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反、反日左翼のためにーマルクス主義は現代の呪詛宗教である

マルクス主義、共産主義は特殊なタイプの現代における呪詛宗教である。そして、現代日本社会に存在する反日左翼の根底にあるものは今でもマルクス主義なのである。このブログでは閉鎖された拙サイト『マルクス主義は現代の呪詛宗教である』の中の主要論文『マルクス主義の解剖学』 『スターリン主義の形成』その他、論文を分割して掲載していきます。

<論文> スターリン主義の形成 6 

 

 『スターリン主義の形成』

  

 第3章 ネップからスターリン大転換へ

 

 第1節 ネップとイデオロギー的考察

 

 1921年6月5日、第3回コミンテルン大会でロシア共産党(ボ)の戦術についての報告に立ったレーニンは次のように言っている―「革命前にもその後もわれわれはこのように考えていた。―今すぐにか、あるいは、少なくとも、非常に早く、資本主義のもっとも発達した他のいくつかの国で革命がはじまるだろう、そうでなければわれわれは滅びざるをえない。この認識にもかかわらず、どのような状況下でもなにがなんでもソヴィエト制度を維持するためにわれわれが手段を尽くしてきたのは、われわれは自分達のためだけでなく世界革命のためにも働いているからである」。今、レーニンによれば、「諸条件の独特の組み合わせ」によってブルジョワジーがソヴィエト・ロシアと戦争を継続することは妨げられているが、「今後もそのような試みが続くことはまったく疑いない」。ボリシェヴィキはプラグマティックに行動し、「この短い息継ぎ」をロシアにおける「プロレタリアートの権力維持」に利用しなければならない。レーニンは、世界革命の発展がボリシェヴィキの予想したほどには積極的に進まなくても、それでもとにかく前進する、と確信していた。彼はネップが「資本主義への譲歩」だと公然と認めたうえで次のように言明する―「しかしわれわれは時間を勝ち取る。われわれの国外の同志たちが革命をしっかりと準備しつつある均衡の時代には特に、時間を勝ち取ることはすべてを勝ち取ることになる。革命がしっかりと準備されればされるほど、勝利は確実になる。が、それまでわれわれは譲歩を強いられるであろう」。


 このときレーニンは「西欧の同志」が支援に駆けつけるまでソヴィエト政権を維持する、そのためにのみネップを利用しようとは決していっていない。そうではなく、レーニンの考えによれば、ボリシェヴィキは資本主義に譲歩しつつ、同時に、革命のさらなる進撃を準備しなくてはならない。このゆえに、「困難と障碍はあるにせよ、不断に階級の廃止と共産主義へと歩むプロレタリア政権を維持し強化するかぎりにおいてのみ」、ボリシェヴィキにとってネップは意味がある。スターリン現象を含めてソ連邦史を正しく理解するためにはネップを工業化・農村の集団化と対置してはいけない。すでに1920年の末にレーニンが国民経済の物質的・技術的基盤の有望な開発プランとしてロシア電化委員会を出してきたとき、有名な規定をあたえていた―「共産主義とはソヴィエト権力プラス全国の電化である」。彼は発達した大工業なしに、「社会化された大規模機械化農業」なしには共産主義への移行は不可能である、と強調し、つけ加えている―「これを忘れるものは共産主義者ではない」。先走っていえばスターリンは決してネップを廃止したのではない。ただ、ネップがその任務を終え、自ら寿命が尽きたのである(5)。


 先進国革命、世界革命に対する本論の結論はすでに出ている。この結論からいえばボリシェヴィキはレーニンの言葉通り、「滅びるしかない」ということになる。しかし、ここから70年に及ぶ悪あがきが始まるのである。ここからソ連の体制が70年も続いたという最大の理由のひとつは、これをまったく悪あがきだとは認識していなかった点にある。この引用文中におけるレーニンの論理を検討するだけでも、その巨大な誤謬の羅列を考えていかなければならない。


 レーニンはネップを「短い息継ぎ」の間のボリシェヴィキ権力を強化するための「資本主義に対する譲歩」だといっている。これは根本的におかしい。ネップへと退却したのは、戦時共産主義の経済政策の失敗の結果である。ここで重要なのは、この退却が二段階で行われているという点である。ロシア革命を考察した文献でこのことに言及したものはまったくないように思われる。これは非常に重要なことなので、詳しく論じていきたい。「マルクス主義の解剖学」第8章で検討したように、革命前、革命直後は非常にユートピア的な楽観論によって革命が進められた。このユートピア的な政策は反作用としての「魔術的因果性」「増幅された能力転移」という深層の論理にもとづいている。これが巧妙極まりないマルクスのイデオロギー体系によってもたらされたものであることは詳論されてきた。その中心となるのは「労働者自主管理、労働者統制」である。革命によって労働者は資本家、工場管理者を追い出して自分達で運営を始めた。部分的にうまくいったところもあるが、大局的には悲惨な状態となった。工業、鉄道は壊滅的な機能不全に陥ったのである。その理由も「マルクス主義の解剖学」第8章で詳しく論じられた。ボリシェヴィキはその機能不全状態を改善すべく、経済官僚、ブルジョワの工場管理者、専門家を登用せざるをえなかったのである。もう、この時点で唯物史観の中核である「社会主義革命からプロレタリアート独裁へ」から逸脱している。これが第一の退却である。この第一の退却は革命後、数ヶ月という短期間に起ったものなのである。


 これらの考察は、今までの繰り返しになるところが多いが、これまで指摘されたことがなく理解しにくい微妙な領域なので、そのことを強調しておきたい。この第一の退却の後、官僚体制は拡大の一途をたどり、食糧徴発には軍隊も動員された。工業生産物と農産物の強制的な交換が推し進められたのである。しかし、担ぎ屋などの私的商業はなくなることはなかった。改善されない都市の飢餓、クロンシュタットの反乱、農民の反乱、飢饉などにより私的商業の復活を認めざるをえなくなったのである。つまり、最初のプロレタリアート独裁(文字どおりの意味における)から第一の退却が起こり、官僚体制による指令的、計画的な生産物交換の体制となり、そこからさらに制限されつつも広範囲な私的商業、農産物の自由な売買を認め、徴発ではなく現物税による資本主義へ第二の退却が起こったのである。一般的に第二の退却のことをネップと呼んでいる。これらはやむを得ない退却の連続なのであり、余裕がありながら相手に譲歩したわけではない。さらにその資本主義と呼ばれるものは、外国の資本主義国だけでなく自国の大多数の住民も含まれるのだから、ボリシェヴィキは自分達以外はまるで全員、敵であるかのような認識なのである。これもよくいわれるように、ボリシェヴィキはその国を代表する統治機関ではなく、まるで敵国に攻め行った侵略国の占領軍のごとくなのである。


 「西欧の同志」が駆けつけてくれるまでの時間稼ぎ、ということも唯物史観を信じ込んでいるところからきていることは明白である。その可能性は非常に少ないし、もし先進国で社会主義革命が成功したとしても、生産力は壊滅的な下落を起こし、そこから回復するのにロシアと同じように官僚体制を取らざるをえない。真の意味でのプロレタリアート独裁へ向かうことなどありえないのである。つまり、レーニンのこの「資本主義への譲歩」はロシアの特殊な社会的状況、特にロシアが資本主義後進国であったということ、マルクスの社会主義革命の条件・・・資本主義が極点に達するほど発達すること・・・ではなかったということが、譲歩しなければならなくなった原因なのである。重要なことは第一の退却が「能力の壁」に抵触することによって起こった退却であるが、第二の退却はそうではないということである。第一の退却の原因がロシアの特殊な社会的状況にあったというのは、まったくの妄想であることはこれまで論じられてきた。ところが唯物史観に埋没しているとこのことがまったく分らなくなる。レーニンは第二の退却が、未来に取り戻すことができるのは第二の退却までであり、第一の退却は絶対不可能であることを夢の中にも考えてはいないのである。第二の退却と第一の退却は抽象的な観念の中でひとつになってしまっている。そもそも、第一の退却を退却とは気が付いてもいないのである。それでいながら、ネップへと譲歩し、力を蓄えることが第一の退却を取り戻すことであると信じているのである。*2


 「困難と障碍はあるにせよ、不断に階級の廃止と共産主義へと歩むプロレタリア政権を維持し強化するかぎりにおいてのみ、ボリシェヴィキにとってネップは意味がある」共産主義社会のもっとも根本的な属性が無階級社会なのだから、ある政治権力がそれに向かって歩む、などということは永遠にありえない。政治権力と無関係な生物学的進化・・・まったく途方もない意識進化によってのみそれは可能なのである。プロレタリア権力であるボリシェヴィキを維持し強化するかぎりにおいてのみネップは意味がある・・・これはまったくおかしい。ネップという資本主義の要素を取り入れることが、ボリシェヴィキ権力を維持し強化することになるのなら、単にそれは社会主義より資本主義の方が優れているということを意味しているだけである。ボリシェヴィキ権力の目的が、資本主義や社会主義、共産主義とは別のイデオロギー領域なら矛盾はしないが、レーニン自ら認めているように資本主義と共産主義は完全に排他的なひとつのイデオロギー領域である。共産主義を目指すために資本主義の方が有利である・・・これほど矛盾した話はない。これを譲歩というのは単なるごまかしでしかないことは明らかである。ここでもロシアの特殊な社会的状況、資本主義後進国であったということが逆にいい逃れの理由をあたえているのである。こうなると、この社会的状況はこのイデオロギーを遂行していくにあたって、むしろ必須ともいうべき条件のように思えてくる。「共産主義は大工業なしではありえない」この問題も今まで幾度となく考察してきたことなので、もう繰り返す必要はないだろう。


 上の引用文中の「共産主義」を「スターリン主義」に置き換えてみれば実によく当てはまることに気づかれるだろう。ここでレーニン、トロツキーとスターリンの根本的な違いが表れてくる。レーニンとトロツキーは、第一の退却と第二の退却をひとつの抽象的な観念の中でとらえていて、同一のものとみなしている。第二の退却は未来に第二の退却、第一の退却ともまとめて取り戻すためのものなのである。しかし、スターリンはおそらく・・・口で何といっていたとしても、取り戻すことができるのは第二の退却だけであり、第一の退却はまったく考えていなかったのではないだろうか。これこそが正しい現実認識なのである。スターリンが独裁権力を握ることになったのは、単に権謀術数に優れているだけでなく、現実認識としても卓越したものを持っていたからなのである。それでいながら、スターリンはレーニンやトロツキーと同様にイデオロギーを狂信していることに何の変わりもないのである。この極度の両義性こそスターリンを理解する上でもっとも重要なこととなる。

 

 *2以上の考察は、現代中国を解釈する上でも非常に重要である。これは全く信じられないことなのだが、中国共産党の最も大局的な方針は、このレーニンの第二の退却は未来に第一の退却もまとめて取り返すためのものである―これを非常に巨視的なスケールで実践しているものだと言えるのである。このレーニンのネップへの譲歩を非常に長期に、柔軟に、大規模に推し進めているのが現在の状況だという解釈も可能なのである。そして未来のいつか、たとえ何百年後、何千年後であったとしても第一の退却を取り戻すことができれば、共産主義社会は実現するのである。それまで共産党は権力を独占しつづけることができる、あるいはそうしなければならないということである。もちろんこれは、唯物史観以外の要素との間の様々な関係によって左右されるわけであるが、中国の場合は共産主義イデオロギーとの親和性が非常に高いと言えるだろう。それはおそろしいくらい親和的なのである。

 

 第2節 「永続革命論」対「一国社会主義論」

 

 レーニン死後、繰り広げられた党内闘争は非常に複雑である。ここではトロツキーの「永続革命論」とスターリンの「一国社会主義論」を今までとはかなり異なる角度から考察してみたい。いうまでもなく本論の考察からすれば、どちらも誤りであることに変わりはない。しかし、スターリン主義形成を解明する上では避けて通ることの出来ないものである。


 この論争は一般にいわれているほど、(特に反スターリン主義者が強調するように)対立的であるわけではない。スターリンはロシア一国で社会主義が勝利することが出来、それでよしと考えているわけではない。社会主義革命は継続されるのは当然なのである。しかし、先進国で社会主義革命が起こりそうもない状況で、ロシアはどうすべきかということは切実な問題である。その間、ロシアは社会主義体制を維持し強化し、他国のプロレタリアートの力を借りることを期待するだけでなく、むしろこちらから他国のプロレタリアートを勝利に導くよう助けなければならない。そのためにはまず、ロシアに社会主義体制を確立しなければならない、ということである。そのためにはロシアは一国でも社会主義を確立できるということを、スターリンは宣言しなければならなかったのである。そしてこれは多くの党員、大衆にとっても支持される理論であった。そしてスターリンは『レーニン主義の基礎』などの論文により、党員大衆を社会主義の「レーニン的道」に立ち上がらせることに成功したのであった。そして、自分をレーニンの正当な継承者であると誇示することが出来たのである。


 一方、トロツキーはスターリンの中に凡庸さしか見ていなかった。「テルミドールは自分の鼻より先を見ない人を必要とするのだろう」「スターリンの力は彼が他の誰よりも不屈に、断固と、無慈悲に支配カーストの自己保存の本能を発揮した点にある」「スターリンが機関を作ったのではなく機関がスターリンを作った」。しかし、スターリンは単に権謀術数の達人であっただけでなく、理論的にも実践的にも自分の正当性を党上層部の仲間だけでなく、党員大衆にも認知させることが出来たのである。


 ・・・しかし、われわれが知っているように、ネップ以後ボリシェヴィキ指導者のほとんど全員が、「工業独裁」という人も、「工業と農業の結合」という人もいたが、レーニンに倣ってプロレタリア政権強化のため経済建設が不可避だとは言っているのである。したがって一国社会主義論はある程度党内気運の反映だったといえる。しかし、スターリンまでは、レーニンもブハーリンも含め、誰も一国で社会主義が勝利しうると自信をもって語ってはいない。スターリンの理論は、その時点ではまだ中途半端な形ではあったが、反トロツキー闘争の理論的武器として考え出されたものである。トロツキーでさえスターリンの理論に反対しえなかったし、世界革命という崇高な原則を裏切ったと彼を非難することも出来なかった。この理論はレーニン主義という武器庫にあった材料をスターリンが加工した結果であり、まさに、スターリニズムの理論的基礎になるものであった(6)。


 トロツキーはロシアのような工業化の遅れた農業国では一国で社会主義建設は不可能であり、世界革命は絶対に必要であるという信念を曲げることはできなかった。国内政策では後にスターリンが横領することになる超工業化を主張した。しかし、このような永続革命論の立場を取ったとして、具体的にどのような政策を意味しているのだろうか。先進資本主義国に革命戦争を仕掛けることなのだろうか。それとも要人を暗殺することなのだろうか。コミンテルンがしている以上の活動ができるのだろうか。他国にできることは極めて限られている。それらの国で社会主義革命が起こらない以上、ロシア一国での社会主義建設というのは避けて通ることの出来ない問題である。マルクスやエンゲルスは一国での社会主義建設は不可能であると言っているし、資本主義が高度に発達しないと革命が起きないとも言っている。確かに、社会主義革命が起きたのが、例えば西欧の中の小国だったとしたらその体制を維持するのは困難であろう。だがロシアはこれら資本主義国からある程度の距離があり、多くの人口を擁し、そしてなによりも世界一の広大な国土を持っている。さらに資源も豊富にある。これらの条件は一国での社会主義建設に非常に有利に働いているといえるだろう。事実、干渉戦争のあとは民主主義の資本主義国から軍事攻撃を受けることはなかったのである。もちろん、ナチスドイツは例外である。


 トロツキーはスターリンとの権力闘争も政策論争も完全な敗北に向かいつつあった。スターリンはトロツキーとの論争によって自己の理論を明確にし、鍛えていくことが出来たのである。それと同時に、分派禁止を駆使してトロツキーら反対派を潰していくことが容易になった。また、党員大衆の政治的教養の低さがスターリンに有利に働いている。大多数の党員にとってこの論争の内容は理解しにくかった。反対派の支持者は最大結集時でさえ、7、8千人を超えていなかったとされている。しかし、トロツキーの見解を意識的に拒んでいる人もそれ以上ではなかったということである。このため残りの全党員はスターリンとそのグループによる洗脳工作の対象となった。ほかならぬこの一般党員の無定形性こそが、スターリンが次第に優位、優勢となるのを許したのであった。それは決定的な時期に数万人の党員が「指令」、「指示」、「中央委員会の方針」におとなしく従ったからである。


