反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> マルクス主義の解剖学 17 


  『マルクス主義の解剖学』


  第9章  現存社会主義と現代マルクス主義


 現存した社会主義体制の大部分が崩壊して20年以上経過した現在、マルクス主義の衰退は改めて述べる必要がないくらい顕著である。しかし、 20世紀を席巻した巨大な思想の影響力はそう簡単に消えるものではないことも確かである。今までの考察をもとに現代マルクス主義と現存した社会主義との関係を小論してみたい。現代マルクス主義の現存した社会主義体制の解釈の傾向を主に5つに分けてそれぞれを検討していくことにする。これらは互いに関係している部分もあるが、対立する見解をとっている場合もある。 1 、 「ソ連=国家資本主義」論  2 、規範理論 3 、唯物史観からの逸脱  4 、権力の裏切り 5、弁証法。これは序文で示した譬え―フグとそれを研究した論文、それを食べた人とその人が死んだ理由の追求の問題に照らしあわせて見ると、簡単には次のように言うことができるだろう。 1、そもそも食べた魚は論文で示された魚ではなかった。2 、とにかく論文は正しい。3 、論文で示した通りの調理法、食べ方をしなかった。4 、論文を裏切る行為をした(例えば自分で毒を入れる、というような)。5 、フグを食べた人が死んだのは不幸なことであるが、論文の内容からすれば些細な問題である。つまり、論文はあくまで正しいという姿勢である。


 第1節 「ソ連=国家資本主義」論と経済問題

 

 「ソ連=国家資本主義」論(50)とは次のようなものである。ソ連の経済体制は社会主義ではなく、国家そのものが資本家階級に取って代わった特殊な型の資本主義である。それは官僚体制と警察権力により強制的に労働者階級に資本の本源的蓄積を課すものである。これは本来の社会主義とは正反対の社会主義とは縁もゆかりもない経済体制だというわけである。社会主義、共産主義の抽象的な規定からソ連の経済体制がまったく隔たったものであることは誰の目にも明白である。そのこと自体は問題視されるべきものでもない。この抽象的規定の非現実性は本論の中心となる問題であった。この「ソ連=国家資本主義」論の目的のひとつは、あくまで「唯物史観」に固執してソ連はある特殊な型の資本主義だったのだから、社会主義、共産主義はまだその先にあり、これから到来するものである・・・このように考えたいのではないかと思われる。しかし、これは言葉と概念の小手先の操作にしかすぎない。まず、この国家資本主義論はこの資本主義の定義をマルクスの「資本制生産様式」から大幅に拡張している。国家は権力によって強制的に労働者を働かせて、資本の本源的蓄積をするというのは、それを資本主義と言ってしまえば古代の奴隷社会も資本主義ということになってしまうだろう。国家と労働者の関係が、賃金労働によるかつての資本家における労使の関係と同じである―これでも資本主義というには不十分だろう。やはり、資本主義というには私的所有の資本家が多数いて、賃金労働者を雇い商品を生産し、それを市場を介して売買してその利益を剰余価値として資本蓄積していくことが必要であろう。ソ連は(闇経済は別として)建前上は私的所有の資本家は存在せず、市場も存在しなかったのである。経済学者がこのように定義をご都合主義的に使用するというのは信用をなくすことにならないだろうか。 (この意味で「国家資本主義」と呼ぶのに最もふさわしいのは現在の中国ではないかと思われるのだが)また、このような指摘もできるだろう。どのような形であれ資本主義であるなら、生産力の向上に不可欠なテクノクラートを弾圧することなど絶対にありえないのである。


 しかし、ソ連は国家資本主義であったのか、あるいは国家社会主義であったのか、というような本質規定の問題はそれほど重要な問題ではない。重要なのは、社会主義革命を成功させた権力が共産主義という無階級社会を志向した場合、どのようなことが起こるかということである。これまで検討してきたように、労働者自主管理は成立せず官僚による階級社会が形成されていくことになる。それは市場を介しての資本制生産でないのだから、官僚によって計画された経済でしかないことになる。そうでなければ経済機能は麻痺し、革命権力も社会も破滅へと至るだろう。破滅したくなければ計画経済を採用するしかないのである。それがマルクスの意図したことと異なっているという反論はもう意味がない、ということは論証されてきた。そして一方で、資本家を撲滅するという社会主義革命の目的は達成されているのである。この点で、マルクスの意図は一方では達成され、一方では達成されていないように見えるだろう。しかし、官僚による計画経済というものをマルクスはまったくといっていいほど想定していなかったのだから、当然否定されてもいない。肯定されてもいないが、否定されてもいないものに、完全に否定されているものから置き換えたのだから、マルクスにできるかぎり沿っているということはいえるのである。つまり、ボリシェヴィキは最善を尽くしているといえるのではないだろうか。


 資本家、資本制生産、商品、市場は廃絶された(商品、市場は完全ではないにしても)そして官僚とその指令に従う工場管理者、計画経済に置き換えられたのである。結局、貨幣を廃絶することは不可能であった。これは経済を担う情報のもっとも根本的なものである。完全な物物交換にすることは原始時代に退行しても難しいことだろう。そして、無階級化とその先にある国家の死滅というものは、現実のはるかかなたにあるということはもう繰り返す必要はないだろう。これらの事を総合すると、ボリシェヴィキは実はマルクスに信じ難いほど忠実だったということがわかるのである。


 「ソ連=国家資本主義」論者は次のように言う。


 また、他方でこのことは、社会変革の運動とは、いつでも、そのときどきに現存する人々の意識を前提にしたものでなければけっして成功しないこと、それは人々の意識を前方に引き上げていくようなものでなければならないこと、このことを抜きにした運動は、あるいは経済政策、民族政策等々の政策は、結局のところ失敗せざるをえないこと、を意味する。


 それでは、「現存社会主義」では、なぜ、このような意味での社会主義建設の政策がとられてこなかったのか。それは、要するに、労働する諸個人を搾取する国家資本の機能を人格的に代表する党・国家官僚層に、社会主義についての正しい理論的な概念があるはずもなく、社会主義を、労働する個人、意識をもった人間が意識的に結合するアソシエーションとしてとらえ、したがって人間の意識を絶え間なく前方に向かって変革していくところに社会主義建設の最重要の課題がある、ということが理解されるはずもなかったからである。国家資本のもとで、物質的刺激なしには自発的に動こうとしない生産者たちが構成する社会で、物質的刺激ではなくて鞭による生産力の発展を図ったかぎりでは、それはまさに一種の奴隷制であった。収容所群島を形成したこの野蛮な奴隷制は、同時に、諸民族の抑圧の体制であったのであり、それが偏狭な民族意識を徐々に変革するどころか、民族的対立意識を温存・蓄積してきたことは、この数年来の民族問題の噴出を通じて明らかになったところである(51)。


 それではこの「アソシエーションに向かう人間の意識を絶え間なく前方に向かって変革していく政策」とはどのような政策なのだろうか。これが具体的にどのような政策なのか分かる人間がいるのだろうか。現実のロシア革命の過程で、それはどのような政策であったならば社会主義建設の正しい政策といえるのだろうか。それは土台の身体労働と頭脳労働を統合する能力を獲得するための政策以外にはない。そのような政策が存在するかどうかはもう考える必要はないだろう。すなわち社会主義建設の正しい概念がなかったのはマルクス主義の方なのである。


 ここまでの考察で現存社会主義の構造を理解するための必要な認識が得られたと考える。この問題を考える際の今までとられてきた基本的な見方は、革命前、革命後という2つの区分によってなされてきた。しかし、決定的に重要なことは革命後の状況はイデオロギーによって導かれた観念の中でしか成立しない抽象的能力世界の社会と、その世界を指向しながら能力的にまったく不可能な理由によりそこから退却する、あるいは緊急避難した社会の区分である。そしてこの社会は資本主義市場経済を必ず否定しなければならない―この社会が現存した社会主義体制なのである。それを図で示すと以下のようになるだろう。


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                           図7
 図7における最大のポイントは、いうまでもなく「能力の壁」のラインが設定されてあるところである。これが今までまったく存在しなかったことである。このラインの設定により、社会主義革命後の混乱し、錯綜した状態に明確な区分を設けることができる。今までは社会主義革命以前、革命以後の二つの区分によって考察されてきたことであるが、決定的に重要なことはこれが三つの区分によって考察されなければならないということである。すなわち、社会主義革命以前、革命以後、「能力の壁」の克服された状態、である。そして、社会主義計算の対象領域、現存した社会主義はこの中間の領域なのである。これが今までさまざまに定義、規定されてきたことである。しかし、その本質はこの中間の領域をどのように把握するかという問題なのであり、集産主義、国家社会主義、国家資本主義等どのように呼んだとしても、それ自体はあまり重要なことではないのである。


 社会主義革命は、資本制生産様式、市場経済の否定、破壊を行いながら資本制生産よりも高い生産力を実現する、これが最初の目標になるだろう。それがどのような結果になるかは今まで検討してきた通りである。ここで唯物史観には「魔術的因果性」である「増幅された能力転移」という深層の論理が刷り込まれている。すなわち、社会主義革命はこの深層の論理を大前提として遂行されるのである。それだからこそ、階級としてのプロレタリアート独裁、社会主義社会、共産主義社会への道は開かれているのである。これが起きないと階級構造が消滅していくという無階級社会への道はまったくありえない。また、暗黙のうちに示されたこの能力によって、生産物交換が市場を依らずに達成されるということもありえない。・・・これが現実にはどのような事態を招くかということは改めて述べる必要はないだろう。


 「能力の壁」にはね返された革命は、破滅を避けるために官僚体制による計画的、指令的経済を構築せざるをえない。現実には新経済政策による部分的な市場経済を復活させ、それから再度、社会主義経済体制への突進が開始されたのである。つまり、この領域が社会主義計算の対象である。ということは、マルクス主義にとって社会主義計算の成否がどれくらいであるかは、どうでもよいことなのである。マルクス主義にとって重要なことは「能力の壁」を越えられるかどうか、それがすべてである。(もちろん、今まで考察されてきた通り「完全な兼任を達成できる能力」を抽象的な深層構造の中に埋没させるためのイデオロギー操作がなされている。これによってブルジョワジーとプロレタリアートの立場は簡単に反転できるという途方もない妄想がマルクス主義者の主観になっているのである)社会主義計算の対象領域は中途半端なグレーゾーンにすぎず、たとえそれがどれほど上手くいったとしても問題ではないのである。しかし、現実のソ連の体制にとってみればこれが上手くいくかどうかは死活問題である。社会主義、共産主義社会に向かうという目標は絶対のものであり、そのためにはまず資本主義社会よりも高い生産力を実現しなければならない。


 ハイエクはソ連の体制を集産主義と呼んだ。集産主義において中央当局は経済運営に必要な情報をくまなく知ることはできず、結局、現場の裁量に依存せざるをえない。価格メカニズムが作用しない状態では、資源の効率の良い適切な分配はできないなど、資本主義市場経済よりも劣った体制であると論じていた。1人の人間が知りうる知識、情報はかぎりがあり、それが社会全体に分散して存在する。それが上手く有機的に結びつき機能するという自生的秩序を主張した(52)。つまり、これも情報伝達能力、情報処理能力、意思決定能力という能力問題である。ハイエクは当然、現実的な能力を前提に議論しているので、本論の完全な兼任を達成できるような能力を考察の対象にはしていない。ハイエクは「 能力の壁」に抵触しなくても、資本制生産様式、市場経済を否定しただけで深刻な問題が生じてくることを示しているのである。そして、集産主義では中央当局の強力な指令、強制力、さらに物理的な弾圧などが必然となる。社会構成員の自由は著しく制限され、それは全体主義へ向かうのである。これがハイエクの有名な『隷属への道』(53)で述べられたことである。


 この問題も大変複雑であり、簡単に解明できるようなものではないが、ここでは要点だけ示してみたい。ハイエクは経済を起点として全体主義を導き出そうとする傾向がある。しかし、集産主義からスターリン主義を導けるかというと、かなり無理があるように思われる。それは次の事実、レーニンやスターリン、ボリシェヴィキは集産主義自体を目的としたことは一度もないという点にある。これまでの考察からわかる通り、ロシア革命はプロレタリアート独裁から社会主義、共産主義社会へ向かうために起こされたものである。これらは集産主義とは正反対のものだということは明らかである。集産主義は結果的にたどり着いたものであり、この状態と最初から集産主義を目指した状態とでは根本的に異なるのではないだろうか。集産主義→スターリン主義はひとつの重要な側面であることは間違いないが、大局的にはイデオロギー遂行状態の一側面として捉えたほうが良いように思われる。


 社会主義計算と本論で述べられた社会主義窮乏化理論との関係も誤解されやすいので、ここで説明しておくことにしたい。社会主義窮乏化理論は現存した社会主義体制の窮乏を説明するためのものではない。それはミーゼスやハイエクのした仕事であり、社会主義計算論争の中で論じられたことである。社会主義窮乏化理論は「能力の壁」のラインを越えた領域を対象にしている。それは例えば、身体労働と頭脳労働との間に輪番を行うという階級構造そのものを解体することを実践した場合などである。現実の社会主義体制にこのようなことが行われたことはほとんどない。階級構造は資本主義社会に比べても流動的ではなく、むしろ固定されていたのである。しかし、真摯なマルクス主義者の中には、このようなことを主張した人もいた。労働者反対派のシリャープニコフは工場管理者なども身体労働に一定時間従事することを提案している。これは当然のように、ボリシェヴィキ指導部に却下された。これが本当に実践されれば、その状態は社会主義窮乏化理論の対象となるだろう。その結果は破滅的な機能不全状態になることは必至なのである。以上のことからわかるように、社会主義窮乏化理論の対象領域に至る以前に、深刻な機能不全が起こってしまうのである。

 

 第2節 規範理論

 

 分析的マルクス主義は、 現代の哲学や社会科学の方法を大胆に取り入れ、マルクス主義の伝統的な方法や概念について拒否したり、大胆な見直しを行う点に特徴がある。現代自由主義の潮流の中で規範理論が活況を呈してきたが、分析的マルクス主義はその内容を取り込み、マルクス主義的な社会体制の価値理念、正義、所有、自由、平等、功利、コミュニティなどを分析し、社会主義規範理論としての研究を進めている。この学派も非常に多種多様であるが、ここではその中から「自由」に焦点を当てて、一例として考察することにしたい。松井暁『自由主義と社会主義の規範理論』をテキストとして取り上げる。マルクス主義規範理論の観点から現存社会主義を分析するとどうなるかが示されてある。


 これまで見てきたように,マルクスの自由論は、二つに分けるとすれば制御的自由と人格的自由に分類され、三つに分けるとすれば制御的自由、発展的自由、共同的自由に分類される。


 これらの関係をあらためてまとめておこう。人間が最終目標としての人格的自由を達成するためには、自然との物質代謝において生産力を上昇させ、自己実現の活動に必要な資源を獲得する必要がある。そのために自然または自然との関係を制御せねばならないし、物質代謝を行うための社会体制をも制御せねばならない。これらの制御における自由度を表すのが制御的自由である。ある社会の生産力は、個人的主体の力ではなく、集団的主体の制御能力に関わっている。よって制御的自由の主体は集団である。制御的自由にとつての障害は、自然ないし社会に対する科学的認識が未熟なために、それらを十全に制御できないことである。


 次に、制御的自由がある段階に達すると、物質代謝の成果として、人間は自然からその活動に必要な資源を得る。自由主義社会においても、一定の発展的自由は存在するが、諸個人の間に資源が平等に配分されるとは限らないから、発展の度合いにも不均等が生じる。また、この社会では個人の自発的な意思に基づくコミュニティは十分に形成されないから、諸個人間の共同的自由も進展しない。これがマルクスのいうブルジョア社会における人格的自由である。


 そして自由人のコミュニティとしての共産主義社会では、諸個人の間の資源は各人の自己実現の必要に応じて分配され、万人の発展的自由が保障される。また、諸個人の間の共同関係ができあがることによって、個人が個人としてコミュニティに参加する共同的自由が拡大する。こうして発展的自由と共同的自由の複合としての人格的自由が、共産主義社会においてこそ実現するというのが、マルクス自由論の眼目である(54)。


 この2つないし3つの自由の時間的順序と価値的順序は逆になっている。時間的順序では制御的自由が人格的自由に先行するが、価値的順序では人格的自由が制御的自由に優先する。このことによって制御的自由が人格的自由を抑制することは禁止されている。人格的自由の中の発展的自由は共同的自由のない所でもある程度は可能である、そのことで前者は後者に時間的に先行するが、人格的自由を十全なものにするためには共同的自由が必要であるという意味では、共同的自由が発展的自由に価値的に優先する―これがマルクスの自由 論だと論じられてある。しかし、ソ連などの現存社会主義では制御的自由が自己目的化し、秘密警察が国民生活の細部にわたるまで徹底して管理するような現象が生じた。しかし、マルクスにおいて制御的自由はあくまで人格的自由という目的を実現するための手段なのである。であるから、人格的自由を実現する条件が満たされれば制御的自由の追求は、たとえそれがいまだ最大化されていなくても終了することになる。つまり、制御的自由を徹底させる方向性はマルクスには存在せず、現存社会主義はマルクスの意図とは正反対のものだというわけである。また、マルクスは確かに将来社会構想のなかで一国一工場論もその選択肢のなかに加えていたが、彼のいう制御的自由は、物質代謝の制御一般における自由を述べているのであって、中央集権的計画経済に限定されるわけではない。


