『スターリン主義の形成』
第5章 アポトーシス全体主義論
第5節 左翼全体主義の構造
左翼全体主義、その代表としてのスターリン主義の形成過程、その構造にたいする結論的考察を行いたい。これが本論の到達点といえるものである。
社会主義革命によって生じた強力なイデオロギー遂行の力学は共産主義社会、すなわち経済的グローバルブレインへ向かう・・・しかし、「能力の壁」という見えない巨大な壁にはね返される。この壁を乗り越えるためには全体的に発達した個人のとてつもない能力が要請されるのである。それによって、グローバルブレインの代替作用が生じ、イデオロギー超有機体の形成へと進路を変える。しかし、イデオロギー超有機体の理念的形態と現実の社会、人間存在は大きく隔たっている。頂点に立つひとつの脳と、それ以外の複数の脳との間に能力上の絶対的な相違はない。頂点の脳がいかに優秀であろうとも、イデオロギー超有機体の理念的形態に相当するような差別化はありえないのである。
しかし、イデオロギー超有機体は現実的状況を乗り越えて、自らを形成しようとする。このとき、どのような事態が生ずるだろうか。それは頂点のひとつの脳から伸びる神経系にその機能を付与すべく最大の努力が払われる。つまり、その体制の個人個人に主体性が最小限のひとつの脳に忠実な神経細胞になるような強力な力が働くだろう。頂点のひとつの脳に近いような主体性、あるいは人格性をもった個人というものは、イデオロギー超有機体にとって存在してはならないものになる。神経細胞のひとつひとつが主体性を持ち、自らの意思で勝手に動いては有機体の機能性は麻痺してしまう。この機能を健全に保つためには、このような個人はアポトーシスされなければならない。これがすなわちアポトーシスAなのである。
ここで決定的に異なる二つのアポトーシス概念が示されたことになる。ひとつは、経済的グローバルブレイン、すなわち共産主義社会、アソシエーション社会を実現するための階級構造が消滅していくアポトーシスB、もうひとつはイデオロギー超有機体が形成されていくためのアポトーシスAである。いうまでもなく、これは「能力の壁」が克服された場合は前者であり、克服されなかった場合は後者であることは論証されてきた。
現実のソ連の歴史の中でこの「ひとつの脳」とはすなわち「スターリンの脳」であり、アポトーシスAの最大の表出は大テロルであることは容易に理解されることであろう。まさにスターリンの言動の中にこのことを意味するものが多くある。神経系というのは有機体としてのメタファーであるが、スターリンは「伝導ベルト」あるいは「小さな歯車」という表現をしている。これはもっと即物的な、ぶっきらぼうな表現であるが、意味するところは同じである。そして、まさにスターリンの言ったブラックジョーク「古参のカードルは必要な数よりも少ないものだ。彼らのような階級は、自然の法則が働いてすでに間引かれはじめている」はブラックジョークではなく真理を表していた、という恐るべき洞察が導かれる。ここで再度、全体の構造を図によってまとめてみよう。
これが今までの議論を包括的にまとめた図である。現実の左翼全体主義体制はイデオロギー超有機体と四角い枠の中で示された現実形態とが、ギリギリのバランスを保つよう統合された地点に形成される。明らかなようにイデオロギー超有機体は実現不可能な理念的な形態であるが、経済的グローバルブレインに向かうイデオロギー遂行状態が「能力の壁」にはね返されて、グローバルブレインの代替作用が生じ、社会主義革命後の引き返すことの不可能な強力なイデオロギーの力学によって形成されようとする。自律的存在の個体にイデオロギー超有機体に適合するような強力な力が加わるだろう。それが今まで具体的に検討されてきたソ連の歴史過程なのである。それは途方もなく異常でグロテスクなものになることは避けられない。
そして、この構造はロシア特有のものではなく、どの社会にも普遍的に当てはまるものであることは明らかである。スターリン主義がロシアの東洋的専制の伝統によって導かれたというのは的を射ているとは思えない。この左翼全体主義の構造は、ロシア的伝統の社会であっても、それと正反対の社会であっても一切関わりなくこのような形態に行き着くことを示している。ただし、個別の歴史、社会、文化、慣習等ともイデオロギー超有機体はバランスを取りその体制を形成しようとするので、これらとまったく関係はない、ということはない。それはある程度、それらを取り込み形成されるものである。
この左翼全体主義の構造がいかに複雑なものであるかがよくわかるであろう。特に「能力の壁」から右側の経済的グローバルブレインの領域は未知の領域であり、霧の中にあったということができる。しかし、唯物史観の未来社会論は経済学的考察と関連付けられて、唯物論的で具体性のあるもののような幻想を与え続けてきたのである。ここから深層心理のエネルギーがイデオロギー遂行に供給され続け、イデオロギー超有機体の強力な形成力になってきた。現実の左翼全体主義体制が形成されるのには、この二段階の過程を経ているということが理解の要である。経済的グローバルブレインが代替作用によってイデオロギー超有機体に移行する。そして、それが生物学的、社会的存在形態の現実との間にバランスを取る地点に形成されるのである。そのため、その社会の歴史、伝統との間に関連性が生ずるので、あたかもその社会、国との歴史的連続性があるかのごとくに見えるのである。しかし、それは見かけ上のものにすぎない。イデオロギーがもたらす状態の理解困難性から、どうしても歴史的連続性の中に全体主義体制の原因を見ようとする傾向が生ずるが、これが誤りであることは明らかなのである。
この構造は原理的な矛盾によって成り立っていることはすぐに理解されることである。経済的グローバルブレインこそイデオロギーが目指す本来の目的である。しかし、現実はイデオロギー超有機体の形成へと向かわざるをえない。この二つの状態はまさに究極的な対立関係にある。独裁者は複雑な二枚舌を駆使することになる―またそれができなければ独裁者にはなりえないだろう。これがナチズムのような右翼全体主義とは根本的に異なるところである。ヒトラーは政治的駆け引きなどで二枚舌を駆使することはあっても、イデオロギーと行動との間に本質的な隔たりはない。ナチズムは全体主義の家に正面玄関から堂々と入っていったが、スターリン主義は裏口 からこっそりと入っていったのである。
「能力の壁」は見えざる巨大な壁である。しかし、ある意味、論理の上では図で示されるようなたった1枚の薄い膜にすぎない、ともいえる。途方もなく異なる二つの世界、経済的グローバルブレインすなわち共産主義社会、アソシエーション社会とイデオロギー超有機体が作り出す全体主義体制。この二つの世界はたった1枚の薄い論理の膜によって隔てられているにすぎない。すなわち・・・
想像を絶する天国と想像を絶する地獄は紙一重なのである。
この二つの世界が形成されていく過程を、同時に比較観察できる観察者がいたと仮定しよう。ひとつの世界はアポトーシスBによって、階級構造が消滅していきながら奇跡のように経済が運営されていく世界である。当然、その世界では個人が自由に発展しながら、それが同時に社会全体の発展となるような世界である。誰かが抑圧されたり犠牲にされたりするようなことはまったくない。もちろん、テロルなどというものは一切存在しない。もうひとつの世界は、まさに1930年代のソ連である。計画的、指令的経済により官僚による強圧的な経済運営がなされる。労働者、農民の自由は極めて限定され、体制に逆らえば逮捕され、強制収容所送り、最悪の場合銃殺にされる。大テロルになるとまったく無実のものさえも人民の敵であると自白させられ、銃殺される。恐怖による支配が行き渡り、素晴らしい社会が実現されていくところなのだと信じなければならない。この観察者はまったく想像だにしない素晴らしい社会と、これもまったく想像だにしない地獄の社会を同時に観察することになる。しかし、観察者は遠く、遠く、遠く隔たったこの二つの世界から、共通の概念が抽出できるなどとは夢にも思わないだろう。
さらに、この左翼全体主義の構造は「民主主義の極限的追及は全体主義に至る」という逆説の理由を説明してくれるのである。これは民主主義論の領域になるが、直接民主主義の極限的形態を突き詰めていけば、ひとつの頭脳、すなわち「経済的グローバルブレイン」に行き着くのである。しかし、これまでの社会学でここまで考えられたことは、おそらく一度もないだろう。その理由は簡単に理解できることであるが、一方で社会主義、共産主義の「能力の壁」に抵触する思想、理論が長い間当然のように追及され、広められてきた。これが直接民主主義の極限的追求であるとは、ある程度の理解はされてきたのである。しかし、多くの場合、唯物論に立脚しているという思い込みから、「経済的グローバルブレイン」のような発想や思想をむしろ対立的なものとみなしてきた。これが根底から誤りであることは証明されたのである。直接民主主義の極限的追及は「経済的グローバルブレイン」に行き着く以外にはない。そして、これを現実に徹底的に推し進めていけば、イデオロギー超有機体に必然的に向かうのである。これは民主主義を追求する場合には、能力的限界を超えていないかどうかということに細心の注意を払わなければならない、ということを意味しているのである。
ハイエクの主張する集産主義から全体主義に至る方向性を検討してみよう。これまでの考察から明らかなように左翼全体主義体制が集産主義的形態をとるのは、イデオロギー超有機体の経済形態が必然的に集産主義的形態をとるからである。もちろん、イデオロギー超有機体は文字どおりに実現することの不可能な理念的形態であり、現実とのさまざまな要素の間にバランスを取ることにより集産主義的形態となる。これは最初に集産主義を目指した場合と比べて、その強度、持続性に格段の違いが生ずるように思われる。集産主義→全体主義の方向性もひとつの側面であり、重要であることに変わりはないが、やはり、共産主義イデオロギーがその根源にあることは決定的に重要である。現実にはこれらは混然一体となっているように見えるので、これを分析することは極めて難しいことだったのである。さらに、理念的形態の中で経済的グローバルブレインを目指したものが、イデオロギー超有機体に反転してしまうということ、天地がひっくり返ってしまうということは「能力の壁」が理解されないかぎり、明晰に認識することの不可能なものなのである。これらは高度に抽象的な世界の出来事なのである。
この左翼全体主義の構造は今までの全体主義論争に対して新しい理解を与えることができる。つまり、今までの全体主義論者はイデオロギー超有機体の理念的形態に、現実の体制を適合させようとしすぎたために非現実的とのそしりを受けてしまった。その反動によって修正主義者は、逆に生物学的、社会的存在形態に戻り過ぎてしまい、従来の専制体制と全体主義体制との差異を小さくし過ぎてしまう傾向があるのではないだろうか。すなわち、これら二つの形態を二者択一的に捉えようとすること自体が問題なのである。重要なのはこの二つの形態のバランスを取るように全体主義体制は形成されるということである。これは実に高度な統合を実現しなければならず、どちらに偏り過ぎてもそのイデオロギーの遂行は破綻してしまうだろう。それでも、この体制は従来のいかなる専制体制より次元の異なる支配を要請される。それだけ、イデオロギー超有機体はまったく存在しなかった特異なものである。独裁者はこの二つの形態のバランスを取って進む政治的サーカスの綱渡りの達人でなければならないのである。
この左翼全体主義の構造の捉え方は、現実の複数の体制の比較にも有効である。基本的にはイデオロギー遂行の強度によって測られる。つまり、イデオロギー遂行の強度が強ければイデオロギー超有機体の形成力が強まり、バランスの支点は左側に移行し全体主義体制の強度も強まる。逆に、イデオロギー遂行の強度が弱ければイデオロギー超有機体の形成力は弱まり、バランスの支点は右側に移行し、それまでの現実の社会的性格が残りやすい。また、同じ全体主義体制においても、例えばナショナリズムの相違から来る差異も、このように社会的存在形態との間にバランスをとるという要請から説明できるのである。しかし、ナショナリズムが直接、左翼全体主義体制の形成に作用しているのではないことは確実であり、その理由も明快に説明できるのである。そして、ソ連―スターリン体制はイデオロギー遂行の強度が最高のレベルであったといえるだろう。
第6節 アポトーシス心性とテロルの必然性
しかし、イデオロギー超有機体のアポトーシス概念の適用は果して適切であるだろうか?という疑問が生ずる。経済的グローバルブレインにおけるアポトーシスBは、階級構造が自然に消滅していくということであり、この概念の適用は無理がないように感じられる。それに対して、アポトーシスAはさまざまな問題があるように思われる。これはテロルの必然性と関連する極めて複雑で難しい問題である。これを現実のソ連の歴史に即して考察していこう。これは、ボリシェヴィキ上層部と平党員、それ以外の一般大衆とはかなり異なってくる。アポトーシス概念の適用が適切だとみなされる可能性のあるものは主にボリシェヴィキ上層部に限られるように見える。一般大衆に対してはどのように考えられるのか―この二つを分けて検討してみることにしよう。
ボリシェヴィキ上層部においては、拷問や脅迫により「自分は外国のスパイであった」、「スターリン暗殺を企てていた」というようなまったく身に覚えのない罪を認めるように強要された。(これはボリシェヴィキ上層部だけではないが)見世物裁判の中で奇想天外な自白がなされ、それに続く処刑によって大量の古参党員が粛清された。そのなかには、ジノヴィエフやカーメネフ、ブハーリン、ルイコフといったレーニンとともにロシア革命を遂行し、社会主義建設にその身をささげてきた最重要の幹部も含まれている。
これらの幹部とスターリンとの間は、これ以前には決して悪いものではなく、1920年代中頃または終わりまでの間は政治上の仲間であり、また個人的にも親密な関係があった。しかし、左翼反対派との対立、農業集団化に反対した右派との闘争、それに伴う更迭、農業集団化がもたらした大飢饉、非常に速いテンポの工業化とそれに伴う混乱、などから党内は緊張が激化していった。思うように進展しない工業化の原因をスターリンは内部敵の存在に求めた。そして、次第に党内部、幹部たちの中にも内部敵が存在し妨害している、あるいはスターリン体制を批判し、打倒しようとしている、という言説が中央委員会総会などで出されるようになり、そのためのスケープゴートが選ばれ、攻撃されるようになった。1932年頃からは、すでに大テロルにつながる内部敵をでっち上げて吊るし上げる、という党内部の雰囲気は強くなっていったのである。スケープゴートに選ばれたものは、身に覚えがなくても示された通りの罪を認めるということを強要された。それが党に奉仕することであると暗黙の共通認識があり、罪を否定するということはそれ自体、党にたいする裏切りであるとみなされたのである。つまり、真実がどうであるかはまったくどうでもよいことであり、スケープゴートはその役割を演じなければならないのである。(ただし、大テロル以前には肉体的抹殺まではいかず、中央委員や書記からの降格、党から追放というような処分だった。)スケープゴートは自らその役割を進んで買うことはありえなかったが、その役回りがまわってきたときにそれを認めること、その立場を甘受することをよしとする人も大勢いた。大局的に見ればこれは徐々にアポトーシスが作動し始めている、と見ることができるかもしれない。
スターリンに早い時期から大テロルのマスタープランのようなものはなかった、ということは今では明らかになっている。スターリンは体制、社会がコントロール不能になるのではないかという恐怖からパニック状態になっていたのである。そのために場当たり的な対応が次から次へととられていった。しかし、これも非常に難しい問題であり、1937年初頭にはスターリンは大テロルの青写真を描いていたのかもしれない。この偶発性と計画性は複雑に絡み合って進展していったと考えられる。古参党員にたいする疑心暗鬼は頂点に達しつつあった。これは左翼全体主義の構造から考察すれば、イデオロギー超有機体の形成が完成に向かいつつある、ということを意味している。頂点のひとつの脳になり、それ以外の脳をすべて神経系と同じ存在にしなければならないという要請がスターリンの深層心理に存在している―このように仮定すれば、自分と極めて立場が近い、今は服従しているように見えたとしても、いつ自分は打倒され取って代わられるか分らない―このような古参党員は存在そのものが否定される。
1937年6月、赤軍の多くの司令官が粛清されたのをかわきりに、大テロルの爆発が始まった。個々の事例に着目すれば、それがとてもアポトーシスという概念が適用されるとは思われないだろう。党員で粛清されたほとんどの人々は、主観的には党のために誠心誠意尽くしてきたと考えていたはずである。上層部に行けば行くほどこの傾向は強かった。彼らはイデオロギーに徹頭徹尾、忠実であろうとしたのである。だから、自分が反党行為の疑義をかけられて逮捕されるなどとは考えられなかったのである。同じような仲間が逮捕されていっても、とても信じられないが何とかそれに理由づけをして正当化しようとした。そして実際、自分が逮捕されると身の証しを立てようとするが、同時にスケープゴートの役割を演じなければならないという暗黙の了解が粛清される側にも、する側にもあった。そして、粛清する側の人間も容易にされる側へと移行してしまうのである。これが体制全体に深く、重く浸透していたアポトーシスの作用だといえるのではないだろうか。イデオロギーに忠実であるがゆえに破滅させられる―この恐るべき逆説が社会を覆い尽くしていたのである。革命初期に活躍していたものほどイデオロギー超有機体の形成に貢献するのと同時に、時間の経過とともに最も存在していてはならないものに転化してしまう―これがイデオロギーの論理そのものの中に最初からプログラムされてあったのである。つまり、大テロルの種子ははるか以前から存在していたのである。
このスケープゴートの心理は理解しにくいものなので敷衍することにしよう。この社会においてはこのイデオロギーは絶対正しいという前提に立っている。それは資本主義社会よりも高い生産効率、高い生産力を持つことは当然であり、そうでないなどということは絶対にありえない。またそれに伴い階級は消滅していくはずである。そうならないということが起こったとしたら、それは敵の階級―資本主義勢力が内部敵として潜伏し、サボタージュ、妨害しているとしか考えられない。当然、党はその内部敵と階級闘争を行わなくてはならない。一方で農業集団化、超工業化を推進しながら、内部敵と階級闘争を行わないとなれば党は存在意義を失いかねない。ところが現実にはイデオロギーの敵はすでにほとんど駆逐、撲滅させられているのである。そうなれば内部敵を何がなんでも作り上げなければならないのである。そうでなければ、このイデオロギーが絶対に正しいという前提が崩れてしまう。そこで、何らかの理由で選ばれた幹部、党員がスケープゴートとして罪をかぶることになる。スケープゴートの役を演じることが、党に奉仕することになるのである。まったく身に覚えがなくても罪を自白し、処刑されることが党に対する忠誠を尽くしたことになる。党は現実の生産力がイデオロギーの示す通りにならないということの理由が、このような内部敵がいることによってだったのだ、と内外に説明することができるのである。つまりこれは、イデオロギーの敵が存在しない強固なイデオロギー空間の中だからこそ生じたのだといえるだろう。もちろん、これはイデオロギーの外部にいる人間にとってみれば、これ以上驚愕すべきことはない。単にイデオロギーが誤っているからこのような事態になっているにすぎないのである。