 これらのことと関連して、トロツキーの心理とイデオロギーとの関係を考えていきたい。トロツキーがなぜこれほど「永続革命論」に固執していたのか、という理由である。今までに幾度となく取上げられてきた「官僚主義」の問題、本来のプロレタリアート独裁からの逸脱とみなしてきたことである。トロツキーはこの官僚主義がロシアにおいて肥大化してきたのは、ロシアがまだ資本主義後進国であり、プロレタリアートがまだ社会主義を建設する水準になかったからだ、と考えてきた。そのために、資本主義先進国のプロレタリアートの力が絶対に必要であったのである。そのためにはどうしても世界革命が必要である。しかし、「永続革命論」と「一国社会主義論」の官僚主義との関係は論理的必然性を持って結びつくものなのだろうか。すなわち「永続革命論」は官僚主義を排し、真の意味でのプロレタリアート独裁から社会主義社会に向かうものであり、「一国社会主義論」は官僚主義を認めてしまうものなのだろうか。この二つの問題は本来別なものであるはずである。しかし、この論争においては背後にこの関係が随伴しているように思われる。このことにスターリンはどのように考えていたかはよく分らない。しかし、トロツキーにとってみればこれは死活問題であった。官僚体制の頂点に立つスターリンは「一国社会主義論」でロシア内部でこの状態を固定させて、つまり自分の位置を確実なものとさせながら社会主義を目指すことができる―社会主義、共産主義への輝く道と自らを同一のものとさせることができる。これは、トロツキーには絶対に認めることの出来ないマルクス主義への裏切りとなるだろう。


 本論におけるこの問題に対する結論はすでに出ている。スターリンの代わりにトロツキーがソ連の指導者になっていたらという仮定はよく持ち出されることである。トロツキーのこの「永続革命論」の路線で、ソ連の政策が進められたとしたらどのようになっていただろうか。過激な革命の輸出が続けば、資本主義国との緊張関係は激化していくだろう。国内でスターリンが後に行ったような農業集団化と超工業化をさらに早い段階で行っていただろう。これらのことを考えただけでも、スターリンよりもさらに大きい災厄を世界とロシアにもたらす可能性の方がはるかに大きい。さらに、本当に官僚主義の是正をおこなうとして、官僚体制を排しプロレタリアートを行政や党の中央部に登用すれば前章で検討したようにレーニンと同じ道を歩むことになる。その機能不全状態は社会すべてに破滅的な状況をもたらすことは確実なのである。つまり、トロツキーかスターリンかではなく、このイデオロギーを遂行しようというそれ自体において、政策の選択肢は極めて限られているということなのである。根本的にイデオロギーの額面上の目標とその遂行との間には巨大な溝が横たわっている。レーニンであろうとトロツキーであろうと、スターリンであろうとそれ以外の誰かであったとしてもその状況に何の変わりもないのである。この巨大な溝に両足をかけて歩き続けるものだけが勝利を得ることになる。このイデオロギー遂行の内部において・・・であるが。

 

 

(5)リ・バンチョン 『スターリニズムとは何だったのか』 久保英雄訳 現代思潮新社 2001年 189,190頁
 

(6)同上書 231,232頁


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<論文> スターリン主義の形成 5 

 

『スターリン主義の形成』

 

第2章 レーニンのifと「能力の壁」


 第4節 正統性と権威

 

 政治的権威、権力は正統性に支えられている。その正統性はさまざまな形態、起源を持っている。古代、中世においては神話や宗教にその起源を持つものが多い。議会制民主主義では、その正統性は選挙によって示される民意である。マルクス主義、共産主義の正統性は、当然、マルクスの学説、理論にもとづいている。マルクス主義政権の権威はどれだけマルクスの学説、特にその唯物史観にもとづいているか、という正統性によって支えられているだろう。そして、マルクス主義は単なる理論ではなく、革命遂行という実践するための理論でもある。そのためその権威は、単に口先だけでなく、どれだけ実践したかということによっても計られる。まさにその意味においてレーニンは、長い間主張してきたことと、現実にその機会が巡ってきたときにその主張してきた通りの革命を実行し、その通りに成功させたということである。まさにこれは、他の誰にも為し得なかった偉業であり、奇跡的な成功であった。そのことによって、レーニンの権威は神のごとき高みに到達したのである。


 革命後の経過は、現実には労働者自主管理の破綻など問題が生じていたのだが、それほど目立つものではなかった。もっとも重大な戦争からどう離脱するのかという問題は、ブレスト・リトフスク講和によって成し遂げられた。ロシアはこの講和によって広大な領土を失ったが、結果的にドイツは第一次世界大戦に敗北し、この講和は無効になったのである。失われた領土は回復され、レーニンの判断はここでもまったく正しかったことが証明された―実際それは運が良かったともいえるのだが―ボリシェヴィキ内部で多くの論争があった戦争終結の問題は、レーニンの権威をさらに高める結果になったのである。


 ここで「権威」の問題を理解しやすくするために、これを二つの側面に分けて検討していきたい。一般的に「権威」は大きく二つの領域にあるものの結合である。ひとつは「心理的権威」であり、もうひとつは「実質的権威」である。この二つの権威は通常ひとつに結合されているが、常にそうであるとは限らない。例えば、統治するものが王族や将軍家といった場合、世襲によって最高権力者が決められていく。そのときの王や将軍が急逝し、世襲する立場にある者がまだ子供で統治する能力がなかった、としよう。その子供の有力な臣下が後見人となり、代わりに政務を遂行するということがある。そのとき世襲する立場の子供には「心理的権威」は存在するが「実質的権威」はない、ということになる。「実質的権威」は後見人となった臣下に一時的に移動し、代行することになる。その場合でも普通はその「心理的権威」に「実質的権威」が、できるかぎり早く近づくよう努力がなされるだろう。この場合、「心理的権威」は「実質的権威」に先立って存在している。それは権力を持った家系の後継者という正統性をあらかじめ付与されているのである。


 レーニンの権威の獲得過程を見ていくと、革命以前から亡命革命家としてのレーニンの名声は広く行き渡っていた。ボリシェヴィキ内部では当然、非常に大きい権威を持っていたのである。しかし、歴史的なスケールから見れば、まだまだひとつの党派における権威でしかなかった。ロシア革命の成功により、その権威は歴史的なものへと昇りつめたのである。この場合、「心理的権威」と「実質的権威」との関係は、先の世襲における関係とは逆に「実質的権威」が「心理的権威」に先行する。実質的権威が行使され、その成果によって心理的権威が増幅され、そのことによって、さらに強い実質的権威の行使が可能になる。そのような権威の増幅サイクルが形成されるのである。実際には、それは一体化して進むように見えるだろう。さらにこの場合、この革命が社会主義革命であるというイデオロギーの効果によって、普通の革命以上に「心理的権威」が増幅される。すなわち、革命が成就したその瞬間までの過程は、実質的には通常の革命とほとんど差はないのであるが、心理的な側面に決定的な違いが出てくる。もし、ロシア革命が社会主義革命ではなく、それ以前のブルジョワ革命や民主化革命のようなものであったと仮定した場合、レーニンの権威を考えてみればその違いがわかるのである。もっとも、ブルジョワ革命を指導するレーニンというのは想定困難であるが・・・


 革命直後のもっとも重大な問題・・労働者自主管理、労働者統制は革命、戦争の混乱の中であまり注目されなかった。これこそが「能力の壁」に関わる最重要事であるわけだが、そのときの状況がそれを許さなかった―このようにいうことが出来たのである。そして、ブレスト・リトフスク講和による第一次世界大戦からの離脱と結果的な講和の無効によって、レーニンの権威はさらに高まり、続く内戦の勝利によって盤石なものになったのである。これは蜂起の時の役割と内戦の働きによって非常に高まったトロツキーの権威にも同じことがいえるが、これらの過程を冷静に眺めて欲しい。これらの権威はすべて「能力の壁」に抵触しない範囲での成果によって獲得されているのである。すなわち、「能力の壁」の克服の方向には一歩たりとも、半歩たりとも進みだしてはいない。もちろん、それはまったく不可能なことなのである。実質性は社会主義革命の成就までであり、プロレタリアート独裁、社会主義社会、共産主義社会はすべて心理的、観念的な次元にしか存在しないのである。しかし、レーニンの権威はこれら唯物史観の未来社会の幻想から投影された「心理的権威」を獲得しているのである。


 レーニン、そしてトロツキーも実質的権威を行使した成果が心理的権威を実際よりも増幅して得られる、ということであり、さらに実質的権威と心理的権威の間の時間差、タイムラグが極めて小さいという点にも注目したい。もちろん、これは革命や内戦の勝利という誰の眼にも明らかな成果によるものである。加えて、レーニンやトロツキーは党員や大衆の前での雄弁な演説にもたけていた。それに対してスターリンは対照的である。ボリシェヴィキ内部での権威はすでに相当大きなものがあったが、一般的にはあまり知られていなかった。蜂起の時はそれほど目立った活躍をしたわけではない。内戦での活躍は大きなものがあり、レーニンはスターリンに全幅の信頼を寄せていたが、その名声はトロツキーには及ばなかった。スターリンの書記局、組織局、民族人民委員、労農監督人民委員の仕事は地味な実務であり、党員や大衆に大きくアピールするものではない。さらにスターリンはまだこの頃は演説が苦手だった。しかし、スターリンはこれら実務を精力的にこなすことによって、実質的権威を強固にし、それを増大していくことが出来たのである。この実質的権威の増大には必然的に心理的権威もついていくことになる。ただ、レーニンやトロツキーとは違い実質的権威と心理的権威の間のタイムラグはかなり大きいといえる。このことは逆に、ある時点で、あるレベルの心理的権威を感じたとしたら、実質的権威はそれよりもさらに大きい・・・タイムラグが大きければ大きいほど実質的権威は大きくなっている、といえるのである。


 それに加えて、マルクス主義の正統性との複雑な関係がある。レーニンやトロツキーの蜂起の成功、帝国主義戦争からの離脱、反革命軍との内戦の勝利はいずれもマルクス主義の正統性からみて申し分ないものである。革命直後の労働者自主管理の政策もマルクス主義にのっとっている。ブルジョワジーに対する弾圧、テロルも当然のことである。これらはマルクス主義、共産主義の正統性に即した権力の行使である。スターリンもこのマルクス主義の正統性に即した行動をとっているといえるが、実務的な領域を任されるようになってから、それが微妙なものになっていった。官僚体制の構築というのは、マルクス主義の中には存在しないものであるが、この時のロシアの特殊な状況下でそれは仕方のないものとして考えられていた。マルクス主義の正統性からもたらされる心理的権威は、レーニンやトロツキーの側にあり、スターリンは低いものになるのである。だがしかし、マルクス主義の正統性そのものが、今まで検討してきたように原理的な矛盾をはらんでいる。心理的権威の大部分は虚像であり、現実には実質的権威が実体なのである。以上のことからレーニンとスターリンの間の権威の差は、見かけよりもはるかに小さいのである。

 

 第5節 権威の推移予測

 

 1922年5月のレーニンの1回目の発作時点での、レーニンとスターリンの権威の関係を考察してみよう。一般的には、レーニンの権威は絶対的なものである、スターリンの権威も高いものであるが、レーニンと比較になるものではない―このようにみなされているだろう。しかし、今まで検討してきたように、これはイデオロギーの心理的効果によるものが絶大なのである。このマルクス主義のイデオロギーが心理的権威に及ぼす効果によって、レーニンとスターリンの権威の差は非常に大きいものになる。レーニンでは実質的権威・・それ自体、もちろん高いものではあるが、それに加えて心理的権威が相乗効果をもたらしている。スターリンでは実質的権威・・それは党組織を構築していくという地味な実務によって、着実に高まっていた。しかし、イデオロギーの心理的効果はスターリンではむしろマイナスに作用している、といってよい。本論で証明されてきたイデオロギーの原理的矛盾、その不可能性によって、その実相はレーニンでは心理的権威が半減し、逆にスターリンでは実質的権威の重要性がはっきりしてくるのである。


 レーニンは発作を起こし政務から離れることによって、その実質的権威が低下してしまった。それが2回目の発作、3回目の発作と進むにつれ病状は悪化し、それに伴い実質的権威は急激に下降し、3回目の発作、1923年3月以降は事実上ゼロになってしまったのである。これは誰しもが納得することであろう。しかし、心理的権威は高いままで維持されているのである。当然、実質的権威は埋め合わせなければならない。それを巡っての党内闘争が生じてくるのは必然であった。ここで問題にされるのは、レーニンが発作を起こさず正常に政務を続けられた場合、どうなるのかということである。「官僚主義について」の節で検討したように、レーニンの指導と現実との齟齬は次第に大きくなっていくだろう。それに伴い、レーニンの権威は徐々に低下していくことが予想されるのである。つまり、病気による権威の低下がなかったとしても、レーニンの権威は低下していくことは確実なのである。もちろん、病気による権威低下に比べればはるかに緩やかなものであるが、これは重大なことである。レーニンの権威は、そのイデオロギーによる高い心理的権威に支えられているがゆえに、そのイデオロギーの原理的矛盾が徐々に顕在化してくるに従って低下せざるをえない。高いところから落ちるものはその落下速度が速くなるように・・・それを回避しようとすれば、スターリン的官僚体制を肯定せざるをえなくなる。そうなれば、心理的にも徐々にスターリンが有利になっていくのである。


 イデオロギーの原理的矛盾の顕在化というのは、「マルクス主義の解剖学」第8章以降に詳しく論じられてきたことである。革命直後からその顕在化は当然、始まっていたがロシアの置かれた特殊な状況下でその理由を外部に求めることができたし、何しろ革命はまだ始まったばかりだったのである。しかし、時間の経過とともに―特に内戦が勝利に終わった後は、その原理的矛盾はとどまるところを知らず噴出を始めた。レーニンは権力を維持するため、その権威を保つために、次々と非常手段を取らなければならなかったのである。分派禁止、ネップの導入、他政党の弾圧、メンシェヴィキや知識人の国外追放、教会弾圧、反革命とみなされた人々へのテロル、強制収容所送りも弱まることはなかった。レーニンが正常に政務を続けられた場合でも、この原理的矛盾の状況は何ら変わることはないのである。レーニンがどのような政策をとったかは、もちろんわからないことであるが、確実なことは現実の晩年にとったような官僚主義批判の政策を行った場合には、レーニンの権威に破壊的な作用を及ぼすということであり、官僚体制を肯定すればスターリンへの依存度は高くなり、スターリンを更迭することなど不可能なように思えてくる。つまり、レーニンからスターリンへの権威、権力の移動は原理的に不可避なのである。


 しかし、このことを予測することは極めて難しいことに変わりはない。その大きな理由は、スターリンはレーニンを師として仰いでいて、レーニンに対する忠誠心は非常に強いものがあったからである。スターリンがレーニンが死去したときに喜んでいたとしても、それでスターリンのレーニンに対する忠誠心が偽りであったということにはならない。さらに、レーニンが生きていればトロツキーの地位もまったく変わってくるだろう。現実の権力闘争の結果のように、スターリンが独裁的地位に昇り詰めていくということはありえないだろう。それでも、レーニンやトロツキーの世界革命路線、官僚主義批判、労働者や農民を政治機構の上層部に取り入れるというようなイデオロギーの額面通りの政策は必ず破綻し、スターリンの官僚主義体制が最終的には勝利することは決定的である。もし、そうならなかった場合は・・・ボリシェヴィキ権力そのものの崩壊ということが考えられるのである。

 

 第6節 レーニンの二つの神格化

 

 レーニンは死去することによって、クレムリンの神殿に奉られた共産主義の神としての偶像崇拝の対象にされてしまった、とみなされている。それを強力に推し進めたのがスターリンであり、クループスカヤをはじめとするボリシェヴィキの他の幹部たちは、そのことに反対であり、不快感を表したといわれている。しかし、このことは平党員や一般大衆にはわかりやすく、強く訴えるものであったことは想像に難くない。スターリンはレーニン自身なら忌み嫌うであろう偶像崇拝の現実の力をよく理解していたのである。ロシアの一般大衆は、ボリシェヴィキ幹部のような西欧型のインテリではなく、信心深く、教育水準もまだ十分ではなかったのである。そして自分は、そのレーニンの最大の弟子として、レーニンの遺訓に沿って社会主義建設に邁進すると宣言することが、もしレーニンが生きていたら反対するようなことであったとしても―有効だと信じたのである。一般的に「レーニンの神格化」といえば、スターリンのこのような神格化のことを指すのである。


 偶像崇拝の対象としての神格化ではないにしても、ボリシェヴィキ幹部にとってレーニンは最大に依拠すべき権威であった。それはスターリンだけでなく、トロツキーもカーメネフ、ジノヴィエフ、ブハーリンらも同様に自らがレーニンに依拠しているということを強調し、権力闘争、権威の確保に利用しているのである。レーニンの文献から引用して論争を有利に進めるという引用合戦が繰り広げられることになった。この点でもスターリンは巧妙であったのである。そして、説得力のない理論であっても最終的には投票による決議によってスターリンは勝利することができた。これらの議論は一般にはほとんど公表されず、平党員にも知らされないことが多かった。スターリンの神格化されたレーニンと一体であるかのようなプロパガンダによって、その権威をますます強固なものにしていったのである。