 ―以上のような分析的マルクス主義規範理論からの現存社会主義の解釈は、より精緻に議論を展開しているとはいえ、本質的には以前の同種の議論と変わりはないといえるだろう。これは論文を精査して、フグを食べた人の死因は論文に書かれてあったことの中には存在しない、ということを証明しようとすることだといえるだろう。この規範理論も次のような歴史的経済的発展を大前提にしている「社会主義、共産主義社会は資本主義よりも生産力が上である」もはや明らかなように、これを実現させるためには「完全な兼任を達成できる能力」が絶対必須なのである。ただし、これが十分条件であるという保証はない―あくまで必要条件なのである。発展的自由と共同的自由の複合としての人格的自由―これは資本主義社会では十分に発展されず、共産主義社会においてのみ発展させることができる。つまり、そのような社会が共産主義社会と定義されるのであり、現存社会主義はこの定義から完全に外れているのである―この論理関係は完全に正しいといえるだろう。しかし、この部分だけをいくら主張したとしても、マルクス主義は現存社会主義を導いたことの何の反証にもならない。 『資本論』を中心とする頭脳労働形態、頭脳労働価値捨象の巨大な体系によって、無階級化しながら生産力を増大させるためには異次元の頭脳労働能力が要請されるということを隠蔽してきたのである。論文に書かれてあることをどれほど精査したとしても、フグを食べて死んだ人の死因はわからない―これはマルクス主義を批判する側にとっても同じなのである。


 伝統的マルクス主義、分析的マルクス主義を問わず、ロシア革命の具体的な推移を細かく分析していこうという姿勢はみられない。ボリシェヴィキは制御的自由を独占して、それを最大化し続けたとみられているだろうが、詳細に検討すれば事実はまったく違うのである。ロシア革命直後にボリシェヴィキは労働者統制、労働者自主管理を完全に認めている。これは自分たちが制御的自由を独占しようとすることと正反対である。むしろ事実はまったく逆であり、経済に関する制御的自由を労働者に委ねたのである。その結果、数ヶ月で工業生産、運営は壊滅的な機能不全状態に陥ってしまった。この破滅的な状況を改善するために、官僚による計画的、指令的経済を構築せざるをえなくなったのである。こうなった根本原因は、労働者自主管理そのものの不可能性であり、プロレタリアート独裁がまったくの幻想であったことを物語っている。


 本論で考察されてきたことは、この労働者自主管理を成立させるためには社会の客観的状況、何らかの社会関係ではなく、身体労働と頭脳労働を統合するための技術論、さらに均等割り振りや完全な兼任の形態を実現させるための頭脳労働能力が必須なものになる、ということである。そして重要なことは、ボリシェヴィキは革命という後戻りの出来ない賭けによって、この誤りを絶対に認めることができないということなのである。つまり、資本主義市場経済は絶対に否定され続けなければならない―たとえネップのような後退があったとしても―である。これでハイエクの分析したような集産主義による際限のない制御的自由の行使を続けなければならなくなったのである。そして理想と現実の大きなギャップに理想社会は絶えず先送りされ、社会の不満は言論弾圧によって押さえ込まなくてはならなくなった。明瞭に理解されるように、ここでマルクスのいうような人格的自由を言ってみたところで、まったくそれどころではないのである。このような状態に誘導したのはマルクスその人であることはあまりにも明白であろう。

 

 第3節 唯物史観からの逸脱

 

 マルクス主義の側からの「現存社会主義の責任はマルクス主義にはない」という解釈の最も有力なものが、この「唯物史観からの逸脱」ではないかと思われる。これは歴史的にみてもかなり以前から・・・例えばボリシェヴィキに対抗したメンシェヴィキもこのような主張につながる立場をとっている。その意味で、特にこの見解は現代マルクス主義特有のものではないのだが、その重要性から詳細に検討するに値するものだといえるだろう。また、最近でも『共産党宣言』関係の出版物の出版はかなり盛んである。これらの背後には次のような意図があるのではないかと思われる。一般的にも読みやすい『共産党宣言』には、資本主義社会の行き詰まりや窮乏化、二極化から社会主義革命の勃発、共産主義社会に至る大まかな見取り図が描かれてある。このこととロシア革命から現存社会主義が形成された状態とを比べてみれば、その本質的な違いはよく分かるということなのである。これは公然といわれることは極めて少ないが、マルクス主義を擁護しようとする者にとって、この論点は極めて重要であろう。


 「マルクスの『共産党宣言』などの文献を読むと、そこにはプロレタリアートとは別個の職業的革命家の集団である前衛党が、社会主義革命を先導するというようなことは想定されていない。そもそも社会主義革命は資本主義社会が発展し、ブルジョワジーの資本蓄積が進み、勝ち残った少数のブルジョワジーとそれ以外の窮乏化が進む多数のプロレタリアートの二つの階級に分裂していき、それがある限界に達したときに自然発生的に勃発するものである。その中ではプロレタリアートの連合が形成されていき、ブルジョワジーと対抗し、闘争し、最終的には暴力的にブルジョワジーを打ち倒すのである。そして生産手段を手中にして社会的、共同体的所有とする。そして、市場を廃絶し資本制生産様式を廃止して、より合理的な生産力の高い平等な分配を可能にする共産主義の経済体制が築かれる。真の意味での無階級社会が達成される。ここでは社会の大多数を占めるプロレタリアートによって、革命は段階的に進むのであり、少数のブルジョワジーに対する暴力は規模の小さいもので済み、それも短期間で終わるだろう。このこととロシア革命における状況とはまったく異なる。まず、ロシアは資本主義の発展が非常に未熟なものであった。プロレタリアートの数は少数であり、国民の大多数は農民であった。マルクスが予測した資本主義社会が限界に達するような状況とはかけ離れていたのである。このような状況の中でレーニンは革命的前衛党というプロレタリアートの連合とはまったく異なる組織によって、戦争と自然発生的革命によって生じた権力の空白状態につけ込み、権力を奪取したのである。このような状態では少数者が多数者を支配しなければならず、その暴力は非常に大きなものになるだろう。また、その期間も非常に長くならざるをえない。赤色テロルはそのようなマルクスの理論が歪曲的に適用されてしまった不幸な例である。したがって、赤色テロルの責任をマルクスと関連づけることはまったくもって的外れである」。「マルクスの目指した社会主義、共産主義社会は偽りのブルジョワ民主主義ではなく、プロレタリアートが支配する平等で真の意味での民主主義である。暴力肯定はそこに至るまでのプロレタリアート独裁期におけるブルジョワジーとその勢力に対する過渡的なものにすぎない。社会主義、共産主義の完全な民主主義と、ボリシェヴィキの民主主義を抑圧し自らに権力を集中する独裁との間には何の共通点もない。これはまさに正反対のものである。このボリシェヴィキのテロルとマルクスのテロルとはまったく異なるものである」。


 それではマルクスが想定した資本主義の行き詰まり、二極化、窮乏化から社会主義革命が勃発する―そこでは革命的前衛党ではなく、プロレタリアートの連合による革命過程が進行するのである。そのこととロシア革命における状況の相違とはどれくらい本質的なものなのだろうか。これは極めて難しい問題である。マルクスの想定した通りに資本主義は進行していかなかったのだから、そもそもこの考察は無効である―このように考えてよいかもしれない。しかし、このことを考察することは極めて重要なことなのである。それではマルクスの想定した通りに二極化、窮乏化が進行したと仮定してみよう。プロレタリアートは多数者となり、ブルジョワジーは非常に少数となる。テクノクラートなどの中間層をどうしたらよいのかという問題が生ずるが、ここではひとまずおいておこう。


 『共産党宣言』ではブルジョワジー対プロレタリアートの大まかな闘争の過程が描かれている。「最初は、個々の労働者が別々に戦うが、次にはある工場の労働者たち全員が戦うようになる。その次はひとつの町の特定の産業分野の労働者全員が、彼らを直接に搾取する個々のブルジョワに対して戦う。労働者たちがブルジョワジーに対抗する連合体を作るようになる。こうした闘争の本当の成果は、その都度の具体的な成功にあるのではなく、彼ら労働者たちの組織が次第に拡大していくことにある。彼らのこの団結は、まさに大工業が生み出したコミュニケーション手段の進歩の追い風を受ける。こうした手段によって、さまざまな地域の労働者たちが直接に連絡しあうことができるのである。さまざまな地域の闘争はどこでも同じ性格を持っているのであり、連絡手段さえあれば、こうした闘争を、ナショナルの階級闘争へと纏め上げることができるのだ。だが、どんな階級闘争も政治闘争なのである。こうしてプロレタリアートは強固に団結し、まとまった強大な存在となる。そしてある地点に達すると公然たる革命として爆発し、ブルジョワジーの暴力的打倒を通じてプロレタリアートが自らの支配を打ち立てるに至る(55)」 ―以下、共産主義社会に進展していくというわけである。これらの論述を読んでいくと、さももっともらしい印象を持つであろう。以上の中に潜む問題とは何だろうか?もっとも重要な核心は次のようなことである。最初の段階ではプロレタリアートのブルジョワジーに対する戦いは、一種の場当たり的な反抗であり、設備の焼き打ちなど反乱的であるが、次第に組織化されていき地域的な広がりもどんどん拡大していく。それは革命という合目的的な機能を持つ大きな組織になっていくのである。このような段階になれば、その機能を合理的に効率よく達成するための階層性が生じてくるのである。これは何も革命に限ったことではない。どのような目的であったとしても、それがある程度以上の高度なものであるならば、必ず組織の中に階層、階級が生じてくるのである。


 例えば、このプロレタリアートの連合が闘争ばかりしていたのでは、ということで息抜きに運動会を開催しようということになった。そのためには実行委員、その責任者、副責任者や企画、運営、書記、会計、連絡係、備品調達管理、などなどさまざまな階層性、役割を分業によって担わなければ、運動会はまったく実現されないだろう。つまり、革命というものを遂行しようという場合、以前にあった機能と同等、ないしそれ以上のものを達成しようとすれば、その革命主体は非常に高度な組織性を持たなければならず、それは必ず階級構造を持つことになるのである。このような革命の目的は、運動会よりもはるかに高度なものである。つまり、ポイントは闘争の初期段階における単純な反乱と、プロレタリアートが大規模に組織された状態とではまったく異なる、ということである。これは天と地ほどの差がある。しかし、マルクスはこれを連続した記述として示して、これがまったく異なる状態であるということを気づかれないようにしているのではないか・・・初期段階においてはプロレタリアート内部に当然、階級分化は生じていないが、大規模に組織された段階ではプロレタリアート内部に階級分化が生じてくるのである。


 革命は運動会よりも比較にならないほど、困難な大事業である。そこでは強力な組織統合が必要であり、階級構造も強いものとならざるをえない。これはまさにレーニンの取った手法なのであり、この点においてレーニンの現実主義の方が正しいのである。しかし、この仮定の中ではプロレタリアートは大多数であり、ブルジョワジーの打倒は容易であった。これはロシア革命の状況とはまったく異なるように見えるだろう。ところが問題はその次から生じてくる。プロレタリアート内部に生じた強い階級構造は、その下位の者からすれば本来の革命の目的からまったく逸脱している。そのことに対する強い不満、抵抗が生じでくるのは必至なのである。ここで次のような反論があるかもしれない。「これはロシア革命におけるような革命的前衛党が主導していたものではなく、多数のプロレタリアートの連合によって成し遂げられた革命である。革命時においてそのプロレタリアートの連合に強い階級構造が形成されていたとしても、その過渡期が過ぎれば元の無階級制に戻るはずであり、そこでは平等で緩やかなプロレタリアートの連合になるだろう。このような不満が生じてくることはないはずである」もう繰り返す必要はないと思うが、これこそが超弩級の誤謬なのである。過渡期が過ぎても階級構造が消滅することは絶対にありえない。高度な合目的性を持った組織はどのようなものであれ―資本主義の上部構造を覆そうとするプロレタリアートの連合体でもその後の経済体制においても、無階級性を実現するためには「均等割り振り」 「完全な兼任」を実現する能力が絶対必要になる。革命後の経済機能を保とうとすれば、それが資本制生産様式であっても、計画経済であっても階級構造は絶対に必要なのである。


 しかし、資本制生産様式を採用するとなれば、かつてのプロレタリアートの一部が資本家に転化するということになる。これでは何をやっていたのかまったく分らないことになるだろう。社会主義、共産主義を目指すということになれば、必然的に計画経済にならざるをえないのである。それは元プロレタリアートが官僚に転化して頭脳労働領域を担い、階級構造が形成されていくことを意味している。つまり、社会主義革命を主導するのが革命的前衛党であっても、プロレタリアートの連合体の指導部であっても本質的にはまったく同じなのである。それはまったく同じ結果へと導かれる。「それでも、そのプロレタリアートの指導部はかつての同僚だったのだから、うまくやっていけるのではないか」このように考えたとしたら、それはまったく甘い。むしろ事態は逆だともいえるだろう。このプロレタリアートは搾取される不平等な社会から、平等な分配、生産の所有ができる理想社会を目指したのである。そして苦労して、危険を冒して革命を遂行したのである。その結果として以前とまったく同じ立場にとどまってしまい、同僚だった者が階級の上に座って自分を顎で使ったとしたら絶対に我慢出来ないだろう。つまり、かつて同じ階級だった者の中に階級分化が生じ階級闘争が生じてくるのである。そしてこの階級闘争は以前よりもさらに激烈なものになっていく可能性の方が高い。


 プロレタリアートの連合体の指導部は強い権力を持ち、それを行使するための秘密警察、政治警察を持つことは必然となる。また、そうしなければ指導部は存在することが出来ないだろう。革命時においてはブルジョワジーとその勢力を弾圧、撲滅することにこの警察権力は欠かすことの出来ないものであり、大きな役割を演じる。単純な労働者の反乱だけでは、決定的な効果を発揮出来ないことは明らかである。マルクスは革命過程において、このような単純な労働者の反乱のレベルと高度な警察権力の行使の区別をまったくしていない。革命時においてブルジョワジーを弾圧した警察権力は、その後でプロレタリアート内部に生じた階級闘争に振り向けられることになる。今度は、かつての同僚を弾圧し、激烈な反抗に対してテロルで応ずるよりほかはなくなるだろう。・・・結局、同じことになるのである。プロレタリアートの連合体の指導部はボリシェヴィキとまったく同じジレンマに陥る。そしてこの内部矛盾を押え込むための強力な指導者が要請されるのである。つまり、このプロレタリアートの連合体の中からスターリンが現れてくることになる。これはそのような資質を持った人物がその中に存在するかという難しい問題があるが、重要なのはこのような指導者が要請される状況が造り出されてある、ということなのである。


 ロシア革命、現存社会主義は唯物史観からの逸脱である。したがってマルクス主義の実現の可能性はまだこれから未来に向かって開かれている―このことに対する結論も明らかである。マルクスが想定した通りの資本主義の進展、崩壊の現実性を信じる人はほとんどいないであろうし、現代的な意味での別の崩壊の可能性を考えたとしても、そのことと共産主義社会への進展とはまったく関係ないのである。

 

 

(50)大谷禎之介  他『ソ連の「社会主義」とは何だったのか』、大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』等を参照
 

(51)大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』36,37頁
 

(52)フリードリヒ・ハイエク『個人主義と経済秩序』嘉治元郎 嘉治佐代訳、春秋社 1990年、等を参照
 

(53)フリードリヒ・ハイエク『隷属への道』西山千明訳、春秋社、1992年
 

(54)松井暁『自由主義と社会主義の規範理論』大月書店、2012年、173,174頁
 

(55)マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー、哲学の貧困、コミュニスト宣言』


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<論文> マルクス主義の解剖学 16 

 

 『マルクス主義の解剖学』

 

 第8章 現実化したマルクス主義
 

 第9節 ボリシェヴィキの農業政策

 

 1917年10月、ロシア革命勃発以前、以後のロシアの農業の状態、食糧事情については、やはりソ連崩壊以後の多くの資料の研究によって、その詳細が明らかになってきている。


 第1次世界大戦からロシアの農業事情は悲惨な状況へと転がっていた。軍隊へ多くの若者が取られ、戦死したり、傷病兵となって故郷へ帰ってきた。農村から都市への食糧の輸送は、鉄道、列車の専門の整備士の不足による整備不良や燃料不足、盗賊行為、不正略取などにより壊滅的な状況となっていった。都市は深刻な飢餓状態となっていた。1918年3月、ブレスト・リトフスク条約により、ロシアは戦線から離脱し一息つくことが出来たのである。ボリシェヴィキはこの深刻な飢餓状態を改善すべく努力を始めた。これはボリシェヴィキの主張である「平和とパン」を実行に移したものとして、公平にみて評価されるべきものであるだろう。ところがこれが大問題となっていったのである―ここでもボリシェヴィキの目標は共産主義イデオロギーの現実化である。すなわち私的商業は廃止され、市場は廃止されなければならない。しかし、この時深刻な飢餓を克服するためには私的商業を認め、市場に頼るしかない状況だったのである。もちろん、現在から見れば飢餓状態かどうか、に関わりなく私的商業、市場は必須のものである。しかし、この時はまさに緊急の要請があったのである。この時ボリシェヴィキがなすべきことは、私的商業、市場を認め、それを上手く管理しコントロールすることであろう。しかし、資本主義を徹底して破壊することを至上目的とするボリシェヴィキにとって、これは到底ありえないことなのである。


 私的商業、市場は非合法な行為となったが、それでも差し迫った必要から担ぎ屋行為が蔓延した。ボリシェヴィキは渋々ながら、その必要性も認めていたから、あるときは部分的にこれを許容したが、基本的には禁止の方向に向かい違反したものは厳しい罰則が科せられた。そして、農村から都市への食糧供給には、工業生産物と食糧の交換という共産主義的生産物交換が徹底して実行されることになった。ところが、戦争によって疲弊した都市はそれだけの工業生産物を生産出来なかったのである。そのことにより、交換するだけの工業製品がないにもかかわらず、農村から食糧が徴収されることになった。当然のように農民の激しい抵抗が沸き起こった。そこでボリシェヴィキは軍隊による厳しい強制手段に訴え、抵抗したものは銃殺、強制収容所送りにしたのである。こうして、商業行為、農業政策への反抗といった違反者を処罰するための強制収容所が必要となり、瞬く間にロシア全土に大量に出現していったのである。


