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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> スターリン主義の形成 3 

 

 『スターリン主義の形成』

  

 第1章 スターリンへの権力転化

 

 第7節 レーニンの後退

 

 レーニンは1922年5月に最初の発作に襲われ、数ヶ月間執務の出来ない状態となった。この時、スターリンとの間で民族問題を巡って対立が生じてきた。共産党はかねて約束していた民族自決をどこまで履行する用意があるのか―レーニンはもちろん共産党による支配に疑問を持ってはいなかったが、ロシア周辺部の民族的自治を重視していた「各共和国が平等の立場から新しい次元で連邦を形成する」。それに対しスターリンはロシア共和国の最高機関はすべてを統轄する中心的な権威を持つ、とした。この問題はレーニンとスターリンの会談後、スターリンはレーニンの目標にしたがって併合計画を見直し、1924年にソヴィエト社会主義共和国連邦の成立を正式に宣言することになる。


 このことについて「イデオロギー遂行決定論」の立場から考察してみることにしよう。イデオロギー遂行の主体であるロシア共産党は、ロシアを統治しているわけであるが、それ以外の共和国にもこのイデオロギー遂行を徹底させようとすれば、ロシア共和国を平等な関係ではなく、中心的な権威を持つようにしなければならないのは当然である。各共和国に十分な自治を与えたとして、それが資本主義市場経済の方に向かった場合、レーニンはどうするつもりなのだろうか。イデオロギー遂行を徹底させようとすれば、スターリンの立場を取るしかないのは自明のことではないのだろうか。そして、まさにレーニンがそれまでしてきたことは、徹底した中央集権化による支配の強化であった。スターリンにしてみれば民族自決に関するレーニンの主張は「何をいまさら」と感じられたのではないだろうか。戦時共産主義からネップへの移行は、厳しい統制がなければ市場はたちまちのうちに自然と形成されてくる、そのことを事後承認したにすぎないのである。それはロシア以外の各共和国の経済においても同様である。中央集権的な厳しい統制がなければ共産主義イデオロギーの遂行は危ぶまれるのである。


 以上が、おそらくスターリンが考えたことであろうと推測する。しかし、レーニンの構想はそれよりも上だったようである。ロシア共和国を各共和国と同等に置くというのは戦術上の問題であり、各共和国への懐柔策である。ボリシェヴィキはロシア共産党からソヴィエト社会主義共和国連邦の共産党となり、その全体を実効支配することができるのである。人民委員会議は名目上のものにすぎず、憲法に規定されないイデオロギー超越的組織体―ソ連共産党によって完全に支配されるのである。各共和国の共産党に自治の権利はいささかも存在しなかった。そのことを理解したスターリンはレーニンに同意して、ソ連憲法を起草してそれを宣言したのである。このことからもイデオロギー遂行に関するレーニンからスターリンへの継承性は保たれているといえるだろう。


 1922年12月23日レーニンは2度目の発作を起こし、さらなる病状の悪化によってその権威は低下せざるをえなかった。このあたりのレーニンとスターリン、さらにトロツキーを含むさまざまな動きに対してここでは踏み込まず、レーニンの官僚主義に対する対応に焦点を当てて考察してみたい。民族問題や自分の病状に関するスターリンの対応に次第に不信感を募らせ対立が強まっていったレーニンは、スターリンが支配する官僚体制に批判の目を向けるようになっていった。そこでこの官僚主義の悪弊を是正しようとレーニンは中央委員会の定数を100名程度に増員することを求め、さらに100名程度の委員からなる中央統制委員会が、政府と党の双方を管理する責任を負い、中央委員会総会にも参加すべきであるとした。どちらの場合についても、レーニンは新しいメンバーを労働者および農民から選ぶよう主張した。その場合、新しいメンバーは、平党員の労働者や農民に近い存在でなければならない、とした。このことはレーニンの官僚主義に対する最終的な姿勢であるとみなされるようになったのである。


 しかし、スターリンの対応は巧妙をきわめた。レーニンは次ぐ年の3月にさらに発作を起こして容態が悪化し、以後、政治に関わることができなくなった。まもなく第12回党大会が開かれたが、心配なく自由な活動ができるようになったスターリンは、中央委員会と中央統制委員会の選挙を牛耳れる立場にあったのである。表面的には、スターリンはいかにも党内に広がる官僚主義に対するレーニンの批判と党の構造改革の継承を受け入れたように見せながら、その実、レーニンの提案を二つとも裏返しにしてしまったのである。新しく補充された委員はそのほとんどがスターリンの息のかかったものだったのである。新しく補充される委員は平党員の労働者および農民にするべきだとのレーニンの要請については、何の手も打たれなかった。スターリンの手品によって、変革の結果はレーニンの意図とは正反対に、中央集権的統制の緩和どころか、強化となった。


 このことはスターリンがレーニンを裏切った証左になるように思われる。しかし、本当にそうだろうか。革命初期に労働者自主管理を導入したが、惨憺たる結果となり官僚やブルジョワ専門家に頼らざるをえなかった。その延長上に官僚体制が構築され、強化されてきたのである。そのことに反対した労働者反対派を分派禁止によって、党から放逐したのはレーニン自身である。これはそうせざるをえない状況があったのである。つまり、これはかつての労働者反対派の立場に自分がなったということを意味している。病気によってイデオロギー遂行の立場から後退したレーニンは、スターリンにかつての自分の姿を見ていたことになる。レーニン擁護者は戦時共産主義の困難な状況を官僚主義が肥大した仕方のない理由として挙げている。しかし、スターリンは社会が復興していった後も官僚主義を強化し、それを利用したのだと批判するのである。それでは、レーニンが執務可能な時は官僚主義の克服は困難であったが、発作で倒れた途端、この官僚主義は克服可能なものに変わってしまったというのだろうか。このような御都合主義はもちろん、何の説得力ももたないだろう。


 現実問題としては平党員の労働者や農民が委員会に参加できても、期待された役割を果たすとは考えにくい。知識も経験もない人間が、いきなりそのような場に参加しても戸惑うばかりではないだろうか。もし、その中に才覚のある人間がいたとしたら、やはり同じように官僚主義に染まっていくことが考えられる。現場ではレーニンの発案は非現実的なものとして受け止められていたのではないだろうか。「マルクス主義の解剖学」の能力問題が示すことは、いついかなる段階でも、いかなる場面においても全体的に発達した個人の途方もない能力が要請されるのである。しかし、そのことに気付くことはありえない。もはや、スターリンへの権力集中はとどまることを知らず進行していくことになる。

 

 第8節 トロツキーの活躍と凋落

 

 スターリンと同年代(実際にはスターリンの1年下)のトロツキーは、スターリンと同じく若い時から革命家を志向した。社会民主労働党ではレーニンのボリシェヴィキよりもメンシェヴィキの立場に立つことが多かった。レーニンに対して批判的なところが多かったにも関わらず、1917年2月の革命の後、ロシアに戻ったトロツキーは10月革命の直前にボリシェヴィキに合流した。この後、彼は思想的にも完全なボリシェヴィキとなり、レーニンに従うようになる。10月蜂起の際には、決定的な役割を果たし、以後要職を歴任し、活躍していくことになる。特に革命軍事評議会議長として赤軍の創設、指揮を執り、内戦において戦地を専用列車で駆け巡り兵士の戦意を高揚させ、さまざまな指令を発した。内戦の勝利はトロツキーの活躍に負うところが大であった。トロツキーは10月蜂起から数年の間は、レーニンに次ぐナンバー2の立場だと自他ともに認めるところであった。


 トロツキーの革命に対する考え方は、基本的にはレーニンとほとんど同じだといえるだろう。革命以前のマルクス主義の理想的な未来社会像は、現実に革命が起きるとたちまちのうちに現実主義となって現れる。労働者自主管理がうまくいかないとわかると厳しい労働管理による労働義務制を導入し、それがプロレタリアート独裁の社会主義的労働なのだと広言してはばからなかった。ブルジョワジー、教会に対する徹底した弾圧、テロルも他のボリシェヴィキと同様であった。そして何よりもトロツキーは永続革命、世界革命の徹底した信奉者であった。社会主義革命は世界革命とならなければならない。ロシア一国での革命は成功しないであろう―トロツキーこそは社会主義革命後のロシアの現実は特殊な条件下での革命であるがゆえに、マルクスの示したような社会主義、共産主義への道を歩むことを阻まれている。それを正常に戻すためには、何が何でも革命を世界に押し広げていかなければならない―このように固く信じていたのであった。


 しかし、1920年のポーランドへの侵攻は失敗に帰し、社会主義革命をポーランドに波及させるという目的は挫折した。ポーランドのプロレタリアートは社会主義革命よりもナショナリズムを選んだのである。さらにもっとも期待していたドイツに革命の兆候があったにもかかわらず、結局は失敗に終わった。レーニン、トロツキーらボリシェヴィキの世界革命の希望は月単位で萎んでいったのである。このことに何よりも失望したトロツキーは、それでも世界革命の論理を決して後退させることはなかった。世界は第一次世界大戦の混乱から安定期に入りつつあった。戦争を機に成就されたロシア革命のような条件は、もう世界には極めて起こりにくくなっていたのである。ロシアは一国のみで社会主義の建設を進めなければならなくなっていた。しかし、あくまで世界革命に固執するトロツキーは次第にその立場を弱くしていったのである。


 1922年5月のレーニンの発作による権力の空白は、トロツキーにとっても重大な転機となって現れる。10月革命直前に入党したトロツキーが、レーニンに次ぐ立場にいることに面白くないと感じている古参ボリシェヴィキは大勢いた。その中でジノヴィエフ、カーメネフ、スターリンは密かに同盟を組んでトロツキーに対抗するようになっていった。後からわかることだが、これはスターリンがトロツキーを追い落とすために他の2人を利用したのであった。その目的は他の2人にも共有することであったのだが・・・発作で倒れたレーニンはスターリンに次第に不信感を持つようになり、トロツキーに接近しようとした。しかし、トロツキーはこの同盟にあまり積極的ではなかったのである。スターリンらの攻撃に対してトロツキーは決然と立ち向かうという態度ではなかった。特に第12回党大会の時、レーニンの遺書―これはスターリンの書記長の職からの更迭を含んでいた―を公表することに強い態度で臨まなかった。そのことによってスターリンは書記長の座にとどまることができた、とされている。


 党の機構にたいする支配力を強めたスターリンは、基本的な優先事項として計画的な工業の振興を重視するトロツキーのテーゼに即した経済政策の決議を、党大会が採択するにまかせる余裕があった。政治局の多数派としては、大会終了後、この決議の執行に必要な措置がいっさい取られないよう図り、決議が空文となるのを見きわめればそれで充分だった。5年後、反対派のなかの左派のみならず右派までも壊滅させられたときになってはじめて、スターリンはトロツキーと左派の計画を実施する気になったのである。


 のちに、トロツキー本人も自分が好機を逸したことを悟った。彼は自伝にこう書いている。


 「もし私が、第12回党大会の前夜に、スターリンの官僚主義に対抗するレーニンートロツキー陣営という心構えで積極的に行動していたら、きっと勝利を収めていたにちがいない・・・・・1922年から23年のころにはまだ、ボリシェヴィズム亜流の・・・分派に正面攻撃をしかけて、支配的地位を奪い取ることが可能だった」。


 政治的な意志の力が足りなかったのである。「私が独自に行動すれば・・・・・党と国政の両面で、レーニンの後釜に座ろうとして個人的な戦いをしていると受けとられたことだろう。そのことを考えるだけで、私は身震いがした」スターリンはこの種の潔癖さとは無縁だったが、トロツキーの立場の潜在的な強さを見抜いていたから、この段階ではあえて真っ向から挑戦することは控え、いまだにトロツキーがクーデタを起こすのではないかとの不安を抱いている党指導者たちの危惧を利用するだけで満足した(3)。