 以上の神格化を、「第一の神格化」と呼ぶことにしよう。しかし、レーニンの神格化にはもうひとつの重大な側面がある。それがスターリン批判以後に大きくクローズアップされてきたものである。それは「ロシア革命はレーニンが死去することによって、その権力はスターリンの手に握られ、当初の理想から外れてスターリン個人の権力欲のために利用されてしまった。レーニンが生きていれば社会主義社会、共産主義社会への正しい道を歩むことが出来ただろう。レーニンの死去は痛恨の極みである」というものである。スターリン統治下のソ連の状況は、反体制派の知識人や多くの情報によって自然に知られるようになっていたが、ソ連当局の強力なプロパガンダや情報統制などにより、その実態は霧の中にあった。そして何よりも多くの人々が共産主義幻想を抱いていたことが、スターリン体制の実態を直視することを妨げていたのである。これらのことはフランソワ・フュレの『幻想の過去』に詳しい。そして、ソ連共産党自身による1956年、フルシチョフの「スターリン批判」によって、スターリン統治の実態の一部が明らかにされたのである。その衝撃によって、レーニン神話の重要性は格段に大きくなった。ソ連の実態はスターリンによるマルクスとレーニンの思想、理論を歪曲して実践した結果である。そのように考えざるをえなくなったのである。


 スターリン統治下のソ連の実態は、クリヴィツキー、オーウェル、ケストラーらによって早い時期から告発されていたが、スターリン批判以後、メドベージェフ『共産主義とは何か』、ソルジェニーツィン『収容所群島』などにより決定的に知られるようになっていった。スターリンに裏切られたと感じたマルクス主義者、共産主義者がレーニンに傾斜していくのは当然の成り行きだった。「もし、レーニンが長生きしてソ連を指導することが出来たら」という問題は、マルクス主義者、共産主義者だけでなく反共主義者、歴史家、ソ連研究者にとっても重要な問題である。歴史のifは重要視されてはならない―これはひとつの常識であるが、この問題ほど例外的に重要なものは存在しないだろう。本論はこの問題の今までの常識とは・・これもさまざまな見解があるわけであるが・・かなり異なる結論になる、といえるだろう。


 もし、レーニンが長生きして正常に政務を続けられた場合でも、一部の人々が期待するような社会主義、共産主義への道を歩むことは絶対にありえない。たとえそれがスターリン的な官僚体制と多少異なるものであったとしても、やはりそれは同様な官僚体制を基盤とした階級社会である。そして同様な上意下達式の指令経済になるだろう。当然、さまざまな自由は同様に制限され、秘密警察のテロルと抑圧は決してなくならない。強制収容所は拡大し続けるだろう。そもそも、戦時共産主義の時代にそれらのシステムを確立したのはレーニン自身である。多くの共産主義者はこれを革命の過渡期の仕方のないものとしてとらえ、やがてそれは改善されていくものであることを強調するが、それがまったくの幻想であることを本論は証明しているのである。すなわち、正しい社会主義社会、共産主義社会への道を指導できるレーニンというのは、レーニンに対する途方もない神格化なのである。・・・というより、レーニンをまさに神そのもの、創造主そのものとみなすことなのである。


 これはレーニンに対するどのようなイメージを持ったとしても―例えば権威に祭り上げられることを嫌い、謙虚で人間的な迷い、悩めるレーニンを想定しても、またレーニン自身がどのような主観を持っていたとしても、それらに関係なく共産主義の無階級社会を実現できるということは「全体的に発達した個人」の能力を要請する。レーニンならばそれが可能だったということは、レーニンならそのような能力をプロレタリアートに授けることができる・・・このような意味になるのである。これは今までの人類とまったく異なる新人類を創造するという、まさに聖書の創世記に出てくる神による天地創造、あらゆる動物や人間を短期間に創造した創造主そのものの行為である。これを「第二の神格化」と呼ぶことにしよう。「第一の神格化」がスターリン主義の神格化だとすれば、「第二の神格化」は反スターリン主義に強く関係する神格化だといえる。以上、「第二の神格化」の方が「第一の神格化」よりも桁外れに大きい神格化だといえるのである。しかし、「第二の神格化」が神格化だとみなされることはほとんどない。これはレーニンにもっとも批判的な人々の間でさえ、このようにはみなされていないのである。なぜそうなのかという理由は、ここでも「能力の壁」の認識がいかに難しいかということに帰着する。


 「第二の神格化」はスターリン批判以後、ソ連内部ではスターリン主義との兼ね合いで微妙な形で存在し、しかし、体制を維持するための強力な基盤になっていた。マルクス主義者、共産主義者で反スターリン主義に走った人々は、「もし、トロツキーが政権を握っていたら・・」というトロツキズムとも関連して、その精神的な支えとなったのである。ペレストロイカ末期からソ連崩壊にかけての時期、レーニンの権威もまた崩壊を迎えた。「第二の神格化」も著しく後退した。しかし、この神格化の残響はいまだに鳴り響いているようである。一部の左翼知識人の中にはレーニンを再興しようという動きがある。スターリンを再興しようという知識人はほとんど皆無であるが、レーニンに関していまだにそのようなことが続けられているということは、この神格化の力がいかに強いかということであり、まさにレーニンはあの時に死去したからこそ、その力を持つことが出来たといえるだろう。

 

 第7節 展望

 

 この「レーニンが死去せず、健康で政務を続けていたら・・・」というifの展望は、これまで考察してきたように非常に暗いものにならざるをえない。レーニンの晩年の論文などの内容から、このレーニンのifの政策をその額面通りのものとして推測してはならないだろう。はっきりしていることは、レーニンが権威を保ち続けるためには、スターリン的な指令的、官僚的な統治を続ける以外にない、ということである。それでも、一部の歴史家が指摘するようにレーニンならスターリンのように仲間の大部分を抹殺することはないだろう。―これは確かにそのように思える。また、レーニンならそのような必要はないのである。しかし、レーニンがスターリンのしたような農業集団化や5カ年計画による工業化を推し進めるということは難しい問題である。これは戦時共産主義の手法を再び遂行したということには違いないが、この段階で再度それを行うということは、これはイデオロギーにとってそのようなものが本質的なものであるとみなさなくてはならなくなる。つまり、戦時共産主義のときのようにさまざまな理由づけをすることは出来ないのである。ロシア一国で社会主義を建設しなければならないという理由づけはあるが、戦時共産主義期よりもはるかに説得力は弱くなっている。これにレーニンはどのような判断を下すのだろうか。この理由づけの説得力が弱まっていく状況では、党や大衆に対するさらなる統制の強化、民主主義の抑圧、反革命分子と疑われる人々・・実際そのような行動を起こさなくても潜在的な可能性があるような・・への弾圧は強まらざるをえない。


 もし、レーニンがスターリン的な手法を取ることが出来ず、現実の晩年に取ったような現実主義からの後退が起こったとすればどうなるだろうか。このことに関してある象徴的な会話がある。レーニン死後、数年経って強まっていくばかりのスターリンの権力を前に、あるボリシェヴィキ幹部がクループスカヤに向かって「レーニンが生きていてくれたら」と言ったところ、クループスカヤは「レーニンが生きていたら、今頃、監獄に入れられているでしょう」と答えたという。これを最初に読んだとき筆者は「スターリンの方を監獄に入れりぁいいじゃないか」と思ったのである。この会話がどのような状況で、どのような文脈でなされたかよく分らないが、スターリンがレーニンを監獄に入れる―これはレーニンとスターリンの権力、権威が完全に逆転している状況だと解釈して間違いないだろう。この会話を単にスターリンを非難するだけの意味にとらえたら浅い解釈になる。この会話のレーニンがどのような状況であるのか、、健康であるのか、病気であるのかによっても違ってくるが、スターリンがレーニンよりも上の権力者になるということを、レーニン未亡人のクループスカヤが認めている、あるいは認めざるをえない、ということも意味しているのではないだろうか。


 まさに信じ難い予測が生まれてくる。それは「スターリンがレーニンを粛清する」ということである。そのときのスターリンの論理は逆説的なものになるだろう。「レーニンを救うために、レーニンを粛清する」ということが想定されるのである。革命を推し進めたレーニンの成果を救うために、その成果を破壊しようとするレーニンを粛清するのである。これがひとつの究極的な展望である。



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<論文> スターリン主義の形成 4 


 『スターリン主義の形成』


 第2章 レーニンのifと「能力の壁」

 第1節 レーニンのifの考察

 

 スターリン主義に至る道程での最大の問題、それはいうまでもなくレーニンのifであろう。つまり「レーニンが病気になり、死去することなく政務を続けることができたなら、スターリン主義に至ることはなかっただろう。その場合、ソ連はどうなっていただろうか?」という問題である。これはもちろん、確実な解答など得られる問題ではない。しかし、この問題を考えることは、スターリン主義を解明するうえで非常に重要であることは間違いない。そして、本論は今までとまったく違った地平からこの問題に接近することができるのである。


 この問題では、レーニンが1回目の発作で倒れてから、翌年の第12回党大会に至る時期がもっとも重要だと思われる。今まで「レーニン最後の闘争」と呼ばれてきたものである。重要な問題は大きく次の二つ、官僚主義の問題と民族問題である。官僚主義の悪弊が目立ってきた官僚機構の頂点に立つのは、実質的に組織局、書記局の長であり、労農監督人民委員部の長だったスターリンである。グルジアとの同盟問題でクローズアップされてきた民族問題は、民族人民委員のこれもまたスターリンとの間の問題である。3人組の他のメンバー、ジノヴィエフ、カーメネフは密かな同盟によって、スターリンと緊密に結びついていた。しかし、この時すでに党の人事を司っていたスターリンは自分の腹心や、多くの息のかかった配下のものを従えつつあったのである。圧倒的な権力はスターリン個人に集中していったが、ジノヴィエフ、カーメネフはまだそのことに気が付いていなかった。この2人がそのことを軽視した理由も、トロツキーと同じくマルクス主義の教義に染まっていたことが大きな理由だろう。社会主義革命によって上部構造は消滅する、そうであるならば、このような権力は意味のないものなのである。このようなことを、本当に考えていたということは、今からすればまったく信じ難い話なのであるが、事実なのである。それでいながら、何とも人間臭い党内権力闘争を繰り広げているのだから、このイデオロギー特有の二重思考的行動様式をとっているといえるだろう。イデオロギーの教義とイデオロギー遂行の現実主義、そして個人の権力欲などがアマルガムになっている。


 まず、民族問題から考察してみよう。先に検討したように、スターリンのロシア共和国に各民族共和国を従わせる、という案は、あからさまなロシア・ショーヴィニズムだとしてレーニンはロシア共和国を含めて、各共和国を平等の立場でソヴィエト社会主義共和国連邦に包括するという案を示した。スターリンはこれを納得したが、実質的にはロシア共産党が、ソヴィエト共和国連邦の共産党に外観を変えるにすぎず、それは同じことだったのである。しかし、その後スターリンらのグルジアに対する対応に、レーニンは不信感を募らせていった。病気の自分のところへ情報が入ってこなくなったことも、そのことを増長した。この問題では、クループスカヤを恫喝したスターリンに対する不信感は決定的になったようである。さらに、スターリンの官僚主義化による強大な権力集中に大きな危惧を抱くようになっていたレーニンは、特に2回目の発作以降、スターリンの民族問題への対応に強い批判的な考えを持つようになったのである。各民族に対する官僚主義的な横暴な指示、抑圧が強くなっていったことから、民族問題と官僚主義の問題は密接に繋がっているともいえる。


 このことから反スターリン主義のレーニン支持者から、「レーニンが病気になり、死去することがなければ民族自治は重視され、官僚主義は大きく改善されただろう。スターリンは書記長の職から更迭され、それほど影響力のない共産党の一幹部にされただろう」と、このような主張がなされることがある。しかし、ここまで来れば明らかなことだが、詳細に検討すれば、これはまったくの御都合主義でしかないことがわかるのである。結局、レーニンがスターリンの民族政策に批判的になれたのは、レーニン自身が政策実行の当事者でなくなったからである。民族自治をある程度以上に許容すれば、それは直ちに経済政策にも反映され、市場経済の復活、そしてさらに資本主義の復活が予想されるのである。数十年後、ペレストロイカの民族自治の許容によって、まさにそのような事態が起こったのである。社会主義革命を断行し、いかなるテロルも辞さず、内戦によって多くの犠牲を出しながら権力を維持したのは、資本主義の要素を根絶するためである。レーニンがそのような民族自治を許容するはずはない。それはスターリン以上に厳しいものだろう。つまり、レーニンが病気になったからこそ、このようなスターリン批判が可能になったのであり、レーニンが病気にならなければスターリン以上に厳しい民族政策をとっただろう、ということである。当時は、ネップによって市場経済がある程度許容されていたが、これは中央集権的なコントロールの下での話であり、必要とあらば、いつでも市場経済は廃棄されねばならない―それができる状態にしておかなければならないのである。


 1922年12月30日、スターリンは、各共和国の同盟によるソ連邦の成立を宣言する。同じ日に、レーニンは、「少数民族の問題または『自治共和国化』の問題によせて」の口述筆記をおこなった。レーニンが来たるべき第12回党大会で、全党の前に明らかにしようとした論文は、一部を要約すると次の通りである。レーニンはまず自己批判をして「私は、悪名高い自治共和国化の問題―公式にはソヴィエト社会主義共和国同盟の問題と呼ばれているが―に十分力強く、また十分鋭く関与しなかった点で、ロシアの労働者に対して大きな罪を犯したようである」と述べた。スターリンたちは、「自治共和国化」案の最大の論拠を―単一の統合された政府、行政機構が必要である―というところにおいていた。レーニンはこの論拠に批判の矢をむけて次のように述べる。「機関の統一が必要であった、というものがいる。こういう確信はどこから出てきたのか。この日誌のこれまでの号ですでに指摘したように、われわれがツァーリズムから借りてきて、ほんの少しソヴィエトの香油を塗っただけの、あのほかならぬロシアの機関から出てきたものではないのか。自分の機関について、自分のものとして責任を負うと言えるようになるまでは、われわれがこういう措置をとるのを待つべきであったということは疑いを入れない。ところで、現在では、われわれは正直なところ、その反対のことを言わなければならないのである。すなわち、われわれが自分の機関と呼んでいるものは、実際には、徹頭徹尾われわれと無縁なものであり、ブルジョワ的なものとツァーリ的なものとの混合物であって、他国の援助もなく、軍事的な「業務」と飢えとの戦いが主要なものであったこの5年間には、それを克服することはまったく不可能であったと言わなければならない」。


 以上の論文には、民族問題と関連して官僚主義の問題の核心が表れている。スターリンはこの論文を読んで間違いなくこう考えたはずである。「何をいまさらそのようなことを言っているのだろうか。一枚岩の党、強力に統合された行政システムを作ってきたのはレーニン自身ではないか。現実の状況が厳しいからそのようなものになったとしても、それが現実なのであり、それでやっていくしかないではないか」。スターリンはレーニンからみてロシア・ショーヴィニズムのように見えたとしても、スターリンの行動は本質的にはイデオロギー遂行にもとづいているのである。ここにも、今まで幾度となく考察されてきたイデオロギーの原理的矛盾が表れている。イデオロギーの理念とイデオロギー遂行の形態の原理的矛盾が表れているのである。イデオロギーの理念は強力な遠心力がかかり、イデオロギー遂行には強力な求心力が要請される。この恐るべきダブルバインドの根本的理由がどこにあるのか誰にも分らないのである。レーニンのこの論文には、明らかに病気によるイデオロギー遂行からの退行が表れている。今までのイデオロギーと現実主義のバランスがとれて結合された状態から、急速に現実主義が失われイデオロギーの理念のみに傾斜していくことになるのである。今まで、レーニンのこの主張には大きな意義があると考えられていただろう。官僚主義化はロシアの特殊な条件下で強いられた仕方のないものとしてとらえられ、それがこの先、大きく改善していかねばならないものであることをレーニンは主張したと・・・本論で証明したことはこれを完全に否定する。ロシアの特殊な条件下でなかったとしても、官僚主義化は絶対不可避なのである。


 しかし、レーニンは明らかに病気によって官僚主義の悪弊により注意が向くようになったとしても、本来そのように考えていたことは間違いない。つまり、病気にならず政務を続けたとしても官僚主義を是正しようとすることは確実であろう。ところが、この問題も実に複雑な要素が絡み合っている。そのひとつひとつを解きほぐしていくために「官僚主義について」「スターリンの更迭問題」「正統性と権威」そして「レーニンの二つの神格化」というテーマで検討していくことにしたい。そして最終的にどのような方向に事態が進展するか、という展望を示してみたい。

 

 第2節 官僚主義について

 

 「官僚主義」を辞書で引くと「官僚組織などをはじめとする大組織に特有な気風や態度、行動様式。規則に対する執着、権限の墨守、新奇のものに対する抵抗、創意の欠如、傲慢、秘密主義などの傾向を批判的にいう場合に用いられる」とある。ところでこれらは、このレーニンの時代におけるロシア、ソ連の官僚だけでなく、おおよそ官僚制が登場したいつの時代、どこの国、社会においても程度の差こそあれ妥当するものである。当然、資本主義社会の官僚機構においても官僚主義は多く見受けられるのである。ところが、この社会主義革命後のロシアにおいて「官僚主義」という場合、もうひとつの意味があるのではないか、と思われる。それは、官僚機構、官僚体制そのものに由来する「官僚主義」である。というのは、マルクス主義の理論、唯物史観の未来社会論において、社会主義革命からプロレタリアート独裁、社会主義社会、共産主義社会と進む中で「官僚」というものはまったく出てこない。当然、官僚機構、官僚体制というものは存在せず、官僚主義などというものは想定されてもいない。