 ボリシェヴィキは何としても都市の飢餓を克服しなければならないため、農民に対する食糧調達を強化していった。交換できる工業製品が足りないにもかかわらず、常軌を逸した量の食糧割当が課せられたのである。そのため農村部も飢餓状態に陥っていった。農民は収穫量が増えても、私的に売りさばくことが出来ず、増えた分だけ強制的に徴収されてしまうため労働意欲が減衰していった。農村に悲惨な飢餓が迫っていったのである。それでも、ボリシェヴィキは共産主義イデオロギーを押しとうし、私的商業、市場を圧殺することを決して止めなかったのである。天候不順による飢饉も重なって、1921年、22年にロシア全土に途方もない飢餓が訪れ推定500万人が餓死したと言われている。また、農民反乱が各地で起り、赤軍による残虐な弾圧が繰り返されたのである。この悲惨な飢餓の結果、レーニンとボリシェヴィキは渋々ながら、共産主義経済体制をすぐに築くことは不可能であることを認め、私的商業、市場をある程度は許容する新経済政策( NEP)を導入することになった。

 

 第10節 農業政策の考察

 

 どうしてボリシェヴィキはここまで強引に食糧調達を押しとうしてきたのだろうか。それはマルクスの理論、唯物史観によるものであることは今更説明の必要もないだろう。つまり、資本主義から共産主義の経済体制になれば、工業生産力は大きく増大すると信じられていたからである。しかし、戦争の結果、都市部は深刻な飢餓状態になっていた。まずこれを改善しなければ、共産主義的経済体制などとても不可能なことである。これを救いさえすれば、資本主義的生産様式をはるかに超える効率の良い共産主義的経済体制に発展するのだから、その結果農民に行き渡る工業製品は大量に生産することが可能になる。そのための「賭け」として農民は先に都市に食糧を供給しなければならない―たとえ農民の一部が餓死しようとも―である。そのときは大変でも、たちまち将来にはより良い状態が訪れるのだから、「それまで辛抱しろ」というわけなのである。


 「社会主義、共産主義は資本主義よりも生産力が上である」このことが、どれほど巨大な悲劇を導いたかということを述べるのに、一体どれほどの紙幅が必要になるだろうか。このような幻想を生みだすためのマルクスのイデオロギー操作をこれまで詳細に検討してきた。社会主義、共産主義の思想を生み出したのはマルクス一個人に帰せられるわけではない。それまでの長い思想の歴史が存在する―しかし、経済学と密接にリンクすることによって、科学としての装いを身にまとい、これほどまでに強力なイデオロギーを創出したのは、ほとんどマルクス一個人によるものである・・・まさにこれは驚くべきことである。


 ここでも、労働者自主管理がいかにしたら成立するかという問題と同一の問題が存在する。都市と農村、プロレタリアートと農民、食糧の需要と供給、さまざまな交通手段を機能させるための物質的な基盤、その運営、それらすべてが超高効率の情報伝達、情報処理、意思決定の能力上の問題として存在しているのである。私的商業、市場を介さずに食糧供給を実現するためには、さまざまな情報が途方もないレベルで伝達されなければならない。ここでも完全な兼任を達成できる能力が要請されるのである。すべてのプロレタリアートと農民がひとつの頭脳となるような情報伝達、情報処理、意思決定の能力が要請されるのである。


 本論のいままで検討してきた結論は、ここでも完全に適用されるのである。マルクスが思い描いた共産主義社会の理想的な形態は、この完全な兼任を達成できる能力の能力世界なのである。そして、この能力を獲得するいかなる手段もわれわれには存在しない。これは歴史ではなく進化の問題である。資本主義のどのような要素を抑圧、放棄、破壊しようとも、それはまったくこのような進化には繋がらないのである。私的商業、市場を禁止、破壊したとしても、都市と農村の工業製品と農産物の生産物交換をしたとしても、それはこのような能力の獲得とは一切無関係である。ここでも、因果関係の逆転が行われている。すなわち工業製品と農産物の生産物交換が、共産主義的な形態で行われること―これはプロレタリアートと農民が相互にお互いの必要なものを交換し合う、そして極端に富を手にする商人、資本家が存在しない平等な生産物交換の経済である―しかし、これこそが情報をコストゼロとみなす途方もない幻想なのである。逆にいえばこの状態を実現させるためには、情報のコストがゼロになるような能力が必須となるのである。それが完全な兼任を達成できる能力であることはいうまでもない。もし、このような能力を獲得することができれば、このような共産主義的生産物交換が可能になるだろう。それ以外の条件も満たされていなければならないが―である。能力の獲得→共産主義的生産物交換という因果関係を、共産主義的生産物交換→能力の獲得→共産主義社会というように完全に逆転させて、真ん中の「能力の獲得」を徹底した捨象によって思考することの出来ないよう麻酔剤を射っておいたのが、マルクスのイデオロギー体系なのである。


 ソヴィエト社会主義共和国連邦―今は亡きその国の国旗は真っ赤な地にハンマーと鋤の重なった図のデザインであった。これが労農同盟を意味するものであることは明らかである。私が子供の頃から慣れ親しんだその国旗に、本来の意味である労働者と農民の同盟、搾取されることのない労働者の協調した平等な社会、というイメージを感じたことは1度もなかった。この国旗は得体の知れない自由のない警察国家、軍事力にものをいわせ謀略渦巻く世界、というイメージのものでしかなかったのである。


 ボリシェヴィキの目指した労農同盟は現実にはごく一部に限定的に成立したにすぎず、そのほとんどは実態の伴わない虚構であった。農村に対する食糧の強制的な徴発により、都市プロレタリアートと農民の関係はむしろ敵対的になっていたのである。ボリシェヴィキにしてみれば、食糧を都市に供給しさえすれば工業生産力は増大するのだから、その食糧の供給を渋る農民は社会主義、共産主義に反抗する農民であり裏切り者なのである。しかし、都市ではすでに労働者自主管理は完全に失敗しており、そもそも労農同盟の基盤となる理論は破綻していたのである。官僚による工業管理を、内戦によって優秀なプロレタリアートの多くが戦死したことを理由に挙げる場合がある。この責任は内戦の相手である白衛軍と干渉戦争をしかけた側にある、というマルクス主義者の反論はまったく無効である。すでに内戦がはじまる以前に、労働者自主管理は破綻していたのだから―その破綻の結果、官僚による工業管理が強化されていったのである。もし、内戦がなかったとしても、官僚による工業管理はまったく同様に強化されていくだろう。そしてこのことは国際革命、世界革命論においてもまったく同様に当てはまるのである。

 

 第11節 世界革命の考察

 

 ロシア革命論における世界革命の位置は非常に重要なものである。マルクス主義者、共産主義者はロシア革命がなぜスターリン主義の途方もない歪曲を被ったのか、ということの根源的な理由を世界革命が勃発しなかったこと―に求めることが非常に多いのである。これは唯物史観の根本となる歴史認識、歴史法則である資本主義が発展し、資本家とプロレタリアートの二極分化によって階級闘争は激化し、それが頂点に至ったとき革命が勃発する―そこに至らなければ社会主義革命は決して起こらないのである。この公式にロシア革命は部分的にしか当てはまらなかった。ロシアは19世紀末から工業化が進み、資本主義が発展してきたとはいえまだ圧倒的な農業国であり、プロレタリアートの数は少なかったのである。しかし、マルクスは『共産党宣言』ロシア語訳において資本主義後進国ロシアであっても、そこに革命が起きればそれが先進資本主義諸国に波及していく―いわば革命の導火線の役目を果たすことができる、と述べているのである。レーニンはそのことを革命遂行の中心に据えていたのである。


 レーニンが執務していた5年のあいだ、ソヴィエト・ロシアの外交政策はロシア共産党の政策の一附属物であった。それ自体は、まず何よりも、世界革命のために貢献すべきものと意図されていた。ボリシェヴィキがロシアで権力を掌握したのは、ロシアを変えるためではなく、跳躍板としてそれを利用し、そこから世界を変えるためであったということを、いくら強く、あるいは、頻繁に主張してもし過ぎることはない。レーニンは、1918年の5月に「社会主義の利害、つまり世界革命の利害が、民族的な利害、国家の利害に優越すると我々は断言する」と述べている。共産主義体制の創設者たちには、彼らの革命が、もし、直ちに国外に波及しなければ、それは短命に終わるであろうと思われた。この信念は、二つの前提に基づいていた。一つは、彼らよりはるかに強力な「資本家」の陣営が一つになり、経済制裁と軍事攻撃を結合して革命の前哨地を打倒しようとするであろうというものであった。もう一つは、たとえそうならなくとも、あるいは、それが現実となり、ロシアの共産主義者がその攻撃をはね返すことができたとしても、彼らは、まだ、敵に囲まれ、敵意をもつ遅れた農民の住む孤立した共産主義国家の運営を試みるという打ち勝ちがたい困難に直面するというものであった。


 理論の方はそんなところにして、実際には、ソヴィエト・ロシアは、世界で最初の、そして長い間、唯一の共産主義国であったから、ボリシェヴィキは、ロシアの利害を世界共産主義のそれと同一視するようになった。そして、世界革命への彼らの期待が後退していくにつれ―これは1921年までに生じていたが―、ソヴィエト・ロシアの利害を最優先する以外に、彼らには選択肢が残されていなかった。結局のところ、共産主義はロシアにおいて一つの現実であるが、それ以外のところではどこにおいても、単なる希望にすぎなかったからである。


 それ自身のナショナルな利害をもち、同時に、ナショナルなものを超えた革命、つまり、国境なき運動の司令部でもある一国の政府として、ボリシェヴィキ体制は、さらに、その二重の外交政策を展開することになった。外務人民委員部は、ソヴィエト国家の名で行動しながら、以前と同じように、公式には、ソヴィエト国家と関係をもつ用意のある列国とは正常な関係を維持した。世界革命を推進させるという課題は、1919年3月に創設された第三の、つまり、共産主義インターナショナル(コミンテルン)の新しい組織に委ねられた。形式的には、コミンテルンは、ソヴィエト政府からも、ロシア共産党からも独立していたが、現実には、後者の中央委員会の一部局であった。二つの本体に分離することで、モスクワは、「平和共存」と転覆活動を同時に行う政策を指揮することが可能となった。


 コミンテルンには、国外で革命を推進させると同時に、ソヴィエト・ロシアに対し十字軍を起こそうとする「資本主義」諸国の努力を失効させるという、攻撃と防衛の二つの任務があった。コミンテルンは、攻撃よりも防衛において大きな成功をおさめた。国外の社会主義者と自由主義者には、政治スローガンで、国外の企業家たちには有望で儲かるビジネスがあるとの触れ込みで訴えかけながら、コミンテルンの活動家は「ロシアから手を引け」というスローガンのもとで、どうにか反共主義のイニシアチヴを阻むことができた。1920年代の初めまでに、ヨーロッパの事実上、全ての国が、初めは無法者として扱っていた政府と、外交および通商関係を樹立するにいたった.しかし、コミンテルンが実現しようとした革命は、全て、ヨーロッパであれ、中東、極東であれ、大敗に終わった、革命を国外に、とりわけ工業化された諸国にもち込むことにレーニンが失敗したことによって、ソヴィエト・ロシアは、その生来の専制的で官僚的な伝統に立ち戻ることが殆ど確実となった。そのことにより、スターリンが支配権をうることが殆ど不可避となった。彼は、世界革命が起こる見通しは、少なくとも、再び世界戦争が勃発するまでは無に近いと早くから結論を下し、彼の権力基盤を国内に築くことに専念していた(69)。


 レーニンはロシア革命に次ぐ社会主義革命がドイツに起こることを期待していた。ロシアよりもはるかに工業の進んだ先進資本主義国であるドイツに革命が起きれば、ドイツのプロレタリアートがロシアに救援に駆けつけてくれる。ロシアの破壊された工業力は、ドイツの力で急速に復興するだろう―さらにそれ以外の工業国に社会主義革命が波及していけば、内戦の危機はまったく問題でなくなるだろう。それが20世紀に人類がたどるべき希望に満ちた正常な歴史となったはずである―このような見解が現代においてさえ(当然、過去には非常に広く)ときどき見られるのである。当然、この見解は批判や反論にさらされてきたけれども、そこに決定的な反証を加えることは極めて困難なことであった。


 本論は今まで広く行き渡っていたこの見解に決定的な結論を導き出すことを目的とする。もし、ドイツで社会主義革命が本当に起こったとしたら、どのような事態になっていただろうか。工業をはじめとする社会全体で、本当に無階級化を遂行すれば、それは「能力の問題」に抵触することになる。生産力、社会の機能はたちどころに機能不全に陥ってしまうのである。革命が成功した瞬間に、生産力は破壊される・・・これが本論の結論である。それは戦争によって、すでに機能不全に陥っていたロシアの工業力の場合より、はるかに明瞭にその生産力破壊は現れるだろう。それによってもたらされる混乱やパニックは想像を絶するものがある。つまり、この革命ドイツはロシアを救援するどころではなく、逆にそのロシアに救援にきてもらいたいくらいの大惨事となるのである。しかし、現実にはそうはならないだろう。この機能不全状態を改善すべく、直ちに対応が取られるだろうから。それはプロレタリアート内部に階層性が生まれ、さらに経済を機能させるために、それ以前のブルジョワ専門家と呼ばれる人たちが活用される。そして、私的商業、市場を禁止するならば、官僚による計画経済が採用されることになる。それを遂行するための強力な秘密警察が発達していくだろう。つまり、たどる道はロシアとまったく同じなのである。その共産主義ドイツは共産主義ロシアとどのような関係になるかはまた別の問題であるが・・・


 パイプスは反共主義の側にあるアメリカの歴史家である。当然、マルクス主義、共産主義に対して極めて強い批判的な態度を取っている。そのパイプスからして、この世界革命の展望に対する見解は唯物史観に影響され、巻き込まれているのである。以下のパイプスの引用文「コミンテルンが実現しようとした革命は、全て、ヨーロッパであれ、中東、極東であれ、大敗に終わった、革命を国外に、とりわけ工業化された諸国にもち込むことにレーニンが失敗したことによって、ソヴィエト・ロシアは、その生来の専制的で官僚的な伝統に立ち戻ることが殆ど確実となった。そのことにより、スターリンが支配権をうることが殆ど不可避となった」は、まったく常識的な見解のように見える。しかし、これが大問題であるのだ。工業化された先進国に社会主義革命を持ち込むことに失敗した―その結果として革命ロシアは、その生来の専制的で官僚的な伝統に立ち戻ることになった―この因果関係が完全な誤りであることは、もはや明らかである。工業化された先進国に社会主義革命が勃発しても、ロシアはまったく同じように専制的な官僚体制を構築していくしかないのである。そしてその官僚体制は、ロシアの伝統に単に立ち戻ることではない。これは専制君主の官僚体制ではなく、共産主義イデオロギーのもとで、そのイデオロギーの原理的な矛盾から不可避的に生じてきた、根本的に捻れている官僚体制なのである。この矛盾、捻れというのは、それ以前のロシアの官僚体制にはない性格なのである。そして、スターリンが支配権をうることになったのは、スターリンがロシア伝統の専制君主を目指し、伝統的な官僚体制を味方にしたからではなく、その矛盾と捻れの性格を巧妙に利用する才分と意思があったからだといえるだろう。


 先進国革命論はいまだに根強く存在する。現代における資本主義の欠点を是正しようとするオルタナティブを考える時、マルクスの資本主義批判と同時に社会主義、共産主義はいまだに魅力的なものを持っているように見えるのである。これは歴史上、先進資本主義国に社会主義革命が起こったことが一度もないから―という理由が大きいだろう。これが現実に起こっていたなら、この認識はまた大きく違っていたと推測することができる。しかし、これはまったく非現実的なことであると正しく判断できる人なら考えるだろう。そして、この革命の結果がどうなるか「社会主義窮乏化理論」は理論的に導き出すことができる。現実に社会のごく一部に無階級化実験をして証明することもできるのである。このような局所性を否定するのがマルクス主義、唯物史観である。


 チャーチルは1920年代に「ボリシェヴィキは狂信者であり、彼らを説得してその主義運動を捨てさせられるものではない。彼らの見解では、彼らのシステムは、十分に大きな規模において試みられていないために、成功を収めていないのであり、成功を確かなものにするためには、それを世界的な規模にしなければならない」といったという。たしかに、ロシアに限定されたこのシステムは、世界的な規模になった場合に比べて制約を受け、さらに妨害されるということは事実だろう。それでは、その制約や妨害がまったくなかったとしたら十全に機能するのだろうか。外部条件の最適化による無階級化実験をすれば、それは何の根拠もない虚妄だということが証明されるだろう。この世界革命の論理は、今この現在の失敗を取り繕い、問題解決を絶えず先送りしていくこのイデオロギーの巧妙な戦術となるのである。


 結論はこのようなものである。「階級としてのプロレタリアート独裁」を通過しなければ共産主義社会に至ることは決してない。そのためにはプロレタリアートは相互依存している頭脳労働を兼任しなければならない。その規模が大きくなればなるほど兼任しなければならなくなる頭脳労働領域は拡大していく。つまり、ある規模においてそれが不可能であるということは、それより大きな規模においてはさらに不可能であるということだ。世界革命の論理「社会主義、共産主義は革命がロシアにとどまったから失敗したのであり、世界革命に発展すれば成功しただろう」というのは、独力で富士山に登れない幼児に向かって、「それならエベレストなら登れるだろう」と言っているようなものである。

 

 