 このようにトロツキーは党内闘争においては優柔不断であり、消極的であったということができる。これはソ連政治史やトロツキーの伝記などで詳しく描かれてあることなので、あまり立ちいらず、ここではトロツキーの心理に焦点を当てて考察してみたい。それと同時に、このような党内闘争の重大な時期にトロツキーはしばしば発熱などの体調不良に悩まされていた。これがスターリン達との戦いに重大な影響を及ぼしているということは明らかであった。しばしば、重要な会議や大会においてトロツキーは体調不良で欠席を余儀なくされている。その最大のものが、レーニンの死去によるその葬儀の欠席である。この体調不良についても心理分析と同時にある仮説を示したいと考えている。・・・逆にスターリンは、レーニンの後継者として名乗りを挙げる準備を着々と整えていた。


 ソ連経済は1923年夏に入って新たな危機にぶつかった。これにたいし、政府は操業を縮小し、最も効率の高い工場に生産を集中して立て直しを図るよう産業界に指令する措置を取った。失業率が上昇し、賃金の引き下げが実施されたため、ストライキの気運が高まり、地下にもぐった反対派グループは、この機会を利用しようとした。GPUによる検挙が行なわれ、党籍除名がそれにつづいた。このとき、ジェルジンスキー(GPU長官)を長とする中央委員会小委員会が、全党員は地下分派活動に関わっている者を知っていたら、かならずGPUにその者を告発すべしとの勧告を出すにおよんで、トロツキーはついに優柔不断に終止符をうち、戦う意志を固めて自分のテントから出てきた。


 トロツキーの決心を促した要因は、ほかに二つあった。一つは、3人組がトロツキーを軍事人民委員部の砦から追い出そうと画策して、革命軍事会議の規模を拡大したうえ、そこに内戦時代以来のトロツキーの旧敵、ヴォロシーロフとM.M,ラシェーヴィチを新加入させたことである。トロツキーが説明を求めたのにたいし、中央統制委員会委員長のクイブイシェフはこう言ってのけた。「われわれは、あなたと戦いをはじめる必要があると考えているのですが、われわれとしてはあなたをおおっぴらに敵呼ばわりすることができません。それで、こうした手段に頼らざるをえないのです」


 第二は、深刻化するドイツの危機だった。ルール占領と天井知らずのインフレがもたらしたこの危機は、ソ連の指導者たちに(コミンテルンの支配的地位にある立場から)ドイツ共産党にたいして権力奪取を試みるよう勧告するべきか否かの決断を突きつけた。指導者たちの意見は二つに分かれた。今回は、ジノヴィエフとブハーリンを味方につけたトロツキーは勧告することを強く主張した。スターリンとカール・ラデック(コミンテルンのドイツ問題専門家)は勧告しないことを、これまた強く主張した。この意見の対立が仇となって、事態はその後、手のつけられない混迷状態におちいる。一斉蜂起が始まったと信じて反乱の火の手をあげたハンブルクの共産党は流血のうちに鎮圧された。一方、最後の瞬間に蜂起が中止されたザクセンとチューリンゲンでは、国防軍が共産主義者と社会主義者の連立政権を追放した。バイエルンでヒトラーが失敗に終わったミュンヘン一揆を起こす2週間前、ドイツで共産主義革命の火の手があがるという、ロシア人の胸によみがえった希望は、これを最後として粉々に打ち砕かれ、あとに残ったのは苦々しい責任のなすりあいであった。


 1923年10月8日、こうした状況を背景として、トロツキーは中央委員会宛の公開書簡を発表した。そのなかで彼は、指導部の「経済政策のまぎれもない根本的な誤り」がこの夏の危機をもたらしたと糾弾し、党内部の状態が悪化しつつあるのは、スターリンの書記局が選挙を牛耳るために使った手段によって議論する自由が封殺されているからだと非難した。


 書記の位階制度こそが党の意見と党の決定をつくりだす機構だとでも思っているかのように、自分の意見を完全に捨て去った、あるいは少なくともそれを口に出すことをやめてしまった党職員が大量に生まれている。この党職員層の下には・・・・・党内の膨大な大衆層があり、彼らにとって、すべての決定は召喚または命令のかたちで下される。党の土台をなすこの大衆のうちには、尋常ならざる不満があり・・・・・党組織に大衆の影響力を行使する(党の各委員や書記の選挙を通じて)という方法でその不満を表明することができないため、それがひそかに積みかさなって、心理的なストレスとなる。


 政治局は、トロツキーの批判は産業および軍事面で無制限の権力を得ようとの個人的野心が動機だと反論した。しかし、10月15日に政治局に提出された一通の秘密声明文は、それほど簡単にあしらうわけにはいかなかった。その声明文には、内戦終結以来、反指導部の立場を貫いてきた主な党員46名の署名があった。まもなく外部に知られるところとなったこの「46人綱領」でも、批判の矛先はトロツキーと同じ二点だった。すなわち、深刻な経済危機を招く恐れのある「中央委員会の場当たり的で思慮の足りない政策決定」と「まったく容認できない党内体制」である。


 中央委員会(トロツキーはこのときも病気ということで欠席していた)は、これら二者からの攻撃をひとまとめに扱い、分派主義および党を分断させるとしてトロツキーと46人を公式に非難する一方で、民主主義の原則を再確認するとともに、その誠意の証として『プラウダ』に新しく欄を設けて改革案を練り上げるための全党的な討論の場にするとした。


 その議論の口火を切って、ジノヴィエフは11月7日付『プラウダ』にさわやかさを感じさせる虚心坦壊な一文を寄せた。「われわれにとって重大な問題は、ほとんどすべての重要案件があらかじめ決定済みで、上意下達のかたちをとる場合が多いということだ」。これをきっかけとして、各地の党組織で活発に議論がかわされ、それが『プラウダ』の紙面に反映するという状況が11月いっぱいつづいた。月末にかけて、応酬はしだいに激しくなっていった。スターリンが「プロレタリアートの戦闘部隊たる党が討論クラブに堕することのないようにすること」が必要だと主張すると、ジノヴィエフはこう断言した。「革命の利益!これこそ最高の法だ。革命家なら誰でも言う。『純粋民主主義』の『神聖な』原則など悪魔にくれてやる、と」


 団結しているという体裁をとりつくろうために、政治局は何とか議論に決着をつける決議案をまとめられないものかと、病後の回復期にあったトロツキーのアパートで長時間にわたって会談した。トロツキーが原案を拒絶すると、スターリンとカーメネフはその場で原案に手を入れ、トロツキーが満足するような改訂案の作成にとりかかった。党幹部の厳正な選挙、新しい党職員の登用、「官僚主義的な堕落」を抑止するために統制委員会が新たに努力するなどの改革を盛りこんだ長大な決議文ができあがった。その見返りとして、トロツキーは第10回党大会で可決された分派主義禁止の条項を受け入れることになった。政治局はこの決議を12月5日に発表し、ついに真の改革について合意がなったと大々的に宣言した。しかし、どちらの側も相手を信用していなかった。トロツキーは、一方では熱っぽく決議を支持しながら、12月8日の公開書簡では、この決議が実効性をもつのは40万の党員がそれを実効あるものにする場合のみだと主張した。官僚が「新路線に留意する、つまりそれを官僚主義的に無効にする」のにまかせておくだけでは充分ではない、と。


 何よりもまず、ひとことでも批判や異議をはさまれたり抗議にあったりすると、すぐに懲罰の剣を振りかざす輩を、指導的な地位から一掃しなければならない。「新路線」は、その第一歩として、これからは誰であろうと党を恐怖政治によって支配することができないと全員が感じられるようにすることから始めなければならない。


 トロツキーの書簡と「モスクワ党組織」の大衆集会で指導部の代表が野次り倒されるという出来事をきっかけに、以前の論争に輪をかけた激しさで議論が再燃した。トロツキーが若手党員に呼びかけ、古参のボリシェヴィキを堕落の淵から救おうではないかと訴えると、スターリンは、遅れて入党したトロツキーを古参ボリシェヴィキの一員だなどと考える間違いを犯す者はいないとやりかえした。彼はさらに、追い打ちの質問をして、トロツキーと反対派を守勢に立たせた。レーニンが自ら定めた規則、1921年春の第10回党大会でトロツキーも支持を表明した党内の分派活動を禁じた規則を棚上げせよと要求しているのか?イエスかノーか?


 指導部内の対立が表面化したこの決定的瞬間に、トロツキーは不意に身を引いてしまう。表向きの理由は病気の再発ということだが、要するに政治的な無力感におちいったのだろう。反対派を指導者不在の状態に追いやったまま、療養すると称してモスクワから黒海沿岸へ退却してしまったのである。スターリン、ジノヴィエフ、ブハーリンに率いられた政治局員たちは反対派の息の根を止めるための手を打った。出版を統制し、党規約を適用して、反対派と平党員との連絡を断ったのである。


 この問題を一挙に片づけようと、中央委員会は党協議会を召集することに決めた。選挙にもとつく党大会ではない。各地方支部を代表して協議会に出席するのは、選挙ではなく書記局によって任命される書記と委員である。スターリンはこの代議員の選任に上々の首尾をおさめ、投票権をもつ代議員128名のうち反対派に属する者はわずか3名だった。


 第13回党協議会は1924年1月に開かれた。今回はトロツキーの欠席をよいことに、スターリンは彼を直接攻撃し、六つの大きな誤りを列挙した。党を導くべき者は誰か、と彼は問いかけたー中央委員会か、それとも自分を超人だと思いこんでいて今日は中央委員会に賛成したかと思うと次の日は攻撃に転じるある人物か?スターリンは次のように断定した。


 これは分派を、とりわけトロツキーの分派を合法化しようという企てである・・・・無節操に民主主義を扇動する反対派・・・は、プチブル分子を野放しにしつつある・・・・・反対派の分派工作は、わが党の敵たちに格好の餌を与えているのである。


 46人綱領の署名者の一人、プレオブラジェンスキーが、「民族問題に関する覚書」のなかでレーニンがスターリンを批判していることを指摘すると、スターリンは彼に噛みついた。諸君はいま、レーニンを天才と讃えている、だがー


 質問させていただきたい。同志プレオブラジェンスキー、なぜきみはブレスト・リトフスク条約の問題で、あの「天才」に反対したのか。なぜきみはあのような危急存亡のときにあの「天才」を見捨てて、彼にそむいたのか。あのとき、きみはどこに、誰の陣営にいたのか。


 「きみは党を恐怖政治で支配している!」とプレオブラジェンスキーは怒鳴り返した。いや、とスターリンは言い返した。ただ、平党員の足並みを乱そうとする者に警告を発しているだけだ。スターリンはさらに言葉をついで、レーニンが起草した1921年決議のうち、分派主義にたいする処罰として党籍除名を規定した秘密条項を初めて公表した。また、機密文書を回覧する者にたいしては厳罰をもってのぞむと威嚇したが、これはあるいはレーニンの「遺書」とスターリンを書記長から更迭することを提案したその「追伸」を念頭においてのことだったかもしれない。スターリンの発言に応じて、会議はわずか3票の反対票を残して、トロツキーと四六人の反対派にたいする譴責処分を可決した。その罪状は、単に「分派行動、レーニン主義からの直接的離反のみならず、明白なプチブル的逸脱」であった。


 1924年1月の第13回党協議会は、ソ連共産党の歴史における重要な転機となっている。このときにいたるまでは、党協議会と党大会は、反対意見が出されるだけでなく、誰もがそれに注意深く耳を傾けるまともなものだった。反対意見が支持される場合も多く、代議員たちは何の恐れもなく自らの意思を表明したのである。通例、指導部が主張を通したとはいえ、それは指導部がその立場について弁明し、率直な討論を経て、過半数の賛成を勝ちえたうえでのことだった。議事進行が演出され、前もって決定がなされたのは、1924年の党協議会が最初であり、以後、それはあらゆる機会に踏襲される前例となった。スターリンは独自にではなく、政治局の多数派の一員として行動していたから、自分はトロツキーとの妥協を図るために努力したと主張することができた。だが、自ら書記局の組織のなかにつくりあげた政治機関のおかげで、行動する力、決議や威嚇を現実のものとする力をもっていたのは、スターリンだったのである。第13回党協議会は、その力が何者にも抗しがたいものとして示された最初の機会であり、この力が党の性格を変えてしまうかもしれないという懸念は、もはや懸念ではなく事実であることが初めて実感された場であった(4)。