しかし、実際この大テロルはスケープゴートの心理を利用しながら、本当の目的はスターリンの神経系を作り出すことにある。党の上層部、党員、赤軍将校、高級官僚、テクノクラート、あらゆる分野の専門家など中枢神経に相当する部分のテロルは特に激しいものになる。スターリンに忠実でないという僅かな疑義をかけられただけでたちまちテロルの対象になるのである。それは古参ボリシェヴィキや、革命以前からその職に就いていた専門家の大部分を含むことになった。このとき、革命後のボリシェヴィキの教育を受けて育った若い世代が、その後釜に座るようになった。彼らはスターリンを神のような存在とみなすことを自然なこととして育ったのである。革命から20年、この若い世代が育つだけの時間が必要だったのであり、そのとき大テロルが起こったということを―これが、なぜ革命から20年もたって起こったのかということを説明してくれるのである。
大テロルの原因については、これまで多くの議論がなされてきた。しかし、どれだけ個別の理由を考えても本質には届かないように思われる。歴史事象のさまざまな出来事は当然、関連しているはずであるが、決定的な理由となると非常に難しいのである。例えば、「ナチスの台頭により戦争の危険が迫っていた。そのために内部敵、反ソ分子を粛清しておかなければ、国全体が危険なことになる。そのような可能性のあるものをそのままにしておくわけにはいかなかった」スターリンの側近たちは、あとになってもこのような大テロルの正当化を主張している。たしかに、赤軍の司令官とボリシェヴィキの反対派の幹部が結託して軍事クーデターを起こせば、スターリン指導部は破滅してしまうだろう。しかし、これはソ連という国に危険なのではなく、スターリンとその指導部にとって危険だということである。この大テロルの理由も、その規模のとてつもない大きさとそれが各共和国のあらゆる階層におよんでいるということを説明できるだろうか。スターリンの秘密指令は各共和国、各州ごとにきめ細かく、銃殺する人数、強制収容所送りにする人数を指定しているのである。(例えば、銃殺をA、強制収容所をB、としてアゼルバイジャン共和国―A 1,500、B 3,750・アルメニア共和国―A 500、B 1,000・西シベリア地方―A 5,000、B 12,000・アゾフ、黒海地方―A 5,000、B 8,000・レニングラード州―A 4,000、B 10,000・モスクワ州―A 5,000、B 30,000など)そして、これらの人数は後から何度も追加され、NKVDはそれを超過達成するようになっていった。これはまさに理由のない大量殺人である・・・一般的にはこのように考えられるだろう。
この一般大衆にたいするテロルも、イデオロギー超有機体の形成によって統一的に説明することができるのである。ただし、一般大衆に対してはアポトーシスの概念は適用されにくい。これは微妙な問題であるが、テロルの対象を反ソ分子として選別する努力はなされている。実際にはこれはほとんど不可能なことであり、建前上そうであっても、ランダムに選ばれたのとそれほど変わりはないだろう。アポトーシスの概念は弱い意味で適用されるか、どうかというところである。一般大衆に対しては、イデオロギー超有機体の形成のためにテロルは恐怖による支配、密告による相互監視、社会の人間関係の横のつながりを断ち切り、頂点のひとつの脳から伸びる神経系の忠実な構成要素になるように強制することである。(ただし、アポトーシスの概念をこのような目的のためのものと拡大解釈すれば、一般大衆に対してもアポトーシスは適用されるだろう)そのために、社会全体にくまなくテロルは行使されなければならない。そして、テロルをいつ終わらせるかという判断も重要である。これが際限なく続けば本当に社会を破滅させてしまうのは明らかである。これはイデオロギー超有機体の形成に必要十分である、というレベルに達したときテロルは終息するのである。つまり、テロルから逃れた人々が、家族や知人、友人、会社や工場、学校、さまざまな組織のなかにテロルに巻き込まれた人がいて、そこから十分に教訓を会得するだろうレベルである。テロル全体の具体的な人数までコントロールすることは不可能であるが、このような大局的な意味においてテロルをコントロールすることは十分可能である。スターリンはこのすべてを総合的に実践したのである。(もちろん、ここでいうテロルの終息とは大テロルの終息という意味であり、規模が小さくなってもテロルは続き、また次の波が来るということを繰り返していく。また、強制収容所の囚人の人数も増え続けたのである)。
つまり、大テロルの必然性とはイデオロギー超有機体の形成がそれを要請するからである。逆にいえば、それ以外の方法でイデオロギー超有機体の形成が達成されれば大テロルは起きないということになる。それ以外の方法というのは、現実には存在しなかったであろうことは間違いない。例えば、SFで見られるような人間の脳の中にマイクロチップを埋め込んで、すべてを監視し、遠隔操作できるようになれば大テロルは必要ないだろう。これまで検討されてきた大テロルのさまざまな理由は、そのほとんどがこのイデオロギー超有機体の形成の中に包含されるとみてよい。例えば、ナチスの台頭により戦争の危険が迫っている―これが大テロルの理由だとすれば、もしこのようなナチスの危険が存在しなければ、大テロルは起きなかったということになる。しかし、それは誤りである。ナチスの危険とはまったく別にイデオロギー超有機体の形成の要請は存在し続ける。もし、ナチスの危険がなければ大テロルの時期は多少変わったかもしれないが、やはり同じように勃発するだろう。そのときは、また別の理由、口実を探すのである。
このテロの人間悲劇の部分は、それが家族にあたえた影響であった。敵の烙印を押された父母が消されただけでなく、本書の冒頭で述べたアレクサンドル・チヴェリの場合のように、弾圧された者の親戚までもがしばしば逮捕された。たとえばスターリンやモロトフやその他の政治局員は「人民の敵」の妻子の、あるいはいずれか一方の逮捕リストを、日常茶飯事であるかのように承認していた。いく世代もつづく血の復讐や家族の敵討ちが文化として根づいていたカフカースの出身者であるスターリンにとって、個人同様に血族グループを罰するという考えはおそらく自然だったのであろう。1937年の10月革命20周年記念晩餐会の席上、スターリンは長いあいさつのなかでそのことを口にしている。そのときのスターリンの言葉を、ゲオルギ・ディミートロフは日記につぎのように書き留めている。「したがって社会主義国家の団結を破壊しようとする者、社会主義国家からその民族の特定の一部分を分離しようと望む者はみな敵であり、ソ連の国家と人民の不倶戴天の敵である。そして、われわれはそのような敵を、古参ボリシェヴィクであろうとなかろうと、おかまいなしに絶滅する。その血族、その家族を絶滅する。その行動と思想によって、しかり、その思想によって、社会主義国家の団結を侵そうとするすべての者を絶滅する。すべての敵を一人残らず、かれらとその血族をも、絶滅せよ!」他方、家族の懲罰には、もっと実利的な政治的効用もあった。身内の者に懲罰がおよぶのではないかという恐怖は、裏切りを抑止する効果をもっていた(14)。
つまり、「社会主義国家の団結を破壊しようとする者」とはスターリンの神経系の役割を担わないすべての者である。それはその行動と思想によって、特にその思想によって、つまりそれは自分独自の考えを持つ者・・・それがいかなるものであれスターリンとは異なる考えを持つ者は絶滅させられるのである。それがどれほど共産主義の大義に合致していても問題ではないのである。そして、モロトフはスターリンの死後、あと少しスターリンが長生きしていたら自分は処刑されていただろう、と語ったという。それでもスターリンにたいする忠誠心はまったく変わりがない、というのである。これはアポトーシス心性の典型的な姿だといえるだろう。
*全体主義体制のこれ以降の発展、進展過程に関しては「マルクス主義の解剖学 19」第10章 第2節 憑依能力、を参照のこと。
第7節 狭義のスターリン主義、広義のスターリン主義
スターリン主義の定義を狭義のスターリン主義、広義のスターリン主義という大きく二つに分けた考察で示してみたい。狭義のスターリン主義の方は、今までも広く考察され議論されてきた現存したスターリン体制の根本をなすイデオロギー、思考形式である。しかし、広義のスターリン主義の方は今までまったく示されたことのない―ある人にとっては受け入れがたい考察かもしれない―そのような内容を含むものである。
狭義のスターリン主義は、現実の政治、経済体制として存在している(した)ものである。まず、それはソ連であることはいうまでもないが、第二次世界大戦以降はソ連が占領した衛星国、ここには強制的にスターリン主義体制が押し付けられた。そして、スターリン主義が移植された北朝鮮であり、これは後で独自の展開を遂げることになる。そして、内発的に社会主義革命を成し得た中国、ユーゴスラビアもソ連からやや距離があるとはいえ、スターリン主義的統治をしてきたとみなされている。キューバ、ベトナム、ポル・ポトのカンボジアなども共産主義国として存在している(した)。
スターリン主義は左翼全体主義の代表格であるが、左翼全体主義の性格を持つ体制は程度の差こそあれスターリン主義的体制だとみなされるだろう。その根本となる性格は、左翼全体主義の構造の中で解明してきたように、経済的グローバルブレインに向かう革命が反転してイデオロギー超有機体の形成になり、現実の生物学的、社会的形態の間でバランスを取り形成される。このとき、経済的グローバルブレインに向かうことが、例えばニューエイジ思想にあるような個人個人の修練によるものだとすれば、決してスターリン主義は生じないだろう。それは革命、、、ほとんどの場合このような状態の中で起こるわけだが―戦争中あるいは内戦や混乱の中で生ずる。つまり、社会全体で強制的、暴力的な社会主義への前進が開始され、それが後戻りのできなくなるような強烈な緊張状態が続くことによって、このような形態に向かうのである。官僚主義、計画的指令的経済、集産主義経済はイデオロギー超有機体の形成から必然的にもたらされる。ここからいえることは、例えば経済のみに着目し集産主義を目指したからといって、決してスターリン主義に至ることはないということなのである。というより、集産主義を最初から目指すということがほとんど考えられないのであり、唯物史観の理想社会を目指す革命をジャンピングボードにすることによって、初めて可能になるといえるだろう。
スターリン主義の定義は今まで多くなされてきたが、これまで考察されてきたことから理解されるように、外見上の性質を箇条書きにして並べるだけでは到底不可能だといえるのではないだろうか。このような意味における定義自体が不可能に思えてくる。それは複雑で刻々と変化していく動態であり、その過程の総体が「スターリン主義」だとみなした方がよいのではないだろうか。この問題に関しては例えば次のようなことがある。スターリン主義の特質に共産党内部に対するテロル、弾圧がある。これをイデオロギー内部破壊と呼んできたが、これをスターリン主義の定義のひとつだとすると、レーニン主義はイデオロギーの敵に対してテロルを行うが、そのような共産党の内部に対するテロルを行うことはまったくなかった。このことからもスターリン主義とレーニン主義はまったく異なるものであり、正反対のものなのだ―このような主張がある。このような差異によって、レーニンからスターリンへの継承性の問題は、議論の争点になってきた。
それはこのような生物学的メタファーを使ってみるのも面白いかもしれない。蝶は卵が孵化し、幼虫になり、それがさなぎになり、羽化することによって成虫である蝶になる。蝶の定義のひとつを「空中を飛翔するもの」だとすれば、幼虫やさなぎはこの定義から外れることになる。このことから幼虫、さなぎは蝶とは「縁もゆかりもないものである」といえばこれは明らかな誤りである。これらの外見上の異なる形態の奥にある本質は、いうまでもなく遺伝子であり、それが段階を追って発現していくことにより、このように非常に異なる形態や機能の差を生み出しているのである。スターリン主義を蝶、レーニン主義を幼虫、というようにたとえ、マルクス主義、唯物史観の理論を遺伝子とし、それが段階を追って発現していく過程だと捉えれば、無理のない説明ができるのである。もちろん、このような生物学的メタファーが非常に異なる社会学の対象にそのまま適用されるのか、ということが大問題であるわけだが、このイデオロギーの特殊性によってほとんど例外的にこの適用が可能になると考える。これが「イデオロギー遂行決定論」の骨格でもあり、これまでの考察により、この過程分析は相当程度なされたものと考える。イデオロギー遂行状態とは、この過程全体を意味している。つまり、「能力の壁」の壁にはね返され、そのイデオロギーの額面上の目的とまったく逆の方向に進んでも、それはイデオロギー遂行過程なのである。
それでは「広義のスターリン主義」とはどのようなものだろうか。これはまったく本論独自の解釈になることを最初に断っておきたい。それは現実形態としての狭義のスターリン主義、あるいは左翼全体主義体制を生みだす基本的な思考形式、論理形式そしてイデオロギーである。これらは本論の今までの考察の中で示されてきたことであるが、スターリン主義確立を考察したこの時点から演繹的にたどっていくことにしたい。
広義のスターリン主義とは、まず社会を階級構造として認識し、その最下層の階級のみを未来に存在すべき最重要の階級とする。そして、それより上位の階級を否定するのである。そのことによってよりよい未来が到来する、このような思考形式である。この時点ですでに、広義のスターリン主義の初期段階である。この上位の階級の否定、というのはいろいろな意味に捉えられるので、一様ではないのだが重要なポイントは「能力の壁」を認識しない状態で上位の階級を否定することである。ということはもちろん、これまでのこのような思考形式すべてに当てはまるということである。このことと関連して、前段階的な操作として「能力の壁」を「階級関係を簡単に反転できる―そのような壁は存在しない」ものとして認識するような―ほとんどの場合、無意識に刷り込まれるようなテキストとして示されることが多い。これが無意識的、意識的に追及されるようになると、広義のスターリン主義の初期段階から中期段階に進むと考えてよい。このような思考形式は一見まったくそうとは思われないようなところにも多く存在する。すでに本論において、そのような考察がなされてきたが、ここでその具体的な例を示してみよう。
白井聡『未完のレーニン』は最近発表されたレーニン論であるが、この中でユニークな論考が示されてある。それはマルクス―レーニンとフロイトを対比して論じている部分で、フロイトにおける抑圧された無意識とマルクス―レーニンの抑圧された労働者階級とは類比できるとする。精神分析による抑圧された無意識の解放と社会主義革命→プロレタリアート独裁による資本家に抑圧された労働者階級の解放が共通性のあるものとして論じられる。なるほど、これはもっともな印象を持つであろう。だが、本論で考察されてきたことを照らし合わせてみれば、これは最も根源的な誤りを犯しているのである。この二つが類比できそうに見えるのは表面上―特にそれが表現されている言葉が共通しているということが大きい。しかし、本質的には両者の差異の方が桁外れに大きいのである。すでに幾度も指摘されてきたことだが、これは「能力の壁」を存在しないものとする(それはほとんど無意識的な)操作である。
つまり、フロイトが対象にしているのは基本的には「ひとつの脳」であり、マルクス―レーニンが対象にしているのは「複数の脳の集合体」なのである。ひとつの脳の中で起こるさまざまな出来事、それは文化的要因などで抑圧された性の衝動であったりする。それを精神分析によって解放するということは、本来あった元の状態に戻るということである。しかし、マルクス―レーニンのいう抑圧された労働者階級は、本来あったプロレタリアート独裁の状態から資本家に抑圧されることによって今の状態になっているわけではない。だから革命によって資本家の支配を破壊したとしても、(本論の今までの考察により)本来あるべきプロレタリアート独裁→社会主義社会に進むことなどありえないのである。このようなプロレタリアート独裁を革命後の現実的な状況だとみなすことは、「複数の脳の集合体」を「ひとつの脳」のようにみなすことになる。
すなわち、広義のスターリン主義の初期段階、中期段階は狭義のスターリン主義の遺伝子の構造が形成されていく段階だということである。これはもちろん、現在のわれわれがスターリン主義というものを明確なものとして認識できる歴史的段階にいるからこそ、このような見方ができるわけである。しかし、歴史全体を見渡してみればこのような思考形式、論理形式、思想というものはある意味、ごく自然なものであり、多種多様な膨大な人々が関わってきたことである。そして現在においても、過去に比べれば少なくなってきたとはいえ、まだ多くの人々の胸中に存在するものであろう。それはことさら主張されるようなものではなくなったとしても、心の中に存在するものである。そしてもちろん、一部の人においてはいまだ精力を集中して追及するべきものとなっている。最大の逆説的問題は、これら広義のスターリン主義を追求し、支持する人々はこれはスターリン主義とは正反対のものであるという認識を持っていることである。本論における広義のスターリン主義とは、いまだこの社会、世界にあまねく普遍的に存在することになる。広義のスターリン主義はいまだこの社会に満ち満ちている―極端にいえばこのようになるだろう。
広義のスターリン主義の後期段階は、それまでの基本的な思考形式、論理形式がさらに精緻化し、具体性を増し、イデオロギーとして強固なものになる段階である。ロシア革命以前のボリシェヴィキがこれに相当する典型的な事例であろう。
狭義のスターリン主義、左翼全体主義体制が生じないという可能性はあっただろう。それは歴史的にみて、さまざまな偶然、特殊な条件がそろうことによって生じたのであり、そうでない可能性も当然考えられるところである。しかし、人類が広義のスターリン主義を回避できる可能性はほとんどなかったと思われるのである。マルクス主義、唯物史観は広義のスターリン主義の最大のものであるが、それだけにとどまらず他の思想、イデオロギーにも生ずるものである。(例えば、ポル・ポトのクメールルージュ)また、過去のマルクス主義以外の共産主義思想が、必ずしも広義のスターリン主義的だとは限らない。ただ、歴史総体への直感的な理解として広義のスターリン主義は避けられないものであろう、と思うのである。
「スターリン主義の形成」はこれにて完結です。
注
(14)アーチ・ゲッティ、オレグ・V・ナウーモフ編著 『ソ連極秘資料集 大粛清への道』川上洸 萩原直訳 大月書店 2001年 513頁
『スターリン主義の形成』
第5章 アポトーシス全体主義論
第1節 全体主義論へ