(69)リチャード・パイプス『ロシア革命史』成文社、291、292頁


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<論文> マルクス主義の解剖学 15 

 

『マルクス主義の解剖学』


 第8章 現実化したマルクス主義


 第7節 労働者自主管理とボリシェヴィキ

 

 レーニンは大衆を動員して権力を獲得するために、大衆の根深いアナーキスト的心理と衝動に訴える必要があることを直感的に把握していた。社会主義革命のプロパガンダが労働者をはじめとする大衆に受け入れられれば、自らの権力獲得に絶大な力となることをよく理解していたのである。この場合、労働者側の意識、心理というものも重要になってくる。例えば現代において先進資本主義国の労働者にこのようなプロパガンダを説いたとすればどのように受け取られるだろうか。もちろん、現代においては現存した社会主義国の失敗というものが広く知られているわけであるが、それ以前の時期においてもこの時のロシアほど受け入れられることはないのではないだろうか。労働者の立場からすれば、社会主義の理想というものは常に心惹かれるものに違いない。しかし、労働者自身が経済を運営するということが、逆にどれくらい重荷になるかということも、明確に理論として理解していないとしても、直感的に感じていることではないだろうか。ロシア革命時においても、ロシアの労働者大衆とロシア以外のイギリスやフランス、アメリカ、ドイツの労働者とでは社会主義革命のプロパガンダに対するとらえ方はかなり異なるのではないだろうか。つまり、この時のロシアの資本主義段階の未熟さ、文盲率が高く農民から工業労働者への大量の移動があったということ、それらがボリシェヴィキの社会主義革命プロパガンダに対する免疫力の欠如となり、ボリシェヴィキの権力獲得に好都合だったのである。そうなると、社会主義革命が起り、社会主義社会に向かうための条件としてマルクスが述べたのと正反対に資本主義段階の未熟さはむしろ必要なことだったのである。


 「革命政権を維持するために、革命直前まで自ら説いていたアナルコ・サンジカリスト的、平等分配主義的な理念をおしげもなく捨てさせたのだ。それは思想家にとっては背信であり、矛盾であったに違いない。しかしながらこの矛盾、この背信は、ロシヤの経済発達の段階と、革命をとりまく国内外の客観的条件自体が否応なしに強いた矛盾でもあり、背信でもあったといえよう(48)」。ここにこそもっとも重大な問題点がある。勝田吉太郎は左翼が全盛だった時期から保守を貫き左翼思想には批判的であった。それでも、このレーニンの矛盾と背信はこの時のロシアの経済発達の未熟さ、革命をとりまく国内外の客観的条件が原因であったとみなしているのである。これこそボリシェヴィキが、革命直後に社会主義、共産主義を直ちに実現しようとして失敗し、それを客観的条件のせいにするために「戦時共産主義」という言葉を使うことを正当化してしまう。本論はこれらの客観的条件は矛盾と背信の理由ではありえない―このように結論しているのである。それはこの時、ボリシェヴィキが行った労働者自主管理の形態をそのまま現代にもっとも条件の良い状態で再現する「社会主義窮乏化理論」の実験によって証明することができるのである。本質的には頭脳労働量の爆発的増大によって経済運営の麻痺は引き起こされる。この時のロシアの客観的条件はその事態をさらに悪化させたとはいえるだろうが、この客観的条件がはるかに良いものだったとしても、その結果は何も変わらないのである。「こうした革命の危機的状況に面して、党内には政治的信念にもとつく派閥の抗争が生起した。この党内抗争は、これまで党が経験したいかなる軋櫟よりもずっと深刻であった。そこには、その後数十年にわたって荒れ狂うことになる党内外の論戦や陰惨な粛清の種子が播かれていた」。

    
 ここで以前にパイプスの主張「ボリシェヴィキはロシアの伝統的な専制体制を復活させるために、マルクス主義、共産主義思想を利用したのである」を検討したことを再度、考察してみよう。例えばクーデターによって権力を奪取するために、労働者、兵士たちの支持を得ようとした。そのための方便としてマルクス主義、共産主義思想を利用したとするならば、革命後に労働者の自主管理を認めた、ということをどう説明するのだろうか。これは完全にマルクス主義、共産主義の論理に沿った政策を遂行しているのである。この時点で、ロシアの伝統的な専制体制を復活させようという意図があったのならばこのような政策はしないはずである。もっと穿った見方をして、労働者自主管理は失敗するはずだから、そのあとでそれを口実として専制体制を復活させようということを意図していた、というのは余りにも非現実的であろう。つまり、革命直後の時点においてレーニンとボリシェヴィキは唯物史観の教説を文字どおり実行に移したのである。労働者自主管理はプロレタリアート独裁に向かうための当然の道筋である。このことはかぎりなく重要である―今までレーニンやボリシェヴィキに対して官僚制による一党独裁が厳しく批判されてきた。そのような批判は革命直後に労働者自主管理が導入され、それがどういう事態になったかということをほとんど考慮していないことが多い。戦時共産主義期においての最終的な結果とマルクスの理論の相違点のみが比較され強調される。このような批判は何の意味もなさない。


 ロシア革命、ソ連体制形成のもっとも重大な局面は、ほとんど戦時共産主義期にあるということなのである。さらにいえば10月革命直後の数ヶ月に集約されるといっても過言ではない。ここですべての結果が出てしまっているのである。マルクスの理論、唯物史観は労働者自主管理が失敗するなどということは微塵も考えてはいない。労働者自身が生産力を所有し管理運営していくことによって、資本主義社会の無駄や非合理性が克服され、さらに能率の高い合理的な生産が達成されるからである。レーニンとボリシェヴィキはこのことに何の疑いも持っていなかった。だからこそ社会主義革命を起こしたのである。もしこのことにわずかでも疑いを抱いていたら、革命などというすべてをかけた賭けに出ることは決して出来ないだろう。このような事態に導いた思想上、理論上の主役はマルクスであることにまったく反駁の余地はない。


 ここでさらによくなされている批判、「ロシアの資本主義段階は、まだ未熟なものであった。マルクスの想定は資本主義が発達し、資本の一極集中が進み、一方で貧困が増大する。この二極化が極点に達したときに革命が勃発するのである。ロシア革命のような社会主義革命の形態を想定してはいなかった。したがって、レーニンの行動は勇み足でしかなく、この結果の責任をマルクスに帰すことは無理がある」を検討してみよう。よく知られているように、10月革命はレーニンの強力なイニシアチブによって達成されたものである。メンシェヴィキは当然のごとくこの段階における社会主義革命は時期尚早であるとして反対していた。レーニン以外のボリシェヴィキのメンバーもこの考えに同調するものが多数を占めていたのである。スターリンでさえ最初の時点では蜂起には反対であった。当然、レーニンにしてもマルクスの社会主義革命の道筋とこの時のロシアにおける状況とは違うことを認識していた。しかし、このチャンスを逃したらもう二度と革命の時期は巡ってこないと考えたのである。レーニンがこのように考えた動機にはマルクスに依拠する大きく二つの理由があったのではないかと考える。


 ひとつには、『共産党宣言』ロシア語版、序文でマルクスはロシアの社会主義革命の可能性に触れて、この革命が他の先進資本主義諸国の社会主義革命への導火線となり、国際的な社会主義革命が達成される―そのような展望を示しているのである。まさにレーニンが思い描いていた革命の展望はこのような国際的な社会主義革命であったことは、よく知られていることである。10月革命後も社会主義革命の輸出についてレーニンは執拗に追及したのである。


 二番目の理由、これが最大の問題である。マルクスの示した唯物史観の展望はもっとも根本的な前提に「社会主義、共産主義は資本主義よりも生産力が上である」ということがある。資本主義がまだ未熟な段階であったとしても、それよりも生産力が大きな社会主義、共産主義が導入されれば、生産力は増大し続けることが可能である。これははっきり意識するまでもないまったく当たり前の認識だったのである。このような認識をもたらしたものこそ、マルクスの壮大な経済学を含めたイデオロギー操作であることは、今まで論じてきたとおりである。このことこそ革命の展望よりもはるかに重大な問題なのである。真実はそれとはまったく逆であり「社会主義、共産主義の生産力は資本主義よりもはるかに下なのである」。ロシア革命がマルクスの想定した革命の展望とは異なるものであったとしても、ロシア革命を勃発させ、推進させた根本的な動因はマルクスに帰せられることに何の疑いの余地もない。


 「はたして労働者各人が、いかに国家を支配するかを知っているであろうか?実際的な人間なら、それがおとぎ話であることを、わきまえているのだ」。「あらゆる国々の歴史は」とレーニンは説いている。「労働者階級がそれ自身の独力だけでは組合主義的意識しか、つまり組合に団結し、雇傭主と闘争し、労働者に必要なあれこれの法律の発布を政府からかちとる、などのことが必要だという確信しかつくり出すことができないことを証明している。これに反して、社会主義の教説は、有産階級の教育ある代表者、インテリゲンツィヤによって生み出された哲学的・歴史的・経済的理論のなかから成長してきたのだ」。社会主義思想を生み出した主要な思想家たちの中にプロレタリア階級出身のものはほとんどいない。それは有産階級のインテリゲンツィヤによって生み出されてきたものであることは歴史の事実である。しかし、レーニンがこのように言ったとき自分の置かれていた立場、そのときのロシアの状況がこれら先行する思想家たちのいかなる立場とも、さらに革命前の自分の置かれていた立場とも、まったく異なるものになっていたということをどれほど自覚していたのだろうか?すでに、レーニンとボリシェヴィキはルビコン川を渡っているのである―此岸にいるのではなくすでに彼岸への橋を渡り始めているのである。社会主義革命はすでに現実のものとなったのであるから、社会主義の教説の通りに事態が進行するかどうかが最重要事である。しかし、現実にはまったくその通りにはならなかった―プロレタリアートは主役にはならなかったのである。そのことの理由として以上のようなことを持ち出すというのは信じ難い自己欺慢である。これでは社会主義の教説が誤りであったということを自ら認めているようなものである。社会主義、共産主義思想とは一部のインテリゲンツィヤが労働者階級に投影した自己の観念、願望、イメージでしかないことを暴露しているようなものである。


 ところが、革命という賭けに出てそれが成功した以上、もう絶対に後戻りは出来ないのである。ボリシェヴィキは権力を維持していく以外に生き残る道は残されてはいない。このことは肝に銘じておく必要がある。クーデターが成功し権力を獲得し、立憲民主党、貴族、ブルジョワジーらを直ちに弾圧、追放し、憲法制定議会を強制解散し、ニコライ二世とその家族を抹殺し、内戦によってロシア全土を戦場と化し、膨大な犠牲者を生み出しながらその権力を保持することに成功したのである。それはすべて社会主義、共産主義の大義のためであった。これが根本的に誤りであったなどということになれば、レーニンとボリシェヴィキは大衆に、そして味方である共産党員からも八つ裂きにされてしまうだろう。しかし、いまや社会主義の正当な主張をする者を徹底的に押さえ込まなくてはならなくなったのである。


 プロレタリアートに対する独裁をプロレタリアートの独裁と詐称せざるをえなくなっている。この時からボリシェヴィキの権力主体が「プロレタリアート独裁」といった時には、それは実質的には「プロレタリアートに対する独裁」を意味するものでしかなくなったのである。そうしなければ、自らが存在することすら出来なくなる―これはまったく震撼すべきことである。この状態は誰がどう見てもプロレタリアートの独裁などではない。民主主義、言論の自由という見地からすれば、もはや風前の灯火である。誰もが当然と思えるような状態をその通りに表現すると、権力は存在することが出来なくなってしまう。それは権力にとっての破滅を意味している―しかし、権力は秘密警察という強力な権力装置をもっているのである。秘密警察による言論弾圧、民主主義の抑圧は当然の論理的帰結であることがわかる。そしてさらにイデオロギーの理念からその矛盾は増幅されるだろう。社会主義、共産主義とはまさに民主主義の徹底した形態だからである。ボリシェヴィキの権力主体はいかなる強制力を持ってしても、その強制力で言論弾圧、民主主義が抑圧されているなどということを表現させてはならない。それらは十分に満足させられている、ということでなければならないのである。それは単に上辺だけのものであってはならないだろう。心の底からそのように思いこませなくては不十分である。社会構成員の心の底まで制御しなくてはならない―全体主義への道は開かれたのである。(49)


 第8節 第10回党大会の紛糾、個人独裁の萌芽

 

 ここでさらに重要な分岐点となった第10回党大会を検討してみよう。
 

 大会の討議の場でレーニンは、内戦の終結とともに軍隊方式の中央集権化は打ち切られ、党内民主主義が復活するというブハーリンの約束に保証を与えた。しかし、これはレーニンの本当の目的からすれば前置きでしかなかった。「いまや反対論に終止符を打ち、蓋をするときが到来した。反対論はもうたくさんだ!」と彼は言明した。


 大会の最終日、レーニンは突然、二つの新しい決議案を提出した。「わが党の内部の労働組合主義的・無政府主義的逸脱」および「党の団結」に関する決議案である。前者は労働者反対派のかかげる労働組合による経済運営という主張を「党員であることと矛盾する」労働組合主義的異端の復活として公式に断罪する決議案であった。同派の考え方は、マルクス主義にもとるということだが、その文言が如実に示すとおり、本当のところはマルクス主義ではなく、以下に引用するレーニン自身の主張にもとるとされているのである。


 労働者大衆に不可避のプチブル的な迷い・・・・・および労働組合的な狭量さと偏見への退行に対抗できるプロレタリアートと労働者大衆の先兵を結集し、教育し、組織できるのは、唯一、労働者階級の政党、すなわち共産党のみである。


 第二の決議は、労働者反対派や民主的中央集権派など、独自の見解をもつグループを、それらに属する者は即時に党籍から除くという措置をとることによって、すべて解体させるものだった。さらに、1924年1月まで公表されなかった条項(第七項)では、中央委員会にたいし「規律違反または分派主義の復活ないしそれを容認する動きがあった場合は、除名を含む党の罰則全般を適用する」権限を与えており、しかも罰則は当の中央委員会のメンバーにも適用されることになっていた。


 決議は圧倒的多数の賛成により採択された。カール・ラデックの次の言葉は、このときの大会の雰囲気を端的に表わしているが、ラデック自身を含む多くの人びとのその後の運命を考えると、どことなく予言めいてもいる。


 この決議案に賛成票を投じるにあたって、私はこれがわれわれに向けられる刃になりうることを感じるが、それでもなお、私はこれを支持する・・・・・いざというとき、中央委員会が必要と認めるなら、相手がわが党の最良の同志であろうと、中央委員会は最も厳しい措置をとるがいい・・・・あえて言うなら、中央委員会が過ちを犯したところでかまわない!いまここに見られる迷いにくらべれば、そのほうが危険は小さい。


 第10回党大会が閉会すると、レーニンはすぐさま、批判派を迎えうつ格好の武器とした労働組合および党内民主主義に関する決議を少しも重視していないことを明らかにした。だが、党内部の「分派主義」を禁じた条項については、あくまでもこれを実施する決意であり、その決意の固さはクロンシュタット蜂起の鎮圧に武力を行使したときと同じだった。そのあとの1921年から22年にかけて行なわれた粛清で、全体の3分の1にのぼる党員が除名されたり脱党したりした。労働者反対派の指導者たちは、自派の見解を保持する権利を放棄することを拒否し、コミンテルンに訴えることまでしたが、それも徒労に終わり、結局、1922年3月の第11回党大会で再びレーニンと大会から弾劾され、その「分派」の指導者のうち2名はその後、党を追放された(68)。太字強調 筆者


 「いまや反対論に終止符を打ち、蓋をするときが到来した。反対論はもうたくさんだ!」このレーニンの叫びは、この論争がいかに深刻であり、まったく出口のない袋小路に迷い込んでいることがわかる。新経済政策を導入するにあたって、党の団結は危機的状況になる恐れがあった。どんなことをしてでも党の団結は保持されなければならない。これがばらばらに解体されていけば、待っているものは破滅だけである。


 労働者反対派の考え方は、マルクス主義にもとるということだが、本当のところはマルクス主義ではなくレーニン自身の主張にもとるとされているのである―この一文に対する解釈はもっとも根源的なものになるだろう。これは決して文字どおりに受け取ってはならない解釈なのである。マルクス主義にもとるとはいかなる意味なのだろうか。労働者反対派の論理はまさにマルクス主義そのものではないだろうか。それではレーニンがまったく誤っているということになるのだろうか。このことの根本は今まで検討してきたようにマルクスの理論そのものの矛盾の現実化なのである。プロレタリアートに対する魔術のような能力の向上を大前提としている論理の絶対確実な帰結なのである。労働者反対派の論理は完全な兼任を達成できる能力を前提とした場合のみ有効となる。シリャープニコフは絶え間なく構築され強化されていく官僚体制を前にして「誰か個人を更迭する、というような問題ではない。このシステムそのものをまったく別のものに変えなければならない」といったが、まったく別のものに変えなければならないのはシステムではなく「まったく別の人類に」でなければならない、などということを夢にも思うことは出来なかっただろう。


 労働者反対派、民主的中央集権派を事実上禁止した決議は圧倒的多数の賛成により採択された。独自の見解を持つグループ、それらに属するものは即時に党から追放されるのである。そしてこの決議は中央委員会のメンバーにも適用されることになったのである。結果的に、スターリン独裁への道を切り拓いたこの分派禁止の条項は、圧倒的多数に支持されたというこの事実を最大限に重視しなければならない。これはどれほど強調しても足りないくらいである―この決議は圧倒的多数に支持されたのである。以下のラデックの言葉はまさにこの圧倒的多数の意思を代表している。これは、どれほどこの時のボリシェヴィキの置かれた状況がすさまじく閉塞されたものであるかがうかがい知れる。この根本的な理由はどこから来ているのだろうか?ロシアの経済発展、社会がまだ未熟だったから―プロレタリアートの数が少なかったから―世界戦争のただなかで起こった革命だから―内戦と干渉戦争があったから―国際革命が引き続いて起こらなかったから―今までなされてきたロシア革命の失敗に対する考察は、本質からまったく外れている。すべてはマルクスの理論、唯物史観の根源的な誤謬からもたらされたのである。