 以上の共産党内の党内闘争は規模が巨大であり、非常に複雑怪奇であるが、もっとも根本的には「マルクス主義の解剖学」第4章 第2節「均等割り振り」における思考実験、の紡績工Aと紡績工Bの対立に帰着する。この場合は紡績工Bの立場であってもイデオロギー的には完全に紡績工Aと同じである、と考えればよい。つまりこれがスターリンの立場であり、この方向を徹底的に推し進めていくことになる。しかし、これは原理的に矛盾した方向である。そしてこの原理的矛盾はマルクス主義、共産主義の原理的矛盾であることは今まで検討してきたとおりである。そして、スターリンはこれが原理的矛盾であるなどとは絶対に認められないし、共産党内部に対しても、外部に対してもそれを徹底させなければならない。しかし、これはどう見ても矛盾であることは誰にでもわかることである。そのため話し合いや説得という手段だけでは到底、党内を統一することはできない。もう、そこには恐怖による支配、強制的手段による支配の道を進むしかないことになる。


 トロツキーは当然、紡績工Aの立場から出発し、革命直後の状況によっていったん紡績工Bの立場へと変わった。そして次第に紡績工Aの立場に回帰していったのである。そしてそれ以降この立場に固執していくことになる。しかし、革命の成果を継続させていくためには、もはやこの立場は理想的な観念論に傾斜していくしかないのである。


 そして、これらの党内闘争の過程を見てわかることは、スターリンは第10回党大会で決議された「分派禁止条項」の重要性を完全に理解しているということである。これが自分の権力獲得にとって要であり、これを上手く活用していくことが大きな武器になることを知悉しているのではないだろうか。先に「分派禁止の権力集中メカニズム」を検討したが、スターリンのやったことはこれよりもはるかに巧妙かつ確実な方法である。すでに党内の人事権を持っているスターリンは、選挙における絶対的な優位を獲得している。つまりスターリンにとっては、党の重要な論争は多ければ多いほど都合が良い。逆にいえば、適切な論争を惹起させるような行動を取ることが計算できるのである。いかにも党内民主主義の手続きに乗っ取った投票の結果によって、自分の反対派、論争相手を分派禁止によって潰していくことができるのである。そして、その分派禁止条項をその論争相手自身も支持していたということが、この状況がいかにスターリンに有利に働いていたかを知ることができるのである。まさにトロツキーはそのジレンマに陥った最大のボリシェヴィキだったのである。トロツキーは感じていたはずである。社会主義革命は上部構造の消滅、国家の死滅に向かうものであり、このような党組織の人事を司るような平凡な仕事が、このような力を獲得することなどありえないはずだった、ということを。このことはトロツキーの心理分析に繋がっていくことになる。


 この第13回党協議会の直後、1924年1月21日レーニンは死去した。この事態にスターリンは「上機嫌だった。レーニンが死んだあとの日々ほど嬉しそうなスターリンを見たことがない。彼は喜色満面で執務室を歩きまわっていた」という。レーニンが回復すれば自分にとっての危機となる。しかし、もうその心配は必要ないのである。そして、スターリンは逆にそのレーニンを神格化し、偶像崇拝の対象としていった。レーニンの遺体は防腐処理され、クレムリンの廟に安置されたのである。そして自分はそのレーニンの最大の弟子であるとみなし始めた。レーニンの思想を具現するのに必要な措置を取る意志と覚悟を持った唯一の人間である、と。


 レーニンが亡くなったとき、トロツキーは病気療養でグルジアにいた。葬儀に出たい旨をモスクワに問い合わせたところ、スターリンは「葬儀は土曜日に執り行われる。貴下は間に合うまい。政治局は、貴下の病状からして、むしろスフミに赴くべきであろう、と考える」。葬儀は実際には日曜日に行われた。トロツキーはスターリンが故意に欺いて、この重大な行事に自分が出席できないようにしたのだと確信していた。これはトロツキー支持者がスターリンを非難するときによく持ち出される話である。しかし、第三者的に考えれば、これはどう見てもトロツキーがおかしいのではないだろうか。この時の病状がどれくらいかということも考慮しなければならないが、葬儀に出たい、ということを問い合わせたということは、それは可能だったということだろう。そうであるならば、トロツキーは葬儀に間に合っても、間に合わなくてもモスクワに取って返すべきところではないだろうか。何しろほかならぬレーニンが死んだのである。そうすれば、自分を欺いたスターリンを逆に攻撃することもできただろう。この非常に不可解ともいえるトロツキーの政治上の消極性は、どのようなところからきているのだろうか?

 

 第9節 トロツキーの心理と党内闘争

 

 ここからはトロツキーの心理に焦点を当てて考察を進めていきたい。10月革命以前、ロシア社会民主労働党の草創期からトロツキーはひとつのグループ、セクトに縛られることなく自由に行動し、思考してきたところがある。レーニンのボリシェヴィキに対してもしばしば批判をして、特にプロレタリアートに対する前衛党の優位を主張することは、結局は党内の少数者の権力に、さらに個人の独裁につながると警告したこともある。そのようにメンシェヴィキ側の立場に立つことが多かったのであるが、1917年2月革命の後、ロシアに帰国したトロツキーは急速に急進的革命家としての本性が現れてくるようになる。レーニンに同調したトロツキーは、かつてのメンシェヴィキの仲間たちを見捨て、「歴史のごみ箱に行けばよい」とまで言ってのけた。このようにトロツキーは非常に振幅の大きい気質を持っているといえるだろう。


 10月革命後のトロツキーの思想的な変化は、「マルクス主義の解剖学」第8章で考察したレーニンの変化とかなり似たものであっただろう。しかし、元来メンシェヴィキ的な立場に立ったこともあり、ボリシェヴィキの中ではもっとも古典的なマルクス主義者であるトロツキーは、革命後の状況に対して、その思想との乖離をもっとも深刻に受け止めた1人ではなかっただろうか。それが、革命の敵に対するときは容赦なく、断固として行動できるのに、党内部の政敵に対する闘争には消極的になる理由のように思われる。マルクス主義の理論は、階級闘争の階級間の関係が中心であり、同じ階級同士の闘争などというものはまったく考慮されていない・・あるいは存在するはずもないように扱われている。しかし現実には、党内部での意見の相違、派閥間の闘争は次第に激しくなっていったのである。


 もっとも深刻なことは、革命後の社会の状況が革命以前の想定とかけ離れていることである。革命直後の非常に高揚した時期、そして内戦が始まりトロツキーは縦横無尽の活躍をするようになる。その中でスターリンなどとのトラブルが生じていたが、まったく迷いのない、革命遂行の道を突き進むことができた。白衛軍との戦いで革命は生き残るかどうかの瀬戸際だったのである。そして、内戦が勝利に終わり最大の危機が去ったとき、ボリシェヴィキの誰もが安堵しただろう。その中でトロツキーは、ふと我に帰ったとき革命以前の想定と現在の状況があまりにも違うことに「こんなはずではなかった・・・」と思ったに違いない。特に著しいのは、工業生産力の壊滅的な下落である。資本主義よりも社会主義、共産主義の方が生産力は飛躍的に伸びる―トロツキーは当然そう考えていた。その当時のロシアの過酷な条件でも、それはかなりの程度実現するのではないかと考えていたのではないだろうか。しかし、事態は想像を絶するほど破壊的であった。だからトロツキーも他のボリシェヴィキが考えたのと同じように、そのときのロシアの特殊な条件下で仕方のないものと考えただろう。だからこそ工業政策を重視し、世界革命を強力に推進しようとしたわけである。・・・ここからは推測になるが、トロツキーはこの時期に一抹の不安、僅かであっても根本的な揺らぎが生じてきたのではないだろうか。・・・マルクス主義そのものに対して、である。


 スターリンとの間の個人的な確執は早くから始まっていたことであるが、本質的なことはスターリンが官僚体制の頂点に立っていたということである。戦時共産主義期にトロツキーは赤軍の将校に積極的に帝政時代の将軍を登用した。ボリシェヴィキは経済の運営に帝政時代の官僚やブルジョワ専門家を使わざるをえなかった。繰り返しになるが、これはそのときの特殊な状況下で仕方のないものと考えられたのである。しかし、内戦が終わり本格的に社会主義社会に向かい社会を復興させようとしたとき、官僚体制は絶え間なく拡大していった。トロツキーは労働者反対派に反対であったにもかかわらず、この官僚主義に本来の道からの逸脱を見たのである。しかし、この官僚体制を最初に起動させたのはスターリンよりも、むしろトロツキーであった。これはどうしてもそうならざるをえないことは明白だったのである。そしてこれは、ごく自然な目で見れば内戦が終わってもその状況は同じなのである。そしてこのことは、ごく自然に考えればマルクス主義の理論、社会主義革命からプロレタリアート独裁、社会主義社会へと向かうことは歴史の必然である・・・このこと自体が疑わしくなってくる。古典的マルクス主義者トロツキーの心の奥にこの疑念がまったく生じなかった、とは到底思えないのである。そしてこれはまさに恐るべき疑念である。トロツキー自身を粉々に破壊してしまう疑念だからである。だからそれをトロツキーの意識は絶対に認めることはできない。この途方もないジレンマによって、トロツキーは身動きが出来なくなり、次第に無気力になっていったのではないだろうか。


 この重要な党内闘争の時期に、トロツキーはしばしば体調不良に見舞われた。これははっきりと指摘されることは少ないが、明らかに心因性の原因が考えられるのではないだろうか。スターリンからのさまざまな攻撃というストレスも原因のひとつであることは間違いないが、トロツキーの無気力はそれ以前から始まっていたのである。つまり、この病気の根本的な原因は内的な矛盾から来る強烈なストレスである。そのように考えたとき、はじめて納得できるような気がするのである。そして、スターリンとの闘争での決定的な局面、「レーニンの遺書」を全党に公開するというような時に強い態度で臨まなかったことは、官僚主義は克服不可能だということを―それなしではソ連はやっていけないということを・・・さらにスターリンを更迭して自分がその立場になることが、考えられなかったのではないだろうか。トロツキーのこの優柔不断にさまざまなことが原因として挙げられているが、説得力のあるものは少ないように思う。例えば、ユダヤ人であることを気にしてレーニンに代わる地位に就けなかったのだ、ということも多少あるにしても説得力としては弱いように思う。赤軍の指揮を執っていたときは、そのようなことはほとんど気にしなかったはずである。


 このトロツキーの心理は、続いて起こるスターリンとの「永続革命論」対「一国社会主義論」との論争に微妙な形で関わってくると思われる。

 

 

(3)アラン・ブロック 『ヒトラーとスターリン第1巻』 鈴木主税訳 草思社 2003年 220,221頁
 

(4)同上書 222~228頁

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<論文> スターリン主義の形成 2 


 『スターリン主義の形成』

 

 第1章 スターリンへの権力転化


 第4節 「1人の指導者」という問題

 

 ボリシェヴィキの革命以前の草創期から10月革命を経て権力を獲得し、内戦に勝利してその基盤を固めて統治するようになったあらゆる時期を通じて、ほとんどそれは1人の指導者によってなされている、ということに気付く。19世紀の終わりに創設されたマルクス主義秘密結社であるロシア社会民主労働党は、1903年の第二回党大会において、レーニン率いる急進派であるボリシェヴィキと、マルトフらを中心とする穏健派であるメンシェヴィキに分裂した。それ以来両者は決して統合されることはなかったのである。レーニンはボリシェヴィキの中でカリスマ的な指導力を発揮していた。当然これは強制的な圧力による指導ではなかった。ボリシェヴィキ党内部では他のメンバーの意見も取り入れ、中央集権的な性格を持ちながら党内民主主義は保たれていたのである。もちろんこの時は、スターリン的な統治をしようと思ってもまったく不可能なことであるだろう。