前章まで、「マルクス主義の解剖学」に基づいてロシア革命からスターリン主義形成までを考察してきた。「能力の壁」に抵触することは、全体的に発達した個人の途方もない能力が要請される。その不可能性から、階級としてのプロレタリアート独裁→社会主義社会→共産主義社会への移行は巨大な壁にぶち当たったように立ち往生してしまう。しかし、社会主義革命により、もはや後戻りの利かなくなったボリシェヴィキは前進していくしかないのである。それはまず、マルクスのいう資本制生産様式の否定を現実化することであり、次に高度な生産力を達成することによって社会主義社会への基盤を作ることであった。だが、そのためには資本家に代わる官僚による階級社会が形成されていき、計画的、司令的経済が構築されていった。そこでは共産主義社会へ向かう本来のプロレタリアート自身による経済の運営ということは、まったくの空文になってしまったのである。これがイデオロギーの原理的矛盾の現われであり、そのことによって党内や社会に鋭い対立関係が生じてくる。それを押さえ込むための弾圧、テロルが際限なく肥大化していったのである。革命の初期にはイデオロギーの敵に対するイデオロギー外部破壊が進行する。しかし、それが達成されても革命の過渡期が終わることはない。次に内部対立によるイデオロギー内部破壊が進行し続ける。イデオロギーの原理的矛盾が解決されることはない―これはすなわち革命の過渡期が永久的に続く・・・あるいは別の表現をすれば革命の過渡期などというものはなく、これが本来の姿なのである。全体主義体制と呼ばれたものが完全に固定化されて続いていくことになる。
この章のタイトルは「アポトーシス全体主義論」である。これはまったく新しい造語であり、従来の全体主義論から区別するために付けられたという意味もある。アポトーシスの意味は次の節で説明することとし、ここでは今までの全体主義論について若干触れることにしたい。全体主義論は第二次世界大戦以前からいい始められ、戦後冷戦期にイデオロギー的な意味が極めて強い使われ方をした。だが、全体主義論の歴史についてはここでは深入りしないことにする。また、この概念についてのさまざまな問題点が多く議論されてきたが、それにも触れないことにする。本論はこれら問題点に対する応答の意味もあるが、そのことを特に論じることはしない。スターリン主義との比較で常に論じられるナチズムも多くを論じない。本質的な規定を考察する際にナチズムは比較対照されるのにとどめたい。
20世紀を代表する二つの全体主義「ナチズム」、「スターリン主義」はその表面上の類似性から共通の要素が強調され、同じ全体主義の中にくくられることが多い。しかし、その本質的な差異についての追及は十分なされてきたとは言い難い。その理由のひとつはスターリン主義がその根本となるイデオロギーとの関係において、極めて逆説的な展開を遂げてきたという点にあるだろう。しかし、静態的な構造において両者は根本的に異なっている点が指摘されてきた。それが階級構造に対するアプローチである。すなわち、「ナチズム」のイデオロギーは階級構造を垂直に分割することによって、階級構造それ自体は維持しながら、それを民族、人種という生物学的根拠によって区分けするということである。アーリア人を最高のものとし、反対にユダヤ人を存在してはならないものとしての絶滅の対象とする。スラヴ人はアーリア人の奴隷として生きていくことはできる。イデオロギーが目的とする状態に達すれば、別の階級構造に編成されるが、最初の起点においてはそれぞれの階級構造を垂直に分割しているのである。
ボリシェヴィキ、「スターリン主義」のイデオロギーの目的は階級構造を水平に分割し、ブルジョワジーの階級を絶滅することによって、プロレタリアートのみの無階級社会を実現することであった。しかし、結果的に官僚による階級社会がブルジョワ社会よりも強い階級構造を持つことになり、階級間の抑圧やそれによる疎外が大きくなった。この目的と結果の大きな隔たりにより、「スターリン主義」の全体主義をイデオロギーとどう関連づけるかは極めて難しい問題になったのである。しかし、ロシア革命における初期の目的が、階級構造を水平に分割することであり、それを基準にして社会を構成し、運営していこうとしたことは間違いのない事実である。その結果いかんにかかわらず、このイデオロギーは階級構造を水平に分割することを本質とすることは確実にいえることである。このように「ナチズム」は階級構造を垂直に分割する―これを右翼全体主義と呼び、「スターリン主義」は階級構造を水平に分割する―これを左翼全体主義と呼ぶことは一応の妥当性を持っている、といえるのではないだろうか。
アポトーシス全体主義論は、全体主義全体を対象にするのではなく、その中の左翼全体主義―その代表が「スターリン主義」―を対象にする全体主義論だということである。これは左翼全体主義に特化された分析であり、「ナチズム」を代表とする右翼全体主義は対象としない。アーレントの『全体主義の起原』はこの二つの全体主義を扱ってはいるものの、そのタイトル通りの「起原」を解明しようとしたのは「ナチズム」に対してであり、「スターリン主義」あるいはボリシェヴィズムに対しては、その追及は極めて不十分なものであった―このような指摘がなされている。これはこの書物が書かれた過程からして当然のことであるが、アーレントはこの欠点をよく自覚していたので、この著作の発表のあとマルクス主義に対する研究をかなりしたようである。本論はちょうどこの部分に相当する「全体主義論」でもある。
第2節 アポトーシスのメタファー
アポトーシスとは生物学で用いられる用語であり、社会学で使われることはほとんどない。アポトーシスとは細胞内の遺伝子により、あらかじめプログラムされた細胞死のことである。アポトーシス(apoptosis)とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理、調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死のことである。これに対し、血行不良、外傷などによる細胞内外の環境の悪化によって起こる細胞死は、ネクローシス、または壊死と呼ばれ、これと区別される。多細胞生物の体内では、癌化した細胞(その他内部に異常を起こした細胞)のほとんどは、アポトーシスによって取り除かれており、これにより、ほとんどの腫瘍の成長は未然に防がれていることが知られている。また、生物の発生過程では、あらかじめ決まった時期、決まった場所で細胞死が起こり、これが生物の形態変化などの原動力として働いている。この細胞死もアポトーシスのしくみによって起こる。例えばオタマジャクシからカエルに変態する際に尻尾がなくなるのはアポトーシスによる。人の指の形成過程も、最初は指の間が埋まった状態で形成され、後にアポトーシスによって指の間の細胞が死滅することで完成する。さらに免疫系でも自己抗原に反応する細胞の除去など重要な役割を果たすのである。
人の指の形成過程に着目してみると、胎児の段階で「個体発生は系統発生を繰り返す」ことにより、進化の過程を再現するといわれている。生命進化は長い間、海の中で進んできた。それから陸上に上がる段階で水と陸の両方で生息していた時期がある。この時、ひれや指の間に水中を進むのに必要な水カキが形成されている。胎児には初期にこの水カキがある。それがアポトーシスによって指の間の細胞が自殺していき、生まれる時には完全に本来の手となっている。しかし、ごく稀にこのアポトーシスの遺伝子に異常がある遺伝病があり、新生児になっても水カキが残っていて、指と指が完全に皮膚で癒着しているのである。この場合、手術によってしか治らない。
このアポトーシスの概念を社会学にメタファーとして適用するのが、本章の特質である。このようなメタファーが適切であると思われるのは、このイデオロギーによる構造力学が意識されるものとしてより、無意識的な、深層心理として作用しているという特性から来ている。これは人種主義を特徴とするナチズムと比較してみるとよくわかる。ナチズムの場合は、これよりもはるかに意識的であり、その行動はその言説とほとんど一致している。ユダヤ人を絶滅させるのにアポトーシスという概念を使うのは不適切であるし、そのような必要もないのである。アポトーシスは生物学用語であるがゆえに、社会学から見ればより無意識的であり、意志から隔たった自然法則である、という側面もある。これが、左翼全体主義を説明する上で適切な微妙なニュアンスをもたらしてくれることを期待するのである。スターリン主義形成に至る共産党や社会における言説と行動の乖離の関係を表現してくれるのである。
私が左翼全体主義、スターリン主義形成の構造を解明するうえでアポトーシスをメタファーとして使用するというアイディアを思いついたとき、偶然にも社会主義、共産主義を考察する上でこのアポトーシスを使用している文献に出会った。これはソ連崩壊後、ロシア革命からスターリン主義形成に至る過程を批判したマルクス主義思想家いいだももの著書『20世紀の<社会主義>とは何であったか』の中で使われているものである。これは社会主義、共産主義社会が形成される時の「国家権力の社会による再吸収」と同じ意味に使われている。これが本章の考察と非常に面白い対照をなしているので、それを取り入れて検討することにしたい。その文章とは次のようなものである。
マルクス的共産主義は、価値形態に抽象化される価値増殖運動の動源である〈商品・貨幣・資本〉の究極的廃絶、したがってまた市場原理・競争原理・効率原理の究極的廃絶を価値目標としているだけでなく、国家の死滅、政治の死滅をも価値目標としている。「社会的精神を以てする政治革命」を革命の基本理念とするマルクス的共産主義=運動は、そのような政治革命そのものを通ずる政治の消滅、そのようなコミューン型権力そのものを通ずる国家の死滅、権力の死滅、権力の廃絶、といった自己矛盾・自己革命・自己死の内在化を歴史的特性としており、マルクス的共産主義=運動における国家論・政治論はまさに、あらゆる近代政治=ブルジョア政党政治から裁然と本質的に自己区別するそのような特性においてこそ際立っているとしなければならない。
自己死を内在化させている有機的組織体とは、現代生物学的比喩を用いるならば、アポトーシス(自死)の機能・機構をもつ組織体であろう。歴史的構成物である〈国家〉や〈政治〉は、やがてネクローシス(壊死)にせよ、アポビオーシス(寿死)にせよ、死滅せざるをえないものであるが、アポトーシスを内在させた共産主義=運動はそのような将来社会を先取しているのであり、共産主義者党が権力主義におちいらないための究極の思想的保障もまたそこに存するのである。生体を正常に生々発展させるための特定の「プログラムされた細胞死」=アポトーシスが順当に死滅をとげてゆかない場合には、T細胞白血病、慢性関節リウマチ、癌、自己免疫疾患、エイズ等の 症状が生体にあらわれるにいたるともされている。イモムシのサナギから蝶への成長転化にしても、オタマジャクシがカエルに変態する際の尻尾の消失にしても、アポトーシスの「おかげ」といってよい。個体の形成、生体のホメオタシス、種の保存といった生命現象の根幹にかかわる機能を、アポトーシスは果たしているのだ。
マルクス的共産主義は、当然のこととして、政治(政治社会)よりも生活(生活社会)の方が、深くて広くて大きいことを、前提にしている。〈共産主義〉として価値目標化される社会は、商品社会ばかりでなく、国家社会もそこにおいては無化しているような社会として、主体社会であり、自治社会であるのであって、そのような共産主義社会は類的存在としての人間が営む生産・生活関係がいわば直接に透明に流露する社会にほかならない。われわれが資本制社会という階級関係・国家関係のなかに現に生きている以上、まさにそのような共産主義的価値目標へと向けて政治闘争を展開しなければならない以上、ただ単に観念的に「生活は政治より底深く大きい」という抽象的テーゼをくりかえすことは、自称「生活者」概念に居直って政治から逃亡していることを合理化するだけで、何事も言ったことにならない空虚な詐話にしかすぎないが、こうしたマルクス的共産主義の原理そのものは、共産主義者自体において政治・政党の政治権力を相対化することに役立つ。この相対化の原理を欠く場合には、「社会的精神を以てする政治闘争」といえども、いつでも・どこでも目的と手段の顛倒が起こりうるのである。政治的国家を廃絶するための国家をめぐる政治闘争という自己矛盾的本質をもつ「マルクス主義的政治」は、まさにその原点において自己相対化の契機を内包しているといえる。過渡期としてのプロレタリアート独裁そのもの、共産主義的政治結社(政党)そのものが、予めアポトーシス(自己死)の機能を内的にプログラミングしていなければならない所以である(13)。
以上の引用文を批判的に検討してみよう。本論では、すでに大局的には結論が出ている問題であるが、それを一度、脇において、異なる角度からこの引用文を考察することにする。これはソ連を批判するマルクス主義者、共産主義者全体に感じることなのだが、このような批判的言説は一体「誰に」向かって、具体的に「何」を「どうしろ」と言っているのだろうか?レーニンに対してだろうか、トロツキーに対してだろうか、スターリンに対してだろうか、ボリシェヴィキの上層部に対してだろうか、ボリシェヴィキ全体に対してだろうか、それともソ連国民全体に対してだろうか、それは極めて不明瞭である。そして、アポトーシスというメタファーを使うことは別の側面も考えられる。それはイデオロギーを遂行する主体にとって、アポトーシスはイデオロギーそのものに内的にプログラムされてある、ということを意味している。とすれば、そのイデオロギーそのものの思想、理論の中にプログラムされてあることになる。そうすれば、「アポトーシスがプログラムされていなければならない」―という批判の相手はマルクスということになるだろう。ところが、このように言うマルクス主義者の中に、そのように考えている人はいないということなのである。このような批判の矛先をマルクスに向けることは、マルクス主義者ではないことを意味するらしい。つまり、そもそもこの批判の言説は「誰に」向かって述べられたものかよく分らないのである。
アポトーシスがプログラムされてある(あるいは、プログラムされていない)主体や有機体にとって、アポトーシスは自らの意思の範囲の外側にある。例えば、先に挙げた胎児の段階で指の間にある水カキが死滅していくアポトーシスの遺伝子に異常がある遺伝病の患者にこのように言ったとしよう。「このように指と指が皮膚で癒着しているのは、胎児の段階で作動するはずのアポトーシスが働かなかったせいである。遺伝子にアポトーシスがプログラムされていなければならないのだよ」。すぐにわかるように、この遺伝病の患者にとってこれはどうにもならないことである。この患者の意思や努力、そのようなものの力の及ぶ外側にそれはすでに決まったものとして存在しているのである。同じことは、ボリシェヴィキに対してもいえることになる。もし、革命後の努力によってそれがどうにかなるものなら、アポトーシスというメタファーはあまり適切ではない、ということになるだろう。それは具体的な「何を」「どうしろ」を考えなくてもよいという口実にもなる。だから、アポトーシスのような概念を使う場合、その批判の矛先は理論を作り出した根源、マルクスその人に向かうのは必然なのである。ところが、マルクスをそのことによって批判するのはマルクス主義者としてタブーなのである。ここまで来ると非常に矛盾した観念的な感じがしてくるだろう。
さて、このような批判点があるが、この引用文によって示されたアポトーシスをここではアポトーシスBと呼ぶことにしよう。なぜBなのかといえば、第1章 第1節で示されたスターリン体制形成の解釈の二つの立場、AとBのうちBの立場に対応しているからである。つまり、アポトーシスBが起きなかったのはマルクスの理論に原因があるのではなく、それ以外の客観的条件、あるいはスターリンの裏切りといったものに原因を求めているからである。そもそもこのような著作は、マルクスに原因があるとは微塵も考えていないような論調で全体の議論が進められているのである。そうすると、スターリン体制形成の解釈Aの立場に対応するアポトーシスAがあるのではないかと想定されるかもしれない。実はこれこそが本章の中心となる問題である。
第3節 経済的グローバルブレイン
ここから「能力の壁」のラインを越えた社会、唯物史観における社会主義社会、共産主義社会、アソシエーション社会、そして、その社会を構成する全体的に発達した個人、アソシエイトした個人を詳しく考察していきたい。「マルクス主義の解剖学」第10章 左翼全体主義 第1節 構造、で考察されたことであるが、そこでは簡略的に示すことに止めてあった。具体的なスターリン主義形成を考察してきたこの段階で、再度詳細に検討していくことにしたい。重複となる部分もあるが、ここは本論で最も重要であり、難解なところなので詳しく論じていくことにしたい。すでに今まで示された通り、この領域は社会学の領域ではない。これはまったく常識に反することである。1世紀半に及ぶマルクス主義の歴史において、長い間まったく当然のように社会学、その中の歴史、経済、政治などの問題として論じられてきたのである。資本制生産、市場経済の分析と批判の否定形としての共産主義社会は、具体的に論じられたことはなく、非常に抽象的な概念にとどまっている。なぜ具体性がないのか、という批判に対して、マルクスはそのような具体的な姿を描くことは無責任なことであり、それを抽象的な規定にとどめることは学者としての良識であると考えていた―このような好意的な見方がされてきたのである。しかし、これ自体が的外れであることはもはや明らかなのである。共産主義社会の具体性とはいったい何なのか―それは何時に起きて、何時間仕事をする、そのような問題ではないのである。その具体性とは知識や情報がどれくらいの速度で、ある脳から別の脳へ伝達されるかという数字で示される尺度なのである。
それは資本主義、市場経済、分業、階級構造をもった社会に対して天文学的な数字になる。その数万倍、数億倍、あるいはそれ以上かもしれない。これは通常、まったく非現実的なことである。しかし、社会学以外の領域まで広げさまざまな可能性を考えた結果、本論では脳と脳がダイレクトで結びつくような情報伝達が社会全体で達成されるような状態をその可能性として考察した。つまり、脳内のさまざまな領域がクオリアの表象、志向性の発現、無意識的な運動の制御などを担い、それらがひとつに統合されるように、社会全体がそのような統一されたひとつの頭脳になるような状態である。まさにこれは想像することが極めて困難な状態であるが、それは膨大な知識、情報が明確なクオリア、意識を持って表象されなければならないという点に表れている。
従来のニューエイジ系の思想においては、これだけ明確な意識としてグローバルブレインが考察されたことはほとんどないといってよい。その大部分は無意識的な領域に手がかりを得ているからである。これはユング心理学の「集合無意識」とも関連している領域である。しかし、共産主義社会を実現させるためには、このような曖昧な無意識では話にならないことはいうまでもない。つまり、経済を成立させるためには情報は完璧でなければならない。それは明確なクオリア、意識として表象されていなくてはならないのである。そこで本論では、従来のニューエイジ思想でいわれた無意識的な、曖昧なグローバルブレインと共産主義社会、アソシエーション社会を実現するために必要な意識的なグローバルブレインを区別するために、意識的なグローバルブレインを「経済的グローバルブレイン」と呼ぶことにした。
ここで誤解されやすい論点を再度明確にしておきたい。それは「経済的グローバルブレイン」は、唯物史観の対抗概念として提示されているものではない、ということである。「経済的グローバルブレイン」は唯物史観の未来社会を成立させるために、身体労働と頭脳労働を統合させるための論理的帰結である。それは情報伝達の超高効率化を実現させるためには、現実の脳から脳への伝達経路、末梢神経、筋肉、感覚受容体を経ていたのでは到底、不可能だという結論から来ている。それはある意味、唯物史観の未来社会論を今まで論じられたことのない別の側面から補完したものだといえる。