 「労働者大衆に不可避のプチブル的な迷いおよび労働組合的な狭量さと偏見への退行に対抗できるプロレタリアートと労働者大衆の先兵を結集し、教育し、組織できるのは、唯一、労働者階級の政党、すなわち共産党のみである」これがレーニンではなくスターリンが言ったとしてもまったく違和感はないであろう。完全な二枚舌論理であることは明白である。これは労働者階級の政党などではなく、労働者階級を支配するための政党である。さらに「労働者階級の政党、すなわち共産党のみである」の所を「強権的な支配システムをもった資本主義大企業」に置き換えてみてもまったく成立するだろう。それでも共産党よりはまだ人間的であり、人権に配慮するようなイメージがある。そしてこの一文は何度となく言われてきたように、マルクスに反するものである―このようにみなすことは絶対に出来ないということである。マルクスの表面上の言辞の問題では、もはやまったくなくなっている。マルクスの理論、唯物史観を徹底的に遂行することによって、この事態は不可避的にもたらされたのである。そして、この事態の深刻さはその成員の全員が問題の本質はどこから来ているのか、ということを決して自覚することが出来ないということであり、自らが信奉するイデオロギーに忠実であればあるほど、この矛盾の拘束は絶え間なく強くなっていくということなのである。もうここからは余程の事がないかぎり逃れることは出来なくなっている。ある譬えになぞらえれば、このイデオロギーが支配する領域は巨大な蟻地獄になっているのである。いったん、その中に入ってしまうと何をしても、何もしなくても下へ下へと滑り落ちていくことになる。その先に何が待っているかは、これからの解釈の課題となるだろう。


 ここで権力と民主主義の関係について考察してみたい。ロシアで初めて行われた選挙によって選出された憲法制定議会はボリシェヴィキが多数派にならなかったということによって、ボリシェヴィキの手で強制解散させられた。自然発生的で直接民主的要素の強いソヴィエトは、そのあまりの多数者による会議によって、有効な政策などを示せるはずもなく、次第に有名無実なものになっていった。ここでも労働者自主管理と同様な能力問題が生じている。ソヴィエトの決定は実質的にはボリシェヴィキ・・・すなわち共産党の決定になっていったのである。議会制民主主義を徹底的に排斥したボリシェヴィキにとって選挙などというものは眼中にはなかったのである。党外の民主主義はほとんど圧殺された。そして、党内民主主義も分派禁止によって窒息させられていったのである。


 党の決定、意思にもとるとされている見解、方針というものは決定的に排斥されることになったのである。しかし、この党というものはいかなるものなのだろうか?レーニンはこの時、これをどのように考えたのだろうか。レーニンが権力の座にあったときは、今までの経緯から圧倒的多数に支持されてきたのであるから、レーニンがその党と同一のものであると自他ともに認められていた。そのことにより、これは自分自身だと考えていたのだろうか。しかし、個人の権威に重点を置くのは、そもそもマルクス主義、唯物史観にまったく反することである。この時の状況から、これらの事を深く考えるいとまはなかっただろう。しかし、生身の肉体をもった個人を離れたところにある抽象的な「党」などというものは存在しない。それは必ず具体的な個人、あるいは個人と個人との関係によって生ずるものである。


 例えば民主主義の原則である「多数決の原理」によって、党の方針、見解を決定するということを考えてみよう。ある二つの方向に見解がわかれた場合、それを決定するために多数決によってひとつの見解を選ぶ―それが党の見解となるわけである。投票の結果、6対4である見解に決定された。そうすると4割の党員は党の見解にもとることになり、党から追放されてしまうことになったとする。さらに次に、別の議題が同じように二つの方向に見解がわかれ、多数決によって党の方針が決定される。少数派は党から追放される―これを繰り返していけば最後にほんの数人しか残らないことになってしまう。これはまったく馬鹿げた話である。このように見解の多様性、異なった意見を尊重するということは、民主主義のもっとも重要な原則である。これがなければ民主主義は成り立たない。―以上の事は純論理的に考えた場合の極論である。現実の「分派禁止」は党の見解にもとるとされたグループが政綱を作るなどして、組織化された場合に適用されるものである。しかし、この決議によって反対意見を持つものの活動は極めて制限されるだろう。反対意見を持つ者が何人か集まれば、それだけで分派活動をしているとの嫌疑をかけられるだろう。


 結論からいうとそれはこのようなことを意味しているのではないだろうか。それは党と同一化された個人が存在し、それ以外の全員がその個人に服従しなければならない、ということである。その個人とはどのように決定されるかはまったく未定であるが、しかし絶対確実にいえることはその個人が存在しなければならない、ということである。なぜ、個人でなければならないのだろうか?もしそれが複数存在していたとすると、その中で見解の相違が生じたとき、まったく収拾がつかなくなってしまうことは一目瞭然である。見解の違う2人の指導者がいたとすれば、それぞれにつく党員によって二つの大きな派閥が生まれるだろう。どちらが党の見解なのか―それを決める絶対的な基準は存在しない。先に分析した民主主義の「多数決の原理」を使えば、少数派は多数派に服従するか、党から追放されるしかない。党からの追放は党の団結、保持に致命的な影響を及ぼすだろう。少数派が多数派に服従するということは、結局は1人の個人に服従しなくてはならないという結果になるのである。これらはすべてこの「分派の禁止」によってもたらされた結末なのである。まさにレーニンは個人独裁へのレールを敷いたのだといえるだろう。


 「少数派が多数派に服従するということは、結局は1人の個人に服従しなくてはならないという結果になるのである」このことはにわかに理解し難い逆説であるので詳しく論じてみよう。この第10回党大会の決議においても「多数決の原理」は守られていた。レーニンはこのような党内民主主義の破壊を決して考えなかったのである。このことからスターリンとレーニンは根本的に異なる―レーニン擁護者からのこのような反論が存在する。しかし、「多数決の原理」を守るだけでは民主主義ではないのである。先に述べたように見解の多様性、異なる見解を許容することが重要である。「分派禁止」はこのことを著しく制限する。それはいったん「多数決の原理」で決められたことには従わなくてはならないという強い要請から来ているのである。決められたことに反するいかなる活動ももはや出来なくなるのである。議会制民主主義においても当然、決定されたことには従わなくてはならないが、そのあとで反対者が会議を開き組織を作るということに対して、いかなる禁止条項も存在しない。集会、結社の自由は保障されているのである。(個別の党内において、特殊な事例はあるかもしれないが)もしそれをすれば、議会制民主主義も破壊されてしまうだろう。


 純論理的に考えてみよう。あるグループで多数決によって議題を決定していくことにする。そして同じような「分派禁止」条項が存在する。当然、議題はひとつではない。特に社会が安定しない状態では決めなければならない重要な議題は多数存在する。まずAという議題が二つの意見にわかれ、投票によって決定する。6対4で多数派が勝利し、少数派はそれに従わなくてはならない。しかも少数派はお互いに組織をつくることを禁止されている。組織をつくる権利があるのは勝利した多数派だけである。次にBという議題が生じ、また二つに意見がわかれた。同じく多数決によって決定される。6対4で多数派が勝利し、少数派には「分派禁止」条項が適用される。しかし、この時A+Bにおいて、両方の議題に多数派になった者、Aのみに多数派になった者、Bのみに多数派になった者、両方に少数派になった者の4グループに分かれる。この時すでに、両方の議題に多数派になった者は全体の中では少数派になっていたのである。しかし、組織化できる権利をもっているのはこのグループだけである。このようなことをA、B、C、D、E、Fと続き最後にZになったとき、すべてに勝ち残った1人がいるだけとなった。組織化できる権利をもっているのはこの1人だけである。それ以外の全員は組織化する活動をすれば、AからZまでの議題のどれかの「分派禁止」条項に抵触し、グループから追放されることになる。つまり、一方で「分派禁止」のような民主主義を抑制する要素があると、「多数決の原理」はむしろ個人への権力集中、さらに個人独裁への推進装置になってしまうのである。これを「分派禁止の権力集中メカニズム」と呼ぶことにする。


 これは論理的に考えられたひとつの例であり、もちろん現実はこの通りにはならない。しかし、この「分派禁止」によって個人への権力集中、個人独裁へのベクトル、力学が生じることは確実なのである。これはこの条項が決議されたときに、それに関わった人々が想像する以上に強力なものである。いったん確立されたこの条項はそう簡単には変えることは出来ないのである。そして根本的に問題なのは、この条項が決議された要因であり、この党内民主主義の自殺ともいうべき条項が決議されたのは、党内民主主義の正式な手続きによってだということである。これらを総合したとき、個人への権力集中、さらに個人独裁はこの決議に参加したほとんどの党員の合意だったということになってしまうのである。これは意識されていなかったとしても、深層心理においてそのようなことが形成されていた―とみなすことができるのではないだろうか。スターリンはこの時はまだ一政治局員であり、この決議にはそれ以上の関わりを持ってはいない。


 この「分派禁止」を決議させた要因とは、ボリシェヴィキを取り巻く厳しい外部状況だとみなされることがある。それと関連して、レーニンは「分派禁止」を一時的な非常措置として考えていたはずである、という見方も存在する。しかし、このことの根本的な直接の要因は労働者反対派、民主的中央集権派などとの内部の意見の対立によるものである。ボリシェヴィキにとってもっとも危機的な状況であった白衛軍との内戦は、1920年秋にはほとんど勝利が確定した。内戦の時にはこのような「分派禁止」のような条項は出てくることはなかったのである。内戦に勝利しボリシェヴィキの状況が好転したときに、逆に内部の対立が表面化してきたのである。つまり、外部状況が安定すると内部状況が不安定になったのである。これは外部状況が不安定な時には、全員がそちらに集中していて内部の問題に目を向けている余裕はない、というのが理由であろう。今まで検討してきたように、この内部対立はマルクス主義、共産主義イデオロギーの原理的矛盾から生じてきたのである。このことによる分裂を押さえ込むために「分派禁止」は決議されたのであるから、このイデオロギーを放棄しないかぎりこの「分派禁止」が変更されることはない―このようにみなして間違いはないのではないだろうか。しかし、このイデオロギーを放棄するということは、資本主義に戻るか、さもなければもっと昔の生産体制へ戻るしかない。それは絶対に出来ないことなのだから、「分派禁止」が変更されることはほとんどないということになってくる。すなわち、「分派禁止」は非常措置ではなく、永続措置になってしまうのである。そうなると、個人への権力集中、さらに個人独裁への道は完全に姿を現したといえるのではないだろうか。


 スターリン体制形成の道筋は、ここまでだけでも実に複雑なものである。スターリンの意図とはまったく独立に分派禁止はレーニンによって提出され、党内民主主義の正式な手続きによって決定されているのである。共産党独裁体制は個人独裁か寡頭政治であり、そこでほとんどの重要な決定はなされており、党大会はそれを追認する場でしかなく、あたかも民主主義があるかのように装う茶番に過ぎないことは今では常識的なことである。それでは歴史的に本当に党内民主主義は存在したことはないのだろうか―そうではないのである。ロシア革命直後の数年間は本当にそのような党内民主主義は生きていたのである。それを圧殺したのがスターリンであるかのごとくみなされているが、実際にはレーニンでありボリシェヴィキのほとんどの代議員だったのである。スターリンはそれを受け継いだというのが真相であろう。そしてこの劇場の上から全てを操っているのがマルクスだということは改めて述べる必要はないだろう。



(48)勝田吉太郎『知識人と社会主義』99頁


(49)マルクス主義の解剖学 第二部 「スターリン主義の形成」にて、ソ連体制形成の詳細な分析、大テロルの原因の解明がなされている。


(68)アラン・ブロック『ヒトラーとスターリン第1巻』 草思社、2003年、189頁~191頁

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<論文> マルクス主義の解剖学 14 


 『マルクス主義の解剖学』


  第8章 現実化したマルクス主義


 第4節 問題の核心―労働者自主管理

 

 技術者集団、テクノクラートの問題と対応するのが、労働者(プロレタリアート)の自主管理の問題である。これこそがマルクス主義、唯物史観におけるもっとも重大な問題である。社会主義社会、共産主義社会に向かう過渡期としてのプロレタリアート独裁は、当然政治権力としての独裁であるのと同時に、その本来の任務である産業の担い手としてその全体を管理しなければならない。その本来の形態である「階級としてのプロレタリアート独裁」が達成されなければ、共産主義社会に向かうことなど絶対に不可能だからである。したがって、社会主義革命が現実のものとなった今、産業全体のプロレタリアート―労働者による管理、運営の実現は最大に重要視されるべきものである。これがロシア革命直後からどのような経過をたどったのか―これを検討することは何よりもまして重要なものであるはずである。
 

 ところが、ロシア革命に関わる文献を多く読んでいくうちに、この問題は意外なほど取上げられていないということに気づいてきた。さらに、大きくこのような傾向があるのではないだろうか。ロシア革命、ソ連史全体あるいは社会主義国全体に対して基本的に批判的な立場である著者の著作とロシア革命、マルクス主義に対して基本的に肯定的な著者の著作とでは大きく違ってくるように思える。批判的な立場の著作はこの労働者自主管理の問題をかなり取上げている場合が多い。それでもその重要性の認識はまだ物足りないように思えるのだが・・・それに対して肯定的な著作では驚くべきことにこの労働者自主管理の問題はほんのわずか、あるいはまったくといっていいほど取上げられていないのである。思想的、理論的に労働者自主管理の問題を重要なものとして論じているマルクス主義者、社会主義者が実際にロシア革命を論じる時にはこの問題を避けて通っているようにしか見えないのである。これはまさに、その結果を知っているから・・・それは完全な失敗に帰したのだが―都合の悪いものは見ないようにしている、としか思えない。これは心理的にその原因を何らかの外部の客観的条件に求めて、失敗に終わったのだから検討するに値しないという完全な御都合主義になっているのではないだろうか。


 ここではその中でロシア革命に批判的な著者の著作を取上げ、この労働者自主管理を検討したいと思う。これは技術者集団、テクノクラートへのボリシェヴィキの対応と密接に関係してくるのである。これは早い時期からマルクス主義、ロシア革命、ソ連体制に批判的な考察を続けてきた勝田吉太郎の著作集、第三巻『知識人と社会主義』の中からの引用である。


 三 革命の夢と現実


 いかなる革命も、これまでのところ、種々な幻想を生み、達成不可能な美しく高遠な理想の名において遂行されてきた。なるほど闘争の最中においてこそ、理想は闘う人たちの眼に現実的なものと映じていた。だが、その幻想性は時とともに明白なものになっていった。社会主義思想の歴史において最も特徴的な事柄の一つ、それは社会主義の理論家や運動のリーダーたちが、成就されるべき未来社会の形態やそこに生ずべき諸問題について明確な予見も解決策もなしに、大衆を新しい社会理想の実現のために動員しようとしたことにあろう。社会主義の使徒たちは、未来の人間社会に生じる地上的な諸問題―"人間的な、あまりに人間的な"諸問題に心をわずらわされるにはあまりにも黙示録風のヴィジョンを追求する人たちであった。


 かつてトロツキーは、資本主義をば「各人が、自分自身だけのために考え、だれも万人のために考えようともしない」無政府的な経済制度であると特徴づけた。そして一たび資本主義に固有の本質的な非合理性が打破されるなら、すぐにも、万人のために配慮すべき「社会的指導」―それがどのように組織されるかは、慎重に考えられもしなかったのだが―がたち現われ、社会に秩序と合理性をたちどころに生み出すものと信じたのだった。


 実際、未来の社会主義ないし共産主義社会の公共生活の管理や経済的事項の組織運営の諸問題について、多少とも明瞭かつ具体的な指針となるべき思想は、マルクスやエンゲルスのもとでも、抽象的な片言隻語を除くと、まったく見られないのである。『ゴータ綱領批判』のようなドイツ社民党の具体的綱領に対する批評においてさえ、マルクスは共産社会への過渡期の段階のみか、完全な共産主義社会における経済機構についても、具体的な提言をほとんど与えなかった。おそらく「科学的」社会主義の創始者たちは、サン・シモンやフーリエたちによる、あまりに具体的かつ詳細にわたったためかえってナンセンスに等しくなった、かの未来社会についての構想の空想性を警戒するあまり、未来の問題は未来の世代の当事者たちにまかせようとしたのであろうか。レーニンは、死の直前に書いた一文のなかで、権力掌握後きびしい現実の事態にせまられて試行錯誤の政策を企てなければならなかった自己の苦しい経験のあとをふりかえり、こう述懐したのだった。


 「この問題について一語すら書こうとはマルクスは考えもしなかった。そして彼はそれについての正確な引用文一つ残さずに、また反駁の余地ない教示を何一つたれることなしに死んだのだ。だからこそ、われわれはもっぱらわれわれだけの努力でもって、困難から抜け出さねばならないのだ」と。


 したがって、理論家であるとともに実践家でもあったレーニンにしてからが、革命直前の諸論文のなかでは、その後の社会主義建設の実情から見るなら、ほとんど荒唐無稽な夢想の観がある一連の構想を書きつづっていたのは不思議ではない。1917年の10月革命が成功する2ヵ月前に、彼は『国家と革命』でこう認めた。