 レーニンを中心とした中央集権的な強力な組織となり、活動資金の調達には強盗や詐欺も辞さないというボリシェヴィキに対し、メンシェヴィキはより民主主義的であり、資金調達に強盗や詐欺という手段を使うことに断固として反対した。しかし、マルクス主義、唯物史観を支持するという点において両者は同じだったのである。メンシェヴィキは唯物史観の公式である「社会主義革命は資本主義が発達し、それが極点に達した時に勃発する」を守ろうとした。ロシアはまだその段階ではない・・このことからロシアの社会主義革命は時期尚早であり、ボリシェヴィキの蜂起に反対したのである。このことの是非が今までの論争の中心であったのである。しかし、「マルクス主義の解剖学」はまったく違う地平にこの問題を置くことができる。根本的に誤っているのはボリシェヴィキもメンシェヴィキもまったく変わりはない。メンシェヴィキの思う通りの革命が起きたとしても、それは「マルクス主義の解剖学 第9章 第3節 唯物史観からの逸脱」で検討したように結局はボリシェヴィキと同じ道をたどることになる。しかし、現実にはその可能性はほとんどない。メンシェヴィキの思うような資本主義の道をロシアが歩むことができれば、現代の先進資本主義国に近い状態になる可能性はあっただろう。これも極めて難しいifの問題であるが・・・


 つまり、社会主義革命のような社会的大事業を目指そうとすれば、1人あるいは少数の指導者、指導体制による中央集権的な強力な組織による行動でなければ、その可能性さえないということである。それは歴史上、どの段階であったとしてもまったく同じことである。高度な生産力はそのような階層構造による高い能率の機能を要請する。初期に大勢のプロレタリアートによる反乱が、革命のように見えたとしても、それが次に秩序ある社会構造を生みだすためには階層構造は必ず要請されるのである。現実の社会において、社会主義、共産主義社会を目指す組織は、それがどのようなものであれ中央集権的な組織になるのは必然なのである。ボリシェヴィキにおいてはレーニンという強固な信念を持った急進的マルクス主義者が指導者となった。それはこのイデオロギーが遂行という状態になる時、そのような必然性を持っているということである。遂行という状態が弱いか、ほとんどない場合は必ずしもこれには当てはまらない。逆にあるレベル以上の民主主義を保とうとすれば、イデオロギー遂行の組織を形成することはできない、形成されないということを意味している。ボリシェヴィキにおける民主主義は、党内におけるごく限られた範囲の民主主義であり、同じ考えを持ちながらイデオロギー遂行の見解の違いで別れたメンシェヴィキをその対象にすることはない。それ以外のブルジョワ政党など論外であり、広く民衆の意見をくみ上げるということも考えなかった。無知で迷信深い民衆はそのような対象にはなりえないのである。この問題は、以後も繰り返し検討されるだろう。


 ところが、これが大問題を含んでいる。このイデオロギー遂行を目指す組織は、その主観においては自分達こそ真の民主主義を目指しているのであり、資本主義社会の民主主義はブルジョワ民主主義であり、偽りの民主主義である。議会制民主主義などは茶番にすぎない―自分達はそれよりも何百万倍も民主的なのだ、という強固な信念を持っているのである。これはレーニンの言ったことであるが、ボリシェヴィキの他のメンバーも同じような考えであるだろう。これは現在のマルクス主義、共産主義者においても、多少なりとも共有するものであることは間違いない。20世紀初頭の議会制民主主義は、現在のそれよりも未発達だったことを考慮しても、これは信じ難い軽視である。この現実のイデオロギー遂行の形態と、それを遂行している主体の観念における宇宙的規模の矛盾をどう考えたらよいのだろうか。まさにこれこそが本論が解明してきたことなのである。資本主義社会と共産主義社会はまったく別個の宇宙のようなものである。その二つの宇宙は、革命という細い、通り抜けるのが困難な通路で繋がっている。これは現代の宇宙論で二つの別の宇宙がブラックホールの虫食い穴で繋がっている、というイメージに似ている。そこを通り抜けるのは非常な困難が伴う・・だから1人ないし少数の強力な指導による組織的活動でなければ不可能なのである。つまり、そのときだけ民主主義は抑圧されるか、ほとんどなくならざるをえない。しかし、そこを通り抜け共産主義の宇宙に出さえすれば、今までとは桁外れの民主主義が実現されるのである。そのことによって、革命時の民主主義の抑圧は、より高度な民主主義を実現するためにいくらでも正当化できるのである。共産主義の宇宙は、「能力の壁」を乗り越えることのできる全体的に発達した個人が住む宇宙なのである。それでは、革命の細い通路をいくら進んでも、その宇宙に出られなければどうなってしまうのだろうか?われわれには自明の事としてわかっている―その宇宙は存在しないということを。


 10月革命の蜂起は、よく知られているようにレーニンの強力なイニシアチブによって達成された。ボリシェヴィキの他のメンバーでさえ最初、蜂起は正気の沙汰とは思われなかったのである。スターリンは最初は蜂起には反対であったが、直ちにレーニン支持へと回った。しかし、レーニンは粘り強く他の党員を説得し、蜂起を実現できたのである。「今、蜂起して政権を握らなければ、歴史は決してわれわれを許さないだろう」実際、それは千載一遇のチャンスだったのである。話し合い、説得、多数決など党内民主主義を保ちながら、これだけの難事業を達成できたのはレーニンの偉大さの証明であるだろう。蜂起の成功によって、レーニンのカリスマ性、その権威は揺るぎないものとなった。しかし、逆にいえばこの時は、党内民主主義はまだ不可欠なものであった、とみなすこともできる。そして、冷静になって眺めてみると、このイデオロギー遂行の過程はボリシェヴィキができた時から、常に1人の指導者によってなされているということである。レーニンが発作で倒れるまで、そうでなかったことは一度もないのである。

 

 第5節 スターリンの心理、パーソナリティ 

 

 歴史の後知恵から、スターリンは最初から独裁的権力をひそかに狙っていた、と思われがちである。しかし、スターリンの伝記を読んでいくと、たしかに子供の頃から強圧的な指導者気質が表れていたが、それと人類史上稀に見る独裁者になれることとの間にははるかな隔たりがある。もし、スターリンが独裁的な力を持つ人間になりたければ、スターリンほどの才能と能力があれば、さまざまな分野が選択できただろう。しかし、スターリンはマルクス主義という遠大な理想を掲げたイデオロギーに惹かれていった。そこにある暴力肯定の理論に魅せられたということもあるだろうが、これが後に実現したような独裁的権力に結びつくことは、そのときは非常に考えにくいはずである。それとも、マルクス主義にそのような道が存在することを直感として感じていたのだろうか。手身近なところでトップになることに決して満足せず、ボリシェヴィキに入りレーニンのもとで世界的な革命を目指すことは、自己の能力を開放できる道だと考えたのだろう。


 このことは10月革命の蜂起の時、スターリンは最初は反対したという事実からもわかる。レーニンは最初から、蜂起を主張していたが支持者はほとんどいなかった。ラジンスキーはスターリンが最初に反対した理由は、蜂起が失敗した場合に備えて保険をかけておいたのだ、と主張している。たとえそうだとしても、スターリンが最初に蜂起に反対したという事実は重い。ロシア革命が世界革命に発展しなければ、失敗に終わる―しかし、世界革命の機はまだ熟してはいない、これがスターリンの判断であった。しかし、現実に権力を握ろうとすれば、それは蜂起するしかないことは明らかである。スターリンが独裁権力を目指そうとしたならば、最初から蜂起に賛成するはずである。反対することによって現実に蜂起には至らない、という可能性もあったのである。


 よくスターリンは現実主義者であるといわれている。しかし、レーニンもトロツキーも優れた現実主義者であったのである。そうでなければ、現実に革命を遂行し勝利することは決してできなかっただろう。だが、マルクス主義、共産主義イデオロギーの特異性を考えると、イデオロギーと現実主義の結合は非常に理解し、把握することの困難なものである。この問題については当然のごとく議論百出ということになる。筆者の見解では、レーニン、トロツキー、スターリンの間にイデオロギーに対する狂信という点で大きな差異はないように思える。違いがあるのは現実主義の質の差ではないだろうか。レーニンとトロツキーは現実主義においてかなり近く、スターリンはこの2人とは異なるものを持っているように思える。スターリンで特筆すべきは、イデオロギーと現実主義のたぐい稀な結合である。スターリンの場合、どこまでいっても絶対にこの結合が崩れることはないのである。トロツキーは革命時から内戦が勝利するまで、このイデオロギーと現実主義の結合は非常に強固なものであった。しかし、内戦が終了するとともに急速に揺らいできたように見える。レーニンでさえ、発作で倒れたあとはこの結合が崩れてきたように見えるのである。この2人に共通することは、現実主義とイデオロギーのバランスが保たれていた状態から、急速にイデオロギーの側に傾斜してくるということである。この問題も、心理的な側面を検討するうえで重要なポイントとなる。ただし、われわれの常識的な感覚からみた、バランスが保たれていれば良い状態で、バランスが崩れていれば悪い状態である、ということとはまったく違うということは留意しておかなくてはならない。


 革命時から内戦の期間を通じて、トロツキーは華々しい活躍を続けた。その雄弁な演説は党員や大衆を魅了した。ブレスト・リトフスク講和では代表を務め、軍事革命評議会議長で赤軍の創設、指揮を執った。交通人民委員で壊滅的な輸送の状態の改善に努めた。それに比べて、スターリンは目立たず、地味な存在であったといわれている。しかし、レーニンの信頼は厚く内戦の困難な地域へ派遣され、そこで優れた手腕を発揮している。他のボリシェヴィキ党員のスターリン観は、何を考えているのか分らず、影のような存在だったというものもある。心理的な側面は、客観的な資料によって確証することは難しいことである。どうしても推測によらざるをえないが、この時期のスターリンは、冷静な観察者だったのではないだろうか。社会主義革命は人類史上初めての出来事である。それがどのような経過をたどり、どのような状態になるかということは、イデオロギーの示した通りになっているか、なっていないか、ということを含めて非常に重要なことである。スターリンはそれを冷静に観察し、どのようなものか解釈し、評価していたのではないだろうか。それが他者からすると「何を考えているのか分らない」というように見えたのかもしれない。そして、極めて早い段階、1918年には労働者自主管理は不可能であり、資本家による経営は官僚体制に置き換えられていく、ということを見極めたのではないだろうか。そしてこれがイデオロギーと整合しなくても、革命後の現実であるということを直視できたのである。歴史を振返ると、レーニンとトロツキーの現実主義はイデオロギー遂行を起動する現実主義であった、といえる。スターリンの現実主義は、そのイデオロギー遂行が起動された状況を観察し、理解してからそれを継続していく現実主義だったといえるだろう。


 革命直後の労働者自主管理は完全な失敗に帰し、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキ指導部は、官僚による管理、ブルジョワ専門家の助けを借りなければならなくなった。特に官僚体制は日増しに拡大の一途をたどった。戦時共産主義の時期を通じて、それは何十倍、何百倍、というスケールで大きくなっていったのである。これはイデオロギーに相反することである。この官僚主義に対し、労働者反対派などから強烈な批判が生じてきた。当然、レーニンはこの批判を圧殺しなければならない。そのとき、官僚主義が生じてきた理由をイデオロギーの外部に求めることになる。労働者の数の少なさ、未熟さ、戦争が長く続いたことによる混乱、資本主義諸国の敵視、妨害、ロシアに続いて社会主義革命が他国に波及していかなかったこと、などなどがやむをえず官僚主義が生じ、成長してきた理由なのである。この理由をレーニンやトロツキーが言う時、それは本心に近い、と思われる。(深層心理においてどうなのかという問題があるが、それはまた後で検討する)ところが、この理由をスターリンが言う時、本心でない可能性が高い。つまり、スターリンは本心ではこの官僚主義がイデオロギーに内在するものである、と考えていたのではないだろうか。しかしそのことは、絶対に口外することはない。一言でも口にすれば、それは即、命取りになるだろう。スターリンは早い段階で、官僚主義はなくなることはなく、それは拡大し強化されていく一方であると正しく見極めていたのではないだろうか。


 ボリシェヴィキ幹部の中で、このことを見極めていたのはスターリンただ1人だったとすれば、スターリンはこの時すでにかなり優位に立っていたことになる。この官僚体制を自分の手足のような存在にすれば、絶大な力を獲得することができる。スターリンはそのことを理解したのである。スターリンのその後の行動は、まさにこの洞察にもとづいて継続されていくことになる。書記長になり、行政の情報を司り、官僚機構の人事を操作できるようになったのも、そのことを示しているように思える。そうなると、やはりスターリンは最初から独裁権力を狙っていたと考えたくなる。だが、革命後のそのような状況を、革命以前に予測することは不可能であったはずである。つまり、われわれがスターリンが最初から独裁権力の獲得を狙っていたのだ、とみなすとスターリンにあまりにも先見の明があり過ぎることになってしまうのである。


