいは資本と(身体)労働者という単純な2分法であるためでもある。資本家以外の様々な頭脳労働者はそのために十把一絡げに資本のなかにくくられてしまうのである。


 頭脳労働が生産するものは、間接使用価値を持つ情報である。これは一見情報とみなされないものも、広義の意味においては情報に含まれるのである。例えば経営者や中間管理職の社員に対する管理や企図、指示というものは情報を生産しているとはみなされないが、広い意味においては情報なのである。商品を企画開発、設計などは身体労働に対する直接的な情報の生産となる。営業や広告などの業務も使用価値である商品を需要者である買い手に円滑に効果的に届けるための情報をつかさどるものである。経理は全体の価格の管理、運営という重要な情報の仕事を担っている。これらすべての労働価値は商品に対する間接労働力投下としての価値となる。資本制生産様式、資本主義社会においては使用価値である商品に対して、絶え間ない膨大な間接労働力投下が行われている。これらすべては可変資本のなかに加算されなければならないのである。この加算ということも、マルクスの公式にあっては身体労働が先に措定されているので加算ということになったにすぎない。現実の会社や企業の経理においては、すべての頭脳労働も身体労働も等価値のものとして統一的に扱われる。(もちろん会社、企業内の階級差もここには含まれるわけであるが)私が関わった会社でも、設計製図部門と製造部門の給与体系はまったく平等であった。この点においてはマルクスよりも資本主義社会の会社の方が労働価値説の本来的な意味に忠実だといえないだろうか。これはまったく常識的なことをいっているにすぎない。マルクスの剰余価値算出の公式が念頭にあり、それに頭脳労働価値を加算しなければならない、などと考えて経理をしている会社、企業など存在するはずがないのである。ここで問題提起をすると、これらの頭脳労働を考えなければならないのは、資本制生産様式、資本主義社会であるからなのだろうか。社会主義になればこのようなことを考える必要はないのだろうか?

 

 第10節 『資本論』における頭脳労働

 

 ここで肝心の『資本論』において頭脳労働がどれくらい記述されているか、身体労働との比較において見てみたい。(これは『資本論 第一巻』に限定してある)当然、資本家の行為の内容、意味の記述というものは『資本論』全体の最大のテーマであり、膨大な量にのぼるわけであるが労働価値を持つものとしてまったく扱われてはいない。それは労働者に対する搾取行為なのである。それでは資本家以外の頭脳労働者はどれくらい登場するのだろうか。これは資本制生産様式中心部の頭脳労働者以外は除くものとする。「彼のもとで働いていた現場監督と支配人は肩をすくめる」(15)「こうした主要階層とならんで、数からいえばわずかであるが、エンジニア、機械技師、指物師など、全機械の監視と常日頃の修理に従事する人員がいる。彼らは、一部は科学教育を受けた、一部は手工業に従事してきた比較的高い労働者階層であり、工場労働者の集団の枠外にあり、たんに彼らと混同されているにすぎない。こうした分業は純粋に技術的なものである。イギリスの工場法ではここで挙げた労働者たちを明確に非工場労働者とみなし、その法の適用外においている。これに対して、議会によって公表された「報告」は同じように明確に、エンジニア、機械技師他のみならず、工場支配人、配達係、用務員、倉庫番、荷造人等、つまりは工場経営者以外のすべての人びとを工場労働者のカテゴリーに含めている。これなどは統計上のごまかしをおこなおうとする意図が典型的に現われたもので、こうした意図はその気があれば、まだほかにも詳しく立証できるだろう(16)」実に驚くべきことに、この程度であってただ名前が出たというだけで、それ以上の詳しい内容は一切書かれていない。しかも、あとの方の文章はマルクスの対象としている身体労働者と同じに扱うな、という批判の内容だけである。


