反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 3 

『マルクス主義の解剖学』

 

第1章 『資本論』批判

 

第5節 使用価値 情報を巡る考察

 

 使用価値と情報を『資本論』の議論に関連づけて概観し検討していきたい。使用価値とはこのように述べられている。
 
 人間生活にとって一つのものが有用である時、そのものは使用価値になる。しかしこの有用性は空中に漂っているわけではない。有用性は商品の身体特性によって生じるのだから、この身体なしには存在しえない。したがって鉄、小麦、ダイヤモンド等などという商品身体は、それそのものが使用価値または財なのである(3)。
 
 これは使用価値に対する非常にわかりやすい説明だといえるだろう。これはまったく当然のように思われる。人間にとって有用なものとは、何らかの商品特性を持ったモノでなければならない、資本主義社会においては、それこそ膨大な量の商品特性を持った物に満ち溢れている。車、家、家電製品、スーパーに並べられた多くの食品、デパートに飾られる多くのファッショナブルな衣類、 CDショップにあるアーティスト達の CD、DVD、或いは高価な宝石、様々なものに溢れているのである。ところが、ここで重大な問題が抜け落ちていることに気づくのである。使用価値を持つものとは、必ず商品身体を持っていなければならないのだろうか。商品身体を持っていなくて、有用性を持っているものがあるのである。それは、交換価値の一方の対象である貨幣以外のものである。それが「情報」である。
 

 『資本論』には、情報論がほとんど存在しないように見える。情報化社会の現代では、情報は非常に重視されるのは当然である。マルクスの時代は現代とは違うわけであるが、それでも情報をまったく無視するということは見過ごすことのできない大きな問題なのである。「情報」とは使用価値ではないのだろうか。どう見てもそれはありえそうもない。我々は日常生活においても、様々な情報を有用に使っているのである。テレビから流れてくるコマーシャル、新聞の広告や、様々な情報誌、現代においては特にインターネットが情報の速さ量において大きく活躍している。それは特定の商品身体の形態を持つこともあるが、インターネットのホームページのように、パソコン等のハードウエアに支えられてはいるものの、デジタル空間にしか存在しないような形態を持つ場合もある。これらは特定の物質形態に拘束されることもなく、可変的であり、互換的である。例えば、パソコンのホームページはモニター上に映し出されるが、それをプリンターで印刷すればその情報は紙の上に実現されることになる。モニター上の情報も紙の上の情報も情報としての有用性は同等であるとみなされるだろう。


 マルクスのいう商品身体を持った使用価値と、情報の使用価値とはどう違うのだろうか。商品身体を持った物としての使用価値は、基本的には互換性がなく、それ自身の有用性を持った物として存在している。それは食物とか衣類とか人間にとって直接的な存在である。そのため感覚的には、五感全てがそのための手段となりうる。すなわち、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚といったもののその中のいずれか、或いは複数の感覚の統合において、その使用価値を有用なものとして使用する。例えば、ワインを例に挙げてみれば、その色、味わい、香りといったものが、ほかに代わられるもののない独特の良さを持っている。また酒として飲んだ後に、酔うことによって良い気分になる。視覚、味覚、嗅覚、そして体感的なもの、酔いという心理状態、それらの総合的な有用性を持った使用価値を持っているといえるだろう。使用価値としての情報は情報それ自身の有用性が維持される限り、どのようなものにも変換することができる。多様な互換性を持っているといえるのである。それは物それ自身として存在していないから感覚的にはかなり限定された対象になる。商品身体を持つ物は五感全てが対象になるのに対して、情報は主に視覚、聴覚がその対象になる。パソコンのモニターに映し出された評判の高いレストランの料理の写真を幾ら見ても、その味わいはわからない。そのレストランの料理の情報は、使用価値としては間接的なものであり、実際にそのレストランに行ってその料理を食べてみなければ、直接的な使用価値を享受したことにはならないのである。しかし、その料理を食べるために、パソコンのインターネットでしかその情報を得ることができない、と限定されるならばそのインターネットの情報は、その料理を食べるための不可欠の前提条件になる。間接的であっても代替の利かない使用価値なのである。


 情報は明らかに使用価値を持っている。それゆえに情報はそれ自身を貨幣と交換することができるのである。ただし、商品身体を持った使用価値とは違い常に貨幣との交換対象になるとは限らない。広告を考察してみればわかるように、そこには複雑な過程が存在する。情報は間接的な使用価値であり、互換性があり、制限なく複製することができる。広告は、その広告主が商品身体を持った使用価値である商品を購入してもらい利益を得るために、消費者にできる限りその情報を伝達したいのである。その利益を先行投資しているものと考えることができるだろう。そのためにこの情報は、受け手にとってはタダなのである。


 情報が使用価値を持っている、といっても商品身体を持った使用価値とは明らかに性質が違っている。ここで、商品身体を持った使用価値は直接使用価値であるが、これを単に「使用価値」と今まで通りに使用し、情報を「間接使用価値」として両者を区別しよう。これにはどちらとも取れるような中間の性質を持った物も存在する。例えば小説であるが、従来商品身体を持った本として存在していたが文字情報であるために、特に現代においてはデジタル技術等の進歩によって容易に大量の複製が可能になっている。そこで著作権やその他の法律によって、規制されるようになってきたわけである。これは商品身体を持った使用価値の性質を保存することだとみなすことができる。これは音楽作品や、映画等の映像作品にも同様のことがいえるだろう。


 情報の有用性、間接使用価値としての程度、貨幣と交換される交換価値の高さ、その形態というものは非常な多様性がある。社会全体に対して、非常に広い有用性を持っているものもあれば、極めて限定された有用性しかないものもある。天気予報等は、社会全体に対する広い有用性の代表的なものだろう。遺伝子工学の最先端の情報は、その分野の関係者にとっては非常に有用なものであるが、社会全体に対しては直ちに有用性を持たない。しかし、その情報が現実に応用され社会にとって有益な技術として実現したならば、社会に対する有用性を実現したといえる。歴史的に見て、最も重大な例の一つはかつての米ソ冷戦の時、アメリカの核兵器開発の情報をソ連のスパイが盗み出し、ソ連側に流していたということがある。これは第二次世界大戦中のマンハッタン計画の時からすでに始められていて、原子爆弾に関する多くの機密情報がソ連側へと流れていた。この情報に基づいてソ連の核科学者は、原子爆弾の開発を極めて迅速に行うことができたのである。アメリカに遅れることたった4年でソ連は最初の原子爆弾を完成させることができた。これは情報の有用性、使用価値のなかで第一級のものといえるだろう(4)。ソ連がアメリカから直接の使用価値である原子爆弾そのものを盗み出すことは極めて非現実的なことである。といって、穀物と同じように貨幣と交換してくれる、、、すなわち買うことも無理な話である。

 

 第6節 問題の核心へ「労働価値説」と「イデオロギー」

 

 資本論批判の中心である「労働価値説」の検討に入りたい。労働価値説とは「商品の価値はその商品の生産に投下された労働量に規定される」ということである。これに関して膨大な議論がなされ、多くの批判が集中的になされてきた。これはマルクス経済学、マルクス思想の根幹を成すものであり、これを基礎として剰余価値説が導き出されている。これが資本主義社会のブルジョワジーによる搾取の構造を解明している。それによって資本主義社会は二極分化していき、行き詰まり、やがてそれが極点に達すると、革命によってブルジョワジーはプロレタリアートによって打倒されて、プロレタリアートの支配する社会主義社会、共産主義社会に至るというわけである。だから、労働価値説はマルクス理論の攻防の中心となっている。しかし現在では、労働価値説はほとんど否定された状態になっているのである。


 労働価値説はマルクスが初めて説いたものではなく、先行する経済学者、アダム・スミスや、リカードによって提唱された理論をさらに発展させ自己の体系に組み込んだものである。しかし、この理論には大きな欠点があった。労働量は労働時間によって計られる。同じ労働時間ならば、それによって作られた商品は同じ価値を持つはずである。だが、熟練労働者が作った商品と未熟練労働者が作った商品とでは、同じ労働時間であっても商品の質に大きな差が生じてしまう。この矛盾をどのように解決したらよいのか。熟練労働者の1時間は、未熟錬労働者の1.5時間に相当するのか、2時間に相当するのか、或いはそれ以上か、そのような問題、すなわち「労働力の換算」をどう解決したらよいのか。リカードは、労働価値説について「これは資本主義より前の世界でしか通用しない」と反省しているのである。作業工程が単純なものなら、ある程度は適用されるだろうけれども、非常に複雑化した近代資本主義経済の生産においては、労働力の換算は大変な難問になる。マルクスはそこで「労働力の換算率は、市場のメカニズムによって決まる」という解決策を出した。これに対して「マルクスの説明は循環論に陥っている」という批判が上がったわけである。さらにこれに対して「労働価値説は、循環論によって説明しても差し支えない」という一般均衡理論からの反論もあったようである。しかし、マルクス理論全体からすれば、社会主義社会になれば市場は廃絶されるのだから、労働力の換算はできないことになる。結局、矛盾は解消されないだろう。また、スラッファは商品価格は価値や労働時間を一切考慮することなく、決定できることを明らかにした。


 また、剰余価値説については、青木孝平の次の文章などが参考になる。マルクスの時代と現代との差を割り引かなければならないが。
 
 たしかに資本主義社会において、剰余労働の生産物は直接生産者の所有に帰属するわけではありません。だがしかしながら、これはなにも「生産手段の私有による不払い労働の搾取」といった階級的な問題ではない。どんな社会においても、人間は必要労働部分を消費して労働力を再生産するのであり、剰余労働分は社会的な蓄積に当てられるはずです。この剰余は、社会的再生産のための補填分や拡大再生産ファンド、さらに非労働者への給付ファンドなどに回されることになります。したがって、剰余分が労働者に支払われないのは、所有の不平等とか搾取とかという問題とは何の関わりもない。社会のトータルな再生産の継続するための必要条件というべきです。この関係は資本主義社会のみならず、かりに高度の共産主義社会なるものを想定してみてもまったく同様であり、そもそも剰余労働を「不払い労働」などと呼ぶこと自体がマルクスのミスリーディングだったといえるのではないでしょうか(5)。
 