 もちろん、これは当然のことであり、官僚、官僚機構というものは国家機構あるいはそれに附属する階級構造であるわけだから、上部構造の消滅、国家の死滅を目指すマルクス主義においてはこのようなものは考慮の外側にある。レーニンとボリシェヴィキにおいてもそれは同様であり、官僚機構、官僚体制というものは考えられてもいなかったのである。しかし、革命後の状況によって、それはなくてはならないものであることが明らかになってきた。このような状況で「官僚主義」という場合、官僚機構、官僚体制によって社会を構成していく、という意味にも使用することができるだろう。これはレーニンの論理、プロレタリアートには社会主義革命を遂行し、社会主義社会、共産主義社会を目指すだけの意識や力がない、そのため革命的前衛党がプロレタリアートに代わって革命を遂行していく―そのような代行主義と同じような意味で用いることができるだろう。つまり、官僚がプロレタリアートに代わって行政や経済を運営していく、という代行主義としての「官僚主義」である。


 マルクス主義、共産主義イデオロギーを遂行している社会の官僚機構、官僚体制に対して「官僚主義」という場合、一般的な意味における「官僚主義」とこの体制特有の代行主義としての「官僚主義」の二つの意味があることになり、これを明確にさせないと非常に曖昧なことになる。それを一般的な意味に用いているのか、代行主義としての意味に用いているのか、あるいはその両方なのか、よく分らないのである。このスターリン主義官僚体制に対する批判、批難の中に非常に多く「官僚主義」という言葉が使われるが、この二つの意味を明確に区別し使用した言説、文章にであったことがない。それは文脈の中で理解できるときもあるが、明確に意識して使われていることはほとんどないように思う。つまり、一般的な意味における「官僚主義」を是正しようとすれば、官僚機構そのものが存在していても、それが権限に執着せず、規則に対し柔軟に対応し、創意工夫があり、傲慢ではなく思いやりがあり、秘密主義にならない、そのような官僚機構ならばよいということになる。それに対して代行主義としての「官僚主義」を是正しようとすれば、それは官僚機構がどのようなものであったとしても、官僚機構、官僚体制そのものをまったく別のものに置き換えなければならない。イデオロギーの目的から、それは当然プロレタリアート自身ということになる。


 レーニンの晩年における官僚主義批判は、このどちらの意味も含まれるように思われる。そのことから、レーニンが病気にならず健康で政務を続けていけた場合、一般的な意味における「官僚主義」の改善に努力をして、代行主義としての「官僚主義」を仕方のないものとしてそのまま受け入れ続けるか、それとも、代行主義としての「官僚主義」そのものを根本から是正しようとするのか、によって大きく違ってくるだろう。一般的な意味における「官僚主義」の改善というのは現実的な、ある程度可能な問題である。しかし、党外の民主主義は存在せず、党内民主主義も窒息していく状況であり、上意下達式の指令経済が強化されていく状態では、この意味の「官僚主義」の改善も容易なことではないだろう。官僚主義化は強化されこそすれ、改善されることは難しいだろう。これは官僚機構の頂点であるスターリンを更迭すればよい、という問題ではないことは明らかである。レーニンの目的に適った誰かに、スターリンから変えたとしても官僚主義の問題は構造的なものであり、その改善は非常に困難なものであることは想像がつく。そしてもうひとつの問題は、スターリンに代わる誰かが本当にいるのだろうか、ということなのである。


 つまり、根本問題として一般的な意味の「官僚主義」を改善しようとすることは、必然的に代行主義としての「官僚主義」を根本から是正しなければならない、ということである。社会主義社会における官僚制は代行主義としての「官僚主義」であるがゆえに、また、自由な経済活動をして自己責任を負う資本家、経営者の役割も担うがゆえに、その一般的な「官僚主義」的性格はより増幅されていくことになる。このことからどうしても代行主義としての「官僚主義」そのものの是正・・これはすなわちプロレタリアートや農民にその役割を変えていかなければならない、ということになる。まさにこれが、レーニンが晩年に、中央委員会、中央統制委員会の人数を増やし、その中に労働者や農民を入れるということの意味である。だから、レーニンが健康で政務を続けた場合、同じようなことをすることは確実だと思われる。しかし、本論で証明してきた結論は何も変わらない。これら労働者や農民は「全体的に発達した個人」の能力を要請されることになる。そのような天文学的な能力上の負荷を与えられるのである。結果は悲劇的なものになることは確実である。このジレンマにレーニンはどう考え、対応するのだろうか。この矛盾は絶対に克服不可能である―レーニンに恐るべき悲劇が近づいていくことになる。この状態で共産党内部でのレーニンの権威はどうなってしまうのだろうか?「能力の壁」という原理の前ではレーニンの権威も政治的才能も「無」である。


 「・・・すなわち、われわれが自分の機関と呼んでいるものは、実際には、徹頭徹尾われわれと無縁なものであり、ブルジョワ的なものとツァーリ的なものとの混合物であって、他国の援助もなく、軍事的な「業務」と飢えとの戦いが主要なものであったこの5年間には、それを克服することはまったく不可能であったと言わなければならない」レーニンは病床でこのように言ったが、健康な状態ならおそらくこれはありえなかっただろう。しかし、レーニンの本心はこのようなものであることは間違いないところである。これはトロツキーや他の一部のボリシェヴィキメンバーにも共有することであろう。しかし、徹頭徹尾われわれの機関ではないものは、徹頭徹尾われわれの機関でしかないものなのである。レーニンがどうであろうと、スターリンがどうであろうと、トロツキーがどうであろうとイデオロギー遂行を続けるかぎり、官僚体制は構築され、強化され、官僚主義は強まっていくしかないのである。


 つまり、レーニンが病気にならず健康で政務を続けられた場合、スターリン主義官僚体制は構築されず、官僚主義の悪弊は是正され、健全な社会主義社会、共産主義社会への道を歩むことができただろう・・・これはまったくの幻想であることは明らかである。逆説的に、ある意味では、レーニンはあの時期に病気になり、死去したからこそ救われたのだといえるかもしれない。このことは「レーニンの二つの神格化」の節で詳しく考察してみたい。

 

 第3節 スターリンの更迭問題

 

 レーニンが病気にならず、健康で政務を続けられた場合、スターリンは書記長の座から更迭されるのはほぼ確実だとみなされている。しかし、この過程も詳しく考察するといろいろと問題が生じてくる。現実にはレーニンの1回目の発作の後、スターリンとの民族問題を巡る対処の違いから、対立が徐々に表面化してきたのであるが、もし、レーニンがそのときに正常に政務を続けられた場合には、スターリンの対応の仕方も当然変わってくることになる。一般的に、スターリンはレーニンの病気につけいることにより、権力をより強固にしていったとみなされることが多いが、レーニンの病気は権力の空白を生んでいたのであり、必ずその空白は埋められなければならない。スターリンにしてみれば、そうせざるをえない、という面もあったのである。レーニンの病気がスターリンの何らかの策謀であった、というのなら別であるが、このような状況になったのはスターリンにとっての「運」であったといえるだろう。


 レーニンは1回目の発作の後、回復し政治局の現場に戻ったとき、スターリンがその官僚体制によって、あまりにも強大な権力を握っていることに驚いたという。しかし、これも違和感を感じる話なのである。もし、ここでスターリンの官僚体制による強大な権力に驚くのなら、すでにそう感じていなければならないのではないだろうか。これは、発作を起こす以前にはレーニンはスターリンを律していける自信があったということであり、発作の後スターリンとの間の力関係に自信を失いつつあった、ということを意味しているように思える。病気がレーニンの心理に重大な影響を及ぼすということは自然なことである。自分の力の低下とスターリンの急激な権力の増大が、短期間に起こったということであり、その相対的な変化をレーニンは敏感に感じ取ったということであろう。そうであったとしても、レーニンが党の実務をスターリンに任せ、多くの役職を兼任させたという事実に変わりはない。これはレーニンが他のボリシェヴィキと同じくイデオロギーの幻想、社会主義革命により上部構造は消滅する、国家は死滅に向かう、ということを信じていたということである。レーニンはイデオロギーの幻想にとらわれていたとしても、現実に鋭く対応する現実主義者でもあった。スターリンに対して、現実主義の側面で多くの役職を任せたといえるし、イデオロギーの幻想の側面でその危険性を軽視した、といえるのではないだろうか。その現実は、党の支配を維持し続けるためには官僚体制は絶対のものであることを要請する。それを一手に引き受け、その体制を構築してきたスターリンをそう簡単に更迭することができるのだろうか。もし、更迭したとして、それに代わる誰かはすぐ見つかるのであろうか。


 このスターリンの更迭問題は、現実の歴史の中でトロツキーのスターリンに対する対応にも関わってくる。つまり、スターリンの更迭を希望した「レーニンの遺書」を公開する問題である。これはトロツキーの心理を分析するところで検討されたが、この問題はレーニンが病気にならず政務を続けられた場合にも、まったく同様なことがいえるのである。これはスターリンが書記局や組織局、民族人民委員、労農監督人民委員を兼任することになった経緯を考えてみればよくわかることである。スターリンはこれらの役職にまさに適任であった。そして、スターリン以外のトロツキーやカーメネフ、ジノヴィエフらは、このような役職には不向きであり、またこれらのボリシェヴィキ幹部たちは、内心ではこのような役職を軽視し、軽蔑していたのである。これらの人々はスターリンとその役職が果たす役目を、いかに甘く見ていたかということなのである。このような状況の中で、スターリンを更迭した場合、その代役を果たせるのはスターリンの腹心や配下のものになる可能性が高いのではないだろうか。そうなると、スターリンはそれらのものたちを背後で操るということも可能になってくる。もちろん、これはひとつの可能性で必ずそうなるとは限らないわけであるが・・・


 これまでの、スターリンの更迭問題を考察したさまざまな文献、論文などを読むと共通に感じることがある。それはレーニンの権威を絶対視し、レーニンがもう少しでも長く政務を続けられたなら、肥大化した官僚主義の頂点に立つスターリンをその立場から更迭し、それによって官僚主義の悪弊が是正されるだろう。この問題によりよい対応ができるだろう。また、そのことを疑問視しても、少なくともスターリンの政治的生命は終わりであり、後のスターリン主義の芽は完全に摘み取られるだろう。・・・このような論調がほとんどなのである。たしかに、この時の政治的局面を見ればこれは正しいように思える。レーニンの権威は党員の間では絶対的なものであったし、広く一般大衆にも浸透していたのである。それは情報操作やプロパガンダの効果が大きかったといえるが、実質的に革命を成功させ、第一次世界大戦から離脱し、新しい社会を建設しようとする最高実力者として認められていたのである。しかし、この状況は普通の権力闘争とは違うということを思い返さなければならない。普通の権力闘争ならば、スターリンは更迭されれば政治的生命は終わりになるだろう。だが、このイデオロギー遂行の党においては、スターリンは非常に特殊な優位を保持しているのである。このことが考えられたことは一度もないといってもよい。


 このことはマルクス主義、共産主義イデオロギーの正統性の問題、それを行使する人間の権威の問題に繋がってくるだろう。次にその正統性と権威の問題を考察してみたい。


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<論文> スターリン主義の形成 3 

 

 『スターリン主義の形成』

  

 第1章 スターリンへの権力転化

 

 第7節 レーニンの後退

 

 レーニンは1922年5月に最初の発作に襲われ、数ヶ月間執務の出来ない状態となった。この時、スターリンとの間で民族問題を巡って対立が生じてきた。共産党はかねて約束していた民族自決をどこまで履行する用意があるのか―レーニンはもちろん共産党による支配に疑問を持ってはいなかったが、ロシア周辺部の民族的自治を重視していた「各共和国が平等の立場から新しい次元で連邦を形成する」。それに対しスターリンはロシア共和国の最高機関はすべてを統轄する中心的な権威を持つ、とした。この問題はレーニンとスターリンの会談後、スターリンはレーニンの目標にしたがって併合計画を見直し、1924年にソヴィエト社会主義共和国連邦の成立を正式に宣言することになる。


 このことについて「イデオロギー遂行決定論」の立場から考察してみることにしよう。イデオロギー遂行の主体であるロシア共産党は、ロシアを統治しているわけであるが、それ以外の共和国にもこのイデオロギー遂行を徹底させようとすれば、ロシア共和国を平等な関係ではなく、中心的な権威を持つようにしなければならないのは当然である。各共和国に十分な自治を与えたとして、それが資本主義市場経済の方に向かった場合、レーニンはどうするつもりなのだろうか。イデオロギー遂行を徹底させようとすれば、スターリンの立場を取るしかないのは自明のことではないのだろうか。そして、まさにレーニンがそれまでしてきたことは、徹底した中央集権化による支配の強化であった。スターリンにしてみれば民族自決に関するレーニンの主張は「何をいまさら」と感じられたのではないだろうか。戦時共産主義からネップへの移行は、厳しい統制がなければ市場はたちまちのうちに自然と形成されてくる、そのことを事後承認したにすぎないのである。それはロシア以外の各共和国の経済においても同様である。中央集権的な厳しい統制がなければ共産主義イデオロギーの遂行は危ぶまれるのである。


 以上が、おそらくスターリンが考えたことであろうと推測する。しかし、レーニンの構想はそれよりも上だったようである。ロシア共和国を各共和国と同等に置くというのは戦術上の問題であり、各共和国への懐柔策である。ボリシェヴィキはロシア共産党からソヴィエト社会主義共和国連邦の共産党となり、その全体を実効支配することができるのである。人民委員会議は名目上のものにすぎず、憲法に規定されないイデオロギー超越的組織体―ソ連共産党によって完全に支配されるのである。各共和国の共産党に自治の権利はいささかも存在しなかった。そのことを理解したスターリンはレーニンに同意して、ソ連憲法を起草してそれを宣言したのである。このことからもイデオロギー遂行に関するレーニンからスターリンへの継承性は保たれているといえるだろう。


 1922年12月23日レーニンは2度目の発作を起こし、さらなる病状の悪化によってその権威は低下せざるをえなかった。このあたりのレーニンとスターリン、さらにトロツキーを含むさまざまな動きに対してここでは踏み込まず、レーニンの官僚主義に対する対応に焦点を当てて考察してみたい。民族問題や自分の病状に関するスターリンの対応に次第に不信感を募らせ対立が強まっていったレーニンは、スターリンが支配する官僚体制に批判の目を向けるようになっていった。そこでこの官僚主義の悪弊を是正しようとレーニンは中央委員会の定数を100名程度に増員することを求め、さらに100名程度の委員からなる中央統制委員会が、政府と党の双方を管理する責任を負い、中央委員会総会にも参加すべきであるとした。どちらの場合についても、レーニンは新しいメンバーを労働者および農民から選ぶよう主張した。その場合、新しいメンバーは、平党員の労働者や農民に近い存在でなければならない、とした。このことはレーニンの官僚主義に対する最終的な姿勢であるとみなされるようになったのである。


 しかし、スターリンの対応は巧妙をきわめた。レーニンは次ぐ年の3月にさらに発作を起こして容態が悪化し、以後、政治に関わることができなくなった。まもなく第12回党大会が開かれたが、心配なく自由な活動ができるようになったスターリンは、中央委員会と中央統制委員会の選挙を牛耳れる立場にあったのである。表面的には、スターリンはいかにも党内に広がる官僚主義に対するレーニンの批判と党の構造改革の継承を受け入れたように見せながら、その実、レーニンの提案を二つとも裏返しにしてしまったのである。新しく補充された委員はそのほとんどがスターリンの息のかかったものだったのである。新しく補充される委員は平党員の労働者および農民にするべきだとのレーニンの要請については、何の手も打たれなかった。スターリンの手品によって、変革の結果はレーニンの意図とは正反対に、中央集権的統制の緩和どころか、強化となった。


 このことはスターリンがレーニンを裏切った証左になるように思われる。しかし、本当にそうだろうか。革命初期に労働者自主管理を導入したが、惨憺たる結果となり官僚やブルジョワ専門家に頼らざるをえなかった。その延長上に官僚体制が構築され、強化されてきたのである。そのことに反対した労働者反対派を分派禁止によって、党から放逐したのはレーニン自身である。これはそうせざるをえない状況があったのである。つまり、これはかつての労働者反対派の立場に自分がなったということを意味している。病気によってイデオロギー遂行の立場から後退したレーニンは、スターリンにかつての自分の姿を見ていたことになる。レーニン擁護者は戦時共産主義の困難な状況を官僚主義が肥大した仕方のない理由として挙げている。しかし、スターリンは社会が復興していった後も官僚主義を強化し、それを利用したのだと批判するのである。それでは、レーニンが執務可能な時は官僚主義の克服は困難であったが、発作で倒れた途端、この官僚主義は克服可能なものに変わってしまったというのだろうか。このような御都合主義はもちろん、何の説得力ももたないだろう。


 現実問題としては平党員の労働者や農民が委員会に参加できても、期待された役割を果たすとは考えにくい。知識も経験もない人間が、いきなりそのような場に参加しても戸惑うばかりではないだろうか。もし、その中に才覚のある人間がいたとしたら、やはり同じように官僚主義に染まっていくことが考えられる。現場ではレーニンの発案は非現実的なものとして受け止められていたのではないだろうか。「マルクス主義の解剖学」の能力問題が示すことは、いついかなる段階でも、いかなる場面においても全体的に発達した個人の途方もない能力が要請されるのである。しかし、そのことに気付くことはありえない。もはや、スターリンへの権力集中はとどまることを知らず進行していくことになる。