 それに比べて、身体労働者すなわちプロレタリアートは膨大な量の詳しい記述が何百ページにもわたって述べられているのである。最も例として取上げられているのが紡績工であり、そのほか様々な職種、業種が取上げられている。第8章 労働日、から拾ってみよう。レース製造業、陶器製造業、マッチ製造業、壁紙工場、製パン業、鉄道労働、婦人服製造業、鍛冶職人、ガラス工場、製鋼製鉄工場、製紙工場、それぞれが詳細に論じられ、どれほど過酷な労働条件のなかにあるか、資本家の剰余価値の搾取がどれほどすさまじいものであるかということが、これでもかと述べられている。ここで注目したいのは、これらの内容のなかに頭脳労働者が存在しないことなのである。現代において明瞭であるように過重労働を強いられているのは、身体労働者だけでなく頭脳労働者も大勢いる。夜遅くまで残業で追い立てられているのは、むしろ頭脳労働の方が多いかもしれない。マルクスの時代はどうであったのか、詳しいことはわからないのだが身体労働者と同じように過酷な条件で剰余価値を絞り取られていた頭脳労働者、例えば中間管理職、事務員なども居たはずである。数としては現代よりもかなり少数ではあったろうが、まったく存在しないということは考えられないのではないだろうか。これらの事例が『資本論』のなかにまったく存在しないのはなぜなのだろうか?


 『資本論』第13章 機械類と大工業、のなかには産業革命当時の様々な機械が登場してくる。少し上げてみるとクローセン式回転織機、ジェニー紡績機、スロッスル紡績機、自動ミュール紡績機、ワットの複動蒸気機関、それによる様々な工作機械、汽船、鉄道などなど・・・それら機械の登場により、労働者がどのような変化をこうむっていくかということが詳細に分析されている。それは決して労働者のためにはならず、資本家の剰余価値を高めていくだけのものである、ということが論じられている。この資本の蓄積自体を否定するつもりはもちろんないが、ここでも論じられている対象が極めて偏っているように思われるのである。この様々な機械もまた商品であり、それが生産されるまでは多くの労働が関わっている。この機械の生産に関わる労働者は、資本家によってこの機械で働かされる労働者とはかなり違った階層にいるのである。まず、その機械を開発した科学者や技術者、それを製作できるための部品図などを描く製図師(技術者が兼ねる場合もある)、その図面を見て機械の部品を製造、組み立てをする高い技術力を持った労働者がいる。ここではかなりの比率で頭脳労働が関わっている。また、ここでの身体労働者は単純な身体労働をする労働者とは違う扱いを受けるだろう。つまり、身体労働者間でも格差があり、マルクスは比較的優遇されている身体労働者はほとんど議論の対象にしていないように見える。資本制生産様式全体を考える場合、これらの労働の労働形態や価値論を考えることも、単純な身体労働を論じることと同様に重要なのではないだろうか。今まで、資本制生産様式中心部の身体労働と頭脳労働との関係を現代の状況に即して考察してきたが、マルクスを弁護するために、現代との差を考慮しなければならないかもしれない。マルクスの時代は現代とは非常に異なっている、という反論もあるかもしれない。『資本論』を読むと実際よりも、その感覚を増幅させられるのではないか、と思うのである。それは機械の生産の内容や様々な頭脳労働をマルクスは徹底的に捨象し、身体労働者(プロレタリアート)と資本との関係に叙述を集中しているからである。比率は現代よりも少ないとはいえ、機械生産などに関わる労働形態は本質的に現代との差はないのである。