 しかし、本論で展開したいことは、以上のような既出の問題と関連しているものの、本質的にやや異なるものである。以上の議論は、基本的には経済学の問題だといえる。これから展開する問題は経済学上の問題とともに「イデオロギー」の見地から、資本論を分析していこうというものである。それとともに、「マルクス思想から現存した社会主義を考察する」ために、歴史過程のなかの『資本論』を考えていくことである。すなわち「イデオロギーとしての資本論」「歴史過程のなかの資本論」である。


 マルクス思想、マルクス主義のイデオロギーの目的は、いうまでもなく「社会主義革命」であり、その先に実現されるであろう「社会主義社会、共産主義社会」である。社会主義革命は、社会主義社会、共産主義社会に至るための避けて通ることのできない歴史の一大転換点である。それはイデオロギーから離れた立場では客観的な歴史認識であり、イデオロギーの立場からは主体的に実践していくものとなる。このイデオロギーの認識と、客観的歴史認識とは別のものでありながら、不可分な一体を成している。この両義性は時として、様々な見解の対立ともなり、また失敗した結果に対する弁解に利用されたりもする。この唯物史観に対する検討は第3章以降において行われるが、ここでは『資本論』の内容とどう関係しているのか、ということが検討課題である。

 

 第7節 剰余価値説と労働価値

 

 生産物価値から可変資本である(必要)労働価値と不変資本である原材料費、設備費、燃料費などを差し引いた残余が剰余価値である。資本家はこの剰余価値を最大限取得しようと努力する。この場合の労働価値と労働とは次のように表現されている。
 
 労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手はその売り手を働かせることによって労働力を消費する。それまでは可能性としての労働力、労働者に過ぎなかった労働力の売り手は、これによって現実に活動する労働力、すなわち労働者となる。彼が労働を商品のなかに表示するためには、なによりもまず使用価値のなかに、つまりに何らかの種類の欲求充足に役立つ物のなかにそれを表示する必要がある。したがって資本家が労働者に作らせるものは、ある特別な使用価値、ある特定の品目である(6)。
 
 どのような商品の価値もその商品の使用価値のなかに物質化された労働の総量によって、すなわちその商品生産のために社会的に必要とされる労働時間によって決まることをわれわれは知っている(7)。
 
 ここで問題にしたいのは次のようなことなのである。ここでいう労働とは、ある特別な使用価値、特定の品目を生産することであり、物質化された労働の総量・・・すなわち身体労働であることを明確に示している。今まで検討してきた通り、資本制生産様式中心部の身体労働には必ず、頭脳労働が先行して存在する。そして、その頭脳労働と身体労働は不可分な相互依存の共同関係にあるのである。この場合の頭脳労働とは当然、これら労働者を雇っている資本家の労働である。『資本論』のなかでは資本家は徹底的に労働者から剰余価値を搾取する者とみなされている。労働者を過酷な労働においやり、機械の導入によって不要になれば容赦なく首を切る。資本家と労働者の敵対関係がこれでもか、と強調されているのである。しかし、そのことと頭脳労働と身体労働の相互依存関係は独立した問題である。つまり、資本家と労働者の関係は敵対関係であるのと同時に相互依存の共同関係にある、という二重性を持っている。『資本論』のなかでこのように資本家と労働者との相互依存、共同関係について触れた箇所は実に少ない。ごくわずかに触れた箇所が剰余価値率の考察の部分で出てくる。以下の文章がそれである。
 
 剰余価値と労働力価値を、価値生産物の分割部分とみなす説明は―ちなみにこの説明方法は資本制生産様式自体から育ってきたものであり、この意味については後に解明することになろう―資本関係がもつ特殊な性格を隠蔽している。すなわちこの説明は、可変資本が生きた労働力と交換され、それに対応して労働者が生産物から排除されていることを隠蔽している。その代わりに登場するのが、労働者と資本家は生産物を作り上げているさまざまなファクターの比率に応じて生産物を分配しあう協同関係にあるという虚偽の外見である。資本制的な生産過程の発達した形態は、すべて協業形態をとるため、それらの形態がもつ特別に対立的な性格を捨象して、A・ド・ラボルド伯の『共同社会の全領域における協同の精神について』バリ、1818年、に見られるような自由な協同形態へとそれを捏造するのは、もちろんわけもないことである。北米人H・ケアリーは、時にこの芸当を、奴隷制度の諸関係に対してさえやってのけて、同じような成功をおさめている(8)。
 
 確かに労働者と資本家は生産物を作り上げている様々なファクターの比率に応じて生産物を分配し合う、という意味における共同関係はない。しかし、ここで問題にしているのは生産過程における分業形態であり、これらは連続した統一的なものである。この意味における共同関係まで否定することはできない。マルクスはこの意味における共同関係にはまったく触れてはいないのである。したがって、資本家の頭脳労働の価値はどのように表示されているのだろうか?
 
 俗流経済学に通じている資本家なら、自分は、自分の貨幣からより多くの貨幣を作り出そうという意図で前貸ししたのだと言うかもしれない。しかし地獄の道は様々な良き意図で粉飾されているものだ。資本家は、生産せずに金を作るという意図さえ持つことができたのである。資本家は脅しをかける。こんな不意打ちはもうくわない。これからは商品を自分で製造せずに、完成品を市場で買うことにすると。しかし彼の兄弟であるすべての資本家が同じことをすれば、どこの市場で商品を見つけるというのか。しかも彼は貨幣を食って生きるわけにはいかない。そこで資本家は説教を垂れる。私が節約していることも考えて欲しい。自分は15シリングで遊びほうけることもできたのだ。しかし自分はそうしないで、その貨幣を生産のために消費し、そこから糸を作ったのだと。しかしその報酬として彼は良心の呵責の代わりに糸を所有しているのである。彼は断じて貨幣退蔵者の役割に後戻りするわけにはいかない。貨幣退蔵者はその禁欲からなにが生じるのかわれわれに教えてくれた。しかも、なにも存在しないところでは皇帝といえども権利を失うのだ。資本家の禁欲にどんな功績があろうとも、その禁欲に特別の報酬を支払う理由はなにもない。なぜなら労働過程から生み出された生産物の価値は投じられた商品価値の総体に等しいというだけのことだからだ。したがって彼としては、徳は徳の報酬ということで納得すべきである(9)。太字強調 筆者
 
 しかし、ここで問題になっているのは交換価値である。資本家は労働者に3シリングの価値を支払った。労働者は資本家に、綿花に付加された3シリングの価値という形で正確な等価を返した。価値に対して価値を返したのである。われらの友はついさっきまであれほど資本を鼻にかけていたのに、急に彼の労働者と同じ控え目な態度になってこういう。私だって自分で働いたではないか。紡績工の監視、監督の仕事をしたではないか。この私の労働だって価値を形成するのではないか、と。彼のもとで働いていた現場監督と支配人は肩をすくめる(10)。

 
 長い引用になったが、ここは最も重要なところだと考えるのである。『資本論』の叙述は労働者とその労働形態、価値については極めて詳細に分析しているが、資本家についてはかなり単純で曖昧なものである。というより意図的に曖昧にしているのではないか、とさえ思えてくるのである。ここで取上げられている資本家は資本の所有者と同時に経営者としての側面も併せ持つ。現代においては、資本と経営の分離が進んでいるがこの時代はかなり一体であっただろう。経営者は頭脳労働者であり、その労働が有用労働であるのだからその労働価値がゼロになるなどということはありえない。しかし、『資本論』の上記の論説では明確にゼロだといっているように解釈できる。労働者の労働に関しては、労働価値説に従い科学法則的に扱っているのに、資本家の経営という労働に関してはどうして禁欲がどうの、徳がどうのというような倫理や道徳論になってしまうのだろうか。


 ここで取上げられている紡績業という工場の経営も、他のあらゆる業種と同じように決して簡単なものではないはずである。そのためにはそれ相当の頭脳労働が費やされるだろう。しかし、マルクスはここでそのような経営の仕事を極めて矮小化しているように思われる。ここで述べられているように、単に紡績工の仕事を監視、監督していればよいというものではない。さらにここでもう一つ重大なことがある。ここで登場してくるこの工場の支配人、現場監督である。これらの人は中間管理職ということになるが、これは分類からすれば資本制生産様式中心部の頭脳労働となるだろう。これらの人たちの労働価値はどのように扱われているのだろうか。『資本論』を読む限り、このようにほんのわずかに登場するだけで労働形態や労働価値説の対象にはまったくなっていない・・・完全に無視されているのである。この問題も後で取り上げることになるだろう。


 これらのことは『資本論』で述べられている次のような「労働過程から生み出された生産物の価値は投じられた商品価値の総体と等しい」ということと矛盾しない。つまり、マルクスによれば「労働者も資本家に買われた商品である」と言うことだが「資本家も資本の所有者であるのと同時に経営に携わる頭脳労働者である」という二重の性格を持っている。この「頭脳労働者」も一つの商品とみなすことができるからである。現代においては様々な資本家が企業に対して株を買い投資するが、その企業の経営者も投資対象の一つの商品なのである。このことからも頭脳労働者も身体労働者と等しく商品とみなしてもまったく正当であろう。マルクスは労働者・・・といってもほとんどが資本制生産様式中心部の身体労働者、に対して極めて詳細で緻密な分析を行っているが、頭脳労働、頭脳労働者に対しては極めて単純に扱っている、というよりもほとんど無視しているのである。これは完全に意図的になされているように思える。これはイデオロギーと密接な関係があるが、その検討は後に行うこととし、ここでは剰余価値率の問題にどう関わるかを検討してみよう。

 

 第8節 剰余価値率の根本問題

 

 『資本論』第7章 剰余価値率 第一節 労働力の搾取度、はこのように始まっている。
 
 前貸しされた資本Cが生産過程で生み出した剰余価値、すなわち前貸しされた資本価値Cの増殖分は、まずは生産物価値のうちで生産要素の価値総計を超える超過分として表示される。
 資本Cが二つの部分、すなわち生産手段のために支出される貨幣額cと労働力のために支出される貨幣額 vに分けられる。cは不変資本へと変化した価値部分を、vは可変資本へと変化した価値部分を表す。したがって最初はC= c + vであり、例えば前貸しされた500ポンド(C)=410ポンド(c)+ 90ポンド(v)などとなる。生産過程の最後には商品ができ上がるが、その価値は剰余価値をmとすると(c + v)+mで表される。例えば(410ポンド(c)+ 90ポンド(v))+ 90ポンド(m)となる。こうして最初の資本CがC´と変化し、500ポンドは590ポンドとなった。両者の差=mは90ポンドの剰余価値である(11)。