 スターリンがマルクス主義のイデオロギーに奉じ、ボリシェヴィキの地下活動に献身してきたという事実は否定しようがない。革命以前にスターリンが独裁権力に手が届くなどということは、夢のそのまた夢の中にも思い描くことはできなかっただろう。そのような状況で、歴史の片隅の中で消えていくことの方がはるかに考えられることである。スターリンは何度も逮捕され、シベリアの奥地に流刑にされた。特に最後の流刑は厳しく、長いものになった。ひとつ間違えば、生命も落としかねなかったのである。イデオロギー遂行を目指すというスターリンの核にあるものは、レーニンやトロツキーと異なる現実主義だとしても、それは変わりがなかったのである。


 戦時共産主義の中で、一枚岩の党を作ることがイデオロギー遂行にとって絶対必要であると考えられた。これはスターリンだけでなくボリシェヴィキ全体の共通認識であったのである。そのためには、官僚体制は一枚岩の党と一体でなければならず、そのどちらもひとつの権力によって統合されなければならない。その権力の中心になり、全体を統合し、制御し、運営していく力を持っているのは自分であると・・・スターリンは考えたのである。そしてこれは自信過剰の誇大妄想ではなく、客観的事実のようにスターリンは見ることができたのではないだろうか。そして事実、そのような超人的な統治能力を持っている人間をスターリン以外に見いだすことは、かなり難しいように思えるのである。つまり、イデオロギー遂行と自分が権力を握ることは、スターリンの中ではひとつに溶けあっていたのである。他者がそのことをどのように評価するかは別問題だとしても、スターリンの中では矛盾したことではなかったのである。

 

 第6節 スターリン権力の基盤の形成

 

 スターリンの権力の基盤の形成について、アラン・ブロック著『ヒトラーとスターリン』の中から重要な部分を引用し、それを検討していくことにする。


 (引用文の段落にA、B・・・と注をつけて、それを後で検討する)


 党を二分した1921年から22年の論争では、スターリンはまったく目立たない存在だった。戦時共産主義の時期は、レーニンの路線に従い、レーニンが急転換してネップを推進すると、それについていっただけである。ところが、スターリンほどこの展開から利益をこうむった者はいなかった。それは二つの理由による。まず長期的には、レーニンが「分派主義」を排斥したことで、スターリンは後年それを一歩進め、党を一枚岩の構造に変える大義名分を得た。これは、レーニンがチェーカーのテロルを認めたことでスターリンが後年、チェーカーを政府の一機関に昇格させる大義名分を得たのと同じである。


 A第二の理由からは、より直接的な結果が生じたが、当時は誰もそのことを予測しえなかった。もしレーニンが本気で反対派を根こそぎにして党を分派主義から守るつもりであれば、討論に勝って党大会で決議を通す以上のこと、つまりその目的で組織的に日々の党運営をすることが必要だった。政府と党の双方で自他ともに認める最高指導者であるレーニンには、とうていそのような仕事にあたる時間がない。また、他の政治局員のうち、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフの3人は、このような仕事にたいする志向も才能ももちあわせていない。しかし、5人目の政治局員であるスターリンにとって、この仕事は1917年以来こなしてきた役割をそのまま延長したものだった。彼はその役割を通じてレーニンの信頼を得たのである。それは、中央および党の役員と新旧の首都以外のところにいる党員との橋渡しをする役割であり、地方の党員にとっては、トロツキーやジノヴィエフやブハーリンのようにかつて国外へ亡命していた知識人よりも、スターリンのように自分たちと同じ地方出身者のほうが話しやすかった。


 スターリンがすでに得ていた行政上の役職についても同じことが言える。民族人民委員の仕事は、内戦の終結にともなって再び重要性を増した。その民族人民委員であるスターリンは、ウクライナ、カフカース、中央アジアのような地域の実力者たちが交渉相手としなければならない政治局および中央委員会の代表として、ロシア帝国の再建にも等しい事業にあたったのである。スターリンの二つ目の閣僚の地位は、彼が1919年初頭にウラルを視察したことに由来する。この視察でわかったことは、ヴャートカのソヴィエト公務員4766名のほとんど全部がかつてのロシア帝国官吏であること、行政府は汚職がはびこって非能率きわまること、中央の指令が実施されているかどうかを中央政府がたしかめるための有効な通信手段がないことであった。スターリンは労働者と農民の混成チームを実働部隊とする「統制監査委員会」の創設を提案した。レーニンは、この計画が気に入った。こうして、スターリンは労農監督人民委員部すなわちラプクリンをあずかる人民委員に任命されたのである。


 1920年10月、ラプクリンの職員を前にして演説し、スターリンはやがて再三にわたって繰りかえすテーマを打ち出した。


 官僚制度は粉砕されたが、官僚は残っている。いまや自らをソヴィエトの公吏として装い、彼らは国家機関に入りこんでいる。そして、権力をもったばかりの労働者や農民の経験不足につけこみ、古くさい陰謀をめぐらして国家の資産を纂奪し、かつてのブルジョワ的な考え方を導入しようとしているのである。


 政府の役人の新しい世代を教育する端緒は開かれたものの、ラブクリンは解決策とはなりえなかった。真の問題は、はるかに深いところにあった。党が政権を握ったあとの党の役割について、レーニンが真剣に考えはじめたのは、10月革命が終わってからのことだった。1920年に書いた『左翼小児病』のなかで、彼はプロレタリアート独裁を次のように位置づけていた。


 旧社会の権力と伝統・・・・・何百万、何千万という人びとの習慣の力にたいするねばり強い戦いだ。闘争のなかで鍛えられた鋼鉄のごとき党なくしては、この階級に属するすべての誠実な人びとの信頼を勝ちえた党なくしては、大衆の動向を見守り、これに影響をおよぼす力のある党なくしては、そのような闘争を首尾よく成しとげることは不可能である。 


 レーニンは原則については明確な考えをもっていたが、党が現実にどのようなかたちでこの役割をはたしていくかということや、非合法政党の時代が終わって政権党となった以上、当然必要とされる変革がいかなるものであるかについては、正しく認識しているというにはほど遠かった。


 B答は、ソ連における形式上の権力配分と実質上の権力配分との関係にあった。新しいロシア国家は、憲法上は「ソヴィエト共和国」を謳っていた。その政府である人民委員会議は、形式的には全ロシア・ソヴィエト大会の執行機関であり、人民委員は一つまたは複数の政府省庁を管掌する。ところが、実権はひきつづき、1918年の憲法でも1924年の憲法でもふれられていない団体である共産党の手に握られていた。政策を決定するのは、ソヴィエト大会でもなければ人民委員会議でもなかった。人民委員会議は憲法に規定されるようなソヴィエト大会の執行機関ではなく、共産党中央委員会および政治局の執行機関でしかなかった。政策の決定はここで行なわれ、それにたずさわる人びとは人民委員会議の一員ではあっても、ここでは共産党幹部という別の資格で参集していたのである。政策が決定されると、彼らは人民委員の立場に戻り、党の政策を実施するべく国の機関、すなわち自らが責任者である政府の各部門を通じて命令を発するのである。


 だが、その政策を現実に実施するのは誰か。革命の5年後、レーニンは第4回コミンテルン大会で演説してこう語る。


 皇帝のもとから、そしてブルジョワ社会から、われわれのところに移ってきた旧官吏が何十万とおり、ときには意識的に、ときには無意識のうちに、われわれにたいして不利益を働いている。この機構を改善し、改革して、新しい力を注入するためには、多年にわたる労苦を必要とするだろう。


 C国の行政や、いまでは国有化されている各産業の運営を党が担当することはとうてい無理だった。党員にはそれに必要な専門知識が欠けていた。新政権としては、訓練された新しい世代が登場するまで、革命以前の時代からの生き残りである行政官や経営者に(赤軍の場合と同様)頼らざるをえなかった。この時期の党の仕事は、国の公的機関を活性化させるために監督し、あるいは活性化を図るための役割をはたすことであった。党はすでに、政治委員のネットワークを通じて軍を統制し、村議会から「最高ソヴィエト」にいたる全ソヴィエトの選挙と討論を指導してきた。1920年代に入ると、党はさらに影響力を強めて、政府組織の全階層に浸透し、連邦内の各共和国(ウクライナ共和国など)の行政府、ペトログラードやモスクワのような大都市の官庁と国営産業や労働組合の管理部門にまで力をおよぼしていく。


 Dそのような政策を実施するには、党書記局による系統的かつ綿密な作業が必要であり、まずは党組織そのものを根底から再編成することが必要だった。その最初の試みがなされたのは1919年3月のことで、わずか15名の部下を使い、すべてを自分の頭ひとつにおさめて党の総務を担当していたヤーコフ・スヴェルドロフの死去にともなうものだった。政策を決定する政治局が公式に認知され、その執行と党組織をつかさどる組織局が設置されたのはこのときである。しかし、スヴェルドロフが死去したのちに行なわれた組織の整備は不充分なものであることがわかり、同時に、中央の各部署の業務に忙殺されずにすむよう、仕事を組織化する必要性がますます明らかになった。第10回党大会(1921年3月)ののち、スターリンが各書記の仕事を統轄する責任者となったのは当然のなりゆきだった。彼はレーニンが安心して仕事をまかせられる人間であり、中央委員のなかでただ一人、党の人事を担当する組織局の一員であるとともに、党の政策決定機関たる政治局の一員でもあったからだ。正式の任命は第11回党大会のあとの1922年4月4日に行なわれたが、これはスターリンがすでに行使していた事実上の権限を追認したにすぎず、新聞報道も型どおりの扱いをしただけだった。しかし振りかえってみれば、これは注目すべき事実である。何しろ、スターリンが近代国家では他に例を見ないほど恣意的な個人的権力をともなう地位を築きあげたのは党の書記長としてであり、このあと1941年5月(スターリンはドイツ軍の侵入を6週間後に控えたこのとき、自ら人民委員会議議長に就任した)まで他の役職にはついていないのである。ただしスターリン自身、当時はこの新しい職務をどこまで発展させうるものか、わかっていなかったと見てほぼ間違いない。


 レーニンをはじめとする他の政治局員たちは、なぜこれほど大きな権力が一人の人間に集中することを許したのか。当時、スターリンの野心がどれほどのものかを知っていた者は一人もおらず、彼が次々と役職を兼務していくことを、誰もそのような観点からはとらえていなかった。なすべき仕事があり、他の幹部たちは気乗りがせず、スターリンは引き受ける気があるというぐあいで、レーニンやカーメネフやジノヴィエフ、ときにはトロツキーまでが喜んでスターリンに仕事を差し出したのである。その危険性を前もって見抜くことができたのではないかと思われる唯一の人間はレーニンだが、通常は鋭いレーニンの政治的感性は、これは大至急にやらなければならないと思う仕事を担当できる人材を探す必要が先に立っていたこと、また党幹部のなかでそれらの仕事をまかせられる人間がスターリンしかいないという気持ちがあったために、鈍らされていた。元党書記のエヴゲー二ー・プレオブラジェンスキーが第11回党大会(1922年三月)で、スターリンであれ他の誰であれ、書記長という党内の責務と二つの委員部を統括する仕事を兼ねることがどうしてできるのかと質問したのにたいし、レーニンは次のように答えた。


 この点で同罪でない者がわれわれのなかにいるだろうか。同時にいくつかの職を兼ねたことのない者がいるだろうか。また、そうせざる をえなかったのではないか。民族人民委員部の現状を維持しながら、トルキスタンやカフカースなどの問題を解決するために、いまわれわれはどうすればよいのか……われわれに必要なのは、どの民族の代表でも気軽に会って問題をくわしく話せる人間である。そういう人間をどこで見つけられるだろう。プレオブラジェンスキーにしても、スターリン以外の候補者の名前をあげることはできないはずだ。ラプクリンについても同じことが言える。じつに大きな仕事だ。だが、監察の職務をこなすためには、その長として権威ある人物を据えなければならない。さもないと、われわれはけちな陰謀の泥沼にはまって溺れてしまうだろう。