 

 第8節 トロツキーの活躍と凋落

 

 スターリンと同年代(実際にはスターリンの1年下)のトロツキーは、スターリンと同じく若い時から革命家を志向した。社会民主労働党ではレーニンのボリシェヴィキよりもメンシェヴィキの立場に立つことが多かった。レーニンに対して批判的なところが多かったにも関わらず、1917年2月の革命の後、ロシアに戻ったトロツキーは10月革命の直前にボリシェヴィキに合流した。この後、彼は思想的にも完全なボリシェヴィキとなり、レーニンに従うようになる。10月蜂起の際には、決定的な役割を果たし、以後要職を歴任し、活躍していくことになる。特に革命軍事評議会議長として赤軍の創設、指揮を執り、内戦において戦地を専用列車で駆け巡り兵士の戦意を高揚させ、さまざまな指令を発した。内戦の勝利はトロツキーの活躍に負うところが大であった。トロツキーは10月蜂起から数年の間は、レーニンに次ぐナンバー2の立場だと自他ともに認めるところであった。


 トロツキーの革命に対する考え方は、基本的にはレーニンとほとんど同じだといえるだろう。革命以前のマルクス主義の理想的な未来社会像は、現実に革命が起きるとたちまちのうちに現実主義となって現れる。労働者自主管理がうまくいかないとわかると厳しい労働管理による労働義務制を導入し、それがプロレタリアート独裁の社会主義的労働なのだと広言してはばからなかった。ブルジョワジー、教会に対する徹底した弾圧、テロルも他のボリシェヴィキと同様であった。そして何よりもトロツキーは永続革命、世界革命の徹底した信奉者であった。社会主義革命は世界革命とならなければならない。ロシア一国での革命は成功しないであろう―トロツキーこそは社会主義革命後のロシアの現実は特殊な条件下での革命であるがゆえに、マルクスの示したような社会主義、共産主義への道を歩むことを阻まれている。それを正常に戻すためには、何が何でも革命を世界に押し広げていかなければならない―このように固く信じていたのであった。


 しかし、1920年のポーランドへの侵攻は失敗に帰し、社会主義革命をポーランドに波及させるという目的は挫折した。ポーランドのプロレタリアートは社会主義革命よりもナショナリズムを選んだのである。さらにもっとも期待していたドイツに革命の兆候があったにもかかわらず、結局は失敗に終わった。レーニン、トロツキーらボリシェヴィキの世界革命の希望は月単位で萎んでいったのである。このことに何よりも失望したトロツキーは、それでも世界革命の論理を決して後退させることはなかった。世界は第一次世界大戦の混乱から安定期に入りつつあった。戦争を機に成就されたロシア革命のような条件は、もう世界には極めて起こりにくくなっていたのである。ロシアは一国のみで社会主義の建設を進めなければならなくなっていた。しかし、あくまで世界革命に固執するトロツキーは次第にその立場を弱くしていったのである。


 1922年5月のレーニンの発作による権力の空白は、トロツキーにとっても重大な転機となって現れる。10月革命直前に入党したトロツキーが、レーニンに次ぐ立場にいることに面白くないと感じている古参ボリシェヴィキは大勢いた。その中でジノヴィエフ、カーメネフ、スターリンは密かに同盟を組んでトロツキーに対抗するようになっていった。後からわかることだが、これはスターリンがトロツキーを追い落とすために他の2人を利用したのであった。その目的は他の2人にも共有することであったのだが・・・発作で倒れたレーニンはスターリンに次第に不信感を持つようになり、トロツキーに接近しようとした。しかし、トロツキーはこの同盟にあまり積極的ではなかったのである。スターリンらの攻撃に対してトロツキーは決然と立ち向かうという態度ではなかった。特に第12回党大会の時、レーニンの遺書―これはスターリンの書記長の職からの更迭を含んでいた―を公表することに強い態度で臨まなかった。そのことによってスターリンは書記長の座にとどまることができた、とされている。


 党の機構にたいする支配力を強めたスターリンは、基本的な優先事項として計画的な工業の振興を重視するトロツキーのテーゼに即した経済政策の決議を、党大会が採択するにまかせる余裕があった。政治局の多数派としては、大会終了後、この決議の執行に必要な措置がいっさい取られないよう図り、決議が空文となるのを見きわめればそれで充分だった。5年後、反対派のなかの左派のみならず右派までも壊滅させられたときになってはじめて、スターリンはトロツキーと左派の計画を実施する気になったのである。


 のちに、トロツキー本人も自分が好機を逸したことを悟った。彼は自伝にこう書いている。


 「もし私が、第12回党大会の前夜に、スターリンの官僚主義に対抗するレーニンートロツキー陣営という心構えで積極的に行動していたら、きっと勝利を収めていたにちがいない・・・・・1922年から23年のころにはまだ、ボリシェヴィズム亜流の・・・分派に正面攻撃をしかけて、支配的地位を奪い取ることが可能だった」。


 政治的な意志の力が足りなかったのである。「私が独自に行動すれば・・・・・党と国政の両面で、レーニンの後釜に座ろうとして個人的な戦いをしていると受けとられたことだろう。そのことを考えるだけで、私は身震いがした」スターリンはこの種の潔癖さとは無縁だったが、トロツキーの立場の潜在的な強さを見抜いていたから、この段階ではあえて真っ向から挑戦することは控え、いまだにトロツキーがクーデタを起こすのではないかとの不安を抱いている党指導者たちの危惧を利用するだけで満足した(3)。


 このようにトロツキーは党内闘争においては優柔不断であり、消極的であったということができる。これはソ連政治史やトロツキーの伝記などで詳しく描かれてあることなので、あまり立ちいらず、ここではトロツキーの心理に焦点を当てて考察してみたい。それと同時に、このような党内闘争の重大な時期にトロツキーはしばしば発熱などの体調不良に悩まされていた。これがスターリン達との戦いに重大な影響を及ぼしているということは明らかであった。しばしば、重要な会議や大会においてトロツキーは体調不良で欠席を余儀なくされている。その最大のものが、レーニンの死去によるその葬儀の欠席である。この体調不良についても心理分析と同時にある仮説を示したいと考えている。・・・逆にスターリンは、レーニンの後継者として名乗りを挙げる準備を着々と整えていた。


 ソ連経済は1923年夏に入って新たな危機にぶつかった。これにたいし、政府は操業を縮小し、最も効率の高い工場に生産を集中して立て直しを図るよう産業界に指令する措置を取った。失業率が上昇し、賃金の引き下げが実施されたため、ストライキの気運が高まり、地下にもぐった反対派グループは、この機会を利用しようとした。GPUによる検挙が行なわれ、党籍除名がそれにつづいた。このとき、ジェルジンスキー(GPU長官)を長とする中央委員会小委員会が、全党員は地下分派活動に関わっている者を知っていたら、かならずGPUにその者を告発すべしとの勧告を出すにおよんで、トロツキーはついに優柔不断に終止符をうち、戦う意志を固めて自分のテントから出てきた。


 トロツキーの決心を促した要因は、ほかに二つあった。一つは、3人組がトロツキーを軍事人民委員部の砦から追い出そうと画策して、革命軍事会議の規模を拡大したうえ、そこに内戦時代以来のトロツキーの旧敵、ヴォロシーロフとM.M,ラシェーヴィチを新加入させたことである。トロツキーが説明を求めたのにたいし、中央統制委員会委員長のクイブイシェフはこう言ってのけた。「われわれは、あなたと戦いをはじめる必要があると考えているのですが、われわれとしてはあなたをおおっぴらに敵呼ばわりすることができません。それで、こうした手段に頼らざるをえないのです」


 第二は、深刻化するドイツの危機だった。ルール占領と天井知らずのインフレがもたらしたこの危機は、ソ連の指導者たちに(コミンテルンの支配的地位にある立場から)ドイツ共産党にたいして権力奪取を試みるよう勧告するべきか否かの決断を突きつけた。指導者たちの意見は二つに分かれた。今回は、ジノヴィエフとブハーリンを味方につけたトロツキーは勧告することを強く主張した。スターリンとカール・ラデック(コミンテルンのドイツ問題専門家)は勧告しないことを、これまた強く主張した。この意見の対立が仇となって、事態はその後、手のつけられない混迷状態におちいる。一斉蜂起が始まったと信じて反乱の火の手をあげたハンブルクの共産党は流血のうちに鎮圧された。一方、最後の瞬間に蜂起が中止されたザクセンとチューリンゲンでは、国防軍が共産主義者と社会主義者の連立政権を追放した。バイエルンでヒトラーが失敗に終わったミュンヘン一揆を起こす2週間前、ドイツで共産主義革命の火の手があがるという、ロシア人の胸によみがえった希望は、これを最後として粉々に打ち砕かれ、あとに残ったのは苦々しい責任のなすりあいであった。


 1923年10月8日、こうした状況を背景として、トロツキーは中央委員会宛の公開書簡を発表した。そのなかで彼は、指導部の「経済政策のまぎれもない根本的な誤り」がこの夏の危機をもたらしたと糾弾し、党内部の状態が悪化しつつあるのは、スターリンの書記局が選挙を牛耳るために使った手段によって議論する自由が封殺されているからだと非難した。


 書記の位階制度こそが党の意見と党の決定をつくりだす機構だとでも思っているかのように、自分の意見を完全に捨て去った、あるいは少なくともそれを口に出すことをやめてしまった党職員が大量に生まれている。この党職員層の下には・・・・・党内の膨大な大衆層があり、彼らにとって、すべての決定は召喚または命令のかたちで下される。党の土台をなすこの大衆のうちには、尋常ならざる不満があり・・・・・党組織に大衆の影響力を行使する(党の各委員や書記の選挙を通じて)という方法でその不満を表明することができないため、それがひそかに積みかさなって、心理的なストレスとなる。


 政治局は、トロツキーの批判は産業および軍事面で無制限の権力を得ようとの個人的野心が動機だと反論した。しかし、10月15日に政治局に提出された一通の秘密声明文は、それほど簡単にあしらうわけにはいかなかった。その声明文には、内戦終結以来、反指導部の立場を貫いてきた主な党員46名の署名があった。まもなく外部に知られるところとなったこの「46人綱領」でも、批判の矛先はトロツキーと同じ二点だった。すなわち、深刻な経済危機を招く恐れのある「中央委員会の場当たり的で思慮の足りない政策決定」と「まったく容認できない党内体制」である。


 中央委員会(トロツキーはこのときも病気ということで欠席していた)は、これら二者からの攻撃をひとまとめに扱い、分派主義および党を分断させるとしてトロツキーと46人を公式に非難する一方で、民主主義の原則を再確認するとともに、その誠意の証として『プラウダ』に新しく欄を設けて改革案を練り上げるための全党的な討論の場にするとした。


 その議論の口火を切って、ジノヴィエフは11月7日付『プラウダ』にさわやかさを感じさせる虚心坦壊な一文を寄せた。「われわれにとって重大な問題は、ほとんどすべての重要案件があらかじめ決定済みで、上意下達のかたちをとる場合が多いということだ」。これをきっかけとして、各地の党組織で活発に議論がかわされ、それが『プラウダ』の紙面に反映するという状況が11月いっぱいつづいた。月末にかけて、応酬はしだいに激しくなっていった。スターリンが「プロレタリアートの戦闘部隊たる党が討論クラブに堕することのないようにすること」が必要だと主張すると、ジノヴィエフはこう断言した。「革命の利益!これこそ最高の法だ。革命家なら誰でも言う。『純粋民主主義』の『神聖な』原則など悪魔にくれてやる、と」


 団結しているという体裁をとりつくろうために、政治局は何とか議論に決着をつける決議案をまとめられないものかと、病後の回復期にあったトロツキーのアパートで長時間にわたって会談した。トロツキーが原案を拒絶すると、スターリンとカーメネフはその場で原案に手を入れ、トロツキーが満足するような改訂案の作成にとりかかった。党幹部の厳正な選挙、新しい党職員の登用、「官僚主義的な堕落」を抑止するために統制委員会が新たに努力するなどの改革を盛りこんだ長大な決議文ができあがった。その見返りとして、トロツキーは第10回党大会で可決された分派主義禁止の条項を受け入れることになった。政治局はこの決議を12月5日に発表し、ついに真の改革について合意がなったと大々的に宣言した。しかし、どちらの側も相手を信用していなかった。トロツキーは、一方では熱っぽく決議を支持しながら、12月8日の公開書簡では、この決議が実効性をもつのは40万の党員がそれを実効あるものにする場合のみだと主張した。官僚が「新路線に留意する、つまりそれを官僚主義的に無効にする」のにまかせておくだけでは充分ではない、と。


 何よりもまず、ひとことでも批判や異議をはさまれたり抗議にあったりすると、すぐに懲罰の剣を振りかざす輩を、指導的な地位から一掃しなければならない。「新路線」は、その第一歩として、これからは誰であろうと党を恐怖政治によって支配することができないと全員が感じられるようにすることから始めなければならない。


 トロツキーの書簡と「モスクワ党組織」の大衆集会で指導部の代表が野次り倒されるという出来事をきっかけに、以前の論争に輪をかけた激しさで議論が再燃した。トロツキーが若手党員に呼びかけ、古参のボリシェヴィキを堕落の淵から救おうではないかと訴えると、スターリンは、遅れて入党したトロツキーを古参ボリシェヴィキの一員だなどと考える間違いを犯す者はいないとやりかえした。彼はさらに、追い打ちの質問をして、トロツキーと反対派を守勢に立たせた。レーニンが自ら定めた規則、1921年春の第10回党大会でトロツキーも支持を表明した党内の分派活動を禁じた規則を棚上げせよと要求しているのか?イエスかノーか?


 指導部内の対立が表面化したこの決定的瞬間に、トロツキーは不意に身を引いてしまう。表向きの理由は病気の再発ということだが、要するに政治的な無力感におちいったのだろう。反対派を指導者不在の状態に追いやったまま、療養すると称してモスクワから黒海沿岸へ退却してしまったのである。スターリン、ジノヴィエフ、ブハーリンに率いられた政治局員たちは反対派の息の根を止めるための手を打った。出版を統制し、党規約を適用して、反対派と平党員との連絡を断ったのである。


 この問題を一挙に片づけようと、中央委員会は党協議会を召集することに決めた。選挙にもとつく党大会ではない。各地方支部を代表して協議会に出席するのは、選挙ではなく書記局によって任命される書記と委員である。スターリンはこの代議員の選任に上々の首尾をおさめ、投票権をもつ代議員128名のうち反対派に属する者はわずか3名だった。


 第13回党協議会は1924年1月に開かれた。今回はトロツキーの欠席をよいことに、スターリンは彼を直接攻撃し、六つの大きな誤りを列挙した。党を導くべき者は誰か、と彼は問いかけたー中央委員会か、それとも自分を超人だと思いこんでいて今日は中央委員会に賛成したかと思うと次の日は攻撃に転じるある人物か?スターリンは次のように断定した。


 これは分派を、とりわけトロツキーの分派を合法化しようという企てである・・・・無節操に民主主義を扇動する反対派・・・は、プチブル分子を野放しにしつつある・・・・・反対派の分派工作は、わが党の敵たちに格好の餌を与えているのである。


 46人綱領の署名者の一人、プレオブラジェンスキーが、「民族問題に関する覚書」のなかでレーニンがスターリンを批判していることを指摘すると、スターリンは彼に噛みついた。諸君はいま、レーニンを天才と讃えている、だがー


 質問させていただきたい。同志プレオブラジェンスキー、なぜきみはブレスト・リトフスク条約の問題で、あの「天才」に反対したのか。なぜきみはあのような危急存亡のときにあの「天才」を見捨てて、彼にそむいたのか。あのとき、きみはどこに、誰の陣営にいたのか。


 「きみは党を恐怖政治で支配している!」とプレオブラジェンスキーは怒鳴り返した。いや、とスターリンは言い返した。ただ、平党員の足並みを乱そうとする者に警告を発しているだけだ。スターリンはさらに言葉をついで、レーニンが起草した1921年決議のうち、分派主義にたいする処罰として党籍除名を規定した秘密条項を初めて公表した。また、機密文書を回覧する者にたいしては厳罰をもってのぞむと威嚇したが、これはあるいはレーニンの「遺書」とスターリンを書記長から更迭することを提案したその「追伸」を念頭においてのことだったかもしれない。スターリンの発言に応じて、会議はわずか3票の反対票を残して、トロツキーと四六人の反対派にたいする譴責処分を可決した。その罪状は、単に「分派行動、レーニン主義からの直接的離反のみならず、明白なプチブル的逸脱」であった。