 「資本主義的文化は、大規模生産、工場、鉄道、郵便、電話その他を造り出した。そしてこの土台のうえで、ふるい《国家権力》の機能の大半は、非常に単純化され、記帳、登録、照合といったもっとも単純な作業に還元されうるので、これらの機能は、読み書きのできるものなら誰にでも、完全にやりうるようになり、またこれらの機能は普通の《労働者賃金》で完全に遂行されうるようになり、これらの機能から何らかの特権的な《お役所風》なものの一切のかげをとり除くことができる。例外なしに、すべての公務員の完全な選挙制および随時の解任制、彼らの俸給の《労働者賃金》への引き下げ―すべてこれらの簡単で《自明な》民主主義的諸方策は、労働者と農民の多数との利害を完全に結合しつつ、同時に資本主義から社会主義への橋わたしの役割を果たすものである」。


 資本主義文明の発達と成熟は、高度の工業社会を造り上げることによって、社会主義のための物質的条件を用意するだけではない。同時に「万人」が実際に国家行政や社会主義企業の運営に参加できるような前提条件をも生み出す―これこそが、レーニンの内奥の信念であった。「このような前提条件に属するもの」として、彼は先進資本主義国において実現されている一般義務教育と、「郵便、鉄道、大工場、大商業、銀行事業などのような社会化された大規模の複雑な装置による幾百万の労働者の教育および訓練」とを指摘した。こうした諸条件が満たされている以上、「資本家および官僚を打倒して、生産と分配の統制、労働と生産物の計算の仕事において、武装労働者、1人のこらずの武装人民をもって(打倒された資本家と官僚に)取り替えるのは、直ちに、今日明日にでも、充分に可能である。・・・・・すべての市民は、ここでは武装労働者からなる国家に雇われた事務員に転化する」。


 当時レーニンがどんなにナイーヴであったかは、革命のわずか2週間ほど前に書いた論文、「ボリシェヴィキは国家権力を保持するか」においても、いかんなく発揮されている。彼はこう書いた、「ロシヤはわずか24万人のボリシェヴィキ党員によって、貧民大衆の利益のために、富者のためでなく、統治することはできそうにない、と人は言う。だがわれわれは一挙に国家機構を10倍に増大するための《魔法の手段》をもっているのだ。それは資本主義国家がもたなかったし、またもちえなかった手段である。この魔法とは、労働者、貧民を国家統治の日常的な業務にひき入れることなのだ」。ポリシェヴィキだけが握っているこの「魔法の杖」を一振りとすると、どのような状況が現われるであろうか?これについてもレーニンは具体的な情景を描いている。要するにそれは、成人男女の大衆すべてが、古代ポリスの市民さながら、融通無碍にある時は警官に、ある時は執達吏に、ある時は裁判官に、ある時は企業経営者にと姿をかえる情景なのだ。この時代のレーニンの著作は、下からの大衆の自発的な創造的エネルギーをほとんど盲目的に信頼し、それに依拠する点で、きわめて濃厚なアナルコ・サンジカリスト的色彩を帯びている。「労働者管理」というスローガンは、レーニンにとっても、アナルコ・サンジカリストにとってと同様に、社会主義社会と国家経済運営上の一切の政治行政的問題を解決する魔法の杖であった。


 10月革命直後に、レーニンが「労働者管理条令草案」を認め、その第一条に、「労働者および勤労者合わせて5人以上の、あるいは年間取引高1万ルーブル以上の、すべての工業、商業、銀行、農業およびその他の諸企業において、すべての生産物および原料の生産、保管、売買に関して、労働者管理を実施する」と書いたのは、このような楽観的精神においてであった。そこにはまた大衆のアナーキスト的ムードを吸収し、それに依拠して革命の権力を掌握維持しようと企図する戦術的考慮もはっきりと表現されている。実際、革命直後に労働者たちは、政府の法令をまつまでもなく、資本家たちを逐い出して工場施設を次々と占拠していた。従ってレー二ンは、このような労働者たちの下からの自然発生的な意識と行動に事後承認を与えたわけである(45)。


 以上、論じられてきた問題は本論の第1章~第7章に至るまで考察されてきたことと照らし合わせてみれば明確に理解できるのではないだろうか。レーニンやトロツキーをはじめとするボリシェヴィキの深層には、反作用としての「魔術的因果性」、「増幅された能力転移」が強固に埋め込まれている。革命が成就されさえすればそれらの魔術が行使できるようになる―逆にいえばこれこそがそのとき置かれたロシアの困難な情勢の中で一直線に迷いなく行動出来たということである。客観的情勢の推移がボリシェヴィキに有利に動いたときレーニンは迷いなく権力を奪取することが出来たのである。


 ひとたび資本主義に固有の本質的な非合理性が打破されるなら、たちまち社会に秩序と合理性を生みだす・・・「増幅された能力転移」が起きた場合のみ、このことは正しいのである。「資本主義的文化は、大規模生産、工場、鉄道、郵便、電話その他を造り出した。そしてこの土台のうえで、ふるい《国家権力》の機能の大半は、非常に単純化され、記帳、登録、照合といったもっとも単純な作業に還元されうるので、これらの機能は、読み書きのできるものなら誰にでも、完全にやりうるようになり・・・」以下、レーニンが論じていることの非現実性の理由を細かく述べる必要はないだろう。マルクスの壮大で巧妙なイデオロギー的歪曲の中に完全に埋没しているからこそ、このような思考は可能になるのである。資本家の経営者としての価値を完全に否定し、中間階層であるテクノクラート、専門家を捨象して、経済機能の重要な領域を思考の外に追いやり、プロレタリアートが権力を奪取すれば搾取者の支配から逃れられ、合理的な秩序ある経済の運営が可能になる。搾取者が本来合理的で秩序あるプロレタリアートのみが運営する経済の妨害者であった、というように。そのことによって上部構造の仕事は単純化され、読み書きのできるものなら誰もがその仕事ができるようになる。そのことによって、労働者、貧民を国家統治の日常的な業務にひきいれることができる。―以上の思考過程への大きな起点はやはり『資本論』の頭脳労働価値捨象であり、頭脳労働と身体労働の相互依存により、経済機能構造が成立しているというもっとも重要な認識を破壊していることであろう。


 現実はまさにそれと正反対である。プロレタリアートのみが経済を担うということは、土台内部の頭脳労働をすべて兼任しなければならない。当然、高度な専門知識、技術も必要になってくる。そして、それだけではまったく足りないのである。情報伝達に関する超高効率の能力が要請される。生物学的限界をはるかに超えたその情報伝達を可能にするためには、脳と脳がダイレクトで結びつくような能力を持ったプロレタリアートが要請されるのである。読み書きができるかどうか・・・例えばマルクス主義者の中にはこのロシア革命の失敗の理由に多くの国民がレーニンの言ったような読み書きさえ出来なかったことを挙げているが、それではこの時、ロシアの大衆の全員が完璧に読み書きができたのならば、事態はまったく変わったものになっていたのだろうか。これは問題の本質から遠く、遠く、遠くかけ離れているのである。そのようなレベルの問題ではまったくないのである。能力問題を下向きに設定することは絶対に出来ない。つまり、レーニンは自分でもまったく不可能なことを大衆に要求していたことになるのである。


 そして、革命直後に労働者たちは、政府の法令を待つまでもなく、資本家たちを追い出して工場施設を次々と占拠していった。ここでは労働者の側の意識、状況の認識といったものが重要になってくる。これら労働者たちは当然ボリシェヴィキのプロパガンダによる社会主義革命のイデオロギーに感化されているだろう。しかし、労働者側にもそれらを支持する強い心理的動機があったとみなすことができる。資本家を追い出し、テクノクラートなどの専門家を軽視することは工場の管理、運営に対してどのような結果をもたらすかということが、よく認識されていなかったことは明らかである。しかし、その理由がどうであれボリシェヴィキが労働者の支持を受けていたということは事実なのであり、10月革命がその蜂起においてはクーデターであったとしても、その全体を純粋に軍事クーデターに還元出来ないことも明らかである。そこには大衆革命としての要素も存在していたのである。


 第5節 労働者自主管理の失敗


 この労働者自主管理を政治権力がその中心となるイデオロギーの遂行として保証し、労働者もそのように行動した・・・まさにそれが歴史的に現実のものとなったのである。その結果は火を見るよりも明らかである。そもそも経営、管理に関して知識や技術を持っていない、あるいはごくわずかしかなく経験もない―そのような人だけしかいなければ工場の運営は当然麻痺してしまうだろう。あるひとつの工場が無計画に製品を生産したとしても、それに関連する領域が相互に情報を交換せず、統一的な運営をしなければ生産物は無駄なものとなり、、、つまり使用価値の付与されないものとなるのである。ここで第7章で考察されてきた「増幅された能力転移」がもし現実に起きれば、まさにレーニンがイメージしたような労働者による経済運営が可能になるのである。逆にいえばこの労働者自主管理が成功するためには「増幅された能力転移」が絶対に起きなければならないのである。トロツキーが言ったように資本主義が打破されれば、たちどころに合理性と秩序が現れる―まさにこれは資本主義勢力を打倒すれば「増幅された能力転移」が起こるという反作用としての「魔術的因果性」なのである。


 四 労働者管理制の運命


 1918年の第1回ロシヤ労働組合大会は、労働者管理制の導入について真剣に論議し、生産の全管理部門に一般労働者が参加し、運営と統制に従事するよう決議した。そしてこの決定は、1919年3月に開かれた共産党第8回大会で承認された。


 しかしながら現実の事態の発展は、労働者管理制を次第に袋小路へと導いていった。実際のところ、内戦と干渉の混乱時代に国有企業への労働者管理制の導入は、国民生活の混乱不統一と経済上の諸困難を増すばかりであった。たとえば1918年のはじめ、鉄道運営の実権は鉄道労働者の委員会にゆだねられたが、その結果、数ヵ月を出ずして輸送はほとんど正常な機能を停止する有様になってしまった。委員会は自主的運営を強情に要求する一般労働者たちのわがままを抑える力をもたなかった。委員会が労働者たちの恣意や横車を押さえようとすると、きまって委員会代表たちに怒号があびせられ、解任されるのがおちであった。こうして結局のところ、混乱の数ヵ月のあと1918年3月26日にいたって、政府(ソヴナルコム)は鉄道労働者の手中から鉄道事業の管理運営の実権をとりあげ、猫の手も借りたいほどに多忙であったトロツキーの強力な腕に交通人民委員部をも委ね、「鉄道輸送に関する事項における独裁的権力」を彼に与えることになった。


 全ロシヤ中央執行委員会の席上(4月29日)、レーニンは鉄道における労働者管理制導入の実情に失望幻滅したことをもはや隠そうとはしなかった。「われわれの課題は、一切の怠業者たちをわれわれの管理の下に、つまりソヴィエト権力の管理の下に就業させ、計算と統制が厳重に組織されるように行政機関を造りあげることである。何十万という不平が私の耳に入っている時、国中が飢えている時、そしてこれらの不平が正しいものであり、パンはあるのにそれを輸送できないという事態を誰でも知っている時、そしてわれわれが下した鉄道法令のような処置に対して左翼共産主義者から嘲笑と抗議が発せられる時、いやはやこれはもはやナンセンスにほかならないのだ」。


 鉄道の混沌は、ソ連の全産業の縮図でもあった。そして鉄道労働者の自主的管理を国家の手にとりあげるという荒療治は、その後の党指導部による全産業政策の原型となった。


 E・H・カーが指摘するように、労働者管理制の導入は結局のところ二つの目的に役立ったにすぎなかったといえよう。つまりそれは、一方では、革命に敵対する旧秩序を下からの大衆のアナーキスト的な「破壊への情熱」によって打破するために猛威を発揮した。他方では、労働者管理制が自己自身の論理的帰結をとことんまで押しつめていった時、それがかえって、より厳格でより中央集権的な新しい管理形態にとり代えられなければならないことを証明するために役立ったにすぎなかったのである。


 労働者管理制が崩壊して各企業が国家の直接統制下に入るとともに、新しい産業規律、企業の単独責任制、ブルジョワ出身で非党員の技術専門家の雇傭などが日程に上った。まだ1918年3月の時点では、国家経済最高評議会のスポークスマンは、工場内にブルジョワ技術者を残留させるのは、「労働者に対する裏切り」であると公言していたほどである。だが、はやくも同じ頃、トロツキーはツァーリ政府の旧将校から適任者を選んで赤軍の士官と幹部へ抜擢していた。やがて1919年12月になると、党協議会の席上レーニンもかつての自説をきれいさっぱりと忘失したかのように、「ブルジョワ専門家」の必要を説き、彼らの助力を高く評価するようになった。


 「われわれは、これらのグループをよりよい状態におく必要を認める。けだし資本主義から共産主義への移行は、ブルジョワ専門家の利用なしには不可能であるからだ。われわれの全勝利、半ばプロレタリア的(ボルトルードヴォェ)で半ば所有欲をすてきれない農民を味方に獲得したプロレタリアートによって指導されたわが赤軍の全勝利は、部分的には、ブルジョワ専門家を利用することができたおかげで得られたものなのだ。軍事的事項に表現されたわれわれ(のこの政策は、国内建設の政策にも適用されねばならない」。


 他方企業の単独責任制も、鉄道における労働者管理の制度が姿を消したのち、党内外の反対をおしきって次第に全企業へ拡大された。レーニンは「ソヴィエト政権の当面の課題」のなかで、こう書いている。「最近鉄道輸送の再編成と正常な組織化とについての問題審議の際に、単独管理権(つまり独裁権と呼んで差支えない権力)が、どれほどまで民主的組織一般ととくにソヴィエトの社会主義的組織原理と調和できるか、という問題が発生した。このような調和はお話しにもならないという意見―つまり独裁的な単独の権力が民主主義とも、ソヴィエト型国家とも調和しない、といった見解は、疑いもなく極めて支配的である。だがこれよりもはなはだしい謬見はないのだ」。レーニンはこう述べたのち、およそ大規模企業のうちで組織された労働過程が能率的に運営されるためには、企業経営者の単独の意志決定に対する無条件の服従が不可欠である、と力説している。


 「鉄道も運輸も、巨大な機械工場も企業一般も、全勤労者を時計の正確さをもって作用する一つの経済的機関に結合させる単一の意志なしには、規則正しく機能することはできない。社会主義は、大規模機械工業によって生み出されたものだ。もしも社会主義を導入した勤労大衆が、大規模機械工業が作用しなければならないような仕方で、自己の制度を適応させることができないならば、社会主義の導入などはとうていお話しにもならないのだ。企業の単独の指導者の命令を自発的に遂行することが必要である」。


 むろんのこと、このような新しい企業運営原理の導入は、労働組合のリーダーや非ボリシェヴィキ活動家のみならず、党内からもはげしい非難と反発をひき起こすことになる。すでに1918年12月に開かれた全ロシヤ国民経済会議第2回大会の席上、メンシェヴィキの代表ダーリンは、のちの「労働者反対派」や「民主的中央集権派」による批判を先取りして、党指導部の責任をこう糺弾した。「プロレタリアートはどこにもいず、あるのはただ独裁、しかもプロレタリアートの独裁ではなく、その手中に死せる工場をしかと握る巨大な官僚機構の独裁にすぎない。諸君は、無制限に圧追と搾取を行いうるブルジョワジーを育成しているのだ」と(46)。


 この引用文の内容を検討していくと、この労働者自主管理が内戦と干渉という混乱時代でなかったとしても、それが機能不全になり失敗することには何ら変わりはないということである。今までこのような労働者管理制が失敗したことに対して、そのときのロシアの置かれた困難な状況をその理由として挙げることが余りにも多い。それはこのような内戦という異常な事態でなければ、さらに資本主義がもっと発展し成熟していてプロレタリアートの数が多く、その意識が高ければそのような失敗に至ることはなかった―このような弁明がなされるのである。社会主義窮乏化理論はそのような外的、内的条件には一切関わりなく、この労働者自主管理は成立しないことを証明している。もっとも、この時の労働者自主管理は社会主義窮乏化理論における実験のような身体労働と頭脳労働をどのように統合するか、という観点自体が存在しなかっただろう。それはまったくのアナーキーな状態と化してしまったのである。ここで例として挙げられている鉄道運営に関しても、それが麻痺してしまえばそれに関わるところのあらゆる流通、運送がストップしてしまう。それはまさに致命的なものとなるのである。


 第6節 労働者自主管理失敗の考察


 労働者自主管理は1918年初めに導入されたが、その失敗は数ヶ月も経ずして明らかになっていた。そして3月26日政府は鉄道労働者の手中から鉄道事業の管理運営の実権を取上げてトロツキーに交通人民委員部を委ね独裁権力を彼にあたえることになった。4月の終わりにはレーニンは鉄道における労働者管理制導入の実情に失望したことをもはや隠そうとはしなかった。レーニンが革命直前にイメージしていた状態とそれが現実になった状態とではまさに天と地の差がある。この問題こそもっとも重大な問題である。たった5ヶ月でレーニンとボリシェヴィキ指導部の認識は劇的に変化していったのである。問題の焦点は次の事にある。この労働者自主管理の失敗と唯物史観、マルクスの理論における関係である。すなわち、「階級としてのプロレタリアート独裁」へ向かうためには、当然プロレタリアートが経済全体を管理することが大前提であるはずである。そうでなければ社会主義社会→共産主義社会へ向かうことは出来ないだろう。これは唯物史観の根幹に関わる問題である。そして現実にはこの労働者自主管理が失敗したということは、そもそも唯物史観の根本が誤っている―この段階においてそう即断することは出来ないとしても、そのような可能性を当然考えなければならないはずなのだ。しかし、レーニンとボリシェヴィキはそのようなことは露ほども考えなかったのである。