 これまでほとんど『資本論 第一巻』を対象に論じてきた。このことについてこのあたりで少し説明しておきたいと思う。よく知られているように『資本論』はマルクスが直接完成させたのは第一巻のみであり、第二巻、第三巻はマルクスの死後、残された草稿を元にエンゲルスが編集したものである。本論の目的は純経済学的な見地から、『資本論』を検討、批判しようというものではなく、ある経済学的領域からイデオロギー分析に進もうというものである。この分析に最も重要なことは『資本論 第一巻』にほとんど集約されている。このため経済学として『資本論』全体を視野に納めるというものではない。また、イデオロギー分析の見地から文体の微妙なニュアンスなども考慮されなければならないので、この点からも、マルクスとエンゲルスはかなり違っていると思われる。これらの理由から、『資本論 第二巻 第三巻』はあまり重視しないことにしたい。ただ、『資本論』における頭脳労働の扱われ方という点で、第二巻 第一篇 第6章 流通費の部分などで少し取上げられているので、伊藤誠『「資本論」を読む』から抜粋した以下の文章で示しておくことにしたい。
 
 すなわち、商品の売買に従事する資本家の活動や商業活動に雇用される労働者の労働は、商品売買に付随する簿記や貨幣(及び貨幣取り扱い費用)とあわせて、純粋な流通費をなしている。その労働費用は、商品の売買に伴う形態変換を媒介するにとどまり、商品の価値を創造するものではありえない。したがって、その労働費用は、生産過程で算出される剰余価値から控除されて支えられなければならない社会的空費をなしている。商業労働者の剰余労働は、その空費を節減する意味をもっている(17)。
 
 ここでは商品流通に関する労働費用は商品の価値を創造するものではないので、剰余価値から控除されている。この労働費用のなかに頭脳労働も含まれるので、この頭脳労働は剰余価値のなかには入らない、ということである。しかし、これは資本制生産様式中心部の頭脳労働のごく一部分である。このような例外事項を多く認めていけば、剰余価値算出の基本公式自体が誤ったものだということになってしまうだろう。また、この商品流通自体に価値がないのだとすれば現代の運輸業などはどうなってしまうのかと思うのだが、、、

 

 第11節 古典派経済学との関係性 意味の転化

 

 今まで、労働価値説の対象問題を中心に議論を展開してきた。一般的に労働は身体労働と頭脳労働とに分類される。特に資本制生産様式中心部の労働においては、身体労働と頭脳労働とが密接に連関している。しかし、マルクスは労働価値の対象をほとんど身体労働のみに限定しているのである。頭脳労働価値は資本家にあっては否定され、それ以外の頭脳労働者はほとんど捨象され、無視されている。個人的な見解では『資本論』の叙述は余りにも偏向している、と感じられたのである。ところが、マルクス以前、あるいはマルクス以後の経済学の歴史を知ると、このことがそれほど不自然に感じられなくなったのである。最初に経済学の歴史を勉強してから、『資本論』を読むとほとんどこのことに気づかれないのではないか、と思えてくる。それはなぜかというと、労働価値説はマルクスが最初に発案したものではなく、それ以前の経済学者たち、ペティ、フランクリン、アダム・スミス、リカード、 J.Sミルといった人々が労働価値説を唱え自己の理論に組み込んでいるからである。労働価値説の歴史自体をここで論じるわけにはいかないが、その時代の現実的な問題を解決するために提出された理論だということである。労働価値説は、商品の価格決定に関する人々の日常的経験から直ちに引き出せる理論ではなく、ある問題設定と理論的前提のもとで導き出される高度に抽象的な理論なのである。
 
 労働価値論とは、もっとも抽象的に言えば、「労働」と「価値」とのある関連を主張した理論である。この理論が成立するためには、まず価格から価値を分離し、次に価値と労働とを関連させるという二段階の認識過程が必要であった。リカードウやマルクスの労働価値論だけを念頭に置いている者がときどき誤解するように、価値の実体ないし源泉としての労働の認識があって初めて価値の認識が成立するわけではない。歴史的には、価値の認識が労働の認識に先立つ。まず価格と区別されるものとしての価値が認識されて、そのはるかあとになってから価値を説明するために労働が認識されるようになったのである。より正確に言えば、価値にはしばしば混同される二つの概念が存在している。一つは価格の認識から引き出される「購買力としての価値」、もう一つは労働の認識から引き出される「体化労働としての価値」である。重要なのは、本源的な価値概念としての購買力価値の認識がまず成立し、それを説明するために労働が認識されて、最後に二次的な価値概念としての体化労働価値の認識が成立したという点である。図式的に表現すれば、労働価値論の認識過程は、価格→価値(購買力価値)→労働→価値(体化労働価値)→価格、となる(18)。
 