 1924年1月の第13回党協議会は、ソ連共産党の歴史における重要な転機となっている。このときにいたるまでは、党協議会と党大会は、反対意見が出されるだけでなく、誰もがそれに注意深く耳を傾けるまともなものだった。反対意見が支持される場合も多く、代議員たちは何の恐れもなく自らの意思を表明したのである。通例、指導部が主張を通したとはいえ、それは指導部がその立場について弁明し、率直な討論を経て、過半数の賛成を勝ちえたうえでのことだった。議事進行が演出され、前もって決定がなされたのは、1924年の党協議会が最初であり、以後、それはあらゆる機会に踏襲される前例となった。スターリンは独自にではなく、政治局の多数派の一員として行動していたから、自分はトロツキーとの妥協を図るために努力したと主張することができた。だが、自ら書記局の組織のなかにつくりあげた政治機関のおかげで、行動する力、決議や威嚇を現実のものとする力をもっていたのは、スターリンだったのである。第13回党協議会は、その力が何者にも抗しがたいものとして示された最初の機会であり、この力が党の性格を変えてしまうかもしれないという懸念は、もはや懸念ではなく事実であることが初めて実感された場であった(4)。


 以上の共産党内の党内闘争は規模が巨大であり、非常に複雑怪奇であるが、もっとも根本的には「マルクス主義の解剖学」第4章 第2節「均等割り振り」における思考実験、の紡績工Aと紡績工Bの対立に帰着する。この場合は紡績工Bの立場であってもイデオロギー的には完全に紡績工Aと同じである、と考えればよい。つまりこれがスターリンの立場であり、この方向を徹底的に推し進めていくことになる。しかし、これは原理的に矛盾した方向である。そしてこの原理的矛盾はマルクス主義、共産主義の原理的矛盾であることは今まで検討してきたとおりである。そして、スターリンはこれが原理的矛盾であるなどとは絶対に認められないし、共産党内部に対しても、外部に対してもそれを徹底させなければならない。しかし、これはどう見ても矛盾であることは誰にでもわかることである。そのため話し合いや説得という手段だけでは到底、党内を統一することはできない。もう、そこには恐怖による支配、強制的手段による支配の道を進むしかないことになる。


 トロツキーは当然、紡績工Aの立場から出発し、革命直後の状況によっていったん紡績工Bの立場へと変わった。そして次第に紡績工Aの立場に回帰していったのである。そしてそれ以降この立場に固執していくことになる。しかし、革命の成果を継続させていくためには、もはやこの立場は理想的な観念論に傾斜していくしかないのである。


 そして、これらの党内闘争の過程を見てわかることは、スターリンは第10回党大会で決議された「分派禁止条項」の重要性を完全に理解しているということである。これが自分の権力獲得にとって要であり、これを上手く活用していくことが大きな武器になることを知悉しているのではないだろうか。先に「分派禁止の権力集中メカニズム」を検討したが、スターリンのやったことはこれよりもはるかに巧妙かつ確実な方法である。すでに党内の人事権を持っているスターリンは、選挙における絶対的な優位を獲得している。つまりスターリンにとっては、党の重要な論争は多ければ多いほど都合が良い。逆にいえば、適切な論争を惹起させるような行動を取ることが計算できるのである。いかにも党内民主主義の手続きに乗っ取った投票の結果によって、自分の反対派、論争相手を分派禁止によって潰していくことができるのである。そして、その分派禁止条項をその論争相手自身も支持していたということが、この状況がいかにスターリンに有利に働いていたかを知ることができるのである。まさにトロツキーはそのジレンマに陥った最大のボリシェヴィキだったのである。トロツキーは感じていたはずである。社会主義革命は上部構造の消滅、国家の死滅に向かうものであり、このような党組織の人事を司るような平凡な仕事が、このような力を獲得することなどありえないはずだった、ということを。このことはトロツキーの心理分析に繋がっていくことになる。


 この第13回党協議会の直後、1924年1月21日レーニンは死去した。この事態にスターリンは「上機嫌だった。レーニンが死んだあとの日々ほど嬉しそうなスターリンを見たことがない。彼は喜色満面で執務室を歩きまわっていた」という。レーニンが回復すれば自分にとっての危機となる。しかし、もうその心配は必要ないのである。そして、スターリンは逆にそのレーニンを神格化し、偶像崇拝の対象としていった。レーニンの遺体は防腐処理され、クレムリンの廟に安置されたのである。そして自分はそのレーニンの最大の弟子であるとみなし始めた。レーニンの思想を具現するのに必要な措置を取る意志と覚悟を持った唯一の人間である、と。


 レーニンが亡くなったとき、トロツキーは病気療養でグルジアにいた。葬儀に出たい旨をモスクワに問い合わせたところ、スターリンは「葬儀は土曜日に執り行われる。貴下は間に合うまい。政治局は、貴下の病状からして、むしろスフミに赴くべきであろう、と考える」。葬儀は実際には日曜日に行われた。トロツキーはスターリンが故意に欺いて、この重大な行事に自分が出席できないようにしたのだと確信していた。これはトロツキー支持者がスターリンを非難するときによく持ち出される話である。しかし、第三者的に考えれば、これはどう見てもトロツキーがおかしいのではないだろうか。この時の病状がどれくらいかということも考慮しなければならないが、葬儀に出たい、ということを問い合わせたということは、それは可能だったということだろう。そうであるならば、トロツキーは葬儀に間に合っても、間に合わなくてもモスクワに取って返すべきところではないだろうか。何しろほかならぬレーニンが死んだのである。そうすれば、自分を欺いたスターリンを逆に攻撃することもできただろう。この非常に不可解ともいえるトロツキーの政治上の消極性は、どのようなところからきているのだろうか?

 

 第9節 トロツキーの心理と党内闘争

 

 ここからはトロツキーの心理に焦点を当てて考察を進めていきたい。10月革命以前、ロシア社会民主労働党の草創期からトロツキーはひとつのグループ、セクトに縛られることなく自由に行動し、思考してきたところがある。レーニンのボリシェヴィキに対してもしばしば批判をして、特にプロレタリアートに対する前衛党の優位を主張することは、結局は党内の少数者の権力に、さらに個人の独裁につながると警告したこともある。そのようにメンシェヴィキ側の立場に立つことが多かったのであるが、1917年2月革命の後、ロシアに帰国したトロツキーは急速に急進的革命家としての本性が現れてくるようになる。レーニンに同調したトロツキーは、かつてのメンシェヴィキの仲間たちを見捨て、「歴史のごみ箱に行けばよい」とまで言ってのけた。このようにトロツキーは非常に振幅の大きい気質を持っているといえるだろう。


 10月革命後のトロツキーの思想的な変化は、「マルクス主義の解剖学」第8章で考察したレーニンの変化とかなり似たものであっただろう。しかし、元来メンシェヴィキ的な立場に立ったこともあり、ボリシェヴィキの中ではもっとも古典的なマルクス主義者であるトロツキーは、革命後の状況に対して、その思想との乖離をもっとも深刻に受け止めた1人ではなかっただろうか。それが、革命の敵に対するときは容赦なく、断固として行動できるのに、党内部の政敵に対する闘争には消極的になる理由のように思われる。マルクス主義の理論は、階級闘争の階級間の関係が中心であり、同じ階級同士の闘争などというものはまったく考慮されていない・・あるいは存在するはずもないように扱われている。しかし現実には、党内部での意見の相違、派閥間の闘争は次第に激しくなっていったのである。


 もっとも深刻なことは、革命後の社会の状況が革命以前の想定とかけ離れていることである。革命直後の非常に高揚した時期、そして内戦が始まりトロツキーは縦横無尽の活躍をするようになる。その中でスターリンなどとのトラブルが生じていたが、まったく迷いのない、革命遂行の道を突き進むことができた。白衛軍との戦いで革命は生き残るかどうかの瀬戸際だったのである。そして、内戦が勝利に終わり最大の危機が去ったとき、ボリシェヴィキの誰もが安堵しただろう。その中でトロツキーは、ふと我に帰ったとき革命以前の想定と現在の状況があまりにも違うことに「こんなはずではなかった・・・」と思ったに違いない。特に著しいのは、工業生産力の壊滅的な下落である。資本主義よりも社会主義、共産主義の方が生産力は飛躍的に伸びる―トロツキーは当然そう考えていた。その当時のロシアの過酷な条件でも、それはかなりの程度実現するのではないかと考えていたのではないだろうか。しかし、事態は想像を絶するほど破壊的であった。だからトロツキーも他のボリシェヴィキが考えたのと同じように、そのときのロシアの特殊な条件下で仕方のないものと考えただろう。だからこそ工業政策を重視し、世界革命を強力に推進しようとしたわけである。・・・ここからは推測になるが、トロツキーはこの時期に一抹の不安、僅かであっても根本的な揺らぎが生じてきたのではないだろうか。・・・マルクス主義そのものに対して、である。


 スターリンとの間の個人的な確執は早くから始まっていたことであるが、本質的なことはスターリンが官僚体制の頂点に立っていたということである。戦時共産主義期にトロツキーは赤軍の将校に積極的に帝政時代の将軍を登用した。ボリシェヴィキは経済の運営に帝政時代の官僚やブルジョワ専門家を使わざるをえなかった。繰り返しになるが、これはそのときの特殊な状況下で仕方のないものと考えられたのである。しかし、内戦が終わり本格的に社会主義社会に向かい社会を復興させようとしたとき、官僚体制は絶え間なく拡大していった。トロツキーは労働者反対派に反対であったにもかかわらず、この官僚主義に本来の道からの逸脱を見たのである。しかし、この官僚体制を最初に起動させたのはスターリンよりも、むしろトロツキーであった。これはどうしてもそうならざるをえないことは明白だったのである。そしてこれは、ごく自然な目で見れば内戦が終わってもその状況は同じなのである。そしてこのことは、ごく自然に考えればマルクス主義の理論、社会主義革命からプロレタリアート独裁、社会主義社会へと向かうことは歴史の必然である・・・このこと自体が疑わしくなってくる。古典的マルクス主義者トロツキーの心の奥にこの疑念がまったく生じなかった、とは到底思えないのである。そしてこれはまさに恐るべき疑念である。トロツキー自身を粉々に破壊してしまう疑念だからである。だからそれをトロツキーの意識は絶対に認めることはできない。この途方もないジレンマによって、トロツキーは身動きが出来なくなり、次第に無気力になっていったのではないだろうか。


 この重要な党内闘争の時期に、トロツキーはしばしば体調不良に見舞われた。これははっきりと指摘されることは少ないが、明らかに心因性の原因が考えられるのではないだろうか。スターリンからのさまざまな攻撃というストレスも原因のひとつであることは間違いないが、トロツキーの無気力はそれ以前から始まっていたのである。つまり、この病気の根本的な原因は内的な矛盾から来る強烈なストレスである。そのように考えたとき、はじめて納得できるような気がするのである。そして、スターリンとの闘争での決定的な局面、「レーニンの遺書」を全党に公開するというような時に強い態度で臨まなかったことは、官僚主義は克服不可能だということを―それなしではソ連はやっていけないということを・・・さらにスターリンを更迭して自分がその立場になることが、考えられなかったのではないだろうか。トロツキーのこの優柔不断にさまざまなことが原因として挙げられているが、説得力のあるものは少ないように思う。例えば、ユダヤ人であることを気にしてレーニンに代わる地位に就けなかったのだ、ということも多少あるにしても説得力としては弱いように思う。赤軍の指揮を執っていたときは、そのようなことはほとんど気にしなかったはずである。


 このトロツキーの心理は、続いて起こるスターリンとの「永続革命論」対「一国社会主義論」との論争に微妙な形で関わってくると思われる。

 

 

(3)アラン・ブロック 『ヒトラーとスターリン第1巻』 鈴木主税訳 草思社 2003年 220,221頁
 

(4)同上書 222~228頁

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<論文> スターリン主義の形成 2 


 『スターリン主義の形成』

 

 第1章 スターリンへの権力転化


 第4節 「1人の指導者」という問題

 

 ボリシェヴィキの革命以前の草創期から10月革命を経て権力を獲得し、内戦に勝利してその基盤を固めて統治するようになったあらゆる時期を通じて、ほとんどそれは1人の指導者によってなされている、ということに気付く。19世紀の終わりに創設されたマルクス主義秘密結社であるロシア社会民主労働党は、1903年の第二回党大会において、レーニン率いる急進派であるボリシェヴィキと、マルトフらを中心とする穏健派であるメンシェヴィキに分裂した。それ以来両者は決して統合されることはなかったのである。レーニンはボリシェヴィキの中でカリスマ的な指導力を発揮していた。当然これは強制的な圧力による指導ではなかった。ボリシェヴィキ党内部では他のメンバーの意見も取り入れ、中央集権的な性格を持ちながら党内民主主義は保たれていたのである。もちろんこの時は、スターリン的な統治をしようと思ってもまったく不可能なことであるだろう。


 レーニンを中心とした中央集権的な強力な組織となり、活動資金の調達には強盗や詐欺も辞さないというボリシェヴィキに対し、メンシェヴィキはより民主主義的であり、資金調達に強盗や詐欺という手段を使うことに断固として反対した。しかし、マルクス主義、唯物史観を支持するという点において両者は同じだったのである。メンシェヴィキは唯物史観の公式である「社会主義革命は資本主義が発達し、それが極点に達した時に勃発する」を守ろうとした。ロシアはまだその段階ではない・・このことからロシアの社会主義革命は時期尚早であり、ボリシェヴィキの蜂起に反対したのである。このことの是非が今までの論争の中心であったのである。しかし、「マルクス主義の解剖学」はまったく違う地平にこの問題を置くことができる。根本的に誤っているのはボリシェヴィキもメンシェヴィキもまったく変わりはない。メンシェヴィキの思う通りの革命が起きたとしても、それは「マルクス主義の解剖学 第9章 第3節 唯物史観からの逸脱」で検討したように結局はボリシェヴィキと同じ道をたどることになる。しかし、現実にはその可能性はほとんどない。メンシェヴィキの思うような資本主義の道をロシアが歩むことができれば、現代の先進資本主義国に近い状態になる可能性はあっただろう。これも極めて難しいifの問題であるが・・・


 つまり、社会主義革命のような社会的大事業を目指そうとすれば、1人あるいは少数の指導者、指導体制による中央集権的な強力な組織による行動でなければ、その可能性さえないということである。それは歴史上、どの段階であったとしてもまったく同じことである。高度な生産力はそのような階層構造による高い能率の機能を要請する。初期に大勢のプロレタリアートによる反乱が、革命のように見えたとしても、それが次に秩序ある社会構造を生みだすためには階層構造は必ず要請されるのである。現実の社会において、社会主義、共産主義社会を目指す組織は、それがどのようなものであれ中央集権的な組織になるのは必然なのである。ボリシェヴィキにおいてはレーニンという強固な信念を持った急進的マルクス主義者が指導者となった。それはこのイデオロギーが遂行という状態になる時、そのような必然性を持っているということである。遂行という状態が弱いか、ほとんどない場合は必ずしもこれには当てはまらない。逆にあるレベル以上の民主主義を保とうとすれば、イデオロギー遂行の組織を形成することはできない、形成されないということを意味している。ボリシェヴィキにおける民主主義は、党内におけるごく限られた範囲の民主主義であり、同じ考えを持ちながらイデオロギー遂行の見解の違いで別れたメンシェヴィキをその対象にすることはない。それ以外のブルジョワ政党など論外であり、広く民衆の意見をくみ上げるということも考えなかった。無知で迷信深い民衆はそのような対象にはなりえないのである。この問題は、以後も繰り返し検討されるだろう。


 ところが、これが大問題を含んでいる。このイデオロギー遂行を目指す組織は、その主観においては自分達こそ真の民主主義を目指しているのであり、資本主義社会の民主主義はブルジョワ民主主義であり、偽りの民主主義である。議会制民主主義などは茶番にすぎない―自分達はそれよりも何百万倍も民主的なのだ、という強固な信念を持っているのである。これはレーニンの言ったことであるが、ボリシェヴィキの他のメンバーも同じような考えであるだろう。これは現在のマルクス主義、共産主義者においても、多少なりとも共有するものであることは間違いない。20世紀初頭の議会制民主主義は、現在のそれよりも未発達だったことを考慮しても、これは信じ難い軽視である。この現実のイデオロギー遂行の形態と、それを遂行している主体の観念における宇宙的規模の矛盾をどう考えたらよいのだろうか。まさにこれこそが本論が解明してきたことなのである。資本主義社会と共産主義社会はまったく別個の宇宙のようなものである。その二つの宇宙は、革命という細い、通り抜けるのが困難な通路で繋がっている。これは現代の宇宙論で二つの別の宇宙がブラックホールの虫食い穴で繋がっている、というイメージに似ている。そこを通り抜けるのは非常な困難が伴う・・だから1人ないし少数の強力な指導による組織的活動でなければ不可能なのである。つまり、そのときだけ民主主義は抑圧されるか、ほとんどなくならざるをえない。しかし、そこを通り抜け共産主義の宇宙に出さえすれば、今までとは桁外れの民主主義が実現されるのである。そのことによって、革命時の民主主義の抑圧は、より高度な民主主義を実現するためにいくらでも正当化できるのである。共産主義の宇宙は、「能力の壁」を乗り越えることのできる全体的に発達した個人が住む宇宙なのである。それでは、革命の細い通路をいくら進んでも、その宇宙に出られなければどうなってしまうのだろうか?われわれには自明の事としてわかっている―その宇宙は存在しないということを。