 レーニンには、スターリンの欠点が見えていないわけではなかった。トロツキーによれば、書記長候補としてスターリンの名前が最初にあがったとき、レーニンは「あのコックは胡椒のきいた料理しかつくらないだろう」ともらしたという。しかし、レーニンは対立候補の名前をあげることはしなかった。以前からスターリンの「実務」能力に感心していたし、スターリンを御していく自信もあった。レーニンが自分の地位を脅かされる恐れがあると感じていなかったのはたしかである―スターリンが書記長に就任した翌月の1922年5月に最初の発作を起こして、仕事ができなくなるまでは。


 スヴェルドロフの死去からスターリンが後任となるまでの3年間に、多くのことがすでに行なわれていた。書記局の人員は30名だったのが、スターリンが引き継ぐ前年には600名までふくれあがり、業務は区分けされて、それぞれ個別の部や課が担当していた。書記長に就任したスターリンは、ツァリーツィンでしたのと同じように、自分の周囲に腹心の部下を集めた。(途中省略)


 スターリンは党機構をつくったわけではなかったが、それを組織するという仕事をやってのけた。1923年には、組織局と書記局は48万5000人の党員の詳細を把握し、信頼のおける党員を党組織内のあらゆる部署につかせることができるようになった。スターリンはもちろんのこと、レーニンをはじめとする共産党の指導者たちまでが、ヒトラーと同じように、首脳陣は下にたいして独裁的に振る舞うべきだと考え、下部組織の人びとは上からの指示に従って「正しい方針」を実行すべきだと信じていた。スターリンは、党を運営する仕組みをつくったのは自分だと自負していた。「幹部がすべてを決める」という言葉は、スターリンの気に入りの決まり文句になった。「正しい方針が決定されたあと、その方針が成功するかどうかは組織の働きと・・・・・人民が正しい選択をするかどうかにかかっている」


 問題は残ったが、スターリンの努力のおかげで点検された。これは党が成功するうえでの大きな貢献となったが、これによってスターリンが最大の利益をこうむったことも事実だった。実際に、数千人もの党幹部はモスクワとペトログラードを含めて地方ごとに選出されなくなり、地方支部の運営の責任は、地方の党員の手から奪われた。地方支部の人事は中央からの「推薦」によって行なわれ、一体化した官僚機構に組み込まれた地方の党員の人事と昇進は、党書記長の手にゆだねられた。「アパラーチキ」と呼ばれるこれらの地方党員は、その大半が内戦を生きのびたしたたかな新世代に属していて(フルシチョフなどもその一人である)、党内での栄達を目指して独自の集団を形成し、既得権と特権を守ることに専念した。まもなく、アパラーチキは現実を理解するようになった。自分たちの栄達はスターリンに気に入られることだけではなく、上層部で強大になりつつある彼の権力によっても左右されるということである。また、スターリンのほうでも、自分の地位がアパラーチキとの相互依存関係にあることをすぐさま理解し、今後展開される権力闘争において、アパラーチキとの協力が自分にとって最大の武器になることに気がついた。


 政治局の人間で、スターリン以上に、モスクワやペトログラードはもちろんのこと、シペリア、ウクライナ、カフカースの事情に明るい人物はいなかった。スターリン以上に新世代の党員の多くと顔見知りの人間はいなかった。スターリンの一存で、これらの党貝が党大会や委員会の代表に「選出」されるのを保証することができたし、中央委員の候補として推薦することもできた。ローマ史の用語を借りれば、スターリンほど多くの隷属平民を従えた人間はいなかった。その並み外れた記憶力のおかげで、スターリンは人の名前を実によく覚えていた。しかも、スターリンは党首脳部の政敵の誰にもまして、党の書記たちが抵抗なく一体感を覚えることのできる人物だった。彼は一度も外国に亡命することなく、国内で生まれ育った人間であり、書記たちがかかえる問題と考え方を理解できる、彼らと同じ「実務家」であって、慇懃無礼に彼らの庇護者のような顔をする知識人ではなかったのである。スターリンは同僚からすれば厄介な人間だったが、問題をかかえて地方からやってきた党員にたいしては、かならず時間を割いて辛抱強く彼らの話を聞き、助言を与えて帰すのがつねで、そのたびにまた一人隷属平民が増えるのであった。


 レーニンが1922年の最初の発作から回復しかけたころには、スターリンはすでに自らの権力の基盤をつくりあげていた。そこには目を見張るようなものは何もなかった。トロツキーは派手な身振りが好きだった(そのために、階級的な対立のバランスをとって漁夫の利を占めようとするボナパルティズムの疑いと恐れをかきたてた)から、いかにもこの冴えない凡人に似つかわしいとたかをくくっていた。スターリンのうちに凡庸さしか見ていなかったのである。だが、この基盤は有効だった。レーニンの発病で新たに開けた展望のなかで、スターリンは今後、後継者争いの決着がつけられる舞台となるべき中央の政策決定機関―党大会、中央委員会および政治局―にたいし、自分が全国の党組織内に築き上げた影響力を集中的に働かせることのできる立場についていた(2)。


 AとBは密接に関わっている。分派禁止を徹底的に遂行するためには、それを討論で勝つだけでなく、日常的な党の運営をその目的で遂行しなければならない。ここで問題にされるのはさまざまなレベルでの民主主義、市民社会における民主的な活動などである。本章 第4節「1人の指導者」という問題、において検討されてきた民主主義の問題は、ボリシェヴィキは外部にその民主主義をほとんど認めていない、ということである。革命後、これは強制力で徹底的に遂行されてきた。市民社会の活動は、秘密警察、官僚などの圧迫によって縮小の一途をたどってきた。その中には例外もあったが、全体としては衰退せざるをえなかったのである。民主主義破壊の最大の象徴ともいえる憲法制定会議の強制解散はよく知られていることである。クロンシュタット蜂起の弾圧は民主化要求への断固とした拒否として最大のものであろう。政権党となり、絶大な権力を握ったボリシェヴィキは、当然のように上位下達式の指令系統を構築していった。


 ここでさらに重大な事態が生じてきている。それまで党内民主主義はまがりなりにも存在していたのである。しかし、分派禁止によって党内民主主義も窒息していくことになった。これは「分派禁止の権力集中メカニズム」として考察されてきたことである。つまり、党外における民主主義は破壊され、圧迫され衰退の一途をたどる。そして、党内における民主主義も死滅していくことになるのである。その状態を、党組織は1日の休みもなく遂行し続けなければならない。当然、それは強力な効率の高い組織運営が必須のものとなるだろう。その組織運営を一手に任されたのがスターリンだったのである。そして、スターリン自身もそれがどれくらい重大な意味をもっているかということを熟知していたのではないだろうか。


 以上の問題を、ひとつの具体例に沿って考察してみよう。労働者反対派は分派禁止によって組織的活動を禁止させられた。その主張は産業の労働者自主管理、労働者の政策への参画など、これこそマルクス主義に沿った主張でありながら、党の方針と合わないという理由で潰されたのである。しかし、これは党内に限ったことではないのである。例えば、ボリシェヴィキ以外のマルクス主義者が労働者反対派と同じような綱領を掲げて集会を開く、組織をつくるということも、広大なロシア領土内のあらゆる地点において許すわけにはいかない、ということを意味している。実際にそれは不可能なことであるけれど、それを実現すべく最大の努力が払われるのである。そのような活動を監視し、見つけた場合は警告、逮捕といった弾圧を行わなければならない。その活動の中心となるのは当然、秘密警察であり、それはロシア領土内にくまなく網の目のように張り巡らされていくことになるのである。


 B段落の内容は極めて重要であるので、詳しく論じていくことにしたい。なぜ、このようなまわりくどい組織構造になっているのだろうか。ボリシェヴィキの目的が単にロシアの専制体制を復興させることならば、これは理解に苦しむところである。これは明らかに、ソヴィエトという民主主義の仮の衣装を着ることにある。実質的には、共産党の独裁的な支配なのである。そしてその共産党は、憲法によって何ら規定されてはいない。その憲法を自分達が立法できる立場でありながら―である。これは実に変ちくりんな話である。革命以前は非合法な政党であったボリシェヴィキは、政権党についたならば当然、合法的な存在になるはずである。これらの事に目を向けず、単に独裁的な支配を遂行しているという面にだけ目を向ければ、ボリシェヴィキの目的は単にロシアの専制体制を復興させることだと思われるだろう。これが歴史学におけるひとつの傾向を示している。このイデオロギーは特異で難解なために、単なる歴史学の範疇を大きく超えてしまうのである。


 これらの特異性は、イデオロギーによって説明がつくのである。つまり、ボリシェヴィキ―共産党は、合法、非合法あるいは憲法を超越した存在なのである。そもそも憲法などというものはブルジョワ社会の遺物のようなものである。しかし、その過渡期においては憲法も必要な場合もある。共産党における憲法というものはそのようなものである。共産党は革命を遂行し、資本主義社会から社会主義社会、共産主義社会へと人類を導く。以前にも示した譬えのように、資本主義社会という宇宙から共産主義社会というまったく別の宇宙へ細い通路を通って進むものであり、その細い通路が革命の過渡期である。その重大な過渡期を乗り越えていくために、共産党は無制限の権力を行使できなければならない。ブルジョワ社会の法などというものに拘束されてはならないのである。そして、その過渡期をくぐり抜け、共産主義社会の宇宙に到達した暁には共産党はその役目を終え消滅するのである。これはまさに、救済宗教における論理と同型である。キリスト教は神の国が到来すれば、その役目を終え消滅する。仏教は仏の世界が実現したならば、その役目を終えて消滅するのである。共産党が憲法に触れられていないというのは、そのようなイデオロギー上の理由によるものである。もちろんこれは、ボリシェヴィキ―共産党の内側の論理であり、外側のある立場からみた場合、これはまったく信じ難い権力の行使を可能にする狂気の論理であろう。*1


 以上の統治の形態、その遂行を解釈するとき、土壌と種子、ロシア的伝統とイデオロギー、どちらがその主要要因かを考えてみれば、もはや明らかなように種子、すなわちイデオロギーであり、常に土壌はその間接要因なのである。直接にはそれは種子の遺伝子、DNAに内在されていたものが発芽し、成長していくことによって現実化したのである。共産党にとってイデオロギーは至上の目的である。無制限の権力はそのイデオロギーの目的にとって必要なものであり、権力それ自体が目的ではないのである。権力それ自体は目的ではない―このことは肝に銘じておかなくてはならないことなのである。しかし、このイデオロギー遂行とはどのような状態をもってそういえるのか?「イデオロギー遂行決定論」のイデオロギー遂行とは何か、という定義問題と関わってくるのである。この定義問題は、後ほど詳しく検討されることになる。


 C共産党は帝政時代の官吏、経営者、テクノクラートなどを登用せざるをえなかった。しかしこれは、当初の予定ではなく、致し方なくそうしたということなのである。これらブルジョワ専門家たちは、革命後の新しい世代が登場して、それに取って代わられるまでの暫定的な役割を充てられているにすぎない。後のスターリン時代になって、これらの専門家たちは弾圧にさらされることになるだろう。これも共産党が単なる専制体制を復興させることではない、ということを明瞭に示している。専制体制を復興させるだけならば、このようなことは非常な無駄であり、損失であるだろう。これもすべてイデオロギー遂行であるといえる。さらに付け加えると、「ソ連=国家資本主義」論者の主張するようなイデオロギーではないことも明らかである。以前の繰り返しになるが、それがどのような形のものであれ「資本主義」であるならば、生産力向上に欠くことの出来ないテクノクラートを弾圧するなど絶対にありえないことである。