 
 今まで検討してきた通り、可変資本とされるこの労働力 vは身体労働のみを対象としている。ここでは問題を単純化するために、資本家1人と労働者という関係に絞って考えてみる。この資本家は経営という頭脳労働を行っている。この頭脳労働は労働者が行っている身体労働と一体化した相互依存関係にある。それではこの頭脳労働の労働価値はこの公式のなかのどこに表示されているのだろうか?その答えは明白である・・・どこにも存在していないのである。「剰余価値mがそれである」という答えがあるかもしれない。しかし、それはもちろん誤りである。剰余価値とは資本家が労働者から巻き上げた搾取分であり、資本家の正当な労働報酬とはみなされていない。ここで重大な事実認識の問題につき当たるのである。マルクスは明らかに、資本家の頭脳労働の労働価値をゼロとみなしている・・・しかしこれはまったく話にならない問題ではないだろうか。マルクスは本当にそう考えていたのだろうか?これは倫理や道徳、価値観や主義、イデオロギーといったものとは関係ない。これは単なる事実認識の問題にすぎないからである。労働価値説を適用するというのなら、有用労働に等しく適用されなければならないはずである。それは社会科学として当然のことであろう。例えば、勤勉な労働者と労働者の生き血を吸う吸血鬼のような資本家が2階から落ちれば、同じように重力の法則に従って落下していく。勤勉な労働者は重力の法則に従って落下し片足を骨折したが、吸血鬼のような資本家は10倍の加速度がついて地面にたたきつけられて死んでしまった、などということはありえないのである。科学法則として適用されるものは主観的な価値判断とは切り離して考えなければならない。繰り返すが、これは単なる事実認識である。社会主義や共産主義の信念を持っていたからといって、「こうである」ということと「こうであるべきだ」ということを絶対に混同してはならないのである。これはあくまで、この時点における事実なのでありその事実を認めるからといって、例えば労働者のみの自主管理の可能性を否定するとか、肯定するとか、ということとはまったく関係ない、ということにも留意しておきたい。


 それでは資本家の頭脳労働の労働価値はこの公式のどこに挿入されるものなのだろうか。それはvの定義を可変資本部分とみなすか身体労働とみなすか、によって変わってくる。この場合、頭脳労働を行う資本家自身も可変資本のなかに入るからである。ここで資本家の頭脳労働の労働価値を10ポンドとしてみれば、vを可変資本とした場合はvは90ポンド(身体労働力)+10ポンド(頭脳労働力)=100ポンドとなる。その分、剰余価値は90ポンド-10ポンドで80ポンドとなる。vを身体労働と定義すれば頭脳労働力は剰余価値のなかに表示され、実際の剰余価値は80ポンドであり頭脳労働価値は10ポンドとなる。結局意味するところは同じである。ここではvを可変資本と定義することにする。『資本論』でもそのようになっているわけであるが、可変資本の部分に頭脳労働が入るという問題にマルクスは一切触れていないので、これは修正追加事項となる。
 
 したがって当面は資本の不変部分をゼロとおく。そのとき前貸しされた資本はc+vからvに、また生産物価値c+v+mは価値生産物v+mに減じられる。今、価値生産物=180ポンドとしよう。そこには生産過程の全継続期間を通じて流れる労働が表現されている。そのとき90ポンドの剰余価値を得るには可変資本の価値=90ポンドをそこから差し引く必要がある。剰余価値m=90ポンドという数字は、ここでは生産された剰余価値の絶対量を表している。しかしその相対量、すなわち可変資本が価値増殖する比率は当然のことながら可変資本に対する剰余価値の比率によって決まり、m/vで表される。この例ではつまり90/90=100%となる。可変資本に対する価値増殖の比率、ないしは剰余価値の比率を私は剰余価値率と名づける(12)。
 
 剰余価値率を導き出す以上の計算は、可変資本の部分が実際には90ポンドではなく(前述のように資本家の頭脳労働分を10ポンドとすると)100ポンドであり、したがって剰余価値は80ポンドとなる。つまり、80/100=80%の剰余価値率となる。マルクスの導き出した剰余価値率は完全な誤りである。もちろん、ここで誤りというのは数字の問題ではなく、可変資本部分は頭脳労働分が加算されることによって必ず増大するということなのである。可変資本の部分に資本家自身が含まれるということは一見、奇異に思えるかもしれない。これは資本の所有者である資本家と経営を行う頭脳労働者が同一人物であるからである。これを分離したとすればわかりやすくなる。その資本家が経営すべてを別の人物に丸投げしたとすれば、その経営の頭脳労働はその人物に移動したことになり、可変資本のなかにはその人物の頭脳労働価値が含まれることになる。それでも資本家の頭脳労働はまったくのゼロにはならないだろう。経営の丸投げをするのにも多少の頭脳労働は必要だからである。


 ここで問題にしていることは、剰余価値説自体を否定しているのではなく、剰余価値率を導き出す公式に重大な欠落がある、ということなのである(13)。さらに『資本論』のなかの具体例に沿って検討してみよう。
 
 さてここで、資本家がいかにして貨幣から資本を作るのかを教えてくれた先の例に戻ることにしよう。そこでは紡績工の必要労働は6時間、剰余労働も同じ6時間、それゆえ労働力の搾取度は100%であった。12時間の労働日が生み出す生産物は20封度の糸、その価値は30シリングである。この糸の価値の少なくとも8割(24シリング)を占める価値は、消尽された生産手段(20封度の綿花が20シリング、紡績等が4シリング)の再現にすぎない。すなわちそれは不変資本から成り立っている。残りの2割は紡績過程を通じて発生した6シリングの新しい価値であり、その半分が前貸しされた労働力の日当価値、すなわち可変資本の穴埋めをし、他の半分が3シリングの剰余価値となる。つまり20封度の糸の総価値は次のような内訳になる。
糸の価値30シリング=24シリング(c)+(3シリング(v)+3シリング(m))(14)

 
 ここで言われている必要労働時間というのも、労働者が自己を保存し持続的な自己再生産のために必要な生活手段を得るための労働時間ということだが、これは資本家がその通りの額の賃金を労働者に支払っている、ということを前提としている。本当にそうであったかどうかはまた別の問題であろうし、(もちろん、マルクスの時代には多々あったことだろうと思うが)現代においてはほとんど当てはまらないだろう。これは生きていくための必要最小限の賃金ということを意味している、、、現代においてはそれよりもはるかに改善されていることは明白である。その問題は置いておくとしてここでの議論に戻ろう。紡績工の必要労働時間が6時間、剰余労働時間が6時間となっているが、先に検討した通りここには資本家自身の頭脳労働時間が考慮されていない。では、どのように考えるべきだろうか。経営者である資本家は雇用した労働者全員に対峙しているために、その全体との関係で考えなければならない。ここでは問題を単純化するために、経営者(資本家)1人が10人の紡績工を雇っている、と仮定してみよう。資本家は1日6時間頭脳労働をするとする。12時間働く紡績工に比べれば、楽な仕事である。それでもそれは経営をしていくために必要不可欠な仕事である。まず、剰余価値率100%を資本家の労働時間6時間にも適用する。これも奇異に感じることだと思うが、労働者と条件を同じにするためである。資本家にとっての必要労働時間に相当するものは6時間の半分、すなわち3時間である。この3時間を労働者10人に均等に配分する。そうすると紡績工1人当たり180分÷10=18分となる。この18分は労働者にとっての労働全体を成立させる不可欠な時間となり、したがって必要労働時間に加算されることになるのである。すなわち、正しい必要労働時間はマルクスの言う6時間ではなく、6時間プラス18分=6時間18分となる。その分剰余労働時間はマイナス18分となり、5時間42分である。もちろんこれは条件が変われば様々に変化する。例えば雇用している労働者が20人ならば加算する時間は9分となり、5人ならば36分になる、といった具合である。ここで意味する重要なことは、身体労働に相互依存する頭脳労働は身体労働者の必要労働時間に加算されるということなのである。


 以上の議論で意味することは極めて単純なことである。労働価値説の基本的な定義「商品の価値は投下される労働量によって規定される」ということのこの労働という意味を、身体労働にも頭脳労働にも等しく平等に適用するということである。資本家が労働者の半分の時間を経営という頭脳労働に費やす場合、労働者の受け取る報酬の半分の報酬は資本家が受け取る正当な労働報酬だ、ということを意味しているにすぎない。これは労働価値説の持っている労働力換算の問題を棚上げにして、身体労働と頭脳労働という異種間労働の間にも統一して適用したということである。ここで当然、次のような反論がなされるかもしれない、「資本家自身が労働者と同じ基準で労働価値説を適用し、その分の報酬で満足するなどということはまったくありえないナンセンスな話である。資本家はそのような正当な労働価値説に従った報酬の何十倍、何百倍といった剰余価値を引き出そうとするだろう。またそうしなければ資本家は自分の立場を維持することはできない。対立する資本家との競争に勝つためには、その剰余価値でさらに生産力を上げるために最新型の機械を購入したり、その他生産効率を上げるための設備投資をしなければならない。生産物利益の分配は資本家の権利であって、労働者には何の権利もない。したがって、そのような議論は意味がない」。先の例では、資本家の必要労働時間18分に対し取得された剰余労働時間は5時間42分で19倍となる。このような反論は現実の労働者の立場からすれば当然のことである。しかし、ここで問題にしていることはそれとは別次元のことなのである。この重要な価値論のなかで、この資本家の頭脳労働の価値は現実の問題から乖離しているからといってどうでもよい、ということにはならない。まして、マルクスのように資本家の頭脳労働価値はゼロなどといってよいはずはないのである。さらにここで重大な問題がある。頭脳労働者は資本家(経営者)だけではないのである。この資本家対労働者という階級関係とはまったく独立に頭脳労働と身体労働の関係は存在する。