 10月革命の蜂起は、よく知られているようにレーニンの強力なイニシアチブによって達成された。ボリシェヴィキの他のメンバーでさえ最初、蜂起は正気の沙汰とは思われなかったのである。スターリンは最初は蜂起には反対であったが、直ちにレーニン支持へと回った。しかし、レーニンは粘り強く他の党員を説得し、蜂起を実現できたのである。「今、蜂起して政権を握らなければ、歴史は決してわれわれを許さないだろう」実際、それは千載一遇のチャンスだったのである。話し合い、説得、多数決など党内民主主義を保ちながら、これだけの難事業を達成できたのはレーニンの偉大さの証明であるだろう。蜂起の成功によって、レーニンのカリスマ性、その権威は揺るぎないものとなった。しかし、逆にいえばこの時は、党内民主主義はまだ不可欠なものであった、とみなすこともできる。そして、冷静になって眺めてみると、このイデオロギー遂行の過程はボリシェヴィキができた時から、常に1人の指導者によってなされているということである。レーニンが発作で倒れるまで、そうでなかったことは一度もないのである。

 

 第5節 スターリンの心理、パーソナリティ 

 

 歴史の後知恵から、スターリンは最初から独裁的権力をひそかに狙っていた、と思われがちである。しかし、スターリンの伝記を読んでいくと、たしかに子供の頃から強圧的な指導者気質が表れていたが、それと人類史上稀に見る独裁者になれることとの間にははるかな隔たりがある。もし、スターリンが独裁的な力を持つ人間になりたければ、スターリンほどの才能と能力があれば、さまざまな分野が選択できただろう。しかし、スターリンはマルクス主義という遠大な理想を掲げたイデオロギーに惹かれていった。そこにある暴力肯定の理論に魅せられたということもあるだろうが、これが後に実現したような独裁的権力に結びつくことは、そのときは非常に考えにくいはずである。それとも、マルクス主義にそのような道が存在することを直感として感じていたのだろうか。手身近なところでトップになることに決して満足せず、ボリシェヴィキに入りレーニンのもとで世界的な革命を目指すことは、自己の能力を開放できる道だと考えたのだろう。


 このことは10月革命の蜂起の時、スターリンは最初は反対したという事実からもわかる。レーニンは最初から、蜂起を主張していたが支持者はほとんどいなかった。ラジンスキーはスターリンが最初に反対した理由は、蜂起が失敗した場合に備えて保険をかけておいたのだ、と主張している。たとえそうだとしても、スターリンが最初に蜂起に反対したという事実は重い。ロシア革命が世界革命に発展しなければ、失敗に終わる―しかし、世界革命の機はまだ熟してはいない、これがスターリンの判断であった。しかし、現実に権力を握ろうとすれば、それは蜂起するしかないことは明らかである。スターリンが独裁権力を目指そうとしたならば、最初から蜂起に賛成するはずである。反対することによって現実に蜂起には至らない、という可能性もあったのである。


 よくスターリンは現実主義者であるといわれている。しかし、レーニンもトロツキーも優れた現実主義者であったのである。そうでなければ、現実に革命を遂行し勝利することは決してできなかっただろう。だが、マルクス主義、共産主義イデオロギーの特異性を考えると、イデオロギーと現実主義の結合は非常に理解し、把握することの困難なものである。この問題については当然のごとく議論百出ということになる。筆者の見解では、レーニン、トロツキー、スターリンの間にイデオロギーに対する狂信という点で大きな差異はないように思える。違いがあるのは現実主義の質の差ではないだろうか。レーニンとトロツキーは現実主義においてかなり近く、スターリンはこの2人とは異なるものを持っているように思える。スターリンで特筆すべきは、イデオロギーと現実主義のたぐい稀な結合である。スターリンの場合、どこまでいっても絶対にこの結合が崩れることはないのである。トロツキーは革命時から内戦が勝利するまで、このイデオロギーと現実主義の結合は非常に強固なものであった。しかし、内戦が終了するとともに急速に揺らいできたように見える。レーニンでさえ、発作で倒れたあとはこの結合が崩れてきたように見えるのである。この2人に共通することは、現実主義とイデオロギーのバランスが保たれていた状態から、急速にイデオロギーの側に傾斜してくるということである。この問題も、心理的な側面を検討するうえで重要なポイントとなる。ただし、われわれの常識的な感覚からみた、バランスが保たれていれば良い状態で、バランスが崩れていれば悪い状態である、ということとはまったく違うということは留意しておかなくてはならない。


 革命時から内戦の期間を通じて、トロツキーは華々しい活躍を続けた。その雄弁な演説は党員や大衆を魅了した。ブレスト・リトフスク講和では代表を務め、軍事革命評議会議長で赤軍の創設、指揮を執った。交通人民委員で壊滅的な輸送の状態の改善に努めた。それに比べて、スターリンは目立たず、地味な存在であったといわれている。しかし、レーニンの信頼は厚く内戦の困難な地域へ派遣され、そこで優れた手腕を発揮している。他のボリシェヴィキ党員のスターリン観は、何を考えているのか分らず、影のような存在だったというものもある。心理的な側面は、客観的な資料によって確証することは難しいことである。どうしても推測によらざるをえないが、この時期のスターリンは、冷静な観察者だったのではないだろうか。社会主義革命は人類史上初めての出来事である。それがどのような経過をたどり、どのような状態になるかということは、イデオロギーの示した通りになっているか、なっていないか、ということを含めて非常に重要なことである。スターリンはそれを冷静に観察し、どのようなものか解釈し、評価していたのではないだろうか。それが他者からすると「何を考えているのか分らない」というように見えたのかもしれない。そして、極めて早い段階、1918年には労働者自主管理は不可能であり、資本家による経営は官僚体制に置き換えられていく、ということを見極めたのではないだろうか。そしてこれがイデオロギーと整合しなくても、革命後の現実であるということを直視できたのである。歴史を振返ると、レーニンとトロツキーの現実主義はイデオロギー遂行を起動する現実主義であった、といえる。スターリンの現実主義は、そのイデオロギー遂行が起動された状況を観察し、理解してからそれを継続していく現実主義だったといえるだろう。


 革命直後の労働者自主管理は完全な失敗に帰し、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキ指導部は、官僚による管理、ブルジョワ専門家の助けを借りなければならなくなった。特に官僚体制は日増しに拡大の一途をたどった。戦時共産主義の時期を通じて、それは何十倍、何百倍、というスケールで大きくなっていったのである。これはイデオロギーに相反することである。この官僚主義に対し、労働者反対派などから強烈な批判が生じてきた。当然、レーニンはこの批判を圧殺しなければならない。そのとき、官僚主義が生じてきた理由をイデオロギーの外部に求めることになる。労働者の数の少なさ、未熟さ、戦争が長く続いたことによる混乱、資本主義諸国の敵視、妨害、ロシアに続いて社会主義革命が他国に波及していかなかったこと、などなどがやむをえず官僚主義が生じ、成長してきた理由なのである。この理由をレーニンやトロツキーが言う時、それは本心に近い、と思われる。(深層心理においてどうなのかという問題があるが、それはまた後で検討する)ところが、この理由をスターリンが言う時、本心でない可能性が高い。つまり、スターリンは本心ではこの官僚主義がイデオロギーに内在するものである、と考えていたのではないだろうか。しかしそのことは、絶対に口外することはない。一言でも口にすれば、それは即、命取りになるだろう。スターリンは早い段階で、官僚主義はなくなることはなく、それは拡大し強化されていく一方であると正しく見極めていたのではないだろうか。


 ボリシェヴィキ幹部の中で、このことを見極めていたのはスターリンただ1人だったとすれば、スターリンはこの時すでにかなり優位に立っていたことになる。この官僚体制を自分の手足のような存在にすれば、絶大な力を獲得することができる。スターリンはそのことを理解したのである。スターリンのその後の行動は、まさにこの洞察にもとづいて継続されていくことになる。書記長になり、行政の情報を司り、官僚機構の人事を操作できるようになったのも、そのことを示しているように思える。そうなると、やはりスターリンは最初から独裁権力を狙っていたと考えたくなる。だが、革命後のそのような状況を、革命以前に予測することは不可能であったはずである。つまり、われわれがスターリンが最初から独裁権力の獲得を狙っていたのだ、とみなすとスターリンにあまりにも先見の明があり過ぎることになってしまうのである。


 スターリンがマルクス主義のイデオロギーに奉じ、ボリシェヴィキの地下活動に献身してきたという事実は否定しようがない。革命以前にスターリンが独裁権力に手が届くなどということは、夢のそのまた夢の中にも思い描くことはできなかっただろう。そのような状況で、歴史の片隅の中で消えていくことの方がはるかに考えられることである。スターリンは何度も逮捕され、シベリアの奥地に流刑にされた。特に最後の流刑は厳しく、長いものになった。ひとつ間違えば、生命も落としかねなかったのである。イデオロギー遂行を目指すというスターリンの核にあるものは、レーニンやトロツキーと異なる現実主義だとしても、それは変わりがなかったのである。


 戦時共産主義の中で、一枚岩の党を作ることがイデオロギー遂行にとって絶対必要であると考えられた。これはスターリンだけでなくボリシェヴィキ全体の共通認識であったのである。そのためには、官僚体制は一枚岩の党と一体でなければならず、そのどちらもひとつの権力によって統合されなければならない。その権力の中心になり、全体を統合し、制御し、運営していく力を持っているのは自分であると・・・スターリンは考えたのである。そしてこれは自信過剰の誇大妄想ではなく、客観的事実のようにスターリンは見ることができたのではないだろうか。そして事実、そのような超人的な統治能力を持っている人間をスターリン以外に見いだすことは、かなり難しいように思えるのである。つまり、イデオロギー遂行と自分が権力を握ることは、スターリンの中ではひとつに溶けあっていたのである。他者がそのことをどのように評価するかは別問題だとしても、スターリンの中では矛盾したことではなかったのである。

 

 第6節 スターリン権力の基盤の形成

 

 スターリンの権力の基盤の形成について、アラン・ブロック著『ヒトラーとスターリン』の中から重要な部分を引用し、それを検討していくことにする。


 (引用文の段落にA、B・・・と注をつけて、それを後で検討する)


 党を二分した1921年から22年の論争では、スターリンはまったく目立たない存在だった。戦時共産主義の時期は、レーニンの路線に従い、レーニンが急転換してネップを推進すると、それについていっただけである。ところが、スターリンほどこの展開から利益をこうむった者はいなかった。それは二つの理由による。まず長期的には、レーニンが「分派主義」を排斥したことで、スターリンは後年それを一歩進め、党を一枚岩の構造に変える大義名分を得た。これは、レーニンがチェーカーのテロルを認めたことでスターリンが後年、チェーカーを政府の一機関に昇格させる大義名分を得たのと同じである。


 A第二の理由からは、より直接的な結果が生じたが、当時は誰もそのことを予測しえなかった。もしレーニンが本気で反対派を根こそぎにして党を分派主義から守るつもりであれば、討論に勝って党大会で決議を通す以上のこと、つまりその目的で組織的に日々の党運営をすることが必要だった。政府と党の双方で自他ともに認める最高指導者であるレーニンには、とうていそのような仕事にあたる時間がない。また、他の政治局員のうち、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフの3人は、このような仕事にたいする志向も才能ももちあわせていない。しかし、5人目の政治局員であるスターリンにとって、この仕事は1917年以来こなしてきた役割をそのまま延長したものだった。彼はその役割を通じてレーニンの信頼を得たのである。それは、中央および党の役員と新旧の首都以外のところにいる党員との橋渡しをする役割であり、地方の党員にとっては、トロツキーやジノヴィエフやブハーリンのようにかつて国外へ亡命していた知識人よりも、スターリンのように自分たちと同じ地方出身者のほうが話しやすかった。


 スターリンがすでに得ていた行政上の役職についても同じことが言える。民族人民委員の仕事は、内戦の終結にともなって再び重要性を増した。その民族人民委員であるスターリンは、ウクライナ、カフカース、中央アジアのような地域の実力者たちが交渉相手としなければならない政治局および中央委員会の代表として、ロシア帝国の再建にも等しい事業にあたったのである。スターリンの二つ目の閣僚の地位は、彼が1919年初頭にウラルを視察したことに由来する。この視察でわかったことは、ヴャートカのソヴィエト公務員4766名のほとんど全部がかつてのロシア帝国官吏であること、行政府は汚職がはびこって非能率きわまること、中央の指令が実施されているかどうかを中央政府がたしかめるための有効な通信手段がないことであった。スターリンは労働者と農民の混成チームを実働部隊とする「統制監査委員会」の創設を提案した。レーニンは、この計画が気に入った。こうして、スターリンは労農監督人民委員部すなわちラプクリンをあずかる人民委員に任命されたのである。


 1920年10月、ラプクリンの職員を前にして演説し、スターリンはやがて再三にわたって繰りかえすテーマを打ち出した。


 官僚制度は粉砕されたが、官僚は残っている。いまや自らをソヴィエトの公吏として装い、彼らは国家機関に入りこんでいる。そして、権力をもったばかりの労働者や農民の経験不足につけこみ、古くさい陰謀をめぐらして国家の資産を纂奪し、かつてのブルジョワ的な考え方を導入しようとしているのである。


 政府の役人の新しい世代を教育する端緒は開かれたものの、ラブクリンは解決策とはなりえなかった。真の問題は、はるかに深いところにあった。党が政権を握ったあとの党の役割について、レーニンが真剣に考えはじめたのは、10月革命が終わってからのことだった。1920年に書いた『左翼小児病』のなかで、彼はプロレタリアート独裁を次のように位置づけていた。


 旧社会の権力と伝統・・・・・何百万、何千万という人びとの習慣の力にたいするねばり強い戦いだ。闘争のなかで鍛えられた鋼鉄のごとき党なくしては、この階級に属するすべての誠実な人びとの信頼を勝ちえた党なくしては、大衆の動向を見守り、これに影響をおよぼす力のある党なくしては、そのような闘争を首尾よく成しとげることは不可能である。 


 レーニンは原則については明確な考えをもっていたが、党が現実にどのようなかたちでこの役割をはたしていくかということや、非合法政党の時代が終わって政権党となった以上、当然必要とされる変革がいかなるものであるかについては、正しく認識しているというにはほど遠かった。


 B答は、ソ連における形式上の権力配分と実質上の権力配分との関係にあった。新しいロシア国家は、憲法上は「ソヴィエト共和国」を謳っていた。その政府である人民委員会議は、形式的には全ロシア・ソヴィエト大会の執行機関であり、人民委員は一つまたは複数の政府省庁を管掌する。ところが、実権はひきつづき、1918年の憲法でも1924年の憲法でもふれられていない団体である共産党の手に握られていた。政策を決定するのは、ソヴィエト大会でもなければ人民委員会議でもなかった。人民委員会議は憲法に規定されるようなソヴィエト大会の執行機関ではなく、共産党中央委員会および政治局の執行機関でしかなかった。政策の決定はここで行なわれ、それにたずさわる人びとは人民委員会議の一員ではあっても、ここでは共産党幹部という別の資格で参集していたのである。政策が決定されると、彼らは人民委員の立場に戻り、党の政策を実施するべく国の機関、すなわち自らが責任者である政府の各部門を通じて命令を発するのである。


 だが、その政策を現実に実施するのは誰か。革命の5年後、レーニンは第4回コミンテルン大会で演説してこう語る。


 皇帝のもとから、そしてブルジョワ社会から、われわれのところに移ってきた旧官吏が何十万とおり、ときには意識的に、ときには無意識のうちに、われわれにたいして不利益を働いている。この機構を改善し、改革して、新しい力を注入するためには、多年にわたる労苦を必要とするだろう。


 C国の行政や、いまでは国有化されている各産業の運営を党が担当することはとうてい無理だった。党員にはそれに必要な専門知識が欠けていた。新政権としては、訓練された新しい世代が登場するまで、革命以前の時代からの生き残りである行政官や経営者に(赤軍の場合と同様)頼らざるをえなかった。この時期の党の仕事は、国の公的機関を活性化させるために監督し、あるいは活性化を図るための役割をはたすことであった。党はすでに、政治委員のネットワークを通じて軍を統制し、村議会から「最高ソヴィエト」にいたる全ソヴィエトの選挙と討論を指導してきた。1920年代に入ると、党はさらに影響力を強めて、政府組織の全階層に浸透し、連邦内の各共和国(ウクライナ共和国など)の行政府、ペトログラードやモスクワのような大都市の官庁と国営産業や労働組合の管理部門にまで力をおよぼしていく。