それでは唯物史観と経済的グローバルブレインは、哲学的な問題ではどのように関係してくるのだろうか。これは非常に複雑で逆説的な論理構造を持つ難解なものである。まず、唯物史観の哲学的な立場、それは当然「唯物論」である。この立場からすれば常識的には経済的グローバルブレインのような情報伝達は、まさに非科学的なものであり、唯物論にまったく反するものである、このようにみなされるだろう。(ここでは「唯物論」「観念論」の哲学そのものの問題には立ち入らないことにする)しかし、現代の心脳問題においてクオリア、意識とそれが生ずるための脳内の物質的状態との間に完全な同一性はないことは明らかなのである。それは明らかに非局所的な性質を持ち、それが脳外に拡張されるという可能性はゼロとは断定できないだろう。その場合でも、物理法則に抵触することはない、と思われる。もちろん、これは歴史ではなく進化論的タイムスケールでの話であるが。
最大の問題は、マルクス主義、唯物史観の理論体系の中に知識、情報に関するアプローチが希薄であることである。資本制生産における身体労働を成り立たせる知識、情報を司る頭脳労働の領域は、当然それに対応している物理的、物質的な状態がある。管理職や技術者、事務職を考えてみれば、外的な状況としては専門的な書物、資料、さまざまなデータが記載される書類、計算機、パソコン、さまざまなものがある。内的にはそれらの人々の身体、特に脳が中心になることはいうまでもない。それらのニューロンの状態、結合パターン、神経伝達物質の状態などが物理的な基盤として存在している。当然、それらは最終的には、それを構成している分子や原子に行き着くだろう。身体では水素、酸素、炭素、窒素、カルシウム、カリウム、マグネシウム・・・これらは身体労働者も頭脳労働者も等しくいえることである。すなわち、これら知識や情報は物理的、物質的な基盤を持っている。これを無視するものが唯物論であるはずがない。そうなると、とてつもない逆説的な状況になる。唯物史観の体系の中にまったく唯物論を無視している重要な領域がある。これはもう観念論の極致といえるだろう。
これが体系性の持つ難解さ、あるいは恐ろしさともいうべきものである。体系のなかに10の要素があり、そのなかの9までが唯物論に立脚した科学的なものであったとしても、残りのひとつが観念論のなかの完全な形而上学だったとしたら、その体系のすべてが形而上学に転化してしまうのである。それは唯物論の外観を持ちながら、その内実は観念論の極致ともいうべきものになってしまう。唯物史観はまさにそのようなものである。そして、それを補正した結果、導き出された結論が「経済的グローバルブレイン」ということになる。経済的グローバルブレインの物理的、物質的基盤は物質的使用価値に直接対峙している労働者、プロレタリアートのみとなり、その頭脳労働領域を担うのはそれらの人々の頭脳だけとなる。つまり、今までその頭脳労働領域を担っていた上の階層、階級の人々、システムは完全に消滅している。プロレタリアートはその頭脳労働領域の全システムをまったく何もない空中に構築しなければならないのである。それが個人と個人の脳がダイレクトで結びつき、それらの知識、情報を伝達し、処理し、意思決定、合意形成をおこなう超絶した能力を持ったプロレタリアートなのである。すなわち、共産主義社会、アソシエーション社会、全体的に発達した個人とはこのようなものである。
そして、社会主義革命によってそのような社会に至るということは、上部の階層、階級が破壊され、消滅していく。最初にブルジョワジーの階級が破壊され、消滅していき、次に残った階層が先に検討したアポトーシスBによって消滅していくということになる。ここでも革命によるブルジョワジーの物理的弾圧、破壊が次のアポトーシスを生じさせるという因果関係として設定されてある。これが「増幅された能力転移」として今まで幾度となく考察されてきたことである。これが正しいかどうかは、もちろん論ずる必要はないだろう。
第4節 イデオロギー超有機体へ
いうまでもなく「経済的グローバルブレイン」は非現実的なものである。社会主義革命後の社会においても、それ以外のどの社会においてもこのような能力を持った人類が出現したという報告はない。それにもかかわらず、この社会を強引に目指し続けたらどのような事態になるか・・・それがこれから検討すべきことである。超巨視的なレベルにおいての結論は次のようなものであった。「経済的グローバルブレイン」の最も本質的な属性はこの地上にひとつの脳しかない状態を実現させることである。ひとつの脳というのはメタファー的な意味合いを持つが、現実にそれと等価、あるいは極めて近い状態を意味している。しかし、現在の人類は到底そのような状態には達しえない。そうするとこのグローバルブレインの代替作用が起こる。つまり、現在の人類の能力内において「経済的グローバルブレイン」にできるかぎり近い状態を目指すことになる。同じく、この地上にひとつの脳しかない状態を目指すのである。それができるかどうかということは問題ではない。無制限の権力を握った共産党があらゆる手段を使って、この状態を目指すことになるだろう。
ここで重要なことは、このイデオロギーを遂行している主体にとって、この「経済的グローバルブレイン」も、その代替作用もまったく意識されることはない、ということである。それは深層の論理であり、その深部から突き動かされるマリオネットになるのである。イデオロギー遂行の主体にとって意識は、この無意識によって常に規定されている。本人の意識にとってそれは不可解であり、不条理であってもそれに従わざるをえなくなる―そのような状況に陥るのである。
経済的グローバルブレインは「能力の壁」を克服した状態であることは、すでに明らかにされてきた。これを克服できる能力を得られなければ、その代替作用が起こることは絶対に避けられないのである。その代替作用の結果、「経済的グローバルブレイン」はどのように変形されるのか・・・これは論理的必然性を持って導くことができる。それは第一にまったく等しい本質的属性―ひとつの脳を社会全体に実現させることである。つまり、社会全体の成員の中で対象にされるべき人格的存在としての脳はひとつしかない状態である。現実の社会においてそれに最も近い存在は、無制限の権力を手に入れた独裁者であることは容易に導きだせることである。しかし、これはまず、現実的な考察ではなく、理念的な形態として考察しなければならない。その理念的な形態をここでは「イデオロギー超有機体」と呼ぶことにした。
それはピラミッド型の社会の階層構造の頂点に、絶対的な1人の人間がいて、そこから社会全体にくまなく指令を発し、あらゆる部分の情報をすべて手にする―そのような存在である。それは社会全体を統一的なひとつの有機体として捉え、頂点に立つ1人の人間の「脳」から伸びる末梢神経として、それ以外の社会の成員が構成されるような形態である。そして、物質的使用価値に対峙する労働者は筋肉、手足となるだろう。また同時にそれは感覚受容体であり、それらの情報は神経系を伝わって頂点にあるひとつの脳に正確に伝わらなければならない。中間の階層を構成する成員もすべて情報を入力、出力する神経細胞と同じ存在なのである。
経済的グローバルブレインとイデオロギー超有機体は対極的な存在だといえるし、また本質的に同一な属性を持っているともいえる。両者の関係はいまだかつてないような両義性を持っているといえるだろう。経済的グローバルブレインはその成員のひとりひとりが、まさにマルクスがいった人間的解放の状態を実現しているといえる。それは当然、ひとりひとりが人格的存在として認められているのである。しかし、それは「能力の壁」を克服出来た場合にかぎり認められるものなのである。もし、それが出来なかった場合はどのような事態になるか。社会主義革命の成功によってもたらされたイデオロギー遂行状態は、客観的な情勢、その他もろもろの要素に関わりなく「ひとつの脳」に向かう強力な動力学が作用し続ける状態なのである。それが経済的グローバルブレインの代替作用として、イデオロギー超有機体が形成されていく動因である。この法則が必然的にもたらす状態は、社会を構成する複数の脳のうち人格的存在としての脳はひとつだけとなり、それ以外の脳を非人格化することである。つまり、(ある特殊な意味における)完全な平等は達成されるのである。選ばれたひとつの脳以外の脳は平等云々の対象ではなくなったからである。これがマルクス主義、共産主義、唯物史観の行き着く現実的な「平等」である。もちろん、これは極限的な遂行状態を推し進めた場合にかぎりたどり着くものであるが―これは完全に法則としての論理的帰結である。
「能力の壁」を克服できる→経済的グローバルブレイン
「能力の壁」を克服できない→イデオロギー超有機体
もちろん、いうまでもないことだが唯物史観からみた場合、イデオロギー超有機体は縁もゆかりもないどころではなく、まさに対極的な状態である。これが唯物史観論者の意識、主観であることは明らかなことである。しかし、「能力の壁」を克服できなければこの状態に向かうしかないのである。ここでさらに次の問題が生じてくる。経済的グローバルブレインはまったく非現実的なことであるが、イデオロギー超有機体も同じく非現実的なものであることは自明である。そもそも、社会構成員が神経系とまったく同じような存在になるなどということはありえない。イデオロギー遂行が極限的に推し進められる状態は、イデオロギー超有機体に向かう強力な力学が作用している。しかし、イデオロギー超有機体と現実の社会、人間存在との間には絶対的な隔たりがある。この隔たりをギリギリのバランスを保って統合しようとする状態、それが現実の全体主義体制だというのが本論の結論なのである。
注
(13)いいだもも 『20世紀の<社会主義>とは何であったか』 論創社 1997年 385~387頁
『スターリン主義の形成』
第4章 スターリン主義の確立
第1節 スターリン主義の確立
1930年代に農業集団化、工業化5ヵ年計画を通してソ連の社会主義は確立されていったとみなされている。そしてそれは農村に想像を絶する悲惨な状況をもたらし(600万人ともいわれる餓死者)、工業化は農民から徴収した農産物を輸出することによって成し遂げられた。しかし、それは公式発表とはかけ離れた非常に無駄が多く、内容の伴わないものであったのである。それでも、ソ連の工業はかなりの発展を遂げた。大恐慌に喘ぐ資本主義諸国に対して、社会主義建設の熱気に溢れる局面であった。共産党内部では、この成果に対するスターリンへの公然たる、あるいは密かな批判、反発が生じてきた。1934年の第17回党大会は共産党とスターリンの勝利を宣言する勝利者の大会といわれたが、スターリンは自分に対抗する勢力の存在を敏感に感じ取り、その殲滅を密かに決心したと言われている。その年の12月に政治局員キーロフの暗殺事件が起こり、これを口実にスターリンは反対派、あるいはその潜在的可能性のある者の弾圧、撲滅作戦を開始したのである。幾つかの段階を経た後、まずジノヴィエフ、カーメネフが見世物裁判の後、処刑された。さらに赤軍の重要な位置にあったトハチャフスキーら司令官、将校を大量に処刑し、1937年から38年にかけて一般国民からさまざまな階層にかけて大量テロルの嵐が吹き荒れた。ボリシェヴィキの古参党員が、次々とまったく身に覚えのない陰謀を告白し銃殺されていったのである。この時期のテロルの犠牲者は70万人とも100万人ともいわれている。また同程度の人が強制収容所送りとなり、その大部分が生きて帰ってくることはなかった。スターリンはこの人類史上類例のないテロルによって、まさに絶対的な独裁者の地位を固めたのである。
ロシア革命からスターリンの権力確立まで、歴史のかなり詳細な具体的細部まで立ち入って、イデオロギーとの関連で解釈を進めてきた。これはそのような必然性があって、歴史叙述をしてきたのであるが、1930年代に入ると様相がかなり変わってくる。歴史の具体的細部を検討してもイデオロギー的解釈はほとんど均一なものになっていく。もちろん、この時期は農業集団化、超工業化、キーロフ暗殺、大テロルともっともスターリン主義確立のダイナミックな、そして理解することの困難な重要な時期であるが、それ以前の1920年代末のスターリン権力確立までの時期と比較すると、すでに基本的な方向性は定まっているのである。この歴史の具体的細部をイデオロギー分析の対象として行くことは、同じことの繰り返しが多くなり、また多くの叙述が必要になってくる。本論は歴史書ではなく、イデオロギーの視点からソ連体制形成、スターリン主義形成を解釈することを目的としている。そこで、もっとも重要と思われる大テロルに焦点を絞って、それを中心に考察を進めていきたい。この時期の研究は多くなされ、またソ連崩壊以降多くの資料が公開されている。さらに、自叙伝など体験を記したものも多い。他の詳しい歴史叙述、歴史的解釈はそれらの文献に任せることとし、本論は今までに示されたことのない、まったく新しいスターリン主義形成の解釈を示していきたい。なお、本論にもっとも適合的な邦語文献は(マーティン・メイリア著『ソヴィエトの悲劇』第六章、第七章)(リ・バンチョン著『スターリ二ズムとは何だったのか』第四章)などである。
イデオロギー遂行決定論―イデオロギー遂行の内的、外的条件が満たされ続ければ、必然的にスターリン主義に至る。この論証はすでにかなりの程度、なされたものと考える。すでに見てきたように、イデオロギー遂行に関するある歴史事象が起こったときには、そうなるべき萌芽はそれ以前の段階にすでに内在しているのである。このイデオロギー遂行において、それはほとんど必然的に連関していることがわかるのである。それはこのイデオロギーが、生物学的基本能力に抵触している・・・自然科学的厳密さで決定される因果関係をもたらすからである。そして、これは他のいかなるイデオロギーとも異なるものであるということを、いくら強調しても強調し過ぎることはない。これを決してイデオロギー一般論と考えてはならないのである。ロシア革命からこのスターリンの権力確立まで、当然、蓋然性が存在するがそれはイデオロギー遂行の内的、外的条件が満たされなくなることの蓋然性なのである。スターリンが権力を確立した1930年代におけるイデオロギー遂行の条件が満たされなくなる蓋然性は、もはやほとんどないといってもいいのである。(スターリンが急死する、というようなことがないかぎり)このイデオロギーをどのようなことがあっても徹底的に遂行することがスターリンの不動の決意である。それがどのような結果をもたらすか―それをこれから解明していくことにしたい。
第2節 大テロルの様相と問題点
まず、大テロルの事例を取り上げることにしたい。これは大テロルによって、人生を断ち切られた人の簡略な物語であるが、それがどのような状況で、どのような経過をたどって起こったのかを知ることは有用である。そのことは本人だけでなく、家族、友人、知人にどのような影響を及ぼすかということも重要である。これはこの時期の70万人といわれる犠牲者のたった1人の事例である。そしてこのようなことは、この時期以前も、以後も規模こそ小さくなったが決してなくなることはなかったのである。そしてこのテロルは、レーニン時代のテロルとその形態、性質が異なったものになっていることにも注目したい。レーニン時代のテロルとスターリン時代のテロルはどのような本質的な異同があるのだろうか。それは、レーニン時代のテロルがイデオロギーの敵、すなわちイデオロギーの外部に向かって放たれたものであるのに対し、スターリン時代のテロルはそのようなはっきりとしたイデオロギーの敵に対してではなく、イデオロギー体制への内部に向かって放たれたテロルである、ということである。これを「イデオロギー外部破壊」と「イデオロギー内部破壊」として区別することを示してみた。この差がまたレーニンよりもスターリンを非難する主要な要因となっている。つまり、「ブルジョワジーを殺るのは良いが、身内を殺るのはけしからん」というわけである。この問題についても解明を目指すのが本章の目的である。
人民の敵アレクサンドル・ユーリエヴィチ・チヴェリは、1937年3月初旬のある日、ソ連秘密警察の銃殺班によって処刑された。世界をゆるがすこともなかった一日だった。■アメリカのジャーナリスト、ジョン・リードの一〇月革命見聞記「世界をゆるがした10日間」をもじった表現。
一介のジャーナリスト、編集者、中堅どころの幹部にすぎないチヴェリは、どうみても当時の重要公文書に特記されるような人物ではなかったし、スターリン権力の中枢にいたわけでもない。しかし、そうだからこそ、いうなればごくありふれたソヴィエト人の典型として、この人の身の上は語るにあたいする。チヴェリは、なんらかの理由で、あるいは理由などなしに、1937年と1938年に処刑された70万人近くの市民のなかの一人となった。これらの人はすべて、「反革命」とおぼしきさまざまな分子を排除して共産党とソヴィエト連邦を浄化するという名目で、多くは裁判その他の法的手続きをふまずに、処刑された。チヴェリの経歴は、スターリン時代のテロの縮図でもある。
チヴェリは、世紀があらたまる直前にバクーで生まれた。そこからほど遠からぬところで、若き日のスターリンが非合法革命家として活動しはじめていたころである。両親はさる外資系会社につとめるホワイトカラーだった。辺境のユダヤ人家庭に生まれたため、一生うだつがあがりそうもないと思われたが、しかしアレクサンドルはあたまのよい子で、幼いころから英語、ドイツ語、フランス語を勉強し、使いこなせるようになっていた。
政治にも関心をもち、16歳でバクーのシオニスト学生組織に加盟した。ロシア帝国の非ロシア地域で政治に積極的にかかわるユダヤ人など、支配体制側はほとんど相手にしてくれなかった。そういう不利な立場にありながら、18歳で高校を卒業、将来の進路を考えていた。卒業の年がたまたまロシア革命の年、1917年だったことが、運命のわかれ目になった。
この年の劇的なもろもろのできごとのなかで、どんな役割を演じたか、さだかではないが、1918年には、チヴェリはピャチゴールスク・ソヴィエトの軍事部に、つづいてボリシェヴィキ新政府のモスクワ宣伝局に勤務していた。同年末、ソヴィエト政府の通信社ROSTA〔ロシア電報通信社、タス通信社の前身〕の編集局にはいり、内戦期(1918―21年)にはROSTAおよびソヴィエトのいくつかの新聞の通信員としてモスクワ、ヴォルガ地域、タシケントで活躍した。編集者としての実力と語学力のおかげで、そういう才能のある人をのどから手がでるほどほしがっていた新政権にとって、貴重な人材となったのである。
内戦終了後、アレクサンドル・チヴェリは編集者、執筆者としてモスクワの共産主義インタナショナル(コミンテルン)で働き、そこでエヴァ・リプマンと出会い、結婚した。1925年レーニングラードに移り、「レニングラーツカヤ・プラウダ』紙外報部員となったが、1926年モスクワにもどり、共産党中央委員会書記局と中央委文化・宣伝部で編集の仕事にたずさわることになった。共産党の出版物のために働いてきたのに、チヴェリは党員ではなかった。しかし、中央委機関での新しい仕事につくために、党籍が必要となった。編集者としての経験と語学力を高く買われていたので、中央委の特別指令で、ふつうは党員候補期間が必要なのに、それをとびこして1926年12月にいきなり正規の党員として入党をみとめられた。その後の10年間、チヴェリはモスクワの党本部でずっと働きつづけ、中央委国際情報局の局長補佐のポストを占めるにいたった。