(3)カール・マルクス『資本論 第一巻 上』今村仁司 鈴木 直 三島憲一訳、筑摩書房、2005年、56頁


(4)デーヴィド・ホロウェイ『スターリンと原爆 上・下』川上洸訳、大月書店、1997年


(5)降旗節雄 編著『マルクス主義改造講座』社会評論社、1995年、146頁


(6)『資本論 第一巻 上』 263頁


(7)同上書 276頁


(8)カール・マルクス『資本論 第一巻 下』今村仁司 鈴木 直 三島憲一訳、筑摩書房、2005年、233頁


(9)『資本論 第一巻 上』 283,284頁


(10)同上書 284,285頁


(11)同上書 311頁


(12)同上書 316頁


(13)このように労働価値説、剰余価値説自体を否定しないということがこの批判の特質である。今までマルクス主義、マルクス経済学に対する批判はこれらの成否を争点とするものであった。これこそがとかげの尻尾であり、とかげの本体は別のところにあるのである。


(14)『資本論 第一巻 上』 322,323頁

 

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<論文> マルクス主義の解剖学 2 


『マルクス主義の解剖学』


 第1章 『資本論』批判


 第1節 基本の論点

  

 『資本論』をめぐる議論は、労働価値説の正否、剰余価値説の証明といった様々なものがあるが、ここではまだ問題視されていないと思われる、論点(しかし、これはどこかで提出されているのかもしれないが、私が調べた限りでは、見つけることができなかったものである)に絞って検討していきたい。この問題は、他のいかなる問題よりも、隔絶して重要であると思われる。その問題とは・・・
 
     「頭脳労働形態論、価値論」の捨象である。
 
     さらに、「頭脳労働価値の否定」と解釈できる部分がある。

 
 (本論文で、採用されているテキストは、筑摩書房 マルクスコレクション 『資本論 第一巻 上、下』である。以下、目次、本文引用は、すべてこのテキストからである)資本論 第一巻 第一編、商品と紙幣、で使用価値と価値、交換価値といった価値形態を扱い、第二編、紙幣の資本への変容、第三編、絶対的剰余価値の生産、で労働過程と価値増殖過程にはいっている。ここでもっぱら中心となるのは、身体労働者(プロレタリアート)と、資本家(或いは単に資本)である。ここで、労働価値、労働形態の分析対象はプロレタリアートであり、資本家は労働をしている人間ではなく非人格的な存在となり、あたかも自然法則によって動かされているもののように扱われている。そして、どこまでいっても頭脳労働者は登場せず、頭脳労働形態論、価値論は出て来ないのである。
 
 *一般的には頭脳労働価値の捨象は、使用価値捨象として論じられているようである。両者は意味として重なり合うが、論理展開の上で微妙な差異が生じてきていると思われる。

  

第2節 資本主義の労働形態

  

 ここから、労働、労働者、労働形態についての一般的考察を試みてみたい。現代においては、労働はほとんど身体労働と、頭脳労働とに分けられる。もちろん、100%の身体労働というものはないし。100%の頭脳労働というものもない。身体労働といっても様々なものがあるが、単純な流れ作業と高度な職人の労働とは、おのずと違ってくる。高度な職人の労働は、同時に高度の頭脳労働的要素も合わせ持っている、ともいえるだろう。当然、100%の頭脳労働というものも、現実には存在しないわけである。 SF映画の中に出てくるような、培養容器の中に多くの電極やコードでつながれた脳があり、それが何らかの労働をしている、というような特殊なことを考えない限りはありえないだろう。職種は様々にあるから、高度な身体労働と高度な頭脳労働が合わせもたれているような職業、例えば外科医といったものもある。身体労働と頭脳労働の区別は相対的なものであるが、一般的にはほとんどそのどちらかに分類されるだろう。これは近、現代の資本主義社会においては、それだけ分業が進んでいることを示している。特に情報化時代の現代においては、頭脳労働の比率は極めて高いものになっている。


 歴史的に見れば、身体労働と頭脳労働が分化されていず、比較的一体化していたのは、中世から古代の農耕社会やさらに昔の狩猟採集時代に遡ってしまうだろう。狩猟採集時代には、その成員のほとんどが身体労働に従事していたと考えられるが、例外も存在する。シャーマンや、洞窟壁画などを描いた画家などである。これらの人たちは、現代と同じように才能を持ち修練された一部の人たちであると推測されている。現代的な意味ではないが、その時代における頭脳労働者であると考えてよいだろう。このように分業の起原というのは非常に古いものであるし、人間だけに限らず動物界全体にも広く見られることである。


 次に、資本主義社会の分業形態について詳しく考えていきたい。マルクスが『資本論』で検討したのは、資本主義社会全体の問題ではなく、資本制生産様式を中心としたものであった。マルクスは資本主義という言葉はほとんど使っていないとされている。資本主義以前の社会からある産業、職業、労働の多くは、資本主義社会においては、その中心ではなく周辺部に位置することになる。それらの職業は、教育者や、聖職者、芸術家といった頭脳労働者等と、農業や漁業などに携わる身体労働者等に大きく分けられるだろう。資本主義以降に発達してきた産業は商業、そして何よりも工業、そして現代では情報化産業といったものが挙げられるが、これらは、マルクスのいう資本制生産様式の中心をなすものである。これらも大きく頭脳労働と、身体労働とに分類することができる。そして、それらのいずれにも属さない職業、政治家、政府官僚、公務員、などがいる。そうすると、だいたい大きく五つの領域に分類できるだろう。
 
 1 資本制生産様式周辺部の身体労働
 
 2 資本制生産様式周辺部の頭脳労働
 
 3 資本制生産様式中心部の身体労働
 
 4 資本制生産様式中心部の頭脳労働
 
 5 資本主義体制の政治家、官僚、公務員等。
 
 資本制生産様式周辺部での身体労働は、その一部は、最も原始的な労働形態である。そしてこれは、人間に限らず、動物界全体に置いても同様のことがいえるだろう。動物においては、労働とはいわず生存のための活動ではあるが、本質的には同じことである。食物になる他の植物、動物の狩猟採集であるが、これは労働の原初形態だといえるだろう。この労働形態は自然を対象にしていて、その多くをその状態に依存している。そのため、人間においては植物動物に対してそれらを管理、制御して、効率よく安定して供給できるように発達してきたわけである。これら農業や漁業は、どうして資本制生産様式の中心部にならないのかと考えてみると、いろいろと理由があると思うが、それらは直接、使用価値を取得ないし生産するものであり、自然環境に多くを依存していて時間空間的に、資本蓄積をしにくいということがあるだろうし、個人や、家族といった少人数の単位でも、その使用価値の生産を完結できるからである。


 資本制生産様式周辺部での頭脳労働も先に挙げたように、原始時代から存在していたと考えられる。これは明らかに人間特有の労働である。ライオンの群れの中に獲物の狩りの成功を祈願するシャーマンライオンがいた、という話は聞いたことがない。ラスコーの洞窟に描かれていた見事な動物画も狩猟の成功を祈願、、、というより、そのような行為が直接、狩猟の力となる、と考えられていたようである。宗教と芸術は直接、間接的に結び合わされて、現在まで続いていると考えられる。現代においては、教育者、聖職者、小説家、芸術家等がこの労働形態にあたるわけである。これらの労働者は資本制生産様式に直接には組み込まれておらず、周辺部にいるとみなしてよいだろう。例えば、小説家は本になる原稿を執筆するが、その原稿は文化的価値を持つ使用価値と考えられる。しかし、それだけでは交換価値の対象である貨幣と交換はできない。その原稿が出版社で製本され、市場に出回り、書店で読者に購入される、そのような過程を経なければならない。読者に購入されるということが、文化的価値を持っていると認定されることになる。出版社以降の流れは、資本制生産様式の中心部に入るけれども、小説家は出版社に雇用されている賃金労働者ではない。教育者は一部では公務員であり、一部は被教育者の報酬によって成り立っている。資本主義社会において、多くの教育者は資本主義イデオロギーの再生産の担い手ではあるが、直接、資本制生産様式を担っているわけではない。


 資本制生産様式周辺部での身体労働と頭脳労働は、それぞれの内部において、多くの分業があると考えることができるが、それらは比較的独立していて相互に密接に関係しあうということは比較的少ない。マグロの捕穫量が減少しても、稲作の収穫量に影響をあたえることはないし、ある小説家の作品が、ある画家の描く絵に直接影響をあたえることはない。それは精神的なレベルで稀に影響を受けることはあるけれども、間接的なものにとどまるだろう。資本制生産様式周辺部での身体労働と頭脳労働という相互の関係を考えてみても、直接的なものではなく、間接的なものが多いことがわかる。部分的には、農業や漁業で、それらの協同組合等の経理で頭脳労働が密接な関係にあるということはいえるだろう。しかし、大局的に見ればそれらは局部的なものである。これらのことは資本制生産様式中心部での、身体労働と頭脳労働との関係を考える際に、非常に対照的になるので留意しておきたい点なのである。


 次に、政治家、官僚、公務員、これらも様々な職種が存在する。国会議員、地方議員、政府官僚、地方公務員、軍事機構、警察機構従事者、司法関係者等。資本制生産様式との関係で考えると、資本主義社会においてはそれを維持、保護、円滑に運営していくために存在している、より上位の階層に当たる。それは社会に対して、権力、強制力を持っているわけであるが、議会制民主主義の社会においては、選挙を通じてある程度、社会構成員が民意を反映することができる。(この点においては、大いに問題があるところであるが)しかし、これらの職種は資本制生産様式そのものではなく、その外部にあると考えられる。全体的には頭脳労働の比率が非常に高いとみなされるけれど、軍人、消防士、警察官、レスキュー隊等は身体労働の要素も高いだろう。


 さて、本題である資本制生産様式中心部の身体労働及び頭脳労働の問題に入っていきたい。唯物史観が述べてきたように、これは封建社会農奴制が終わり、科学と技術の発達によって産業革命が起こった頃から始まったごく近代の様式である。これが、『資本論』の分析の対象であることはいうまでもない。これは商業及び工業での資本家と、資本家に雇われた賃金労働者(プロレタリアート)との関係で論じられる。ここで複雑な問題が生じてきていることがわかる。資本家と賃金労働者、身体労働と頭脳労働とはどのような関係にあるだろうか。資本家は、頭脳労働者に分類されることは間違いないだろう。(ただし、これは後で大問題となる)。現在の我々の常識から考えると、賃金労働者は当然、頭脳労働者と身体労働者に分かれるとされるだろう。しかし、『資本論』の中で賃金労働者(プロレタリアート)は、どのように描写されているかというと「無産であり、自らの身体を商品として切り売りするしかない」階級とされている。このことから、あまり頭脳労働者というイメージは出てこない。ごく一般的な流れ作業や土木工事等に従事する身体労働者等が、このようなイメージである。このプロレタリアートの定義は今まであまり問題とされてこなかったように思う。しかし、これは非常に重要な問題だということが、以後の議論の展開によって明らかになってくるだろう。