 ここで問題の焦点にしたいのは、労働価値説を巡る様々な論点、価格と価値の関係、価値尺度の問題、支配労働価値説と投下労働価値説の問題といったものではなく、そもそも労働価値説が対象にしている「労働」とは何か?ということであり、具体的に言えば頭脳労働者、例えば技術者、事務職などはその対象になるのか、ということである。これらマルクスに先行する経済学者たちはどのように考えていたのだろうか。文献すべてを渉猟するわけにはいかないので、確実なことはいえないのだが、この問題は厳密に定義づけられてはいないようである。それはほとんど常識的な前提として身体労働が考えられている。上の引用文で示された(体化労働価値)とは当然、身体労働価値を意味しているだろう。そうなると、マルクスに先行する経済学者たちとマルクスとは労働価値説の対象問題としては特に違いはないといえる。マルクス経済学にとってこのことが重大問題だというならば、これら先行する経済学者たちの理論にもすべて等しくあてはまってしまうだろう。これはどのように考えたらよいのだろうか?


 マルクス以前の古典派経済学においては基本的に次のように表されていた。「生産費=労働の価値+利潤」マルクスによって、労働の価値は不変資本と可変資本に分かれるとみなされ、再生産と流通の総括的分析を追及できるようになった、とされる。この労働の価値は体化労働価値であり、すなわち身体労働価値である。利潤とはいうまでもなく資本家の利潤である。ここで以下のような事例を考えてみる。この資本家は業務が煩雑になってきたので経理を行うための事務職を雇った。この事務職員の報酬はどこにあるとみなされるだろうか。労働の価値が労働価値説の規定により身体労働のみを表しているとすれば、この中には事務職員の労働価値は入らない。そうなると資本家の利潤の一部から配当されると考えるしかない。あるいは、新しい機械の導入により技術者を雇わなければならないとしたら、この技術者の報酬も資本家の利潤の一部から配当されるとみなさざるを得ないだろう。ここで「利潤」という言葉の意味とニュアンスは中立的から肯定的な意味合いを帯びている、と受け取られているだろう。ところがマルクスは労働の価値を不変資本と可変資本に分かれるなど分析していく過程で、「利潤」を「剰余」と置き換えさらに「搾取」などと転化していく。「剰余」の意味とニュアンスは明らかに「利潤」から否定的、ネガティブなものになっている。さらに「搾取」となると否定的な意味合いは決定的なものになる。この意味の転化の問題は後でまた扱うが、ここで指摘したいことは次のことである。この事務職員や技術者の報酬は、資本家の利潤から配当されている。利潤が搾取ということになれば、資本家だけでなくこの事務職員や技術者も身体労働者から搾取している、ということになってしまう。これは以前に展開した論旨と同じである。


 つまり、このようなことである。マルクス以前の古典派経済学にとっては、資本家の利潤は中立的ないし肯定的に受け止められていた。頭脳労働が労働価値説の対象にならなくても、その利潤のなかに含まれるとみなせることによって、価値定義としては不備ではあっても緊急の問題にはならないのである。ところが、マルクスは違う。この利潤を決定的に否定的な意味合いにシフトしていくことによって、この頭脳労働価値も決定的に否定的な意味合いを付与したのである。だから、マルクスのいう「剰余」「搾取」は誤っている、と主張したいのではない。このように利潤を否定的な意味合いに転化するのなら「頭脳労働価値を労働価値説のなかに、あるいは対してどう定位するのか」が緊急課題になる、ということなのである。そうしないといままで検討したような事態になってしまうのである。これは現代の課題ではない。これは1世紀半前の緊急課題なのである。