表面を見るかぎり、チヴェリの履歴には非の打ちどころがないように見えた。電報のあて先をまちがえたとか、党員証を紛失したとかいう些細なミスで、三度譴責をうけたことはあったが、履歴にこの種の小さな傷をもつのは、党員としてぺつにめずらしいことではなかった。しかし、舞台裏では党の最高指導者たちが、下級職員の履歴をいつになく綿密に調べていた。政治上の異論を申し立てた人びと、あるいは政争に敗れた人びととの仕事のうえでの関係が調査され、悪いほうに解釈されることが、ますます多くなった。チヴェリの過去には、この種のうたがわしい関係が二度あった。1925年、レーニングラードにいたころ、左翼反対派グリゴーリイ・ジノヴィエフの追随者たちと一緒に働いたことがあった。悪い時期に悪い場所にいたものだ。というのも、当時ジノヴィエフはレーニングラードの党のボスで、当然ながらチヴェリの働いていた新聞も、ジノヴィエフ支持者たちの監督下にあったからだ。さらに、1936年まで国際情報局でチヴェリの直接の上司だった人物は、かつてのトロツキスト、1920年代にスターリンを痛烈に風刺し批判したことで知られるカール・ラーデクだった。
ジノヴィエフその他の旧左派の1936年8月の見せしめ裁判の余波で、疑心暗鬼は頂点にたっした。異端者たちには死刑が宣告され、裁判のあおりをうけて、ラーデクのように左派に加担した人びとは、きびしい詮議をうけるようになった。8月末にラーデクは逮捕され、同時にチヴェリも秘密警察(NKVD)に連行された。妻と幼い息子は、これ以後二度とかれに会うことがなかった。
チヴェリはその後六カ月にわたって獄中で尋問をうけた。取調官が拷問をくわえたかどうかはわからないが、ほかの多数の人が拷問を受けた証拠はじゅうぶんにある。高官でさえ勾留中になぐる蹴るの拷問をうけた。のちのモロトフの言をかりるなら「したたかにやられた」のである。10年後に警察の一高官が、スターリンあての手紙のなかで取り調べの実情を述べている。まず、自白すればその見返りに食事、文通などの面で待遇を改善してやるとの条件が、被疑者に提示される。うまくいかなければ、つぎに被疑者の良心にうったえ、家族を案じる心情にうったえる。つぎの段階では、運動もさせず、ベッドもなく、タバコも吸えず、眠ることもゆるされない独房に最大20日間もとじこめ、食料は1日300グラムのパンだけ、温かい食事は3日に一度だけとなる。ついには、1939年1月10日付けの中央委決定によって、「肉体的圧力」の行使が認められた。こういった処遇は、もっと後の、多少手こころがくわえられるようになった時期の話だが、チヴェリが拘禁されていた1930年代の実態が、これよりなまやさしいものだったとは、とうてい思えない。
1936年、スターリン指導部の妄想は、さらに肥大した。左右両翼のかつての党内異端派が、逮捕の大波に巻きこまれた。外交官グリゴーリイ・ソコーリニコフ、重工業人民委員部次官ゲオールギイ・ピャタコーフをふくめて、過去に反対派に属したことのある多くの高名なボリシェヴィキが投獄された。全員が妨害工作、スパイその他さまざまな反逆行為など、奇想天外な罪名で告発された。ポリシェヴイキ・エリートは自滅の道をすすんでいた。
チヴェリが働いていた中央委員会の奥の院の内部でも、疑心暗鬼は正気のさたとは思えぬほどにふくれあがった。そういった妄想の波のひとつのなかで、党中央機関の勤務員、トーロポヴァ、ルキーンスカヤという名の二人の若い女性が、懇親パーティーでチヴェリと一緒にいるのを見かけたことを、だれかが思い出した。党統制委員会議長の要職を占める高官M・F・シキリャートフは、さっそくNKVD〔内務人民委員部〕にメモを送って、この二女性についてチヴェリに尋問するよう要求し、「われわれはチヴェリのダンスの相手となった全員を確認することができないでいる」と不満を表明した。
1937年3月7日付けでNKVDは、アレクサンドル・チヴェリは二女性に罪を着せるような供述はなにもおこなわなかったむね回答した。しかし最高裁判所軍事合議部は、ボリシェヴィキ指導者たちの暗殺をねらうテロリストの意図を知っていたのみならず、みずから「エジョフ[NKVD長官N・I・エジョフ]にたいするテロ行為を準備した」かどでチヴェリに有罪を宣告した。おそらくチヴェリは即日処刑されたのだろう。NKVDの残虐な拷問をうけた他の多くの人びととはちがって、かれはついに自白しなかった。
だが、チヴェリの物語は、これで終わりではない。個人をのみこんだテロは、その家族をも破壊した。チヴェリ逮捕の直後、妻エヴァは「政治的理由で」仕事をクビになり、これが履歴の傷となって、どこにも就職できなくなった。まもなくモスクワの公共集合住宅のフラットからも追い出され、「路頭にまよう」はめとなって、病弱な幼い息子をつれて実家の母親の超満員のフラットにころがりこんだ。しかし1937年4月、エヴァ・チヴェリとその息子はモスクワから追放され、遠いシベリアのオムスク州に流刑となった。母親もフラットを追い立てられ、娘や孫とともに流刑にされた。おそらく二人をかばったためだろう。
1937年10月、こんどはエヴァ・チヴェリがオムスクで逮捕された。トボーリスク刑務所に八カ月収監されたのち、NKVD特審部(この機関はなんら犯罪をおかしていない人びとにまで判決を下す権限をもっていた)によって、「祖国にたいする反逆者の家族」であるという理由で八年間の収容所入りの宣告をうけた。テロによる狂暴な人間関係破壊は、これにとどまらなかった。エヴァ逮捕の直後、NKVD係官がエヴァの母親の住居にやってきて、チヴェリの九歳の息子を孤児収容施設に連行した。やっと母に再会できたとき、息子は20歳代のなかばにたっしていた。
収容所で8年の刑期をつとめあげたのち、他の多くの人と同様に、エヴァはさらに8年のシベリア流刑の追加宣告をうけた。スターリンが死んだ1953年になって、やっと釈放され、モスクワにもどった。
エヴァはすぐさま、亡夫の名誉回復をもとめる運動をはじめた。1930年代のテロによって何十年も苦しみつづけたほかの何百万の人びとと同様に、25歳の息子もまた「人民の敵の子」という公式のレッテルをあいかわらず貼りつけられていた。1955年初頭からエヴァは「わが子の父親にたいするこの誤った判決の取り消し」と、アレクサンドル・チヴェリの死後名誉回復をもとめて、各方面に手紙を出しはじめた。再審は、はかばかしくすすまなかった。そこでエヴァは、犠牲者の未亡人、肉親、元囚人たちの団体にくわわり、公正な裁定をもとめて役所をめぐり歩いた。1957年5月23日、チヴェリの処刑の20年後に、そしてエヴァが多くの手紙や嘆願書を書きまくったのちに、ようやくチヴェリの判決と党除名処分は取り消された。最高裁の決定は、いつも多くのことがらを隠蔽してきたあの簡潔な言語で、1937年の判決は「矛盾した信用できない資料にもとついたものであった」と認定しただけだった(11)。
この大テロルの表面上の様相は、レーニン時代のテロルといかに大きく違うものであるか、この事例だけでもよく理解できる。内戦と区別することも難しかったレーニン時代は、逮捕、処刑は公然たるものであったのに対し、スターリン時代のテロルは通常、逮捕は真夜中の秘密警察による連行であり、外部から見えないところで尋問、拷問が行われ、処刑は密かに執行され、遺体は関係者以外誰にも知られないように処理されている。このことで、残ったものたちにあたえる恐怖は想像を絶するものがあるだろう。いつ自分の番になるか分らないのである。密告が奨励、あるいは強制され、人々は自分以外の誰も信じられないような、ばらばらな原子へと分解されていく。体制に絶対服従でなければならないが、たとえそうしたとしても命が保証されるわけではない。どれだけ体制のイデオロギーに従順であり、支持していたとしても、どれだけ体制に貢献したとしてもそれが何の保証にもならないのである。つまり、真に安全が保障されているのはスターリンただ1人である。しかし、スターリンの主観からすれば、いつ暗殺されるか分らないという強迫観念に付きまとわれていたのである。現実にその危険がどれだけあったかは別問題であるが・・・
大テロルに関わる謎は、あまりに多く、多岐にわたるがそのいくつかを列挙してみよう。まず、その巨大な規模であり、なぜこれほどまで人的損失が生じたのかということである。それも、共産党の最上層部である政治局員から中央委員、それ以外のすべての階層の共産党員、赤軍の司令官、将校、下士官クラスに至るまで、社会全体で重要な位置を占めるさまざまな職業の人々、学者、知識人、テクノクラート、さまざまな専門職からまったく最下層の労働者、農民に至るまで、さらにテロルを執行している秘密警察の幹部、職員までテロルの標的になっている。それは明らかな政治的敵・・・そのほとんどはすでに弾圧され、撲滅され、国外に追放されている・・・だけでなく、そのような履歴を持った人、何らかの関わりを持った人々まで拡大されていく。社会全体にあたえるダメージは巨大なものになった。それは体制にとっても非常な損失であり、ダメージになったはずである。それにもかかわらず、とても敵とは思えない、その潜在的可能性すらほとんど考えられないような人々さえどうしてテロルの標的になったのだろうか。スターリンとその側近たちは本当にそのように考えていたのだろうか。つまり、いまだ階級の敵は至るところに存在していると信じていたのだろうか。それとも、それは口実であり恐怖による支配を完全なものとするためだったのだろうか。それとも、この両者の中間あたりが真実なのだろうか。
そして、なぜこれほど多くの人々が、まったく身に覚えのない陰謀を告白して、処刑されていったのだろうか。厳しい尋問、拷問、親族に対する弾圧の脅迫、告白すれば罪を軽くするという誘いなどがあったとしても、志操堅固な革命家であったものたちまで到底考えられないような罪状を認めているのである。そして、スターリンはなぜこれほど奇想天外な罪状をでっち上げることに、その意味を感じていたのだろうか。そして、そのことはソ連社会だけでなく、西欧をはじめとする諸外国において、それをまともに受け取る人々が多くいたということも、今では不思議なことである。これは当然、それらの相互関係によって成り立っているということがいえるだろう。フランソワ・フュレの『幻想の過去』で述べられている共産主義幻想は、現在とはまったく違うものであることは想像がつく。そして、かりにも大国の政治上層部で正式に発表されていることが、まったくの嘘で固められているとは信じられない・・・このような心理も働いているだろう。
このような事態に対して、表立った反抗がほとんどなかったということも不思議なことである。助命の嘆願書が大量にスターリンのもとに送られたけれども、それ以上の実力行使のような反抗はまったくといっていいほどなかったのである。特に、赤軍の上層部は事態の危険性を認識していたにもかかわらず、その気配もなく、何ら行動も起こさなかった。ソ連崩壊後の情報公開によっても、スターリンに対する具体的な暗殺計画すら一件も発見されていない。これも驚愕すべきことである。何しろ為政者に対する暗殺はロシアの十八番であり、長い伝統がある。それなのにロシア史上もっとも暴政を働いたスターリンに対する暗殺は知られていないのである。これは30件以上の暗殺未遂があったヒトラーとは好対照である。スターリンに対する批判はあったけれども、それが暗殺という最終手段には至らなかったのである。これはおそらく、イデオロギー上の外部敵がほとんど撲滅されていた、ということが大きいだろう。これは大テロル以前からあったことであるが、批判はイデオロギー内部からのものであり、トロツキーにしろ、リュウチンにしろ、マルクス、エンゲルス、レーニン、そして党には何ら疑義を指し挟んではいない。批判の矛先はあくまでスターリンなのである。また、このテロル作戦は隠密のうちに遂行されていて、スターリンがその首謀者であるということははっきり分らなかった。盛大なスターリン崇拝が行われ、大テロルの時期ですら、社会の雰囲気はそれほど暗くなかったということである。共産党員の中には大テロルを支持するものも大勢いた。それは強制によってだけでなく、心からそう思っていたのである。
スターリンにとって、1939年の第18回党大会は、34年の第17回党大会(「勝利者の大会」)以上にその名にふさわしい勝利者―または生き残り―の大会となった。代議員の点呼を聞けば、彼がこれまでの5年間に、まったく新しい党をいかにうまくつくりあげたかがよくわかった。34年の大会の代議員1966人のうち1108人(フルシチョフによる数字)が反革命的な犯罪で逮捕されていた。幸運にも生き残った者のうち、39年に代議員としてまた姿を見せた者はわずか59人にすぎなかった。中央委員会の委員の再編成も同じように劇的だった。34年に選ばれた139人の正規の委員と委員候補のうち115人が39年にはもはや姿を現わさなかった。フルシチョフは彼らのうちの98人が銃殺されたと報じた。しかし、メドベージェフは本当の数が110人だったと述べている。
ベリヤはNKVDの幹部層を、前任者のエジョフに劣らず、きれいさっぱりと掃除した。フリノフスキーとザコフスキーのように、ヤゴーダの時代から生き残って、ブハーリンの裁判の準備をしたごく少数の者は、同僚たちのあとを追って処刑された。エジョフの世代も同様だった。全体として、NKVDのメンバーの2万3000人以上が1930年代末までに抹殺されたと推定されている。39年3月までには、ベリヤの部下がすべてを取り仕切るようになっていた。その典型は、彼がモスクワへ連れてきたグルジア人の部下たちだった。調査委員会による報告のあと、約5万人にたいする告発が取り下げられた。政策に変更が生じたというよりも、その適用が緩和されたことを示すジェスチュアである。エジョフが緊急の措置として行なった粛清は、ベリヤのもとで永久的な支配の手段として制度化されたのである。
エジョフがスケープゴートに名指されたので、スターリンは進んで誤りがあったことを認める気になった。そして大会の報告のなかで、代議員たちに語った。「粛清が重大な誤りなしに行なわれたとは言えない。不幸にも、予期していた以上の誤りがあった」。しかし、彼は代議員たちを安心させた。「疑いもなく、われわれはこれ以上、大量粛清というやりかたに戻る必要はないだろう。ともあれ、1933~36年の粛清は避けることができなかったし、その結果は総じて有益であった」。
疑いもなく不安に駆られて耳をそばだてていた代議員たちは、スターリンの言及した党からの追放が中央委員会により憲法にもとついて公認された1933~36年の時期だけのものだった事実を聞き漏らさなかったはずである。だが、1937年から38年に行なわれた粛清については、何のコメントもなしに無視された。追放され、あるいは処刑された者の数が10倍にもなり、ごく少数を除いて、裁判にかけられたすべての者にたいする判決のよりどころが、スターリンと内密に行動した一人か二人の政治局員の判断だった時期のことである。だが、報告の最後になってやっと、若い世代の急速な昇進に言及しながら、スターリンは独特のブラックユーモアで味つけしてこうつけ加えた。「しかし・・・・・いつの世にも古参のカードルは必要な数よりも少ないものだ。彼らのような階級は、自然の法則が働いてすでに間引かれはじめている」(12)。
この引用文の最後でスターリンが言ったブラックジョーク、「古参のカードルは自然の法則が働いて間引かれはじめている」はまさにスターリン主義解明の中心となる問題なのである。
かつての左翼反対派も右翼反対派もそのほとんどが絶滅させられた。生き残った古参ボリシェヴィキはほとんどがスターリンの側近中の側近、忠誠を尽くしてきた子分たちだった。1人国外に亡命して、スターリンと体制にペンによる猛烈な攻撃を続けていたトロツキーは1940年8月、亡命先のメキシコで、ついに身辺に潜入していた工作員によって暗殺された。主だった体制の反対者はこの地上から一掃されたのである。
まさに1930年代は、ソ連の各時期を通じて最大の弾圧、テロルの時代となった。農業集団化は農民の抵抗を押さえ込むために、大量餓死が生ずるのを知りつつ穀物を取上げ、移住を制限した。クラークはシベリアの奥地へと追放され大勢が死んだ。強制収容所に大量の囚人が送られ、過酷な強制労働によって多くの人命が失われた。民族単位の強制移住も大規模に行われた。移住先は到底、生活していけないような場所がほとんどだったのである。直接の逮捕、銃殺はそのなかの一部分なのである。
第3節 スターリン主義形成の考察
これまでの考察により、権力が絶え間なく一個人へ集中していくメカニズムが論じられてきた。まず、ボリシェヴィキはマルクス主義、共産主義を原理主義的といえるほど信奉し、狂信していたという事実は、その歴史の結果がそのイデオロギーが目指すものとあまりにもかけ離れているという理由によって、えてして軽視されることが多い。パイプスのような歴史家でさえそのような傾向にある。しかし、多くの資料はボリシェヴィキのイデオロギーを共産主義の真摯な実践であると証明しているのである。それは1920年代、レーニンが活躍した時代から、それ以後の党内闘争の激しかった時期も、それがスターリンの権力確立から30年代の社会主義へ突進した農業集団化、超工業化の時代、さらに大テロルの時でさえそれは一貫している。ソ連崩壊後、公開された議事録などの多くの内部資料が示していることは、彼らが大衆に対して述べているイデオロギー的言説と同じことを共産党員に対しても、そして上層部の幹部たちの間でも、お互いに言い合っているということである。大衆に対して述べていることと、仲間内で言っていることの間にはまったく差異はないのである。まさにこれはイデオロギーを大衆操作の口実に利用しているということではなく、自分達もこのイデオロギーの虜になっていることを意味している。
このことはスターリン主義形成が、ロシアの伝統的な専制体制の復活である、とはいえないことを結論づけるであろう。このイデオロギーとロシアの専制体制はあまりにも異なるものである。つまり、このイデオロギーの実践がロシアの専制体制と共通の要素を持つことになったのは、別のところに理由を求めなければならない。それは今まで問題とされてきた「全体主義論」の課題でもある。アーレントは「全体主義は今までのいかなる専制政治とも異なるものである」といったが、本質的にどこが異なるのかということは極めて難しいアポリアであった。スターリン主義がナチズムと同様な全体主義であるという問題は、両者の本質的な同一性、差異性の問題と関わってくる。さらに、スターリン主義をイデオロギーからの逸脱とみなす「ソ連=国家資本主義論」のように農業集団化、工業化、果ては大テロルまで特殊な資本主義の収奪の一形態にすぎない、というような捉え方は問題外である。「マルクス主義の解剖学」はたとえ何人であろうとも、このイデオロギーの正真正銘の実践においても、その目的とする状態に達しないことを証明したのである。
すでに明らかなように、社会主義、共産主義イデオロギーを遂行することは、資本主義イデオロギーとは異なり、経済と政治が緊密に一体化する。経済は行政と一体化し、行政は党の独占的支配となり、党は国家と一体化する。党の中心には権力を一手に握る少数者がいて、さらにそのなかの1人の人間に権力は収斂していく。この権力の中心化作用は、このイデオロギーの原理的矛盾から生じたそれまでの権力形成とは根本的に異なるメカニズムによっているのである。最終的にこの原理的矛盾は1人の人間、それはすなわちひとつの脳によってしか止揚出来ないからである。権力が多数者に均等に存在すると、必ずイデオロギーの原理的矛盾から対立する二つ以上の関係が生じてくる。しかし、このイデオロギーの重要なもうひとつの側面、高度な生産力を維持するためには高い階層秩序による経済の統制、運営が不可欠になる。これは一枚岩の統率が取れた党によってしか運営出来ないのである。しかし、このイデオロギーは階級構造そのものを否定するがゆえにそのことを絶対に認められない。絶対的な統制とそれを絶対的に否定する対立関係、まさに究極的な内部破壊が進行することになる。この破壊を防止して、イデオロギー遂行状態を保持し続けるためには、この矛盾を一手に引き受けてすべての権力を握る独裁者が必然的に要請されるのである。