 現代的な意味での資本制生産様式中心部の身体労働を考えてみる。これも、もちろん膨大な数の職種が存在する。使用価値を持った様々な生産物は、それぞれの分業の結果だともいえるし、生産物が生産される工程も多くの分業によって、生産効率を高めるために分れている。過去に比べれば比較にならない程機械化が進み、労働者はそれらの機械に習熟することが求められている。単純な流れ作業もあるが、高度の習熟を必要とする作業もある。『資本論』との関係で考えてみるとその時代とは大きく変わってはいるものの、共通する要素がかなり多いともいえるだろう。


 資本制生産様式中心部の頭脳労働を考えてみると、これも当然、膨大な数の職種が存在する。『資本論』の時代から最も変化したのはこの領域であろう。相対的な身体労働との比率は絶え間なく大きくなってきたわけである。これは組織、会社単位で考えた場合、大きく二つに分類されるといえるかもしれない。一つは頭脳労働のみを扱う組織、会社であり、もう一つは、身体労働によって生み出される使用価値である商品を生産する会社で、それを経営、運営、管理、開発、営業、広告、マーケティング、経理等々を行う頭脳労働部門である。これは商業流通部門の会社においても同じようなことがいえるだろう。つまり、身体労働と頭脳労働の統合形態である。前者は、銀行、証券会社、保険会社、商社、広告会社、出版社、マスメディア、現代においては IT産業、旅行会社等の様々なサービス産業等多くのものが挙げられるだろう。これらはほぼ頭脳労働を中心として行われる組織、会社である。後者においてはそれこそ膨大な数になるだろう。自動車産業、建設産業(これも膨大な数と量にのぼるだろう。ビルや家、鉄道、道路、橋、港、空港、河川整備、ダム、発電所、変電所、送電設備、その他石油、ガス、水道設備等)建設機械産業、衣類産業、電気石油ガス製品産業、食品産業、家具、食器類の製造産業、造船産業、鉄鋼製鉄産業、医薬品産業、水道、石油、電気、ガス等の基幹産業等多くのものがある。商業流通部門では、運送会社、問屋、多くの種類がある小売店、最近ではインターネット販売等がある。病院等の医療関係は身体労働と頭脳労働の統合形態ではあるが、資本制生産様式からは少し距離がある。しかし、ある程度の関係性はあるといえるだろう。これからわかることは、これらの多くの組織、会社は身体労働と頭脳労働が密接に統合された形態である、ということである。さらに、身体労働と頭脳労働の内部においても極めて多くの分業化が進んでおり、それぞれの機能が密接に結び合わされた有機的統合体を成している。

 

 第3節 頭脳労働と身体労働の関係性

 

 資本制生産様式周辺部の頭脳労働と身体労働との関係は、以上述べてきたように間接的なものが多い。例えば、教育と漁業というものを考えてみると、当然、漁業従事者は子供の頃から、義務教育等の教育を受けてきたわけである。それは漁業という身体労働を行うにとって、非常に重要なことは間違いない。ただし、絶対必要だとまではいえないだろうけれども。また、その教育が直接、漁業という身体労働を規定しているわけではないのである。そのことは、教育が資本制生産様式中心部の頭脳労働や身体労働に対しても同じようなことがいえるだろう。官僚や公務員といったものに対しても同じである。またその逆に、農業や漁業といった身体労働が頭脳労働にどう関係しているかというと、食物の供給という生命活動維持の不可欠な要素を提供しているのだから、当然頭脳労働の維持についても大きな役割を果たしている。それは資本制生産様式中心部の労働に対しても、同じことがいえるだろう。ただし、その具体的細部においてまで規定しているわけではない。しかし、局所的な例外は存在する。農業や漁業の直接関係する経理等はそうであるし、スポーツ教育等は、身体性との密接な関係が必要とされるだろう。芸術等も身体性を強調したものはかなりある。


 次に資本制生産様式中心部の頭脳労働と身体労働との関係を考えてみる。これこそが検討すべき最も重要な問題である。まず、全体的、一般的に考えてみると、その形態は非常に多様性がある。直接に関係している場合もあるし、間接的に関係している場合もある、また、ほとんど関係ないといった場合もあるだろう。しかし、その直接的関係性は、資本制生産様式周辺部の頭脳労働と身体労働との関係と比べてみると、比較にならない程密接なものであることがわかる。さらに局所的なところに着目してみると、その関係性は決定的なものになる。一つの組織、会社の中で、頭脳労働と身体労働とがある場合は、頭脳労働の、決定、企図、指示、情報は決定的に身体労働を規定する。逆に身体労働での問題点が、頭脳労働にフィードバックされて頭脳労働の要素ともなりうる。頭脳労働のみを扱う会社でも他の会社との取引等によって、他の会社での身体労働に大きく影響をおよぼし規定することもありえるのである。


 ここで資本制生産様式中心部における身体労働と頭脳労働との関係について、一般的な法則を提示してみたい。それは、「ある身体労働には、それに先行する頭脳労働が、必ず存在する」ということである。もちろん、これは膨大な事例を提示することができる。『資本論』の中で示されている具体例を挙げてみると、紡績工が行う身体労働は、その紡績工を雇った資本家の紡績工場を運営する、という頭脳労働が先行して存在したわけである。このことは、マルクスが分析したような、身体労働内部における頭脳労働的要素とは別問題である。例えば、「労働過程の終わりに出現するのは、その開始時点にすでに労働者の表象のなかに、つまり観念として存在していたものにほかならない」。これは明らかに身体労働内部の頭脳労働的要素を述べたものである。資本家の頭脳労働は、この労働者の頭脳労働的要素のある意味、延長線上にあると考えることもできる。それでも、資本家の頭脳労働と労働者の頭脳労働的要素の間には、決定的な分断があるとみなさなければならない。これは紡績という労働過程の分業の形態であり、どちらかが存在しなければ片方も存在しないという相互依存の関係にある、といえるだろう。これは現代においても同じように、あらゆる身体労働と頭脳労働との関係にいえることである。自動車のライン生産に携わる身体労働者の労働は、その自動車を開発、設計した頭脳労働者の労働が先行して存在することによって初めて成り立つことができる。また、開発した頭脳労働者の労働はライン生産に携わる身体労働者の労働によって、初めて現実の商品として市場に流通させることができる。両者は密接な相互依存関係、共同関係にあるといえるのである。


 さらに、この法則について考えてみると、その逆は成り立つだろうか。「ある頭脳労働には、それに先行する身体労働が、必ず存在する」これもある意味では正しいといえるだろう。ただし、その直接性には決定的な違いがあり、それが両者の非対称性を際立たせるのである。上の法則が直接成り立つのは、例えば、身体労働の結果を計算するような経理などの仕事である。ただしこれは全体から見れば少数であり、大部分は次のような関係が成り立つだろう。例えば、自動車の開発生産を考えてみると、まったく新しく起業した会社でない限り以前に生産したモデルが存在する。それは大量生産され、市場に流通し、会社に利益をもたらし、経営していくことを可能にするのである。新しく開発する頭脳労働のグループは古いモデルを参考にして、改善した方がよい点、或いはさらに魅力ある商品にするために、様々な試行錯誤をしながら開発していくわけである。そのため古いモデルの顧客からの要望なりを収集する必要も生じてくる。つまり、新しいモデルの開発に対し古いモデルを生産した身体労働者の労働は、先行して存在した労働だとみなすことができるだろう。しかし、規定性という面でそこには決定的な差異が存在する。古いモデルを生産した身体労働者の労働は、新しいモデルを開発する頭脳労働者の労働に対し、それを可能ならしめ存続させる、という点で決定的に規定している。しかし、それ以上の様々な細部に至る、具体的な車のスタイルや、内装や、エンジンの型式、排気量、様々な装備や、車体の色という頭脳労働の内容に対してはほとんど規定性を持たない。それに対して、新しいモデルを開発する頭脳労働はそのあとに続く身体労働を決定的に規定するのである。それは細部に至るまで、許容される範囲以内の誤差等を除いて頭脳労働の結果の通りに仕事を進めなければならない。

 

 第4節 『資本論』における労働、労働者とは?

 

 ここから『資本論』に戻り、今までの議論を踏まえたうえで、様々な検討をしていきたい。まず、最も基本的な「労働、労働者」は厳密には何を意味しているのだろうか。これは余りにも一般的すぎて、考える必要もなくわかったような気になってしまう。しかし、これは詳細に考えていくと、よくわからなくなってくるのである。先に挙げた資本主義社会の労働の五つの形態は、常識的にみると当然全て労働とみなしてもよいはずである。ところが、『資本論』を読んでいくと、この労働という意味はかなり限定されて使われているように思われてくる。例えば次のような文である。
 
 彼は自然に存在する物のなかに自分の目的を実現する。彼はこの目的を知っており、この目的は法律のように彼の行為のあり方を決定し、彼はこの目的に自分の意思を従属させなければならない。しかもこの従属はばらばらの行為ではない。労働する諸器官の行使のほか、目的に向かう意志が注意力という形をとって現れ、それが労働の全継続期間を通じて必要とされる。しかも労働自体の内容や手法が労働者にとって魅力に欠けるものであればあるほど、つまり労働が肉体的精神的諸力の遊戯として労働を楽しむ度合いが少なければ少ないほど、この意志はいっそう必要になる(2)。
 