 Dそのような政策を実施するには、党書記局による系統的かつ綿密な作業が必要であり、まずは党組織そのものを根底から再編成することが必要だった。その最初の試みがなされたのは1919年3月のことで、わずか15名の部下を使い、すべてを自分の頭ひとつにおさめて党の総務を担当していたヤーコフ・スヴェルドロフの死去にともなうものだった。政策を決定する政治局が公式に認知され、その執行と党組織をつかさどる組織局が設置されたのはこのときである。しかし、スヴェルドロフが死去したのちに行なわれた組織の整備は不充分なものであることがわかり、同時に、中央の各部署の業務に忙殺されずにすむよう、仕事を組織化する必要性がますます明らかになった。第10回党大会(1921年3月)ののち、スターリンが各書記の仕事を統轄する責任者となったのは当然のなりゆきだった。彼はレーニンが安心して仕事をまかせられる人間であり、中央委員のなかでただ一人、党の人事を担当する組織局の一員であるとともに、党の政策決定機関たる政治局の一員でもあったからだ。正式の任命は第11回党大会のあとの1922年4月4日に行なわれたが、これはスターリンがすでに行使していた事実上の権限を追認したにすぎず、新聞報道も型どおりの扱いをしただけだった。しかし振りかえってみれば、これは注目すべき事実である。何しろ、スターリンが近代国家では他に例を見ないほど恣意的な個人的権力をともなう地位を築きあげたのは党の書記長としてであり、このあと1941年5月(スターリンはドイツ軍の侵入を6週間後に控えたこのとき、自ら人民委員会議議長に就任した)まで他の役職にはついていないのである。ただしスターリン自身、当時はこの新しい職務をどこまで発展させうるものか、わかっていなかったと見てほぼ間違いない。


 レーニンをはじめとする他の政治局員たちは、なぜこれほど大きな権力が一人の人間に集中することを許したのか。当時、スターリンの野心がどれほどのものかを知っていた者は一人もおらず、彼が次々と役職を兼務していくことを、誰もそのような観点からはとらえていなかった。なすべき仕事があり、他の幹部たちは気乗りがせず、スターリンは引き受ける気があるというぐあいで、レーニンやカーメネフやジノヴィエフ、ときにはトロツキーまでが喜んでスターリンに仕事を差し出したのである。その危険性を前もって見抜くことができたのではないかと思われる唯一の人間はレーニンだが、通常は鋭いレーニンの政治的感性は、これは大至急にやらなければならないと思う仕事を担当できる人材を探す必要が先に立っていたこと、また党幹部のなかでそれらの仕事をまかせられる人間がスターリンしかいないという気持ちがあったために、鈍らされていた。元党書記のエヴゲー二ー・プレオブラジェンスキーが第11回党大会(1922年三月)で、スターリンであれ他の誰であれ、書記長という党内の責務と二つの委員部を統括する仕事を兼ねることがどうしてできるのかと質問したのにたいし、レーニンは次のように答えた。


 この点で同罪でない者がわれわれのなかにいるだろうか。同時にいくつかの職を兼ねたことのない者がいるだろうか。また、そうせざる をえなかったのではないか。民族人民委員部の現状を維持しながら、トルキスタンやカフカースなどの問題を解決するために、いまわれわれはどうすればよいのか……われわれに必要なのは、どの民族の代表でも気軽に会って問題をくわしく話せる人間である。そういう人間をどこで見つけられるだろう。プレオブラジェンスキーにしても、スターリン以外の候補者の名前をあげることはできないはずだ。ラプクリンについても同じことが言える。じつに大きな仕事だ。だが、監察の職務をこなすためには、その長として権威ある人物を据えなければならない。さもないと、われわれはけちな陰謀の泥沼にはまって溺れてしまうだろう。


 レーニンには、スターリンの欠点が見えていないわけではなかった。トロツキーによれば、書記長候補としてスターリンの名前が最初にあがったとき、レーニンは「あのコックは胡椒のきいた料理しかつくらないだろう」ともらしたという。しかし、レーニンは対立候補の名前をあげることはしなかった。以前からスターリンの「実務」能力に感心していたし、スターリンを御していく自信もあった。レーニンが自分の地位を脅かされる恐れがあると感じていなかったのはたしかである―スターリンが書記長に就任した翌月の1922年5月に最初の発作を起こして、仕事ができなくなるまでは。


 スヴェルドロフの死去からスターリンが後任となるまでの3年間に、多くのことがすでに行なわれていた。書記局の人員は30名だったのが、スターリンが引き継ぐ前年には600名までふくれあがり、業務は区分けされて、それぞれ個別の部や課が担当していた。書記長に就任したスターリンは、ツァリーツィンでしたのと同じように、自分の周囲に腹心の部下を集めた。(途中省略)


 スターリンは党機構をつくったわけではなかったが、それを組織するという仕事をやってのけた。1923年には、組織局と書記局は48万5000人の党員の詳細を把握し、信頼のおける党員を党組織内のあらゆる部署につかせることができるようになった。スターリンはもちろんのこと、レーニンをはじめとする共産党の指導者たちまでが、ヒトラーと同じように、首脳陣は下にたいして独裁的に振る舞うべきだと考え、下部組織の人びとは上からの指示に従って「正しい方針」を実行すべきだと信じていた。スターリンは、党を運営する仕組みをつくったのは自分だと自負していた。「幹部がすべてを決める」という言葉は、スターリンの気に入りの決まり文句になった。「正しい方針が決定されたあと、その方針が成功するかどうかは組織の働きと・・・・・人民が正しい選択をするかどうかにかかっている」


 問題は残ったが、スターリンの努力のおかげで点検された。これは党が成功するうえでの大きな貢献となったが、これによってスターリンが最大の利益をこうむったことも事実だった。実際に、数千人もの党幹部はモスクワとペトログラードを含めて地方ごとに選出されなくなり、地方支部の運営の責任は、地方の党員の手から奪われた。地方支部の人事は中央からの「推薦」によって行なわれ、一体化した官僚機構に組み込まれた地方の党員の人事と昇進は、党書記長の手にゆだねられた。「アパラーチキ」と呼ばれるこれらの地方党員は、その大半が内戦を生きのびたしたたかな新世代に属していて(フルシチョフなどもその一人である)、党内での栄達を目指して独自の集団を形成し、既得権と特権を守ることに専念した。まもなく、アパラーチキは現実を理解するようになった。自分たちの栄達はスターリンに気に入られることだけではなく、上層部で強大になりつつある彼の権力によっても左右されるということである。また、スターリンのほうでも、自分の地位がアパラーチキとの相互依存関係にあることをすぐさま理解し、今後展開される権力闘争において、アパラーチキとの協力が自分にとって最大の武器になることに気がついた。


 政治局の人間で、スターリン以上に、モスクワやペトログラードはもちろんのこと、シペリア、ウクライナ、カフカースの事情に明るい人物はいなかった。スターリン以上に新世代の党員の多くと顔見知りの人間はいなかった。スターリンの一存で、これらの党貝が党大会や委員会の代表に「選出」されるのを保証することができたし、中央委員の候補として推薦することもできた。ローマ史の用語を借りれば、スターリンほど多くの隷属平民を従えた人間はいなかった。その並み外れた記憶力のおかげで、スターリンは人の名前を実によく覚えていた。しかも、スターリンは党首脳部の政敵の誰にもまして、党の書記たちが抵抗なく一体感を覚えることのできる人物だった。彼は一度も外国に亡命することなく、国内で生まれ育った人間であり、書記たちがかかえる問題と考え方を理解できる、彼らと同じ「実務家」であって、慇懃無礼に彼らの庇護者のような顔をする知識人ではなかったのである。スターリンは同僚からすれば厄介な人間だったが、問題をかかえて地方からやってきた党員にたいしては、かならず時間を割いて辛抱強く彼らの話を聞き、助言を与えて帰すのがつねで、そのたびにまた一人隷属平民が増えるのであった。


 レーニンが1922年の最初の発作から回復しかけたころには、スターリンはすでに自らの権力の基盤をつくりあげていた。そこには目を見張るようなものは何もなかった。トロツキーは派手な身振りが好きだった(そのために、階級的な対立のバランスをとって漁夫の利を占めようとするボナパルティズムの疑いと恐れをかきたてた)から、いかにもこの冴えない凡人に似つかわしいとたかをくくっていた。スターリンのうちに凡庸さしか見ていなかったのである。だが、この基盤は有効だった。レーニンの発病で新たに開けた展望のなかで、スターリンは今後、後継者争いの決着がつけられる舞台となるべき中央の政策決定機関―党大会、中央委員会および政治局―にたいし、自分が全国の党組織内に築き上げた影響力を集中的に働かせることのできる立場についていた(2)。


 AとBは密接に関わっている。分派禁止を徹底的に遂行するためには、それを討論で勝つだけでなく、日常的な党の運営をその目的で遂行しなければならない。ここで問題にされるのはさまざまなレベルでの民主主義、市民社会における民主的な活動などである。本章 第4節「1人の指導者」という問題、において検討されてきた民主主義の問題は、ボリシェヴィキは外部にその民主主義をほとんど認めていない、ということである。革命後、これは強制力で徹底的に遂行されてきた。市民社会の活動は、秘密警察、官僚などの圧迫によって縮小の一途をたどってきた。その中には例外もあったが、全体としては衰退せざるをえなかったのである。民主主義破壊の最大の象徴ともいえる憲法制定会議の強制解散はよく知られていることである。クロンシュタット蜂起の弾圧は民主化要求への断固とした拒否として最大のものであろう。政権党となり、絶大な権力を握ったボリシェヴィキは、当然のように上位下達式の指令系統を構築していった。


 ここでさらに重大な事態が生じてきている。それまで党内民主主義はまがりなりにも存在していたのである。しかし、分派禁止によって党内民主主義も窒息していくことになった。これは「分派禁止の権力集中メカニズム」として考察されてきたことである。つまり、党外における民主主義は破壊され、圧迫され衰退の一途をたどる。そして、党内における民主主義も死滅していくことになるのである。その状態を、党組織は1日の休みもなく遂行し続けなければならない。当然、それは強力な効率の高い組織運営が必須のものとなるだろう。その組織運営を一手に任されたのがスターリンだったのである。そして、スターリン自身もそれがどれくらい重大な意味をもっているかということを熟知していたのではないだろうか。


 以上の問題を、ひとつの具体例に沿って考察してみよう。労働者反対派は分派禁止によって組織的活動を禁止させられた。その主張は産業の労働者自主管理、労働者の政策への参画など、これこそマルクス主義に沿った主張でありながら、党の方針と合わないという理由で潰されたのである。しかし、これは党内に限ったことではないのである。例えば、ボリシェヴィキ以外のマルクス主義者が労働者反対派と同じような綱領を掲げて集会を開く、組織をつくるということも、広大なロシア領土内のあらゆる地点において許すわけにはいかない、ということを意味している。実際にそれは不可能なことであるけれど、それを実現すべく最大の努力が払われるのである。そのような活動を監視し、見つけた場合は警告、逮捕といった弾圧を行わなければならない。その活動の中心となるのは当然、秘密警察であり、それはロシア領土内にくまなく網の目のように張り巡らされていくことになるのである。


 B段落の内容は極めて重要であるので、詳しく論じていくことにしたい。なぜ、このようなまわりくどい組織構造になっているのだろうか。ボリシェヴィキの目的が単にロシアの専制体制を復興させることならば、これは理解に苦しむところである。これは明らかに、ソヴィエトという民主主義の仮の衣装を着ることにある。実質的には、共産党の独裁的な支配なのである。そしてその共産党は、憲法によって何ら規定されてはいない。その憲法を自分達が立法できる立場でありながら―である。これは実に変ちくりんな話である。革命以前は非合法な政党であったボリシェヴィキは、政権党についたならば当然、合法的な存在になるはずである。これらの事に目を向けず、単に独裁的な支配を遂行しているという面にだけ目を向ければ、ボリシェヴィキの目的は単にロシアの専制体制を復興させることだと思われるだろう。これが歴史学におけるひとつの傾向を示している。このイデオロギーは特異で難解なために、単なる歴史学の範疇を大きく超えてしまうのである。


 これらの特異性は、イデオロギーによって説明がつくのである。つまり、ボリシェヴィキ―共産党は、合法、非合法あるいは憲法を超越した存在なのである。そもそも憲法などというものはブルジョワ社会の遺物のようなものである。しかし、その過渡期においては憲法も必要な場合もある。共産党における憲法というものはそのようなものである。共産党は革命を遂行し、資本主義社会から社会主義社会、共産主義社会へと人類を導く。以前にも示した譬えのように、資本主義社会という宇宙から共産主義社会というまったく別の宇宙へ細い通路を通って進むものであり、その細い通路が革命の過渡期である。その重大な過渡期を乗り越えていくために、共産党は無制限の権力を行使できなければならない。ブルジョワ社会の法などというものに拘束されてはならないのである。そして、その過渡期をくぐり抜け、共産主義社会の宇宙に到達した暁には共産党はその役目を終え消滅するのである。これはまさに、救済宗教における論理と同型である。キリスト教は神の国が到来すれば、その役目を終え消滅する。仏教は仏の世界が実現したならば、その役目を終えて消滅するのである。共産党が憲法に触れられていないというのは、そのようなイデオロギー上の理由によるものである。もちろんこれは、ボリシェヴィキ―共産党の内側の論理であり、外側のある立場からみた場合、これはまったく信じ難い権力の行使を可能にする狂気の論理であろう。*1


 以上の統治の形態、その遂行を解釈するとき、土壌と種子、ロシア的伝統とイデオロギー、どちらがその主要要因かを考えてみれば、もはや明らかなように種子、すなわちイデオロギーであり、常に土壌はその間接要因なのである。直接にはそれは種子の遺伝子、DNAに内在されていたものが発芽し、成長していくことによって現実化したのである。共産党にとってイデオロギーは至上の目的である。無制限の権力はそのイデオロギーの目的にとって必要なものであり、権力それ自体が目的ではないのである。権力それ自体は目的ではない―このことは肝に銘じておかなくてはならないことなのである。しかし、このイデオロギー遂行とはどのような状態をもってそういえるのか?「イデオロギー遂行決定論」のイデオロギー遂行とは何か、という定義問題と関わってくるのである。この定義問題は、後ほど詳しく検討されることになる。


 C共産党は帝政時代の官吏、経営者、テクノクラートなどを登用せざるをえなかった。しかしこれは、当初の予定ではなく、致し方なくそうしたということなのである。これらブルジョワ専門家たちは、革命後の新しい世代が登場して、それに取って代わられるまでの暫定的な役割を充てられているにすぎない。後のスターリン時代になって、これらの専門家たちは弾圧にさらされることになるだろう。これも共産党が単なる専制体制を復興させることではない、ということを明瞭に示している。専制体制を復興させるだけならば、このようなことは非常な無駄であり、損失であるだろう。これもすべてイデオロギー遂行であるといえる。さらに付け加えると、「ソ連=国家資本主義」論者の主張するようなイデオロギーではないことも明らかである。以前の繰り返しになるが、それがどのような形のものであれ「資本主義」であるならば、生産力向上に欠くことの出来ないテクノクラートを弾圧するなど絶対にありえないことである。


 Dこのようにスターリンが党を組織化する実務に精力を傾けたということは、その重要性をよく認識していたからだと考えるのが自然である。スターリンの現実主義は、イデオロギーの額面上の教義と齟齬を生じたとしても矛盾として分裂することはなかったのである。このことがレーニン、トロツキーをはじめとするボリシェヴィキ幹部には想像もできなかったのである。特にトロツキーはこのようなことに精を出すスターリンを見て、イデオロギーとは無関係な雑務が好きな凡人とみなしていたようである。これはトロツキーのパーソナリティからみて当然のことのように思われるが、イソップ童話の「アリとキリギリス」のような話である。このイデオロギーを信奉する者にとって、上部構造の消滅、国家の死滅は歴史上の必然の過程である。このような党の組織は一時的なものであり、イデオロギーの目的が達成されれば無用なものとなる。特に重要視するようなものではないことは当然だったといえよう。これがスターリンに途方もない権力集中を許した最大の原因である。つまり、スターリンが権力を独占していったのは、このイデオロギーの原理的矛盾に原因があったのである。このことを見ずに、スターリンが官僚主義を利用し革命を裏切ったかのようにみなすのは滑稽である。問題は裏切ったかどうか、ということよりもはるかに複雑で深いところにある。


 *1この「共産党は憲法、法を超越した存在である」これは共産主義、共産党の基底にあるDNAといってもよいものである。本質的に共産党は法の拘束を受けない―国内法においてはもちろんだが、国際法においてもそれは全く同様に当てはまる。しかし、現実問題として国際法を受け入れなければならない側面は非常に多いだろう。しかしそれは状況がそのようなものとしてある段階ではやむを得ずそうしているに過ぎない。これはほとんど考えられていない重要な問題なので、ぜひ多くの人に考えてもらいたいのである。これは現代の中国、北朝鮮の本質的な問題である。つまり現代日本にとっても非常に重要な問題だといえるだろう。これは全てマルクス主義、共産主義イデオロギーからその理由を解明できるのである。すでに説明されてきたことだが、たとえ資本主義市場経済を導入し、国際貿易の中に組み込まれていても、イデオロギー超有機体の政治権力はその全体主義的性格を一時的に後退させているに過ぎない。軍事力増強、その領土の拡張主義を見ればそのことがよくわかるのである。また、中国共産党の幹部は「中共による世界支配」を明言している。この中国に同調するような国内左翼勢力は日本を全体主義の中に巻き込もうとする最も危険極まりない存在である。マルクス主義に対する絶対的論理攻撃は必須なのではないだろうか。

 

 

(2)アラン・ブロック 『ヒトラーとスターリン第1巻』 鈴木主税訳 草思社 2003年 191頁~203頁


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