 Dこのようにスターリンが党を組織化する実務に精力を傾けたということは、その重要性をよく認識していたからだと考えるのが自然である。スターリンの現実主義は、イデオロギーの額面上の教義と齟齬を生じたとしても矛盾として分裂することはなかったのである。このことがレーニン、トロツキーをはじめとするボリシェヴィキ幹部には想像もできなかったのである。特にトロツキーはこのようなことに精を出すスターリンを見て、イデオロギーとは無関係な雑務が好きな凡人とみなしていたようである。これはトロツキーのパーソナリティからみて当然のことのように思われるが、イソップ童話の「アリとキリギリス」のような話である。このイデオロギーを信奉する者にとって、上部構造の消滅、国家の死滅は歴史上の必然の過程である。このような党の組織は一時的なものであり、イデオロギーの目的が達成されれば無用なものとなる。特に重要視するようなものではないことは当然だったといえよう。これがスターリンに途方もない権力集中を許した最大の原因である。つまり、スターリンが権力を独占していったのは、このイデオロギーの原理的矛盾に原因があったのである。このことを見ずに、スターリンが官僚主義を利用し革命を裏切ったかのようにみなすのは滑稽である。問題は裏切ったかどうか、ということよりもはるかに複雑で深いところにある。


 *1この「共産党は憲法、法を超越した存在である」これは共産主義、共産党の基底にあるDNAといってもよいものである。本質的に共産党は法の拘束を受けない―国内法においてはもちろんだが、国際法においてもそれは全く同様に当てはまる。しかし、現実問題として国際法を受け入れなければならない側面は非常に多いだろう。しかしそれは状況がそのようなものとしてある段階ではやむを得ずそうしているに過ぎない。これはほとんど考えられていない重要な問題なので、ぜひ多くの人に考えてもらいたいのである。これは現代の中国、北朝鮮の本質的な問題である。つまり現代日本にとっても非常に重要な問題だといえるだろう。これは全てマルクス主義、共産主義イデオロギーからその理由を解明できるのである。すでに説明されてきたことだが、たとえ資本主義市場経済を導入し、国際貿易の中に組み込まれていても、イデオロギー超有機体の政治権力はその全体主義的性格を一時的に後退させているに過ぎない。軍事力増強、その領土の拡張主義を見ればそのことがよくわかるのである。また、中国共産党の幹部は「中共による世界支配」を明言している。この中国に同調するような国内左翼勢力は日本を全体主義の中に巻き込もうとする最も危険極まりない存在である。マルクス主義に対する絶対的論理攻撃は必須なのではないだろうか。

 

 

(2)アラン・ブロック 『ヒトラーとスターリン第1巻』 鈴木主税訳 草思社 2003年 191頁~203頁


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<論文> スターリン主義の形成 1 


 『スターリン主義の形成』

 左翼全体主義の母型であるスターリン主義の形成を考察するのがここでの目的である。 20世紀最大級の謎であり、最も重要な出来事の1つであったソ連体制形成、スターリン体制形成は非常な難問である。 「マルクス主義の解剖学」で得られた知見をスターリン体制形成の分析に適用し、解釈する。これは「マルクス主義の解剖学」の続編であり、用語、概念などもそのまま引き継いで使用するが、章立は第1章から新しくする。歴史の時系列は「マルクス主義の解剖学」第8章の続きとし、第9章、第10章と関連付けて考察される。そこから解釈のさらに難しい現代中国共産主義の問題を考察する。

 第1章 スターリンへの権力転化

 第1節 最大難問へ

 

 ソ連体制、スターリン政治体制の成立、スターリン主義の形成は20世紀史、というより人類史上最大級の謎であり難問である。このことに異論を差し挟む人はいないだろう。これが難問であるのは、その問題設定が極めて複雑であるばかりでなく、何をもってしてその答えとなるのかさえよく分らないところにある。その基本的で常識的な問題設定は次のようなものであるだろう。「社会主義、共産主義の完全な人間の平等を目指した社会が、なぜ今だかつてないような個人独裁の社会に至ってしまったのか」ということである。平等の追求が、不平等の極致へと結果してしまったのはなぜなのか、ということである。単純に考えれば、平等の追求が社会構成員の総意ならば、個人が権力を集中的に握ろうとすれば潰されることになるのは必然だからである。しかし、ソ連の現実はまったくそうではなかったのである。


 ここでの社会主義、共産主義とはいうまでもなくマルクス思想、マルクス主義でいうところのものである。マルクス以前にも共産主義思想は多く存在していた。しかし、それらは資本主義社会の高度な生産力を前提としたものではなかったのである。一般的に「共産主義」という時、それはほとんどマルクス主義でいうところの「共産主義」である。それは人間の幸福を考える時、物質的な富は相当程度必要なものであるという総意があるためと思われる。資本主義はその物質的な富を生みだすことに成功した。しかし、それは資本家とプロレタリアートという極めて大きな不平等を生みだすことになったのである。この不平等をラディカルに是正しようというのがマルクス主義であり、共産主義である。しかしここでは、資本主義が生み出した富そのものは否定されないばかりでなく、必要なものであるとみなされている。つまり、重要なのは「平等」だけでなく「富」あるいは「生産力」も同程度に重要視されている。生産力の乏しい貧困の「平等」では駄目なのである。この世界を実現するために、資本主義社会の中で社会主義革命、共産主義革命が起きなければならない。そのことによって、理想的な平等と富の満たされた共産主義社会に至るだろう。これがイデオロギーとしての「種子」である。


 スターリン政治体制の成立、スターリン主義の形成について考察するとき、一般的によく使われる譬えがある。それが種子と土壌の譬えである。イデオロギーとしての種子がロシアの土壌に撒かれ、それが土壌の状態によって発芽して(革命の勃発)成長していく。そしてやがて大きな大輪の花を咲かせるのである。それがスターリン主義という花である。しかしそれは、その種子から成長して咲くだろうと想定された花(共産主義社会)とは似ても似つかない猛毒を持った食肉植物の花であった―ということである。どうしてこのようなことになってしまったのか。その根本的な理由はどこにあるのだろうか?その理由を考える時、一般的に大きく二つの方向に分かれる。それぞれを少し詳しく検討してみよう。


 Aの立場、 それは本質的に種子そのものが、最初からスターリン主義という花を咲かせるような遺伝子、DNAを持っていたからである。つまり、思想、理論、イデオロギーのどこかに問題があり、想定された花を咲かせるようにはなってはいない。その想定そのものが誤りであり、幻想だったのである。それ以外の要素は、本質的な問題ではなく、副次的なものでしかない。土壌の状態が本来、その種子が発芽し成長していくのに適していなかったかもしれないが、それはスターリン主義という花が咲いたことに対して、それほど大きな意味を持っているわけではない。


 Bの立場、 種子そのものはまったく問題はない。それはスターリン主義という花を咲かせるような遺伝子、DNAを持っていたわけではない。しかし、その種子が撒かれたロシアという土壌は、あまりにも異質なものであった。その種子の発芽、成長にとって適していないばかりでなく、その本来の遺伝子さえねじ曲げてしまうほどのものであった。さらに、発芽し成長していく過程で気象条件が異常なものであった。(第1次世界大戦、内戦、干渉戦争など)そのことによって、本来咲くであろう花とはまったく異質の花が咲くように成長してしまったのである。スターリン主義に至ったのは、土壌や気象条件にその根本的な理由が求められなければならない。


 このAとBを両極として、この間の中間的、あるいは折衷的なさまざまなバリエーションが存在する。例えば、「種子そのものは基本的には正しいが、細部にさまざまな問題があった。経済への過剰な重視、歴史法則決定論、個人の主体性の軽視などなど・・これらの問題と、当時のロシアの状況、つまり土壌の状態が極めて悪かったということとの相乗効果によって独裁体制の素地が作られ、それが結果的にスターリンというマルクス主義を裏切る野心家によって、個人独裁の体制に至ってしまったということである。もし、レーニンが長生きすることができれば、トロツキーが政権を握っていればまったく違った展開になっていただろう」「種子、すなわちイデオロギーの基本となる理念は、誰もが納得する正しいものであるだろう。しかし、それを実現しようとする方法論は非常に問題がある。革命という暴力的手段によっては、そのような理想的な社会は実現できない。ロシアの土壌ということもひとつの要因であるが、このような暴力革命が起きれば、どこでも同じようなことになるだろう。ただし、スターリン主義に至ったのは、多くの偶然が重なったということもある。これはある程度の蓋然性があった、ということであり、その悪い方に転がってしまったといえるだろう」「イデオロギーの基本となる理念は、残念ながら実現不可能なものである。さらにその方法論は決定的に誤りである。そのときのロシアの状況はたしかに悪かったかもしれないが、このイデオロギーにとってはむしろその方が都合が良かったという面もある。ただし、この種子から必然的にスターリン主義に至ったということは言い過ぎであろう。そこにはいくつかの偶然の要素も作用しているからである。ただ、このイデオロギーを信奉する党においては、スターリンがいなければ、また同じようなことを別の人間がするという可能性は大いにありえる。つまり、これは高い蓋然性があったといえるのではないだろうか」。


 これ以外にもさまざまな見解がある。大局的に見れば、Aの立場―イデオロギーを主要な要因とみなすか、Bの立場―ロシアの客観的状況を主要な要因とみなすか、に分かれるわけである。ここで面白いのは、パイプスのように反共主義の側にいても必ずしもAの立場を取るとは限らないということだ。もう1人の代表的なアメリカの歴史家マーティン・メイリアは完全にAの立場をとっている。現在ではスターリン主義をマルクス主義の帰結だと認めるマルクス主義者はほとんどいないだろうから、マルクス主義者、共産主義者、唯物史観支持者は当然Bの立場に立つことになろう。この議論の中で指摘しておきたいことは、イデオロギー(種子)にある程度以上の要因を認めるならば、「重要なのは種子か、土壌か」という論争は不毛だということである。現実の植物の花が咲いた要因を「重要なのは種子か、土壌か」と言って議論する人はいない。どちらも必要条件であることは自明のことだからである。


 ここで本論における立場を明確にしておきたい。ここまでの考察によって、改めて述べる必要はないと思われるが・・・それは当然Aの立場、あるいはそれに極めて近い立場になるだろう。つまり、本論の立場はAとBの折衷的な位置にはならないのである。その立場を次に詳しく論じていきたい。その前にロシアという土壌の問題について、少し述べておきたい。ある意味それは種子が発芽し、成長してゆくための必須の条件であり、それがまず存在しなければならないのは自明のことである。それはロシア史を軸とした考察ということになるが、本論は「イデオロギー→スターリン主義」の解明を主軸とするものである。ロシア史を軸とした考察も重要なものであり、軽視されるべきものではないが、本論では二次的な考察にとどめるものとすることを断っておきたい。


 第2節 イデオロギー遂行決定論

 

 スターリン主義の形成をイデオロギーから導こうとする考察に対して、次のような批判が広範に存在する。「イデオロギーはたしかに重要かもしれないが、歴史のすべてがイデオロギーによって決定されるわけではない。それが真実なら、中世の災厄はすべて聖書から生じてきた、ということになってしまうだろう」。たしかにこれはもっともなことである。歴史のすべてがイデオロギーによって決定されるわけではないことは自明のことであろう。しかし、あるイデオロギーに関わる歴史事象が、それが起こったことに対して並立して幾つかある主要要因のひとつがそのイデオロギーである、と結論することができるのだろうか。このことはイデオロギー論全体にいえることだが、イデオロギーはその定義、理解が難しい概念である。そのためにイデオロギー全体を一般化して論じる傾向があるように思われる。しかし、イデオロギーにも非常な多様性があり、多種多様な性質がある。そのような一般化の結論で片付けてしまうことはかなり乱暴なことではないだろうか。この歴史事象とイデオロギーの関係は、もっと突き詰めて詳しく考察していく必要があるのではないだろうか。


 本論におけるスターリン主義とイデオロギーの関係はまさにこのような題材を提供してくれるといえるだろう。それでは本論における結論を先に述べて、それを中心にこの問題を考察していきたい。本論の立場は「イデオロギー遂行決定論」と呼べるものである。それは次のようなものである。


 イデオロギー遂行の内的、外的条件が満たされ続ければ、必然的にスターリン主義に至る。


 これはほぼAの立場といってよい。ただし、ここにはイデオロギー遂行の内的、外的条件が満たされ続ければ―という条件が付けられている。つまり、種子が発芽してもそれが成長していく過程で開花まで至らないということもあるだろう。土壌の状態や気象条件によって、途中で枯れてしまう、という事態もありえるわけである。そのような場合、当然帰結としての花―スターリン主義は形成されない、ということである。これはある意味、当然のことをいっているにすぎないといえる。「イデオロギー遂行決定論」は種子の遺伝子、DNAはスターリン主義という花を咲かせる構造を持っている、と結論するものである。しかし、現実の種子が発芽しても成長して開花するとは限らないように、イデオロギーが現実の歴史を決定する、という主張ではないことは理解していただけると思う。