 以上のことは、資本制生産様式中心部の身体労働のあり方を示しているとみなして間違いないだろう。つまり、先に挙げた自動車工場におけるライン生産に携わる身体労働者はまさにこのようなものに該当する。自動車を開発設計した頭脳労働者の労働の結果は、身体労働者にとっての目的となり、彼はこの目的をよく知っている。この目的は法律のように彼の行為のあり方を決定し、彼はこの目的に自らの意思を従属させなければならない、ということになる。次に、「労働自体の内容や手法が労働者にとって魅力に欠けている」とか、「労働が肉体的精神的諸力の遊戯として労働を楽しむ度合いが少ない」というのは明らかに身体労働者の立場に立った見方である。(ただしこれは、マルクスから見ての話であり、実際に労働者自身がどう考えているかはわからないところであろう)しかし、以上のことは例えば、自動車を開発設計した頭脳労働者に当てはめてみるとどうだろうか。彼には当然、あるレベルの自動車を開発しなければならないという合目的的な仕事が要求されている。しかしこの目的は、法律のように彼の行為のあり方を決定しているわけではないし、自らの意思を従属させるということには違いないのだが、そこにはかなりの自由度があるといえるだろう。さらに、労働が精神的諸力の遊戯として労働を楽しむ、ということもある程度いえるのではないだろうか。(個別のケースに様々なものがあるだろうけれども)頭脳労働に対しては労働の自由度が少なくなればなるほど、その労働に対する集中力、意志が必要になるとは限らないのである。また、資本制生産様式周辺部の労働を考えてみると、上記の文に当てはまる部分があるにせよ、明らかに異なることがわかる。農業や漁業はそれに従事する労働者の行為のあり方を、法律のように規定しているわけではない。頭脳労働のなかには、労働が精神的諸力の遊戯として労働を楽しむ、という側面が大きい労働も存在するのである。もちろん、この一文だけから判断するわけではないけれども、『資本論』全体を通じて「労働、労働者」は資本制生産様式中心部の身体労働、労働者にかなりの程度限定されているように思われる。


 辞書で「労働」という言葉を引くと、「体を使って働くこと。特に賃金や報酬を得るために働くこと。また一般に働くこと」「人間が道具や機械等の手段を利用して労働の対象となる天然資源や原材料に働きかけ、生活に必要な財貨を生み出す活動」とある。また、「労働者」は「自己の労働力を他人に提供し、その対価によって生活する者」とある。以上のような定義からは身体労働という意味合いが強いが、労働一般ということは当然、頭脳労働も入ってくるだろう。これは身体労働か頭脳労働かという問題を考える際に、文脈によってどちらとも取れるようなかなり曖昧なものといえる。これは現代の日本語においての話であり、マルクスの時代におけるこの言葉の使用法はどのようなものであったのかは、専門家でない私にははっきりとしたことがわからない。しかし、現代の日本語の意味からそう大きく隔たっているとは思われないので、その定義に従って考察を進めていくことにしたい。



 (2)カール・マルクス『資本論 第一巻 上』今村仁司 鈴木 直 三島憲一訳、筑摩書房、2005年、264頁


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<論文> マルクス主義の解剖学 1 


 『マルクス主義の解剖学』


 はじめにー序章 



 はじめに

 私は1,950年代末の生まれである。ちょうど団塊の世代から1世代後の世代である。子供時代は日本の高度経済成長の真っ只中であった。車や様々な電気製品が次々と発売され、胸を躍らせたものである。この急激な経済成長とともに、生活が大きく変わっていく様は日本の歴史の中でも特異なものであったろう。しかし、その変化を当然のように感じて育った世代なのである。すでに物質的にかなり豊かになっていたそれ以降の世代の人たちには、この感覚というものはなかなか理解しにくいかもしれない。そして、私たちより前の世代、団塊の世代からその少し後までの世代、戦後から1,950年代前半の人たちの感覚もかなり違ったものがあるようである。またその世代の人と戦争を体験した人達との人生観や社会観の違いも大きなものがあるだろう。これは大きな歴史の変化を受け続けている明治維新以降の日本においては仕方のないことかもしれない。


 特に私が感じていたのは、少し前までの世代の人達との間に社会、世界に対する感覚、感性、思考様式、行動などに根本的に異なるものがある点である。もちろん、すべてではなく部分的なものであるが、、、これは何かと考えてみたときに、それは思想や政治上の問題、そのなかの社会主義、共産主義、マルクス主義などの左翼思想に対するスタンスの差であると理解するようになった。


 私個人の成長過程で、これら左翼思想の影響は直接にはほとんどなかったのである。1,960年代は全共闘などの学生運動が盛んだった時代である。この時代に青春期を過ごした人は、どのような形であれ左翼思想の影響を受けたのである。そのことに共感するか、反発するか、関係ない態度をとるか、様々な人がいたと思うが、その時代の雰囲気から完全に逃れることはまったく不可能であったのである。しかし、学生運動の衰退、極左組織である連合赤軍の事件などを契機に社会主義、共産主義の運動は衰退していった。1,970年代半ばになると、これら左翼思想をとりまく社会の雰囲気は大きく変わってしまったのである。これは世界的な動向―とくにソ連のスターリン批判やハンガリー動乱、チェコスロバキアのプラハの春の弾圧といった出来事、さらにはソ連の反体制知識人、作家などの著作が刊行され共産主義体制の内実が広く知られるようになっていったということも関係している。


 つまり、私の世代が青春期を迎える頃には、左翼思想はすっかり衰退していたのである。私自身も身近なところで社会主義者や共産主義者はまったくおらず、同世代の友人と左翼思想を話すことはなかった。この世代間の隔たりは非常に大きいものがあるだろう。もちろん、私の世代でも左翼思想に興味を持つ、あるいはそれに入り込む人もいたことだろう。しかし、そのような人はかなり少数派であったように思われる。


 私が私の世代の感覚や思考を代表するわけではないので、これが一般的なものであるかどうかは断言できないが、左翼思想に対する感覚というものは否定的であり、マイナスのイメージが最初からあったように記憶している。伝えられる社会主義国の内情はかなり暗いものであり、その抑圧的な体制、理想とは裏腹の格差社会、言論や行動の不自由さ、軍事力に頼る強圧的な政府などが左翼思想とひとつになったイメージをもたらしていたのである。特に私が敏感に感じたのが核軍拡競争で、核実験による放射能が話題になっていた。これはアメリカも同じだということになるが、実際に核ミサイルの標的にされているのはソ連の方なのだから当然の感覚だとはいえるだろう。


 私自身、マルクス主義、共産主義に対して「自明の不可能性」を直感していた。しかし、これは直観であり言語化して表現することは極めて困難なことだったのである。私は哲学や思想、心理学、社会学、宗教、美術、科学一般等に興味を持ち勉強してきた。が、そのネガティブなイメージからマルクス主義、共産主義に対しては避けて通ってきたのである。1,990年を前後して、東欧やソ連といった現存した社会主義体制の多くが崩壊していった。それでなくても衰退していた左翼思想は大打撃を被ったのである。そして、今まで秘匿されていた多くの資料、事実が公開され、社会主義体制の歴史の詳細が知られるようになっていった。私はこの中の「スターリンの大テロル」と呼ばれているものに異様な感覚を受けたのである。そのことを契機に、初めてマルクス主義、共産主義の問題に取り組むようになった。これはソ連崩壊からかなり経ってのことであり、かなり珍しいことであるだろう。だが、多くの資料が揃い、客観的に歴史を展望できる位置から研究をスタートしたことは有利な条件であるとも言える。この論文は、この研究の成果である。

 序章 解剖学の視座

 まず始めに、マルクス思想を分析、解明する上での、基本的な対象、視座、枠組み、方法を述べておきたい。いうまでもなく、マルクス思想の体系は広大な領域におよんでいる。その複雑極まりない膨大な理論は、歴史的に多くの社会状況の下で、多くの人たちに考えられ論じられてきた。もちろん、そのすべてを対象にすることは到底、不可能なことである。ここでは今日的に重要な問題だと思われる資本主義分析から革命論、未来社会論を対象に論じていきたい。


 マルクス主義、その真髄と言われている「唯物史観」によって、ロシア革命は引き起こされ、現存した社会主義体制が形成された。その影響は現在まで続き―とくに東アジアにおいてはそれが著しい―重要な問題になっている。ところが、現在ではもはやこれらの問題はほとんどかえりみられない状況である。本論ではこの唯物史観の革命論から未来社会論に焦点を当てて批判的に再検討しようというものである。


 この再検討の枠組みと方法を述べるにあたって、ある譬え話を用いてみたい。それというのも、マルクス主義と現存した社会主義体制との相関関係は非常に複雑なものであり、両義的、逆説的、多層的な関係を多く含んでいる。また、イデオロギー性をどう評価するかということも非常に難しい問題である。さらに、現存した社会主義体制が形成された根本要因がイデオロギーであるのか、ロシアの歴史的後進性などに由来するのか、という議論もある。また、この議論の方法の中に今までまったくなされたことのない視角からのものがある。これらをわかりやすくするために、譬え話によって説明してみよう。


 ある場所に、最高級のフグが置いてあった。そしてその横に、そのフグを詳しく分析した論文が添えられてあった。その中には、フグの体の構造や機能、食するのに非常に美味な肉の成分の分析、それがどうして美味に感じるのかという研究がなされてあった。さらにその魚のさばき方、簡単な調理法なども記されてあった。そこにフグというものをまったく知らない人がやってきて、その論文を読んでみた。実はその論文はフグをまったく知らない人がそこにきて読むであろうとわかって書かれていたものだったのである。その人はそれを読んで、そのフグを食べてみたくなった。そして、それを調理し食したのである。確かにその肉は非常に美味であった。ところが、少したってその人は苦しみだし、とうとう死んでしまったのである。いうまでもなく、フグにある猛毒テトロドトキシンを摂取してしまったからである。ところが、この世界ではそのことはよく知られていなかった。当然、大多数の人は男がその魚を食べたからそうなったのだと考えた。そして、その魚に近づかなくなったのである。しかし、死んだ人の検死が行われたが、その原因はなかなかつかめなかった。するとその論文をよく知っている人が「この論文に書かれてあることを精査してみたが、確かにいくつか違う点もあった。しかし、根本的には問題はなく、間違ったことは書かれていない。このことだけでこの論文とその魚にその人が死んだ原因があるとみなすのは間違いではないだろうか。死んだ人自身に別の理由があったのかもしれない。たとえば特殊なアレルギー体質だったのかもしれない。とにかく、この論文を元にフグをいくら調べてもほとんど正しいのである。この魚は非常に美味しい魚である。このことで食べるのを諦めるのは残念なことである」 。