 また、労働価値説と頭脳労働との関係をここで考察するならば、先の引用文で示された労働価値の認識過程が参考になる。多くの情報が有用なものとみなされ、売買の対象になる時は当然、ある価格として表示される。会社や企業内における情報伝達のように売買の対象にならない場合もあるが、その有用性は認められているのである。売買の対象になるとすれば、それもある価格として表示されるだろう。労働価値説の歴史的認識過程をここに当てはめてみれば、この価格から価値を分離できる。そしてこの価値を説明するために頭脳労働をその源泉として認めることができるのである。身体労働のみを労働価値説の対象として認めることは、マルクス経済学などの定義を実体的なものとしてとらえる実体主義であり、ドグマ化に陥っていると批判することができるだろう。

 

 第12節 意味転化の必然性

 

 利潤、剰余、搾取などの意味の転化の必然性を考察してみたい。「マルクスは剰余価値を発見した」と言われることがある。古典派経済学が商品生産物の価値が全体として不変資本と可変資本と剰余価値の三者から構成されていることを正確に扱えなかった。古典派経済学は不変資本価値もさかのぼれば労働によって形成されるので可変資本と利潤に分解されていく、とされていたのである。マルクスはこの欠点を克服し、可変資本が実は不変資本と可変資本に分かれることを発見した。利潤率という場合、不変資本プラス可変資本に対する剰余価値の比率であり、剰余価値率という場合は可変資本に対する剰余価値の比率として表されている。ここでは「利潤」から「剰余」はそれぞれ論理のなかで意味のある表示を担っている。ところがこの両者は明らかに意味内容が異なっているのである。つまり、単なる表示の手段としてだけではなく、それ以上の意味の変化を伴っている。それは明らかに否定的であり、ネガティブな価値観などを伴っている。論理の意味するものとこれらの言葉の意味内容との相関関係はどのようになっているのだろうか。ここで指摘したい重要なことは次のことである。これらの間には「論理的必然性はない」ということなのである。「利潤」とはどちらかというと資本家の側に立った意味内容やニュアンスをもっているだろう。「剰余」はそれに対して労働者側の立場に立ったニュアンスをもっているように感じられる。それはこのものが本来労働者のものであるはずなのにそうではない、という内容を含意しているかのような感覚を持っているだろう。しかし、このものは上記の論理展開の上で同じものしか表してはいない。論理の前と後で同じであるはずなのに意味内容が変えられているのである。それは便宜上の表示の違いとは別のレベルに属する。確かに「利潤率」は資本家側に有利であり、「剰余価値率」は労働者側に有利であるとはいえるかもしれないが、そのことで「剰余価値率」を「剰余価値率」と表示しなければならない論理的必然性はないのである。例えば「利潤率」を「利潤率A」と表示し「剰余価値率」を「利潤率B」と表示することも可能なのである。その逆に「利潤率」を「剰余価値率B」と表示し「剰余価値率」を「剰余価値率A」と表示することもできるのである。例えば「コロンブスは新大陸を発見した」という命題と「マルクスは剰余価値を発見した」を比べてみればよく理解できる。「コロンブスは新大陸を発見した」という命題はほかに変換できない論理的必然性があるが「マルクスは剰余価値を発見した」という命題はそのような論理的必然性はない。「マルクスは利潤の新しいとらえ方を発見した」ということもできるのである。