 ここで重要なことを指摘しておきたい。それは「イデオロギー遂行決定論」はイデオロギー一般論ではない、ということである。このイデオロギー分析は決してイデオロギー全体に拡張することはできない。それは、このイデオロギーに特化された分析だということである。それはこのイデオロギーがあらゆるイデオロギーの中で非常に特異なものであり、その強度において他に類するもののない究極的なイデオロギーだからである。それは例えば、反作用としての魔術的因果性を科学としてとらえられる―という巧妙な論理性を持っている。これだけでも他に類するイデオロギーは存在しないだろう。これは決して、イデオロギー一般論ではない、ということを再度強調しておきたい。


 イデオロギー遂行決定論はほぼAと同じである。この立場では、スターリン主義という花が咲いた直接要因が種子、すなわちイデオロギーであり、土壌はその間接的な要因となる。AとBの中間的、折衷的な立場においては、Aに近い立場、中間的な立場、Bに近い立場と微妙に異なってくると思うが簡略的に示してみる。Bの立場では、スターリン主義という花が咲いた直接要因が土壌、あるいは気象条件であり、種子はその要因であるものの、歪曲され、利用されてしまった存在である。それぞれを図で示すと次のようになるだろう。なお、ロシア革命、ソ連体制形成に関わる重要人物の思想、心理、行動というものも重要なものであるが、ここでは土壌の要素に含まれるものとみなす。

 Aの立場、(イデオロギー遂行決定論)
土壌(ロシアの客観的状況)→種子(イデオロギー)→花(スターリン主義)


 AとBの中間的、折衷的立場
土壌(ロシアの客観的状況)→花(スターリン主義)←種子(イデオロギー)


 Bの立場
種子(イデオロギー)・・・・・花(スターリン主義)
          ↑   
土壌(ロシアの客観的状況)

 Aの立場(以下、Aと表示)とBの立場(以下、Bと表示)とは真っ向から対立する解釈である。これがスターリン主義を解明するうえで本質的に重要なものであることは、誰もが認めるところであろう。両者の決定的な違いは、マルクス主義、唯物史観が正しいかどうかということに直結するところにある。Bならば、スターリン主義に至ったのは唯物史観の公式とは異なる資本主義後進国ロシアに、偶然にも社会主義革命が起こってしまったから、と考えることもできる。唯物史観を未来に託すことがまだまだ可能なのである。土壌の条件が異なれば、今度こそ社会主義社会、共産主義社会に向かうことができる―そのような希望を持つことができるのである。それに対して、Aは土壌の条件がどのようなものであったとしても、社会主義革命からイデオロギーを遂行していくことは、スターリン主義に至るしかない、と結論しているのである。それは、社会的状況、経済の発展度合い、プロレタリアートの比率、教育を含めた文化的状況等が、ロシアと正反対な社会であったとしても、まったく同じようにスターリン主義に至る、という結論なのである。今まで、このように結論付けられることは意外にも少ないように思われる。現在の一般的な見解は圧倒的にAに近いと思われるが、このように断定することは難しいことなのである。多少なりとも土壌に要因を求める。そこにはある程度の蓋然性が認められるのが通例である。


 ここで必然性と蓋然性の問題について検討しておきたい。特に蓋然性の問題は重要である。というのも「イデオロギー遂行決定論」はいかなる意味においても蓋然性を認めていないという誤解が生ずる可能性があるからである。この問題の中で蓋然性は大きく二つの成分に峻別することができる。この二つの成分を区別することは非常に重要なことなのである。ひとつは土壌が種子に作用して、発芽し開花することの蓋然性、もうひとつは種子が発芽し、成長して開花した花がスターリン主義であることの蓋然性、である。前者を第一の蓋然性、後者を第二の蓋然性と呼ぶことにする。


 まず、第一の蓋然性を検討してみよう。これはA、AとBの中間的立場、Bいずれにおいても、それほど大きな違いはないように思われる。というよりも、これらの立場の違いが蓋然性の評価とは必ずしも関係しないだろう。例えば、2月革命が起こった時点でボリシェヴィキが権力を獲得する蓋然性がどれくらいあっただろうか。これは極めて低く見積もられるだろう。そしてこの蓋然性の評価に、これらの立場の違いは必ずしも相関しないのである。革命後のボリシェヴィキ権力の存続について最大の危機である内戦は、さまざまな側面から検討される問題であるが、その勝敗の帰趨についてこれらの立場における違いはあまりないといえるだろう。現在から見ればボリシェヴィキはかなり有利な立場にいたのである。第一の蓋然性については大きな争点にはならないといえる。それは「イデオロギー遂行決定論」にとっても、同様に蓋然性を認めるものなのである。


 つまり、争点は第二の蓋然性にある。Bはかなり低い蓋然性とみなすのではないだろうか。ここは難しいところで異なった意見もあるかもしれないが、例えば、スターリンの権力獲得過程で最大の問題のひとつがレーニンの死去である。あの時、レーニンが発作で倒れ死去するということがなければ、スターリンは書記長の職をレーニンによって更迭されていた可能性が高い。そうなれば、スターリン主義に至ることはありえないということになる。しかし、Aは第二の蓋然性を必然なものとみなすのである。上の例でいえば、あの時のレーニンの死去は必然であった―ということではもちろんない。ここに必然性を認めれば、それこそ歴史神秘主義になってしまうだろう。ここでは当然このようなことか含意されている―スターリン主義というのは、あのような体制の独裁主義ということであり、それがスターリンという個人が独裁者であったからスターリン主義という名が付けられたのであるが、それ以外の別の誰かが同じような独裁者になり統治した場合は、その誰かの名前が冠せられた00主義となるわけである。それはスターリン主義と同義であり、それに至る必然性という意味になる。このことはBを含めたすべての立場に同意してもらわなければならないことである。このAの第二の蓋然性を必然性とすることは、本論の中核なのでこれから詳論されていくことになる。AとBの中間的、折衷的な立場においては、Bに近いほど蓋然性を低く見積り、Aに近いほど高い蓋然性を認めるという傾向があるのではないだろうか。


 種子(イデオロギー)から花(スターリン主義)を必然のものとみなす、ということは社会科学にとって特異なこと、というより常識的にはほとんどありえないことである。このような複雑極まりない社会事象を、自然科学の法則と同じように扱えるのだろうか―このような問題と繋がってくるのである。しかし、この場合にかぎり自然科学法則と等価の絶対的な基準が措定できるのである。それはこのイデオロギーが生物学的基本能力を大きく超える能力を要請しているということであり、もうひとつはそのことをイデオロギーを遂行する主体が決して理解することができず、まったく逆にその能力を獲得した結果の社会が到来することが科学である、歴史的必然であるという強固な信念を持っているということである。そして次に重要なことは、そのイデオロギーを遂行する主体の周りの人々、それに関係する人々、さらに思想的に関係する人々も同様にそのことを理解せず、イデオロギーの示す社会を歴史的必然である、あるいはそうなるかもしれないと考えていることである。これはいわば土壌に種子が植えられる契機となる。これはイデオロギーを遂行する権力主体がその権力を獲得し、維持していく上で重要な要素となるのである。


 「マルクス主義の解剖学」はこの種子の遺伝子、DNAの解析であったということができる。しかし、唯物史観を反証することができても、種子が成長し開花した花がスターリン主義であると自動的に導きだせるわけではない。だが、「マルクス主義の解剖学」を前提とした考察でなければ、スターリン主義に至る必然性を解明することは決してできないのである。これまでの考察を基礎として、この最大難問を追及していくことにしたい。


 第3節 スターリンの謎

 

 社会主義、共産主義の思想家、革命家、政治家の中で筆者がもっとも理解しにくく難解な人物が3人いる。1人は本論の中心であるマルクスその人である。もう1人がソ連の体制を確立したスターリン。そして3人目は何とゴルバチョフである。スターリンの難解さとゴルバチョフのそれとは裏表の関係にある。この2人に共通することは、自分の本心を隠し続ける能力である。それに比べれば、レーニン、トロツキーはまだ理解しやすい。スターリンの本意は一体どこにあるのか―歴史家にとっても極めて理解することが難しいようである。


 スターリンもレーニンやトロツキー、その他ボリシェヴィキの有力メンバーと同じく幼少の頃から非凡な能力を発揮していた。群を抜く学力、速読による大量の本の読破、詩作、音楽などの芸術の分野でも才能を発揮している。それでいながら、ギャング集団のリーダー的な存在でもあった。出身地、グルジアにおける神学校や社会に対する強烈な反抗心は、マルクス主義に出会うことによって、革命家への道を歩ませることになった。そして、ボリシェヴィキに入りレーニンのもとで頭角を現すようになったのである。もっとも急進的なマルクス主義集団であるボリシェヴィキに入ったということは、スターリンもまた急進的マルクス主義者であったということに間違いない。ロシアにおける社会主義革命は、スターリンにとってもまた最大の目的であったのである(1)。


 ここで疑問はまた、パイプスのそれに戻っていく。パイプスはボリシェヴィキの目的はロシアに専制体制を復活させることであった―マルクス主義はそのための口実に利用されたのである―といった。このことへの反論は本論において幾度もなされてきた。ボリシェヴィキは10月革命以前も、以後もマルクスの教説を文字どおり実行しようとしたのである。戦時共産主義の強圧的で、以前にもました専制政治になったのは、むしろその結果なのである。それでは、スターリンがボリシェヴィキ―ロシア、ソ連共産党の中で、さらに個人独裁として権力を握れるようになったのは、スターリンがマルクス主義をそのための口実として利用したからなのだろうか?それともスターリンは本当にマルクス主義を遂行し、それに奉じていると考えていたのだろうか?


 スターリンの謎として提起できるものは数かぎりなくあるだろう。まず、なぜレーニンの後継者として、スターリンは登場することができたのだろうか。10月革命と内戦の勝利という最重要事に貢献したレーニンに次ぐ人物は、トロツキーであることは明らかであった。スターリンがマルクス主義をそのために利用したとすれば、それはどのような利用であったのだろうか。それともそれ自体がマルクス主義を遂行するうえで最善であると考えたのだろうか。それともそれは、マルクス主義、共産主義の遂行とは無関係な党内の派閥闘争の結果なのだろうか。トロツキーはなぜ、スターリンをあれほど軽視することができたのだろうか。スターリンとの権力闘争において、なぜあのように無気力な部分があるのだろうか。このスターリンの謎と対なってトロツキーの謎も存在するのである。それ以前に、もっと根本的な問題がある。それはなぜ党内派閥闘争などというものが生じるのだろうか。このようなものはマルクス主義、共産主義の中にはまったく存在しないもののはずである。しかし、それ以前にレーニンという強力な1人の指導者によって、社会主義革命が遂行されたということ自体、このイデオロギーにとっては想定外の事である。


 もちろん、スターリンに関わる謎の最大のものは、1930年代にあるだろう。見世物裁判と数百万人が銃殺され、強制収容所送り、強制移住になった大テロル期はその頂点である。それでいながら、ソ連国民から神のような存在として崇め立てられた指導者なのである。それは恐怖による支配だけでなく、心の底からそのように思われていたという事実がある。ここにも深い謎がある。スターリンは、このようないまだかつてない独裁者になることを、一体いつから意識していたのだろうか?それは彼の人生において最初からの目的だったのだろうか・・・それははっきり意識していないまでも、チャンスがあれば手にしたい目的だったのだろうか。しかし、マルクス主義、共産主義の目指すものは、そのようなこととはまったく正反対なものなのである。このはるかな隔たりをどのように止揚していたのだろうか。そしてまた、粛清されていったボリシェヴィキたちは、この隔たりをどのように考えていたのだろうか。1930年代の問題は第4章から検討することとして、ここでは1920年代のスターリンの権力獲得過程を解明していくことにしたい。


 

(1)サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ 『スターリン 青春と革命の時代』 松本幸重訳 白水社 2010年


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