トロツキーをはじめとする左翼反対派は、遅かれ早かれ駆逐される運命にあった。しかし、トロツキーが最後までスターリンに対する攻撃をやめなかったのは、このイデオロギーを信奉する共産主義者として当然のことであっただろう。スターリンは国外に追放されたかつての革命の英雄を軽視することは決してなかったのである。それはスターリンがロシアの専制体制を復活させる、という目的は微塵もなく、同じくイデオロギーを信奉していたことを物語っている。だからこそ、イデオロギー上の攻撃に対して非常に敏感になったのである。トロツキーの国外で発表される出版物にスターリンは激怒したと言われている。トロツキーの身辺にスパイを送り込み、常に監視を怠らなかった。1937年に出版されたトロツキーの『裏切られた革命』は、フランスでの出版よりも先に、スターリンのデスクの上に全文のコピーが届けられていたという。ヴォルコゴーノフはこれがスターリンに大テロルを決意させた引き金になったのではないか、と推測している。
このスターリン体制に対する左翼反対派、それ以前には労働者反対派からの批判、攻撃は基本的にはすべて古典的マルクス主義に沿ったものである。そしてこの批判、攻撃は現代においてもその本質はほとんど変わらないと思われる。マルクス主義者、共産主義者、唯物史観支持者は同じような批判を繰り返している。しかし、これこそがこのイデオロギーの原理的矛盾の表出であり、そのことによってこの対立関係は絶え間なく増大し、そして最終的には肉体的抹殺によってけりがつけられるのである。この運動そのものがスターリン主義、スターリン体制を形成していく原動力となる。反対派の存在は、内部敵として体制に潜伏するものと捉えられ、それを殲滅するために超法規的な措置が次々と正当化される。それがこの恐怖政治を最大限に強化していくことになる。体制に逆らうことなど夢にも考えられないような状態になるまでそれは続けられることになるだろう。つまり、マルクス主義に沿った正当な批判はスターリン主義形成の重要な要素のひとつになるのである。それをすればするほどスターリン主義は強化されていくことになる。
ブハーリンらを中心とした右翼反対派も、当然反対の側面から内部敵とみなされることになる。これはそのまま資本主義を利するもの、日和見主義者として断罪されることになる。ネップを長期に継続するような、富農との提携を重視する政策はもはやイデオロギーに反するものだとみなされたのである。右翼反対派は自分達の誤りを認めさせられ、転向を強いられた。党を絶対のものとみなすボリシェヴィキ共通の心性は、自分達の政策を転向しても党に残る方を選んだのである。しかし、農業集団化、工業化の悲惨な状況が明らかになっていき、党内は緊張の度合いを増していった。スターリンは疑心暗鬼になり、左翼も、右翼も、自分に反対する気配を見せたものも殲滅しなければならない―このように決意するに至ったのである。これは、自分を神のような存在として見る若い党員とは違うレーニン時代からの古参ボリシェヴィキの大部分を含むことになった。彼らはスターリンを指導者として認めても、絶対的な独裁者とみなしてはいなかったのである。
スターリンの妻の自殺やキーロフ暗殺から緊張が激化していき、スターリンは大量弾圧へとエスカレートしていった。これらのことやその当時の状況から、キーロフ暗殺の首謀者はスターリンではないかという疑念があった。しかし、これは確たる証拠がなく難しい問題のようである。状況的にはスターリンは黒にしか見えないが、ここではその問題には深入りしないことにする。このような偶発事によって歴史は左右されていくように見えるが、ここでは深部で絶え間なく大きな力学が働き続けている。それがイデオロギーの原理的矛盾から来る権力の中心化作用である。これは普通の社会学で想定される権力の問題を大きく超えているのである。これはアポトーシス全体主義論で再度論じられることになる。
1930年代は宗教、教育、文学、芸術といった文化的側面も大きく変わっていった。教育は帝政時代に比べると広く普及していき、文盲率は低下していった。これは共産党による政策の正の側面であるが、共産党のイデオロギーを教え込むという目的があった。文学や芸術は相対的に自由があった20年代に比べると、イデオロギー上の統制が厳しくなっていった。イデオロギーに反するもの、あるいはその可能性があると検閲されたものは、発表することを禁じられ、作者は職を失うことになった。体制に媚を売る作品が多くなり、文学、芸術はその活力を失っていったのである。このイデオロギーはそれ以前のあらゆるイデオロギーより、その矛盾が大きく原理的なものである。社会、世界の真実を追求するという文学、芸術の本領は当然、圧殺されざるをえない。イデオロギーの矛盾の暴露を許容することは体制にとっての破滅を意味する。至高の指導者であるスターリンの言説が唯一正しいものとみなされ、社会全体でそれが無数に反復されていくことになる。それに反するものは反革命、反ソヴィエトであり破滅が運命づけられるのである。言葉と現実の乖離はますます広がっていき、人々は二重思考の中で生きていくしかなくなったのである。
しかし、この1930年代は混乱と非効率であったとはいえ、かなりの程度の工業化が達成された。それに伴い以前に比べて物質的な豊かさは上昇し、生活環境の改善が見られた。それは革命後の教育を受けた若い世代を中心に、新しい特権階級が形成されていき物質的な豊かさを享受できるようになったのである。それ以外の一般大衆の生活改善は遅く、特権階級との階級格差は非常に大きなものになっていった。新しい特権階級はスターリンに従順であり、神格化することに積極的であった。この階級は大テロル以降、社会の中心的な階級となり後にノーメンクラツーラと言われるソ連の官僚制を担うことになったのである。
また、この時代は革命直後の禁欲的な雰囲気から、ブルジョワ的な雰囲気へと変わっていった。スターリン指導部が認めた文化活動、娯楽などが奨励され、大都市を中心に明るい雰囲気がかもしだされるようになっていった。宗教に対する統制は依然として厳しかったが、祝日などはある程度復活することが許された。そのなかで、空前絶後の大テロルが進行するというまさに想像を絶する社会が出現したのである。
注
(11)アーチ・ゲッティ、オレグ・V・ナウーモフ編著 『ソ連極秘資料集 大粛清への道』 川上洸 萩原直訳 大月書店 2001年 3~7頁
(12)アラン・ブロック 『ヒトラーとスターリン 第2巻』 鈴木主税訳 草思社 2003年 273、274頁
『スターリン主義の形成』
第3章 ネップからスターリン大転換へ
第3節 左翼反対派との論争
トロツキーら反対派を追い落としたスターリンは、次にそれまで同盟を組んでいたジノヴィエフとカーメネフの追い落としにかかった。(一般的にこのように表現されることが多いが、実際は複雑な対立、宥和の過程を経ているのであり、一概にスターリンの策略に返すことは無理があるようである)そこでもスターリンは単独では行動せず、ブハーリンら右派と同盟を結んでいた。もっともブハーリン側は右派といっても穏健左翼というのが内実であるが。それまでスターリンはトロツキーに照準を定めていたので、必然的に政策論争の立場はその反対のものとなっていた。それがブハーリンとの協調関係を結ぶのにも好都合だったのである。ここでも権力闘争と政策論争の組み合わせがスターリンに有利に働いていることがわかる。これはスターリン個人の力でどうにもならないことでもあるので、ここまでうまくいくのは不思議な気もする。ジノヴィエフとカーメネフはスターリンと対立が起こったとき、はじめて権力の基盤に大きな隔たりが生じていることに気が付いた。そこでこの2人は最近まで敵だったトロツキーに接近し、合同で左翼反対派を形成したのである。
・・・誰もが驚いたことに、なによりも先ず、当の本人たちが驚いたのだが、「新」反対派は「左翼反対派」が言った批判を一部繰り返さざるをえなくなってしまった。そのため党員大衆の眼には、彼らは党内クーデターを起こそうとしている「ニ流のトロツキスト」に見えた。まもなく彼らはトロツキストの陣営に数えられる。ジノヴィエフとカーメネフは1923年に始まった「レーニン派」との闘争で正しかったのはトロツキストだった、と公然と認めた。明らかに、トロツキーとブロックを組んだ2人は党が彼らを「真の中央委員会」とみなすことを、期待したのである。
1926年、中央委員会および中央執行委員会の7月総会で、「合同反対派」の代表者たち、つまり、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ピャタコフ、クループスカヤたちは反対派ブロックの綱領ともいえる声明を発表した。案の定、彼らがこの声明で力説していることは「工業の集中化」と「貧農の連帯」、「分派の温床」となっている党機関の官僚的変質との戦い、それらが死活問題であるということ、そして、「それにおける社会主義建設の勝利がヨーロッパと世界プロレタリアの奪権闘争の進展とも帰結とも不可分に結びついていないなどといういかがわしい新理論を放棄する」よう公然とを要求している。彼らは断言している―「我が国の社会主義はヨーロッパと世界プロレタリアの革命、及び、帝国主義のくびきに対する東洋の戦いと不可分に関連し、勝利するであろう」。トロツキズムは死んでいなかったようである。
反対派はあらゆる可能性を追求して自分達の正しさを示そうとした。秋口にはそのリーダーたちは党機関の集会で公然たる反撃に出始めた。しかし、彼らのモスクワとレーニングラードでの「細胞巡り」の結果は惨憺たるものだった。彼らは党員大衆の側から決定的な反撃をくらった。反対派は退却せざるをえなくなった。10月16日、リーダーたちは中央委員会に声明を出し、自分達の考えの正しさはあくまで主張するが、「分派活動のへの過ち」は完全に認める、と伝えた。声明は反対派が党のポストを維持したいという願望の公開宣言であったが、それは今後の闘争に必要だと思われたからである。が、彼らの意に反して中央委員会および中央執行委員会10月総会は、先の7月の同総会決定で政治局メンバーから外されていたジノヴィエフをコミンテルン議長の役職からも解任することを決定した。また、トロツキーを政治局メンバーから、カーメネフを同候補から解任することも決議されている。
「合同反対派」のトロツキストたちの批判はますますスターリンの社会主義論に集中していき、その結果、ソ連での社会主義建設の可能性の問題が党内思想闘争の主たる基準となっていた。スターリンはそこに注目し、第15回党協議会(1926年10月26日から11月3日)で、彼の反対者は社会民主的偏向だと非難した。「マルクス主義はドグマではなく行動の指針である」が、トロツキストは西欧の社会民主主義者と同じく教条主義者である、とスターリンはいう。エンゲルスが『共産主義の原則』の中で「プロレタリア革命はどこか一国で起こりうるか?」という問いに「ノー」と答えているのは、資本主義諸国の不均等発展という情況がまだなかった前独占資本主義時代には根拠をもっていた。が、一国での社会主義の勝利の可能性は帝国主義時代における資本主義の不均等発展の法則から生じるものであり、この法則と、それに結びついた、一国で社会主義革命が勝利しうるとの命題は、帝国主義時代になって初めてレーニンによって提起され、また、されることが可能になったのである。これこそレーニン主義が帝国主義時代のマルクス主義である所以である、とスターリンは力説する。レーニンの「忠実な弟子」は、トロツキストの根本的な過ちはエンゲルスの旧い定式にしがみつき、ソ連での社会主義の勝利の可能性を否定するところにある、という。
しかし、すでに失うものが亡くなった「国際主義者」たちはスターリンの理論に公然と反対した。ジノヴィエフはコミンテルン第7回拡大中央委員会で社会民主主義の非難を採択せず、「われわれの展望は世界革命の展望である!」と高らかに宣言した。マルクス主義とレーニン主義の伝統は完全に自分達の側にあると確信していたトロツキーも、ソ連は「世界プロレタリア革命を通じてのみ社会主義に近づきうる」と明言した。工業をヨーロッパの水準にまで引き上げるのは「かなり困難」だと考えていた反対派は、実際、ソ連での社会主義の勝利を信じていなかった。その意味で彼らを「敗北主義」とする批判にはそれなりの根拠があったといえる。が、彼らがエンゲルスの公式にのみ依拠していたとは言えない。彼らは独自の理論的根拠をもっていたのである。それについては1926年12月中旬に書かれたトロツキーの論文が興味深い。
永続革命論者は書いている。スターリンの理論の擁護者は「閉ざされた」社会主義の勝利を宣言しているが、社会主義を建設するためには、つまり、ハイレベルの工業を実現するばかりでなく、その工業を基礎に農業をも社会化するには「4分の1世紀以上」が必要であろう。一国社会主義という問題は、本質的には、ヨーロッパのブルジョア体制が不確定長期にわたって存在するという予測を出発点として立てられている。次にトロツキーは一国社会主義についての「盲目的なオプティズム」「ヨーロッパ革命に関する許し難いペシミズム」に由来する、と指摘している。トロツキーはスターリンの展望が根拠を持たないことを明らかにしようとしている―「資本主義の包囲のもとで数十年にわたり孤立した社会主義建設を最後までやり遂げるために必要な最小限の経済的、政治的、軍事的条件がわれわれにあたえられるような、現実の歴史情況を想像することはまったく不可能である」。「本当のマルキスト」は世界革命への不信を、技術的、文化的に遅れた国での自足的な社会主義発展の構想とを結びつけることは出来ない、とトロツキーは考える。自分の正しさを疑わないこの「世界革命の賛美者」は「理論的に見込みのない」レーニンの弟子に教訓をあたえている―「われわれは息継ぎの時代を生きているのであって、一国社会主義の勝利が機械的に保証される時を生きているのではない、そのことを忘れてはいけない。息継ぎの時にはできるだけ社会主義の発展を前進させなくてはならない。問題は息継ぎ、つまり、1917年の革命と、資本主義大国のどこかで近い将来に起きるであろう革命との間の、多少とも長きに渡る期間の話であって、それを忘れてしまうことはコミュニズムを放棄することである」。
見られるように、1923年初頭に発生したボリシェヴィキ党を指導部の意見の相違は、いまや、二つのイデオロギー、スターリニズムとトロツキズムの衝突に収斂した。より正確には、どちらもそれなりの展望を持つ一国社会主義論と永続革命論の衝突である。あとから歴史の行程を判断するのは容易である。しかし、歴史の展開の渦に巻き込まれ、時代の境目に身を置いていたものにとっては、歴史の先行きを読むことは決して簡単ではない。後年、追放時代に、トロツキズムはかなり多くの熱烈な崇拝者をえるが、トロツキズムの「生きた具現者」はレーニンの後継者として自分を聖列に加えることに成功しなかったという意味で、ソ連では敗北を運命づけられていた。これはトロツキーの罪ではない。
トロツキズムとは、本質的に、社会主義革命の、それも世界革命の成就にその実現を見いだすところの「永続」革命のイデオロギーである。一方、スターリニズムは社会主義建設のイデオロギーであった。ここに両者の本質的な相違がある。今日となっては、一国社会主義論がソ連邦史にもたらした意義を過小に評価するのも理由のないことではない。しかし、一国社会主義論は独自の力で社会主義を建設しうるのだとスターリンがそれによって党大衆を説得しえた「コロンブスの卵」であり、ソ連史の行程を決定した将来構想であったことを忘れてはならない。もちろん、その実現にあたって、スターリンはレーニンの教義に依拠しつつ、自分の政策、理論の展開を正当化した。第20回党大会以後の風潮だが、スターリニズムもソヴィエト社会主義の暗黒面だけに結びつけるのは正しくない。スターリニズムはソ連における社会主義建設時代のレーニン主義の発展形態である(7)。
以上の引用文中における問題点は今まで検討されてきたことであるが、この論争はスターリン主義形成におけるもっとも重要な要素のひとつになっている。左翼反対派は明らかに官僚主義の解決と世界革命とを結びつけている。これがまったくの幻想であることは今まで詳論されてきた。これでトロツキズムのスターリン主義への批判は完全に瓦解していることがわかるだろう。世界革命が仮に起きたとしても、革命が起きた場所で同様な官僚主義が形成されていくことは絶対必至なのである。しかし、この時点でスターリンを含めて誰もこのことに気が付くことはない。スターリンにしてもトロツキーの主張はよく理解できることなのである。
マルクス主義の根本的な教義、社会主義革命からプロレタリアート独裁を経て社会主義、共産主義社会に至る。このプロレタリアート独裁は、まったくかけ離れた二つの定義を内包している。「少数者プロレタリアート独裁」と「階級としてのプロレタリアート独裁」である。そして本来、プロレタリアート独裁とは「階級としてのプロレタリアート独裁」であることは明白である。現実のロシア革命の過程で、「階級としてのプロレタリアート独裁」の政策が実行されたのは、革命直後の数ヶ月という短い期間でしかない。それは政策というより、現実の追認にすぎないともいえるのだが。その機能不全状態を改善すべく官僚機構が形成されてきたが、それ以降、ソ連崩壊に至るまで「階級としてのプロレタリアート独裁」が試みられたことは、ただの一度もないのである。スターリンはこのことにさまざまな理由づけ、二枚舌を使って対応してきたが、本当にそのことを考えていたとはとても考えられない。そして、それ以降、ソ連の指導者はまったく同じように考えてきたのである。先に検討したように、第一の退却と第二の退却はまったく異なる次元にある。取り戻すことができるのは第二の退却までである。それも闇経済の市場は完全になくなることはなかった。
スターリンは一国社会主義論を主張していても、それが官僚主義を擁護することになるとは考えていなかっただろう。むしろ、反官僚の立場を取るがゆえに、官僚主導にならないためにも党の中に意見の対立のない一枚岩の指導体制を確立しなければならない、ということなのである。しかし、官僚体制そのものの存在を否定するということは考えられない。この二つの大きな意見の対立は、「マルクス主義の解剖学」第8章で考察されてきたイデオロギーの原理的矛盾から二つの異なった立場が生ずる―この絶え間ない連続であり、発展形態なのである。つまり、権力中枢にいる者は必ず官僚体制を中心とした上意下達式の指令システムを維持しなければならない。「能力の壁」が絶対的にそのことを要請するのである。しかし、そこから少し離れた立場の中には絶対にそのことを認めることが出来ないとする、そのような勢力が存在するのである。それはこのイデオロギー本来の目的からすれば、まさに正しいのである。このイデオロギーの本質が「能力の壁」を克服可能なものとしてとらえ、その階級関係を簡単に反転できるという途方もない妄想を基盤にするからである。そのことによってのみ本来の共産主義社会への道は展望できるからである。つまり、この二つの立場は人類史上、他に類例のないような、絶対的な、宥和不能な対立関係になるのである。権力中枢にいる者も反対派もこのイデオロギーを狂信していることに変わりはなく、現実とイデオロギーの齟齬を絶対に認められない。これによって、この対立関係はイデオロギーを放棄しないかぎり、際限なく激化していくことは必至なのである。
重要なことは、レーニンか、トロツキーか、スターリンか、ジノヴィエフか、ブハーリンか、それ以外の誰かか、という問題ではなく、権力中枢にいる者は必ずこのような立場を取らざるをえず、その周辺部にいるものはこのイデオロギーの本来の目的からそのことを絶対に認めることは出来ない、という構造的な問題なのである。この二つの立場を見事に渡り歩いたのがトロツキーであることはいうまでもないだろう。したがって、トロツキーを検討していくことはスターリンのそれと同程度に重要なものとなる。