 これが何を譬えているかは簡単に理解されよう。死んだ人とは「現存した社会主義体制」であり、フグとは「社会主義革命」 、その論文とは「マルクス主義、唯物史観の理論」である。この例えで最も重要なポイントは次のことである。論文に書かれていることをどれほど精査したとしても、その原因は決してわからない、ということである。問題は何が書かれてあったかではなく、フグにテトロドトキシンという猛毒が含まれてある、ということが書かれていなかったことが大問題なのである。すべきことは、フグを解剖し、毒を摘出し分析することである。―これがタイトルにある「解剖学」の意味である。これに対して当然反論が予想されるだろう。 「そもそも、その魚がフグであったという前提自体が、反共主義的独断であり、確定できることではない」 。確かにこの魚がフグであったという前提を出発点として議論を進めていくことはできない。しかし、このようなものであるという可能性を考慮しなければならないのである。それというのも、これら議論に関わる人はあまりにもマルクスが書いたことのどこが問題であったのか、ということのみに執着し、文献学や解釈学に終始しているように思われるからである。


 この論考では、一般的に論じられている問題、争点をほとんど扱わない。それはマルクス主義の全体性に対する疑義を出発点としているのであり、その全体性に対する欠如を指摘するところから始められている。つまり、先の譬えのフグの全体性を把握するところから始められる。それはマルクス主義と別の体系を対置する、に等しいことなのである。


(色字 引用文)


 ・・・マルクスの共産主義論の理論的内容の核心は、以上である。マルクスにあっては、共産主義の概念に含まれるこれらの内容は、眼前に存在する資本主義社会の理論的・体系的認識の帰結として、そのうちのどれひとつを欠いてもその全体がゆらがざるをえない、というほどの一体性をなしている。もちろん、マルクスの理論に誤りがあれば、その誤りは正されなければならない。だが、その場合、 体系的な理論的認識として一体をなしているマルクスの理論のうちの一部分だけをとりあげて誤りだとし、それが全体に及ぼす帰結には触れないまま頬かむり、ということは許されない。マルクスの共産主義論の核心的内容をなすもののなかに誤りがあると主張するのであれば、マルクスの資本主義論の全体を徹底的に検討し、それが根本的に誤っていたのだ、ということをはっきりと示すべきである(1)。


 本論は以上のようなマルクス主義の側からの指摘に対する応答になるだろう。マルクスの資本主義論の全体を徹底的に検討し、それが根本的に誤っていたのだ、ということを示すべきである―これは実に複雑な構造になっているので、問題のひとつひとつを解きほぐしていくような緻密な作業が必要になってくる。また、これは単に資本主義論にとどまる問題ではないのである。経済機能構造分析の新しい捉え方も必要になってくる。まず、『資本論』を中心とした批判的分析から始めることにしよう。



(1)大谷禎之介  他『ソ連の「社会主義」とは何だったのか』大月書店、1996年、15,16頁


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<論文> 自虐史観と共産主義 

 

自虐史観と共産主義


 

 日本の戦後レジームの中心となる問題、 「自虐史観」については多くのところで語られ、議論されてきた。なぜ日本は70年以上も経ったのに、戦後に行われたGHQの洗脳に呪縛されているのか-このことが問題にされてきたのである。それには様々な要因が考えられるだろう。日本がこれほど外国に支配された事は、有史以来一度もなかった。全く経験のない占領統治を受けることになった国民は、戦争の過酷な状況の中で疲弊しており、なすがままになるしかなかった。また、アメリカは侵略し、植民地支配をすることにかけてはプロだったのである。日本を占領統治する準備と研究は早くから開始されていた。


 その中で共産主義との関係が近年、きわめて重要視されるようになってきた。それはGHQ内部に隠れ共産主義者、ソ連のスパイが潜り込んでいて、GHQの実質的な占領政策は共産主義の影響を強く受けていたのである。このことと独立に日本には大東亜戦争以前から共産主義が流入し、左翼知識人を中心にかなりの支持を得ていた。また共産党も非合法化され、弾圧を受けながら活動を続けていたのである。つまり日本には、GHQの隠れた共産主義者が非常に活動しやすい条件が既に整っていたのである。


 ここでアメリカと日本の内部にある二つの勢力が互いにパラレルになっていて、戦争の終結とともに強い相互作用をしたと考えることができる。つまり、アメリカ内部の保守勢力と社会主義、共産主義勢力、日本内部の保守勢力と社会主義、共産主義勢力である。アメリカは日本の保守勢力を弱体化し、二度と立ち上がれないように解体させようとしたが、アメリカの隠れ共産主義勢力がその機に乗じて日本の共産主義勢力を大きく拡張させてしまったことにすぐには気づかなかった。アメリカ自身も共産主義に相当程度、侵食されていたのである。

 

 日本はGHQの洗脳統治、WGIPによって徹底的に自虐史観を植え付けられてきた。しかし、これほどまでに長い間、国全体が自虐的になることに違和感を持たないだろうか。一般的にそれはかなり考えにくいように思われる。世界史的に見渡しても、戦争に負けた国は無数に存在し、そのたびに抑圧的な政策を押し付けられてきただろう。それでも被抑圧民族、国民が心の底から自虐的になることはほとんどない。その政策を受け入れざるを得なかったとしても、心の中では抵抗しているはずである。日本の状況はかなり例外的だといえるかもしれない。それは日本人の民族性とも関係しているだろう。


 しかし、自虐的であり続ける事は強いストレスであり、精神的な破綻をきたしかねない。事実、心理カウンセラーがうつ病の原因を探っていくと、WGIPに行き着くことがあるのだという。日本には外国人勢力がかなり流入しており、その民族性から日本に対して攻撃的になる場合がある。いわゆる反日在日朝鮮人である。彼らは通名を使って日本人になりすまし、自虐史観の継続、強化を進めている。これは日本人としてのアイデンティティーを持っていないので、自虐史観はむしろ歓迎するものなのである。その是非は別として、これは理解できるところである。ところが、日本人でありながら、自虐史観を積極的に維持し、強化していき、それが自己にとってマイナスの作用を及ぼさない。精神的な破綻をきたすどころか、かえってそれが強化される-このような人間が存在するのである。それがすなわち「反日左翼」と呼ばれている人たちである。


 しかし、左翼であることが自国に対して敵対的であるのは全く自明のことではない。他の国では左翼であっても愛国心を持ち、自国に誇りを持っている。デモの風景を比較するとそれがよくわかる。日本の場合は保守系のデモは日の丸が多く掲げられてあるが、左翼のデモは国旗が1本もない。それに対して他国では保守、左翼とも自国の国旗は掲げられてある。左翼であることが自国に対して敵対的であり、その弱体化や解体、最終的には破壊を目指すのは日本の特徴ではないだろうか。


 この反日左翼がなぜ存在するのかという疑問を考察するのがこの小論の目的である。理解することの難しい(一般常識からはそのようにみなされていると思うが・・・ )その心理を追求してみたい。

 まず、私見では日本と日本以外の左翼の違いは、その民族的、歴史的、地理的な要因から根本的なものがあるように思われる。日本以外では、社会での階級差が大きく、抑圧者と被抑圧者の対立が鋭くなる傾向がある。これはもちろん相対的なものだが、日本ではこの傾向は緩やかなものである。これは古来の天皇を中心とした家族的な国家形成が、西洋でいうところの共産制的な社会を生み出してきた。現在、我々があまりそのように感じないのは、まさにGHQの歴史歪曲に他ならない。天皇を尊敬するような歴史記述をしてはならない、という歴史教科書への圧力があったのである。また日教組を始めとする教育界は、反日左翼に牛耳られており、天皇、皇室が不要なものであるかのごとく扱われている。 (この日教組もGHQが作ったものである)大東亜戦争(太平洋戦争)以前の社会を意図的に暗く、悪く教える事が常態化している。例えば江戸時代の身分制度も、いわれているほど厳しいものではなかったようである。


 つまり、日本以外の西洋などでは、その階級差から来る不平等を是正しようという動きが強く生じる。そこからマルクス主義などの共産主義思想が生まれてきたのである。その前提となる社会状況が、西洋と日本ではすでに異なっている。これはどういうことかというと、西洋が社会主義、共産主義思想などでめざした社会状況は日本ではある程度達成されており、日本における保守とはすでにこの達成された状況を守ることなのである。これが戦後、保守政党である自民党が西洋における社会民主主義的な政策を実行できた理由ではないだろうか。


 そうなると、左翼が社会民主主義的なレベルで止まってしまうと、左翼としての存在意義を見出せないことになるだろう。その存在意義を得るためには、さらに先に進まなければならない。それは当然、唯物史観における共産主義社会である。さらに徹底した無階級社会を目指すことこそ、日本における左翼の存在意義である。


 そこには左翼が常套手段として用いる歪曲や偏向が保守的状況に対して用いられるが、戦後のGHQ統治はまさにこの左翼の要請と完全に一致しているのである。自虐史観が日本国民に徹底的に刷り込まれると、その状況を維持し、強化していく方向こそ共産主義社会に至る道筋である。つまり、このいったんもたらされた状況を逆方向に向ける事は、左翼の存立そのものを完全に否定することにつながる。日本の伝統、保守的状況を徹底的に攻撃し続けなければ、自己充足性の高い日本の社会に革命的状況など絶対に到来する事はない。これが共産党のみならず、旧社会党においても決して社会民主主義的勢力が力を持ち得なかった理由である。


 このことも教育界やマスコミが全く言ってこなかったことであるが、日本は世界最古の歴史を持っている。その国家形成は、1人の絶対的な王や皇帝などによる武力による統一ではなく、もっと自然発生的なものである。天皇は決してそのような絶対的君主として君臨していた訳ではない。その精神的な統一性は、同一民族の閉じられた島国である-大東亜戦争以前には決して他国の侵略を受けたことがない、あるいは許さなかった-ことから強固なものがある。国家と民族的精神性は強固に結びついている。それは西洋における代表的な民族、ユダヤ人を例にとれば民族的同一性を強く維持していても、住む地域は実に流動的であった。また支那大陸においては、同一地域における異民族の興亡が絶え間なく繰り返されてきた。これらのことと実に大きな対照をなしている。反日左翼とはこの国家-精神的統一体に対する共産主義という全く異質の宗教による攻撃なのである。

 

 しかし、反日左翼は共産主義-マルクス主義、唯物史観信者と断定できるものなのだろうか、という疑問が生ずる。これは実に難しい問題である。共産党員のように表立った活動をしていれば、これは非常にわかりやすい。しかしわかりにくいのは、最近ますます明らかになってきた社会の上層部に大量に存在するであろう隠れ共産主義者である。政界、官界、教育界、学会、法曹界、マスコミなどの領域に多くの隠れ共産主義者が存在するのである。これらの人々がどれくらい共産主義に意識的であるのかさえよくわからない。その中にはかなり無意識的な共産主義者もいるだろう。それ以外の人々にその影響は計り知れないほどを及ぼされている。無意識的な影響の連鎖となると、ある保守の論客が言ったように「思想ウィルス」として伝染していく、と捉えるのが良いのかもしれない。