 しかし、そのことは「剰余価値」「搾取」と表現することが、不適切であるとか誤っている、ということではない。ただ、そのように表現する論理的必然性はない、ということなのである。それはある立場の主張であるととらえることができるだろう。そのように主張できるだけの客観的状況は確かに存在するといえるのである。これはなにも経済学を知っていなければ、そのように主張できないということはないのである。労使交渉をするのに、『資本論』を必ず読んでいなければならない、ということはないだろう。読んでいれば理論武装に役立つとはいえるだろうけれども、、労働者がいきなり資本家に向かって「利潤は搾取だ!」と叫ぶことはできるのである。そして、マルクスがいったことも本質的にはそれと同じことなのである。しかし、マルクスの巧妙なところは論理分析をしていく過程で「利潤」から「剰余価値]とラベルを張りかえ、さらに「搾取」や「不払い」と表現を転化させていく。あたかもこれらが論理的必然性をもって展開されていくような錯覚を起こさせるのである。しかし、これらはいきなり「利潤は搾取だ!」と言ったのと何ら変わりはない。つまり、これらの論理展開は「利潤」が実は「不払い労働の価値」であることを証明した、というようなものではまったくないのである。それはある立場の一つの主張なのである。またこのようにもいえるだろう。マルクスのいう「ブルジョワ経済学」の側にも同じ問題においては論理的必然性はないということである。それもまた一つの主張である。


 今までの議論を総合すると次のようになる。古典派経済学の流れのなかで労働価値説の対象問題は頭脳労働をほとんど扱っていないという不備があった。しかし、資本家の利潤を肯定的に扱っている段階ではこの不備は大きな問題にはならなかった。ところがマルクスはこの利潤を剰余価値、搾取、不払いといった否定的な意味に転化していった。この展開に論理的必然性はない。マルクスの恣意によってこのように意味が転化されたのだから、頭脳労働を労働価値説のなかにどう位置づけるかがマルクスにとっての緊急の責務になったのである。ところが、マルクスはその責務を果たすどころではなく、その正反対の方向に走ったのである。


 重要なポイントは大きく二つある。一つは古典派経済学からの労働価値説の対象問題の不備をそのまま受け継ぎ、それを確立する。つまり、厳密には定義されておらず常識的に身体労働のみを対象にしていた古典派経済学から、『資本論』は厳密に労働価値説の対象は身体労働である、と定義するのである。(ただし、明文としてではなく)そしてもう一つは、可変資本を不変資本と可変資本に分離する。このこと自体は古典派経済学の弱点を克服した正鵠を射た分析であることは間違いない。しかしその過程で、利潤→剰余→搾取、不払いと意味を転化していったのには論理的必然性はない、にもかかわらず論理的必然性があるかのごとく見せかけることである。可変資本を不変資本と可変資本に分離するという業績は以上の二つのポイントと別問題だということに注意しなければならない。関連しているかのように思えるが、はっきり分離することが可能なのである。以上の操作の目的は一つである。資本家は一切のコストをかけずに労働者から剰余価値を受け取る、ということを客観的事実として表示することである(19)。これは『資本論』の労働過程と価値増殖過程で述べられた「資本家の禁欲に特別の報酬を支払う理由は何もない。なぜなら労働過程から生み出された生産物の価値は投じられた商品価値の総体と等しいというだけのことだからだ」このような言い回しはこれがマルクスの主張ではなく、単に客観的事実を述べているにすぎない、といった印象をあたえるものである。しかし、今まで検討してきた通りこれは客観的事実なのではなく、マルクスの巧妙な操作によって捏造されたものなのである。これに対して、経営、管理をすべて支配人、監督官に任せてまったく仕事をしない資本家もいたではないか、という反論もあるかもしれないが、それでもコストがゼロになるなどということはありえない。また、経営、管理を任せられたこれら中間管理職の労働価値をマルクスはどこにも表示していないのである。結局、意味するところは同じである。



(15))『資本論 第一巻 上』 285頁


(16)『資本論 第一巻 下』 76頁


(17)伊藤誠『「資本論」を読む』講談社、2006年、282頁


(18)米田康彦 他『労働価値論とは何であったのか』創風社、1988年、11,12頁


(19)『資本論 第一巻 下』 313頁



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