第4節 左翼反対派の敗北
5月、英国政府はソヴィエト共産党の内政干渉を激しい口調で非難し、ソ連との外交関係。貿易関係を断絶した。ヨーロッパと中国で何度も反ソヴィエト的な挑発がおこなわれた。1927年7月1日、中央委員会は国際情勢の緊迫に鑑み国の工業化のテンポを速め、労働生産性を高め、軍事力を強化することによってソ連の防衛力を上げるようにとのアピールを党と全人民に向けて出した。このような事情のもとで反対派の果てしなく続く声明、「中央委員会のテルミドール的変質」、「民族主義的反動コース」、「党の富農政策」、「党体制がすべての危険性のなかで最も危険である」等々の声明は政治局の「レーニン派」の目から見れば戦争の危機を目前にして、労働者の目から自分たちの「敵前逃亡」を覆い隠そうとするトロツキストの策動以外の何ものでもなかった。
スターリンの中央委員会を「テルミドール反動」と非難していたのは決してトロツキー・ジノヴィエフ・ブロックだけではなかった。党内反対派全般のあいだでいわゆる「変質論」がかなり広くゆきわたっていた。その主張は以下のようである。全ロ共産党(ボ)はプロレタリアの党であることを止めてしまった。官僚主義はまだ若い未完のプロレタリア国家の歪みではなく、現在の党の基本方針である。コミンテルンは、すでに存在しない党の道具でさえなく、変質した「スターリン派支配層」の忠実な道具である。このような状況下ではプロレタリアートの独裁はフィクションであり、もはや存在しない。それは官僚機関に堕してしまっている。すべての外交政策は世界革命の基盤を広げる方向へではなく、帝国主義のご機嫌とり・革命の圧殺に向けられている。これが反対派の批判の骨子であった。
「ボリシェヴィキ・レーニン主義者」ブロックは1927年5月に「83名の声明」を出しているが、これ以外に、最も一貫した公然たる反対派グループはサプローノブとスミルノブの代表するかつての「民主集権派」であった。彼らの主張は、以前と同じように、中心問題は党指導部の裏切りではなく、党の復興、その自立性の回復の問題であった。第15回大会に宛てた彼らの声明から判断すると、彼らの要求は、先ず第一に、第10回党大会の決定を基礎(!)に党内民主主義を実現すること、「日和見主義」と闘った廉で除名された党員を党およびコミンテルンに復帰させること、党内問題に合同国家保安部が介入するのを止めさせること、逮捕された党員の釈放、であった。スターリンが他ならぬ「ソヴィエト政権の懲罰機関」にかんしてまったく本気の決意を示しているのは注目に値する。1927年スターリンは外国の労働者代表団との会談で「国家保安部の裁判権、証人.弁護人抜きの審理、秘密逮捕」について質問がなされたとき、こう答えている「わが国は資本主義諸国に取り囲まれている。革命の内部の敵は万国の資本家の手先である。内部敵と戦うことによってわれわれは万国の反革命分子と闘っているのである。われわれはパリ.コミューンの轍を踏みたくはない。国家保安部は革命に必要である、それはプロレタリアの敵を恐れさせるものとして生き続けるであろう」(8)。
このスターリンの言う「内部敵」とは何を意味するのだろうか。戦時共産主義期の弾圧、追放などにより資本家はほとんどロシアから駆逐された。資本主義諸国の資本家の手先がソ連内部に入り込んでいる、というのは妄想のように思える。しかし、当時の政治状況、社会状況からするとこのように考えることも理由のないことではない。これは現在の情報が入手できる状況とは違うことを考慮しなければならないだろう。すでにソ連は非合法のスパイ活動を資本主義諸国内部で行っていた。それは30年代、40年代を通じて大きな規模に拡大していったことは今ではよく知られている。自分達がすることは、相手もするだろうというのは自然な心理である。しかし、ここにはもうひとつの大きな意味がある。
左翼反対派などの主張は、イデオロギー本来の目的に忠実であることは明らかである。しかし、それを文字どおり実行することは社会全体を機能不全状態にすることなのである。ところがスターリンは、、、というよりこの立場の誰であったとしても、イデオロギーに忠実であろうとすれば、そのことを明言するわけにはいかない。それはこのイデオロギーが誤りであるということを認めることにつながるだろう。もちろん、なぜこのようになったかはイデオロギーの原理的矛盾を証明してきた現在の段階では明瞭である。しかし、この時点でそれは決して分らないことである。この時にスターリンの心理と論理はこのような方向に向かうのではないだろうか。つまり、イデオロギー本来の目的に忠実であることを強く要請してくる勢力は、革命の成果を実はそのことによって破壊しようとする勢力なのだということである。つまりそれは反革命勢力であり、それはそのことによって利益を得る階級の手先である。その利益をえる階級とは当然、資本家階級である。だから左翼反対派は実は非常に上手くカムフラージュされた資本家の手先なのだ・・・スターリンの中には自分に歯向かう者は資本家の手先なのだ、という心理と論理が形成されていったのではないだろうか。
1927年を通じて、党内闘争はますます激化していった。反対派は凶暴な反撃と懲罰機関の迫害にあい、ますます非合法の手段に訴えるようになった。そのため反対派は実質的に思想的に結束し、支持者を集め、スターリン派党上層部と和解出来ない反対派陣営をはっきりと形成することになった。思想闘争の中で個人的な反目がますます色濃くなっていった。1927年10月の中央委員会と中央執行委員会の合同総会でスターリンは左翼合同反対派との戦いを徹底的に推し進めた。スターリンは「組織破壊者や分裂主義者を見逃すなら事態は完全な破滅にまで行きかねない、とレーニンは語った。その通りである。まさにこのゆえに、反対派指導者への目こぼしを止め、トロツキーとジノヴィエフを党中央委員会から除名する決を下すべきだと、私は考える」といった。予想通りに、中央委員会10月総会はスターリンに名指しされた全員を中央委員会から除名した。その後ほどなく、11月中旬に、10月革命10周年記念に際しモスクワとレーニングラードで反党街頭デモを組織したトロツキーとジノヴィエフを共産党から除名し、当該機関のメンバーは、あるいはその候補だった彼らの支持者も中央委員会、中央執行委員会から除名された。スターリンは第15回党大会で反対派に思想的にも組織的にも闘いを完全に放棄することを求め、宣告した―「そうするか、それとも党から出ていくか。出て行かないならたたき出す」実際、第15回大会決議によって反対派の活動家たちは全員が―トロツキスト、ジノヴィエフ支持者がたたき出された。「労働者反対派」は大会前にその大部分が除名されていた。
1928年1月、トロツキーはモスクワからアルマ・アタに追放になった。さらに1年後、トロツキーは反党活動をやめることをせず、トルコへと追放された。その後トロツキーのスターリンへの攻撃はやむことなく続けられたのである。
トロツキーは一国社会主義論に基づいた政策全体を信用していなかった。農業集団化や工業化の審議の深刻さを信じていなかった。スターリンの集団化を問題にするとき、スターリンはただトロツキーの綱領を実行に移しているにすぎない、とする見方がある。しかし、トロツキーの「永続革命論」とスターリンの「一国社会主義論」にもとづく農業集団化、工業化はおのずと異なるものである。トロツキーの路線をとった場合、資本主義国との関係はまったく違ったものになるだろう。それらの国との対立、緊張は比較にならないくらい激化していく。その中で、農産物を輸出し、それによって工業化を推し進めるということが同じようにできるかといえば、それはかなり難しいことだろう。実際、それが可能になったのはスターリンの現実主義から導き出された「一国社会主義論」の路線によってなのである。社会主義建設をロシア内部にとどめるというポーズによって、資本主義国との緊張関係を緩和して工業化を推し進めるというのは非常に優れた政策なのである。それが良い結果に結びつくかどうかは別問題であるが。
第5節 ネップの終焉とスターリンの左旋回
ネップの効果によって、ソ連経済は順調に回復し戦前の水準に近づきつつあった。しかし、その限界が次第に明らかになっていった。工業化を推進するに当たって、一般的な資本主義国の通った道を通ることは出来なくなっていた。資本家は存在せず、外国からの資本の投下をあてにすることはできなかった。帝国主義の経済的植民地化することは、イデオロギー上まったくありえないことである。工業製品の飢餓状態が、農産物の余剰を供給させなくしているという悪循環が生まれていた。農産物を農民から供出させるためには、工業製品が大量に必要だが、そのための設備、資源が足りなかったのである。工業化を推進する唯一の手段が、農産物を徴収してその輸出によることなのである。そのための解決策として、農民を集団化させて農産物を徴収し、工業を発達させるという社会主義的原始蓄積が検討されていった。ブハーリンら右派勢力はこの案に反対であり、農民と協調しつつ、徐々に社会主義への道を歩むべきであると主張したのである。しかし、左翼反対派を壊滅させたスターリンは、今度は右派勢力に攻勢を仕掛けてきた。すでに圧倒的な権力を握っていたスターリンにとって、この政策遂行の妨げになるものはなかったといってよい。
ネップはその第一の任務―ソヴィエト政権の強化と社会主義建設の諸前提の創設―を果たして、みごとに期待に応えた。ネップは「真剣に長期にわたって」行われたが永遠にではなかった。ボリシェヴィキがネップを導入した目的は、その基盤に立って巧妙に市場法則の効果を利用し、社会主義的計画原理を押し広げつつ、ある程度ネップの手法を用いてネップを克服することにあった。つまり、形式論理からいえば、国家経済が成功すると自動的にネップの終焉が近づくことになる。しかしネップが、とりわけ、農村での資本主義的要素の発展を可能にし、かつ、それを支えているのであれば、ネップ下での国民経済の成長が経済のなかのあい矛盾する傾向の拡大に帰してゆくことにはならない。またスターリンのいうように、ソヴィエト機構が「統合された社会主義的工業と、基本的に生産手段を私的に所有している個人農業との、二つの異なった原理」に乗っていることにはならない。国民経済のなかでソヴィエト国家が「社会主義的瞰制高地」を強化することが自動的にネップの縮小を伴うことはない、ということが判明した。この矛盾をなんとかして解決しないかぎり社会主義建設は不可能であった。
急ぎ足の工業化と集団化路線はネップの廃止を前提としていなかった。工業化は穀物調達量の増加を求めていた。したがって、プロレタリアートと農民の同盟を維持することが必要であった。より正確にいえば、この時点では、商品穀物の主たる生産者、つまり、富農との和解が必要だったのである。5ヵ年計画をめぐって第15回大会で行われた議論の核心はまさに、国民経済の成長には「裕福な農民」が出してきた条件を勘案してどの程度彼らに軽工業製品を渡すべきか、という点にあった。しかし質問は遅きに失した。大会の前にすでに国民経済を麻痺させていた穀物調達危機は急速に悪化していた。ボリシェヴィキがネップの廃止を決断する以前に、それはソヴィエト政権に役立たなくなっていたという意味でネップの寿命は自ずから尽きていたのである。ボリシェヴィキは袋小路にいた。彼らは二つに一つの道を選択せざるをえない情況にあった。大会が示唆したように、攻勢を早めるか、それとも、退却策を講じるか、つまり、穀物価格を上げ、日用品の生産を高めてその値段を下げるか、である。
すでに見たように、退却をめぐる問題がネップ期の党上層の議論、見解の相違、グループ分けを決してきた主たる問題であった。ネップを30年代スターリンの「上からの革命」に対置して、純粋にレーニンの政策と見ることは出来ない。もちろん、ネップの著作権はレーニンにある。が、それを深め広げることができたのは他ならぬスターリンのお陰である。彼の政策は後年歴史家がスターリンは30年代を目の当たりにして路線を急転換したと主張する口実を与えたことは確かである。そのような要素もある。しかし、レーニンがネップ時代を開いたとき、彼に全くイデオロギーの転換がなかったように、スターリニズムにも何の転換もなかったことを見落としてはならない。レーニン主義とスターリニズムの共通の特徴は非妥協的で、イデオロギー的に、目的が明確なところである。その基礎の上に二人の政策は具体的な社会的.経済的条件によって「向きを変えた」のである(9)。
つまり、本質的にレーニンとスターリンのイデオロギー上の差異はない。これはまったく連続的なものである。ところが、この論争に関してはこの2人の差異は極めて多く指摘されるのである。その最大のもののひとつに、同じボリシェヴィキに対する弾圧、攻撃、権謀術数の駆使というスターリンの特徴がある。これはレーニンにも多少はあったことであるが、それは本質的に異なるものである―このような指摘がなされている。これは前章で検討してきたことと関連してくる問題であるが、これは一連のプロセスの進展に伴う状況の変化と関連している。これはこのイデオロギーの運動法則ともいうべきものであり、後の「アポトーシス全体主義論」につながる問題である。
革命の初期段階においては、弾圧、テロルの対象はボリシェヴィキ以外の帝政派、ブルジョワジーの勢力に向けられる。これはイデオロギー外部勢力に対する攻撃である。これを「イデオロギー外部破壊」と呼ぶことにする。内戦はその最大の現われであるが、さまざまな意味で反革命とみなされた人々も同様であり、テロルや強制収容所送り、国外追放の対象となった。レーニンはこれを非妥協的に強力に推進したのである。しかし、同じボリシェヴィキ内部に対しては、異なる意見があってもそれを議論の中に取り込むという姿勢はあったのである。しかし、労働者反対派に対する対応に現れるように、次第にそのような姿勢を保てなくなってくる。そしてついに「分派禁止」条項を決議することになった。これはイデオロギー内部勢力に対する攻撃である。これを「イデオロギー内部破壊」と呼ぶことにする。革命が起きたときから全体のプロセスを見渡してみれば、初期においては「イデオロギー外部破壊」が大規模に推し進められ、それが成功するに従って次第に縮小していく、それに伴い逆に「イデオロギー内部破壊」が徐々に強くなっていくことがわかるだろう。つまり、レーニンがそのように見えるのは、この初期段階におけるこの二つの破壊の程度が、前者がはるかに大きいために、それは当然のようにみなされたためである。しかし、レーニンは病気によって政務が出来なくなり、やがて死去してしまった。スターリンはその権力を引き継ぐために権謀術数を駆使したといえるのだが、それとはまったく別にこの時すでに「イデオロギー内部破壊」が進展していたといえるのである。
1927年9月、アメリカの労働者代表団と会談したスターリンは共産主義社会の構造を手短に描いてみせた。彼のイメージでは共産主義社会は次のようになる。「(a)「生産手段の私的所有がなくなり、所有は社会的、集団的になるだろう。(b)階級と国家権力はなくなり、就労者の自由な連合として経済を処理する工業と農業の勤労者が出てくるだろう。(c)計画にもとづいて組織される国民経済は工業の部門でも農業の部門でも最高の技術に依拠するだろう。(d)都市と農村、工業と農業の矛盾はなくなるだろう。(e)生産物は昔のフランスの共産主義者が言った原則で分配される―「各人の能力に応じて、各人の必要に応じて」。(f)科学と技術は十分に好都合な条件を利用し再生に達するだろう。(g)個人は生計の資への不安等「有力者」への追随の必要から解放された、真に自由になるだろう。等々」。もちろん、ここの描写はスターリンの思索の産物ではない。あらゆるマルクス主義者に共通の願望が表現されている。スターリン本人もボリシェヴィキがこのような社会に達するにはまだまだ遠いことを認めている。しかしレーニンと同じく彼もまたボリシェヴィキは共産主義社会を建設するための予備条件―国家権力―はすでに闘い獲った、と見なしていた。そしてスターリンはその威力を信じていた(10)。
さて、このようなスターリンの言明をどう理解すべきなのだろうか。これはどこまで本心で言っているのだろうか―後にスターリンの膨大な蔵書の中に多くの書き込みが見つかり、その中に「国家死滅論は役立たずの理論だ」というものがあった。これを見て反スターリン主義のマルクス主義者に、「スターリンは最初から国家権力を簒奪するつもりでいたのであり、国家死滅論など最初から信じてはいなかった」という者がいる。しかし、この書き込みからそのように即断することは出来ないだろう。これがスターリンの本心であることは間違いないとしても、これをどのくらいの時期に考えたのかということが問題である。この書き込みは1923年版レーニンの『国家と革命』の表紙に書かれてあったものである。この出版時に書いたものだとすれば、この会談の時の言明はまったく本心ではない、ということになる。しかし、革命以前にこのように考えていたとは考えにくい。革命後の経過によってこのような見解になったのではないだろうか。それでも、ネップは一時的な後退であり、社会主義社会、共産主義社会への前進は宣言されていると見てよいだろう。ボリシェヴィキにそれ以外の道はないのである。
本論におけるこの事態への解明は、大局的にはすでになされている。階級をなくそうとすれば、新たな階級が絶えず再生産される。「増幅された能力転移」など起こるはずはないのであり、この魔術を科学と考えている恐るべき政策が遂行され続けることになる。スターリンが言明したような共産主義社会への進展は実現されることはない。そうなれば、階級の敵による妨害であると必然的に考えざるをえなくなる。社会全体で結果が得られないということは、その階級の敵が至るところに存在すると考えなければならない。これはスターリンの有名な社会主義に近づけば階級闘争が激化するという「階級闘争激化論」に繋がっていくだろう。
1928年に起こった穀物調達危機から非常措置が取られ、スターリンは農業集団化と超工業化を決心するようになった。これに反対するブハーリンとの間で対立が生じ、この2人の同盟は決裂するに至った。そしてスターリンはブハーリン、そして同じ右派のルイコフらを政治局から更迭し、政治局内、党内で完全な中心的権力を確立したのである。1929年のスターリンの50歳の誕生日はスターリン賛美のキャンペーンが大々的に行われた。この後、農業集団化と工業化5ヵ年計画による社会主義建設への突進が開始されたのである。
*ブハーリン代案に関しては、マーティン・メイリア著『ソヴィエトの悲劇』第五章を参照。
*よく、ブハーリン代案は社会主義への別の道の可能性を示していた―と言われることがある。しかし、この社会主義は唯物史観における社会主義ではありえないだろう。ここでも定義の曖昧さがこの問題を複雑なものにしている。つまり、ブハーリンの農民に譲歩しつつ、徐々に工業化を目指すというのは資本主義の前段階的な過程をゆっくりと進む、ということ以上のものではない。これを長期に継続すれば、それはイデオロギー遂行の内的条件が徐々に満たされなくなっていく―ということを意味するのである。未来のいつか、高い工業力の状態で無階級化を目指せば、その時点で「能力の壁」に抵触し、結局同じ結果に至るのである。
注
(7)リ・バンチョン 『スターリニズムとは何だったのか』 久保英雄訳 現代思潮新社 2001年 254~258頁
(8)同上書 269,270頁
(9)同上書 283~285頁
(10)同上書 287頁
『スターリン主義の形成』
第3章 ネップからスターリン大転換へ
第1節 ネップとイデオロギー的考察