 反日左翼が必ずしも共産主義とは限らない例を考える事はできる。例えばキリスト教や独自の強い宗教性を持った団体の構成員などである。これら宗教性の強い左翼は、額面上は唯物論を掲げている共産主義とは相容れないはずだが、その共通した反日の目的から、共同戦線を張ることもある。アナーキズムも考えられるところであるが、日本においてはほとんど力を持たず、マルクス主義、共産主義が圧倒的に優勢である。これは共産主義と目的は同じなのであるが、あまりにもダイレクトに目的にアプローチするので、現実的な手段に結びつかないという理由が大きいだろう。


 反日左翼を構成する主要部分は共産主義である。ここではこの結論に従って考察を進めていこう。実際、反日左翼の活動は保守や一般的常識人からすれば、単なる破壊活動でありアナーキズムのようにしか見えないことがある。そこから彼らはアナーキストであるという見解も散見されるのである。しかし、私はそのような事は決してない、と考えている。そこには単なる破壊活動ではない「論理」が存在するのである。

 

 自虐史観の推進は、GHQの洗脳統治を日本人が受け入れてきた、という事を起点としているが、それだけではなく共産主義者-反日左翼の勢力が大きく拡大されたことが要因になっている。これもまたGHQ内部の隠れ共産主義者が日本の共産主義勢力を拡大させたわけだが、この時共産党員だけでなく、様々な領域の変更が行われている。それは表面上、目立たない形で行われているのである。つまり、GHQの隠れ共産主義の形態が日本においても拡大されていったと考えることができる。ここで大きな疑問は、なぜ共産主義は表立った活動だけでなく、このような隠れた形で存在し、広まっていくことができるのかということである。共産主義社会への道筋はマルクスの言うように経済が基本となる。経済形態は物質的な形態であり、それは誰の目から見ても明らかな変化となって現れるだろう。それは決して隠れて実行できるものではないのである。


 その疑問に対しては、これはあくまでその段階においては「思想」として広まっていったのだ、という答えが返ってくるだろう。ところが、その「思想」の内容からすれば、資本主義社会は資本家と労働者の階級対立が激化していき、最終的に労働者の革命が起こり、資本家を駆逐し、資本主義社会の上部構造を覆し、共産主義社会に至る-その結果、国家はおのずと死滅していく、ということなのだから、これはあくまで「思想」としてのみ存在するはずである。これを実行する主体はあくまで労働者なのだから、資本主義社会の上部構造に属する人々は決してその思想を実行する主体とはなり得ないはずである。行動できるとしたら、それはその思想を伝播する、広めていくといったことだろう。もちろん、このような事は行われてきたわけだが、これら資本主義社会の上部構造に属する人々 、すなわち政界、官界、教育界、学会、法曹界、マスコミなどは、決してそれだけに留まらない-自分たちが共産主義革命を実行している主体だと思っていないだろうか。


 レーニンがそうであったように、労働者は本当は革命を実行する主体にはなり得ない-このように思っているし、またそのように言う人もいる。それはマルクス・レーニン主義となり、さらにフランクフルト学派などに代表されるような、上部構造から変革していくという方向性は広く浸透していったのである。

 

 上部構造から共産主義革命を実行するというのは、どのような形態を意味するのだろうか。もっとも単純で明快な説明は次のようになるのではないだろうか。唯物史観の定義によれば、共産主義社会は労働者のみがすべてを司る社会である。その社会においては労働者を抑圧する上部構造は消滅している。もし、上部構造自らがその状態を目指すとすれば、自らを消滅させること-破壊させることになる。さらにいえばこれは上部構造の自爆である。このように上部構造の上部構造による上部構造に対する完全なテロリズムが上部構造による共産主義革命である。このように理解すれば、これは様々な巧妙な逆説的論理や情報操作などを用いて、長期間にわたって上部構造を徐々に衰滅させていくようなことも革命なのである。それは労働者が行うような単純な暴力的革命である必要は全くない。


 つまり、それは共産主義革命-共産主義社会に向かうということに建設的な要素は全く存在しないので、それが共産主義の実行であるという事を表面化させ、明示する必要は全くないのである。そこに独自の建設的要素があれば、共産主義に向かうものだということが誰の目にも分かるようになる。その状態は隠れ共産主義が可能になる状態ではないのである。 上部構造は非常に複雑で、微妙なバランスの上に成り立っているので、それを少しずつ崩壊させていくことは、その能力のある人間にとってみれば比較的たやすいのである。そこには非常に専門性の高い知識や能力が要請されており、一般的になかなかわかりにくい。これが上部構造における隠れ共産主義を可能にしている理由であり、それは個人の内面に関わる問題であるがゆえに、それを他者が把握することは非常に困難なのである。


 自虐史観やそれと関連する日本国憲法の問題などは、まさにこのような本質的側面を持っている。長い歴史を持つ日本の伝統、文化を貶め、軽視し、新しい革命的状況を継続する様な憲法になっているといわれている。憲法問題には私は詳しくないので、ここで論じることはできないが、憲法学者自体が隠れ共産主義者、自虐史観に染まった人間である可能性は極めて高く、根本的に信用できるものでない事は心しておかなくてはならないだろう。そもそも彼らは日本を良くしようなどとは露ほども思っていないのである。日本とは全く関係のない、夢のような世界が開けるとでも思っているのだろうか。憲法改正は当然のように行わなくてはならないが、その内容とそれを支える背後の思想的状況、歴史認識を国民の多くが共有することが極めて重要である。しかし、それはまた気の遠くなるくらい困難なことである。


 多くの国民にとって、このような問題よりも日常生活の方が大事なのであり、専門家の言っていることを鵜呑みにしやすい。専門家の言っていることをいちいち疑う事は、多くの心理的ストレスを伴う。憲法改正は日本を戦争に導くものだ、というような幼稚園レベルの戯言を専門家がもっともらしい説明で行えば納得してしまうのである。今の日本国憲法自体がGHQの隠れ共産主義者に強制されたものであり、そもそも根本的に問題外の代物なのである。このような事を全く考慮せず、この憲法を金科玉条のごとく見なすような憲法学者、学者はまさに隠れ共産主義者であり、反日左翼の最たるものなのである。しかし、戦後70年に及ぶ自虐史観の刷り込みと、またアメリカの庇護の下で東西冷戦時代を経済成長に集中できたということ-それによって奇跡的な経済復興を成し遂げ、豊かに安定した生活ができるようになったということが、日本人を戦後レジームに対して保守的にし、憲法改正の問題を先送りにしてきたといえるだろう。しかし、世界情勢の変化はそれを許さなくなってきている、という事は確かに言えるのである。


 憲法問題に関しては、憲法改正という革新的姿勢が日本の保守的状況を守ることにつながる-もちろん、その方向に憲法改正がなされなければ意味をなさない。共産主義にもっと有利になるような憲法改正もあり得るのである。しかし、反日左翼が憲法改正を必死に止めようとするのは、今の憲法が共産主義に向かう内容を持っている証拠である。憲法改正のプロセスの中でこれが明らかになることを恐れるのである。アメリカのなすことを何でも反対する日本共産党が、アメリカの押し付けた今の日本国憲法を必死に守ろうとする噴飯ものの矛盾も、思想と歴史の大きなパースペクティブの中でしか理解できないのである。


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第48回衆議院議員総選挙の後に 


先の第48回衆議院議員総選挙が終わり、それほど親しいわけではないが、ある知人と話をしているときにその人が「俺は比例は立憲民主党に入れたよ」というのを聞いてぎょっとしたことがある。といってその人は左翼でもないし、ごく常識的な社会人でしかない。しかもネットも結構やっているらしい。立憲民主党が野党第一党になったのはかなりの衝撃だった。なにしろあの悪夢の民主党時代の主要メンバーが集まったのがこの党である。しかも党首の枝野幸男は極左暴力組織「革マル派」との結びつきが国会で追及されていた。枝野は「革マル派」から送り込まれたスパイである事は殆ど間違いないだろう。といって、枝野がこれら組織と頻繁に連絡を取り合うという事はないだろう。隠れ共産主義者は完全に自律的に活動できるのである。どこまでも走行できるホーミング魚雷のようなものである。その知人が無知なのか健忘症なのか-マスメディアに洗脳されていることだけは確かである。ほとんどのマスメディアとはこのような極左暴力組織側の仲間であり、都合の悪いところは徹底して隠蔽しているのである。
 
「革マル派」とは正式名称を「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」と言う非常に長ったらしい名前である。ネット検索すれば多くのサイトがヒットする。興味のある方はぜひ調べていただきたい。もっとも、政治系ブログを読む人にとってみれば常識的なことかもしれない。しかし、若い人は「革マル派」「中核派」や、かつての「連合赤軍」の事件など知らないだろうから、これらを問題にすることは重要である。
 
ここでの問題はそのような極左暴力組織、そのバックボーンとなっている思想、イデオロギーである。それはマルクス主義なのであるが、かつての共産主義者のような直接その思想を公言し、政治運動していくことが挫折し、テロを起こすように先鋭化していくのである。そして現在では、そのテロもなりをひそめてきたが、それで彼らが諦めたかというと全くその様なことはない。既存の政治の中に入り込みその内部から政治テロを起こそうとするのである。その最大のものが先の民主党政権であり、それに続く民進党や立憲民主党は形を変えただけの隠れ共産主義政党である。


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初めてのブログ開設 

初めてブログ開設をいたします。以前、ホームページを作っていたのですが、事情により閉鎖となりました。そこにアップしていた論文をブログ上で徐々に掲載していきます。そこに時事的な問題を絡めて、解説していこうと思います。
政治、経済カテゴリーのブログでは、時事的な問題が中心になります。特に最近の政治状況で保守vs左翼は日々の政治活動が中心になっているようです。このブログはそれらと関連しつつも、反日左翼の思想的、論理的深層を解明していこうというものです。さらにそこから現在に至る歴史的経緯を考察します。そのためやや難解な箇所があるかと思いますが、分からない部分は飛ばして読み進めてもらいたいと思います。
ブログは全くの初心者ですので、不都合なところも多いと思いますが宜しくお願いします。

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