 そして、このようなことを露ほども考えなかったのは、この時のボリシェヴィキだけではなくロシア革命、ソ連とマルクス主義、唯物史観の関係を考察する際に多くの人が取った立場だということである。このことが非常に不思議なことであった。つまり、労働者自主管理が成立しなければその管理運営は誰がするのだろうか。革命によって資本家は弾圧され、追放され、あるいは抹殺されている。そうなればその管理運営は官僚がするしかないのである。このことによって経済官僚が大量に生ずるのは絶対に避けられないことである。当然、それは政治権力から下に伸びる階層性をもった官僚構造が構築されていくことを意味している。この官僚制を批判するのならば、労働者自主管理の失敗がどのような理由で起こったのか、どうすれば良かったのかということが最大、最重要な問題になってくる。ところが多くの人は単に官僚制を批判するだけで、そこから先の理由を考察しないのではないだろうか。


 しかし、このことに対してはおそらく次のような反論があっただろう。「世界戦争とそれにつづく内戦によって、労働者階級も疲弊し切っていた。それによって本来の管理運営が出来なかったのだ」、「ロシアは資本主義がまだ未発達で労働者の技量や意識がまだ未熟な段階であった。これがもっと成熟していたならば管理運営は出来たはずだ」、「ロシアは圧倒的な農業国であり、農民が全体の8割を占めていた。労働者階級の絶対数が少なすぎるのである」、「マルクスの前提は一国のみの革命ではなく、世界的な革命を考えていた。ロシアのような労働者が少なく未熟で、なおかつ世界革命が起こりそこから強力な労働者階級の支援がなければ労働者自主管理運営は到底困難である」これらのことが幾つも並べられると、なるほどもっともだというような感覚を持つようになる。だが果してそうだろうか。例えばここで挙げられている鉄道運営を考えてみれば、これらの条件がすべて満たされていたら―戦争という困難な状態でなければ―資本主義がもっと発達していれば―世界革命が起きて他の国の労働者が支援に駆けつけてくれたら―労働者自主管理運営は順調に進むのだろうか?つまり、ここで言われていることは唯物史観における「土台の変革」を直接問題にしているのではなく、その周辺を論じているのである。


 土台の変革―経済機能構造の変革は今まで論じてきたように、無階級化のためには身体労働を基盤としてそれに相互依存している頭脳労働を統合しなければならない。それが労働者自主管理を成功させる本質的な指標である。つまり、これはそれまでの労働形態内部での統合の問題であり、その外部条件、資本主義の段階、戦争、他の国での革命といったものはまったく無視してよいような問題なのである。労働者の数というのも、鉄道運営ならそれ以前にそれが機能していたならば、機能上の数というのは満たされていたのであり問題にならない。その国全体の労働者の割合というものに直接の関係はない。そして、労働者自身の技量や意識というものが問題になってくるわけであるが、まさにこれが身体労働を行いながら頭脳労働を兼任するという能力―そのような技量や意識が必要になってくるのである。これが資本主義段階の問題とはまったくかけ離れているということは明らかであろう。もちろんこのような能力は現実には存在しない。そこで経済機能を保とうとすればそれは必然的に階層性を持つことになり、労働者内部で頭脳労働と身体労働の分業が生じてくることになる。現実の問題としては、このような短期間で頭脳労働を習熟することは不可能であり、管理運営は官僚の手に移らざるをえないのである。


 「レーニンはこう述べたのち、およそ大規模企業のうちで組織された労働過程が能率的に運営されるためには、企業経営者の単独の意志決定に対する無条件の服従が不可欠である、と力説している。『鉄道も運輸も、巨大な機械工場も企業一般も、全勤労者を時計の正確さをもって作用する一つの経済的機関に結合させる単一の意志なしには、規則正しく機能することはできない。社会主義は、大規模機械工業によって生み出されたものだ。もしも社会主義を導入した勤労大衆が、大規模機械工業が作用しなければならないような仕方で、自己の制度を適応させることができないならば、社会主義の導入などはとうていお話しにもならないのだ。・・・・企業の単独の指導者の命令を自発的に遂行することが必要である・・・・』」。レーニンのこの言動はかぎりなく重要である。わずか2、3年前までこのようなことはまったく考えられもしなかっただろう。レーニンの思い描いていた世界はこれとはまさに正反対であったのである。これは180度の転換を意味している。これは本論で追及されてきた経済機能構造が必ず階層性を持たなければならない、ということが現実のものとして認識されたわけである。もっとも、このようなことは資本主義社会の経営管理に関わるものなら常識的なことである。このようなまったく常識的なことが、この段階でやっとわかったということなのである。しかし、このような経済機能構造の階層性に縛られることが労働者の疎外ではないだろうか。これこそ、マルクスが解決しようとした問題なのではないだろうか。しかし、レーニンにとってみれば「背に腹は代えられぬ」ということになったのである。


 そして、さらなる問題はその次の「社会主義は、大規模機械工業によって生み出されたものなのだ」ということにある。この場合の社会主義は大規模機械工業という経済形態によって生み出された抽象的な理念、という意味ではない。そうだとすれば、ある程度19世紀の社会主義思想の生み出された事実関係を述べたものとして妥当性をもっているだろう。しかしこの場合の社会主義は、すでに現実の経済形態として現存している―という意味であり、それが大規模機械工業から生み出された、あるいは生み出されるべきものである―ということである。ここにこそ「唯物史観」の巨大な刷り込みがなされている。これは一体何を根拠にしているのだろうか・・・これを追求していけば、これには何の根拠もない単なる希望、願望にすぎないことがわかるのである。この場合の社会主義に現実の経済形態に対する有意味な対応関係は何もない。ここにあるのはただ単に「資本主義が生み出した大規模機械工業があり、社会主義は資本主義のあとにくるものであり、資本主義よりも進んでいるのだから大規模機械工業を受け継ぎ、さらに発展させたものである」という論理があるだけである。そして、社会主義が共産主義に向かう過程であり、それが無階級化に向かうということをその本質としているのだから、大規模機械工業と社会主義とはまったく水と油であり、両立するはずはないのである。つまり、それ以前の前提「唯物史観」の資本主義のあとに社会主義が来る―このことが完全な誤りであるということである。この事態になってもレーニンとボリシェヴィキは「唯物史観」が誤りであったなどとは微塵も考えることはないだろう。また、社会主義革命のルビコン川を渡った以上もう引き返すことは出来ず、革命の誤りを根本的に認めることは自らの破滅を意味していたのである。


 この誤りを認められないということは、もうひとつその誤りの所在がどこにあるかということが非常にわかりにくい、というところにもある。これも本論の今までなされてきた考察を繰り返すことになるが、マルクスが『資本論』をはじめとする著作で構築してきた論理体系、頭脳労働形態、頭脳労働価値を否定ないし捨象しながら資本主義社会の動態分析、過程分析を行ってきたという壮大なイデオロギーの宇宙に完全に埋没しているからである。資本主義の動態分析から導き出される資本主義社会の矛盾と行き詰まりは、科学的な精密さで立証されるのであり、その次に来る社会は必ずその矛盾を解決した社会であると歴史法則が保証しているのである。その資本主義の動態分析をする構成要素の中に、資本主義の矛盾を解決するために考えなければならない不可欠な要素がありながら、それが完全に消去されているなどとはまったく考えられなかったのである。これは完全に常識的な心理の裏をかいている。そのような構成要素がもしないとするならば、その動態分析は完全なものであるはずはなく、欠陥だらけのものになるはずだからである。ところが、その構成要素「頭脳労働形態、価値」がなくても動態分析はほとんど問題なく進めることが出来たのである。そのことから逆に、資本主義の矛盾を解決し社会主義に向かうための構成要素は十分に満たされている、このような強固な刷り込みがなされているのである。


 また、次のことはさらに重要だといえるだろう。唯物史観によってこれは歴史上の問題であり、過去の革命の類推によって社会主義革命も推し図ることができる、ということである。革命には過渡期があり、それが次第に収束して安定した状態を迎える。その期間は数年から数十年かかるのが一般的である。革命が勃発し、その革命勢力がまったくそのままの状態で保持されているのに、革命が失敗に終わっている―などということがあるとは誰も考えないのである。革命勃発後、数ヶ月がたったときに、当初に考えていた通りにならなかったとしても、これから修正していけばよいことである、と当然考えるのである。しかし、ロシア革命に限ってこれは当てはまらない。この革命はそれ以前の革命と根本的に異なっている。この革命は完全な兼任を達成できる能力が得られるとされるイデオロギーにもとづく革命なのであり、それ以前のいかなる革命ともまったく断絶している。過去の革命との類推は本質的には無効なのである。


 そして、以上のような誤りを共有していたのはレーニンとボリシェヴィキ指導部だけではなく、一般党員、労働組合のリーダーや労働組合員、さらにメンシェヴィキも同じだったのである。「プロレタリアートはどこにもいず、あるのはただ独裁、しかもプロレタリアートの独裁ではなく、その手中に死せる工場をしかと握る巨大な官僚機構の独裁にすぎない。諸君は、無制限に圧追と搾取を行いうるブルジョワジーを育成しているのだ」メンシェヴィキの代表ダーリンはこのように言ったが、このような事態になるのは必然であり、そもそもプロレタリアート独裁というものが非現実的である。唯物史観のイデオロギーに完全に埋没している、という点でボリシェヴィキもメンシェヴィキもまったく同じだったのである。それは、唯物史観のもっとも本質的な誤謬「能力問題」が現実になったとき、その矛盾は巨大な壁になって立ち塞がったのである。ここに参加している全員が、この矛盾にまったく気づかず行動するとき、一方ではどうにもならない経営管理の状態を正常化するために官僚支配を強化せざるをえない。そして、一方ではそのような事態は唯物史観、社会主義、共産主義に対するまったくの裏切りであり、そこから逸脱するものであるという批判、非難が増大するだろう。


 この事態には絶対確実にいえる原理的な非対称性がある。それは権力を行使する指導部は産業における生産力を維持、拡大していくために経済機能構造を絶対に維持しなければならないということである。資本家の存在を完全に否定しているのだから、この構造を担うものは官僚以外にはいない。どれほどそれが唯物史観、共産主義への道から逸脱しているように見えたとしても、現実に高度産業社会における生産力を保持しなければならないのである。そうしなければ、社会の秩序ある構造は破壊され途方もないカオスがもたらされるだろう。当然、それは自らの破滅も意味している。そして一方の権力を行使する立場でないものは、このような事態を絶対に受け入れられない―これはマルクス主義、共産主義の真摯な信奉者なら必ずこのようになるだろう。しかし両者はどちらも唯物史観、マルクス主義の真摯な信奉者なのである。この両者は原理的な矛盾から、原理的な非対称性が生じ、対立的な立場に置かれるのである。しかし、権力を行使する側はそれ以外のものを絶対に従わせなければならない。そうしなければ、権力基盤そのものが存在しなくなってしまう。つまり、ボリシェヴィキ指導部はこのようなメンシェヴィキからの批判、そのあとは労働者反対派からの批判に対して、その批判が正しいがゆえに自らの存在を脅かす最大の凶器になる、と感じるだろう。その批判を封じるために秘密警察を使った物理的な強制手段を使うことになる。あるいは分派禁止によって自由な討論、党内民主主義を抑圧せざるをえなくなるのである。


 ボリシェヴィキは、彼らが祝福して1917~18年に導入した「労働者統制」から生じた経営管理のアナーキーを克服することにおいては、より大きな成功をおさめた。工業企業を管理する参議制の方法では、経験のない労働者と労働組合の役員が決定権をもっており、戦時共産主義のもとで工業生産性が劇的に低落したことの多くは、この方法に責任があった。早くも1918年の春に、レーニンとトロツキーは、個々の経営管理者に執行権を委ねる必要があると語っていた。しかしながら、労働者は、そのような変更には抵抗した。彼らは「労働者統制」を革命の偉大な成果の一つとみなすようになったからである。内戦の終了とともに、政府は彼らの抗議を無視することができるようになり、1921年末までに、ソヴィエトの工場のうち、10分の9は経営責任者のもとにおかれ、その多くが旧体制からの残留者であった。


 それにもかかわらず、党の干渉、労働者の直面した経済的苦難、そして刺激の欠如により引き起こされた工業生産性の冷酷な下落を、どのような行政措置をもってしても遅らせることはできなかった。この下落を示す様々な指標がある。大規模な工業生産は全体として、1913年と比較して、82%降下した。1913年の生産を100とすると、石炭の産出高は、1920年までに27・0に、鉄は2・4に、綿紡績糸は5・1に、石油は42・7まで落ちた。ロシアの労働者の生産性は(実質ルーブルに換算して)、26まで落ちた。雇用されている工業労働者の数は、1918年を100として、1921年には49に低下した。要するに、戦時共産主義のもとで、ロシアの「プロレタリアート」は半分に減り、工業生産は4分の3、工業生産性は70%低下したのであった。1921年に、レーニンは、この残骸を見渡しながら、「プロレタリアートとは何か、それは大規模な工業に就労する階級である。すると、どこに大規模な工業は存在するのか。これは、どんなプロレタリアートなのか。きみたちの〔!〕工業はどこにあるのか。何故、それは遊休しているのか」と激怒した。この修辞疑問に対する答えは、レーニンが是認してきたユートピア的なプログラムこそがロシアの工業を殆ど破壊し、ロシアの工業労働力を半減させてしまったということである。しかし、急速に工業の崩壊が進むこの間に、工業を管掌する官僚機構の維持費用は、うなぎ登りに増大した。最高経済会議の人員は、1918年3月の318人から、1921年には100倍の3万人を雇うまでに拡大したのであった(47)。



(45)勝田吉太郎『知識人と社会主義』ミネルヴァ書房、1992年、92頁~95頁


(46)同上書 96頁~98頁


(47)リチャード・パイプス『ロシア革命史』206頁



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<論文> マルクス主義の解剖学 13 


 『マルクス主義の解剖学』

 

 第8章 現実化したマルクス主義

 

 ここから本論の今までの論考をもとに、現実に生起した歴史過程の分析、解釈に入ることにする。その中心になるものはいうまでもなく人類史上初めての社会主義革命を実現したロシア革命である。ロシア革命の考察、解釈は今まで膨大な量がなされてきた―本論はこれらの解釈と根本的に異なるものを持っている。この解釈の延長上に20世紀最大の謎といわれるスターリン体制の成立、左翼全体主義の解明があるが、ここではロシア革命の初期段階、特にテクノクラートと労働者自主管理の問題を扱うことにしたい。

 

 第1節 ロシア革命

 

 1917年10月25日(新暦11月7日)レーニンとボリシェヴィキはクーデターによって、その権力を掌握した。ついに社会主義革命のルビコン川を渡ったのである。ここに至るまでの経過は、多くの書物によって研究され、描かれてきたことであるがボリシェヴィキにとって多くの幸運が重なったことがわかっている。蜂起の段階で権力の掌握は確実なものとなっていた。しかし、その権力を維持することは非常な困難が待ち受けていたのである(41)。


 革命が成功したそのとき、人類がいまだかつて経験したことのない、マルクス主義、共産主義イデオロギーのイデオロギー空間が形成された。それは目に見えない衝撃波となって地球全体を駆け巡ったのである。それは権力の主体が反作用としての「魔術的因果性」「増幅された能力転移」にもとづいて政策を遂行する―ということを意味している。レーニンは『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』の冒頭部分でこのように書いている「マルクスの学説は正しいから、全能である。その学説は完全で均整がとれており、どのような迷信とも、どのような反動とも、またブルジョワ的抑圧のどのような擁護とも妥協できない、全一的な世界観を提供している(42)」これは唖然とするような文章である。ある学説の正しさが、どうして全能性へと結果するのだろうか。しかし、マルクス主義の宗教性の考察からレーニンの確信の理由を推し測ることができるのである。


 資本主義体制を破壊し、収奪者を収奪し、その勢力を抑圧、撲滅、抹殺することによって、その能力がとてつもない規模で増幅されて転移する、という魔術的因果性が権力を握ったボリシェヴィキに刷り込まれているのである。これらは深層の論理であり、決して意識化することはできない。これがレーニンの全能感の源泉なのである。そして自らは、どのような迷信とも妥協できない、と考えているのである。つまり、完全に逆さまの世界に住んでいる人といえるだろう。そしてさまざまな論理がこのことを補強する。それはボリシェヴィキだけではなく、メンシェヴィキにもその他の社会主義者、あるいはプロレタリアート、兵士たちにも広く共有されるものだったのである。このことが、ボリシェヴィキの権力掌握とその維持に強い力を与えることになった。


 ブルジョワジーや貴族、立憲民主党に対する弾圧は、革命直後に始まっている。そして、官僚のストライキや反革命分子を取り締まり、弾圧するための秘密警察、チェーカーはジェルジンスキーの指揮のもと革命後2ヶ月足らずで設立された。恐るべき20世紀秘密警察の典型的な雛型が形成されていったのである。これらは白衛軍などの本格的なボリシェヴィキに対する挑戦がはじまるかなり前の事である。ここで注目しなければならない重大な問題は次のようなことである。この秘密警察はそれ以前の帝政時代の秘密警察とは根本的に性格が異なる、ということである。帝政時代の秘密警察は、イデオロギー上の目的ではなく専制体制を維持し、守ることが目的であった。しかし、チェーカーはマルクス主義、共産主義イデオロギーに奉仕するという目的があったのである。ジェルジンスキーは志操堅固な共産主義者であった。これは単にボリシェヴィキ体制を打倒する勢力から守るということのみが目的なのではない。ブルジョワジーとその勢力、あるいは旧体制の勢力がボリシェヴィキにとって危険であろうが、なかろうが、その階級であるということにおいて、収奪され、抑圧され、弾圧、抹殺されるべきものなのである。これは第1章、第2章で考察されてきたマルクスのイデオロギー操作からもたらされたものであるということが理解されるのではないだろうか。ブルジョワジーを労働価値説の対象から巧妙に除外して、単なる搾取者に仕立て上げるということが絶大な効果を発揮しているのである。そして、さまざまな論理によって、これは歴史の必然的な発展であると考えられているのである。これに反するものは人類の進歩に逆らうものであるという強固な信念が形成されている。このことが敵対する階級にたいして、相手がこのことを察知して対抗する手段を講じてくるだろうということを予測させる。それに対して先手を打たなければならない―そのような行動に駆り立てることになる。それがチェーカーの疑わしきは抹殺する、というような過剰な行動へ導くといえるだろう。