1921年6月5日、第3回コミンテルン大会でロシア共産党(ボ)の戦術についての報告に立ったレーニンは次のように言っている―「革命前にもその後もわれわれはこのように考えていた。―今すぐにか、あるいは、少なくとも、非常に早く、資本主義のもっとも発達した他のいくつかの国で革命がはじまるだろう、そうでなければわれわれは滅びざるをえない。この認識にもかかわらず、どのような状況下でもなにがなんでもソヴィエト制度を維持するためにわれわれが手段を尽くしてきたのは、われわれは自分達のためだけでなく世界革命のためにも働いているからである」。今、レーニンによれば、「諸条件の独特の組み合わせ」によってブルジョワジーがソヴィエト・ロシアと戦争を継続することは妨げられているが、「今後もそのような試みが続くことはまったく疑いない」。ボリシェヴィキはプラグマティックに行動し、「この短い息継ぎ」をロシアにおける「プロレタリアートの権力維持」に利用しなければならない。レーニンは、世界革命の発展がボリシェヴィキの予想したほどには積極的に進まなくても、それでもとにかく前進する、と確信していた。彼はネップが「資本主義への譲歩」だと公然と認めたうえで次のように言明する―「しかしわれわれは時間を勝ち取る。われわれの国外の同志たちが革命をしっかりと準備しつつある均衡の時代には特に、時間を勝ち取ることはすべてを勝ち取ることになる。革命がしっかりと準備されればされるほど、勝利は確実になる。が、それまでわれわれは譲歩を強いられるであろう」。
このときレーニンは「西欧の同志」が支援に駆けつけるまでソヴィエト政権を維持する、そのためにのみネップを利用しようとは決していっていない。そうではなく、レーニンの考えによれば、ボリシェヴィキは資本主義に譲歩しつつ、同時に、革命のさらなる進撃を準備しなくてはならない。このゆえに、「困難と障碍はあるにせよ、不断に階級の廃止と共産主義へと歩むプロレタリア政権を維持し強化するかぎりにおいてのみ」、ボリシェヴィキにとってネップは意味がある。スターリン現象を含めてソ連邦史を正しく理解するためにはネップを工業化・農村の集団化と対置してはいけない。すでに1920年の末にレーニンが国民経済の物質的・技術的基盤の有望な開発プランとしてロシア電化委員会を出してきたとき、有名な規定をあたえていた―「共産主義とはソヴィエト権力プラス全国の電化である」。彼は発達した大工業なしに、「社会化された大規模機械化農業」なしには共産主義への移行は不可能である、と強調し、つけ加えている―「これを忘れるものは共産主義者ではない」。先走っていえばスターリンは決してネップを廃止したのではない。ただ、ネップがその任務を終え、自ら寿命が尽きたのである(5)。
先進国革命、世界革命に対する本論の結論はすでに出ている。この結論からいえばボリシェヴィキはレーニンの言葉通り、「滅びるしかない」ということになる。しかし、ここから70年に及ぶ悪あがきが始まるのである。ここからソ連の体制が70年も続いたという最大の理由のひとつは、これをまったく悪あがきだとは認識していなかった点にある。この引用文中におけるレーニンの論理を検討するだけでも、その巨大な誤謬の羅列を考えていかなければならない。
レーニンはネップを「短い息継ぎ」の間のボリシェヴィキ権力を強化するための「資本主義に対する譲歩」だといっている。これは根本的におかしい。ネップへと退却したのは、戦時共産主義の経済政策の失敗の結果である。ここで重要なのは、この退却が二段階で行われているという点である。ロシア革命を考察した文献でこのことに言及したものはまったくないように思われる。これは非常に重要なことなので、詳しく論じていきたい。「マルクス主義の解剖学」第8章で検討したように、革命前、革命直後は非常にユートピア的な楽観論によって革命が進められた。このユートピア的な政策は反作用としての「魔術的因果性」「増幅された能力転移」という深層の論理にもとづいている。これが巧妙極まりないマルクスのイデオロギー体系によってもたらされたものであることは詳論されてきた。その中心となるのは「労働者自主管理、労働者統制」である。革命によって労働者は資本家、工場管理者を追い出して自分達で運営を始めた。部分的にうまくいったところもあるが、大局的には悲惨な状態となった。工業、鉄道は壊滅的な機能不全に陥ったのである。その理由も「マルクス主義の解剖学」第8章で詳しく論じられた。ボリシェヴィキはその機能不全状態を改善すべく、経済官僚、ブルジョワの工場管理者、専門家を登用せざるをえなかったのである。もう、この時点で唯物史観の中核である「社会主義革命からプロレタリアート独裁へ」から逸脱している。これが第一の退却である。この第一の退却は革命後、数ヶ月という短期間に起ったものなのである。
これらの考察は、今までの繰り返しになるところが多いが、これまで指摘されたことがなく理解しにくい微妙な領域なので、そのことを強調しておきたい。この第一の退却の後、官僚体制は拡大の一途をたどり、食糧徴発には軍隊も動員された。工業生産物と農産物の強制的な交換が推し進められたのである。しかし、担ぎ屋などの私的商業はなくなることはなかった。改善されない都市の飢餓、クロンシュタットの反乱、農民の反乱、飢饉などにより私的商業の復活を認めざるをえなくなったのである。つまり、最初のプロレタリアート独裁(文字どおりの意味における)から第一の退却が起こり、官僚体制による指令的、計画的な生産物交換の体制となり、そこからさらに制限されつつも広範囲な私的商業、農産物の自由な売買を認め、徴発ではなく現物税による資本主義へ第二の退却が起こったのである。一般的に第二の退却のことをネップと呼んでいる。これらはやむを得ない退却の連続なのであり、余裕がありながら相手に譲歩したわけではない。さらにその資本主義と呼ばれるものは、外国の資本主義国だけでなく自国の大多数の住民も含まれるのだから、ボリシェヴィキは自分達以外はまるで全員、敵であるかのような認識なのである。これもよくいわれるように、ボリシェヴィキはその国を代表する統治機関ではなく、まるで敵国に攻め行った侵略国の占領軍のごとくなのである。
「西欧の同志」が駆けつけてくれるまでの時間稼ぎ、ということも唯物史観を信じ込んでいるところからきていることは明白である。その可能性は非常に少ないし、もし先進国で社会主義革命が成功したとしても、生産力は壊滅的な下落を起こし、そこから回復するのにロシアと同じように官僚体制を取らざるをえない。真の意味でのプロレタリアート独裁へ向かうことなどありえないのである。つまり、レーニンのこの「資本主義への譲歩」はロシアの特殊な社会的状況、特にロシアが資本主義後進国であったということ、マルクスの社会主義革命の条件・・・資本主義が極点に達するほど発達すること・・・ではなかったということが、譲歩しなければならなくなった原因なのである。重要なことは第一の退却が「能力の壁」に抵触することによって起こった退却であるが、第二の退却はそうではないということである。第一の退却の原因がロシアの特殊な社会的状況にあったというのは、まったくの妄想であることはこれまで論じられてきた。ところが唯物史観に埋没しているとこのことがまったく分らなくなる。レーニンは第二の退却が、未来に取り戻すことができるのは第二の退却までであり、第一の退却は絶対不可能であることを夢の中にも考えてはいないのである。第二の退却と第一の退却は抽象的な観念の中でひとつになってしまっている。そもそも、第一の退却を退却とは気が付いてもいないのである。それでいながら、ネップへと譲歩し、力を蓄えることが第一の退却を取り戻すことであると信じているのである。*2
「困難と障碍はあるにせよ、不断に階級の廃止と共産主義へと歩むプロレタリア政権を維持し強化するかぎりにおいてのみ、ボリシェヴィキにとってネップは意味がある」共産主義社会のもっとも根本的な属性が無階級社会なのだから、ある政治権力がそれに向かって歩む、などということは永遠にありえない。政治権力と無関係な生物学的進化・・・まったく途方もない意識進化によってのみそれは可能なのである。プロレタリア権力であるボリシェヴィキを維持し強化するかぎりにおいてのみネップは意味がある・・・これはまったくおかしい。ネップという資本主義の要素を取り入れることが、ボリシェヴィキ権力を維持し強化することになるのなら、単にそれは社会主義より資本主義の方が優れているということを意味しているだけである。ボリシェヴィキ権力の目的が、資本主義や社会主義、共産主義とは別のイデオロギー領域なら矛盾はしないが、レーニン自ら認めているように資本主義と共産主義は完全に排他的なひとつのイデオロギー領域である。共産主義を目指すために資本主義の方が有利である・・・これほど矛盾した話はない。これを譲歩というのは単なるごまかしでしかないことは明らかである。ここでもロシアの特殊な社会的状況、資本主義後進国であったということが逆にいい逃れの理由をあたえているのである。こうなると、この社会的状況はこのイデオロギーを遂行していくにあたって、むしろ必須ともいうべき条件のように思えてくる。「共産主義は大工業なしではありえない」この問題も今まで幾度となく考察してきたことなので、もう繰り返す必要はないだろう。
上の引用文中の「共産主義」を「スターリン主義」に置き換えてみれば実によく当てはまることに気づかれるだろう。ここでレーニン、トロツキーとスターリンの根本的な違いが表れてくる。レーニンとトロツキーは、第一の退却と第二の退却をひとつの抽象的な観念の中でとらえていて、同一のものとみなしている。第二の退却は未来に第二の退却、第一の退却ともまとめて取り戻すためのものなのである。しかし、スターリンはおそらく・・・口で何といっていたとしても、取り戻すことができるのは第二の退却だけであり、第一の退却はまったく考えていなかったのではないだろうか。これこそが正しい現実認識なのである。スターリンが独裁権力を握ることになったのは、単に権謀術数に優れているだけでなく、現実認識としても卓越したものを持っていたからなのである。それでいながら、スターリンはレーニンやトロツキーと同様にイデオロギーを狂信していることに何の変わりもないのである。この極度の両義性こそスターリンを理解する上でもっとも重要なこととなる。
*2以上の考察は、現代中国を解釈する上でも非常に重要である。これは全く信じられないことなのだが、中国共産党の最も大局的な方針は、このレーニンの第二の退却は未来に第一の退却もまとめて取り返すためのものである―これを非常に巨視的なスケールで実践しているものだと言えるのである。このレーニンのネップへの譲歩を非常に長期に、柔軟に、大規模に推し進めているのが現在の状況だという解釈も可能なのである。そして未来のいつか、たとえ何百年後、何千年後であったとしても第一の退却を取り戻すことができれば、共産主義社会は実現するのである。それまで共産党は権力を独占しつづけることができる、あるいはそうしなければならないということである。もちろんこれは、唯物史観以外の要素との間の様々な関係によって左右されるわけであるが、中国の場合は共産主義イデオロギーとの親和性が非常に高いと言えるだろう。それはおそろしいくらい親和的なのである。
第2節 「永続革命論」対「一国社会主義論」
レーニン死後、繰り広げられた党内闘争は非常に複雑である。ここではトロツキーの「永続革命論」とスターリンの「一国社会主義論」を今までとはかなり異なる角度から考察してみたい。いうまでもなく本論の考察からすれば、どちらも誤りであることに変わりはない。しかし、スターリン主義形成を解明する上では避けて通ることの出来ないものである。
この論争は一般にいわれているほど、(特に反スターリン主義者が強調するように)対立的であるわけではない。スターリンはロシア一国で社会主義が勝利することが出来、それでよしと考えているわけではない。社会主義革命は継続されるのは当然なのである。しかし、先進国で社会主義革命が起こりそうもない状況で、ロシアはどうすべきかということは切実な問題である。その間、ロシアは社会主義体制を維持し強化し、他国のプロレタリアートの力を借りることを期待するだけでなく、むしろこちらから他国のプロレタリアートを勝利に導くよう助けなければならない。そのためにはまず、ロシアに社会主義体制を確立しなければならない、ということである。そのためにはロシアは一国でも社会主義を確立できるということを、スターリンは宣言しなければならなかったのである。そしてこれは多くの党員、大衆にとっても支持される理論であった。そしてスターリンは『レーニン主義の基礎』などの論文により、党員大衆を社会主義の「レーニン的道」に立ち上がらせることに成功したのであった。そして、自分をレーニンの正当な継承者であると誇示することが出来たのである。
一方、トロツキーはスターリンの中に凡庸さしか見ていなかった。「テルミドールは自分の鼻より先を見ない人を必要とするのだろう」「スターリンの力は彼が他の誰よりも不屈に、断固と、無慈悲に支配カーストの自己保存の本能を発揮した点にある」「スターリンが機関を作ったのではなく機関がスターリンを作った」。しかし、スターリンは単に権謀術数の達人であっただけでなく、理論的にも実践的にも自分の正当性を党上層部の仲間だけでなく、党員大衆にも認知させることが出来たのである。
・・・しかし、われわれが知っているように、ネップ以後ボリシェヴィキ指導者のほとんど全員が、「工業独裁」という人も、「工業と農業の結合」という人もいたが、レーニンに倣ってプロレタリア政権強化のため経済建設が不可避だとは言っているのである。したがって一国社会主義論はある程度党内気運の反映だったといえる。しかし、スターリンまでは、レーニンもブハーリンも含め、誰も一国で社会主義が勝利しうると自信をもって語ってはいない。スターリンの理論は、その時点ではまだ中途半端な形ではあったが、反トロツキー闘争の理論的武器として考え出されたものである。トロツキーでさえスターリンの理論に反対しえなかったし、世界革命という崇高な原則を裏切ったと彼を非難することも出来なかった。この理論はレーニン主義という武器庫にあった材料をスターリンが加工した結果であり、まさに、スターリニズムの理論的基礎になるものであった(6)。
トロツキーはロシアのような工業化の遅れた農業国では一国で社会主義建設は不可能であり、世界革命は絶対に必要であるという信念を曲げることはできなかった。国内政策では後にスターリンが横領することになる超工業化を主張した。しかし、このような永続革命論の立場を取ったとして、具体的にどのような政策を意味しているのだろうか。先進資本主義国に革命戦争を仕掛けることなのだろうか。それとも要人を暗殺することなのだろうか。コミンテルンがしている以上の活動ができるのだろうか。他国にできることは極めて限られている。それらの国で社会主義革命が起こらない以上、ロシア一国での社会主義建設というのは避けて通ることの出来ない問題である。マルクスやエンゲルスは一国での社会主義建設は不可能であると言っているし、資本主義が高度に発達しないと革命が起きないとも言っている。確かに、社会主義革命が起きたのが、例えば西欧の中の小国だったとしたらその体制を維持するのは困難であろう。だがロシアはこれら資本主義国からある程度の距離があり、多くの人口を擁し、そしてなによりも世界一の広大な国土を持っている。さらに資源も豊富にある。これらの条件は一国での社会主義建設に非常に有利に働いているといえるだろう。事実、干渉戦争のあとは民主主義の資本主義国から軍事攻撃を受けることはなかったのである。もちろん、ナチスドイツは例外である。
トロツキーはスターリンとの権力闘争も政策論争も完全な敗北に向かいつつあった。スターリンはトロツキーとの論争によって自己の理論を明確にし、鍛えていくことが出来たのである。それと同時に、分派禁止を駆使してトロツキーら反対派を潰していくことが容易になった。また、党員大衆の政治的教養の低さがスターリンに有利に働いている。大多数の党員にとってこの論争の内容は理解しにくかった。反対派の支持者は最大結集時でさえ、7、8千人を超えていなかったとされている。しかし、トロツキーの見解を意識的に拒んでいる人もそれ以上ではなかったということである。このため残りの全党員はスターリンとそのグループによる洗脳工作の対象となった。ほかならぬこの一般党員の無定形性こそが、スターリンが次第に優位、優勢となるのを許したのであった。それは決定的な時期に数万人の党員が「指令」、「指示」、「中央委員会の方針」におとなしく従ったからである。
これらのことと関連して、トロツキーの心理とイデオロギーとの関係を考えていきたい。トロツキーがなぜこれほど「永続革命論」に固執していたのか、という理由である。今までに幾度となく取上げられてきた「官僚主義」の問題、本来のプロレタリアート独裁からの逸脱とみなしてきたことである。トロツキーはこの官僚主義がロシアにおいて肥大化してきたのは、ロシアがまだ資本主義後進国であり、プロレタリアートがまだ社会主義を建設する水準になかったからだ、と考えてきた。そのために、資本主義先進国のプロレタリアートの力が絶対に必要であったのである。そのためにはどうしても世界革命が必要である。しかし、「永続革命論」と「一国社会主義論」の官僚主義との関係は論理的必然性を持って結びつくものなのだろうか。すなわち「永続革命論」は官僚主義を排し、真の意味でのプロレタリアート独裁から社会主義社会に向かうものであり、「一国社会主義論」は官僚主義を認めてしまうものなのだろうか。この二つの問題は本来別なものであるはずである。しかし、この論争においては背後にこの関係が随伴しているように思われる。このことにスターリンはどのように考えていたかはよく分らない。しかし、トロツキーにとってみればこれは死活問題であった。官僚体制の頂点に立つスターリンは「一国社会主義論」でロシア内部でこの状態を固定させて、つまり自分の位置を確実なものとさせながら社会主義を目指すことができる―社会主義、共産主義への輝く道と自らを同一のものとさせることができる。これは、トロツキーには絶対に認めることの出来ないマルクス主義への裏切りとなるだろう。
本論におけるこの問題に対する結論はすでに出ている。スターリンの代わりにトロツキーがソ連の指導者になっていたらという仮定はよく持ち出されることである。トロツキーのこの「永続革命論」の路線で、ソ連の政策が進められたとしたらどのようになっていただろうか。過激な革命の輸出が続けば、資本主義国との緊張関係は激化していくだろう。国内でスターリンが後に行ったような農業集団化と超工業化をさらに早い段階で行っていただろう。これらのことを考えただけでも、スターリンよりもさらに大きい災厄を世界とロシアにもたらす可能性の方がはるかに大きい。さらに、本当に官僚主義の是正をおこなうとして、官僚体制を排しプロレタリアートを行政や党の中央部に登用すれば前章で検討したようにレーニンと同じ道を歩むことになる。その機能不全状態は社会すべてに破滅的な状況をもたらすことは確実なのである。つまり、トロツキーかスターリンかではなく、このイデオロギーを遂行しようというそれ自体において、政策の選択肢は極めて限られているということなのである。根本的にイデオロギーの額面上の目標とその遂行との間には巨大な溝が横たわっている。レーニンであろうとトロツキーであろうと、スターリンであろうとそれ以外の誰かであったとしてもその状況に何の変わりもないのである。この巨大な溝に両足をかけて歩き続けるものだけが勝利を得ることになる。このイデオロギー遂行の内部において・・・であるが。
注
(5)リ・バンチョン 『スターリニズムとは何だったのか』 久保英雄訳 現代思潮新社 2001年 189,190頁
(6)同上書 231,232頁