 

 第2節 ボリシェヴィキのイデオロギー

 

 ロシア革命の分析をするにあたって、確認しておくことがある。それはレーニンをはじめとするボリシェヴィキのイデオロギーはマルクス主義、唯物史観であり、それも原理主義的といえるほどのものであった、ということである。何をわかりきったことを、と思われるだろうが、これが意外なほど問題になってくるのである。後でまた詳しく論じられることになるが、革命後のボリシェヴィキの行動から彼らのイデオロギーの目的はマルクス主義ではなく、ロシアの伝統的な専制体制を復興させることである、というような解釈も存在するからである。つまり、マルクス主義のイデオロギーは副次的な仮ものにすぎず、それは伝統的な政治体制を自分達のものにするための方便にすぎない、ということなのである。これは後のスターリン体制、全体主義体制に至ったのはロシアの伝統的な専制体制が中心にあり、それにマルクス主義のイデオロギーが接ぎ木されたからである―中心にあるものはロシアの伝統である、このような解釈がリチャード・パイプスなどによってなされている。


 ボリシェヴィズムを支える理論、すなわち、カール・マルクスの著名な理論が西側の起源であったということは論争の余地がない。しかし、ボリシェヴィキの実践活動がその土地に固有のものであったことも同様に争う余地がない。西では、マルクス主義がレーニン―スターリン主義の全体主義的暴圧に至るところはなかったからである。マルクス主義は、ロシア、続いて、同じような伝統をもつ第三世界の諸国の、自治、遵法、そして私有財産を尊重する伝統がない土地に所を得た。異なる状況では、異なる結果をもたらす原因というものは、殆ど十分な説明たりえない。


 マルクス主義には絶対自由主義的なところと権威主義的な気質があり、その二つのうちどちらが優勢となるかは国の政治文化というものにかかっていた。ロシアにおいては、その国の家産制的な遺産に適合する諸要素が、マルクス主義者の教義のなかで優勢となった。中世以降のロシアの政治的伝統では、政府、正確に言えば統治者が主体であり、「国」は客体であった。この伝統は、マルクス主義者の「プロレタリアート独裁」という概念と容易に融合し、そのもとでは、統治する党が、その国の住民と資源に対し排他的な支配を主張した。そのような「独裁」に関するマルクスの考えは、最も手近な内容で満たせるほど充分に曖昧であった。そして、ロシアでは、それは家産制の歴史的な遺産であった。マルクス主義のイデオロギーをロシアの家産制の遺産の頑強な幹へ接ぎ木したことが、全体主義を生み出したのであった。全体主義は、マルクス主義の教義か、あるいは、ロシアの歴史かのどちらかにだけ言及することでは説明されえない。それは、それらが結合した成果であった。


 イデオロギーは重要であったが、しかし、共産主義ロシアの形成におけるその役割は、過大視されてはならない。もし、一個人、あるいは一グループがある信念を公言し、行動への指針としてそれに頼るとするならば、それは、理念の影響のもとで行動していると言えるかもしれない。しかし、理念が個人的な行動を導くためではなく、他者への支配を正当化するために用いられたとき、それが、説得によるものであれ、強制によるものであれ、問題は混乱する。そのような説得、あるいは強制が理念に奉仕しているのか、そうではなく、理念の方がそのような支配を保証し合法化するのに役立っているのかを、確定できないからである。ボリシェヴィキに関しては、後者の場合であったと主張する強力な根拠がある。何故なら、彼らは考えうるあらゆる方法を用いて、最初は政治権力を獲得するために、ついでそれを維持するために、マルクス主義を歪曲したからである。マルクス主義に、もし、何らかの意味があるとすれば、それは二つの命題、つまり、資本主義社会は成熟するにつれて、内部矛盾から崩壊を運命づけられているということ、および、この崩壊(「革命」)は、工業労働者(「プロレタリアート」)によって成し遂げられるということにおいてである。マルクス主義の理論に動機づけられた体制は、少なくとも、これら二つの原則に固執することになろう。ソヴィエト・ロシアにおいて、我々がみるものは何であろうか。それは、資本主義がまだその揺藍のなかにあり、経済的に低開発な国で遂行された「社会主義革命」であり、労働者階級は自らの思惑に任ねられると革命を担うことはできないと考える党が権力を掌握したことである。その後、ロシアの共産主義体制は、その歴史のあらゆる段階においてマ ルクス主義の教義を顧慮することもなく、異議を唱えるものを撃退するためなら、その行動をマルクス主義のスローガンで覆い隠すことさえ辞さず、あらゆることを行った。レーニンが成功したのは、メンシェヴィキの行動を抑制していたマルクス主義的な良心の苛責から、まさに、彼が自由であったことによる。これらの事実を考慮すれば、イデオロギーは、副次的な要因とみなされなければならない。それは、恐らく、新しい支配階級の着想と思考様式ではあるが、支配階級の行動を決定したり、それを子孫に説明するところの一揃いの原則ではなかったのである。一般的に、ロシア革命の実際の経過について知るところが少なければ、それだけ、マルクス主義者の理念に支配的な影響力があったとみなしがちである(43)。


 この見解はメイリアの『ソヴィエトの悲劇』などによってなされた、ロシアはロシア革命によってもたらされたマルクス主義、共産主義イデオロギーとその体制によってそれ以前のロシアとは決定的に切断されている、という解釈と真っ向から対立している。この見解は非常に重要な問題であるので、徹底的な反論を加えていくことにする。


 まず、西側の起源であったマルクスの理論がロシアと違い、西側ではレーニン―スターリン主義の全体主義的暴圧に至るところはなかった、という問題について検討してみる。これはマルクス理論についての根本的な無理解から生じている。といってもパイプスがこのことを知らないはずはないのだから非常に軽視している、といえるのだろう。唯物史観はその歴史過程の中で社会主義革命という決定的な分岐点がある。これは理論の中に大きなルビコン川が流れていて、その川を渡るか、渡らないかということは決定的な問題なのである。ロシアにおいてはいうまでもなく1917年10月にレーニンとボリシェヴィキはこのルビコン川を渡ったのである。それに対して西側では、社会主義革命は起こらなかった、つまりルビコン川を渡った人はいないのである。異なった人物Aと人物Bがいたとして、Aがルビコン川を渡り、Bが渡らなかったとすれば両者の状態を同じだとして比較することは出来ない。Bがルビコン川を渡った場合、Aと別な状態になるかどうかは分らないのである。つまり、このような指摘はそもそも無効である。


 「マルクス主義には絶対自由主義的なところと権威主義的な気質があり、その二つのうちどちらが優勢となるかは国の政治文化というものにかかっていた」これもマルクスの理論を皮相的にしか見ていないように思う。マルクスの言説を額面通りに受け取っているのではないだろうか。これは今まで考察してきたことであり、これからさらに論証していくことになるが、マルクス主義の絶対自由主義的なところは非常に観念的であり、それは頭の中だけにしか存在しないように思われる。これは現実の社会形態に適用されれば、権威主義的にしかならないものではないだろうか。少なくともそのような可能性を考慮しなければならない。絶対自由主義的、権威主義的のどちらかが優勢になるかは国の政治文化というものにかかっているかどうかは分らないのである。本質的にマルクスの理論は権威主義的ということになれば、国の政治文化の違いは関係ないことになる。「ロシアにおいては、その国の家産制的な遺産に適合する諸要素が、マルクス主義者の教義のなかで優勢となった」この問題についても、これはボリシェヴィキについていえることであり、メンシェヴィキやその他のマルクス主義者に対しては必ずしもそうとは言えないのではないだろうか。さらにボリシェヴィキがロシアの家産制的な性格に適合しているように見えるのは偶然であり、本質的には関係ないのではないだろうか。レーニンは少なくとも主観的には、ロシアの伝統を破壊し徹底的にそこから離れようとしたのである。それを実践するために家産制によく似た中央集権的な組織になったのは、ロシアの伝統があってもまたそのようなものがなくても同じだったのではないだろうか。


 「そのような説得、あるいは強制が理念に奉仕しているのか、そうではなく、理念の方がそのような支配を保証し合法化するのに役立っているのかを、確定できないからである。ボリシェヴィキに関しては、後者の場合であったと主張する強力な根拠がある」これはもっとも本質的で重要な論点であろう。確かにこれは確定できることではない。そしてボリシェヴィキの行動は表面上、理念の方がそのような支配を保証し合法化するのに役立っている―ようにしか見えない。私自身これらの問題に知識がなかった頃は、このように考えていたのである。しかし、多くの知識が得られるようになってからパイプスの見解とは逆に、理念とその理念を実現するための理論体系の方に注意が向けられるようになった。つまり、ボリシェヴィキの行動がそのように見えたとしても、マルクス主義イデオロギーを支配のための口実に利用していた―とみなすことは出来ない。ボリシェヴィキは心の底からマルクスの理論を信奉していたのである。これは膨大な資料から疑うことの出来ないものであろう。パイプスの見解はマルクスの理念と(理念だけ見ていたのでは逆に分らなくなる)それを実現するための理論体系、方法論に問題があるためにボリシェヴィキの行動がそのようなものに見えるのではないか、という視点がまったく存在しないように思われる。


 「イデオロギーは、副次的な要因とみなされなければならない。それは、恐らく、新しい支配階級の着想と思考様式ではあるが、支配階級の行動を決定したり、それを子孫に説明するところの一揃いの原則ではなかったのである。一般的に、ロシア革命の実際の経過について知るところが少なければ、それだけ、マルクス主義者の理念に支配的な影響力があったとみなしがちである」本論の立場は、「イデオロギーは副次的な要因とみなさなければならない」ということと真っ向から対立する。イデオロギーこそすべてといっても過言ではないのである。パイプスのイデオロギーに対する見解は皮相的であり、深部の構造への追求が少ないように見える。また、イデオロギーはその主体が絶えず意識して遂行するとは限らない。特に共産主義イデオロギーの場合は経済形態が決定的に拘束されるので、ハイエクの言う集産主義として全体主義的統制が強まっていく―このような体制イデオロギーが形成されるのである。その中に入ってしまうとイデオロギーに対しどのような思考、態度をとろうとも、イデオロギーの通りに行動しなければならないように駆り立てられるのである。パイプスのように反共主義者、あるいは共産主義に否定的な者の中の一部に、イデオロギーを極めて軽視する傾向があるが、否定的に捉えた共産主義とイデオロギー遂行との間の整合性があまり考えられていないのも不思議なことである。

 

 第3節 革命とテクノクラート

 

 ロシア革命研究の中で、中間管理職、テクノクラートなどを中心とした研究は実に少ない。これはマルクス主義、唯物史観がこれらの階級を極めて軽視、あるいは捨象して来たことと関係しているだろう。その少ない研究のなかのひとつが中嶋毅『テクノクラートと革命権力』である。中心課題である労働者自主管理の検討に入る前に革命とこのテクノクラートの問題を考察してみたい。


 1917年10月に革命を遂行したボリシェヴィキが旧体制から引き継いだのは、人口の八割を農民が占めるヨーロッパの後発資本主義社会であった。権力奪取ののちに新体制の基礎を建設しなければならなかったボリシェヴィキは、世界戦争から離脱するまでのあいだの戦争継続と経済復興という課題に直面したが、いずれの課題も帝政ロシアが残した近代工業技術水準を前提しなければその解決は困難であった。そもそもボリシェヴィキが依拠するイデオロギーは、近代資本主義社会が達成した科学技術と工業化をその重要な基礎のひとつとしていた。こうして現実に対処するための緊急の要請と社会主義建設の前提という長期的理念の二つの観点から、ソヴィエト権力は西欧科学技術の応用とそれに立脚した工業化とを追求しなければならなかったのである。19世紀末から20世紀初頭のロシア帝国は、ヨーロッパ諸国に比べれば大きく立ち遅れていたとはいえ、部分的にはすでに高度の工業技術水準に到達していた。ソヴィエト権力が再建しなければならなかったのは、それ自体の維持のために高度な技術的知識を必要とする大規模な工業だったのであり、工業を稼働させるためには、ソヴィエト権力は専門知識を有する技術者や専門家に依存せざるをえなかったのである。


 本書は、1917年のロシア革命から1928―29年のいわゆる「スターリン政治体制」形成期に至る時期の、ソヴィエト権力とロシア技術者集団との関係の変遷を分析すること、それを通じてソヴィエト.ロシアの工業化の方法ないし原理の変容過程を考察すること、を主要な課題としている。ここでとりあげる技術者集団、より広くは専門家集団は、政治的には体制が依拠するイデオロギーとは異質な要素であったにもかかわらず、それが政治体制の維持.発展にとって不可欠の存在であったために、「労働者国家」を標榜する国家の重要な構成部分となったのである。したがってこの集団に対する体制の対応を考察することは、政治革命後の社会構造の変化を分析するうえで重要な課題であると考えられる。一般的にはこのように理解されるとしても、工業化過程における体制と社会構造との関連を分析するうえで、本書のような特殊な課題を設定するに際しては、第一に対象とする時期の意義、第二に技術者集団を考察することの特有の意義、が問われなければならないであろう(44)。 太字強調 筆者


 これは『テクノクラートと革命権力』の序章の出だしである。これはロシア革命に関する研究書のごく一般的な書き出しであろう。これはこの書物に対してだけではなく、ごく一般的な見解、解釈に対する問題提起として考えてもらいたい。この段階で何かおかしいことがあるとは思われないだろう。少なくとも今まではこのような問題設定は一般的な常識だったのではないだろうか。ところが、この段階ですでに訳の分らないような異常な事態が起こっているのである。それが太字強調した部分の論理的な関係である。つまり「ボリシェヴィキが依拠するイデオロギーは、近代資本主義社会が達成した科学技術と工業化をその重要な基礎のひとつとしていた」でありながら「技術者集団、より広くは専門家集団は、政治的には体制が依拠するイデオロギーとは異質な要素であった」ということなのである。これはまったく常識的なことだが、「科学技術と工業化を重要なものとするイデオロギー」が「技術者集団、専門家集団はそのイデオロギーにとって異質な要素であった」などということがあるはずはないのである。もしこのようなイデオロギーが存在していたとしたら、超異常なものであり、1人の人間に向かって「北に行くのと同時に南に行け」と命じているようなものである。


 『テクノクラートと革命権力』の4頁に次のような記述がある「・・・すでに触れたように、ソヴィエト権力はこの社会集団(技術者集団)を体制が依拠するイデオロギーとは異質な存在と認識しながらもそれに依存せざるをえないという特殊な事情を有したために、革命前の政治エリートや経済エリートとは異なって、職能集団としての技術者集団は革命による断絶を免れえたと考えることができる」この依存せざるをえないという特殊な事情、とは一体何だろうか?これは特殊な事情ではなく、当たり前の事情ではないだろうか。つまり、この「特殊な事情」の内容とはどのようなものなのだろうか。それは当然「イデオロギーそのものが持つ事情」である。それ以外にありえないのではないだろうか。ところが、上記の引用文においてはそのようなイデオロギーそのものを問題視するような観点があまりなく、イデオロギーの置かれた客観的な特異な状況が、そのイデオロギーの遂行にとって特殊な事情を与えるようになった、というように解釈できるのである。


 この特殊な事情がなぜイデオロギーに内在するものではなく、あたかも外部から来ているようにみなされるのだろうか。それが本論の特に第7章 マルクス思想の宗教性 、において考察されてきたことである、反作用としての「魔術的因果性」すなわち「増幅された能力転移」である。労働者国家を標榜しているイデオロギーが、技術者集団、テクノクラートを異質な要素として認識する―これは当然のように思われるだろう。しかし、工業化を達成するためには高度な知識、技術が不可欠である。異質な階級であるテクノクラートから高度な知識、技術が労働者に能力転移する―このようなことが社会主義革命の結果として前提にされているからである。すなわち、特殊な事情の原因はすべてこのイデオロギーの側にある。当時のロシアの状況は何の関係もない。農民の比率がどうであろうが、資本主義の発展の度合いがどのくらいだろうが、戦争遂行の最中であろうが、まったく何の関係もないのである。しかし、自らを絶対の真理として認識しているイデオロギーにとって、現実の状況に直面した時、この絶対的な矛盾はどうしようもない事実として目の前に現れる。そこで、その矛盾の理由をイデオロギーの外部に求めざるをえなくなるのである。


 以上のことは「一般的にはこのように理解されるとしても・・・」ということと繋がっている。これはこの著作だけの問題ではなく、これ以外の膨大な文献、さらに広く普遍的にこのような見解が存在していることを意味している。この普遍的な見解の深層には「増幅された能力転移」という反作用としての「魔術的因果性」が存在しているのである。このイデオロギーを信奉する政治権力から技術者集団、テクノクラートは「是が非でも必要とされる存在」であるのと同時に「排斥される存在」として扱われることになるのである。

(41)エレーヌ・カレール・ダンコース『レーニンとは何だったか』石崎晴己 東松秀雄訳、藤原書店、2006年
ドミトリー・ヴォルコゴーノフ『トロツキー その政治的肖像 上・下』生田真司訳、朝日新聞社、1994年
リチャード・パイプス『ロシア革命史』西山克典訳、成文社、2000年
等を参照

(42)レーニン『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』高橋勝之 大沼作人訳、新日本出版社、1999年、8頁

(43)リチャード・パイプス『ロシア革命史』396,397頁

(44)中嶋毅『テクノクラートと革命権力』岩波書店、1999年、1,2頁

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